3.1 窒素分子と一酸化炭素
窒素 (N2) は、通常の状態では無色・無臭の気体であり、大気圧下の融点は
−209.9 ℃、沸点は−195.806 ℃ である。液体窒素は、冷媒として食品の急 速冷凍・貯蔵などに用いられる。前にものべたように、窒素はきわめて反応 しにくい分子の代表である。この化学的不活性さにより、窒素は酸化防止、
爆発防止などに利用される。窒素が反応性に乏しい分子であることは、つぎ のような数値を見ても明らかである。例えば、窒素分子から 1 つの電子を取 り去るのに要するエネルギー (イオン化ポテンシャル) は 15.6 eV であり、
一酸化炭素 (C≡O) の値 14.0 eV より大きく、この数値は不活性ガスともい われる希ガスのアルゴンの数値 15.8 eV に匹敵する。また、4 種類の三重結 合、すなわち、C≡C, C≡O, C≡N および N≡N の結合エネルギー (その三 重結合を完全に開裂するために要するエネルギー) はそれぞれ、839, 1072, 891 および 941 kJ/mol (1 kcal=4.184 kJ) である。窒素分子を均一に解離し て 2 つの窒素原子に変換するエネルギーは、941 kJ/mol と他と比較してかな り大きいことが分かる。一方、N−−N 二重結合および N-N 単結合の結合エネ ルギーは特に大きくはないので、反応性に乏しい窒素分子を反応させる最大 の難関は、N≡N 三重結合を開裂させるところにあると考えられる。
窒素と一酸化炭素はともに三重結合を有し、それぞれの原子の外殻にある
新しい窒素固定の化学 第 3 章
電子数の合計が等しい分子、いわゆる化学の専門語でいう等電子分子である。
したがって、両者は似たような反応性を示すことが期待される。一酸化炭素 の化学とその工業的応用は、等電子の窒素よりはるかに進歩している。100 年以上前の 1890 年に、4 つの一酸化炭素がニッケルに直線状に炭素を通して 結合した化合物 Ni(CO)4が I. Mond により偶然発見された。Mond は、食塩、
二酸化炭素とアンモニアからソーダ灰 (Na2CO3) を合成する Solvay process で用いられたニッケル反応容器のバルブの腐食の問題を研究していた。その 過程で、金属ニッケルが二酸化炭素の中に含まれる微量の一酸化炭素と反応 して Ni(CO)4を生成することを見出し、その生成が腐食の原因であることを 突き止めた。この化合物はニッケルカルボニルと呼ばれ、蒸発しやすい無色 の毒性の強い液体であり、沸点 43 ℃、融点−25 ℃ である。この化合物はメ タンと同じ四面体構造をしており、4 つの一酸化炭素が互いに 109.5°の角度 をなしてニッケルに直線状に結合している (図3.1)。
現在までに、さまざまな一酸化炭素が結合した化合物、金属カルボニル錯 体が合成されてその分子構造が決められている。一酸化炭素が 1 つの金属だ けでなく、2 つあるいは 3 つ以上の金属に結合した化合物も知られている。
最も一般的な結合様式は、一酸化炭素が炭素を通して直線状に結合した end- on type のものである。これまでに知られている一酸化炭素と金属の結合様 式を図3.2に示す。
これに対して、窒素が金属に結合した化合物 (いわゆる窒素錯体) が初め
3.1 窒素分子と一酸化炭素 47
図3.1 ニッケルカルボニル
て合成されたのは、3.2.1 項でのべるように、1965 年である。
1923 年にドイツの F. Fischer と H. Tropsch により、一酸化炭素と水素か ら触媒を用いて液状の炭化水素を合成する方法が発見された。この反応は、
窒素と水素からのアンモニア合成に対応する。彼らは、鉄-酸化カリウム触媒 を用いて 400 ℃、150 atm の条件下で合成ガス (一酸化炭素と水素の混合物) を反応させると、炭化水素とアルコールが得られることを見出した。この反 応は、その後 Fischer-Tropsch 合成 (図3.3) といわれ、いろいろと改良が行 われた。
一般にこの合成反応は、鉄、コバルトあるいはニッケル触媒に、酸化マグ ネシウム、酸化アルミニウムなどの助触媒が加えられ、150 〜 350 ℃, 1 〜 30 atm の条件下で行われる。ルテニウム触媒を用いた場合は、反応は 150 〜 250 ℃, 100 〜 1000 atm の条件下で行われ、主として高級パラフィンが得ら れる。この方法により、石油の代わりに石炭などの炭素源を用いて液状炭化
図3.2 金属 (M) と一酸化炭素の結合様式
図3.3 Fischer-Tropsch合成
水素 (合成石油) の製造が可能となり、ドイツで第二次世界大戦中に石炭か ら液体燃料が生産された。戦後、安価な石油が容易に手に入るようになるに つれて、この合成法は経済性を失った。しかし、この方法は、石炭が豊富で 安価な南アフリカ共和国で燃料油製造に用いられており、1995 年にサソー ル-1 (SASOL-1;The South African Coal & Gas Co. Ltd) プラントが建設さ れ、その後もつぎつぎとプラントがつくられ、石炭の液化が行われている。
最近、原料の合成ガスが天然ガス、石炭、バイオマスから容易に得られるの で、Fischer-Tropsch 合成が再び注目を集めており、反応生成物の選択性の 向上を目指した不均一系触媒 (本章の 3.2.2 項を参照) の開発が盛んに進め られている。その詳細は 2010 年の Y. Wang らのレビューを参照されたい。
Fischer-Tropsch 合成に加えて、一酸化炭素を炭素源として用いた、工業 的に重要な有機合成反応が数多く開発されている。その代表例は、1938 年に O. Roelen により発見された、オレフィン (RCH−−CH2) のヒドロホルミル化 反応 (hydroformylation) である。この反応で、オレフィンと合成ガスからア ルデヒド (RCH2CH2CHO) が合成される。この反応の名前は、オレフィンの 炭素-炭素二重結合に水素 H とホルミル基 -CHO が付加して、炭素数が 1 つ 増えたアルデヒドが生成することに由来する。この反応は有機合成にきわめ て有用である。例えば、可塑剤の原料となる 2-エチルヘキサノールは、プロ ピレンのヒドロホルミル化反応を経て工業的に合成される。この反応には、
当初はコバルト (Co) 触媒が使われたが、最近はロジウム (Rh) 触媒が用い られて反応条件が緩和され、直鎖アルデヒドへの選択性も向上している。
また、Monsanto 社により 1960 年代の後半に開発された、メタノールと一 酸化炭素からの酢酸合成も、画期的なプロセスである。この製法では、ロジ ウム-ヨウ素系触媒が用いられ、それ以前に使われたコバルト(Co)-ヨウ素 (I) 系触媒と比べて、はるかに温和な条件下 (150 〜 200 ℃,1 〜 40 atm) で 酢酸が合成される。この方法の開発により、従来の石油 (具体的にはエチレ ン) に依存した酢酸合成は、もし石油が高騰あるいは枯渇した場合は、石炭
3.1 窒素分子と一酸化炭素 49
を炭素原料とした酢酸合成へと転換できることを意味する。何故なら、メタ ノールも合成ガスから亜鉛 (Zn) 触媒を用いて合成されるからである。もち ろん現在は、合成ガスは主として天然ガス、ナフサなどから合成されており、
Monsanto 法による酢酸合成プラントは石油を原料として稼働している。
以上のべたように、一酸化炭素は金属に結合することにより活性化されて、
さまざまな反応性を示し、それらを活用した多くの有機合成反応が開発され てきた。これらの反応は、大量生産型化学製品 (commodity chemicals) から 精密化学製品 (fine chemicals) に至る有機物質の合成に広く用いられてい る。これに対して、一酸化炭素より反応性に乏しい窒素の化学の発展はかな り遅れた。ハーバー・ボッシュ法の開発の後、一酸化炭素の化学は急速に発 展したが、窒素の新しい化学の誕生は 1960 年代まで待たねばならなかった。
1965 年に、窒素が金属に結合した化合物、いわゆる「窒素錯体」が初めて発 見された。この発見を契機として、一酸化炭素の化学に匹敵する「新しい窒 素固定の化学」の開拓を目指して、多くの化学者が研究を開始した。つぎに、
その時代から現在までの「新しい窒素固定の化学」の歴史と発展についての べる。
3.2 窒素錯体の合成と発展の歴史
3.2.1 新しい窒素固定の化学の誕生
20 世紀の初めにハーバー・ボッシュ法が発見された後しばらくの間は、化 学的窒素固定の分野で目覚しい進展はほとんどなく、次の展開は 20 世紀の 中頃まで待たねばならなかった。地球上での窒素固定のおよそ半分以上は微 生物による生物的窒素固定であることは 1.3.1 項でのべたが、この生物的窒 素固定の謎を化学および生化学の視点から解明する研究もこの時期に始まっ たといえる。1930 年に、H. Bortels は、窒素固定菌Azotobacter chroococcum の培養をモリブデン (Mo)、タングステン (W) およびウラン (U) 塩の希薄
溶液下で行うと、その成長が著しく促進されると報告し、その後の研究で、
特にモリブデンがこの促進に大きな効果があると主張した。さらに、窒素固 定を行うマメ科植物の生育がモリブデン、時にはバナジウム (V) により促 進されると報告した。それまで、原子・分子のレベルで生物的窒素固定の機 構を理解することはまったく不可能であったが、これらの報告は、「窒素が金 属、特にモリブデンにどのように結合して生物的窒素固定が進行するのか」
と化学者の想像をかき立て強い関心を引き起こした。
1964 年に、最初の突破口がソ連の M. E. Volpin らにより開かれた。彼らは、
窒素雰囲気下にチタン (Ti)、鉄などの塩と強い還元剤を反応させた後、反応 液を加水分解すると、アンモニアが生成することを見出した。窒素がこれら の金属に結合して活性化されたと推察されたが、詳細な反応機構は現在も不 明である。翌年の 1965 年、カナダの A. D. Allen と C. V. Senoff により、窒素 分子が金属に結合した化合物「窒素錯体」が初めて合成単離された。この発 見は、まったく予期せぬ偶然の出来事であった。彼らは、当初は塩化ルテニウ ム (RuCl3) とヒドラジンを常温で反応させて[Ru(NH3)6]2を合成しようとし たのである。しかし、実際に合成単離されたのは窒素錯体 [Ru(NH3)5(N2)]2
であった (図3.4(a))。
ヒドラジンは、多くの金属イオンの存在下で激しく分解してアンモニアと 窒素を生成するので、このルテニウム窒素錯体が合成単離できたのは幸運で あった。この窒素錯体の赤外吸収スペクトルは、2170 〜 2115 cm1の領域に、
N-N 伸縮振動に帰属される鋭い吸収ピークを示した。この吸収の波数 ν(N≡N) は、遊離の N2のν(N≡N) (2331 cm1) と比べて約 200 cm1ほど 低波数にシフトしている。その後の X 線構造解析により、窒素分子はルテニ ウムに直線状に結合していることが確認された。先にのべた Ni(CO)4の一酸 化炭素の結合様式と同じである。この発見は多くの化学者にとって大きな驚 きであった。それは、化学的にきわめて不活性な窒素が、金属に結合して安 定な化合物をつくり、それが単離・同定できたからである。
3.2 窒素錯体の合成と発展の歴史 51
この Allen の窒素錯体発見のあと、つぎつぎと新たな窒素錯体が合成され た。1966 年には米国の J. P. Collman らによりイリジウム (Ir) 窒素錯体が合 成され、1967 年には我が国の山本明夫らとイタリアの A. Sacco らによりコ
図3.4 代表的な窒素錯体:(a) 最初の窒素錯体、(b) 最初のモリブデン窒素 錯体、(c) プロトン源と電子源の存在下で窒素をアンモニアに変換 する最初の窒素錯体触媒、(d) プロトン源と電子源の存在下で窒素 をアンモニアに触媒的に変換する最初のFe窒素錯体、(e)Fe-C結 合のトランス位に窒素が配位した三方両錐形のFe窒素錯体
バルト窒素錯体[CoH(N2)(PPh3)3]が合成された。後者のコバルト窒素錯体 は、窒素ガスを用いて合成されたので注目を集めた。空気 (厳密には酸素) に 不安定な化合物を取り扱う合成実験では、欧米ではしばしば希ガスのアルゴ ンが用いられていた。山本らは、アルゴンが高価なので、代わりに窒素ガス を用いて実験を行っていた。その研究の過程で、偶然にも予期せぬコバルト 窒素錯体が単離されたのである。その後の同年に、Henry Taube (1983 年に 金属錯体の電子移動反応機構の解明によりノーベル化学賞を受賞) は、
[Ru(NH3)5(H2O)]2水溶液に常圧の窒素ガスを吹き込むと、配位水分子が窒 素 に 置 換 さ れ て Allen 窒 素 錯 体 が 生 成 す る こ と を 見 出 し た。そ し て、
[Ru(NH3)5(N2)]2と[Ru(NH3)5(H2O)]2が反応することにより、2 つの Ru 原子間に N2が直線状に架橋した二核窒素錯体[(NH3) RuN5 2Ru(NH3)5]4が 生成する反応の発見へとつながった。これら水溶液中の N2の反応は、生物 的窒素固定との関連で興味深い。
一方、1960 年代の前半、英国では英国農業研究評議会 (UK Agricultural Research Council) のもと、サセックス大学に窒素固定部門 (Unit of Nitro- gen Fixation, UNF) が創設された。この特異な研究所は、無機化学の大御所 である Joseph Chatt を所長に迎え、微生物学、生物化学から無機化学までに わたる広範囲な分野の科学者を集結させて、生物による窒素固定機構を解明 することを目指していた。無機化学の分野は、著者と同年代あるいは若干年 上の G. J. Leigh と R. L. Richards が中心となり研究が開始されていたが、そ のスタートはやや遅々としていた。上述の窒素錯体の合成に続いて、このグ ループはレニウム (Re) およびオスミウム (Os) の窒素錯体の合成に成功し た。その後、最大の関心は、生物的窒素固定の鍵金属と当時広く信じられて いたモリブデン、および同族のタングステンの窒素錯体の合成に向かった。
1969 年に、29 歳の著者に幸運がめぐってきて、最初のモリブデン窒素錯体 trans-[Mo(N2)2(dppe)2](dppe=Ph2PCH2CH2PPh)2が合成された。その分 子構造式を図3.4(b)に示す。この錯体は、生物窒素固定の鍵となるモリブ
3.2 窒素錯体の合成と発展の歴史 53
デンに窒素が結合する様式を明らかにした最初のモデル錯体とも考えられ、
大きな反響を呼んだ。2004 年の Leigh の著書『The Worldʼs Greatest Fix』に も、この錯体は�the first molybdenum-dinitrogen complex, taken at the time to be a model for the binding of dinitrogen to molybdenum in dinitrogenase�
と記述されている。また同年の、窒素固定の研究を回顧した Leigh のレ ビ ュ ー で は、当 時 の サ セ ッ ク ス の 状 況 を� We were beaten to the first molybdenum dinitrogen complexes�と表現している。しかし、その後、Chatt グループの猛追により、一連の同様な構造をもつモリブデンおよびタングス テン窒素錯体[M(N2)2(L)4] (M=Mo, W;L=ホスフィン) がつぎつぎと 合成された。そして、主として Chatt と著者の両グループによる 1970 〜 80 年代の精力的な研究により、これら Chatt-Hidai type のモリブデンおよびタ ングステン窒素錯体の配位窒素 (金属に結合した窒素分子) が、さまざまな 新規な反応性を示すことが明らかにされた。
このようにして、ハーバー・ボッシュ法の化学とは異なる「新しい窒素固 定の化学」が誕生し、現在も引き続いて活発な発展を遂げている。興味深い ことに、これより先に合成されたルテニウムやコバルトなどの窒素錯体の配 位窒素は、ほとんど反応性を示さなかった。例えば、当初、Taube らはルテ ニウム窒素錯体の配位窒素がアンモニアに変換されると報告したが、間違い であることが判明した。これに対して、モリブデンおよびタングステン窒素 錯体の配位窒素は無機酸と容易に反応してアンモニアに変換され、また、窒 素を含む有機化合物にも誘導できた。
3.2.2 窒素分子の金属への配位
その後も続々と窒素錯体が合成され、現在では白金 (Pt)、パラジウム (Pd)、銀 (Ag) などを除いた、ウラン (U) も含めたほとんどの遷移金属に窒 素が結合した化合物が知られている。それら窒素錯体の X 線構造解析より、
窒素分子は 1 つ、2 つ、あるいは 3 つ以上の金属にさまざまな様式で結合す
ることが判明した (図3.5)。
このように、金属に窒素が結合すると、窒素は活性化され N-N の距離も 伸びる。その活性化の程度は、X 線構造解析による N-N 結合距離および赤 外あるいはラマン吸収スペクトルによる N-N 伸縮振動の波数ν(N≡N) の 測定により、定量化することができる。基準となる遊離の N2の結合距離は 1.0975 Å であり、ν(N≡N) は 2331 cm1である。
最も一般的に知られている窒素錯体は、1 つの金属に N2が直線状に結合 したもの (end-on type) である。この配位窒素は弱く、あるいは穏やかに活 性化される。この N2の金属 (M) への end-on 結合様式は、分子軌道法では つぎのような 2 つの軌道の重なりにより説明される (図3.6)。一つは、N2分 子の最高被占分子軌道 (HOMO) のσ軌道と金属の空の d 軌道の重なりであ
3.2 窒素錯体の合成と発展の歴史 55
図3.5 金属 (M) と窒素分子の結合様式
図3.6 金属 (M) にend-onで配位した窒素分子の 結合様式
る。他方は、金属の被占 d 軌道と N2分子の最低空分子軌道 (LUMO) である π*反結合性軌道の重なりである。前者の軌道の重なりにより N2から金属に 電子が供与され、後者の軌道の重なりにより金属から N2の空の反結合性軌 道に電子が逆供与される。その結果、N-N 結合は弱まり、M-N 結合は強くな る。したがって、N2は電子豊富な金属に結合して窒素錯体を形成する。また、
配位 N2分子は分極し、金属に直接結合している窒素はプラスに荷電し、末 端の窒素は負に荷電する。後にのべるように、end-on 配位窒素の末端の窒素 がプロトンの攻撃を受けるのはこのためである。
一方、N-N 結合に金属が等距離をもって結合する side-on type の単核窒 素錯体の例はほとんどない。2000 年に、D. V. Fomitchev らによる、photo- crystallographic technique (低温で結晶に光を照射し生成する準安定な状態 を解明する X 線構造解析) を用いた実験により、初めてこのタイプの存在が 明確にされた。すなわち、オスミウム窒素錯体 [Os(NH3)5(N2)](PF6)2の結 晶に、100 K で 330<λ<460 nm の波長の光を照射して構造解析を行った結 果、配位窒素は、元の end-on から side-on に結合様式を変えることが明白と なった。また、N-N の結合距離は 1.128(3) Å から 1.058(30) Å と短くなり、
Os-N(N2) の結合距離は長くなることが観察された。
これに対して、2 つ以上の金属に窒素が結合する様式は、図 3.5 に示すよ うに多彩である。二核窒素錯体の架橋窒素は end-on type と side-on type (口 絵「化学からの挑戦」を参照) に分けられる。前周期遷移金属を中心として数 多くの例が知られており、金属と配位子の種類により、窒素は[N2]0,[N2]2
あるいは[N2]4の状態に活性化される。これら二核窒素錯体の反応性につ いても詳しく研究されている。後にでてくる図 3.10 (a) および図 3.12 に示 す反応はその例である。
最近になり、[N2]あるいは[N2]3ラジカルイオンをもった二核窒素錯体 も合成されている。2009 年、C. Limberg は、end-on type の[N2]0配位子を もった二核 Ni(I) 窒素錯体を還元することにより、[N2]および[N2]2配位
子が直鎖状に架橋した二核 Ni(I) 錯体を合成した。また、同年に W. J. Evans は、[N2]3ラジカル配位子が side-on type で架橋した二核ランタノイド Ln (Ⅲ) (Ln=Dy, Y) 錯体を得ることに成功した。今後、これらのラジカルイ オンの反応性の解明が期待される。一方、2011 年には W. J. Evans と J. R.
Long により、[N2]3ラジカルが架橋した二核ランタノイド Ln(Ⅲ) (Ln= Gd, Dy) 錯体が合成され、これまでにない単分子磁石 (single molecule mag- net) としての良好な性質 (分子に起因する磁気ヒステリシスが観測される) を示すことが明らかにされた。
固体化学の分野では、リチウム (Li) 金属が室温で窒素と緩やかに反応し て、窒化リチウム Li3N が生成することは古くから知られている。マグネシウ ム (Mg)、カルシウム (Ca) あるいはアルミニウム (Al) も窒素下で加熱する ことにより、窒化物が得られる。これら窒化物は、水と容易に反応してアン モニアを与える。最近、P. Chen らは、窒化リチウムが下式の平衡反応により 可逆的に水素と反応することを見出し、M-N-H 系が水素の貯蔵に有望であ ると指摘している。
Li3N + 2 H2 Li2NH + LiH + H2 LiNH2 + 2 LiH
一方、P. V. R. Schleyer らは、Li2, Li4, Li6および Li8の Li クラスターと N2
との反応の理論計算を行い、N-N 結合の発熱的な反応による開裂には、最低 8 個の Li 原子が必要であると推定した。また、2001 年に R. Kniep らが、[N2]2
イオンを含むストロンチウム化合物 SrN (=Sr8N4[N2]2) などの固体化合物 を、高温・高圧 N2の条件下で合成することに成功した。これに続いて、この イオンを含む白金、イリジウム、ランタン、カルシウムなどの固体化合物も 合成されている。さまざまな裸の金属原子 (bare metal atoms) の窒素活性化 に関しては、H-J. Himmel と M. Reiher の 2006 年のレビューを参照された い。
ここで、主に二種類に分類される触媒について解説する。ハーバー・ボッ
3.2 窒素錯体の合成と発展の歴史 57
シュ法によるアンモニア合成は、不均一系触媒反応に分類される。それは、
固体触媒表面で原料の窒素ガスと水素ガスが反応してアンモニアを生成する 不均一系反応であるので、このように呼ばれる。3.1 節でのべた Fischer- Tropsch 合成もこの分類に入る。これに対して、分子構造の明確な金属錯体 を触媒に用いて、反応が液相で進行する例がある。この反応では、触媒も液 相に溶けていて、同じ液相中の原料を活性化して反応が進行するので、均一 系触媒反応と呼ばれる。不均一系触媒反応は一般に高温で行われ、触媒の活 性や熱安定性も高いが、反応の選択率は低い。一方、均一系触媒反応は 200
℃ 以下の比較的低い温度で行われ、反応の選択率は高い。また、反応機構が 分子レベルで解明しやすく、分子レベルで触媒を設計・創製することが可能 となる。3.1 節でのべたヒドロホルミル化反応や、Monsanto 法による酢酸合 成はこの後者の分類に属する。
この章でのべている窒素錯体は、すべて分子化合物である。先の図 3.4 に、
ルテニウムとモリブデン窒素錯体の分子構造を示した。前者のルテニウム窒 素錯体 (図 3.4 (a)) は、ルテニウム原子が 5 つのアンモニア分子と 1 つの窒 素分子に囲まれた正八面体構造をしている。後者の場合では、モリブデン原 子は 2 つの有機リン化合物と 2 つの窒素分子を結合している (図 3.4 (b))。
このように、窒素錯体と簡単に表現しても、この窒素錯体は金属を 1 つ、
2 つ、あるいは 3 つ以上含み、窒素に加えて、さまざまな有機物や無機物が これらの金属に結合している複雑な構造をしている。この金属の周りの物質 (配位子と呼ばれる) をいかに原子・分子レベルで巧みに設計・創製するか が、窒素錯体を合成するうえで鍵であることを指摘しておきたい。すなわち、
金属の数や種類、電子状態を制御し、金属の周りの配位子を適切に分子設計 することにより、配位窒素の活性化の程度と反応性を変化させることができ る。次節でのべる C. C. Cummins の N-N 結合の開裂反応も、モリブデンの周 りの配位子の巧みな設計により、窒素分子が 2 つのモリブデンの間に架橋さ れて進行するのである。
エ ピ ロ ー グ
今日の科学・技術分野は、多くの細分化された専門分野に分かれ、多くの 科学・技術者はその狭い分野内で活動し、分野間を越えた知的交流は比較的 少ないとの指摘がある。さらに、科学・技術全体を見渡し問題点を的確に把 握して、学際領域の発展に積極的に寄与する研究者の数も、充分であるとは いえない。現在人類が直面している、環境、エネルギー、資源、生命・医療 などのさまざまな地球規模の課題を克服して持続可能な発展を達成するに は、化学、物理学、生物学などの自然科学、さらには人文科学、社会科学も 含めた、従来の学問分野の枠を越えた学際的研究領域の進展が不可欠である。
これらの学際領域が円滑に発展するためには、俯瞰的視点の養成、学問分野 間を越えた人材の交流、深い専門知識と幅広い基礎学力の修得などが求めら れる。2011 年 3 月の東日本大震災後に一般の人々が抱いた科学者に対する不 信感を払拭するためにも、科学・技術者の意識改革が望まれる。しかし、俯 瞰的な視点をもち、かつ専門分野も深く掘り下げる力量をもつことは容易で はない。
私の専門領域の「窒素固定の化学」も、化学のなかでは狭い分野である。し かし、窒素固定というベクトルで他の学問分野まで広げて眺めてみると、生 物的窒素固定、植物と根粒菌の共生、窒素固定遺伝子、農業と窒素肥料、さ らには窒素肥料の環境への負荷などの研究領域がある。すなわち、学問領域 は、化学から生化学、分子生物学、微生物学、分子遺伝学、農芸化学、そし て環境科学にまで拡大する。これまで、このような視点で自分の研究を位置 づけ、他分野の「窒素固定の科学」の発展を、論文などに目を通して追いかけ てきた。もちろん、これら多分野にわたる窒素固定の国際会議にも出席して きたが、率直なところ、他分野の研究を正確に理解することは容易ではない。
エピローグ 131
しかし、それを理解したいという意識・姿勢をもつことが大事である。
ハーバー・ボッシュ法による工業的な空中窒素固定と異なる「新しい窒素 固定の化学」が誕生するのは、1960 年代の半ばを過ぎた頃である。興味深い のは、1960 年代の前半に、英国では英国農業研究評議会のもとにサセックス 大学に窒素固定部門が創設されたことである (第 3 章の 3.2.1 項参照)。この 研究所は、無機化学から微生物学、生化学、遺伝学までにわたる広範囲の研 究者を集結させて、生物的窒素固定の機構を解明することを目的としていた。
私は、1976 年から 77 年にかけて 10ヵ月間、この研究所で研究する機会に恵 まれたが、同じ研究所のなかで、幅広い分野の研究者が絶えず最新情報を交 換しながら、共通の目標に向けて研究を進めている体制に深い感銘を受けた ことを記憶している。
その後、1970 年代後半、日本化学会と日本生化学会の共催によるミニシン ポジウムで、モリブデンおよびタングステン窒素錯体の反応性に関するそれ までの研究成果をまとめて話す機会があった。その会場に三菱化成生命科学 研究所所長 (当時) の江上不二夫先生がおられ、講演後に「化学は、生物の機 能にどれだけ近づいたかを強調するより、化学の特徴を活かして新物質を創 製し、その機能が生物とどのように異なる特徴をもつかを明らかにするほう が興味深い」という趣旨のコメントをいただいた。このコメントが、私のそ の後の研究方向に多大な影響を与えた。
1980 年代の半ばには、新たな研究の旗印として、「生物が利用しない貴金 属をはじめとするさまざまな金属-硫黄クラスターの合成と、それらを活用 した窒素などの小分子の特異な反応の開拓」を掲げて研究を開始した。すな わち、窒素固定酵素のなかの金属-硫黄クラスターと同じクラスターの化学 的合成に向けて精力的な研究を進めていた欧米の研究者とは、まったく異な る立場を鮮明にした。その結果、世界で初めての、窒素が結合したキュバン 型クラスター [(N2)Ru-3 Ir-4 S] の合成にもつながった。異分野との交流に より刺激を受け、発想の転換に至った一つの例である。また、本文でものべ
たように、化学的窒素固定と生物的窒素固定の研究は、互いに影響を受けな がら、見事に発展している。今や、両分野を隔てる壁はますます低くなり、
研究者の交流、情報交換などが頻繁に起こっている。
最近は、我が国でも、このような異分野の研究者からなる研究組織が見ら れるようになった。ナノサイエンス・テクノロジーや人工光合成などの研究 領域は、その代表例であろう。今後、異分野の研究者間の積極的な知的交流 がますます盛んになり、それを通して従来にない発想の転換、新規性、独創 性が生まれ、科学・技術のブレーク・スルーが起こると確信する。
エピローグ 133