信州上田獨股山前山寺所蔵聖教調査報告(伊藤)
抄録 本稿は長野県上田市の真言宗智山派獨股山前山寺所蔵の聖教についての調査研究の成果の一部を報告するものでる。
前山寺は近世に信州四箇檀林の一つとして数えられ、多くの学僧が研鑽した歴史を有していることから、前山寺に所蔵される聖教・文書(以下、史料)の調査から、地方檀林としての活動や、当時における本山智積院との関わり、そして地域における役割など、近世地方寺院の様相を明らかにしたいと考えている。
前山寺史料の整理分類の結果、その数量は文書箱にして五十箱、点数にして約二千五百点を数えることが判明した。文書箱の第一箱には前山寺史に関わる貴重と思われる写本(十部四十八点)を収めており、その中には中世史料も含まれている。本稿では、この第一箱の史料について紹介しつつ、奥書から窺われる前山寺史を明らかにする上で興味深い情報について示した。また、史料紹介の便宜上、前山寺の開基縁起を記した巻子本『起立書』を翻刻し掲載している。
一 はじめに
本研究で扱う獨股山前山寺(長野北部教区 寺籍五十八番)は、近世において信州四箇檀林の一つに数えられ、多の学僧が研鑽した歴史を有していることから、前山寺に残された聖教・文書(以下、史料)の調査から、近世の地方
信州上田獨股山前山寺所蔵聖教調査報告
―中世聖教を中心として―伊
藤
尚
徳
智山学報第六十八輯
林としての姿や、当時の本山との関わり、そして地域における位置・役割など、近世地方寺院の様相を明らかにしたい。
調査開始の当初、前山寺史料については分類整理がされておらず、前山寺本堂の倉庫の棚に平積みにされており、虫菌害に晒されている状況であったことから、はじめに写本・版本の分類と整理から取りかかり、そのほとんどを中性紙の文書箱に収納し、棚に収めた。その際、史料に堆積していた塵埃を丁寧に掃除すると共に、文書箱内には防虫剤を封入したが、整理の結果、前山寺史料は文書箱にして五十箱、点数にして約二千五百点を数えることが判明した。
前山寺の史料は『真言宗智山派所属寺院 聖教・史料撮影目録』において紹介されるが、わずかに聖教一点、文書二点が採録されるのみである。しかもそれらは前山寺の書庫には確認できず、同教区の同名別寺である前山寺(長野北部教区 寺籍十一番)の聖教・史料が誤って採録されていることが判明した。
また、前山寺書庫には平成十七年に大正大学大学院生をチームとした調査が行われた記録が残されていたが、主に密教写本の撮影を中心としたものであり、前山寺所蔵史料の全貌については、これまで未調査・未整理であったといえる。そのため、将来における研究の便宜をはかるため、調査と平行して詳細目録の作成を目指している。現在、史料の所在把握と目録作成のため、文書箱には仮の箱番号を付与し、個々の史料番号についても調査段階で順次付している。
文書箱への収納については、基本的に元々書庫に収められていた現秩序を維持しながら収めたが、特に第一箱には前山寺史に関わる貴重と思われる写本(十部四十八点)を収めており、その中には中世史料も含まれている。本稿では、この第一箱の史料について紹介する。
二 前山寺聖教第一箱について
前山寺聖教第一箱に収めた史料の略目録を以下のとおりである。史料の形態はすべて粘葉装である。なお、調査の段階で法量も計測済みであり、表紙の記述・内題なども記録してあるが、本稿では紙幅の都合で史料番号・枝番号・史料名(外題)・奥書のみを示す。
信州上田獨股山前山寺所蔵聖教調査報告(伊藤)
史料番号枝番号史料名(外題)奥 書
①
1釈摩訶衍論巻第一 于時貞享三丙寅年八月中旬書写之畢、/信州小縣郡小泉庄倉舛山観音寺仏殿下ニ而見出/釈摩訶衍論九巻之条破巻故補書之/後見之賢聖一遍御廻向可預者也俊祐四七歳敬白2釈摩訶衍論巻第二泉州家原寺/隆盛3釈摩訶衍論巻第三4釈摩訶衍論巻第四5釈摩訶衍論巻第五久安五年己巳五月十日午尅移点已畢※(梵字)/(以下判読不能)6釈摩訶衍論巻第六7釈摩訶衍論巻第七8釈摩訶衍論巻第八9釈摩訶衍論巻第九正応三年八月卅日於根香寺/宝生房書写畢 僧真浄 10
釈摩訶衍論巻第十
②
1
大毘盧遮那経巻第一前山寺法印秀泉代求之
2
大毘盧遮那経巻第二永徳三年十二月廿四日書写畢/右筆金資松栄〈受生/廿六〉
3
大毘盧遮那経巻第三前山寺法印秀泉代求之
4
大毘盧遮那経巻第四前山寺法印秀泉代求之
5
大毘盧遮那経巻第五前山寺法印秀泉代求之
6
大毘盧遮那経巻第六「前山寺法印秀泉代求之」「一校畢」
7 大毘盧遮那経巻第七 (本奧書)観応二年八月一日書写功終之(註略)」(書写奧書)永徳第四暦甲子初月晦日遂書写了〈執筆行年七十五才 老眼之間/文字■(言+比)謬落字多有之歟■■之〉(伝領奧書)前山寺法印秀泉代求之
③
1大毘盧遮那経疏巻第一前山寺法印秀泉代求之2大毘盧遮那経疏巻第二前山寺法印秀泉代求之3大毘盧遮那経疏巻第三前山寺法印秀泉代求之4大毘盧遮那経疏巻第四前山寺法印秀泉代求之5大毘盧遮那経疏巻第五前山寺法印秀泉代求之
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③
6大毘盧遮那経疏巻第六前山寺法印秀泉代求之7大毘盧遮那経疏巻第七前山寺法印秀泉代求之8大毘盧遮那経疏巻第八前山寺法印秀泉代求之9大毘盧遮那経疏巻第九前山寺法印秀泉代求之
10
大毘盧遮那経疏巻第十前山寺法印秀泉代求之
④
1金剛頂瑜伽経〈巻第一〉2金剛頂瑜伽経〈巻第二〉「前山寺常住俊祐求之」「元禄五壬申天五月一日」
⑤
1蘇悉地羯羅経巻第上前山寺法印秀泉代求之2蘇悉地羯羅経巻第中前山寺法印秀泉代求之3蘇悉地羯羅経巻第下前山寺法印秀泉代求之
⑥
1秘鈔第一巻口決〈廿七巻之内〉2秘鈔第一巻口決〈廿七巻之内〉3秘鈔第一巻口決〈廿七巻之内〉4秘鈔第二巻口決〈廿七巻之内〉5秘鈔第三巻口決〈廿七巻之内〉6秘鈔第七巻口決〈廿七巻之内〉7秘鈔第八口決〈廿七巻之内〉8秘鈔第十三巻口決〈廿七巻之内〉9秘鈔第十三巻口決〈廿七巻之内〉
10
秘鈔第十六巻〈廿七巻之内〉
11 秘鈔第十七巻口決〈廿七巻之内〉 元亀三天五月廿二日/於髙野山ニ書也為二利之信州坂住僧陽学坊書畢 12 秘鈔第十八巻口決〈北斗 廿七巻之内〉⑦1(尾題)秘蔵宝鑰巻上⑧1(尾題)吽字義⑨1(端裏書)※※(ユギ)灌頂之印信 右於信州前山寺灌頂道場/授与斯ノ如ク畢/永禄七年甲子六月廿一日/伝授大阿闍梨位法印秀泉(花押)⑩1(端裏書)伝法灌頂印信 右於信州小縣郡塩田庄前山寺灌頂道場/授両部灌頂訖/天正十六年戊子十月廿八日/伝灯大阿闍梨位権大僧都法印俊海
信州上田獨股山前山寺所蔵聖教調査報告(伊藤)
三 前山寺起立書について
はじめに史料紹介の便宜を図るため『前山寺起立書』(以下、起立書)の翻刻を示しておく。起立書は、前山寺の基にまつわる縁起と歴代住持の名が記された縦二七・七センチの巻子本である。巻子全体の長さは測定していない。書体・紙質などから近世に製作されたものと確認できるが、後半部は近代に付加されている。なお、裏書は表書に対応して注釈として記されている。【オモテ】 前山寺起立 ※文中( )は朱筆信刕小縣郡塩田庄前山郷在之獨股山者往昔弘法大師開闢地岩屋護摩修行在霊場煙滿石前在加持涌出霊水数日旱魃不絶洪水不増不思議之霊水也本初院者初者本初之深義也亦在地蔵院在華藏院有法藏坊小野義範門第 (ママ)善通寺宥範上人之附第 (ママ)長秀上人尋勝地建立伽藍発願經論䟽釋荷負駿馬趣東國于時至中國信州東山而四箇勝地求得㝡初小縣郡獨股山來止坐事明白也此寺造功末終長秀上人更科行給故嫡第 (ママ)祐俊畄住當寺 【ウラ】弘仁年中ヨリ古義真言宗根嶺開闢迠不絶其間ヲ法藏坊トモ花藏院トモ地蔵院トモ祐俊ヨリ始テ新義ト成ル 四箇談所者 前山寺第一
更科郡赤田 専照寺第二 垣科郡寺尾杵渕山福福寺第三 髙井郡馬隠蓮生寺第四駿馬隠故云馬隠生蓮 故云蓮生寺ト 福沢公方万松院殿時ハ分散シテ前山ニ福沢石神ニ吉沢松本ニユ藤 後加ニ宮沢本郷ニ幸田五家ト成故甲斐信玄召福沢禁籠 故四家自滅却ト云云 七堂伽藍建立ノ大壇那當郡探題北条某也此人鎌倉 入道高時一類故ニ改氏今福沢殿ト云家人宮沢甲 幸田ト云者
智山学報第六十八輯
七堂伽藍造営成就故影像表讃曰
祐俊上人 前山寺阿闍梨祐俊者越後國妻有庄 所生幸奉値偶于善通宥範上人忝蒙同裏書曰 印可烈密弟事誠前業之所催也真海記之遷化應永三年丙子春秋七十二歳云云
當寺々僧始ハ法藏坊今ハ正法院ト云乙丑年ニシテ當年七十二才此人十九 (八)ノ年 辛 (壬午)未二百年忌ヲス經ノ頭ヲ致候當年丙子ニテ七十二才ニナリ玉フ云云次ノ年戊 (癸未)申ノ年ヨリ五 十三 (四)年ニ相成候慶長五年庚子二百五十三 (八)年ニ儀定不可疑真海如此定云云
三宝院従弘法十五代目勝賢弟子実賢成賢二人ノ御弟子三宝院ト
尾州ノ大須ト両門中実賢方成賢方ト云今ニ此也成賢頼賢慈猛
頼尊宥範長秀祐俊俊範重清廣宥宥鏡重範
祐明明秀秀泉真海俊海十七代也
俊範 影像替曰 俊範阿闍梨者信州所生 奉遇祐俊大阿闍梨蒙事 教印可専佛法弘通崇師 恩不可勝計應永三十一年 正月廿一日春秋四十五歳云云
重清 遷化正元年戊申二月二十一日 有リ此仁等爲末孫盛栄建此寺宇ヲ云云 康永元壬午年也祐俊十九ノ年根来寺開山二百年忌役者也故 開山大師二百年忌ハ祐俊十九ノ年也 血脉 真言宗傳法潅頂相承
大日如来 金剛薩埵 竜猛 竜智 金智 不空 惠果 弘法 真雅 源仁 聖宝 観賢 淳祐 元杲 仁海 成尊 義範 勝覚 定海 元海 明海 勝賢 成賢 頼賢 慈猛薬師寺長老 頼尊 宥範 長秀 祐俊 任少僧都鶏足寺学頭應永三年ヨリ文政四辛巳年迠凡四百二十七年也
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廣宥 嫡第宥真中禅寺開基也 潅頂支度記宥自筆永享六年甲寅書記 遷化宝徳元己巳四月廿一日 祐鏡 遷化文明十年戊戌五月廿一日 重範 遷化文亀元辛酉年六月廿一日 祐明 遷化永正七年庚午十一月廿一日 明秀 遷化大永七年丁亥四月廿八日未尅七十七歳 秀泉 八祖十二天両界絵什宝寄附 遷化天永(正)年(中)十二月十二日 真海 江刕甲賀里所生甲賀氏人也若年而謂父母親族 曰我紀州登(根)嶺学業功績義名誉揚天下者再皈国セン 不尓者是迠云云誠志願不空根来(寺)而学頭被撰 然共眼病故當國下住當寺祈雨霊驗甚希有
也数度行給ニ一度モ(無)不空或年越後矢彦山ニモ三年住 天正十三年根来寺破滅後當國下給見ヘタリ 事教兼備仁故本寺鶏足寺初法談砌参入事訳精義也 則其時出仕赫免云云 真海代信玄公十九貫文朱印被下又浅岡山乞請給云云
智山学報第六十八輯 終祈雨滿國中長尾謙信殊更尊崇ス尓ドモ甲 斐信玄依招請亦皈住當寺慶長五年子九月 十二日於馬上如眠遷化 俊海 元和七辛酉二月廿一日於開善寺遷化 俊翁 寛永廿一甲申十一月廿一日於中禅寺遷化 頼慶 花藏院休坊ヲ宗吽寺ト号嫡弟堯印坊住之 遷化慶安四年辛卯六月廿七日 幸祐 開東上田寺数箇所住持此代有争論 遷化延宝六戊午九月十二日八十四歳 教筭 延宝七己未六月十五日於長久寺遷化六十七歳 幸傳 遷化天和三癸亥二月十三日四十九才 圓如 如是代々住侶雖無疑法流血脉雑乱脉腑者意教
法流者勧修寺方也是故歎乱脉改本寺願正脉依之 下之郷ユ藤数馬介嫡子中禅寺隠居 上田所生 佐久郡小田井所生 中禅寺西光寺末寺否公事有末寺治定故両寺脱衣追放 佐久郡前田原所生
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従其年(元禄)四年至元禄七戌迠本寺足利鶏足寺離末而従 其年初至同十一寅年漸爲京智積院末寺翌年卯正月 法脉相續印可者三重瑜祇無残所者也法流竪印信 横大事皆悉傳受血脉中性院脉物状附法状共収 桐三重箱珍重々々俊祐四十一歳 俊祐 貞享四卯年上京初重印可次辰年二重印可 元禄三年又上京三重印可次未瑜祇印可シテ附法
可有節僧正病気終酉春遷化又更次俊鑁モ 隠居給又従丑年上洛在江戸漸々以卯正月七日 夜法脉傳属畢 初法談執行大衆百二十八人 潅頂執行 遷化享保十二未天二月廿九日 祐英 俊祐嫡第 享保十九甲寅天三月初八日於智積院遷化
榮敞 牛伏寺栄光嫡第 遷化 元文二丁巳年二月二十五日
雲澄 松本熊井里所生里所生大和氏上条常光寺ヨリ移轉 甲州所生江田氏 小泉所生小泉小次良末
智山学報第六十八輯 遷化寛延二己天二月十七日 憲阿 松本本町所生大野氏牛伏寺栄光末第始 常樂寺住次ニ諏訪照光寺轉住今寛延二 巳九月十日當山住職宝暦八寅年枩本 牛伏寺移住安永九子天三月廿四日遷化 榮勝 松本野溝邑所生田中氏㝡初師迹牛伏寺末 松林寺住職後諏方三精寺移住後本寺六波羅 普門院依仰頼和田菩薩寺移轉其後宝暦八 寅年十月四日當山轉住安永三午四月四日寺務ヲ譲 嫡第憲栄退隠天明六丙午十月(十)四日遷化春秋 八十一歳 憲榮 榮勝嫡弟始手塚寳藏寺住安永三年 當山轉住天明四辰天九月二日入滅 快隆 栄勝資天明四年(當山)住職寛政十年午九月
摂州吹田藥師院ヘ退隠松本野溝村人也 松本新村岩間氏所生
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弘範 西光寺弘清嫡弟始西光寺住寛政十年當山 轉住文化二年真光寺退休 文政十三年庚寅年八月三日滅真光寺ニ葬ス 弘賢 弘範嫡弟文化二年従西光寺當山轉住 文化十二亥冬真光退老師ト同屋 榮應 生所松本領蟻ヶ崎邑之人小野氏牛伏寺 憲宥附弟本山前側席轉昇文化元子年 下向熊井村常光寺住職文化十二亥冬 十一月依門壇招請當山轉住 文政十三庚寅天閏三月庫裏再建 天保四癸巳三月 高祖大師千年忌取越ニ付テ 傳法潅頂執行
鑁泉
憲泰 生所松本三千石赤木村ノ産本山後側席化主様
以御目鏡當山住職 天保拾年十月十日遷化
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憲道
憲秀
廣源 慶應三年十一月十五日東筑摩郡片岡村所生 牛伏寺榮順附弟明治廿年五月新義派大 學林卒業明治二十五年一月二十二日当山住職ニ 就任大正八年六月十六日牛伏寺ヘ轉住昭和四年 十月十四日同寺ニ於テ遷化世壽六十三才 榮知 明治二十四年十月二十九日東筑摩郡片岡村所生 明治四十二年三月上田中學校卒業大正元年九月 私立大學智山勧學院卒業大正四年三月華嚴學 専攻留學生トシテ奈良東大寺在山三年 大正七年十月私立大學智山勧學院助教授大正十二年 三月教授昇任退職 昭和十一年九月智山専門學校學 監兼教授就任昭和十九年九月退任昭和十八年四月大正大 學教授同二十二年九月退職 大正八年六月十六日当山住職拝命昭和四年四月一日菩 提院結集昭和廿八年二月二十八日集議席昭和三十年七月
廿五日大僧正昇輔 松本片岡村北内田中島源兵末 三男
昭和二年十月宗会議員当選同五年副議長 昭和廿七年十二月末従代表会議員同二十八年二月末徒代表会議長 昭和三十一年四月宗機顧問同日智山派責任役員 昭和十一年五月十日三重塔落慶供養 昭和十年十一月山門移築
( 大門村宮坂氏ヨリ買受甲田英勝氏寄進 片岡村北内田中島田夛治三男 廣源 甥 昭和三十六年六月二十九日紀州総本山根来寺大伝法院第三十四世座主就任
昭和四十一年十月二十八日 遷化
信州上田獨股山前山寺所蔵聖教調査報告(伊藤)
以上、起立書に基づいて前山寺の歴代を記すと次のようになる。
宥範―長秀―祐俊(開基
第一世)
―俊範―重清―廣宥―祐鏡―重範―祐明―明秀―秀泉(第九世)―真海(第十世)―俊海(第十一世)―俊翁―頼慶―幸祐―教筭―幸傳―圓如(第十七世)―俊祐(第十八世)―祐英―榮敞―雲澄――憲阿―榮勝――憲榮―快隆―弘範―弘賢―榮應―鑁泉―憲泰―憲道―憲秀―廣源―榮知
起立書によれば、前山寺の開基は遍智院僧都小野義範(一〇二三―一〇八八)の門弟とされる香川善通寺の中興である宥範(一二七〇―一三五二)の弟子、長秀上人が伽藍を建立するにあたって東国に勝地を求めたところ、獨股山の霊地を選び、寺を建てたことに始まる。長秀上人は前山寺を建立した後、更科に移転することになったため、弟子であった祐俊に前山寺を委嘱した。祐俊は前山寺に七堂伽藍を建立したと伝えられており、起立書においても実質的な開基として初代にあげられている。本稿で紹介する第一箱史料は、上記の歴代系譜の中、四角で囲んだ第一世祐俊、九世秀泉、十世真海、十一世俊海、十七世圓如、十八世俊祐に関係するものである。
四 『大日経』
/ 『大日経疏』 / 『蘇悉地羯羅経』 について (略目録 史料番号②・③・⑤)
標題の三点は「初代祐俊筆」と墨書された包紙にまとめられていたことから、代々にわたって他の聖教とは区別され珍重されてきたことが窺えた。祐俊は前山寺に七堂伽藍を建立したと伝えられており、起立書においても実質的な開基として初代にあげられている。
起立書には祐俊の影像があったことが伝えられ、その讃には「越後国妻有庄所生」とあり、應永三年(一三九六)に七十二歳で遷化したと記されることから、数え歳で生年を遡れば正中二年(一三二五)ということになる。また起立書の祐俊の条には真海(前山寺十世)による付記があり、祐俊は十九歳(一三四三年)にして二百年忌(おそらく興教大
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師覚鑁の御遠忌法要)が開かれた際、経頭をつとめたことが記される。
當寺々僧始ハ法藏坊今ハ正法院ト云乙丑年ニシテ當年七十二才此人十九 (八)ノ年辛 (壬午)未二百年忌ヲス經ノ頭ヲ致候丙子ニテ七十二才ニナリ玉フ云云
次ノ年戊申ノ年ヨリ五/十三年ニ相成候 (癸未)(四)
※()は朱筆 賢方ト云今ニ此也成賢頼賢慈猛/頼尊宥範長秀祐俊俊範重清廣宥宥鏡重範/祐明明秀秀泉真海俊海十七代也 疑真海如此定云云/三宝院従弘法十五代目勝賢弟子実賢成賢二人ノ御弟子三宝院ト/尾州ノ大須ト両門中実賢方成 慶長五年庚子二百五十三年ニ儀 (八)
文中の朱筆は祐俊十八歳の年(一三四二年)で干支を訂正してあるが、いずれにしても祐俊が南北朝期の人物であることがわかり、 祐俊筆の史料が中世のものであることがここから確認できる。なお、後半の法流についての記真海とその弟子の俊海まで十七代の法流を示したものであるが、祐俊の師である長秀上人の、そのまた先師である善通寺の宥範は、意教上人頼賢の付法である慈猛(一二一二―一二七七)が法灯を伝えた足利鶏足寺の頼尊より法流を相承していることから、前山寺の法流は、三法院流の一法流である意教流慈猛方(善通寺宥範相承)を伝えていたことがわかる。(2)特に祐俊以降の法流相承については鶏足寺との関係が強かったことが想像される。
さて、当該史料の『大日経』七巻(史料番号②)、『大日経疏』十巻(史料番号③)、『蘇悉地羯羅経』上中下三巻(史料番号⑤)については、全てにおいて表紙右下に「祐俊」と記され、同じく表紙中央下に「持主秀泉」とあることから、もともと祐俊の所持していたものを後代に秀泉が引き継いだということがわかる。起立書によれば、秀泉は天正年間に遷化したとあり、祐俊・秀泉の生没年からも、これらの史料が中世文書であることが確認できるが、このなか『大日経』巻二の奥書には「永徳三年十二月廿四日書写畢/右筆金資松栄受生廿六」とあり、祐俊の時代の永徳三年(一三八三)に書写されたことが確定できる。
信州上田獨股山前山寺所蔵聖教調査報告(伊藤)
また同じく『大日経』巻七には本奥書に「観応二年八月一日書写功終之」とあり、書写奥書には「永徳第四暦甲子初月晦日遂書写了(執筆行年七十五才老眼之間文字(言+比)謬落字多有之歎■■之)とあることから、本書については観応二年(一三五一年)に書写されたものが、永徳四年(一三八四年)に写されたということがわかる。
永徳四年は祐俊が還暦の年であり、このとき七十五才で書写した人物については確認できないが、祐俊よりも年輩であることから、想像を逞しくすれば祐俊の師である長秀上人筆の可能性も考えられる。
以上に記した『大日経』巻二・巻七以外の奥書には共通して「前山寺法印秀泉代求之」と記されているのみで、他に特徴的な記載はみられないものの、これらの聖教が前山寺初代の祐俊所有のものであり、かつ南北朝時代の史料として、前山寺聖教のなかでも価値の高い史料であると評価できる。
五 「灌頂印信」について(略目録
史料番号⑨・⑩)
第一箱に収めた灌頂印信の二通のうち、一通(史料番号⑨)は内題に「瑜祇經灌頂/真海大法師」とあり、奥書に以下のようにある。
右於信州前山寺灌頂道場/授与斯ノ如ク畢/永禄七年甲子六月廿一日/伝授大阿闍梨位法印秀泉(花押)
この奥書から、永禄七年(一五六四年)に前山寺を道場として瑜祇灌頂が開延されたことを示す重要史料である。このときの灌頂大阿は第九世秀泉であり、後に第十世となる真海に相承された。当時の法流も鶏足寺伝の意教流慈猛方であったことが推察される。また、起立書には秀泉が八祖・十二天・両界曼荼羅を寄付したことが記されることから、これらの宝物はこの瑜祇灌頂のために誂えたと思われる。もう一通(史料番号⑩)は外題に「伝法灌頂印信」、中に「灯大法師真秀」とあり、奥書は以下のようにある。
智山学報第六十八輯
右於信州小縣郡塩田庄前山寺灌頂道場/授両部灌頂訖/天正十六年戊子十月廿八日/伝灯大阿闍梨位権大僧都法印俊海
上記の灌頂から二十年後の天正十六年(一五八八年)に俊海から真秀に相承された伝法灌頂印信である。俊海は起立書に真海に継ぐ第十一世として確認でき、元和七年(一六二一年)に開善寺(現長野北部教区寺籍九十二番開善寺、あるいは同教区寺籍八十四番海禅寺か)にて遷化と記される。この灌頂の受者である真秀については起立書には確認できないため、詳しくは不明であるが、戦国期における前山寺の活動を示す格好の史料として位置づけられる。
六 俊祐書写『釋摩訶衍論』/『金剛頂瑜伽経』 (略目録 史料番号①・④)
『釋摩訶衍論』
(史料番号①)は十冊すべての表紙右下に「舜憲坊」とあり、尾題下に「主 舜宥之」とあり、はじめ舜憲の所有したものを後に舜宥が所持したことがわかる。舜憲・舜宥ともに人物不明であるが、巻一の奥書には十八世俊祐の書写したものであることが記されている。
于時貞享三丙寅年八月中旬書写之畢/信州小縣郡小泉庄倉舛山観音寺仏殿下ニ而見出/釈摩訶衍論九巻之条破巻故補書之/後見之賢聖一遍御廻向可預者也俊祐四七歳敬白
十八世俊祐が貞享三年(一六八六)で四七(二十八)才ということであれば、その生年は万治二年(一六五九)ということになり、また起立書には享保十二年(一七二七)に遷化とあるから六十九才の生涯であったことになる。起立書の俊祐の条からは貞享四年(一六八七年)から数年にわたって智積院において法流を相承していることがわかる。
信州上田獨股山前山寺所蔵聖教調査報告(伊藤)
貞享四卯年上京初重印可次辰年二重印可/元禄三年又上京三重印可次未瑜祇印可シテ附法/可有節僧正病気終酉春遷化又更次俊鑁モ/隠居給又従丑年上洛在江戸漸々以卯正月七日/夜法脉傳属畢 初法談執行大衆百二十八人/潅頂執行 遷化享保十二未天二月廿九日 詳細を窺うならば、俊祐は「貞享四年」(一六八七年)と「次辰年」(貞享五年―元禄元年
一六八八年)
の二年のうちに、初重・二重まで印可を受け、一度帰郷したようで、「元禄三年」(一六九〇年午年)に再び智積院に登り三重の印可、「次未」(元禄四年
禄六年 一六九一年)に瑜祇の印可を受けた。その後、正式に一流の附法を受ける予定であったが、「酉春」(
である。 一六九三年)に僧正が病気により遷化し、「次俊鑁」も隠居したために、一流相承の機会を逃してしまったよ ここにみえる酉年に遷化した僧正とは一見不明であるが、同年一月に遷化している智積院第八世信盛(一六二〇一六九三)とすれば、「次俊鑁」とは智積院第九世宥鑁(一六二四―一七〇二)の誤記ということになる。
宥鑁の事跡(3)をみると、同時代には徳川綱吉の護持僧であった豊山の護持院隆光(一六四九―一七二四)がおり、同じ新義である隆光との関係が強く影響していたようで、能化在職中の登城機会は少なくない。元禄六年二月に真福寺から智積院能化に就任して以降、四月には徳川綱吉の「周易」講釈を聴聞し、元禄七年三月に能化就任の御礼登城の後、四月にまた綱吉の講釈を聴聞し、五月に綱吉の命により「菩提心論」を講釈し、七月になってようやく京都に出立している。
宥鑁は元禄十年(一六九七年)三月に綱吉を拝謁し、五月に能化を退任隠居し、その直後に円福寺より智積院第十世として専戒(一六四〇―一七一〇)が晋山している。専戒もまた五月の御礼登城の後、七月に綱吉の「易」の講義を聴聞し、八月になってようやく智積院に向けて江戸を立っている。つまり元禄十年中、能化は三月から八月にかけて半年間は江戸にあって京都には在留していなかったということになる。翌元禄十一年も専戒は三月に参府し、綱吉に拝謁。
智山学報第六十八輯 四月には御前論議をつとめ、五月、六月、七月と続けて綱吉の講義を聴聞している。(4)
起立書の条にみえる「又従丑年上洛在江戸」とは、丑年(元禄十年
一六九七年)
になって俊祐は再び上洛したものの、能化が江戸にいて留守であったため、法流の附法がかなわなかったことを記していると考えられ、「卯年」(元禄十二年一六九九年
る十七世圓如の条にも記されている。 専戒能化)になってようやく法脈のすべてを相承したとされる。以上の顛末については、俊祐の前
如是代々住侶雖無疑法流血脉雑乱脉腑者意教/法流者勧修寺方也是故歎乱脉改本寺願正脉依之/従其年四年至元禄七戌迠本寺足利鶏足寺離末而従/其年初至同十一寅年漸爲京智積院末寺翌年卯正月/法脉相續印可者三重瑜祇無残所者也法流竪印信/横大事皆悉傳受血脉中性院脉物状附法状共収/桐三重箱珍重々々俊祐四十一歳
俊祐の前代、圓如までに前山寺は鶏足寺末の血脈(意教流)と、修行や法要に用いた実際の法流(この頃は勧修寺流だったか)が混乱していたことから、その整理統一をはかり、圓如と俊祐の尽力によって智積院に加末したことがわかる。このことから俊祐は前山寺法流(このとき中性院流)の中興として位置づけられよう。
さて、『釋摩訶衍論』巻一の奥書から、筆は貞享三年(一六八六)ということがわかる。俊祐が二十八歳で智登嶺する前年に書写したものであり、智積院登嶺前の修学に用いた可能性がある。この『釋摩訶衍論』は祐俊が所持するにあたり、はじめから十冊すべてが揃っていたわけではなかったようである。
巻二は奥書に「泉州家原寺/隆盛」とあることから、巻二はもともと一括のものではなく、欠巻であったものを補欠したと窺われる。また巻一の奥書にあるように、巻九は破巻していたようで、巻九については観音寺の仏殿下にあったものによって補欠したと記される。
巻九の奥書には「正応三年八月卅日於根香寺/宝生房書写畢 僧真浄」とあり、観音寺にあった当該書物は正応三年
信州上田獨股山前山寺所蔵聖教調査報告(伊藤)世信盛が不調のために、俊祐の法流稟受が叶わなかった頃に求められたものであることがわかり興味深い史料である。 瑜伽経』巻二の奥書は本文とは異筆であるが、「前山寺常住俊祐求之」「元禄五壬申天五月一日」とあることから、第八 また、『金剛頂瑜伽経』二冊(史料番号④)は表紙右下に「俊祐」の名が記されることから第一箱に収めた。『金剛頂 年(一一四七年)書写の当該書は、時代が確定できる前山寺聖教類の中で最も古く、歴史的価値の高い史料といえる。 完されたものであることがわかる。観音寺旧蔵の巻一とも異なり、どの時点でまとめられたかは不明であるが、久安五 また、巻五の奥書には「久安五年己巳五月十日午尅移点已畢※(梵字)/(以下判読不能)」とあり、巻五も後に 音寺、そして当時の本寺であった足利鶏足寺との関係が窺われる。 年間が宥範の生存年代と重なることから、宥範が足利鶏足寺に来山した際に伝来した可能性もあり、前山寺と同郡の観 その来歴については不明であるが、根香寺が前山寺の法祖である宥範ゆかりの善通寺や無量壽院に近いことと、正応 (一二九〇年)に香川県高松市の現四国八十八ヶ所霊場八十二番札所の根香寺で真浄により書写されたことがわかる。
七 その他
『秘鈔口決』/『秘蔵宝鑰』/『吽字義』
(略目録 史料番号⑥・⑦・⑧)
『秘鈔口決』
(史料番号⑥)については表紙右上に「教舜記」とあり、右下に「慶雄」と記される。起立書のなかに慶雄の名は見えず人物不詳である。ただし書写年代は確定でき、第十七巻口決の奥書に、
元亀三天/五月廿二日/於髙野山ニ書也為二利之信州坂住僧陽学坊書畢
と記されることから、元亀三天(一五七二年)に高野山で書写された中世文書である。
この他、『秘蔵宝鑰』巻上(史料番号⑦)と『吽字義』(史料番号⑧)については、書写年代は確認できないが、書体・紙質などから室町時代後期のものと判断した。
智山学報第六十八輯
おわりに
本稿では、調査から判明した前山寺の重要史料(第一箱)について紹介した。このなか『大日経』『大日経疏』地羯羅経』は前山寺開基祐俊にかかる史料であり、また「灌頂印信」二通からは前山寺を道場として瑜祇・伝法灌頂が執行されたことがわかり、いずれも前山寺史の上から特に貴重な史料である。
また、十八世俊祐が補欠して揃えられた『釋摩訶衍論』は、主に近世期のものであるが、一部には平安後期の史料も含まれており、その史的価値は非常に高い。俊祐は血脈と法流の整理統一のために、智積院加末に尽力した人物である。起立書からは、俊祐が瑜祇の印可まで受けながら、当時の智積院能化の事情により、その後の附法が遅々として進まず、一方で鶏足寺離末手続きを進めながら、数年間の涙ぐましい努力の結果、智積院加末が果たされたことが窺われる。
法流を中興した俊祐は、前山寺史を考察する上で一つの画期として位置づけられ、本研究の目的の一つに掲げた前山寺と智積院との関わりは、俊祐以降の近世史料の調査が中心となってくると考えられる。
今回の報告した史料以外にも中世聖教と思われる事相関係の史料を数点確認しているが、それらは一括として別箱に収めている。今後も原史料調査を継続し、詳細目録を作成しつつ、前山寺の地方檀林としての位置と役割について明らかにしていきたい。
註(1)本稿は平成二十八年度
智山勧学会奨励研究
「近世における地方檀林の様相―信州四箇檀林
前山寺史料を手掛かりとして―」
の成果の一部を報告するものである。智山勧学会の助成により、円滑に調査研究を進めることができたことをここに記く謝意を表したい。(2)『密教大辞典』縮刷版 付録十二頁
(法藏館
一九八三年)
信州上田獨股山前山寺所蔵聖教調査報告(伊藤)
(3)『智山年表〔近世編〕』二四六頁―二五八頁
(真言宗智山派宗務庁
二〇一四年)(4)『智山年表〔近世編〕』二五八頁―二六四頁 (真言宗智山派宗務庁
二〇一四年)
キーワード:上田市、前山寺、智積院、中世、聖教、檀林、起立書