悪人正機説と本覚思想
京都女子大学 古 川 U γ q ι方
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伴 比 4h ル一、問題の所在
鎌倉新仏教が﹁草木国土悉皆成仏﹂に象徴されるいわゆる天台本覚法門の展開であるという根強い見方がある。 一切衆生が本来的に具有している仏性をさとりの第一要因とし、仏道の成就はひとえにそれによるというもので、 これが鎌倉新仏教思相山の根底にあるというのである。この見方から生じる最大の難点は、仏教における行の意味を 根底から空無化してしまうおそれがあるということであろう。なぜなら、ややもすれば素朴な現実肯定に陥る本覚 法門においては、行はその実践の意味を失ってしまうからである。およそ世界の諸宗教の中で行を説く教えは仏教 を 除 い て は な く 、 もしその意味が失われたとしたら仏教そのものが崩壊することはいうまでもない。 さて、この本覚法門が親鷺浄土教の理解に適用されたらどうなるか。﹁生死即浬繋﹂﹁煩悩即菩提﹂﹁諸仏等同﹂ ﹁信一念即得往生﹂、その他本覚法門を想起させる用語や概念は親驚の著作のいたるところに見られるが、だから といって親驚の救済論が天台本覚法門の延長線上にあるとするのは早急にすぎるであろう。小論で取り上げたい問 題は、先にあげた﹁煩悩即菩提﹂等の概念をもって親驚が天台本覚法門の延長線上に自らの救済論を位置づけたかどうかというような通常の議論ではなく いわゆる﹁悪人正機﹂説をも本覚法門の範轄で捉えようとする見方であ る 親鷺の救済思想を構成する不可欠の要素が悪人正機説であることは否定できないが、この悪人の意味するところ に よ っ て そ の 救 済 論 の 内 容 が 大 き く 様 変 わ り す る こ と は 一 一 白 う ま で も な い 。 かつて親鷺のいう悪人が社会階層の底辺 に置かれ、権力に抑圧された人々であるとするような見方が流行したのに対し、現在ではいわゆる社会倫理に背く ような行為をした者を悪人正機の悪人と同値せしめ、 そういう人聞が無条件に救われるか否かなどという議論がさ かんに行われている。この場合、本有の仏性を悪人に置き換えると、悪人という現実がそのまま救済の要因になる というような見方で、これも親鷺の救済論を本覚法門的にとらえることから生じるとみなしてよいであろう。 しかし、このような見方は宗教的主体性というものをまったく度外視したものだと言わざるをえない。親鷺の救 済思想において宗教的主体性はいわゆる他力回向の信を抜きにして語ることはできず、また悪人正機がその信の不 可欠の内容であるとすれば、 それを本覚思想の延長線上に位置づけるのは困難であることはおのずから明らかにな る は ず で あ る 。 の 救 済 思 想 に お い て は 、 また、先に本覚法門的理解が仏道体系一般における行の意味を空無化してしまうおそれがあると述べたが、親鷺 その行の意味までもがこの他力回向の信に包含されているといわざるを得ない。なぜなら、 ﹃歎異抄﹄第七条に見える﹁信心の行者 L という表現に象徴されるように、親驚における信心の概念は仏教通途の 行の意味をも内包しているからである。 悪人正機説と本覚思想 }\ 七
悪人正機説と本覚思想 }\ }\
二、本覚思想の概観
昨今の本覚思想研究を概観すると、大きく二つの理解の仕方に分かれるといえよう。それは肯定的な見方と否定 的な見方である。いわゆる天台本覚法門に最初に着目した島地大等を承けて、鎌倉新仏教の諸宗はその展開である と提唱したのが田村芳朗氏であることは周知であるが、氏によれば、 天台本覚思想は、煩悩と菩提、生死と浬繋、あるいは永遠︵久遠︶と現在︵今日︶、本質︵理︶と現象︵事︶ などの二元分別的な考えを余すところなく突破・超越し、絶対不二の境地をその窮みにまで追求していったも ので、仏教哲理としてはクライマックスのものと評することができよう。 と解説されている。また、花野充道氏は、 ﹃起信論﹄の如来蔵仏教は、如来︵仏︶ の絶対性が前提になっていますから、絶対的な法身は単なる法や理で 如来の智を蔵することになり、 はなく、仏であり智を含んでいます。如来の智が本有常住であり、遍一切処であるが故に、衆生の内にも本来、 それを本覚と言うのです。 と 定 義 し て い る 。 それが仏教の究極的な実在観あるいは真理観を表現するものとして肯定的 にとらえたものであることは明らかである。例えば、浄土教の場合、﹃往生要集﹄に見られるような、 これら二氏による本覚思想の理解は、 魔界も悌界も及び自他の界も、同じく空無相なり。此の諸法の無相は是れ即ち備の員腫なり。嘗に知る、魔界 は即ち是れ悌身にして、亦即ち我が身なり。理無二なるが故に。而も諸の衆生、妄想の夢未だ覚めず一賓の相 を解らざれば、是非の想を生じて五道に輪廻す。︵﹁往生要集﹂巻中末、真宗聖教全書[真聖全]一の八四六頁、傍点引用者︶ 一切の諸法は本来寂静なり。有に非ず無に非ず、常に非ず断に非ず、生ぜず減せず、垢に非ず浄に非ず。一色 一香も中道に非ずといふこと無し。生死即浬繋、煩悩即菩提なり。一一の塵勢門を翻せば、即ち是れ八万四千 の諸波羅密なり。無明蟹じて明と局り氷融けて水と成るが如し。更に遠き物に非ず、齢の慮より来るにも非ず。 但一念の心に普く皆具足せること如意珠の如し。︵向、巻上末、真聖全一の七八三頁、傍点引用者︶ 煩悩と菩提とは瞳は一なりと雛も、時用異なるが故に染挿不同なり。水と氷との如く、亦種と果との如し。其 の腫は是れ一なれども、時に随ひて用異なるなり。此に由りて道を修する者は、本有の偽性を顕せども、道を 修せざる者は、終に理を顕すこと無し。 などは、相対的分別を超えた絶対的一元の世界をさとることを仏道の究極とするもので、 ︵問、巻上末、真聖全一の七八六頁、傍点引用者︶ まさに本覚法門の典型と も言うべきものである。ただし、ここで注意すべきは右の引文の傍点部分であって、﹁一賓の相を解る﹂﹁塵勢門を 翻す﹂﹁道を修す﹂が本有の仏性あるいは不二の実相をさとる、すなわち始覚を実現するための必須条件とされて いることである。つまり、仏道の実践なくして、あるいは仏果の証得なくして、魔界がそのまま仏界であり、煩悩 がそのまま菩提であると言われているわけではない。本覚法門を肯定的に見る人はこのことを了解した上でこれを 容認していることは間違いないのである。 ちなみに、この本覚法門が浄土教に適用された典型的な例が、 我身即ち輔陀、晴陀即ち我身なれば、裟婆即極楽、極集即裟婆なり。誓えば因陀羅網の互に相影現するが如し。 故に這か十寓億園土を過ぎて安養沖剰を求む可からず。一念、妄心を翻して法性の理を思はば、己身に悌身を 見、己身に浄土を見ん。法性の明鏡身を得ば、像にして現ぜざる無し。浄械唯是れ迷悟の差別なり。迷の局に は極繁即裟婆、畳悟の前には裟婆即極集なり。 悪人正機説と本覚思想 }\ 九
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︵﹃観心略要集﹄、大日本併教全書第三十九巻、天台部三の四九頁、傍点引用者︶ であり、ここには先の﹁往生要集﹄ の不二一元論的な実在観が如実にあらわれているが、 かといって現実の自己が そのまま阿弥陀であり、この臓土がそのまま浄土であるといっているわけではない。例えば先の﹁塵努門を翻す﹂ いわゆる天台本覚法門がこの と同じく、﹁一念、妄心を翻して﹂が必須の条件となっていることは明らかである。 線に沿って語られる限り、 すなわち仏道の実践を通じて実在の不二二冗性が語られるのであれば、 そ れ は そ れ で 一 定の意味があるというべきであろう。︵ただし、親鷺の場合、この論理がまったく成立しないことは明らかで、 そ れ に つ い て は 後 述 す る 。 ︶ さて、これに対して天台本覚法門が否定的に捉えられるのは、 それが仏道の実践を抜きにした無条件の現実肯定 を標梼する思想であるとみなされる場合である。事実、現象界のすべてがそのまま真如の発露であるとするこの本 覚法門が自己肥大して、極端な世界観・人間観を生み出したことは周知である。例えば天台口伝法門が説く﹁草木 不成仏説﹂などはその典型であったと言えよう。それは﹁草木国土悉皆成仏﹂をさらにすすめて、草木国土はその まま究極の仏なのであるから、 その上に成仏する必要はなく、 したがって﹁不成仏﹂だというのである。また、こ のような本覚法門理解は、煩悩的人間存在という現実をそのまま肯定するところから、鎌倉末期以後の天台の玄旨 帰命壇のごとき呪術的秘儀を生む母胎となるという歴史上の汚点があったことも事実である。 本覚思想は日本仏教の一大成果であるという見方もあるが、このように大乗仏教本来の行道の意義を根底から晦 ませてしまう危険性があるという一面も否めないであろう。本覚思想批判はおおむねこのような側面を捉えてなさ れてきたといって間違いはない。 しかし、近年﹁本覚思想は仏教にあらず﹂とのスローガンでいわゆる﹁批判仏教﹂を展開している袴谷憲昭氏に よれば、先に述べたような単なる仏道実践の欠落というような観点からではなく、 それが提示する実在観そのものが非仏教的なものであるとして全否定するのである。氏の言うところによれば、本覚思想とは、この現象世界の根 底に何か本質的かつ究極的なものを想定して、 それが現実世界の一切の存在・現象を生起せしめているとする見方 であるが、こうなるといわゆる天台本覚法門にいう本覚という概念では捉えきれないものだと言わざるをえない。 袴谷氏はまた 少なくとも、私が﹁本覚思想﹂と言う場合は、本質的に言って、 一切法の根底に一なる﹁体﹂や﹁真如﹂とし ての﹁本覚﹂を捉え、そのうちに一切合財を包含するという構造を示していれば、同一の﹁本覚思想﹂と見倣 し て い る の で あ っ て 、 : : : と述べているが、これはかつては袴谷氏の盟友であったという松本史朗氏のいう﹂
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︵基体︶という概念とそ の軌を一にしているとみなしてよいであろう。このように現象界の根底に何か固定的・実体的なものを想定するよ ︵ 6 ︶ うな見方を松本氏は4
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︿包州勺と名づけている。ここまでくると両氏の言う﹁本覚思想﹂がいわゆる天台本覚 法門とはかなりおもむきの違ったものであることがわかるであろう。二、本覚思想から見た親鷺の悪人正機説
肯定的であれ否定的であれ、本覚思想を媒介として見た親鷺の救済論および悪人正機説は、以下のような二種に 分類されうるであろう。 阿弥陀仏の本願というかたちで提示される真如は、 もとより一切の衆生を包含する、あるいは一切の衆 生 に 内 在 す る か ら 、 そこに提示されるのは煩悩の現実をそのまま首定し、 それを無限定に救済することを 標梼する本覚法門の一形態であって、悪人正機説もそれを土台にして成立する。 悪人正機説と本覚思想 九悪人正機説と本覚思想 九 2 阿弥陀仏の本願というかたちで提示される真如は 一切の衆生に内在するところの﹁基体﹂であり、そ れは阿弥陀仏が一切の衆生を救済する契機となる﹁悪﹂と即一であるから、悪人正機説は否定的な意味で の本覚思想の延長線上にある。 裏切るものであるとする見方に分かれるのであるが、 以上のように、親驚の救済論ひいては悪人正機説は、大乗仏教の真如観の成果とする見方と仏教本来の実在観を はたしてそのいずれかに与すれば問題は解決するのであろう iJ, そ こ で 、 まず親鷺の悪人正機説を本覚思想の一展開と見て肯定するという立場から支持した説を紹介してみよう。 これに関して、先の花野充道氏は以下のように書いている。 仏教は世界三大宗教の一つに数えられているが、僧侶の肉食妻帯を容認する現代の日本仏教は、宗教として特 異な光彩を放っている。私は、 日本仏教がさほど蹟陪もせずに、肉食妻帯に踏み切ったのは、 日本で開花した 本覚思想が教理のべ l スにあったことも一因ではないか、 と思っている。原始仏教以来、仏教は基本的には、 煩悩を絶つ修行によって、悟りを得ることを目指した。 理が成立した後も、その基本は変わることはなかった。 近い形で首定している。 ところが日本の本覚思想は 空思想に基づいた煩悩即菩提の教 人間の煩悩を開き直りに 大乗仏教が展開し 現 代 の 日 本 仏 教 が 、 僧侶の肉食妻帯にさほど後ろめたきを感じないのは、 その教理が 本覚思想に基づいているからではないか。あるいは結果的に、 ︵ 7 ︶ とりわけ親驚の宗教に、そのことは言えると思う。 その宗教が本覚思想と同じだからではないか。 リ 山 中 ﹂ 匹 、
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この花野氏の見解を受け入れるとすると、親鷺は天台本覚法門を受容した結果として﹁人聞の煩悩を開き直りに 近い形で肯定している﹂ことになり、 その救済論の不可欠の要素である悪人正機は、親鷺自らが開きなおった結果 として生まれた自覚にすぎないということになってしまう。したがって、﹃教行信証﹄﹁信巻﹂に遺したあのよく知られた﹁悲しいかな愚禿鷲、愛欲の広海に沈没し﹂云々 ︵ 浄 土 真 宗 聖 典 ・ 註 釈 版 、 以 下 註 釈 版 、 二 六 六 頁 ︶ の 言 葉 ︵そこには親驚自身の肉食妻帯の事実も含まれているはずだが︶ は、もしこの理解を容認するとすれば、悲歎の言 葉ではなく開き直りの言ということになってしまうであろう。しかし、親鷺においては、 いわゆる機の深信は他力 回向の信のおのずからなる展開であって、すなわち阿弥陀仏の光に照射されて見せつけられた逃げ場のない自己の 姿であって、開き直ることなどできない底なしの悲歎であったはずである。 次に取り上げるのは星野元豊氏の主張である。氏は﹃唯信紗文意﹂ の﹁この如来、微塵世界にみちみちたまへり、 すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり﹂︵註釈版、七
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九 頁 ︶ と い う 文 に つ い て 、 ﹁コノ心ニ誓願ヲ信楽スルカユへニ﹂とある﹁コノ心﹂こそ信心の業識といわれたものではなかろうか。﹁コ ノ心﹂はご切群生海ノ心﹂であり、それは微塵世界にみちている如来である。群生海の心即如来である。こ れが信心の業識の原理的構成である。私の信心の業識は如来である。私の信心の決断の原点はここにあるので ある。私の決断は煩悩の私の決断である。この煩悩的決断の原点は微塵世界にみてる如来であり、仏性である。 ︵8 ︶ 信心が煩悩の私の煩悩的決断であるが故にこそ、煩悩のまま私は光明土に往生するのである。 と言う。これはいわゆる﹁両重因縁﹂ の 文 を 、 ﹁ 唯 信 紗 文 意 ﹄ のよく知られた文で解釈しているのであるが、これ に よ る と ﹁ 一 切 群 生 海 の 心 ﹂ がそのまま ﹁ 微 塵 世 界 に み ち み ち て い る 如 来 ﹂ と即一であることが前提にされている。 つ ま り 、 煩悩と如来が即一であるというのである。さらに﹁信心が煩悩の私の煩悩的決断である﹂とまで断言して ここには信心が如来回向であるという親鷺のもっとも特徴的な理解が欠落していることが明らかである。 い る が 、 これもまた親鷺の救済論を本覚法門的に理解する一典型であると言えよう。 と こ ろ で 、 先にふれた松本史朗氏は、 親 驚 の 救 済 論 に 関 し て 、 悪人正機説と本覚思想 九悪人正機説と本覚思想 九 四 ﹁煩悩成就のわれらが、他力の信とのべたまふ﹂と述べられたことからも知られるように、か他力たる本願が 煩 悩 具 足 ︵ 不 断 煩 悩 ︶ の 凡 夫 ︵ 悪 人 ︶ をすくう。ということがか信。 の内容とされているのであるから、 そ の グ 一 一 = 口 F 4 1 A の内容は、汐煩悩即菩提。というテーゼと完全に異なるものではないのである。 つまり、親鷺にとって の か 信 。 が 、 H 煩悩即菩提。という如来蔵思想的なか同一性。の哲学を内容としているという側面をもつこと は、否定できないであろう。しかも、親鷺においては、か悪人正機。説やか造悪無碍。説も、このか同一性。 の哲学、如来蔵思想的一元論を根拠として定立されているのである。 と述べているが、この見解においても親驚の救済論の核心をなす他力回向という視点が完全に欠落している。親驚 の信が﹁煩悩即菩提﹂をその内容としていることは否定できないが、 その信は他力回向のもたらすところであって、 信心の行者の自覚による産物ではない。他力回向の信は、自己の中には往生に資するようなものは微塵もないと信 知することであって、煩悩があるから往生が可能であるなどという開き直りではない。 松本氏はさらにつづけて、 親驚思想の研究において、何よりも避けるべきことは、親鷺の宗教意識に深刻な罪業意識が認められることは 自明の事実であると考えて、その所謂か否定。的側面を強調することであろう。即ち、私見によれば、親驚思 想の根底には、如来蔵思想的二冗論、つまり、極めて楽天的肯定的なか同一性。の哲学があるのではないかと 、 ︵ 刊 ︶ 絶えず疑いつやつけることによってのみ、親鷺思想に対する批判的視点が獲得されるであろう。 と言うが、これはいったいどういう論理であろうか。素直に読めば、氏においては﹁親鴛思想に対する批判的視 点﹂をもたなければならぬという前提がまずあって、 それのために悪人正機説を意図的に如来蔵思想的︵ここでは 本覚法門的と同義とみなして差し支えないであろう︶ ﹀ っ か 。 なものだと曲解しているとしか思えないのだが、 どうであろ
四、本願力回向
先に、親鷺の場合、阿弥陀と煩悩の衆生とが即一であるような実在の不二二苅論は成立しないということにふれ たが、それは ﹁ 教 行 信 証 ﹄ ﹁ 信 巻 ﹂ の しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を医す、定散の白心に迷ひて金剛の真信に昏 し ︵ 註 釈 版 、 二O
九 頁 ︶ という一文に端的に表明されている。これは言うまでもなく、自己存在の根底にある清浄の心性のほかには仏も浄 土 も 存 在 し な い 、 という本覚法門的立場を真っ向から否定するものであって、親驚の実在感の基礎となるべきもの である。先の﹁往生要集﹄ の不二一元論的な実在観の文について、現実の自己がそのまま阿弥陀であり、この械土 がそのまま浄土であると言っているわけではなく、﹁塵労門を翻す﹂とか﹁一念、妄心を翻して﹂が必須の条件と なっていると述べたが、親鷺の場合は仮にそれが信であるとしても、 そもそもその信が他力回向の所産であって、 先に引用した星野氏が言うような自己の煩悩心の産物ではないのである。 いったい、親鷺思想を理解する上で最も難解な概念があるとすれば、それは他力回向ということであろう。仏教 通途の回向思想を覆して、 その主体を行者から阿弥陀仏にシフトするという、 いわば破天荒の回向理解が親鷺の救 済論の中核をなしている。それはまた親鷺の信について用いられる論理であって、この他力回向の信こそが親鷺の 救済論を解く必須の鍵であると言わなければならない。例えば、﹃教行信証﹄﹁信巻﹂の、 常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもって のゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば 悪人正機説と本覚思想 九 五悪人正機説と本覚思想 九 ノ 、 ﹂の心顛倒せず、この心虚偽ならず。 ︵ 註 釈 版 、 一 一 一 一 頁 、 傍 点 引 用 者 ︶ それが﹁如来加威力・大悲 という文を通常の論理では理解することはできない。なぜなら、信を獲ることの難は、 広慧力﹂すなわち他力によるからだというのである。通常の論理では他力によれば易であるはずの獲信は、親鷺の 場合は難である。それはとりもなおさず自力心による獲信の難を説いているということでもある。右と同趣旨の文 そ こ に は 、 が﹃浄土文類衆紗﹂に見られるが、 薄地の凡夫、底下の群生、浄信獲がたく、極果証しがたし。 ゆゑに、疑網に纏縛せらるるによるがゆゑに。 なにをもってのゆゑに、 往相の回向によらざるが いまし知来の加威力によるがゆゑに 博く大悲広慧の力による が ゆ ゑ に 、 清浄真実の信心を獲。 四 八
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頁 、 傍 点 引 用 者 ︶ の﹁如来加威力・大悲広慧力﹂という二由に加えて、﹁往相の回向によらざるがゆ ﹂ の 心 顛 倒 せ ず 、 こ の 心 虚 偽 な ら ず 。 ︵ 註 釈 版 、 と あ っ て 、 穫 信 の 難 は 、 ﹁ 信 巻 ﹂ ゑに﹂および﹁疑網に纏縛せらるるによるがゆゑに﹂という新たな二由があげられている。すなわち、獲信の難は 他力回向によらずにいわゆる自力心︵ここでは﹁疑網﹂︶ によってつかみ取ろうとすることによるのであり、 そ う いう姿勢が否定されているのである。 さらにこれらの文は﹁化身土巻﹂ の 大信心海ははなはだもって入りがたし、仏力より発起するがゆゑに。 ︵ 註 釈 版 、 三 九 八1
三 九 九 頁 ︶ と い う 文 と 呼 応 す る 。 ﹁ 信 巻 ﹂ の 文 も ﹁ 文 類 緊 紗 ﹂ またこの﹁化身土巻﹂の文も、すべて自力心の否定に したがって親鷺の信は行者の中に生じた確信のごときものではありえない。 の 文 も 、 おいて獲信が語られているのである。 往生のためのプラスになると考えられる要素も、 マイナスになると考えられる要素も、 それが行者にもともと具有 されていたものである限りはすべて否定され、あるのは他力回向のはたらきのみである。このことは﹃教行信証﹄ の解説書である存覚の ﹁ 六 要 紗 ﹄ の深信についての釈すなわち、有善・無差口を論ぜず自の功を偲らず、出離偏に他力に在ることを::: 真聖全二の二八一頁︶ の文が的確に表現している。 つまり自己の意識の範囲内でいかに往生のための善があることにうぬぼれようと、 そ の反対にいかに往生のための善をもたないことを嘆こうとも、 いずれも無功である。往生は﹁偏に他力に在る﹂ の であって、行者の功によるのではない。 伝統的な教学において、 二種深信の機の深信と法の深信に前後関係をつけることを厳に戒めてきたのも、機の深 信が行者の反省の産物であるとみなされることに対する警告にほかならない。 つまり、自己が悪人であるという機 の深信の自覚をもつに至ってはじめて往生が可能であるという法の深信が得られるのではなく、これら二種の深信 はともに他力回向の信の内容にほかならない。それ故、﹁高僧和讃﹄善導讃の、﹁煩悩具足と信知して﹂︵註釈版五 九 一 頁 ︶ の信知は行者の反省による自覚の産物ではなく、他力団向のはたらきの内容なのである。 いま、この﹁煩 悩具足﹂を﹁悪人﹂に置き換えると、この﹁悪人﹂は行者の反省的自覚の内容なのではなく、他力回向の信の内容 であるということになる。したがって、 そこには全き自己否定のみが存在するのであって、ここにはじめて親鷺の 悪人正機説が成立する基盤を見つけることが可能になるのである。 註︵1︶田村芳朗﹁天台本覚思想概説﹂、日本思想大系﹁天台本覚論﹄、岩波書店、四七八頁、傍点引用者。氏はまた、 ﹁本覚とは﹃大乗起信論﹄に説かれたことばで、覚・不覚の二辺をこえた不二・空に真の絶対的さとりがあり、そ れが生滅の現象界︵生滅門︶に本来、本然としてそなわることをいったものであるが、天台本覚思想は、この﹃大 乗起信論﹄の本覚の意味を拡大解釈して、生滅・変化する現象界こそが、本来、ほんとうのさとりの世界であると 主張した。多種多様な事象が生起・変滅する現実のすがたこそは、永遠・普遍な真理の生成躍動のすがたであり、 そこにこそ、ほんとうの生きた真理が存するということである。逆に、現実相を捨てて立てられた真理は、仮のも の で あ り 、 死 ん だ も の と さ れ る 。 ﹂ と 述 べ て い る 。 ︵ 田 村 芳 朗 ﹁ 天 台 法 華 の 哲 理 ﹂ 、 ﹃ 仏 教 の 思 想 ﹄ 5 、絶対の真理 悪 人 正 機 説 と 本 覚 思 想 九 七
悪 人 正 機 説 と 本 覚 思 想 九 }\ ︿ 天 ム 口 ﹀ 、 角 川 書 店 、 四 一 頁 ︶ ︵2 ︶花野充道﹁本覚思想と本迩思想||本覚思想批判に応えて||﹂、駒津短期大準併教諭集第九時抗、一五頁︶氏は さらに、﹁仏の覚りは、主観と客観︵対象︶とが相対した妄分別の念を離れている。それはい照空が一切に遍するよ うに、法界と一体である。すなわち、彼此相対の仏ではなく、彼此絶対の仏︵法身︶である。時間的空間的な相対 性を超越した法身は、一切に遍するが故に、衆生にも内在し、それを本覚︵衆生に具わる、もとよりの覚り H 仏 性︶と名づける。真実真如の世界においては、彼此相対の差別はなく、ただ一つの法界である。﹂と述べている ︵ 向 、 一 一 頁 ︶ ︵ 3 ︶﹁草木成仏の事﹂︵﹃三十四箇事室之、日本思想大系﹁天台本覚論﹂、岩波書店、四七七頁︶ ︵4 ︶これに関して袴谷氏は::: 私が﹁本覚思想﹂を規定する際に、他の学者と最も大きく異なる点は、その用語に﹁天台﹂という限定語を決して 付さないということにあるといえる。︵袴谷憲昭﹃本覚思想批判﹄、大蔵出版、八頁︶ ︵5 ︶ 袴 谷 前 掲 書 、 七 ︵ ︶ 八 頁 。 ︵6 ︶ 松 本 氏 の い う 門 出 品 吉 ︿ 酌 門 戸 出 を 理 解 す る た め の 一 例 と し て 以 下 の 文 を あ げ て お く : : : 唯識説があらゆる面で己
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︿ 包 j即であることは一見して明瞭である。その三性説は、色町間E
品 門 目 白 の 理 論 的 解 釈 に 他ならない。依他起性というものがまず−25
としてあり、その上に遍計所執性というものがE
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と し て 立てられ、前者に後者の無いことが円成実性といわれるからである。また唯識説においては、ア l ラヤ識が一切法 の根源として想定されているが、ア l ラヤという語自体が既に、Z
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∞としての性格を示しているのであり、﹃勝室 経﹂との関係で言えば、これは無明住地︵白三身官官出σ
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むという概念から発展したものと思われる。︵松本史 朗﹃縁起と空i
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如来蔵思想批判||﹄、大蔵出版、三二六頁︶ ︵7 ︶﹁本覚思想の宗教学的意義︵。∞戸︶﹂第十九回国際宗教学宗教史会議世界大会︵ E Z H N N C S 、 H c w 吉 ︶ 七 五 頁 、 傍 点 引 用 者 。 ︵ 8 ︶星野元豊﹁親鷺と浄土﹄、コ二書房、四三頁、傍点引用者。 ︵ 9 ︶松本史朗﹁法然親鷺思想論﹄、大蔵出版、三一五頁。 ︵叩︶同右、傍点引用者。 ︵日︶ちなみに袴谷氏が言ういわゆる﹁批判仏教﹂とは、 発 表 要 旨 集 、本覚思想とは、自国の土着的伝統の場を自己肯定的に温存する﹁場所の哲学︵
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七 宮 町 ︶ ﹂ だ と も 言 え る のであるが、では、この本覚思想に真向から対立する仏教とはなにかといえば、むしろその当然の帰結かもしれな いが、正しい仏教とは、まず土着の思想や宗教を否定する外来の思想であり、次に、その土着温存の﹁場所の哲 学 ﹂ を 否 定 す る ﹁ 批 判 の 哲 学 ︵ 門 叶 一 色 円 丘 ℃ 立 ︸ 。 由 。 匂 ﹃ 弓 ︶ ﹂ で な け れ ば な ら な い の で あ る 。 そ こ で 、 仏 教 に つ い て 、 改 め てその外来性及び批判性を確認することが、本覚思想批判のいわば基礎を形造ることになるであろう。︵︵袴谷憲昭 ﹃本覚思想批判﹄、大蔵出版、六頁︶ということらしいが、氏のこの説を理解することのできる人はまずいないで あ ろ う 。 補註 ︵l ︶山折哲雄氏は、オウム事件を取り上げて・: −この新教団の指導者である麻原彰晃こそ、まさに現代における極重の﹁悪人﹂ではないか。とすればこの悪人は ﹃歎異抄﹄のいうところにしたがって宗教的に救われるのであろうか。﹁いわんや悪人をや﹂の論理にもと+ついて 浄土に往生できるのか。私はその自問自答のなかで立ち往生したが、右の悪人救済の議論では無条件で救われると いっている。﹁いわんや悪人をや﹂について、唯円は何一つ条件をつけてはいないからだ。︵山折哲雄﹁悪人救済は 無条件か||オウム事件で考えた﹂朝日新聞、二OO
四年六月二七日、﹁自作再訪﹂。これは同氏の﹁悪と往生|| 親 鷺 を 裏 切 る ﹁ 歎 異 抄 ﹂ ﹄ 、 二O
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年、中公新書、の本人による要約とみなしてよいであろう。︶ と述べているが、これによると氏は﹁歎異抄﹄で唯円が行者の悪についての無条件の救済を主張していると理解し ているように思える。しかし、これもまた他力回向を考慮せずに、行者具有の本来的な悪を本覚法門的にとらえた 一 例 で あ る と い え よ う 。 ︵2 ︶キリスト教神秘主義と本覚思想の一例として:: 花園大学の清水大介氏は、宗教倫理学会二OO
五年度第三回研究会において、﹁キリスト教と禅の相克と調和ーー ヴィリギス・イェ l ガ l の場合﹂と題する発表を行ったが、そこにはキリスト教の救済論に本覚法門的救済観が混 入した好例が取り上げられていた。例えば、 ・神は、樹には樹として、動物には動物として、人間には人間として、天使には天使として顕現しています。これら の存在物︵者巾田町ロ︶とは別に神があって、それが存在事物にいわばもぐりこんでいるのではありません。そうでは 悪 人 正 機 説 と 本 覚 思 想 九 九悪 人 正 機 説 と 本 覚 思 想