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佛教学研究 第71号 015小野嶋, 祥雄「唯識学派から見た法宝の因明理解」

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唯識学派から見た法宝の因明理解

一、問題の所在

H住職学派から見た法宝のl刈l羽理解 唐初期の仏教界では、玄奨三蔵(六

O

二│六六四年)によって五姓各別・三乗真実を説く経論が新たに訳出さ れたことから、五姓各別・三乗真実を主張する唯識学派と悉有仏性・一乗真実を主張する論師の問で三一一様実論 争が繰り広げられた。この論争の中で、五姓各別・三乗真実を主張する唯識学派の論師達は、自説を主張するに あたり、宗・困・喰の三支の論式を積極的に用いている。一例を挙げれば、慈恩大師基(六三二

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六八二年)は ﹃成唯識論掌中継要﹄巻上本にて、定性二乗が不成仏であることを、園﹁二乗之果応有定姓﹂園﹁乗所被故 L 圏﹁知大乗者﹂の三支作法の論式を用いて示しており、無種性が不成仏であるとの主娠にも、園﹁所説無性決 ① 定応有﹂園﹁有無二性随一摂故﹂困﹁如有性者﹂の論式を用いている。また、唯識学派の諭師の多くが、玄奨 訳﹃因明入正理論﹄に注釈書を著していることからも分かる通り、五姓各別・三乗真実を主張した唯識学派の論 司 t q a q L 師達は因明に通暁していたことが知られる。 他方、霊潤(五八

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六六七年頃)の﹁十四門義﹂、義栄(生没年未詳)のご巻章﹂、法宝(六二七│七

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六年頃)のコ乗仏性権実諭﹄・﹃一乗仏性究覚論﹄(以下、﹃究党論﹄)などの悉有仏性・一乗真実を主張 した論師の著作には、自説の主張に際して積極的に因明が用いられることはなく、唯識学派の論師に見られる困

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明に対する積極的な態度とは対称的な様相を示している。このような、悉有仏性・一乗真実を主張した論師の因 明への消極的な態度の理由については、日本の伝教大師最澄(七六七

l

八二二年)の因明理解とその思想的背景 @ .を検討した吉田慈順氏の研究に重要な指摘がなされている。吉田氏の研究によれば、最澄のコニ支の量、何ぞ法 性を明かさんや﹂といった因明についての批判的理解は、法宝の因明観に基づくものであり、その法宝の因明観 とは、悉有仏性や一乗真実といワた難解深奥な真理は因明によっては明らかにすることは出来ないとのもので、 これには悉有仏性・一乗真実説を﹁難解・真実﹂、五姓各別・三乗真実説を﹁易解・方便﹂であるとする法宝の 唯

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学派から見た法宝の因明理解 権実の分類が密接に関連しているという。 吉田氏が明らかにされた法宝の因明理解とその思想的背景については筆者も同意するところである。そこで改 めて検討を加えたいのは、五姓各別・三乗真実を主張し悉有仏性・一乗真実を批判した唯識学派の論師達は、法 宝の因明観やその思想的背景についてどのような理解を示していたのかという問題である。小稿では、これらの 問題にずいて、神泰(生没年未詳)や慈沼(六四八│七一四年)などの唯識学派の論附の著作を通じて考究して いき、悉有仏性・一乗真実を主張する論師と五姓各別・三乗真実を主張する唯識学派の因明に対する対称的な態 度の理由について検討を深めていきたい。 - 238

一一、法宝の因明理解とその思想的背景

現存する法宝の著作の中には、宗・因・轍の三支の比量を用いて、悉有仏性・一・乗真実を主張する事例は見ら れない。また、﹃究克論﹄には因明に関連すると思われる﹁遠白教失 L や﹁比量﹂の用語が用いられる筒所も存 在するが、・これらの語が﹃因明入正理論﹄を踏まえて使用された用語であるのかは定かではない。

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このように、現存する法宝の著作中には附明に関する一言明が見られないことから、法宝の因明に対する考えは 明らかではないが、 の﹃一乗要決﹄や、済進(一

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二五ー一一一五年)の ﹃締顕密二教諭懸鏡抄﹄や﹃四種法身義﹄の中に引用される法宝著作の逸文から、法宝の岡明に対する考えを窺 日本の源信(九四二ー一

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一 七 年 ) う こ と が 出 来 る 。 先ず、源信の﹃一乗要決﹄巻之中﹁大文第五斥定性二乗永減計﹂には、基の﹃成唯識論掌中枢要﹄巻上本に立 てられる定性二乗の比量を引用した後、﹁宝公の云わく﹂として法宝の因明に対する考えが引用されている。 唯識学派から見た法宝の困明理解 - 239-因明はただ証成の法を立論するのみで、その比量に過失がなくとも、真 理にかなうものではないというものであり、その教証として﹃大智度論﹄巻九三の文が引用されている。 また次に、法宝の岡明観を示す資料として、﹃大般浬繋経疏﹄の逸文を挙げることができる。法宝の﹃大般世 @ 繋経疏﹄は巻九・十のみが呪存するが、その逸文が師茂樹氏によって収集されている。師氏が収集した逸文の中、 院政則に活躍した新義真言宗の済混(一

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二五ー一一一五年)の﹃掛川顕密二教諭懸鏡抄﹄巻五に﹁宝師の浬般市経 疏に云わく﹂として引用されている逸文には、以下のような記述がある。 ここに示されている法宝の因明観は、 ニ 7 ス ハ ン ト ヲ ハ レ ハ 経日﹁今欲 ν問ニ諸除こ巳下回疋謙問也。 ハ ス ル エ ハ ン ト ノ ナ ル ヲ 迦葉欲 ν 問ニ如来常住五陰 J 下僑陳 カ ラ ス ル ハ ヲ 自 標 = 無 智 J ナ リ ノ 所二以謙退一

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ニ ス ハ テ テ ノ ヲ ス ル ナ ル ヲ ヲ 7 ノ ニ 知品明下捨=無常色-獲=得常色-等 r 答 ニ 此 問 -也 。 ノ ニ タ ト ・ ノ ミ タ ス ル ヲ a l h -下所知一唯仏与 v 能 了 日 劃 ー い i h i l l -w I ι r 下 理 由 、 只 可 = 唯議学派から見た t~支の因明理解 この一段は、曇無識訳﹃浬繋経﹄巻三﹁寿命品第一之一ニ﹂の注釈筒所である。この中で法宝は、十住の菩薩で あっても知来常住の理を知ることことが出来ないと説く﹃浬繋経﹄の教説に基づき、凡下の者においては、如来 が常住であるとは経典に説かれる教えを仰いで信じるべきであり、妄りに比量をなすべきではないと述べている。 以上、﹃一乗要決﹄や﹃緯顕密二教諭懸鏡抄﹄から窺われる法宝の因明観は、二乗の成仏や如来が常住である とは、ただ仏のみがよく知る所であり、これらは閃明によって明らかにすることは出来ないというものである。 - 240

なお、このような法宝の因明に対する批判的理解は、彼の権教と実教とを分類する基準と棺接に関連している。 法宝の﹃究寛論﹄巻一﹁権実義例章第四﹂には、権教と実教を分類するにあたって、①﹁信誘罪福多少異﹂、② ﹁所為説人勝劣異﹂、③﹁難解易解浅深異﹂、④﹁仏自会釈有無異 L 、⑤﹁権実相対前後異 L 、⑥﹁大小不同半満 ⑥ 昇、﹂、といった六つの基準を用いている。この中、③﹁難解易解浅深異﹂は、易解の教えは権教であり、難解の 教えこそが実教であることを述べる一段であるが、そこには以下のような記述が見られる。 ノ ニ ハ タ タ ト ハ ス ラ ホ テ ヲ ル ﹃法花経﹄第二云﹁唯一仏乗、汝舎利弗、尚以 ν 入 。 ー

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同 r i p -侭 除 J a F A チ シ ノ / 州制引判。二乗実滅一分無性、即無ニ斯説 J 権浅

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この中で法宝は、﹁悉有仏性﹂を説く﹃浬繋経﹄、﹁唯一仏乗﹂を説く﹃法華経﹄、﹁阿羅漢成仏﹂を説く﹃大智 度論﹄には、それぞれ、﹁十住の菩薩であっても知ることが出来ない﹂、﹁信を以て入る﹂、﹁ただ仏のみがよく了 す﹂といった難解の教えであることを示す言葉があるものの、二乗の実滅と一分無性とを説く経論には、こうし た難解の教えであることを示す言葉が見られないため、﹁二乗実滅・一分無性﹂の教えは浅い権教であり、﹁悉有 仏性・唯一仏乗・阿羅漢成仏﹂の教えこそが奥深い実教であることは明らかであるとしている。つまり、法宝の ﹁附明はただ証成の法を立論するのみで、その比量に過失がなくとも、真理にかなうものではない﹂との因明観 唯識学派から見た法宝の凶明理.解 は、自身が信奉する悉有仏性・一乗真実などの教説が﹁難解・真実﹂であるとの理解に基づくのである。

一、﹃大智度論﹄巻九三の解釈について

d q 円 〆 臼 これまで、法宝の因明理解とその思想的背景について確認してきた。それでは、法宝の批判対象であった五姓 各別・三来真実を主張した唯識学派の論削達は、こうした法宏の因明観についてどのような理解を示していたの であろうか。唯識学派の諭師の著作中には、先に述べた源信の﹃一乗要決﹄所引の﹁宝公云﹂と済進の﹃掛川顕裕 二教諭懸鏡抄﹄に﹁宝師浬繋経疏云﹂と引用される法宝の因明観に対して、これを直接的に批判する文言は見ら れない。そこで注目したいのは、法宝が因明に対する理解を表明するにあたって引用した、﹃浬繋経﹄﹃法華経﹄ ﹃大智度論﹄といった経論に関する唯識学派の解釈である。 法宝の因明観の思想的背景を表す資料として示した﹃究覚論﹄巻一﹁権実義例章第四﹂には、﹃浬繋経﹄﹃法華 経﹄﹃大智度論﹄が引用されていた。改めてそれらの出拠を示せば、以下の通りである。

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唯議学派から見た法宝の闘明理解 -曇無識訳﹃大般浬繋経﹄巻二七﹁師子耽菩薩品第十一之一﹂ シ テ ニ サ タ ヨ シ ニ タ ル ヨ ト ヲ ナ ラ ハ ノ テ ノ ノ ヲ ニ 爾時、師子耽菩薩摩詞薩臼 ν仏言﹁世尊、若一切衆生悉有二仏性-如=金剛力士-者、以ニ何義-故、一切衆 ル ヤ ハ ル ヲ ル ヨ ト ヲ ノ ハ タ ヨ ハ シ ユ 号 リ ト リ ノ ノ ハ ル カ モ タ ル ト タ 生不 ν ν ν見﹂。仏言﹁善男子、醤如下色法雄 ν有ニ青黄赤白之異長短質像一盲者不合見。雌=復不 v見、亦不 v ヲ , シ ト ノ , テ ノ エ ハ モ ト レ ハ ル カ 十 リ モ タ q A 毛 ト ハ ル コ ト ノ 得 ν ν無=青賞赤臼長短質像ザ何以故。育雄 ν 不 ν見、有 ν目見故。仏性亦爾。一切衆生雛 v ν ν見、十住 ル カ ヲ ナ リ ハ ク ル J ノ ノ ル ハ シ ニ ル カ ヲ ノ ハ ル シ ニ ル カ ヲ ヨ ハ タ ノ 菩薩見=少分一故。加来全見。十住菩薩所 ν見仏性知ニ夜見 p色。如来所 ν 見如ニ畳見 v色。善男子、警知下膳者 ル コ ト ヲ ル 毛 ナ ラ リ テ ノ ニ セ ハ ヲ テ ノ ヲ エ ル カ ニ ル コ ト ヲ ノ 毛 タ シ ノ モ ル コ ト ヲ ト 見 ν 色不 ν了、有=善良医-而為治 v 、 以 ニ 薬 力 -故 得 中 了 了 見 r 十住菩薩亦復知 v 。 雌 下 見 = 仏 性 -不 v 中 明 + ル コ ト テ ノ ノ ヲ ニ タ ナ ル コ ト ヲ ⑧ 了人以=首梼厳三昧カ-故、能得=明了﹂ -羅什訳﹃妙法蓮華経﹄巻二﹁醤喰品﹂ ノ ハ ニ ノ タ ハ キ テ ヲ シ テ サ 斯 法 華 経 、 為 -深 智 = 説 。 浅 識 閑 ν 、 迷 惑 不 ν 解 。 ホ テ ハ ノ ニ テ ヲ タ リ ル コ ト ヲ ン ヤ ノ ? ? ⑨ 尚於ニ此経﹂以 ν信得 ν入、況余声問。 ナ リ ル ハ 力所 ν 不 ν 及 。 ス ラ 汝 舎 利 弗 、

-

242-テ ノ ノ ユ 於 -此 経 中 J 一 切 声 問 、 及 昨 支 仏 、 -龍樹造羅什訳﹃大智度論﹄巻九三﹁釈畢定品第八十三﹂ ノ ニ 毛 ナ リ フ ノ リ テ ス ト パ タ ノ ミ タ リ テ ス ル ハ L F F キ を ス ノ ヲ 復九、仏法

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-五不可思議中-最第一。今、き日下漏尽阿羅漢還作仏、唯仏能知、論議者正可 ν ユ 其 事 心 不 ν ス ル ヨ ト ノ ユ ニ ス シ メ チ ル ,

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-ハ チ ク セ ン ハ キ 号 ス タ カ ラ ル ⑪ 能 二 測 知 -、 是 故 不 ν応中戯論日若求得 ν仏時、乃能了知。余人可 ν信、而未 ν ν 知 。 法宝が引用するこれらの経論は、 ﹃浬繋経﹄には﹁悉有仏性﹂であるとは十住の菩薩であっても少分に見るこ ﹃法華経﹄では﹁一乗﹂は深い智慧を有する者に対する教えで信を以て入 としか出来ないことが説かれており、 るべきことが説かれ、﹃大知日度論﹄では﹁二乗作仏﹂はただ仏のみがよく知ることが出来ると説かれている。法

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宝がこれらの経論を引用した意図は、﹁悉有仏性 L ﹁唯一仏乗﹂﹁二乗作仏﹂の教説こそが﹁難解・真実﹂である ことを示すためである。 さて、ここで注意したいのは、﹃一乗要決﹄中に﹁宝公の云わく﹂として引用する法宝説と、法宝の﹃究克論﹄ ﹁権実義例章第四﹂に共通して引川されている、羅什訳﹃大仰 H 度論﹄巻九三の論文に対する唯識学派の解釈 である。というのも、この﹃大知 H 度論﹄の文については、神泰の﹁一巻章﹂に以下のような文脈において引用さ 巻 れているからである。 田監富良学i浪から見た法宝の悶明理解 - 243 - ' 神泰の二巻章﹂では、能証の囚である行性の有無は不定であり、等しく衆生にあると説くことは出来ない論 拠として、﹃大智度論﹄が引用されているのである。これはつまり、神泰は﹃大知日度論﹄の論文を阿羅漢の成仏 と不成仏が説かれる五姓各別・三乗真実を説くものと理解していたことを示している。なお、神泰の﹁一巻章﹂ 中には、﹃大知 H度論﹄巻九三以外の﹃畑作製経﹄巻二七や﹃法華経﹄巻二の引用は検出することは出来ないが、唯 識学派の解釈では﹃浬繋経﹄や﹃法華経﹄も五姓各別・三乗真実を説く経典として理解されている。これらのこ とから、法宝が﹃究寛諭﹄巻一 ﹁権実義例章第四﹂にて引用する﹃浬繋経﹄﹃法華経﹄﹃大智度諭﹄は、神泰にと

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つては五姓各別・三乗真実を説く経論として捉えられていたことが窺える。そしてまた、﹃大智度論﹄の文には、 ただ仏のみがよく知る所であると説かれていることから、神泰は阿羅漢の成仏と不成仏という五姓各別・三乗真 ⑫ 実説は﹁難解﹂の教えであると捉えていたとも推察されるのである。

図、唯識学派から見た法宝の

﹁難解易解浅深異﹂鋭

唯富良学派から見た法宝の国明理解 神泰の﹃大智度論﹄の引用を通じて、唯識学派の論師は五姓各別・三乗真実説を難解の教えと捉えていたこと が窺えた。そこで更に注目したいのは、法宝の因明観の思想的背景として示した﹃究寛論﹄巻一﹁権実義例章第 四﹂の主張に対する慧沼の反駁である。慧沼の﹃慧日論﹄巻一寸破定権実一二﹂には、法宝の﹁難解易解浅深異﹂ に対して、以下のような反駁が見られる。 a q d 且 τ n r u J -ハ タ ノ ハ ラ ユ タ リ ト ノ ユ ハ タ ナ リ ス , ホ テ ハ ノ ニ ﹁﹃浬繋﹄二十七云、十住菩薩不 ν知三一切衆生悉有=仏性寸﹃法華﹄第二云、唯一仏乗。汝舎利弗、尚於=此経 J テ ヲ ト ル コ ト ヲ ノ ニ ハ タ ノ ハ ス ノ -タ ノ ミ 9 ス ト ト ハ チ シ J J 以 ν信得 v入。﹃智論﹄九十三云、阿羅漢成仏非エ論者知一唯仏能了。二乗実減一分無性、即無=斯説 4 権浅 ノ ス ル ト タ ニ ル ハ ニ ニ ト ト ト / / タ チ レ ス ノ ヲ タ 毛 ヲ 実 深 義 決 定 也 L 。亦不 ν ν爾。﹃深密﹄既為ニ勝義生観自在法涌弥勅等菩薩-説。即日疋具二上品五事 4 開 v大不 ν ラ ラ ヲ ニ シ テ ヌ レ レ ナ リ ト 7A ノ ト ノ ト ヲ レ ナ リ ノ カ ラ タ カ ナ リ シ テ ス ハ ト ニ ル ヤ 誘、不 v作=余説﹂故決定知、日疋深日疋実。云ニ不定性成仏定性不成 - a 疋能了。仏自説故。執為=権浅一室不ニ セ ニ ス ト @ 相違ベ故為 v失也 b ここでの懇沼の批判は、法宝が権教と実教を峻別するに当たって用いる﹁難解易解浅深異﹂の枠組み自体を批 つまり、﹃解深密経﹄は、勝義生菩薩・観自在菩 判するのではなく、その枠組みに則った上での批判である。

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薩・法涌菩薩・弥勅菩薩等の菩薩の為に説かれた教説であることから了義の説であり、不定性の成仏と定性の成 仏は仏が白から説いた教えなので、これを浅い権教とするのは誤りであるとの批判を加えている。 確かに、五姓各別・三乗真実を説く経論が﹁易解﹂であり﹁方便﹂の教えであるとは、あくまでも法宝の理解 にすぎず、慧沼などの唯識学派の論師は、五姓各別・三乗真実を説く経論を﹁難解﹂であり﹁真実﹂の教えであ ると捉えている。このことは、﹃瑞伽論﹄に税かれる種姓諭に関する解釈からも明らかで、遁倫(?│七

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五 の﹃珠伽論記﹄巻八には、神泰と基の次のような解釈が示されている。 唯識学派から見た法~Îiの困明理解 シ テ 7 ハ ニ ル レ ヲ ・ ク ク ス ト ノ ニ ト ノ ハ タ ノ カ ラ ハ ク レ ハ レ ナ リ タ シ テ ノ ノ ヲ 結云下﹁応 ν 知、是名三能比三菩薩姓血相こ等上者、泰云﹁弥勅自言、我日疋菩薩。但可下以ニ此事事麗相-比中 ス / ノ ヲ リ テ ハ キ ニ ノ タ ノ ミ シ テ ス レ れ ト パ ス ル コ ト ノ 山 ク テ ノ ノ ハ 知有情身中種姓ド至 v 如=決定証知一唯仏世尊究覚現見、我之慈氏不 ν能ニ現見こ。基云﹁以=菩薩細種姓相 キ 宇 リ テ ヲ ス ヲ --7 ク ス ト ノ ユ ニ ノ ノ ニ ハ タ ル カ ノ ニ 品 ム 宇 シ テ セ 品 レ ナ リ ト 難 p知、今、以 ν 比 = 知 種 姓 ﹂ 故 昔 日 三 能 比 ニ 菩 隆 種 姓 良 相 寸 故 此 段 初 文 云 、 由 ニ 此 相 -故 令 豆 他 了 ニ 知 真 日 疋 盟 問 雌 寸 ノ ハ タ ノ ミ ク ル ノ 品 ハ 予 ク シ テ ヲ ハ レ モ タ ト ハ ラ ノ 7 ハ パ ト 予 リ テ ニ 其細相決定実義唯仏能知。此中且推=於仏 J 不 ν言ニ我亦不 v知。古人云ニ弥勅不 v知者謬也。以三塁 n 戒 経 ﹄ 7 ヲ ノ ハ レ ニ シ テ ク ト ノ ハ タ ノ ミ ク ル ト ハ ル 毛 タ ル ニ 予 ラ タ ル シ テ ヲ ス ト ノ ル ニ ラ タ 7 ト ノ ミ 云=種姓免相我巳略説﹂諸余実義唯仏能知者、当二釈迦亦不 v 也 。 且 知 z ν仏非ニ弥勅不 p知。位言 z シ テ リ レ モ タ ル ト ニ ⑬ 究 主 見 知 、 我 亦 知 ニ 不 究 克 -﹂ 。 - 245

﹃瑞伽論﹄では、巻三四にて声聞と独覚の積姓が説かれ、巻三五に菩薩の種姓が説かれる。その巻三五﹁本地 分中菩薩地第十五初持職伽処種姓品第ごでは、菩薩種姓には施・戒・忍・精進・静慮・惑の六波羅蜜多種姓の 免相があり、この負相によって他者に菩薩であることを了知させるが、その者が本当に菩薩種姓であるかについ ては仏のみが知るところであると述べられている。右に引用した﹃琳伽論記﹄は、その一段についての神泰と基 の文意通りに菩薩種姓については仏のみが知るところである旨を述べてい の注釈であるが、両者とも﹃瑞伽論﹄

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る 以上のことから明らかな通り、唯識学派では種姓論はただ仏のみが知る﹁難解 L の教えとして理解されている のである。また奇妙なことに、法宝の﹃究覚論﹄の中にも、唯識学派の種姓論が﹁難解﹂の教えであることを認 めるかのような記述が見られる。それは、﹃究寛論﹄巻四﹁破法爾五性章第八﹂にて、 一切衆生の本性が平等で あることを述べる筒所においてである。 Il議学派から見た法宝の因明理解 リ 品 パ ニ ハ ナ リ ト 品 川 二本性一切衆生平等者、﹃善戒経﹄第一云﹁菩薩性有=二種ザ一本性、二客性。本性者、陰界六入次第 ニ シ テ 十 リ レ ヲ タ ト ト ハ ハ タ ノ ス ル ル ナ リ ト 相続、無始無終法性自爾。是名ニ本性﹂客性者、請、所=修習二切善法、得コ菩薩性こ。又云﹁復有三 ナ リ ノ 7 a F A ニ シ テ ル ナ リ タ ヲ ユ ケ テ ス ト ノ フ ト ハ ニ シ テ ル 十 リ リ 二種目一細、二 ι 施 。 所 v 細 者 、 無 因 而 得 。 無 v 因得 ν果、故名為 ν細。所 ν善一同島者、有凶而得。従 ν 困 得 ν果、故名為 ν負。菩薩具ユ足此二種性-故、勝=於一切戸間独党寸況余外道﹂。准=此経文一細目疋本性、 免是客性。又云﹁具ニ此二性-有丘ハ印相一一切衆生知、州協削胤叫叫叫机す叫凧斗湖銅剣一 側臥悌叫城跡

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勧割劇科サ叫。﹃珠伽﹄﹃地持い大膏抗肌 h o - 246-ここでは、菩薩の二種性について論じられており、﹃善戒経﹄を引用して、菩薩性には本性と客性の二つの性 があって、本性は﹁細﹂で客性は﹁免﹂であると分類し、その細性 ( H 本性)についてはただ仏のみが知るとこ ろであると述べられている。そして、このことは、一切の衆生に悉く仏性があるとは、十住の菩薩であっても知 ることが出来ず、ただ仏のみがよく知る所であると﹃浬繋経﹄に説かれることに同じであるという。この中で言 及される﹃混繋経﹄の教説は、先に法宝の悶明観とその思想的背景を確認する中で引用されていたものと同じで ある。もちろん、この﹁破法爾五性章第八﹂での法宝の二種姓についての解釈は、悉有仏性・一乗真実説の立場

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からのもので、その主眼は一切衆生の本性が平等であることを述べることにあり、﹃瑞伽論﹄などに説かれる種 姓論を実教として認めるものではないと思われる。しかしながら、ここでの法宝の記述は、種姓論が説かれる ﹃善戒経﹄﹃地持経﹄﹃職伽諭﹄に﹁ただ仏のみがよく知る所である﹂との﹁難解﹂の教えであることを示す一言葉 が存することを認めているように見え、やや整合性に欠ける印象を受けかねないものとなっている。

五、結

日鉄繊学il~ から兄た法宝の岡町J .fIll解 以上、法宝の閃明理解とその思想背景に対して、唯識学派の論州達がどのような理解を示していたのかを検討 してきた。これまでの考察結果を纏めれば、以下の通りとなる。 源信の﹃一乗要決﹄や済退の﹃締顕密二教諭懸鏡抄﹄に引用される法宝の因明に対する理解は、因明によって は﹁悉有仏性﹂﹁唯一仏乗﹂﹁阿羅漢作仏﹂といった難解であり奥深い真理は明らかにすることは出米ないという ものであった。なお、このような法宝の因明観は、自身が信奉する悉有仏性・一乗真実説が﹁難解﹂であり﹁真

- 2

4

7一

実﹂であるとする解釈に基づいていることを確認した。 こうした法宝の因明理解に対して、唯識学派の論師の著作中には直接的な批判を検出することは出来なかった が、その因明観の思想的背景となる﹃究党論﹄巻一﹁権実義例章第四﹂の﹁難解易解浅深異﹂に対しては、慧沼 の﹃慈日論﹄に直接の反駁があり、それは、﹃解深密経﹄は勝義生菩薩・観自在菩薩・法涌菩薩・弥納菩薩等の 菩薩の為に説かれた教説であることから了義の説であり、不定性の成仏と定性の成仏は仏が白から 4説いた教えな のでこれを浅い権教とするのは誤りであるとの批判であった。これに加えて、﹃瑞伽論記﹄に示される基や神泰 の種姓論の検討を通じて、唯識学派では五姓各別・三乗真実説を﹁難解﹂の教えであると捉えていることを明ら

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かにすることが出来た。 そしてまた、法宝が悉有仏性・一乗真実説が﹁難解・真実﹂であることの教誕として引用する﹃浬繋経﹄﹃法 華経﹄﹃大智度論﹄については、唯識学派ではこれらの経論は五姓各別・三乗真実を説く経論として理解されて 唯.学派から見た法宝の因明理解 いることが、神泰の﹁一巻章﹂より明らかとなった。 以上のことを勘案すると、唯識学派よりすれば、五姓各別・三乗真実説は寸難解﹂の教えであることから、法 宝のいう﹁悉有仏性や一乗真実といった難解深奥な真理は因明によっては明らかにすることは出来ない﹂との因 明理解は首肯することが出来ないものであったと推察される。それでは、唯識学派の論師達は﹁難解﹂の教えで ある五姓各別・三乗真実説を同明によって明らかにすることが出来ると考えていたことが新たな問題点として浮 かび上がってくるが、この問題については今後の課題とし稿を改めて検討していきたいと思う。 - 248-註 ①﹃大正蔵﹄巻四三・六一二頁上。 ②吉田慈順﹁最澄の因明批判 1 思 想 的 背 景 の 検 討 │ ﹂ ( ﹃ 天 台 学 報 ﹄ 五 六 号 、 二

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一 四 年 ) 。 ③﹃恵全﹄巻二・一

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O

四 頁 。 ④附茂樹﹁法宝﹃大般浬繋経疏﹄逸文とその分析│済還による引用文を中心に│﹂(﹃花園大学文学部研究紀要﹄コヱハ 号 、 二

OO

四 年 ) 。 ⑤﹃大正蔵﹄巻七七・四六五頁上中。 P J / ノ ニ ハ シ テ リ ニ ハ / ⑥法宝﹃究寛論﹄巻一寸権実義例章第四 L 寸又諸経論権実義例略有=六相 J 一信誘罪福多少異、二所為説人勝劣異、 三 一 ハ 難 解 易 解 浅 民 異 、 匹 ハ 仏 自 会 釈 有 批 異 、

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権 実 相 対 前 仇 異 、 九 ハ 大 小 不 同 半 枇 巽 。 三 札 一 乗 、 五 也 仏 性 、 二 説 相 品 川 M タ リ ユ 買 ト ヲ P ト ト ハ ν ナ リ ト 亦 有 ニ 六 相 一 故 知 、 一 乗 仏 性 為 ν 、 三 乗 五 性 是 権 ﹂ ( ﹃ 龍 谷 大 学 論 集 ﹄ 八 八 頁 ) 。 ﹃ 究 覚 論 ﹄ の 引 用 に つ い て は 、 浅 田 正 博﹁石山寺所蔵﹃一乗仏性究覚論﹄巻第一・巻第二の検出について﹂(﹃龍谷大学論集﹄問二九号、一九八六年)、同 〆

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日佐織学Ji民から見た法宝の肉明IlJ!向車 寸法宝撰﹃一乗仏性究寛論﹄巻第四・第五の両巻について﹂(﹃仏教文化研究所紀要﹄二五集、 れている翻刻資料を用い、引用に際しては論文の頁数を記載した。 ⑦﹃龍谷大学論集﹄九十頁。 ⑧﹃大正蔵﹄巻十二・五二五頁中。 ⑨﹃大正蔵﹄巻九・二六二頁中。 ⑬﹃大正蔵﹄巻二五・七一四頁上。 ⑪﹃伝全﹄巻三・一八二頁。 ⑫神泰の二巻章﹂に対しては、一切皆成説の立場から義栄による反駁が加えられている。義栄の寸一巻章﹂には ノ ハ タ ニ 亨 シ ル ユ エ / / ﹁ ﹃ 智 度 論 ﹄ 文 、 引 v之無 v 利。依ニ﹃浬繋級王羅漢作仏不作仏事、十地菩龍少分証見、九地以孔随品川聞弘、如来世部 リ ナ ル コ ト 宇 ハ 7 ル 十 リ ノ ハ 7 7 カ 予 レ リ ト シ テ ハ ハ ト カ a y R h ソ ン 予 見 ル ヨ ト ヲ ヲ 独得ニ了了一今、所 ν述者、知来之一言。﹃大論﹄所 ν 、 善 一 同 二 白 知 -也 。 果 謂 ν ν ν論者、新宗何得三敢論ニ羅漢一 タ ム レ ノ ミ シ テ ヲ シ テ カ ラ ス ル コ ト ヲ キ ノ カ 7 ヤ レ ヲ ナ リ ト シ サ ハ

-R e

-タ ユ ノ ヲ / 品 カ ラ ン 但 使 ニ 我 論 余 人 莫 v 。 如 ν此証普門誰云ニ其然 A 若許ニ諸家必応 p論者、引エ此論文 J 其利安在﹂(﹃伝全﹄巻 三・二一三頁)とある。 ⑬﹃大正雌﹄巻四五・四一三頁中。 ⑬﹃大正峨﹄巻四二・四九一頁上。 ⑬﹃仏教文化研究所紀要﹄一二四頁。 - 249-一九八六年)に掲載さ キ ー ワ ー ド 法宝、神泰、慧沼、国明、難解易解浅深異

参照

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