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『〈時〉と〈鏡〉 超越的覆蔵性の哲学──道元

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Academic year: 2022

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と性起││華厳教学の比較思想論的究明││﹂から第三章﹁明治期アカデミー哲学の系譜とハイデガーに於ける形而上学の問題││如来蔵思想とユダヤ・ヘブライ的思惟の収斂点││﹂までは︑ハイデガーの思索が底流となりながら︑道元︑西田︑華厳教学︑大乗起信論︵特に如来藏思想をめぐりつつ体用の論理︶が詳細に論じている点にある︒しかしながら︑第三章では︑ハイデガーからヘブライ語の分析や創世記の考察へと展開して︑更にヘブライ的伝統とハイデガーの思索との連接を説き︑第四章﹁永遠とイマージュ││直接性と媒介性││﹂になると︑東方正教会についての考察とイコンが突如として出てきて︑趣をまったく異にする︒しかし︑﹁イマージュにおける神の内在とその覆蔵的超越性﹂︵一七三頁︶なる概念でもってすれば︑それまでの三章との繋がりをある程度は見いだせる︒ところで︑これらの諸章のうち︑第一章は﹁︿時﹀と︿鏡﹀﹂という題からも察せられるように︑本書全体にとって枢要な位置を占めているので︑着目しておこう︒第一章は誠に多岐にわたる展開を伴った論攷であり︑簡単にまとめられないが︑敢てそれを試みることにする︒

  道元の衣鉢を継承した螢山紹瑾の評釈﹁我の與なる︑大地有情なり︒與の我なる﹂から始まるので︑道元が考察されると思いきや︑この﹁與﹂のもつ同時性をハイデガーの﹁性起Ereig-nis﹂と結びつけて︑︿時﹀との関わりへと展開する︒その際に著者が手懸かりにしているのが﹁送遣﹂という概念である︒その﹁露開しつつ︱覆蔵する送遣 1﹂は既在と将来を現在において﹁拒絶し留保している﹂が故に︑︿時﹀の原初であり︑また後に 井上克人著

﹃︿ 時 ﹀ と ︿ 鏡 ﹀   超 越 的 覆 蔵 性 の 哲 学

││ 道元・西田・大拙・

   ハイデガーの思索をめぐって ││

関西大学出版部 二〇一五年三月刊A5判  +四三五+二五頁  四五〇〇円+税

松  丸  壽  雄   本書を一読して気づくことは︑道元︑西田幾多郎︑日本ならびに中国の漢籍・禅籍︑華厳教学︑ハイデガーを実に広範に著者が読んでいることである︒その範囲は︑時にはギリシァ・ヘブライ思想︑そしてサンスクリット文献にまで及ぶ︒著者の文献渉猟には目を瞠るものがある︒この広範にわたる文献を駆使して︑真実在あるいは真如の性格とされる﹁超越的覆蔵性﹂が︑洋の東西を跨ぐ汎概念として通用することを見いだそうとしているように見える︒それ故︑この書の意図はきわめて壮大な構想を蔵していると言える︒

  ﹁道元の禅思想︑西田幾多郎の哲学︑華厳教学︑ハイデガーの思索︑そしてイコンをめぐって︑そこに通底するものを探ってみた﹂︵﹁はじめに﹂ⅲ頁︶と著者が言う第一編は﹁︿時﹀と︿鏡﹀︑そして︿イコン﹀﹂と題されている︒この篇に収録されている諸論文の大きな特徴は︑第一章﹁︿時﹀と︿鏡﹀││道元・西田・ハイデガーの思索をめぐって││﹂︑第二章﹁縁起

(2)

次々と重要概念を繋ぎ合わせながら︑目まぐるしく話題が転換しており︑これに読者がついていくのは大変である︒だが︑この章にはこの書全体が予描されているので︑詳しく見た︒

  第二篇は西田哲学をその論理的基盤という観点から扱った六章からなっている︒著者の関心からすれば︑この篇には本書の中心的思索が集成されていると言える︒著者の基本的な立場は︑﹁西田が意図するところはあくまでも自覚的・反省的な哲学的思索にあるのであって︑主題はどこまでも﹃真実在﹄にあった︒西田哲学は純粋に哲学的な﹃実在論﹄なのである﹂︵﹁はじめに﹂ⅴ頁︶に端的に表されている︒さて︑第二篇の第一章は﹁﹃善の研究﹄という書物││著者・西田幾多郎の位相││﹂であり︑﹃善の研究﹄における純粋経験とは真実在の原初的経験に外ならないこと︑そして純粋経験の原初的直接性が﹁自発自展﹂における﹁自﹂に着目すれば︑﹁それがそれへと展開する運動として︑既にそれ自身の内に立ち帰ってしまっている直接性﹂︵一九六頁︶として﹁︿自ら運動する自己同一性﹀として先取的に既に自己同一を保持﹂していると解される︒すなわち﹁既在的自己同一﹂性として捉えることができることを示したものである︒

  第二章﹁純粋経験の論理││︿統一的或者﹀が意味するもの││﹂においても︑西田哲学の中心問題が真実在であったことが示されている︒その際の手懸かりが﹁統一的或者﹂として西田が捉えたものは︑第一章で述べられている﹁既在的自己同一﹂性に外ならないとされる︒ただし︑次のように断言している点はすぐには納得できない︒すなわち﹁西田が禅に打ち込ん 展開される﹁超越的覆蔵性﹂に係わる︒そして︿時﹀との連関から︑道元の﹁経歴﹂に話題が転換する︒﹁山は山に非ず︑水は水に非ず︑山は山に蔵身し︑水は水に蔵身することによって山是山︑水是水である︒実体性の巣窟から開放されたところでは︑一切のものがそのものに成りきり︑その本来の面目を現成させるのである︒このように各々のものが各々の法位に住して︑各々の時を現成している世界が︑いわゆる﹃徧界不曾蔵﹄の世界︑物皆自得せる世界である︒すべてはテンポラリテートの次元の内に如如現成している﹂︵二三頁︶と即非的自己同一性をも視野に入れつつ︑︿時﹀に関連づけられる︒ここから急展開して︑﹁時が時を見る﹂ことが︿鏡﹀に連なることを︑西田幾多郎と荷沢神会に即して説明する︒誠に多彩極まりない展開である︒西田の無の場所の思想が﹁自己自身を照らす鏡﹂に喩えられていることを︑荷沢神会が﹁空寂の知﹂を鏡に喩えて﹁自性の照﹂としたこととを結びつける︒そこから﹁鏡自身がもつこうした自己返照の動きは︑要するに︿同じもの﹀が︿同じもの﹀に向かってという︿同﹀の自己還帰運動であり︑自己を否定的に差異化しつつそれ自体へと立ち戻ってゆく︑言うなれば﹃非・自己同一性としての︿同﹀﹄に他ならず︑そこには︿差異化的自己同一化﹀の動きである﹂︵二五頁︶として即非的自己同一に繋ぐ︒かくして西田の絶対無の場所の正体とはこの即非的自己同一であったと主張するのである︒それから後の論究は︑この﹁絶対無の場所﹂の体用の論理や明鏡との関わりと︑露現と覆蔵の同時生起が本質的に﹁絶対無の場所﹂に属していることを明かにしようとしたものである︒それにしても︑

(3)

ないということになる︒果してそうであろうか︒   第四章﹁西田哲学に於ける実在の論理﹂においても︑西田哲学の中心問題は真実在であることが堅持され︑真実在が﹁脱自的統一﹂として純粋経験において自らを示してきている︒しかし︑﹁純粋経験の統一性は︑思惟を可能ならしめながらもそれ自身思惟の統一の対象にはならずに自ら覆蔵し︑そうした意味では︑現在意識である純粋経験は︑言うなれば絶えずその直接性を︿痕跡﹀としてしか与えない︿絶対的過去﹀として既在的自己同一的な性格をもっていると言えよう﹂︵二六七︑二六八頁︶としている︒そして︑西田晩年の﹁逆対応﹂が︑西田によって大燈国師の﹁億劫相別︑而須臾不離︑尽日相対︑而刹那不対﹂によって表されるとされているが︑﹁しかしこの語は︑人間の側から解している西田の意に反して︑どちらかと言えば絶対の側から見られた表詮なのであって︑絶対が自己否定的に相対へと翻る内在的方向と︑どこまでも超越的なものとして絶対に翻らぬ自己覆蔵性をも意味している﹂︵二七八頁︶と西田が思い至らなかった観点を指摘することで締めくくっている︒だが︑この超越的覆蔵性なるものは西田の純粋経験の考えに沿うものなのであろうか︒ハイデガーの解釈に囚われすぎていないだろうか︒

 第五章﹁西田哲学に見る禅仏教の特質﹂では︑西田哲学が禅の見性体験にその発想の源泉をみるという大方の見方に対して︑﹁超越的なものは現象へと自らを展開しつゝも︑それ自身は現象に非ず︵即非︶という仕方でどこまでも超越的なものに留まり︑しぜんそれは自己覆蔵的なものにならざるをえない︒ だのは︑︵中略︶徳川期以来︑連綿と受け継がれてきた朱子学的﹃居敬﹄の精神によるものであり︑それは一言で言えば﹃至誠﹄を求めて自己の内面性の確立を目指すことそのことであった︒︵中略︶要するにそれは朱子学で説くところの﹃已発の心﹄を正して私欲を去り︑﹃明徳﹄を明らかにせんとする宋学的真摯さ︑つまり﹃居敬﹄の精神に他ならなかったのである﹂︵二〇七頁︶︒もしそうであったならば︑西田が何故朱子学的実践﹁居敬﹂を選ばずに︑禅を修行したかを説明できるとは評者には思えない︒

  第三章﹁形なきものの形︑声なきものの声﹂においては︑著者の指摘は確かに読者に多くの示唆を与えうるものではあるが︑全面的に賛意を表せるものではないと感じられる︒それは︑次のような立場である︒﹁﹃格義﹄とは︑中国人がインドの仏教を受容するに際し︑中国土着の思想︑とくに老・荘思想に基づいて解釈したことを指す︒それは伊藤隆寿氏によれば︑従来一般には︑中国への仏教伝来から魏晋期に見られた特殊現象であると理解されているが︑じつは鳩摩羅什以後禅宗の人々に至るまで︑すべて格義仏教から脱却していないと言う︒結局のところ︑中国仏教はインド仏教とは異質なものである﹂︵二三七頁︶︒この立場を著者も採るが︑果してインド仏教と異質な格義仏教だけが中国仏教であると言い切れるのか︒また中国経由で伝えられた日本仏教も格義であるとの見解を著者は抱いていると思われるが︑そうすると格義仏教だけが日本仏教として伝わって来ているということになり︑日中の仏教はインド的般若空の思想が換骨奪胎された老荘思想的解釈によるものにすぎ

(4)

哲学の弁証法的な性格はどのように位置づけられるのか疑問である︒

  第三篇は﹁禅の思想﹂と題されている︒この篇に編まれている諸章は比較的新しく︑第一章﹁経験と超越││禅に於ける︿覚﹀とその既在的直接性について││﹂は二〇〇六年に禅における覚の問題を取り上げて︑書かれたものであるが︑そのほかの章は二〇一二年と二〇一四年に禅への関心から執筆されたもので︑比較的新しいものである︒第一章と第二章では︑大乗起信論の体用の論理︑即非の論理とを結びつけるものとしての﹁非・自己同一性としての︿同﹀﹂を基軸にして﹁即非的自己同一化の運動﹂が︑禅の思想にどのように適用しうるのか検証されている︒第三章と第四章は︑大燈国師︵宗峰妙超︶を巡る問題が取り上げられているが︑第一章と第二章と連関付ける事は難しい︒無理にでも関連づけるとすれば︑﹁億劫相別︑而須臾不離︑尽日相対︑而刹那不対﹂の解釈を通して︑﹁純粋禅﹂の解明を通じて︑禅の立場をやはり︑﹁超越的覆蔵性﹂を確かめうるということにでもなろうか︒

  ところで本書において鍵概念となるものの一つには︑荷沢神会﹁空寂の知﹂が︑物を映さぬ先の鏡の働きにあること︑すなわち明鏡といわれるものの﹁自己返照﹂にあることを指摘した点︵二五︑六頁︶︑であり︑この要素が強調されて始めて︑著者の言うところの﹁非・自己同一性としての︿同﹀﹂あるいは﹁即非的自己同一﹂が主張される根拠をなすに至る︒さらにもう一つの鍵概念は︑ハイデガーの﹃有と時﹄以来のの捉え方からの影響であろう︒このが覆蔵と露現の同時 要するにこの自己覆蔵性こそ絶対無に他ならない︒こうした意味で︑西田哲学は︑よく指摘される陽明学の影響もさることながら︑却って朱子学の﹃体用峻別﹄の論理にこそ通底するところがあるように思われる﹂︵三〇四頁︶と主張している︒即非の論理をこのように超越的本体と現象に応用し︑覆蔵性に本体を見る体用論に通じるものとしている︒

  第六章﹁西田哲学の論理的基盤││︿体・用﹀論の視座から││﹂においては︑著者の言うところを掲げれば︑その目指すところが簡潔に示される︒すなわち﹁西田が︑西欧哲学を媒介としながら︑本然的に有るがままの真実を意味する︿真如﹀を﹃純粋経験﹄として捉え︑更に自覚と場所へ︑そして﹃逆対応﹄の論理へと自らの哲学を展開させていったその根柢には︑こうした︿体用の論理﹀があったこと︑しかも︿本体﹀がもつ自己抑制的・自己溯源的超越性を強調することで︑個物がおのずからそこに有るがままに在ることの論理を独自の仕方で究明したことを明らかにしたい﹂︵三〇九頁︶︒その際﹁こうした︿体用の論理﹀﹂とは︑やがて﹁無の体用論﹂とも言われることになるもので︑﹁絶対的実在のそれ自身に於いて有り︑それ自身によって動く運動︑言い換えれば超越的に一なるものが自己内発的に自らを展開させてゆきながらも︑絶えずその超越性を自己抑制的に保持する︑いわば自己内還帰的な動性﹂︵三一〇︑三一一頁︶を本体と用らきという観点から説明する論理のことである︒要するに著者の言う﹁超越的覆蔵性﹂のことである︒この章が本編の中心論文となっていると言えよう︒だが︑このように体用の論理が西田の論理の基盤に有るとするならば︑西田

(5)

を︑或は真如を表すとし︑特に真実在の覆蔵面が現在に内在的に超越している点を捉えて﹁超越的覆蔵性﹂とする︒この﹁超越的覆蔵性﹂はこの書全体に響いている基調音である︒しかしこの﹁超越的覆蔵性﹂がその働きを展開することになるのは︑︿時﹀と︿鏡﹀とが結びついて﹁既在的自己同一性﹂なる性格を顕わにし︑鏡の明鏡性︑すなわち西田幾多郎が﹁自ら照らす鏡﹂と言い︑著者が鏡自身の持つ﹁自分返照﹂と見なす︑明鏡性から生じてくる︑覆蔵された自己同一性という契機が︑著者にとって思索の基軸になるときである︒そのとき︑超越的覆蔵性という場は︑禅仏教の古鏡の問題と結びつき︑また荷沢神会の明鏡と結びつき︑更には露現と覆蔵とに﹁即﹂と﹁非﹂とを対応し︑僧肇の﹃肇論﹄さらにまた﹃大乗起信論﹄や朱子学の体と用とに対応していく︒このような一連の論理的関係体が本書の論理の基になっている︒この基にある着想が︑中国に入ってきた仏教をインド仏教とは異なるものとみなして︑仏教を老荘思想あるいは宋学等の中国的な論理から解釈した﹁格義仏教﹂である︒こういうことを媒介にすれば︑﹃起信論﹄や宋学にも通ずる﹁体﹂と﹁用﹂とに︑また﹁非﹂と﹁即﹂とに覆蔵と露現を対応させ︑それを明鏡の﹁自己返照﹂と﹁影像﹂とに対応させることも可能になるであろう︒かくして︑明鏡の﹁自己返照﹂として覆蔵的な︑つまり否定を含んだ﹁非﹂としても働く自己同一性が連絡し合うような地盤としての﹁超越的覆蔵性﹂が造られるのである︒このハイデガーの解釈から︑仏教︵特に﹁格義仏教﹂を媒介にした禅仏教︶解釈︑西田哲学解釈を代表にした明治期の哲学解釈︑体用の論理を通じた 的な生起として︑明鏡の﹁自己返照﹂と結び合わされたときに︑著者の言うところの﹁超越的覆蔵性﹂ということが意味を得てくるのである︒

  さて︑このについてはいささか説明が必要かもしれない︒評者流に簡略化してまとめておくと︑次のようになるであろう︒ハイデガーはをの如く︑一語を二つに分解し︑この語の意味を解釈している︒はに由来するとされる︒このがの︑動詞形で言えばまたはの︑否定態であるとする︒が﹁忘却する﹂または﹁覆蔵する﹂という意味を持つことから︑は︑その否定的意味﹁非・覆蔵﹂を荷っていると解釈する︒従って︑通例は﹁真理﹂と訳されるはSein︵有︶が覆蔵されていながら︑同時に非覆蔵態へと︑つまり露現ないしは顕現へともたらされている︒有の覆蔵と露現とが現有Daseinと言われる人間的現有の有り方にも映されているとハイデガーは見る︒従って︑は︑この露現と覆蔵を同時に指し示すものとして﹁不・覆蔵性﹂という性格を荷っている︒︵例えば︑旧版, S. 310以下参照︶

  このハイデガーの考え方を著者は引き継ぎ︑を︑﹁不覆蔵性﹂すなわち覆蔵の否定態としての﹁顕現﹂ないしは﹁露現﹂として捉え︑それが﹁露現﹂の対極にある﹁覆蔵﹂と共に同時生起していることを︿時﹀と捉える︵﹁はじめに﹂ⅲ頁参照︶︒この︿時﹀の考え方も︑ハイデガーの考えると有の時性Zeitlichkeit或はとき性Temporalitätと深く関わっているのだろう︒著者はこの露現と覆蔵の同時生起が真実在

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点については︑次のような問いを惹き起こす︒   つまり︑先に述べた超越的覆蔵性という場が様々な論理を結び合わせる関係体を作り上げ︑この関係体が真如もしくは法性といわれる仏教哲学的概念をも有のと見なす︵七四頁参照︶ことになるのではないか︒だが︑ここにと真如とが同じものと見なせる根拠あるいは前提が説明されなければ︑このような連結の仕方がどの様な意味を見いだしうるのか︑あるいは既に予見されている結論が導き出されただけのものか︑それともこの種の同置が新たな見解と視野を提供することになるのか︑という問いが湧いてくる︒つまり︑仏教哲学における真如ないしは法性をハイデガーのと見なすことがどのような視野を与えうるのか︑またその根拠はどこに在るのか︑そしてそれはどのような問題を解明することになるのかという問いを︑本書を更に敷衍した視点から解明してくれることを期待する︒

注︵

︵ S. 13; GA12, S. 17︶︒ , り数頁後にこの語は見出される︵ Reichenの間違いであろう︒また原注に示された箇所よ   die Reichendas 1︶著者が︑これをとしているが︑それは

かもしれないが︑残念な点である︒ 水を差すものではないかと評者は危惧する︒些細ではある 記に不正確な点が多々見られることは︑この壮大な研究に   2︶ただし︑本書に引用されている古代ギリシャ語はその表 にしてくれるのか問いたいというのが評者の感想である︒ も言える論理の相互連関は︑もう一歩進めると︑何を更に明か 2 する余地も見出されるのではないだろうか︒また︑この壮大と かもしれないが︑格義に囚われなければ︑﹁相﹂の役割も考慮 用を格義仏教的立場からすれば︑体と用だけに着目すれば良い 著者は考えたのであろう︒だが︑例えば﹃大乗起信論﹄の体相 つけられることが︑﹁超越的覆蔵性﹂を場として可能になると ることを指摘した鈴木大拙の﹁即非の論理﹂解釈が縦横に結び 老荘的あるいは宋学的解釈︑さらには﹃金剛般若経﹄に見られ   本書に独自な要素であり︑かつ上に述べたように﹁即非﹂の論理にも︑そして﹁体用﹂の論理にも︑つねに根底を流れている通概念としての﹁超越的覆蔵性﹂は︑次の明鏡の比喩がその本質を言い表している︒すなわち﹁その顕現と覆蔵との同時的生起を︿時﹀と捉えるとともに︑それがいわば︑鏡の自分返照に喩えられる︑ということである︒鏡は物を映すと同時に︑鏡自身は映像をそれ自身の内に顕現させながらも︑自ら映像になることはなく︑映像を映し出す場所として︑映像の中に隱れ︑自らを覆蔵させている︒それは︑見方を換えれば︑鏡が鏡自身を映すということ︑自分返照ということであって︑そういう仕方で鏡がどこまでも明鏡でありえてこそ︑その明鏡の中で映像が映像として成り立つのである﹂︵﹁はじめに﹂ⅲ頁︶︒この明鏡の喩えのなかに︑著者が本書全体を通じて主張しようとする﹁もと﹂が言い出されてきている︒この自らを覆蔵して映像の中に隱れている明鏡性が真実在とも真如とも言われる︒このように覆蔵と露現が真実在ないしは真如の有り方であるとされる

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