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ピエール・プレヴォの生涯と業績

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Academic year: 2021

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(1)205. 

(2)   . はじめに 1 .ピエール・プレヴォの少年・青年時代 2 .18世紀末のジュネーヴとピエール・プレヴォ 3 .ピエール・プレヴォとジェイン・マーセット婦人 おわりに. はじめに  筆者はすでに、シスモンディ経済学を「過少消費説」と特徴付けるのはきわ めて一面的であり皮相な理解であること、彼の経済学にはいわば諸資本の過度 な競争を抑制するための政府の介入と、需要を最大限拡大して経済の不均衡を 回避するための分配の平等の必要性という重要なモメントがあることを指摘し     た 1)。さらにそのような経済理論を構築するに至ったシスモンディ(      .

(3)  .   

(4)  .     

(5)     )の思想的背景の一端を、彼の     ) 周囲の人々を通じて瞥見した2)。前稿でも触れたように、スミス( やリカードウ(       . . )といった経済理論における継承や批判の流れと.

(6) 206 アドミニストレーション第16巻3・4合併号. は別に、その根底を流れる思想面で彼に影響を与えたと思われる人々をグルー ピングしつつ列挙すれば、以下のようになる。まず第1にスタール夫人(       . 

(7) .  . 

(8)

(9)      .          )のサロンの常連たち。コンスタン (      .   )やシュレーゲル(    .

(10) .   . . )、それに シャトーブリアン(     . . )等。第2に『ビブリオテーク・ブリタニク』 誌 の 編 集 者 た ち。ピ ク テ 兄 弟(     .

(11)  . 

(12)   .

(13)  .

(14)                 ) 、モーリス(         .

(15)     . )等。第3に、第2のグルー プとも関連するが、プレヴォ(         . )、デュガルト・ステュアート (     . 

(16). )、マーセット(     )家の人々等。第4にデュモン(       )、マッキントッシュ(     . . .

(17)   . )等。第5にスミスやリカー ドウ、マルサス(    .

(18)   

(19)  ) 、セー(      .  

(20) . )等である。  それらのうち本稿ではピエール・プレヴォに注目し、彼の生涯と業績を跡づ け、それとシスモンディとの接点を探ることが課題である。両者の関係として は、もとより思想内容が重要であり、論理の継承関係ないし対比が必要である が、本稿ではその準備作業として、いずれもプレヴォが他界した1 83 9年に発表 された2編の追悼論文――カンドルとシェルビュリエのそれ 3)――、および パッペの論文4) を参考にしつつ彼の足跡を確認することに主眼を置き、プレ ヴォの論理・思想内容の検討は次稿に委ねることにする。. 1.ピエール・プレヴォの少年・青年時代  ピエール・プレヴォ(         . 

(21) 

(22) 

(23) )は17 51年3月3日ジュネー ヴで、父のアブラハム・プレヴォ(     .

(24). )と母マリー・ベラミ(          )の間に生まれた。父は、ピエールが生まれた当時、行政の要職に就い ていたが、その直後にその街の牧師となり、後にカレッジの校長になった人で     .

(25)    )ひ ある5)。ピエールの兄弟は兄のルネ・プレヴォ(.

(26) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 207. とりだった。ルネは弁護士や公証人といった法律関係の職業に就き、国務院の 国家評定官(       .  ’      ,高等司法官代理)になった人である。ピエール 自身は幼い頃聖職の身分を目指し、3歳半で神学を学んだものの、まもなくそ れを断念して法律の勉強に向かったと伝えられる6)。  1 764年に、彼は文学アカデミー(            )の試験に合格して聴講生に なった。ここでプレヴォは、決して厳しくはない管理の下で、好んで多くの作 曲をしたりラテン語の詩を創ったりして余暇を楽しんだと、後に述懐している。 若いプレヴォは音楽に情熱的に身を委ね、誰から指導されることもなく、音楽 を修めたといわれる。4歳の時に家庭内の事故で左腕の障害がバイオリン演奏 の妨げになったにもかかわらず、練習を積み重ね、慰みと楽しみの貴重な源泉 を音楽に見いだしていた。音楽に対して強い興味を持つことによって、彼は、 音楽が信仰に果たす役割、あるいはその可能性に関して熟考するようになり、 この問題に関する命題を確立しようと、それを目標にするようになったという。 しかし彼は、趣味ともいえる音楽のみにうつつを抜かすようなことは決してな かった。勉学・研究にも多大の関心を持って積極的に取り組んだ。彼は、「哲学 の聴講は、まったく異なった分野の楽しみを私に得させた。私はドゥ・ソ シュール(       )氏の非常に生き生きとして心地よい授業を想い出す」     ) と書き残している7)。さらに彼は、正規の授業の他に、ル・サージュ( のもとで物理学を、そしてマレ(       . )のもとで天文学の授業を受けた。 多領域の勉学にもかかわらず情熱を抱くプレヴォを、カンドルは「かれの考え 方の並はずれた活動にとっての、また彼の主要な能力だった分析力にとっての 栄養がそこにあったのである。彼は、彼の研究領域を拡張する機会を取り逃が すこともなかった」と指摘している8)。  1 768年に哲学のコースを終えたプレヴォは、論理学のコースにはいった。そ れは、彼が関心をもっていたからではなく、彼の父と、母方の叔父のひとりサ コネックス(      )の牧師であるベラミー氏(     )の意図に従うた.

(27) 208 アドミニストレーション第16巻3・4合併号. めであったといわれる。彼はこの課題を、みずからの意志で自由に選んだと思 われるぐらい非常にまじめに成し遂げた。彼の勉学に対する強い関心と、惜し みなく払われた努力を感じさせるものと言える。  1 77 1年以降、弱冠2 0歳のプレヴォは、若い未婚の女性たちに対して宗教学の 授業を行っていた。それは、彼の両親が彼に聖職に就くことを期待していたか らでもあったようである9)。しかしプレヴォ自身は、次第に他の分野に興味を 持つようになり、教会関係の職業につくことを断念したい気持ちが募ってきた。 彼の友人オディエ(    )との間の文通にその葛藤が見られると、シェルビュ 1年1 2月22日 リエが指摘している10)。シェルビュリエに依れば、プレヴォは177 付けオディエ宛の手紙で、彼に職業の変更希望を伝えている。すでにこの年の 10月には論理学の研究をやめ、法律学の研究にとりかかっていた。これ以降プ レヴォはさまざまな職に就くことになるが、シェルビュリエは、プレヴォに とってそれが可能だったのは、彼の家庭が豊かでなかったことが逆にプレヴォ の努力を刺激し、彼の能力を高め、しかもある特定の方向に彼を向かわせると いう無理強いをしなくてすんだという、彼の家庭環境のおかげだと見ている11)。  17 73年に彼は、弁護士の資格と法学博士の称号を取得した。法律学の研究を 開始してからわずか1年半のことだった。同じ年に彼はオランダで教師の職を 得たが、1年でそれを辞職した。1 7 7 4年9月オランダからの帰途、彼はイギリ スに立ち寄り、3ヶ月間をそこで過ごした。当時ロシアの駐ロンドン大使だっ たチェルニシェフ(      . )伯爵のもとで秘書の地位の申し出を受けたが、 プレヴォはそれを断った。  その後、彼はバンジャマン・ドゥルセール(     . . 

(28). )から息子た ちの家庭教師になることを依頼され、それを引き受けることにして、ドゥル セールが住むリヨンに赴いた。ドゥルセールは若いプレヴォの知性を大いに評 価したようである。その後も両者は永く交友を続けた12)。プレヴォがリヨンに 着いたとき、ジュネーヴ・アカデミーにおける文芸の教授職が空席だと聞かさ.

(29) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 209. れた彼は、心が動いたものの、彼の友人と競争しないようにするために、プレ ヴォはそれを断念したという13)。ドゥレセール家は1 7 74年にパリに移った。そ のパリでプレヴォはルソー(         . 

(30).     )に会っており、 それ後も、彼は何回もルソーと再会の機会を持った。プレヴォにとってルソー との面会は大いなる喜びであったようである14)。パリ滞在中にプレヴォは、エ ウリピデス(     )の翻訳に着手し、17 7 8年に『オレステス』(     )を 出版した15)。シェルビュリエは、これらの翻訳は人々から高く評価され、プレ ヴォの確固たる名声を文学界に与えたと指摘している16)。  この数年間にプレヴォは、イギリス等からのいくつかの就任要請を断ったと いう。しかし、178 0年にプロシャ国王フレデリック2世が彼に提示した2つの 地位について、彼はこれを受け入れた。ベルリン科学アカデミーの会員と国王 によって設立された青年貴族アカデミー( ’           . . 

(31) . . 

(32)   .    ) における哲学教授である17)。啓蒙的とみられるこの君主は、プレヴォがベルリ ンに到着したときからすぐに彼を評価する数多くの証言を認め、彼を積極的に 認めていたという18)。この年の初めに2つの役職を任命されたプレヴォは、ベ ルリンにその後4年間滞在した。このアカデミーで彼は、初めに哲学のクラス に、後に道徳哲学のクラスに所属した。その間に彼はビトベ(     )と親密 な関係を築き、ギリシャ文学をさらに修める新たな動機となったし、メリアン (    )はともに哲学研究の仲間だった。彼はまた、当時数学やまた新しい 化学研究で著名だったラグランジュ(      )とも不断の交流があったし、 そ の ほ か に も ペ リ ソ ン(      )や『美 し き ヴ ォ ル フ 主 義 者』(               )の著者フォルメ(    )とも親しくするなど、当時の多くの著名 人にも会っていたという19)。  交友関係だけではない。このアカデミーでプレヴォは、多くの多面的な論文 に接することができた。彼が1 7 8 0年9月1 4日に読んだ最初の論文のタイトルは、 「道 徳 教 育 の た め に 用 い ら れ る 方 法 に 関 す る 考 察」(      . 

(33)  

(34)    .

(35) 210 アドミニストレーション第16巻3・4合併号.       .  . 

(36)   .  .       .        )であって、この論文は、道徳は諸原 理、感情、経験によって教えられるということを示した上で、なかでも経験が 基盤になっていることを説いているという。シェルビュリエは、プレヴォは既 知のことから未知のことまでつねに厳格に処理したいという欲望を持っていて、 しかも知性は完全に知ることができ、そしてその結果、計算という厳密な方法 81 2 を用いることができると考えていたと指摘している20)。またプレヴォは、1 年ウォーラストン(        )に宛てた手紙の中で、 「たぶん私は、単純な考え 方、とくに機械的な考え方に非常に愛着を持っているのだろう」述べている21)。 このほかにもプレヴォは、1 7 8 3年7月3日に「太陽系全体の重心の斬新的な動 き」 (     . 

(37). .  .     . .  .

(38).          .  .  

(39).

(40)    

(41).     )に関する 論文を、同年9月11日に「砲弾の速度の源」 ( ’          . . . . . 

(42)  .  .     )に 関する論文を読んでいるという22)。これらのことは、30歳代初めのプレヴォが ベルリンのアカデミーで、自分が担当する哲学やあるいは道徳に関する論文だ けではなく、自然科学にも興味を抱き、多分野の知見を積極的に取り込もうと していたことを示すエピソードと言えるであろう。  さらにこの時期、プレヴォは、多くの小論を発表した。そのなかには自然科 学分野のものもある。例えば、     . 

(43). 

(44) .    .

(45)  

(46) .   誌に気球に関す る数編の論文を投稿している。また彼は、ベルリンのアカデミーに着任した際、 政府の経済に関する小論を提出したと言われる23)。その後彼は、マルサス『人 口論』の翻訳を行ったし、 『ビブリオテーク・ユニヴェルセル』 (        .

(47).          )やその他のジャーナルに経済学に関するさまざまな小論を発表し た24)。  1 78 4年にプレヴォは、危篤の父に会うために休暇を取ってジュネーヴに戻っ た。父は永眠したが、プレヴォはそのとき、ジュネーヴで新たに空席となって いた文芸教授職への就任を依頼された。彼は、そこで受け取る報酬がベルリン で受け取るそれの3分の1にすぎなかったとはいえ、自分の祖国で生活する幸.

(48) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 211. 福感に抗しきれず、それを受諾してベルリンを去った25)。就任の際のセレモ ニーで、彼は、芸術の原理、とくに詩の原理に関する講演をラテン語で、また ベルリン・アカデミーの思い出に関する講演をフランス語で行ったという。し かしプレヴォは、祖国ジュネーヴで要請された教授職に、ほんの短期間しか就 いていなかった。  1 785年に、クサック(    )のギリシャ演劇の入手のためにパリに行くよ う求められたプレヴォは、そこでの滞在を延長する必要を感じるとともに、同 時に物理学と哲学の研究に全力を傾けたいという希望もあってジュネーヴ・ア カデミーにおける文芸教授職を断念し、パリから辞表を送った26)。  翌年、ジュネーヴに戻ったプレヴォは、さまざまな研究に情熱的に没頭した。 彼は、ジュネーヴ・ジャーナル(       . . 

(49).  )というタイトルの週刊誌 や、科学やアカデミックな論文を集めた多くの雑誌に、多数の興味深い論文を 発表した。彼はすでに1 7 7 9年の初め頃から熱現象に興味を注いでいたが、その 後も自然科学の分野の研究を続け、1 7 8 8年には「磁力の源泉」( ’          .         .

(50).     )に関する著作(     )を出版するとともに、17 91年には 『物理学雑誌』 (       . 

(51).     )に「熱平衡論」 (      .  . ’        . .    )を発表した。また、翌年彼は『熱の研究』 (             .   .   )を出 版した。それは、彼の熱伝導論の萌芽を含んでいたという。このテーマはまた、 彼を電流の組成にかかわる研究に導いた。ほぼ同じ頃、彼は、 『物理学雑誌』に 2編の「貿易風の限界について」 (        . .  

(52).         )の論文を掲載し た。これらは、物理学者間における彼の地歩を高めることに貢献したとキャン ドルは評価している。さらに彼は、1 7 90年8月2 1日付の『ジュネーヴ・ジャー ナル』に公教育に関する論文を掲載している27)。このようにプレヴォの研究対 象は社会科学、自然科学、それに教育等多岐にわたり、しかも次節でみるよう に彼の研究は、ジュネーヴの行政における公職を兼務しつつ、あるいはその後 も長期にわたって遂行されたのであった。.

(53) 212 アドミニストレーション第16巻3・4合併号. 2.18世紀末のジュネーヴとピエール・プレヴォ  1 78 6年の年末頃ジュネーヴに戻ったプレヴォは、20 0人委員会のメンバーに 選ばれた。それまで無縁だった公的業務に彼は初めて携わることになるととも に、その後たびたび公職を務めることになった。この「2 00人委員会」とはいか なる組織であろうか。  ダランベールの『百科全書』中の「ジュネーヴ」の項目には、略述されたそ の歴史のなかに「20 0人委員会」に触れた箇所がある。 「ジュネーヴの隣国であ るサヴォワ[公国]の君主たちは、時には司教たちに支持されて、この年に彼 らの権力を築くための努力を少しずつ、そして幾度も払っていたが、ジュネー ヴは、フリブール(      )やベルン(   )との同盟に支えられて、勇敢 にもそれに抵抗した。2 00人委員会(         .   . .

(54)     )が設立されたの はそのとき、すなわち15 26年頃であった。ルターやツウィングリの主張が紹介 され始めていた。ベルンは彼らの主張を採用した。ジュネーヴもそれらを高く 評価し、ついに163 5年にそれらを受け入れた。教皇(    )の位は廃止され た」28)。さらに同じ項目のなかに、ジュネーヴにおいて諸個人を分類する4つ の階層(①シトワイヤン(       ) 、②ブルジョワ(        )、③アビタン (       )、④ナティフ(     ) )が以下のように記述されている。 「ジュネー ヴでは諸個人を4つの階層に分類している。この都市(        )で生まれたブ ルジョワの息子であるシトワイヤン。彼らだけが司法官職(        . )に達 することができる。外国生まれのブルジョアやシトワイヤンの息子と、当局が 与えることができるブルジョアの権利を獲得した外国人であるブルジョワ。彼 らは議会(      . .

(55)  )と2 0 0人委員会と呼ばれる高等会議(       .

(56) ) にも所属することができる。この都市にとどまることを当局から認められてい るが、他には何もない外国人であるアビタン。最後にアビタンの息子たちであ るナティフ。彼らは父親よりもいくらか多くの権利を持っているが、しかし統.

(57) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 213. 29) 治からは排除されている」 。とはいえ、河合清隆氏に依れば、この階層は大い. に流動的で、 「ブルジョワの家計の市内で生まれた2代目男子は、自動的にシト ワイヤンに昇格する」し、 「ナティフやアビタンは、原則として、市に承認され 権利金を払えば、ブルジョワジー(誓約市民団)の一員となることができ」30) たという。  そして「18世紀初頭には、ナティフ・アビタンの数が人口の半分を占めるに 到っていた。彼らは総会に出席できない、共和国の政治から排除された無権利 31) 。それにもかかわらず、 18世紀中頃までは、この4つの階層間の 者であった」. 対立はなかったようである。むしろ、富裕化してサヴォワ公から爵位と領地を 買って貴族となった商人、家系のなかに貴族身分を持つ新教徒難民の一部、市 参事会・20 0人委員会に属し官職貴族化した行政職歴任者などから、 「1 7世紀に はシトワイヤンの身分のなかに実質的な都市貴族階層(パトリキア)が形成さ れ、彼らが[ジュネーヴ―筆者(以下同じ) ]共和国の支配階級として君臨した。 そして、スイス諸都市の例に漏れず、ジュネーヴでも彼らが市参事会を独占し、 《門閥寡頭制》が確立する」32)。このような「貴族」たちに対して闘争を挑ん だシトワイヤンやブルジョワに、ナティフとアビタンは連帯していたという33)。 ジュネーヴでは176 0年代初めに国論を2分する混乱が生じたあと、一旦は妥協 が成立したものの、17 8 2年になって対立が再燃した。「ナティフと結んだ市民 階級[シトワイヤンとブルジョワ]は、貴族的政府を更迭し、実質上、市民政 府を打ち立てた。しかし、従来のフランス、ベルン、チューリヒの三国に加え、 サルディニアの軍隊にも包囲されたジュネーヴの第1次革命は、ひとたまりも なく瓦解した」34)。  パッペに依れば、その結果、多数の「ナティフ派」が亡命を余儀なくされた35)。 その1 0年後の1792年1 1月3 0日、サヴォアで作戦中であった将軍モンテスキュー 伯率いるフランス軍がジュネーヴ市の入り口まで進攻してきたとき、ベルン・ チューリッヒ同盟軍とモンテスキュー将軍との間で協定が結ばれ、両軍とも.

(58) 214 アドミニストレーション第16巻3・4合併号. ジュネーヴの国境から撤退するという事件があった。その直後、ナティフ派が 蜂起して革命を成功させ、共和国の階層差別の廃止と身分的平等が実現された。 さらに国民議会(       .

(59).   )も設置され、憲法の起草が開始された36)。 1年あまり後の17 9 4年2月5日にかつてのナティフ派も参加した市民総会で、 人民主権の新憲法案が可決された。革命委員会は一旦は4人の理事会に席を 譲ったものの、経済状態は回復せず、民衆は困窮から抜け出せなかった。革命 委員会のプランは、個人財産を強制的に徴発して貧困者に再配分するというも のだった。17 9 4年7月1 9日夜、武装蜂起が勃発し、60 0人以上が投獄され、翌2 0 日に革命裁判所が開かれ、5 0 8人に判決が下され、有力者が処刑されたという37)。  ピエール・プレヴォがジュネーヴに帰還した1 7 86年は、ちょうどジュネーヴ の「第1次革命」と1 7 9 2年の革命勃発までの間、いわばジュネーヴのアンシャ ン・レジーム期であった。プレヴォはその時期に、行政と司法の重要な役職に 就いていた。2 00人委員会のメンバーのほかに、彼は、民事裁判所の判事(          . . . . )の職務もまた務め、いくつかの事件では検事総長代理(               .

(60) .       . )として事件を取り仕切った38)。当時彼は、社会秩 序の諸問題に関する彼の意見を何度も雑誌等に公表した。1 7 90年の4月に、彼 は、「二つの革命の比較」(              .  .

(61).   .  )をパリで発表した39)。 1 79 2年10月1 3日には、 「ジュネーヴ人が同胞に対する愛と彼らの行政官に対す る畏敬を表現した軍事的セレモニーの関係」 (       . .  .

(62).

(63)   .      .                . .  

(64). . .              .  .     . 

(65) .    

(66)                       . .  .  )を発表し、数日後には「一ジュネーヴ人からモンテスキュー の軍隊の一フランス人への手紙」 (       ’        . .  

(67). . .      ’                 )を、さらに1 7 9 3年1月1 2日に、 「ジュネーヴ、平等、独立、自由」 (      .

(68).   

(69)     .    .

(70)      )が発表されている。これを読んでプレ ヴォに書き送ったとされるネッケルの讃辞は、プレヴォを多少過大評価してい るとしても、これら多数の著作からは、祖国の危機打開のための彼の積極的な.

(71) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 215. 発言や行動が想像できる40)。これには、1 7 9 3年に同胞から求められて、国民議 会の議員になったことも影響しているかもしれない。彼がその職務を引き受け たのは、非常に激しい議論がたたかわされる議会を和らげ、節度あるものにし たいと願っていたことと、公教育に関する施設を支えたいと考えていたからだ という。しかし彼の願いは叶わず、またしばしば非常にむなしい努力であるこ とを痛感した彼は、4ヶ月後に辞表を出し、そのときからこの時期の公職とは 9 4年の革命によって 無縁であり続けた41)。それにもかかわらずプレヴォは、17 7月1 9日に逮捕され、8月8日まで投獄された。彼がそれまで保ち続けていた 政府高官との関係を利用して、 「祖国[ジュネーヴ]に関心を寄せるように努め」 て欲しいと彼がプロシャ国王に依頼した手紙が、彼を迫害する口実になったと される42)。  1 796年に始まるナポレオンのイタリア遠征は、ジュネーヴ共和国をも次第に 危機に陥れていった。1 7 9 8年4月、ジュネーヴはフランスに占領され併合され て、フランスの1カントンになった。その際プレヴォは、フランス政府との間で ジュネーヴのフランスへの併合の条件を処理する委員会のメンバーになった43)。  ところで、ピエール・プレヴォより1 1歳年上の、シスモンディの父ジェデオ ン=フランソワ・シモンド(     . . .

(72).     .  )は、17 7 8年 に聖職を引退した後17 8 2年に2 0 0人委員会のメンバーになっている。プレヴォ がそのメンバーになる4年前である。したがってこの2人は、17 86年以降の ジュネーヴ共和国の激動の時代に同じ公職を務めていたことになる。1 7 9 2年の 「第1次革命」の勃発で翌年2月にイギリスに渡ったものの、シスモンディの 母の病気のために約1年半後の1 7 9 4年半ばにジュネーヴに帰国していたシスモ ンディ一家を、次の革命が襲うことになる。シスモンディの父シモンドは、プ レヴォと同様に、1 7 9 4年7月の武装蜂起で投獄されたのである。まもなく釈放 されたものの、多額の財産税を徴収されたシスモンディ一家は、フランス国境 に近いシャトレーヌの土地と家を売却して、この年の秋、イタリアに向かった。.

(73) 216 アドミニストレーション第16巻3・4合併号. 事実上の亡命である。10月からトスカナ地方で土地探しをしていたシスモン ディはペッシャの近くの小作地を買い、1 1月に一家はこの地に移り住んだので あった44)。シスモンディとプレヴォの接点は、父シモンドとプレヴォが務めた 20 0人委員会という公職だけではない。シスモンディ自身、18 0 9年にジュネー ヴ・アカデミーの哲学教授に任命されている。アカデミズムの同僚としても、 両者間に交流の機会があったのである。  行政関係の公務に多忙の時も、プレヴォは物理学だけではなく文学や哲学の 研究や著作を続けていた。1 7 9 2 年に彼は、前任者の辞職により空席になった 哲学講座の後任に志願し、公開選抜試験を受けた後、翌年3月にこのポストを 得ることになった。その選考の際に与えられたテーマは、論理学として「三段 論法について」 、形而上学として「必然性と偶然性について」 、物理学として        . )に関する研究を   「水力学」であった45)。彼はこの時期、確率(   ル・サージュ(     )とともに続けた46)。カンドルは、プレヴォが若年の おりに物理学を学び、後に友人になったル・サージュとの関係が、その後のプ レヴォの物理学研究を方向付けたし、プレヴォの著作の多くに、ル・サージュが その知性を彼に及ぼした影響の目立った痕跡が見いだされると指摘している47)。. 3.ピエール・プレヴォとジェイン・マーセット婦人  ピエール・プレヴォは17 8 8年、ルイーズ=マルゲリート・マーセット嬢 (      . . 

(74)   .   

(75)     .      )と結婚した。しかし彼女は、ひとり の息子アレクサンドル・プレヴォ(      . .

(76).   .  )を残して、 翌年死亡した。1 79 5年にピエール・プレヴォは、ジャンヌ=ルイーズ・マー セット嬢(      . .  

(77)

(78) .    .      )と2度目の結婚をして、彼女と の間に3人の息子、ジャン=ルイ・プレヴォ(     . 

(79)   .     ) 、 ギヨーム・プレヴォ(     .

(80).      )、それにジョルジュ・プレ.

(81) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 217.           .

(82).  、             . .  、           .  . の家系図   . Haldimand Antoine François 1741-1817. Bellamy Marie. Prévost Abraham. Prévost Pierre 1751-1839. Prévost Alexandre 1788-1876. Marcet Louise. Prévost Jean-Louis 1796-1852. Marcet Jeanne-Louise. Prévost Guillaume 1799-1883. De La Rive Gaspard 1770-1834. Boissier Adélaïde. Marcet Alexander John Gaspard 1770-1822. Pickersgill Jane 1746*-1785. Haldimand Jane 1769-1858 (M me Marcet). Prévost Georges De La Rive Auguste 1801-1873. De La Rive Eugène 1804-1872. De La Rive De La Rive Marie William 1827-1900. 出所:          .

(83)    .   .

(84)  . 

(85)     .  

(86)          . 

(87)           . .

(88)

(89) .     

(90)   . . 

(91)              .  .  ’        .  . 

(92).        および出雲雅志「ジェイン・マーセットと経済学の大衆化」(飯田・出雲・柳田 編著『マルサスと同時代人たち』 (2 00 6))、 61**から筆者作成。 生存年数と没年からの推測である。 本文中に記されていなかった欧文表記と生没年に関して、著者出雲氏からご教示い ただいた。 ***)各家族について、その子や兄弟等のすべてが網羅されているわけではない。 *)   **) . ヴォ(       .  . )をもうけた。4人の息子たちは健やかに育ち、ピエー ルは老後も彼ら息子たちと生活を楽しんだとシェルビュリエは述べている48)。 ピエール・プレヴォの妻ルイーズ=マルゲリート・マーセットは、『経済学問 答』の著者であるマーセット婦人(       .    

(93).      )の夫ア レ ク サ ン ダ ー・ジ ョ ン・ガ ス パ ー ル・マ ー セ ッ ト(      .

(94)              .

(95) )と姉弟の関係にある。したがって、アレクサンダー・マー セットは、ピエール・プレヴォの義弟にあたる。一方、ジェイン(またはジャ ンヌ     ) ・マーセット婦人は、ロンドンにいたスイス人商人アルディマン (      )の娘である。アレクサンダー・マーセットは、デュモン(    .

(96) 218 アドミニストレーション第16巻3・4合併号.   )やディヴェルノア( ’         )そして若きシスモンディと同様に、 1 794年のジュネーヴにおける革命騒動の間、イギリスに滞在していた。彼は指 導的な化学者で、ガイ病院(        . )の講師だった。ナポレオン後の時 ’ 期に、彼は、ジュネーヴ・アカデミーの非常勤教授を務め、化学講座の開設の 際にはオーギュスト・ドゥ・ラ・リーヴ(      . 

(97).  )を援助したこと もあった。1800年にイギリスに帰化したにもかかわらず、彼は一時、ジュネー ヴの代議院に所属していた。1 8 14年に彼は、ジュネーヴの再建に積極的に関与 した。また彼は一時、ピクテ・ドゥ・ロシュモン(          . 

(98)  )等と ともにジュネーヴを代表してパリ講和会議に出席したり、デュモンやディヴェ ルノア、ジャスパール・ドゥ・ラ・リーヴ(       .  

(99). ) 、それにシャル ル・ルラン=ピクテ(    . 

(100). . )が果たしたのと同様に、ジュネーヴの ためにイギリスにおいて彼らの影響力を拡大することに貢献したとされる49)。  ジェイン・マーセット婦人は、デュモンとは親密な関係にある友人であった し、両者にはさらにサー・サミュエル・ロミリー(    . . .

(101) )が結び つき、ウイショー(       )とも親しかったという。そしてシスモンディ は最も遅く、1815年から親交があったと指摘するパッペは、その年の8月2 1日 付で母に送ったシスモンディの手紙を紹介している。 「夕食のために、ピクテ教授がマーセット夫妻とともに来ました。その 方々は後に化学に関して執筆する著述家になり、また非常に卓越した女 性であるアルディマン嬢と結婚した、プレヴォ教授の義兄弟です」50)。  フランスの1カントンになったジュネーヴにおいても、ピエール・プレヴォ の学究生活は続いた。物理学に関する著作だけでなく、彼は1 7 99年に「観念の 形 成 に 関 わ る 記 号 の 影 響」 (      . . .

(102) . .    .               . . .

(103).       )、18 12年に「人間精神に関する考察」 (     .  . ’         )を発 表している。1797年にはベルリン・アカデミーに「星の固有の動きに関する覚 え書き」 (     .  . 

(104)  

(105)   .    .      )と「光の反射に関する光学的考察」.

(106) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 219. (       .       ’        . .  

(107) .   . .  .     .              )が提出されて いる。180 5年には前年に死去したル・サージュの生涯と諸著作に関する注釈を 出版するとともに、1 8 1 8年には物理学に関するル・サージュの未刊の研究を出 版した。181 3年には「光の単位と伝播に関する考察」 (     .  . .    . .            . . .

(108)          )が『ビ ブ リ オ テ ー ク・ブ リ タ ニ ク』(       .

(109) 04年        )誌に掲載されている51)。さらにシェルビュリエによれば、18 から181 3年までの間に『文芸アルシーヴ』 (      . .

(110) .     )誌にさまざまな テーマで23編の論文を、また『ビブリオテーク・ブリタニク』誌に多数の英語 文献抜粋を発表している52)。  プレヴォは、アダム・スミス(     ) 、ブレール(    )、マルサス (    .  

(111).       . ) 、ベル(   ) 、マーセット婦人、それにデュガル ト・スチュアート(     . 

(112). )などの翻訳をしている。パッペは、 「プレ ヴォはジュネーヴにおける最初の国民経済学の教師であった」53)と指摘してい る。ブレールの修辞学(       .  

(113).  )の翻訳は1 8 07年2月に開始されて 1 0月に完成、  ステュアートの      .  .  

(114) . . . .  .  .      の 第1巻および第2巻の翻訳は1 8 0 7年1 1月から翌年2月までのわずか3ヶ月で完 成してその年に出版された。プレヴォは   ステュアートに、1 79 2年にたった 1回しか会っていないにもかかわらず、その後の活発な手紙のやりとりによっ て両者の間は「本物の友情で結ばれていた」とカンドルは指摘している。マル サスの翻訳は1808年3月から9月までの6ヶ月間で完成された54)。  プレヴォによるマーセット婦人の翻訳は1 8 17年に出版された。しかしすでに 18 16年の『ビブリオテーク・ユニヴェルセル』 (       .

(115)  .  .    )第2巻 に、プレヴォによる概要と著作からの抜粋が注釈付きで出版されていた。パッ ペの研究に依れば、マーセット婦人は道徳を重視し、かつ、富の追求と一般的 福祉とのあいだに満足すべき均衡を見いだすことを信じていた。パッペはその ことを、マーセット婦人『経済学問答』のなかの以下の箇所を引用して示して.

(116) 220 アドミニストレーション第16巻3・4合併号. いる55)。  「キャロライン:裕福であれ、大いに裕福であれ、他の誰よりも裕福であ れ、これが経済学の究極の目的であるように思われる。他方、道徳と宗教 はわれわれに、利益への愛をもって、あらゆる罪の源である富の欠乏を緩 和することがわれわれの義務である、ということを教えている。…しかし、 もし富が諸個人を幸福にしないのならば、富はどうして国民を幸福にする のだろうか? 貧困ではあるが徳の高い人々は、豊かではあるが悪徳な人 よりも確実により幸せである。  マダム :…われわれの非難は根拠がない。真の経済学諸原理は、…す べて国民の幸福の促進を期しているのであり、最も純粋な道徳の戒律に一 致している。それらは、国民の繁栄を増大させる真の手段は平和であり、 安全であり、正義であること、一方や他方(国民や個人)を犠牲にして豊 かになるのではなく、両者が自由な商業体制によってたがいに助け合うと いうことを示すことによって、満たされない渇望を緩和する傾向がある。 経済学は、とくに、ねたみ(    ) 、嫉妬、悪意の感情の敵である。 」56)  これに対してパッペは、 「プレヴォは、そのような『経済学と道徳との間の貴 重な接近』に、まだ究明されていない深さが隠れていると見る」と指摘して、 プレヴォの以下の主張を引用している。  「他の諸科学で何回も成功した方法、極端な仮定を立てるという方法を、 ここで適用することはできないのだろうか? もし労働がすべての分野で 単純化の最後の用語に用いられたらどうなるのだろうか? すべてが非常 に短い時間で容易に生産され、需要は全体として増加し、われわれが注解 を加えるテキストの論理にしたがって、生産は需要に比例するだろう。そ して、労働の容易さにもかかわらず、より多くの労働者が活動することに なるだろう。その結果は、労働者の食糧、衣服、住まいが改善するという ことになるのだろうか? ―多分。―何の疑いもなく、富者はあらゆるも.

(117) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 221. ので豊かになる。この豊かさのなかで一部の貧者は、彼らを維持するより はるかに多くのものを作り出すということはほとんど確実である。…[4 行省略]…さまざまな形のもとで思い描かれるこの観察は、富の論理を構 築したとしても幸福の論理はつくられない、ということを強く示してい る」57)。  パッペは、マーセット婦人の楽観的な見解に批判的なプレヴォに注目してい る。富の増加が人々の幸福に無媒介的につながるわけではないというプレヴォ の見解に、シスモンディとの共通性がかいま見えるからである。パッペは次の ように述べている。  「労働の合理化、それは分業を通じてであり、機械化を通じてであり、そ してその結果は、セー法則への懐疑。われわれはここでシスモンディ固有 の領域にいる。これらの問題は、すでに1 8 1 6年にプレヴォの心を捉えてい た。シスモンディは、イングランドでのみ起こったのではなくジュネーヴ の哲学者たちをも活発に取り組ませた論争に、関わっていたのである」58)。. おわりに  プレヴォは、1817年にロンドンに住む長男アレクサンドル・プレヴォの強い 勧めで、4ヶ月間のイギリス旅行をした。その帰国後も彼は精力的に研究を続 けており、何点かの重要な著作、とりわけ1 8 18年の2冊の『機械物理学概論』 (      . .

(118).    .        )と1 8 3 2年 の『輻 射 熱 の 原 理』(      . .

(119).         . 

(120)  ) 、それに『オディエ博士とベネディクト・プレヴォに関する 書 誌』 (      .  .

(121).                               .

(122)  .   .     )を 刊 行 しているし、ジュネーヴ物理学・自然史協会(       . .

(123).    .    ’                  .  .  

(124)  )に、あるいは『ビブリオテーク・ユニヴェルセル』誌や 『化学物理学年報』誌(       .

(125)   .     .  .   )等に多数の論文を発.

(126) 222 アドミニストレーション第16巻3・4合併号. 表している59)。オディエ博士はプレヴォの友人であり、ベネディクト・プレ ヴォはピエール・プレヴォの父親である。  1 823年、プレヴォ7 2歳の時に、彼は3 0年にわたって務めた教授職を辞任した。 1 838年1 1月26日、彼は寝室で転倒し、大腿骨頸部を骨折するけがを負った。そ のためにベッドで寝たきりの状態を余儀なくされ、その後肺炎を起こして翌 1 839年4月8日に他界した。享年8 8歳1ヶ月であった。  カンドルもシェルビュリエも、ピエール・プレヴォの追悼文の中で、プレ ヴォの不断の努力、温厚な性格、そして他人への愛を称賛している。シェル ビュリエはそのなかでひとつのエピソードを紹介している。 「私は一度、彼 [ピエール・プレヴォ]がはじめて感情の動揺をさらすのを見た記憶がある。 それは激しい動揺だった。…それは哲学の授業中だった。教授は、われわれの 学友のひとりの不注意に我慢できなくなって、突然、怒った様子で彼を怒鳴り つけ、彼をわんぱく小僧扱いした。それから彼[プレヴォ教授]はすぐに気を 落ち着けて、次のように言った。 『私は間違っている。あなたは若くて強く、立 派な学生だ。あなた自身の利益とともに私に対しても配慮することに、将来、 もっと熱心になる必要があることぐらい、あなたは完全に理解していると、私 は確信している』」 。これに続けてシェルビュリエは、プレヴォがこのように怒 りをあらわにしたのはこのとき1回だけで、普段は決して怒ったりしなかった、 ただ、 「彼の変化する表情だけが、そのようなときに彼の内面にある葛藤を表現 していた」と述べている60)。  シスモンディより20歳ほど年上であるとはいえ、ピエール・プレヴォは、革 命による旧支配勢力の追放と身分階層性の撤廃、フランスへの併合と独立、ス イス連邦への加盟等ジュネーヴの激動の時代をシスモンディに近いところで生 き抜いた。時には公職に就きながらも学問の進歩と教育への情熱を燃やし続け たプレヴォから、父親と同じ官職に務める教師として、あるいは後に同僚とし て、多くのことをシスモンディは学んだに違いない。まさにパッペが指摘する.

(127) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 223. ように、プレヴォとシスモンディがいる土俵は、客観的な状況から見て共通で ある面が多いと言えるだろう。.  注)  ( 1)拙著『シスモンディ経済学研究』三嶺書房、19 97年。 2)いずれも拙稿「シスモンディとリカードウの一接点」 (熊本県立大学総合管理学会編 『新千年紀のパラダイム ―アドミニストレーション―(熊本県立大学総合管理学部 創立10周年記念論文集)』九州大学出版会、2 004年) 、 「シスモンディの経済思想とその 由来」(飯田裕康・出雲雅志・柳田芳伸編著『マルサスと同時代人たち』日本経済評論 社、2 006年) 、 「シスモンディと周囲の人々との交流の一齣」(『アドミニストレーショ ン』第15巻3・4合併号、200 9年3月)等を参照。 3)       . 

(128)   

(129)   .  

(130)             .  .  ’        .  . 

(131).           .  

(132). .           .          .  

(133).            .    .  

(134) 

(135) 

(136)  .             .

(137).      .

(138) .  

(139) ’   

(140)                         . 

(141).     .    .       4)      . .

(142)

(143) .        .   .    5)父の職業の順序はカンドルとシェルビュリエで異なった解説になっている。 6)                    7)     .              8)     9)         10)     11)シェルビュリエは以下のように述べている。「彼が楽しんでいた自由と、自由が彼 に突然提供した光り輝く見通しを、彼はどれほど味わったことか! 十分な力強さと 健康な若者、彼をいとおしむ両親と友人たちに取り囲まれ、多くの異なる知識を持ち、 並はずれた活動的で洞察力の鋭い精神(     )と、あらゆる感動に感じやすい精神 (  )に恵まれて、彼は、彼自身の内でも彼の外でも、知的な能力を持っていると いう感情を乱すとか、彼が設けた目的を達成するためにそれを使うことを妨げるなど 全く見られなかった」。(     .               ).

(144) 224 アドミニストレーション第16巻3・4合併号. 1 2)                    1 3)     .              1 4)キャンドルは、 「彼(プレヴォ)はルソーとの会話を想い出すことを好んだ。そして この交際の結果、後(1780年)に彼は、この著名な著作家の著作集の死後の版に…断 章を、そして1 80 4年に       . .

(145) .    誌に       ルソーに関する手紙を寄せた」と 指摘している(                    ) 。しかし筆者はまだその所在を確認していない。 1 5)さらにプレヴォは、エウリピデスの翻訳を1782年にも出版し、また18 0 5年には       . .

(146) .    誌にエウリピデス哲学に関する3編の断章を発表しているという。 (                ) 16)     .              17)青年貴族アカデミーにおける哲学教授ポストの前任者はスイツェル(    )とい う人物だったが、死去によってそのポストは空席になっていた。その後継者として当 初マイスター(      )という人物が提案されたが、マイスターはこれを断り、彼の 友人で、当時ベルリンではその名がすでに十分知られていたプレヴォを推薦したと シェルビュリエは述べている。さらに、シェルビュリエは「この時期、大フレデリッ クがまだ健在で、彼のおかげで化学と文芸の発展がベルリンにフランス色をもたらし た。アカデミーではフランス語で論文が読まれていたし、多くの公的なコースがこの 言語で提供された」と説明している。(     .       ) 1 8)                    1 9)       および      .           2 0)     .           2 1)     2 2)      なおシェルビュリエは後者の論文に関連して、「ル・サージュ(     )の考 え方がプレヴォの精神に及ぼした影響が見て取れる」と指摘している。 23)シェルビュリエはこれを次のように述べて高く評価している。「そこで彼は、すで に経済学研究のための適性をすべて持っていることを証明していた。彼が、彼の思考 に新しい領域を切り開いた『諸国民の富』に関するアダム・スミスの著作を知ったの は、1、2年以上後であるにすぎない」。(     .           ) 24)シェルビュリエに依れば、プレヴォは上記の他に、 「旧政府の経済に関する小論」 (     .    ’        . . .    . 

(147)        )や「イギリスの財政事情」 (              .    ’           )を発表している。(     .       ) 25)キャンドルもシェルビュリエも、プロシャ国王はじめベルリンでの知己たちはプレ ヴォの帰国を非常に残念がったと記している(                      .

(148) .             )。とくにプロシャ国王フレデリックは、プレヴォが辞職を依願した書状に.

(149) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 225. 対する178 4年7月26日付けポツダムからの返書で、有能な資質を持つプレヴォには引 き続き自分のもとで仕事をしてもらいたいが、プレヴォが退職に固執するのなら残念 ながら同意する、と書き送っている。(     .       ) 26)プレヴォがなぜこの時期にギリシャ演劇の研究のためにパリに行かなければならな かったのかについては、キャンドルやシェルビュリエの記述では不明である。おそら くジュネーヴ・アカデミーの教授職が文芸を専門にしていたこと、プレヴォ自身がさ きにエウリピデスの翻訳で成功を収めていたのであるが、さらにその翻訳を推し進め る意図が彼にあったということが想像できる。シェルビュリエは、パリ滞在中にプレ       .   )と大いに ヴォはエウリピデスに憧憬が深かったシャリエール婦人( 親交を結んだと述べている。しかしそれだけではなく、プレヴォにとって文芸は必ず しも自分の能力のすべてを発揮できる分野ではなかったと、シェルビュリエは指摘す る。(     .           ) 2 7)                       および      .              2 8)   .  ’    . 

(150) 

(151) . . .   .   .  

(152) .   .               . .

(153)    2 9)         3 0)河合清隆『ルソーとジュネーヴ共和国』 (名古屋大学出版会、2 0 0 7年)。. 23.なお、 河合氏の本著は、16世紀前半の宗教改革期=ジュネーヴ共和国成立期から1 8世紀末ま でのジュネーヴの歴史をジャン=ジャック・ルソーとその著作を通じて詳細に跡づけ た好著で参考になる。 3 1)         3 2)     33)          3 4)         3 5)         .

(154).      . 

(155)       ’    ’    .        

(156)            36)      および河合清隆、            37)          38)     .              39)シェルビュリエに依れば、プレヴォはこの一論の中でこう述べているという。「革 命は和らげることができるし、災いから善を引き出すことによって避けることができ る行き過ぎを示すことは、なにがしか有益であると当時考えた」 。     .        し かし、注36)を付した本文中のプレヴォの著作やネッケルの手紙も含めて、それらの.

(157) 226 アドミニストレーション第16巻3・4合併号. 所在と内容について筆者は未確認である。 4 0)これに対して「ネッケルはこれらのパンフレットのひとつのテーマに関してプレ ヴォに次のように書き送った。「あなたは、けんかの場面のまっただ中にいる仲裁者 たちの中の最良の人、悪い結末となった困難のまっただ中にいる交渉委員たちの中の 最良の人に分類される。あなたはおおいなる聡明さと、的確さと、方法等々をもって 困難なテーマを論じた」。(     .            ) 4 1)                    42)     .              43)                    44)                参照。 45)                    および      .              46)シェルビュリエは、 「彼は新しい職務でこの理論[確率論]の諸要素を示すように勧 められ、そのために書いたノートをラテン語で出版」するとともに、ベルリン・アカ デミーに提出した3つの論文のなかでこのテーマを3つの部分で深く掘り下げている、 と指摘している。3つの部分とは、第1に、 「諸結果によって諸原因の確率を測定する 技術について」、第2に、 「諸原因の確率を測定する原理の有用性と範囲について」 、第 3に、「証拠の価値への確率計算の応用について」である。(     .              ) 4 7)                    4 8)     .              4 9)      . .

(158)

(159) .        .   .        パ ッ ペ は ア ル デ ィ マ ン (      )を      . .

(160)       .  と記述している。この両者は英・仏語の 相 違 と 思 わ れ る が、     と は 綴 っ て い な い。一 方、         .

(161)    .   

(162)  . 

(163)    

(164)    

(165)           . 

(166)

(167) では      とだけ記されている。ここでは最新とも言 える後者で表記する。 50)                51)                    および      .              5 2)     .           5 3)                5 4)                    および      .           5 5)                5 6)     . .  .  

(168) .        

(169) 

(170)     .     .      .

(171).

(172)  .

(173) ピエール・プレヴォの生涯と業績(中宮) 227. 5 7)          パッペはこれを、       .

(174)  .  .  .       . 

(175)  からの引用と 注記している。 5 8)     5 9)                    および      .              60)     .           . 参考文献       .

(176).        

(177)   . . 

(178)              .  .  ’       .  .               .  

(179). .           .          .  

(180).          .

(181).    .  

(182) 

(183) 

(184)  .             .

(185).      .

(186) .  

(187) ’      

(188)                         . 

(189).     .    .             . .  . ’        . .  . 

(190). 

(191). . . 

(192) .      .    

(193)              . .

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(212)        出雲雅志「ジェイン・マーセットと経済学の大衆化」(飯田・出雲・柳田編著『マルサス と同時代人たち』(20 0 6年)) 河合清隆『ルソーとジュネーヴ共和国』(名古屋大学出版会、2 0 07年) 中宮光隆『シスモンディ経済学研究』(三嶺書房、19 97年) ―「シスモンディとリカードウの一接点」 (熊本県立大学総合管理学会編『新千年紀の パラダイム ―アドミニストレーション―(熊本県立大学総合管理学部創立10周年 記念論文集)』九州大学出版会、2004年) ―「シスモンディの経済思想とその由来」(飯田裕康・出雲雅志・柳田芳伸編著『マル サスと同時代人たち』日本経済評論社、200 6年).

(213) 228 アドミニストレーション第16巻3・4合併号. ―「シスモンディと周囲の人々との交流の一齣」(『アドミニストレーション』第1 5巻 3・4合併号、20 09年3月) (本稿は、平成21年度科学研究費補助金(基盤研究 課題番号2 0 5 3 01 70) による研究成 果の一部である。).

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参照

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