• 検索結果がありません。

真宗研究46号 009高山秀嗣「法然・親鸞と末法思想――伝道的視点からの一考察――」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "真宗研究46号 009高山秀嗣「法然・親鸞と末法思想――伝道的視点からの一考察――」"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

道 轡

主末

ら法

の 田

考相

寂 一

鎌倉新興仏教成立の背景として末法思想があったことは、既に多くの研究がある。日本においては、永承七︵一

O

五二︶年に末法に入るとされていて、この頃は時代の揺藍期でもあったために、当時の人たちの末法意識がさらに深 刻なものになったであろうことは想像に難くない。その中でも、仏教界に起こったいくつかの出来事は、末法思想の ︵ 2 ︶ 根源である仏法の衰滅を如実に感じさせるものであった。 そのような状況の中で、法然らによって新たな念仏の教えが説かれていくのである。こうした時代背景の中で登場 し た 、 鎌 倉 新 興 仏 教 の 祖 師 で あ る 法 然 ︵ 一 一 一 一 一 一 一 一 ー ー 二 二 二 ︶ ・ 親 鴛 ︵ 一 一 七 一 一 一 ー ー 一 二 六 二 ︶ の 両 者 が 、 ど の よ う に 末法思想を受け止めていたのかという彼らの末法意識と、その受容はいかなるかたちで彼らの伝道活動に展開し得た のかという方向性を、本論では彼らの著作や時代状況の差異などを基にしつつ考察していきたい。

(2)

法然の末法意識

まずは法然が、末法に対してどのような意識をもっていたかについて見ておこう。法然においては末法意識が明確 ︵ 4 ︶ に見られ、そうした意識が彼にとって念仏の教えを説く契機となったことが十分に考えられる。法然の末法意識を彼 ︵ 5 ︶ の 著 書 か ら 探 っ て い く 場 合 、 そ れ を 雄 弁 に 語 る も の は 、 法 然 が ﹁ 末 法 灯 明 記 ﹄ ︵ 以 下 、 ﹃ 灯 明 記 ﹄ ︶ を ど の よ う な か た ち で引用しているかというその事実であると思われる。法然は、﹁逆修説法﹂・﹁十二問答﹂の二つの﹁法語﹂において ﹁ 灯 明 記 ﹄ か ら 文 章 を 引 い て い る 。 ﹁ 逆 修 説 法 ﹂ に は 、 ﹁ 末 法 之 中 、 但 有 二 言 教 一 無 二 行 証 一 : : : 既 無 二 戒 法 J 破 ニ 何 戒 J 何 因 尚 有 二 破 戒 J 破 戒 尚 無 、 何 況 持 戒 耶 ﹂ と あ り ︵ ﹁ 全 集 ﹄ 二 四 三 頁 ︶ 、 ﹁ 十 一 一 問 答 ﹂ に は ﹁ 末 法 ノ 中 ニ ハ 持 戒 モ ナ ク 、 破 戒 タタ名字ノ比丘ハカリアリト、伝教大師ノ末法灯明記ニカキタマヘルウヘハ、ナニト持戒破戒 ノ サ タ ス ヘ キ ソ ﹂ と あ る ︵ ﹁ 全 集 ﹄ 六 一 一 一 四 頁 ︶ 。 こ れ ら の 引 用 か ら 、 法 然 が こ の 時 代 に お け る ﹃ 灯 明 記 ﹄ の も つ 意 義 を 十 分に認識していたことが知られる。法然自身も、﹁わがごときは、すでに戒定慧の三学のうつは物にあらず﹂︵﹃伝全 モ ナ シ 、 無 我 モ ナ シ 、 集﹂二六頁︶との自覚をもっており、末法無戒の時代に持戒・破戒を沙汰すべきではなく、戒律を遵守することが自 分にとっても困難であるとの思いがあったといえよう。そしてその意識が、﹃二一部経釈﹄等における念仏の選択とい う 過 程 を 経 た 上 で 、 ﹃ 選 択 本 願 念 仏 集 ﹄ ︵ 以 下 、 ﹃ 選 択 集 ﹂ ︶ に お け る 明 確 な か た ち の 念 仏 の 選 択 に 繋 が っ て い っ た も の と思われる。また道縛の ﹃安楽集﹂に見られる、﹁聖浮二門判﹂も法然の思想形成に大きな影響を与えていると考え ら れ る 。 ﹃ 選 択 集 ﹄ 第 一 章 ﹁ 一 一 門 章 ﹂ の 冒 頭 に 、 ﹁ 安 楽 集 上 云 ﹂ と し て ﹁ 聖 道 一 種 今 時 報 証 。 一 由 下 去 二 大 聖 一 逼 遠 目 由 二 理 深 解 微 一 ﹂ と 見 ら れ る の も ︵ ﹃ 全 集 ﹄ 一 一 一 一 ︵ 6 ︶ が現れている。聖道門では救われ難いということを、法然は自己の求道体験を通して強く認識していたと思われる。 一 頁 ︶ 、 現 在 は 既 に 聖 道 門 の 時 で な く 、 浄 土 門 の 時 で あ る と の 法 然 の 意 識 法 然 ・ 親 驚 と 末 法 思 想

(3)

法然・親驚と末法思想 四 ﹁選択集﹄では、特に﹁本願章﹂と﹁特留章﹂を取り上げて検討を加えていきたい。 と、その第四が﹁造寺堅固﹂であり、第五が﹁闘諦堅固﹂であるとされる。もちろん、法然もこの説は知っていたで 一般に﹁五五百歳説﹂による あろうし、法然自身においても当時の時代状況は末法を感じさせるのに十分なものであり、現実の世の中が互いに自 説に固執して争う﹁闘誇﹂に満ちているとの認識はあったであろう。そこで、法然は﹁時機相応﹂の教えを説く必要 に迫られていた。この時代に、これまでの既成仏教が行っていたような説法は全く無意味であると法然は思ったに違 いない。そこで、﹁本願章﹂に見られるような説示が登場することになっていくのである。 ﹁ 本 願 章 ﹂ で は 、 念 仏 が 広 く 一 般 に 聞 か れ た 教 え で あ る こ と の 根 拠 が 述 べ ら れ て い る 。 ﹁ 若 夫 以 ニ 造 像 起 塔 一 而 為 一 一 本 願 一 者 貧 窮 困 乏 之 類 定 絶 一 一 往 生 望 4 然 富 貴 者 少 貧 賎 者 甚 多 。 : : : 若 以 一 一 持 戒 持 律 一 而 為 二 本 願 一 者 破 戒 無 戒 人 定 絶 一 一 往 生 望 寸 然 持 戒 者 少 破 戒 者 甚 多 ﹂ と あ り ︵ ﹃ 全 集 ﹂ 一 一 一 一 一 O 頁 ︶ 、 既に越えてしまったことの意識、もう一つには﹁末法時の時機相応﹂の教えを説く意識が、この文言から窺えよう。 一つには五五百歳の第四期である﹁造寺堅固﹂をこの時代が また﹁特留章﹂では、﹃無量寿経﹄の引用を冒頭で行った後、この引用中にある﹁特留此経止住百歳﹂を基にしな がら、﹁特留念仏止住百歳﹂と法然自身の理論を展開させていくのである。念仏の意義について﹁末法万年之時。念 仏 往 生 遠 需 二 法 滅 百 歳 之 代 一 ﹂ と し 、 最 後 に 自 ら 問 答 を 設 定 し 、 ﹁ 問 日 百 歳 之 間 可 レ 留 二 念 仏 一 其 理 可 レ 然 。 此 念 仏 行 唯 為 レ 披 二 彼 時 機 ↓ 将 為 レ 通 二 於 正 像 末 之 機 也 。 答 日 広 可 レ 通 二 於 正 像 末 法 寸 挙 レ 後 勧 レ 今 。 其 義 応 レ 知 ﹂ と 述 べ 、 念 仏 が い か な る時代にも適応するものであり、念仏往生は末法万年の後も止まり、末法を越えていくものであると結論付けて、こ の 章 を 締 め く く っ て い る ︵ ﹁ 全 集 ﹄ 一 一 一 一 一 五 1 一 一 一 一 一 七 頁 ︶ 0 な お 、 ﹁ 念 仏 付 属 章 ﹂ に も ﹁ 諸 行 非 レ 機 失 レ 時 。 念 仏 往 生 当 レ 機 得 ν : : : 故 知 念 仏 往 生 道 通 一 一 正 像 末 之 三 時 及 法 滅 百 歳 之 時 一 ﹂ と あ る ︵ ﹁ 全 集 ﹂ 三 四 三 l 一 二 四 四 頁 ︶ 。 そ し て 、 ﹁ 結 勧 ﹂ に お い て も ﹁ 浄 土 之 教 叩 二 時 機 一 而 当 一 一 行 運 一 ﹂ と 述 べ ︵ ﹃ 全 ︵ 9 ︶ 集 ﹂ 二 一 五 O 頁︶、念仏の﹁時機相応﹂性を繰り返して強調していることがわかる。そしてこの﹁時機相応﹂性とともに、

(4)

︵ 叩 ︶ 念仏の﹁易行﹂性も当然要請されてくる課題であった。 こうして法然によって、実際の相手を前にした説法の場だけでなく、教義的な内容をもった著作においても、念仏 の﹁時機相応﹂性とその念仏が遠く法滅の時代にまで通じるものであると述べられている。そうした法然の念仏行に 対する基本的な立場を、これらの法然自身の文言を通して窺うことができるのである。では、こうした法然の意識が どのように伝道において展開したのかということを、次節では見ていきたい。

法然の伝道意識

前節において﹁法然の末法意識﹂を見てきたが、ここでは法然がその末法に対する意識をどのようなかたちで伝道 に転化させていったのか、そしてそこにどのような法然の特色が見出されるのかについて考察していきたい。 法然は、自らの生きた時代背景からも鋭く末法に対峠していかなければならなかった。それは自己自身の問題であ るとともに、同時に多くの人たちの願いにも応えるものである必要があったといえる。そして、法然は自分の説いて いく教えが、既成教団によって説かれてきたものと根本的に異なっていることを認識していたであろう。そのような 教えを説いていく際には、聞き手に対する細心の注意とともに、法然自身のもつ意識も非常に重要であったと思われ る。法然は先述したように、自らが戒律を守り得ないことに対する深い反省と悲しみをもっていたと考えられる。た だしこのような戒律を守り得ないとの意識は、この時代において一人法然のみの課題であったのではなく、多くの人 たちがその問題を抱えて日々の生活を送っていた状況が見られる。 またこれも先述したように、法然は﹁特留章﹂において結論的には念仏は﹁広可レ通二於正像末法一﹂ものであると し、念仏が時代を越える存在であると語っていく。 つまり、法排出が成し得たのは、念仏が﹁時機相応﹂のものである 法然・親驚と末法思想 五

(5)

法 然 ・ 親 鴛 と 末 法 思 想

J _ . ノ、 と説きつつ、なおかつ時代を越えていく思想を念仏において見ていったことである。これは、念仏に新たな意味付け を行うことが、法然にとって大きな課題であったことをよく示している。 こうして、時代はまさに末法の世であるとされ、それを実感していたのは貴族や僧侶層に決して止まっていない。 その意識は階層を越えて、次第に広がっていく。浄土教の広まりは、末法思想との関わりが大きいものであったとい える。特に法然が教えを説き始めた場所であった京都は当時戦乱の真っ只中にあり、安定した気持ちで仏教の教えに 取り組める環境にいる人は、 一般の人たちの中には一人もいないような状況であったと想像される。 そのような状況下で、自分の信じた教えが正しいものであると、 いかに自分自身が確信していても、その教えが一 般に広まっていくことは決してなかったであろう。ここで法然は、時代状況への対峠とともに、自分自身の伝道者と しての資質が問われることにもなっていったに違いない。そこで法然は、末法思想を消化しつつ、伝道に転じる決意 を行ったのである。それが具体的には、念仏の﹁易行﹂性を説くことであり、法然の説く教えを信じることが末法意 識の克服になるとの主張であったと思われる。最初の﹁易行﹂性については繰り返すまでもないが、じっくりと修行 に取り組むことができない人たちには、特に大きな歓迎を受けたであろう。また末法思想は、この時代において仏教 界だけに止まらず、広く時代全般を覆う暗い思潮であったがゆえに、それを越えていく思想の登場を人々は強く待ち 望んでいたに違いない。 このような前提を承けて、法然において特徴的に見られる、法然のもった﹁師匠意識﹂が初めて了解されてくるの である。そしてその﹁師匠意識﹂が、念仏の教えは法減にも通じるとする﹁特留百歳﹂の考えに連なっていったので あろう。法然のもった末法意識は、最初から一般に教えを広めるという意識と絡めて展開されたものであったがゆえ に、法然の伝道に対する意識においては、多くの人たちに受け入れられる普遍的な要素が初めから準備されていたと いうことができるのである。つまり、法然における教えの普遍化は、法然の伝道意識に基づいてなされていったので

(6)

あり、そこに法然による念仏の教えを説く先駆者としての苦心の様を、十分に見て取ることが可能なのである。

親鷲の末法意識

る と 思 わ れ る ︵ ﹁ 真 聖 全 ・ 二 ﹄ 親鷲における末法意識を探っていく場合、﹃教行信証﹄﹁化身土巻﹂での 一 六 八 l 一 七 四 頁 ︶ 。 親 驚 が ﹁ 教 行 信 証 ﹂ に お い て ﹃ 灯 明 記 ﹄ の 引 用 が 、 特 に 重 要 に な っ て く ﹃ 灯 明 記 ﹂ を 引 用 し た の は 、 一 つ に は 栄西らの同時代の宗教者がこの書を用いた流れに乗るとともに、師法然の影響があったとも考えられるが、それとと もに、同時代の状況を自分なりの視点で読み解こうとした思いも、その根底にはあったであろう。 その﹁灯明記﹂の引用の直前に、﹃安楽集﹄の引用が見られていることは注目に値する。ここでは、﹁約時被機﹂の 考 え 方 が 述 べ ら れ て お り ︵ ﹃ 真 聖 全 ・ 二 ﹄ 一 六 七 頁 ︶ 、 親 驚 が ﹃ 安 楽 集 ﹂ の こ の 部 分 を き わ め て 意 図 的 に 引 用 し た こ と は 事実であろう。それは、﹃灯明記﹄の引用からも窺い知られるが、﹃選択集﹄の﹁時機相応﹂観とも通じるものがあり、 法然の影響を如実に被っているといえよう。ここで﹁安楽集﹄の引用が行われた上で、浄土教の教えが﹁時機相応﹂ であると示すことによって、親驚はこの時代の末法思想の超克を目指したと考えられる。法然によって﹃選択集﹄に ︵ ロ ︶ おいて述べられた、同時代の人々への視点は当然親驚においても存していたと考えられる。 そ し て 親 鷲 は 、 そ の ﹃ 安 楽 集 ﹄ の 引 用 が 行 わ れ る 前 の 箇 所 で 、 ﹁ 聖 道 諸 教 、 為 二 在 世 正 法 一 : : : 浄 土 真 宗 者 、 在 世 正 法 、 像 末 法 滅 、 濁 悪 群 萌 、 斉 悲 引 也 ﹂ ︵ ﹁ 真 聖 全 ・ 二 ﹄ 一 ム ハ 六 頁 ︶ と 述 べ 、 浄 土 真 宗 の 教 え が 、 ど の 時 代 に も 誰 に で も 適 応するものであると語っている。これは、親驚自身の言葉︵自釈︶であり、まさしくその通りなのであるが、ここで さらに一歩考えを進めてみるならば、そうした浄土真宗であるがゆえに、今の時代を生きる自分のような存在にも、 確実に救いが驚されるのであるとの、親鷲の自身への強い内省があったと考えてよいであろう。 つ ま り 、 こ の 表 現 に 法 然 ・ 親 驚 と 末 法 思 想 七

(7)

法然・親鷲と末法思想 人 たどり着くまでの前提として、親鷲の内面において﹁罪悪深重の凡夫﹂であるとの自己認識があったことを、ここで い ち に ん は捨象してはならないであろう。末法思想を背景とした、この時代におけるこの私一人という存在の救いを、親驚が 強烈に求めていった意識は、この点からも明らかに窺えるのである。 こうして﹃灯明記﹄の引用に入っていくのであるが、親驚はこの書の引用によって自身の同時代観を表明しつつ、 このような時代においては浄土門のみが通用するものであることを論証している。時代的にも、﹁無戒名字の比正﹂ しか存在しない末世であるこの時代に、﹁時機相応﹂の教法は浄土門の教えのみであるということが明確に打ち出さ ︵ 日 ︶ れている。ここでいう﹁無戒名字の比正﹂とは、弾圧によって還俗させられた親驚自身を指すと思われ、親驚がその ような意識を基にして引用を行ったとも考えられる。そして、この意識に基づいて﹁非僧非俗﹂の宣言がなされ、 ﹁ 愚 禿 ﹂ の 名 告 り も 行 わ れ て い っ た と 考 え て よ い で あ ろ う 。 また、親鷲のほぼ最晩年に著された﹃正像末和讃﹄中の﹃正像末浄土和讃﹂においても、親驚の末法意識は顕著に 現れている。例えば、﹁釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ正・像の二時おはりにき如来の遺弟 悲 泣 せ よ ﹂ の ﹁ 和 讃 ﹂ で は ︵ ﹁ 真 聖 全 ・ 二 ﹂ 五 一 六 頁 ︶ 、 現 今 が 末 法 に 入 っ て 久 し い と す る 親 鷲 の 意 識 が 表 明 さ れ て い る 。 達 し て い る こ と が 、 その他の﹁和讃﹂を見ても、現実の状況を正確に見据えた上で、浄土門の教えしか意義をもたないとの結論に親驚が ︵ 凶 ︶ よく伝わってくるのである。同じく﹃正像末和讃﹄の中の ﹃ 愚 禿 悲 歎 述 懐 讃 ﹄ ︵ 以 下 、 ﹁ 述 懐 讃 ﹄ [ ﹃ 真 聖 全 ・ 一 一 ﹄ 五 二 七 l 五 二 九 頁 ] ︶ は 、 親 鴛 の 自 己 認 識 を よ く 現 す ﹃ 和 讃 ﹂ であり、このような私が救われる道はた だ浄土門にしかないという選択の前提を、この ﹃述懐讃﹂で親驚は行っているようにも思える。﹃述懐讃﹂の末にお いても﹁これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり﹂と述べられており、自らの深い罪悪深重の凡夫としての 在り方を、時代的に末法であることを背景にして見つめていっている。 つまり、親驚の自己に対する凝視の視点は、もちろん法然を承けてのものであるといえるが、その視点は時代とも

(8)

密接な関わりをもち、そこに念仏が末法克服の思想として積極的に選ぴ取られていった理由があると考えられるので あ る 。

では如上の末法意識を踏まえて、親驚においてはそれがどのように伝道に転化されていったのであろうか。 まずは参考までに、﹃歎異紗﹂における親鷲の述懐を見ておこう。ここで親鴛はこう語る。﹁弥陀の五劫思惟の願を よくよく案ずれば、ひとへに親驚一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけん と お ぼ し め し た ち け る 本 願 の か た じ け な さ よ ﹂ 、 と ︵ ﹁ 真 聖 全 ・ 一 一 ﹂ 七 九 二 頁 ︶ 。 こ こ で は 二 つ の 事 柄 が 問 題 と な っ て い る と 思 わ れ る 。 一つは、﹁﹃親鷲一人がためなりけり﹄との個の意識﹂であり、もう一つは﹁﹃それほどの業をもちけ る身﹂との自己存在への認識﹂である。これらの二つが親驚においては抜き難く存し、この思いが親驚にとって、法 然の教えを選び取らせる原動力となったのである。では、その内実はどのようなものであったのであろうか。 ︵ 日 ︶ 親驚には、﹁個の問題﹂が大きく眼前に横たわっていたであろう。親驚にとっては、法然を信じてついていくしか ︵ 国 ︶ 他に方法の取りょうがなかったのである。親驚は、法然の教えを的確に﹁個﹂として受け取っていったということが できよう。こうした毅驚の﹁個の自覚﹂と彼の取った立場が、末法を時代背景とすることによって伝道に展開する要 素を苧んでいるものであったといえよう。そうした状況の中で、親鷲におけるその﹁個の問題﹂は、決して親驚一人 に止まることはなかった。自らが進んで教えを信じていこうとする、親鷲の念仏の教えに対する強い随順は、そのす がたを見る人たちをして、親驚の教えに惹き付けずにはいなかったであろう。その点からするならば、親鴛において の個人的かつ宗教的な問題は、その徹底性ゆえに普遍化への契機を苧んでおり、その徹底性ゆえに同時代における意 法 然 ・ 毅 驚 と 末 法 思 想 九

(9)

法然・親鷺と末法思想

義をもち得たと見ることができるのである。親鴛における末法意識は、また自己の罪業を強く感じさせるものになっ たのであるが、その立場に立った上での親驚の念仏の教えの徹底的な追及は、法然においても見られない﹁個﹂を見 出させるとともに、親驚と同時代に生きた人たちの胸に、親驚の説く教えは直接的に響いていくものとなっていった の で あ る 。 自己の救済を求める個人意識も、時代を経るにつれて次第に一般にも深化してきていたと見てよいであろう。こう して、法然においては時代的にまだそれほどまでには深化していなかった問題が、親驚によって深められ、社会一般 への広まりとして結実していったといえるのである。 一言付加するならば、ここで見られる法然と親鷺の差異こそが、 時代が下っていく中で末法意識がますます強まっていったことの証左ともなるように思われるのである。事実、法然 が教えを説き始めた時には、既に末法思想は深刻なものとなっていたが、それがどの程度まで一般に広まっていたか は必ずしも正確に把握できない面もある。その事情は、史料的には親驚の時代においてもほぼ同様なのではあるが、 ︵ げ ︶ 親鷲の時代には宗教というものを確かに感じ取ろうとしていた人たちの存在があったことが予想される。そうした 人々は全国的に広がりを見せていたであろうし、親鷲が実際に越後や東国に行って伝道した経験も、そのような思い をもった人たちに対して地域的にも広い範囲で訴えかけるものがあったであろう。これらのいくつかの事柄の関連の 中で、末法思想を前提とした末法意識が、中世の個人の中にも芽生え始めたことによって、法然よりも親鷲の時代に おいて、明確な末法意識を根底にもった宗教者の伝道は、大きな成果に繋がっていく要素が本来的に内包されていた と考えることも、あながち無理ではないであろう。 だからこそ親驚においては、伝道が行われる必要があったのである。親鷲は、必ずしも積極的な伝道者とは断言で きない側面をもっている。しかし先述したように、親鷺における自らの存在への自己認識が、伝道の場において遺憾 なく発揮されたであろうことは、当時の人々の自己意識の目覚めにも、親驚のこうした思いが合致していたことから

(10)

も明らかであると思われる。親鷲には、法然から学んだ﹁時機相応﹂の教えを正確に伝えていこうとする意識が中心 にあったであろう。その立場から行われる伝道は、親鷲自身の長い慎悩の過程を経て現出されたものであったがゆえ に、多くの人たちに訴えかける要素を必然的に内包していたといえる。こうして親鷲の伝道は、末法意識を基にする ことにより、対外的に展開していったと考えることができるのである。

まとめにかえて

こうして法然・親鷺両者の末法意識と、それがどのように彼らの伝道に繋がっていこうとするものであったのかと いうことを見てきた。両者において、末法思想の受容に差異が出てきた理由は、両者のそれぞれの時代背景や両者の もった伝道意識の違いに由来していると考えることができよう。そしてそれが、両者の取った伝道方法が異なってい ︵ 時 ︶ ることにも繋がっているように思われる。このように考えてみると、彼らの末法意識は同時代の深刻な末法思想を根 底にしていることは疑い得ない。それに加えて、末法による無戒の意味付けや自らの罪業への深い凝視があったこと もまた事実であるといえる。ただし、彼らはそこで絶望して止まってしまったのでは決してない。同時代に即した新 つまり﹁時機相応﹂の教法としての念仏を説いていったのである。 た な 教 え 、 そして既に述べたことではあるが、法然と親鷺の違いは、以下のような点に求められるであろう。まず法然は、当 時としては新たな念仏の教えを説く立場であったために、﹁師匠意識﹂に基づいて、念仏の教えがどの時代にも通用 するものであると説き、最初から一般に聞かれたかたちで教えを説いていったのである。これに比して親驚は、実際 に生きた時期が法然の時代からやや下っていたこともあり、その時代背景は﹁末法意識及、び偲の自覚﹂を強め、中で も親鷲においては徹底的に自己への凝視が行われており、その個人的な深化が結果としては同時代の人々への普遍化 法 然 ・ 親 鷺 と 末 法 思 想

(11)

法 然 ・ 親 驚 と 末 法 思 想

に繋がっていったと見ることが可能であろう。こうした彼らの違いは、 一つには彼ら自身の置かれた立場や性格的な ものに求められよう。また同時に、時代の違いであり、そうした時代の異なりは伝道方法においても両者間で差異を 生み出すことになっていったのである。例えばそれは、法然や親驚が﹁消息伝道﹂を行っていったこととも関係して ︵川口︶ いると思われる。ただし基本としては、法然は個人への直接的な﹁対機説法﹂が中心であったが、親鷲は積極的に和 語による著述を行い、それによって念仏の教えが広範囲にわたり、浸透していく結果となっていったのである。こう した両者の違いは、彼らのもったそれぞれの末法意識や時代背景と関係していると考えることも十分に可能であろう。 こうして彼らは、ただ単に末法であるという状況に絶望してしまうのでなく、なおかつ末法時にも通用する教えを、 自らの問題意識と絡めて、先行する経典や高僧たちの著述の中から探し出していった。彼らのその姿勢が、末法であ ることをようやく実感するようになっていた当時の人たちの心を掴んだと考えることができる。法然・親驚に通底し ていたのは、末法における念仏の﹁時機相応﹂性という観点であったのである。しかし、ここで両者においてやや違 いが見出されるとすれば、彼らの時代的差異による念仏の価値の重点の置き方である。つまり、法然は念仏は末法時 においても当然通用するものであるから、時代を越えたものであると説いていく。 一方親驚は、そのような法然の論 理の正当性を十分に認めつつも、強調したのは、念仏の現在の時点における﹁時機相応﹂性という点であった。この ような両者の説き方の違いは、法然において重要であった点が、﹁いつでもの救い﹂という時代を問わない教えの在 り方であり、親鴛において重視されていたのが、﹁今ここ﹂という自己自身を問うていく立場にあったことに由来し ている。そしてそれは法然の﹁師匠意識﹂と、親驚のもった﹁個の意識﹂の違いに立脚しているとともに、それぞれ の時代背景に基づいており、そうした展開が法然と親驚の聞において存在していたがゆえに、念仏の教えが法然一代 つまり、法然において存した一切衆生の救済という問題意識 が、具体的な社会状況の中で展開し、それが親鷲においてより先鋭化したかたちで顕現し、両者の説いた教えに、さ に止まらず、各地に広まっていったといえるのである。

(12)

まざまな時代や状況の変遷がありつつも、多くの人たちが帰依していく結果になっていったのである。 以上のように、両者に共通するのは﹁時機相応﹂の教えを説いた事実で、それが彼らの強みであり、末法思想を結 ︵ 初 ︶ 果として乗り越えていった彼らの伝道が、同時代の人たちの少なからざる帰依に繋がったとする見方は可能であろう。 そのような彼らのもった精神的な強靭さが、念仏の教えを一般化させるとともに普遍化させ、時代を越えた浄土教の 展開にも大きな役割をもったことを指摘して、本論の結びとしたい。 ︵ 二 OO 一 年 六 月 八 日 稿 ︶ 註 ﹃ 全 集 ﹄ : : : ﹃ 昭 和 新 修 法 然 上 人 全 集 ﹄ ﹃ 伝 全 集 ﹄ : : : ﹃ 法 然 上 人 惇 全 集 ﹄ ﹁ 真 聖 全 ﹄ : : : ﹃ 真 宗 聖 教 全 書 ﹄ ︵1 ︶これについては本当に多教の指摘があるが、ここでは代表的な研究として、井上光貞氏の﹁新訂日本浄土教成立史の 研究﹄をあげておきたい。近年、この見方に対する平雅行氏・佐藤弘夫氏の批判的な見解も出てはいるが︵平﹁末法・末 代 観 の 歴 史 的 意 義 ﹂ [ ﹃ 日 本 中 世 の 社 会 と 仏 教 ﹄ ] ・ 佐 藤 ﹁ 日 本 に お け る 末 法 思 想 の 展 開 と そ の 歴 史 的 位 置 ﹂ [ ﹃ 再 生 す る 終 末 思 想 ﹄ ] ︶ 、 私 は こ の 論 で は 平 氏 ら の 立 場 は 取 ら な い 。 ︵2 ︶参考﹃思想史 I ﹂ 一 八 Ol 一 八 一 頁 。 ︵3 ︶一般的に価値観の転換は、内面的欲求の高まりの中で行われていくものであり、同時に外的な要請によってもなされて いくと考えるのが自然であろう。社会状況において新たな教えを切望する意識が成立し、それによって法然らの説いた念 仏の教えの新鮮さがいっそう際立ったものになっていく。このような循環の中で、念仏が多くの人々の心を確実に捉えて いったと考えることができるであろう。私としては、念仏がこのように広まった理由を、中世において宗教を主体的に求 める人々が出てくるようになったからであると見ている。そしてこのことを指して、﹁中世における宗教的自我の形成﹂ H ﹁中世的個の白覚め﹂と表現することが可能なのではないかと考えている︵参考黒田俊雄﹃日本中世の国家と宗教﹂ 四 九 四 頁 ︶ 。 法然・親驚と末法思想

(13)

法然・親鷺と末法思想 四 ︵4︶参考梯賓園﹃法然教学の研究﹄一九一 l 一 九 三 頁 。 ︵ 5 ︶この書が、最澄の著作かどうかについての研究は教多くある。この論文では、その検討は行わないものとする。 ︵ 6 ︶ 参 考 ﹁ 伝 全 集 ﹄ 二 八 頁 。 ま た 、 ﹁ 無 旦 一 寿 経 釈 ﹂ に ﹁ 抑 三 乗 四 乗 聖 道 、 正 像 既 過 、 至 二 末 法 J 但 有 レ 教 無 一 一 行 証 一 故 、 末 法 近 来 無 二 断 惑 証 理 ↓ 無 二 断 惑 証 理 一 故 、 以 レ 之 無 下 出 二 死 一 之 輩 上 ﹂ ︵ ﹃ 全 集 ﹂ 六 八 頁 ︶ と あ る こ と か ら も 、 法 然 が 末 法 時 に お い て 聖 道門には特別な価値を置いていなかったことが知られる。 ︵ 7 ︶この意識が起こった背景として、道線が﹁安楽集﹄で﹁五堅固説﹂を引いて、既に自分の時代を第四の﹁造寺堅固﹂で あ る と 位 置 付 け て い る こ と が 考 え ら れ る ︵ ﹃ 真 聖 全 ・ 一 ﹄ 二 一 七 八 頁 ︶ 。 参 考 ﹃ 灯 明 記 ﹂ ︵ ﹁ 伝 教 大 師 全 集 ・ こ 四 一 七 頁 ︶ 。 ︵ 8 ︶浅野教信氏は、﹁法滅尽時との比較による末法時の得脱は、上人︵法然︶の教化上の特色でもあった﹂とする︵浅野 ﹁ 法 然 上 人 の 末 法 規 ﹂ [ ﹃ 親 鷺 と 浄 土 教 義 の 研 究 ﹄ 二 九 二 l 二 九 三 頁 ︸ ︶ 。 ︵ 9 ︶梅庭昭寛氏は、﹁︿時機相応﹀という法然自身のこの語の用例を見ることはできない﹂としつつも、﹁その思想的立場と しての︿時機相応﹀の重要性を無視することはできない﹂としている︵梅庭﹁法然における時機相応の一考察﹂[﹃インド 哲 学 と 仏 教 ﹂ 七 三 九 貰 ・ 七 四 一 頁 ] ︶ 。 ︵ 日 ︶ 参 考 ﹁ 全 集 ﹄ 二 一 一 九 よ 二 二

O

頁 。 ︵日︶参考菊藤明道﹁親驚教学における末法思想の意義﹂︵﹁印仏研・二 O こ 二 二 O 頁 ︶ 。 ︵ ロ ︶ 法 然 の ﹁ 選 択 集 ﹂ に 対 し て 親 驚 が 抱 い て い た 思 い は 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ ﹁ 後 序 ﹂ ︵ ﹃ 真 聖 全 ・ 二 ﹂ 二 O 二頁︶の文言から窺うこ と が で き る 。 ︵ 日 ︶ 藤 場 俊 基 氏 は 、 ﹁ 親 驚 に と っ て は 、 無 戒 名 字 の 比 丘 と は 文 字 通 り の 意 味 で 他 人 事 で は な い : : : こ の 書 ︵ ﹃ 灯 明 記 ﹂ ︶ を 、 親驚の眼から見るとき、﹃末法灯明記﹂の言葉は自分自身が置かれている立場を確かめるための教言として受け止められ て い る ﹂ と す る ︵ 藤 場 ﹁ ﹃ 末 法 灯 明 記 ﹄ の 引 用 と 親 驚 ︵ 前 ︶ ﹂ ︷ ﹁ 親 鴛 教 学 ・ 七 O ﹄ 二 五 頁 ] ︶ 0 ︵比︶これは﹁時機相応﹂の考え方が、明確に﹃正像末浄土和讃﹂中に述べられていることからも窺えよう︵﹃真聖全・二﹂ 五 一 九 頁 ︶ 。 ︵日︶石田瑞麿氏は、﹁﹃正像末法和讃﹂と﹁悲歎述懐﹄こそは、末法に対する親驚の受け取り方がどこにあるかを語っている :・機の自覚を社会一般に及ぼしてなぐさめる安住から転じて、親鴛では個の自覚において罪業深重の反省が深められて い っ た ﹂ と す る ︵ 石 田 ﹁ 親 驚 と 末 法 思 想 ﹂ [ ﹃ 印 仏 研 ・ 一 一 一 i l l − − 一 ﹄ 二 四 七 頁 ] ︶ 。 ︵日︶増谷文雄氏は、法然と親驚の立場の違いを述べ、それは﹁与える人と受け取る人の立場のちがいである。教える人の立

(14)

場と聞いて信ずる人の立場のちがいである:::彼︵親鴛︶はどこまでも、この道のおしえを自己の問題として受けとるこ とに終始した﹂としている︵増谷﹃親驚・道元・日蓮﹄九五 l 九 六 頁 ︶ 0 ︵げ︶いくつかの理由によってこうした類推が可能であると思われるが、この論ではその詳しい検討を行う余裕がない。拙稿 ﹁ 法 然 と 親 驚 の 教 説 の 歴 史 的 意 義 ﹂ ︵ ﹁ 六 角 会 館 研 究 シ リ ー ズ E ﹂ 掲 載 予 定 ︶ を ご 参 照 頂 け れ ば 、 幸 い で あ る 。 ︵凶︶参考拙稿﹁法然の伝道についての一考察﹂︵﹃龍谷大学大学院研究紀要・一一一﹄︶及び、同﹁︿親驚の伝道﹀研究ノl ト ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 研 究 会 紀 要 ・ 三 二 ﹂ ︶ 。 ︵ 日 目 ︶ 参 考 拙 稿 ﹁ 法 然 と 親 驚 の 文 書 伝 道 ﹂ ︵ ﹃ 宗 教 研 究 ・ 三 二 一 一 ﹄ 二 四 五 j 二 四 七 頁 ︶ 。 ︵初︶なおこの論では、法然と親鴛における末法意識が、伝道に対しての方向性を宇 ω向するものであったとの指摘はなし得た が、それが具体的にはどのようなかたちで彼らの伝道活動に結実していったのかという点についての考察が、やや不十分 であると恩われる。こうした点への踏み込みについては、今後の課題とさせて頂きたい。 ︵ 参 考 論 文 ︶ ・ 橋 川 正 ﹁ 平 安 末 期 に 於 け る 末 法 到 来 の 意 識 ﹂ ︵ ﹁ 例 教 研 究 ・ 六 | 一 一 一 ﹂ ︶ ・ 一 一 一 木 清 ﹁ 歴 史 の 自 覚 ﹂ ︵ ﹃ パ ス カ ル ・ 親 驚 ﹄ ︶ − 石 田 充 之 ﹁ 末 法 思 想 ﹂ ︵ ﹃ 講 座 仏 教 思 想 ・ 一 ﹄ ︶ ・ 藤 場 俊 基 ﹁ ﹃ 末 法 灯 明 記 ﹄ の 引 用 と 親 驚 ︵ 後 ︶ ﹂ ︵ ﹁ 親 鷲 教 学 ・ 七 一 ﹄ ︶ ・ 平 原 晃 宗 ﹁ 道 締 に お け る 時 機 の 視 点 ﹂ ︵ ﹃ 親 驚 教 学 ・ 七 四 ﹂ ︶ 法然・親驚と末法思想 五

参照

関連したドキュメント

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。

析の視角について付言しておくことが必要であろう︒各国の状況に対する比較法的視点からの分析は︑直ちに国際法

信号を時々無視するとしている。宗教別では,仏教徒がたいてい信号を守 ると答える傾向にあった

この点について結果︵法益︶標準説は一致した見解を示している︒

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から