保育行為の判断の根拠としての「遊び」理解 : 園 内研究会における議論に事例を手がかりに
著者 戸田 雅美
雑誌名 東京家政大学研究紀要 1 人文社会科学
巻 47
ページ 73‑79
発行年 2007
出版者 東京家政大学
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009219/
保育行為の判断の根拠としての「遊び」理解
園内研究会における議論に事例を手がかりに
戸田雅美
(平成18年10月11日受理)
Examination of Play as Rationale for Practice ACase Study of Teacher s Conference in Kindergarten
TODA, Masami
(Received on October 11,2006)
キーワード:行為の判断の根拠,「遊び」理解,園内研究会
Key words:bases for a decision on an act, play judgment, kindergarten teacher conferences
1.はじめに
本研究の目的は,保育行為の判断の根拠として,子ど もがそのときにしている「遊び」についての理解が具体 的にはどのように存在するかを,ここでは幼稚園の園内 研究会の事例を取り上げることによって,明らかにする
ことである.
保育において「遊び」は非常に重要な位置を占あてい る.たとえば,現行の幼稚園教育要領1)においては,第 1章「総則」の第1節「幼稚園教育の基本」において,
「幼児の自発的な活動としての遊びは,心身の調和のと れた発達の基礎を培う重要な学習であることを考慮して,
遊びを通しての指導を中心として第2章に示すねらいが 総合的に達成されるようにすること。」とされているこ
とからも明らかである.ここでいう「第2章に示すねら い」とは,幼稚園教育の「ねらいと内容」のすべてが第 2章に示されているという事実から,いかに大きな意味
をもっかは明らかである.筆者は,これまでも鬼遊びやごっこ遊び,言葉遊びな どの遊びを取り上げて,「遊び」の構造分析を行い,子 どもにとっての遊びの魅力は「遊び」の構造と関係して いることを明らかにする一連の研究を行ってきた.2)ま た,「遊び」そのものは,人間にとって原初的かっ広い 概念を持っ言葉であり,保育の中でも,「遊び」をどの
ようにとらえるかは必ずしも自明のことではないことを 明らかにしてきた.3)このことは,保育の一っ一つの場 面の問題として考えたときより複雑な様相を示すという
こと,そのような複雑さはどのような概念でとらえうる
かという問題にっいても検討してきた.4)では,実際の保育の場面において保育者の「遊び」理 解はどのように存在し,そのことがどのように保育行為 の判断として機能し,その保育行為の中で,子どもはど のような「遊び」を展開していくのだろうか.5)
ここでは,保育のひとっの場面の事例を考察すること によって,先にあげたこの問いについて考察する.
2.事例について
児童学科 幼児教育学研究室
ここで取り上げる事例は,東京都の公立A幼稚園の4 歳児クラスにおいて筆者が参与観察をしたときの事例で ある.観察したのは2005年11月21日である.
A幼稚園は3歳児1クラスと4歳児,5歳児各2クラ スの計5クラスである.筆者は,それまで年に数回の訪 問ではあったが,それまでに過去7年ほどこの幼稚園に おいて保育観察をし,保育後に担任の先生方とのカンファ
レンスを行ってきていた.特に,2003年,2004年は,
A幼稚園が研究発表を行ったため,ほぼ毎月一回訪問し,
保育にっいて話し合ってきていた.2005年は,先生方
のメンバー構成もほぼ変わっていなかった.また,この
事例に取り上げた4歳児クラスの担任のB先生は,筆者
がこの幼稚園を訪問するようになった最初からこの幼稚
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園に在職していたため,B先生の保育に対する考え方を 聞く機会も多く,逆に,B先生は筆者が保育カンファレ ンスの中で提案することにっいてもよくわかっていると
いう関係にあった.さらに,筆者は,このクラスの約半数の子どもを3歳 児クラスのときから知っていた.また,2005年度になっ てからでは,2回目の訪問に当たる.
記録は,筆者が保育の場に身をおきながら,観察しメ モ程度を取っておいたものを,できるだけ早い時期に記 録としてまとあておいたものである.記録の方法にっい ては,客観的な記録というよりは,筆者自身の保育を観 察する視点(枠組み)を自覚化できるような記述をした
ものである.
また,この日の観察そのものが園内研究会という形で 行われており,6)この事例については,保育後のカンファ
レンスの事例として取り上げられたので,担任自身の考 えもそこで聞くことができた.また,A幼稚園の他のメ
ンバーの考えも聞くことができた.
事例 幼稚園4歳児11月21日
・この事例の子どもの名前はすべて仮名である.
・考察の時に参照しやすいように,記述を分けた上 で,番号を付した.
記述1
保育室では,部屋いっぱいに遊びが広がっていた.担 任によると,何日か暖かい日が続いたのに,この日は,
朝急に冷えこんだためか,いっもなら戸外で遊ぶ子ども が多いのに,保育室で遊び始めている子どもが多かった
という.
積み木の高さと比べて「あっちの(ふたりが作っている 積み木の)方が高い」と落ち着かない様子になる.そん な風に慎重に積んでいっても,子どもの身長よりも高く なるころには,ちょっとしたバランスで,積み木が派手 な音とともに崩れてしまう.けれども,それほど子ども たちはそれほどがっかりするわけでもなく,むしろ崩れ ると大きな声で笑いあって,また初めから積み直して遊
びは続いていた.記述3
積み木もバランスで成り立っているけれども,実はこ の遊びの楽しさもバランスで成り立っている.積み木を 積むときの緊張感と集中が,崩れるときに一気に開放さ れる.さらに,できるかぎり高く積みあがってほしいと いう思いと,いっそのこと緊張感から開放されて派手な 音とともに友達と一緒に大笑いする瞬間を待つ思い,そ の相反する思いがうまくバランスしてこんなにも楽しい のだろうと考えながら,私も,この遊びにひきっけられ て見ていた.
記述4
しばらくすると,このバランスが崩れてきた.りゅう たろうが,明らかにわざと崩れるように積み木を積んだ り,たかしが積もうとする瞬間にふざけて笑わせて,結 果的に,たかし達の積み木が崩れてしまったりした.こ んな雰囲気の変化を感じたのか,そのときまでそばを通っ ても,誰も積み木に触れたりしなかったのに,たまたま 通りかかったゆうとの手が触れて,りゅうたろう達の積 み木を崩してしまった.怒ったしょうがゆうとを責め,
けんかになってしまった.
記述2
そうした遊びの中でも,派手に音を立てながら大騒ぎ をしていたのは,たかし,ひろき,りゅうたろう,しょ うの遊びの場だった.4人は,たかしとひろき,りゅう たろうとしょうというふたりずっに分かれて,それぞれ 床上積み木を縦横に重ねながら高く積もうとしていた.
積んだ積み木の高さが低い間はそれほどの緊張感はない が,高くなるにっれて積み木を重ねる手に気持ちが集中 する.ふたりが交代に積むことになっているらしいが,
一方があまりに慎重に積もうとしていると,もうひとり が「代わって,ぼくにやらせて!」声をかけたり,隣の
記述5
「集中と開放」のバランスで成り立っている遊びは,
特に四歳児の友達関係の中では,こんな風に終わってし
まうことが多い.記述6
このとき,担任が「今惜しかったじゃない,けんかし
ている場合じゃないよ.もう少しで一一一一as高くなりそうだっ
たのに…」と心から残念そうな表情で声をかけた.
記述7
それを聞くと,りゅうたろうが「そうだ!」と椅子を持っ てきて,椅子に乗って再度挑戦し始めた.たかしもその 動きを見ると,椅子より高い台(ゲームボックス)を持っ てきてそこに登って積む.積み木は,少しずつ高くなり,
子どもの身長を超え,椅子より高い台に乗っても積むの がなかなか難しいほどに高くなってきた.もう担任の背 も超えている.いつの間にか保育室で他の遊びをしてい た子ども達の目線も集まってきていた.背はあまり高く ないたかしが台に乗っても自分の背より高いところに,
ひょいっと,器用に一段積んだ.しかし,次の積み木は,
台に乗っても手の届かないほどの高さになり,さすがに 器用なたかしにも難しそうだった.
記述8
すると,しょうがさっきまでけんかしていた相手のゆ うとに「ゆうと,積める?」と聞く.他の子ども達の目 線もゆうとに集まる.確かにゆうとはこのクラスで一番 背が高い.ゆうとはみんなの期待の視線の中で真剣な表 情で積む.うまく積め,みんなが「やった一」と気持ち が高まったその瞬間,どういう具合か大きな音をたてて 壊れてしまった.一瞬の沈黙の後,「またやろうぜ」と,
ゆうとの声が響いた.
記述9
この遊びの「集中と開放」のバランスが,クラスの子 ども達の気持ちも巻き込みっっ戻っていた.
この事例は,たった一っのクラスのひとっの遊びであ り,また,一日の中でもほんの1時間ほど続いた遊びの 記録である.しかし,このような短い事例の中にも保育 行為があり,その行為をめぐる判断がある.そして,そ の関係性の中で子どもが展開していく遊びがあり,その 遊びに対する「理解」が存在する.
次に,このことを,記述に沿って明らかにしてみたい.
3.事例の記述に見る筆者自身の理解についての考察 ここでは,事例の記述に沿って,この記述を書いた筆 者自身の理解について考察しておきたい.
(1)
記述1では,①クラスのほとんどの子どもが保育室で
遊んでいることと,②この日は,いっもと違う遊びをし ている状態であることを書いている.
遊びの展開には環境が大きくかかわっていることは,
繰り返し指摘されている.7)同じ積み木の遊びでも,ゆっ たりとした空間で始まるのと,込み合った空間で行われ るのとでは,子どもにとって違いがある.8)広くてゆっ たりしていたからこそ,落ち着いてできるときもあれば,
隣で遊ぶ子どもとの身体的な距離や賑わいが遊びを活性 化させる力に働くときもある.その意味で,この日どち
らかというと,室内を移動するための動線確保すること が難しいほど,狭いスペースを分け合う環境で遊びが始 まった.このことは,この遊びの子どもにとっての意味 を考察する手がかりになっているたああえて記述したも のである.
さらに,子どもにとって,昨日までの続きの遊びであ るのか,久しぶりの遊びであるのか,あるいは,初めて 挑戦する遊びであるのかは,意味が違ってくる.4歳児 の11月ともなってくると,保育の中でできるだけ遊び が連続し,その連続性の中で1回1回経験する遊びの質 が高まることを願って保育することが一般的である.そ して,そのような願いをもって保育しているとそれほど 無理のない形で,子どもたちも連続性を持って遊ぶよう
になる時期でもあるからである.しかし,時には,遊び が変わることも当然である.けれども,その理由が,天 候の変化によるものであるということは,昨日までの遊 びがゆきづまったり,人間関係が変わったために遊びが 変わったわけではないだろうということだと理解できる.
担任がこの点にっいて保育中にもかかわらず筆者に伝え たのは,このことが,担任にとっても,筆者にとっても,
この子どもたちの遊びを理解する上で,欠かせない情報 だと考えたからだろう.筆者もそのようにとらえて,記 述している.
(2)
記述2では,この遊びの様子を記述し,記述3では,
記述2の時点での筆者の,この遊びの楽しさの本質がど こにあったのかという問いへの理解を書いている.
同じように,積み木を積むという遊びであっても,そ
の遊びの楽しみ方は違う.真剣に高く積めるか積めない
かという緊張感にこそ魅力がある場合もあれば,相手と
どちらが高く積めるかというその間のスリルに魅力があ
る場合もある.この違いを,子どもたちの遊ぶ姿から理
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解しなければ,遊びを通しての保育はできない.記述2 では,遊びの情景を記述しただけのようにも見えるが,
この違いを明らかにしたいと注目して観察している記述 である.
友達とのかかわりを確かめ,高くしたいという動きも 記述した上で,その魅力もあるものの,「高くなるにっ れて積み木を重ねる手に気持ちが集中する」一方で「派 手な音とともに崩れてしまう.けれども,それほど子ど
もたちはがっかりするわけでもなく,むしろ崩れると大 きな声で笑いあって」いるという子どもの姿に焦点化さ
れる.
記述3では,この観察を根拠にして,「緊張感と集中 が,崩れるときに一気に開放される」「高く積みあがっ てほしいという思いと,いっそのことこの緊張感から開 放されて友達と一緒に大笑いする瞬間を待っ思い,その 相反する思いがうまくバランスして」と,この遊びの,
この子どもたちにとっての魅力を考察している.このよ うな遊び理解の根拠となっているのは,西村清和の「遊 びの現象学』の中で展開される「遊びにおける『間』」
の理論と遊びの構造を「浮遊と同調」ととらえる理論で ある.9)つまり,遊びの魅力は,「失敗せずにできる」
ことや「勝負に勝っ」ことにあるのではなく,遊びの中 に生み出されるさまざまな「間」における「浮遊と同調」
にあるのだという,西村の理論に照らして,この子ども たちの姿を理解したものである.
(3)
記述4では,先ほどまでこの遊びの魅力となっていた
「集中と開放」のバランスが崩れてきたと筆者が感じた ことを記している.その上で,どのような子どもの姿が この「感じ」の根拠になっているのかを探っている.
「りゅうたろうが,明らかにわざと崩れるように積み 木を積んだり,たかしが積もうとする瞬間にふざけて笑 わせて」「こんな雰囲気の変化を感じたのか…」という ようにきっかけは最初にこの遊びの魅力を変化させる行 動に出てしまったりゅうたろうだが,その変化に対し
「せっかくやってるのに」などと他の子どもたちも抗議 していない.また,遊びはそのメンバーだけではなく,
その周囲の子どもたちにもその雰囲気の変化が伝わるこ とが多い.子どもたちにとっては,他の子どもの遊びは,
気になるものであり,隣の遊びの状況が環境として機能
してしまうからである.「集中と開放」のバランスという遊びの魅力が急速に 失われると,遊びそのものも退屈なものになる.遊びが 魅力を失って退屈になると,それまでならなんでもなかっ たようなことでトラブルになることも多い.事実,この 遊びの場合でも,ゆうとが故意にやったことではないの にすぐにけんかになっている.しかし,このトラブルの 相手が,もともとこの遊びのメンバーではない,ゆうと だったということは,今まで一緒に遊んでいたメンバー との人間関係はそのまま維持したいという気持ちが働い たのかもしれないし,それまでもよく遊んでいたいっも の仲間関係だったのかもしれない.
この記述4を受けて,記述5では,4歳児という年齢 の友達関係と,この遊びのように「集中と開放」のバラ ンスで成り立っている遊び,という点から,この遊びの 展開が,他の場面でもよく見られるものだという理解を
している.「集中と開放」という遊びの特徴から,「開放」の後に再び「集中」に戻ることは,4歳児が集団になっ た場合,予想以上に難しいことだからである.
(4)
記述6では,初めて担任が援助している.実際にはそ れまでにも,担任は,他の遊びにもかかわりながらも,
この子どもたちの「集中と解放」のときどきに合わせて,
にこにこして見ていたり,真剣に見っめている瞬間があっ た.子どもたちも,特に「先生見てて」とか「先生ほら」
というように,担任が見ていることを意識したような姿 はなかったが,担任が見ているということは感じている 様子で,手が空いているときに(交代で積んでいるので)
担任と目が合ってうれしそうにしているときも見られて いた.その意味では,担任は「子どもの傍らにいる」と いうあり方で,援助していたということになる.10)
「今惜しかった」「一番高くなりそうだった」という担 任の言葉は,「また積み木を積んで遊ぼう」という遊び の外面をとらえたものではなく,遊びの魅力の一方の極 である「集中」に立ち戻るための,子どもたちの内面を 支える言葉となっていることがわかる.そして,担任も 残念であることを表現するということは,「集中と開放」
という遊びの魅力を,担任もまた感じていて期待を持っ て見ていたということを伝えるものになっている.この ようにいていくと,担任が「子どもの傍らにいる」とい うことはとても大きな意味を持っことがわかる.それは,
内面への理解を表現できることを意味するものであり,
ともに遊びを楽しむものであること,たとえメンバーと してではなく,ギャラリー的な立場であったとしても,
ともにあることを意味するからである.
(5)
記述7,8は,その担任の援助から,遊びがどのよう に展開したかを示している。
担任の期待にこたえることは,遊びに立ち戻るきっか けにはなったかもしれないが,そこから「先生見てごら ん」というような要求もないことから見ると,それほど 大きな意味を持たなかったともいえる.しかし,担任の 期待にこたえるということに意識が向き続けていたので は,「遊びは遊びそのものを目的とする」11)という遊び の定義に反することになるわけで,このあたりが,遊び
の援助の難しい点である.その点,この場合は,基本的に,遊びに向かう内面が 支えられたことで,メンバーがより共通の遊びの魅力を 感じて動き出したと理解できるだろう.
では,遊びの魅力は,変わらなかったのだろうか.担 任の言葉によって「集中と開放」という遊びの魅力では なく,「どこまで高く積あるか」とより目的性の高い遊 びへと変化している.また,担任が援助したことで,周 囲の子どもたちの視線が集まることになり,そのことも 遊びの目的性を高める結果になっていることが,記述か
ら読み取れる.
記述8では,しょうが,けんかの相手であったゆうと に「ゆうと,積める?」と頼むという展開になる.目的 性の高い遊びになると,その目的のために,子どもは,
さまざまな葛藤を乗り越えるとされている.この展開を 見ると,担任の言葉は,このような葛藤を乗り越える経 験ができるような目的性の高い遊びへと,質の転換をも 意図したものだったのかもしれないと考えられる.
ところが,その目的の中のひとつの山を越えようとす る瞬間,また積み木は崩れてしまう.目的性の高い遊び は,その目的性の高さゆえに,課題にぶつかることも多 い.また,そのため,ともすると,「浮遊と同調」や
「間」という述語で表されるはずの遊びそのものの構造 が不明確になって,目的達成だけの活動になってしまう
危険もはらんでいる.このときは,友達関係というひとっの葛藤を乗り越え てゆうとが目的を共有し,積んだ瞬間だっただけに,ど ういう展開になるかは,子どもたちの次の行動の選択に
ゆだねられていた.また担任もこのときには,あえて先 回りをしての援助をしていない.そのタイミングで,ゆ うとが「またやろうぜ」と言ったことによって,この遊 びは,目的性の高さも維持しつっ,高さに比例して「開 放」の瞬間の魅力も大きくなって,遊びが続くことになっ た.っまり,むしろこの場合には最高の高さになる寸前 に崩れたことが,この遊びに遊びとしての「浮遊と同調」
の面白さを取り戻しことになったと考えられる.
記述9では,このことを筆者がその時点でとらえた言
葉で記述している.4.話し合いから見えてきたことについての考察 すでに述べたように,この事例については保育後のカ
ンファレンスで取り上げられた.その中では,いくっか の事例がとりあげられたが,この事例については,筆者 がその記述をもとに「遊び」の理解を提案して,話し合っ た.すでに述べたように,担任はこの遊びの展開の「傍
らにあって」筆者が見ていることも意識しながらかかわっ ていた.記述1にあるように,担任も保育中であったに もかかわらず,筆者が遊びを見るのに必要と判断した
「理解」を伝えている.担任は,基本的には,同じよう にこの「遊び」を理解しているということだった.
ただし,記述6の援助にっいては,新しい情報として 次のようなことが語られた.
①目的性の高い遊びにするという点にっいては,基 本的に考えていることではあるが,このときは,
この子どもたちがこの遊びを楽しんではいたが,
まだ十分に満足感が得られるほどにはなっていな いと感じていたので,何とか「もう一歩楽しさの 手ごたえがもてるところまで」やらせたいと考え た.この子どもたちが,遊びの種類は違ったとし ても,いっもこんなふうに遊びが終わってしまう と充実感が持てず次の遊びも,途中でふざけて終 わってしまうと感じていたこともあるかもしれな
い.②しょうがゆうとにこんなふうに頼むとは予想をし
ていなかった.しょうは本来は,緊張感を崩して
しまう動きに出たりゅうたろうに抗議しなければ
ならないのに,仲間としてすでに楽しさを共有し
ているりゅうたろうには,抗議できないで,仲間
ではないゆうとにその分まで強く抗議していると
感じた.そういう意味では,仲間とか仲間ではな
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いとか,けんかをしたばかりの相手であるかどう か,ということを超えて,背が高いから積あそう と考え,頼んだということは,ゆうとにとっても この4人のメンバーにとっても,また,狭い空間 の中で,この展開を何気なく気にしていた子の暮 らすの子どもたちにとってもよい経験になったと 思う.
ここでのカンファレンスで,筆者の「遊び」理解と先 生方の考えが基本的に同じであったのは,すでに述べた ように,この園と筆者の付き合いが長く,このようなカ
ンファレンスを重ねてきていたという事実が大きい.特 にこの担任とは,保育をあぐって,何回も話し合いをし ており,ともに相手の考えに影響を受けている面も大き く,担任の「理解」と筆者の「理解」が重なったものと 考えられる.また,遊びにっいては,基本的には現行の
「幼稚園教育要領」でかなり詳しく抑えてあり,「理解」
の基盤が共通していたことも大きいと考えられる.
また,違いとして見えてきたことは,遊びを理解する 上での子どものこれまでの経験,満足感や充実感を持っ ときの様子などであった.っまり,これまでの担任とし ての子どもとの関係の中で,一人ひとりの子どもがどん な様子のときにどんな思いを持っているかという手がか りであり,そのとらえに基づく一人ひとりの子供に対す る担任としての願いにかかわるものであったと考えられ
る.
5.結論
ここでは,保育行為の判断の根拠としての「遊び」理 解が,存在することを明らかにしてきた.そして,本事 例を分析する限りでは,「遊び」理解のあり方には,大 きく二っの視点が存在していることが明らかになった.
それは,個々の「遊び」の構造にかかわる理解と「遊び」
が「遊び」として成立することに対する理解との二っの 視点である.さらに,この背景には現行の幼稚園教育要 領における「遊び」にっいての記述がある.こうした
「理解」は,文化としての「遊び」にかかわるものであ り「文化論的視座」に立っものといえよう.
これに対し,カンファレンスの過程においては,主と して担任教師の発言から,子どものそれまでの経験や育 ちのプロセスや仲間関係の理解も「遊び」の理解と密接 にかかわっていることが明らかになった.こうした「理 解」は教師,子ども,子ども同士といった関係にかかわ
るものであり,「関係論的視座」に立っものといえるだ
ろう.
6.今後の課題
本研究においては,「遊び」理解における「文化論的 視座」と「関係論的視座」にっいてはその概念を提案す るにとどまっている.「文化論的視座」「関係論的視座」
については,別の論文において検討を深めたい.
註
1)文部省,幼稚園教育要領解説,フレーベル館,1999
年,p21
2)保育学会における筆者は言葉遊び,鬼遊び,ごっこ 遊びにっいての構造分析にっいて発表してきている.
たとえば河邉貴子との共同研究,「鬼遊びにおける 子どもとゲームとの出会い一動態分析のための2っ に視座」日本保育学会第42回大会など.
3)戸田雅美「保育実践に遊び理論は必要か」,『発達』
no.46,vol.12,ミネルヴァ書房,1991年