は じ め に
農薬散布作業は,農作物の病害虫防除のために欠かせ ない作業である。農薬を使用する際は,対象となる作物 への防除効果を十分確保しつつ,作業者の安全も確保す るため,定められた適正な方法で使用するとともに,作 業時の環境など,圃場外への環境負荷の低減が求められ ている。さらに,現在の食品衛生法の下では,農作物の 生産現場で使用可能なすべての農薬に対して,残留基準 値が設定されている。このため,農薬散布が行われる圃 場の近傍に別の種類の作物が栽培されている場合には,
その作物が収穫された後は,本来使用を想定していない 農薬が付着・残留し,基準値を超過するような事態を極 力避ける必要がある。
しかしながら,農薬散布作業においては,常に農薬の 飛散(いわゆる,ドリフト)が発生する可能性があるこ とが知られている。ドリフトは,農作物への農薬の付着 の低減と散布作業者の曝露を増加させる怖れがあり,さ らに,これがはなはだしい場合は,圃場外へ飛散した農 薬が他の作物へ付着することで,本来想定されない作物 で農薬残留を生ずる可能性がある。したがって,農薬散 布作業時にはドリフトの防止あるいはこれを極力低減す ることが不可欠といえる(日本植物防疫協会,
2010
)。このような状況を踏まえ,近年,散布作業時のドリフ ト低減を目的に,新たな農薬散布機,ノズル等の防除機 器が開発され,普及が進んでいる。そこで本稿では,現 状の防除機器と新たな防除機の特徴を紹介するとともに,
今後の散布技術についての展望に触れることとしたい。
I 我が国における主な農薬散布機の特徴
現在,農作物の生産現場で利用されている「農薬散布 機」は,「防除機」と呼ばれることも多いが,非常に多 種多様な機種や仕様が存在している。それら各種の農薬 散布機を,散布する農薬の剤型や対象作物,圃場条件,
作業方法等に基づいて分類してみると,表―1の通りと なる。
これを見ると,まず,農薬の剤型ごとに異なる構造や 仕様をもったものが普及していることがわかる。さら に,対象となる作物の種類や栽培方法,あるいは,圃場 の規模などに対応し,より効率的な農薬散布作業が可能 となるよう,機構や構造が多様化している。
ここで,代表的ないくつかの散布機を使用した農薬散 布作業の事例を図―1に示す。
我が国で最も普及している散布機は,液剤を散布する 動力噴霧機である。近年,農家の経営規模の拡大が進 み,農家
1
戸当たりの作業負担面積も増加している。こ のため,農薬散布作業にブームスプレーヤのように大型 で作業能率の高い液剤散布機が利用される場面が多くな っているが,いずれも散布装置には動力噴霧機が搭載さ れている。動力噴霧機は,薬液(農薬の清水希釈液)を加圧する ポンプと,そこで加圧された薬液を微細な孔から高速で 微粒化して噴出する部品,すなわち,「ノズル」から構 成されている。通常の動力噴霧機に用いられるノズル
(以 下,慣 行 ノ ズ ル)か ら は,平 均 粒 径 が
60
〜80μm
程度の微細粒子が大量に噴出(すなわち,噴霧)される。散布対象の作物体へ噴霧された微細粒子は,作物体の全 体から細部にまで到達して付着することで,防除効果を 発揮する。しかしながら,100μ
m
以下の微細粒子は,付着性能が高い反面,物理的に自然風の影響を受けやす く,噴霧された地点から比較的離れた場所にまで飛散す る(すなわち,ドリフト発生の)リスクが高いことが知 Drift Prevention during Application of Agricultural Chemicals
(Pest Control Machiner y and Nozzles): Current Situation and Future Prospects in Japan. By Sumihiko MIYAHARA
(キーワード:ドリフト,農薬散布,防除機,噴霧機,ノズル,
ブームスプレーヤ,スピードスプレーヤ)
ドリフト防止(防除機, ノズル)〜その現状と今後の展望〜
農薬製剤・施用技術の最新動向⑱
農業食料工学会 事務局長
(国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構 フェロー) 宮原 佳彦(みやはら すみひこ)
リレー連載
表−1 主な農薬散布機の分類
剤型 作業形態 散布機の種類 備 考
液剤
歩行用 人力噴霧機(背負い式,肩掛け式等),動力噴霧機(背負い式,可 搬式,歩行形自走式等),スピードスプレーヤ(歩行形自走式)
多量散布(散布量100l/10 a程度 以上)
乗用
ブームスプレーヤ(トラクタ搭載式,トラクタけん引式,乗用管理 機搭載式),スピードスプレーヤ(乗用型自走式),乗用田植機(フ ロアブル剤滴下装置)
多 量 散 布,少 量 散 布(散 布 量
25/10 a対応ブームスプレーヤ)
屋外施設 スプリンクラー 多量散布
園芸施設内 常温煙霧機(定置式,無人走行式) 少量散布
動力噴霧機(無人走行式) 多量散布
無線誘導 産業用無人ヘリ(液剤散布装置),ドローン(液剤散布装置) 少量散布,散布量0.8l/10 a程度
粒剤
歩行用 人力散粒機(肩掛け式,背負い式),動力散粒機(背負い式,歩行
形自走式) 散布量1〜3 kg/10 a程度
乗用 ブーム式散布装置(乗用管理機装着式),田植機(植付部装着式)
無線誘導 産業用無人ヘリ(粒剤散布装置),ドローン(粒剤散布装置) 散布量1〜3 kg/10 a程度 微粒剤F 歩行用 動力散布機(背負式,対応機種に同剤用多口ホース噴頭装着) 散布量3〜4 kg/10 a程度 粉剤 歩行用 人力散粉機(前掛式等),動力散粉機(背負式)
散布量3〜5 kg/10 a程度 乗用 動力散粉機(トラクタ搭載式)
くん煙剤 施設内 くん煙装置 くん煙処理
動力噴霧機(畦畔散布ノズル) 背負い動力散布機(多口ホース噴頭)
ブームスプレーヤ(トラクタ搭載式) スピードスプレーヤ 図−1 主な農薬散布機による散布作業の事例
られている。
また,水稲栽培における病害虫防除では,粉剤や粒剤 を動力散布機(背負い式動力散布機が主体)により散布 することが広く行われている。粒剤は,粒子径が
300
〜1,000μ m
以上と,慣行ノズルの噴霧粒子よりも大きいので,物理的にドリフトのリスクは極めて低く,噴霧粒子 のように作物体表面への薬剤付着は物理的にし難いた め,作物の根から吸収され,作物体各部に浸透移行する タイプの薬剤に利用されて,広く普及している。したが って作物体に直接付着することにより,防除効果を得る タイプの薬剤には利用しにくい剤型である。一方,粉剤 粒子(一般的に普及している
DL
粉剤の場合)の粒子径 は20μ m
程度と慣行ノズルの噴霧粒子よりも微細な粒 子で構成されているため,作物体表面への薬剤付着が期 待でき,作物体に直接付着することにより,防除効果を 得るタイプの薬剤に利用されている。一方でドリフト発 生のリスクが大きいことが示されている(斎藤,2002)。このように,慣行ノズルを用いた液剤散布や,動力散 布機で
DL
粉剤を散布する作業において,人為的に自然 風の影響を受けないように常時コントロールすることは 不可能であるため,ドリフトを極力低減しつつ,安定し た防除効果を発揮できる散布技術や手法の開発が望ま れ,各方面で技術開発が行われ,近年,その実用化が進 んでいる。そこで,次章では,近年実用化された,ドリ フト低減に寄与する散布技術の事例を紹介する。II ノズルとドリフト低減技術
1 ブームスプレーヤに関するドリフト低減技術 前章で述べた通り,ドリフト発生の最大要因は散布粒 子の細かさとされている。図―2
に従来のブームスプレ ーヤ(トラクタ搭載式)による散布状況の一例を示すが,これに用いられている慣行ノズルは噴霧粒子が平均
60
〜
80μ m
程度と非常に細かく,ドリフト発生リスクが 高いことが認められる。農業・食品産業技術総合研究機構 生物系特定産業技 術研究支援センター(以下,生研センターという。現在 の農業技術革新工学研究センター)では,散布機メーカ ーおよびノズルメーカーと共同で,既存の国産ブームス プレーヤに装着可能な仕様で,慣行ノズルを用いた場合 に比べてドリフトの程度を
1/10
程度に抑制可能なドリ フト低減型ノズル2
種(図―3
)を開発している。同ノズルの
1
頭口タイプは,噴霧粒径がやや大きい(平 均300μ m
程度)扇形の噴霧を発生する仕様(前後方向 の噴霧角度を小さくし,ドリフト低減性能を重視),2
頭口タイプは,ブーム前方と後方の2
方向それぞれに異 なる粒径(平均350
と250 μ m
)の扇形噴霧を発生する 仕様(噴霧角度を拡大し,作物体への付着性能を重視)である。両ノズルは,いずれも,慣行ノズルに比べてド
図−3 ドリフト低減型ノズルによる散布状況(キャベツ,散布量200l/10 a)
2頭口タイプ(扇形噴霧)
1頭口(扇形噴霧)タイプ
図−2 慣行ノズル(中空円錐形噴霧)の噴霧状況
(キャベツ,散布量200l/10 a)
リフトを
1/10
以下に抑制可能な性能を有していること,また,水稲,畑作物,野菜等に対して,慣行ノズルと同 じ条件で使用しても,おおむね同程度の防除効果である ことが報告されている(宮原ら,
2008
)。1
頭口タイプ は平成18
年に,2頭口タイプは平成21
年にそれぞれ市 販化され,北海道などを中心に合計40
万個程度出荷さ れており,現場への普及が進んでいる。2 スピードスプレーヤに関するドリフト低減技術
(
1
) スピードスプレーヤ用ドリフト低減ノズル スピードスプレーヤ(以下SS
)は,大型送風機の風 でノズルからの噴霧を機体左右と上方向へ放出する機構 の散布装置を搭載した散布機である。また,SSの慣行 ノズルは,ブームスプレーヤと同じく,比較的粒径の細 かい,中空円錐形の噴霧を発生するノズルである。この ため,リンゴなどの樹冠内の隅々まで薬液を付着する性 能をもつが,その反面,広範囲に噴霧粒子を放出するこ とから,ドリフト発生リスクが大きい散布機でもある。そこで,生研センターでは,SS本機メーカーおよび
ノズルメーカーと共同で,SS用のドリフト低減型ノズ ル(図―4)の開発を行った。
このノズルを,SSに装着し,ドリフトが発生し易い 園地境界付近での散布試験を行ったところ,ドリフト低 減効果と付着性能および防除効果等について実用的な性 能であることが確認された(図―5)(水上ら,2010)こ とから,実用化の運びとなり,平成
26
年度より市販化 されている。(
2
) 棚栽培用ドリフト低減型散布機ナシなどの棚栽培果樹においても
SS
が広く利用され ているが,園地が市街地に近接して立地する場合が多 く,ドリフトとともにSS
の発する騒音の低減が課題と されてきた。そこで,生研センターでは,SS本機メー カーおよびノズルメーカーと共同で,現行の棚栽培用SS
をベース機として,より低騒音(低風量)の小型送 風機とブーム状の散布装置を組合せた,新たな農薬散布 機を開発した(図―6)。この散布機のブーム型散布装置は,棚方向(上向き)
図−4 SS用ドリフト低減型ノズルを使用した散布作業
100 75
50 25 0
感水紙付着液斑の被覆面積率︵%︶
2.5 5 7.5
圃場境界からの距離(m)
10 12.5 15
風向
A トラップ方向 A’ おおむねトラップ方向 試験地:長野果樹試
550l/10 a 慣行ノズル
550l/10 a 開発ノズル
450l/10 a 慣行ノズル
450l/10 a 開発ノズル A’
A
図−5 SS用ドリフト低減型ノズルのドリフト低減効果試験結果の一例
に噴霧ノズルが装備され,棚面の樹枝に対して近接して 噴霧粒子を散布する。さらに,小型送風機からの風で噴 霧粒子を棚上方の樹枝先端まで付着させることができ る。同散布機は,圃場試験などによりドリフト低減およ び防除効果について実用性が確認され,平成
24
年より 市販化され,徐々に導入が進みつつある。III 粉剤に替わる新剤型でのドリフト低減散布技術
水稲栽培における病害虫防除では,粉剤(
DL
粉剤)が利用される場面も多かったが,前述の通り,微細な粒 子によるドリフト発生のリスクが大きく,その対策が求 められてきた。
そこで,(一社)日本植物防疫協会では,農薬,防除 機メーカーおよび公的機関等と協力して,粉剤に比べて 大幅にドリフトを低減できる剤型,すなわち「微粒剤
F」
の規格に対応する薬剤の開発を進めている。同剤型は,
粒径が
60
〜200μ m
とこれまでの粉剤(いわゆるDL
粉 剤)の粒径に比べて3
〜10
倍であり,ドリフトの低減 とともに作業者の農薬被曝を回避する効果が高いことを 特徴とする。また,同剤型は,従来の粉剤や粒剤と同じ く,背負い式動力散布機(ただし,同剤型専用の多口ホ ースや噴管の装着が必要)で散布できる。同剤型でこれ までに複数の薬剤が登録されており,今後も登録薬剤の 追加が検討され,普及拡大を目指して取り組みが進めら れている。IV 今 後 の 展 望
我が国で最も普及している農薬散布機である動力噴霧 機には,前出の表の通り,背負い式や可搬式に加えて,
自走式乗用大型散布機であるブームスプレーヤや
SS
に 至るまで,非常に多くの機種がある。これら動力噴霧機 による液剤散布の特徴の一つが多量散布(10 a当たり散 布量が50
l以上)であることにある。多量散布は,低濃 度成分の散布液を十分量用いて,作物体全体に薬液をムラなく付着させる技術であり,安定して高い防除効果を 得ることが可能な散布技術といえる。
一方,我が国に比べて圃場規模が大きい欧米諸国の畑 作地域では,大型で自走式の散布機による少量散布(
10 a
当たり散布量が50
l未満)が定着している。少量散布は,一定面積の散布に必要な薬液量が多量散布に比べて少な いことから,高能率,省力的で,稼働面積の拡大や低コス ト化が可能となり,大規模経営に適した散布技術といえ る。我が国でも,水稲用には
30
種類程度の農薬が少量散 布用として登録されており,北海道の水稲作地域では,乗用管理機に搭載する方式のブームスプレーヤ(散布量
25
l/10 a
で速度連動式の噴霧装置を搭載)による水田内 防除がかなり一般的に行われるようになってきた。全国 的に水田などの規模拡大が進む中,今後は本州各地に普 及拡大が期待されている。また,ブームスプレーヤが既に 広く普及している北海道の大規模畑作地域では,規模拡 大が進み,少量散布の特徴を活かした散布作業の高能率 化が強く求められている。これを受けて,少量散布用農薬 として,テンサイ・小麦・ばれいしょ等の畑作物に対して 複数の薬剤が登録されているが,生産現場では,さらに 多くの薬剤の登録と適用作物の拡大が要望されている。お わ り に
ポジティブリスト制度施行後,現在に至るまで,懸念 されたようなドリフトを起因とする農作物への危被害の 問題は報告されていない。これは,生産現場関係者なら びに防除関係各方面の多大なる努力によるものと考えら れ,散布機開発にかかわる者として,これまで尽力され た皆様に深く敬意を表したい。しかしながら,農薬を使 用する現場においては,作業者への安全性とともに環境 負荷低減やドリフト防止への配慮が引続き必要である。
このため,これまでの対策や研究開発の成果は,一般的 な散布技術として現場に定着してこそ本当の成果といえ る。それまでには,いまだ多くの課題が残されているが,
各方面での取り組みが今後実を結び,より大きな進歩が 生産現場にもたらされることに期待したい。
引 用 文 献
1)宮原佳彦ら(2008): 平成19年度生研センター研究報告会資料 : 29〜39.
2)水上智道ら(2010): 平成21年度生研センター研究報告会資料 : 33〜43.
3)日本植物防疫協会(2010): 農薬飛散対策技術マニュアル,平 成21年度IPM技術評価基準策定・情報提供委託事業/周辺 作物飛散影響防止対策基準策定事業報告書,
http://www.maff.go.jp/j/syouan/syokubo/gaicyu/g_nouyaku/
manual/index.html
4)斎藤武司(2002): 第22回農薬製剤・施用法シンポジウム講演 要旨 : 41〜63.
図−6 棚栽培用ドリフト低減型防除機