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認知語彙論への試み-「やばい」をめぐって

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Academic year: 2023

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(1)

1 序

(1)イチロー:こんなすばらしい仲間に出会 えて,やばいっすね。

第1回WBCをともに戦い,チャンピオンになっ た後,インタビューでイチローが言ったことであ る。仲間は日本へ帰ろうとし,自分はアメリカに 残ろうとしている場面であった。

それ以来,若い人が「やばい」をよい意味で使 っている場面によく遭遇する。「やばいよ,この 味」と言っていても,状況からは「腹痛を起こしそ うだ」とか,「まずい」といった意味合いはない。

同じ場面で「やっば! これ,うっま」とも言うこと から,おいしさが際立っていると言う意味で使わ れているのである。

「やばい」はもともとは,盗人の隠語で,「つか まる恐れがある」と言った意味を表すが,現在で は,口語で「自分に不利な状況が迫っている」とい った少し広げた意味で使われている。たとえば,

(2)授業サボっちゃって,今度の試験,やば いよ。

という具合である。

われわれは語によって,心にある自分の思考な り,頭にある概念なりを表示するということに異 存はないだろう。同時に,心の中にある思考ない し概念という心的表示は,ちょうど文が語とその 配列からなるように,しかし語彙項目とは異なる レパートリーの要素を結びつけて,百科事典的知 識を作り,一つの塊として,あるいはファイルと いう形で,論理的内容と因果的関係からなる構造

を持っていると言えよう。この心的概念を表す

要素をwords of mentaleseと呼ぶことにする

(Sperber & Wilson 1997; Carston 2002)。ひとつ の概念が起こると,その概念の下に蓄えられてい る外界の対象物となんらかの因果関係を結ぶこと になる。さらには,ひとつの概念が頭の中でさら なる表示を呼び出し,心的表示間の関係を結ぶこ とにもなる。

一方,たとえば,「同じ親から生まれた子供た ち」と言う概念を考えてみると,論理的内容も百 科辞典的内容もあるが,日本語では語彙として項 目を持たない(cf. 英語ではsibling)。あるいは

「犬」を猫や鳥と区別するときに使う意味と,個 人が持つ「イヌ」という語の意味の関係はどうある のだろうか。本論は,これら語と心的概念の関係 に関して,語の意味は,心的概念を余すところ表 すとは言えず,そういう概念形成のための基本的 構 築 物 ( ス キ ー マ ) で あ る と い う 関 連 性 理 論

(Sperber & Wilson 1995: 以下S&W)の見解を提 示しようとする。心的概念と,これを表す語との 関係は,1対1の関係は望むべくもなく,前者の ほうがずっと豊かで大きく,概念を乗せる(map)

のに,語がいかにフレクシブルに調整されるのか ということを考察する。

本小論は(1)や(2)における「やばい」の使 用を取り上げ,当該の発話が関連性を持つのであ れば,「やばい」という語で言おうとした二つの概 念が,同じではないことは想像がつくのであるが,

ではそのように特定の意味を持つものとして解釈 される過程はどんなものかを提示しようとするも のである。スキーマ的なメンタリーズとしての

「やばい」から話し手の意図した解釈にいかにた どり着くのかということが問題となる。その過程

認知語彙論への試み

―「やばい」をめぐって―

武 内 道 子

(2)

にいかに推論が駆使されるかが示されよう。その 前に2節と3節で,発話の言語情報が話し手の 伝えたい内容といかに隔たっているか,その隔た りを埋めるためにいくつかの語用論的推論によっ て言語的意味が補われる必要性を論じる。

2 話し手の意味と推論

一体,われわれはひとつの思考を相手に伝えよう として選択した言語表現は,どれほどのことを相 手に伝えるのだろうか。逆に言えば,聞き手は手 にした言語表現から,どれほどの思考内容を復元 し,理解するのだろうか。(3)のやり取りにお ける良子の発話について考えてみよう。

(3)正夫:勉強してる?

良子:毎日疲れてね。

(4)話し手は自分が毎日疲れていると主張し ている。

良子が病院で働いている看護婦で,医者の正夫は 良子が正看護婦になるよう応援しているとしよ う。正夫は良子の発話を,(4)のように良子が 毎日疲れていると主張していると解読する。この 情報そのものは正夫の問いに答えてはいない。し かしながら,正夫はこの情報を使って,彼の問い に答えているであろうという推論を働かせ,関連 性の期待を満足させるのである。つまり,良子が

(国家試験への)勉強ができないことと,その理 由を伝達したと,正夫は理解する。S&Wによ れば,良子の発話は,良子の思考の証拠であり,

良子は自分が疲れているという思いを意図的に聞 き手である正夫の心の中に起こさせた(activate)

と説明する。

聞き手の言語的解読化によって活性化された思 考は,話し手が伝達しようと意図したメッセージ の復元に導く推論過程のスターティングポイント となる。この推論過程は文脈的情報と一緒になっ て(4)のような想定を導く。関連性理論では

(4)を(3)の良子の発話の表意(explicature)

と呼ぶ。一方,正夫は自分の問いへの応答として,

(5b)の想定を推論的結論として導き出す。

(5)a. 疲れていることは勉強できない理由と なる。

b. 良子はまったく勉強していないだろう。

このとき,この推論的結論を導き出すために呼び 出す(5a)のような文脈想定は推論的前提と呼ば れ,(5a)と(5b)は良子の発話の推意(implica- ture)と呼ばれる。

しかし,このコンテクストにおいて,(3)の 発話は(6)のような想定をも復元させるかもし れない。

(6)a. 良子は病院での仕事が忙しい。

b. 良子の勤める病院はいつも混んでいる。

c. 良子は正看護婦への国家試験に受かりそ うもない。

(6a)−(6c)は,(5a)(5b)とともに,話し手が 実際に口に出して言ったことではない。しかし,

(3)の問いに対する応答として,聞き手である 正夫は(4)の表意よりむしろ(5b)こそ話し手 の伝えようと意図した内容であると解釈する。さ らには,良子の表情が暗いということがあれば,

「試験には受かりそうもない」と暗に伝えている ことも,聞き手は復元するのである。(6a)−(6c)

のような想定は弱い推意と呼ばれ,必ずしも話し 手の伝達を意図した想定ではないということで,

聞き手がより多く責任を持つものである。一方,

(5)は強い推意である。

発せられた言語表現から活性化された思考(論 理形式)と,推論による思考内容(表意と推意)

は質的に極めて異なるものである。関連性理論の 基本的主張は,明示的刺激としての発話が持つ意 味は話し手が伝えたかった内容(話し手の意味)

を,聞き手に伝える手がかりに過ぎないというこ とである。上述したように,言語表現に乗せられ た思考は極めて不完全で,断片的な,いわば骨と 皮である。さらに,発話解釈は話し手の意味をさ ぐることであるが,その話し手の意味は二つに区 別される。言語情報の不完全性を推論によって補

(3)

って表意に導くプロセスと,純粋に推論のみで伝 えられた思考内容である推意を復元するプロセス である。両プロセスとも,関連性の原理(後述)

に基づいた推論メカニズムで処理されると説明さ れる。

前者の言語情報の不完全性を,関連性理論の枠 組 み で 言 語 的 意 味 決 定 不 十 分 性 (l i n g u i s t i c underdeterminacy)と呼ぶ。発話の言語情報が語 用論的拡充作業(enrichment)を経て,ようやく 話 し 手 の 明 示 的 に 伝 達 し よ う と し た 思 考 内 容

(what is said)に近づくという考え方である。こ の中には,構造的,意味的曖昧性の除去,指示表 現の同定,省略されている要素の復元のほかに,

次のような語用論的推論作業がある(Carston 2000; 2002; Wilson and Sperber 1993/1998参 照)1)

(7)a. I like Sally’s picture.[picture in what relation to Sally?]

b. I’ve had breakfast.[today]

c. I’ve been to Tibet.[in my life]

d. There are[appropriately]100 people in the queue.

e. It’ll take time for your knee to heal.

[more time than you may expect]

f. He hit her and[as a consequence]she screamed.

g.[the man near the door is]Michael’s father.

h. Confidentially, Sam is seriously ill.[I am telling you confidentially that]

カッコ内に示された,言語情報に含まれていな い要素が語用論的推論によって補われて初めて,

真偽の問える命題となり,話し手の伝達しようと していた思考内容とほぼ同じくするレベル(表意)

に達するのである。話し手の意味のうち,伝達の 明示的側面に関して,すなわち,暗にではなく,

言葉で伝達しようと意図した思考内容も,記号化 されたものをはるかに超えていて,語用論的推論 が不可欠であると関連性理論は主張したのであ る。

関連性理論の基本的な考え方は,関連性とその 二つの原理に集約される。関連性とは認知過程へ の入力に関する特性として定義される。入力され た情報(発話も含む)の処理によって何らかの認 知上の改変,効果をもたらしたとき,その入力と しての情報は関連性を有する。一方,その処理に は,つまり効果を手に入れるためには,認知上の 処理労力が含まれるものである。一般に,効果が 大きければ大きいほど,入力情報の関連性は大き いと言え,処理労力が大きければ大きいほど,関 連性は減じるのである。このことを基に,二つの 関連性の原理を以下のように定義する。

(8)関連性の認知原理

人間の認知システムは関連性の最大化に向 けて作動する。

(9)関連性の伝達原理

すべての意図明示的刺激はそれ自身の最適 関連性の見込みを伝達する。

最適関連性(optimal relevance)というのは,次 のように定義される。

(10)最適関連性

a. その発話が話し手の能力と好みと相容れ る範囲で,最も関連性の高いものであ る。

b. その発話は聞き手が処理するに値する だけの関連性を持つ。

相手に言葉を発することによって,その発話が

(10a)と(10b)の条件を満たすものであると伝 達しているとS&Wは主張する。

これまでの議論から聞き手による話し手の意味 の復元の過程には次の3ステップが含まれるこ とがわかる。

(i)論理形式を語用論的意味拡充を経て表意 レベルへと発展させる。

(ii)話し手の意図した文脈情報(推論的前提)

を,発話の状況,話し手,聞き手の既存

(4)

の知識から呼び出す。

(iii)話し手の意図した認知効果(推論的結論)

を決定する。

この3過程は,(9)の関連性の伝達原理に基づ いて,推論によって得られる。(i)から(ii),

(iii)へと順を追って解釈が進むという必然性は なく,同時に進む可能性も,(iii)がまず構築さ れ(i)(ii)へと向かうことも,(ii)があって 初めて表意構築が可能になることもある(たとえ ば橋渡し現象(bridging))2)。重要なことは,(i) の表意と(ii)(iii)の推意が相互作用しながら,

オンラインに解釈過程が完結していくということ である。4節で,「やばい」発話の解釈過程を例 証していくが,アドホック「やばい」の意味が確立 して初めて表意が得られること,すなわち推意の 復元に表意の構築が必須であることを考察する。

3 心的概念と語の関係

前節で述べたように,話し手の思考を伝達するの に発話の言語的情報は極めて不十分なものであ る。このことは文についてだけではなく,語の使 用についても言えることを提示する。

人間の思考に用いられる心的概念は常に,随時 新たに創造される可能性があり,個人差もあるの に対して,語の意味は社会慣習的性格を持つので,

その創造性は制約を受ける。限られた語彙の組み 合わせからいかに話し手が思考を表示するのか,

また聞き手が限られた語彙の組み合わせからいか に話し手の思考を読み取れるのかということが問 題となる。Sperber and Wilson(1998)によれば,

それは語の概念の語用論的調整作業によって可能 になると考える。関連性理論の考え方は,たとえ ば,cat,open,sing,raw,happyといった語を 含む発話において,各項目が記号として持ってい る概念は解釈過程へのスターティングポイントを 提供し,その語彙概念を狭めたり,広げたりする プロセスによって,記号化されている意味とは多 かれ少なかれ異なった概念にいたるというもので ある。言い換えると,記号化とは,その語の概念 を余すところなく記号化しているとは考えず,ひ

とつの概念的領域をポイントすることである。つ まり記号化されている意味は概念的スキーマであ り,使用のたびに当該の概念が思考の表れとして 推論されて構築されるという考え方である。自然 言語の文は,思考言語の文(mentalese)に言い 換えられたものではなく,思考言語文を構築する ためのスキーマを提供するということが,関連性 理論の根底をなす考えである。しかしながら,手 続きを記号化している代名詞や指示詞を別にすれ ば,たいていの語は思考の構築物となる原子的概 念を記号化していると仮定されている。

語が記号化しているスキーマ的概念に取って代 わ っ た そ の 場 限 り の 概 念 を , ア ド ホ ッ ク 概 念

(ad hoc concept)と呼ぶ(Carston 1996; 2002 第 5章)。これは表意形成にかかわる,すなわち命 題の真理条件に貢献することになると考えられ る。話し手は記号化されたスキーマ的概念を使っ て,記号化されていない,他と区別される概念を 伝達するというのである。アドホック概念の特徴 は,それが語用論的過程で,自動的に特定のコン テクストにおいて呼び出され,したがってこのコ ンテクスト限りのものであるということである。

たとえば,話し手が「楽しかった」という語を使う とき,記号化されてはいないが,聞き手の概念的 レパートリーの中に確立されている心的概念を伝 達することになるのである。聞き手は,ハワイで 二人が一緒に過ごしたくつろいだ夏の日と結び付 けるかもしれない。その概念は「タノシイ」という 語の持つ概念と共有された論理項目と百科辞典的 項目を持つだろうが,語としての項目はない。当 該の発話解釈の過程で聞き手が呼び出したもの で,二度と再び使用することはないかもしれない のである。

以下,記号化されている概念については日本語 の場合は「タノシイ」とカタカナ書きにし,英語

の場合はHAPPYのように表記する。語用論的に

構 築 さ れ た ア ド ホ ッ ク 概 念 を 「 タ ノ シ イ

HAPPYと表示して区別する。

では具体的に,(11)のイタリックの語が記号 化している概念と話し手の伝達している概念を考 えてみよう。

(5)

(11)I want to meet some bachelors.

話し手は仕事をしてきたけどそろそろ落ち着いて 専業主婦になって子供を持ちたいという思いを表 明しているコンテクストであるとしよう。この発

話のBACHELORの概念は,記号化されている

意味の「結婚していない成年男性」というプロコ ンセプトを狭めた結婚適任者といった概念であろ う。したがってローマ法王や60歳以上の男性は 含まれない。「うれしい」や‘happy’ など感情を表 す語のほとんどが同様の「狭め(narrowing)」を 語用論的に受ける,即ち特定化されると考えるこ とが出来るかもしれない。次節で「やばい」も狭 めの一例として考察する。

一般的に,多義語とされている語の概念は,常 時狭めのプロセスを経て解釈されると考えられ る。たとえば,次の一連の例にある「見る」という ひとつの語は「ミル」という行為についてかなり異 なる概念を伝達している(武内2005参照)。

(12)a. 絵を見るのが好き。

b. 味を見てくれる?

c. 両親の面倒はだれが見るんだい?

d. 外見で人を見るのはよくない。

e. 冷蔵庫を見てくれない?

f. 痛い目を見た。

「 見 る 」 が 記 号 化 し て い る の は ス キ ー マ 的 概 念

(「ミル」)であり,これはほとんど無限に多くの 概念を伝えるために使用されうると説明される。

これらの概念すべてを辞書に載せることは不可能 である。たとえば,「味わう」「世話する」のように そのやり方を語彙化しているものもあるが,その 場の概念の多くは語用論的に狭められて引き出さ れると考えるのである。

語彙概念の調整は,意味を狭めるだけでなく,

「緩める(loosening)」方向でもなされる。

(13)a. My husband is a bachelor.

b. Mary is a bulldozer.

c. The fish is raw.

(13b)において,夫は結婚しているのに独身男 のように振舞う人であることが復元されるが,こ

こでのBACHELORはプロコンセプトBACHE-

LORから「結婚していない」という定義的意味 を取り去ったものである。(11)の狭められた

BACHELORと異なって,語彙概念の調整は緩

められている。(13b)に見られるメタファーも 語彙概念の緩めのプロセスの例として考えること が出来る。メアリーを記述するのであるから,

BULLDOZERから「機械」という定義的特性を

排除し,ブルドーザーの持つ確固とした概念がメ アリーにあるとして解釈される。同様に(13c)

においても,レストランで注文して持ってこられ た魚はまったくの生ということではなく(魚屋で 見かけるようなものは復元しない),「料理されて いない」というrawの持つ定義的特性を捨て,

話し手の思っていた焼き具合に足りないことを意 味する。

アドホック概念構築の根底にある考えは,人間 の心的概念は弾力的であり創造的であるというこ と,人は頭の中の百科辞典的項目からいろいろの 情報を呼び出してひとつの心的概念を形成すると いうことである。言語的には与えられていないが,

特定のコンテクストにおいて,関連性の期待に呼 応して,オンライン的に形成され,発話の認知効 果が達成された時点でそのプロセスは終わる。語 の記号化されている意味は表意構築の手がかりに 過ぎないのである。

4 「やばい」の意味と関連性

前節で紹介した関連性の伝達原理は次のような解 釈過程を仮定している。聞き手は発せられたもの の解読化によって構築された概念構造を,最小の 労力を要する道筋をたどりながら,表意レベルに いたるまでこれを意味拡充し,かつこれを基に推 意を復元し,その結果聞き手の関連性の期待にか なう解釈を得たところで解釈をやめる,というも のである。本節は,この一連の手続きを「やばい」

発話によって見ていき,発話解釈過程で「やばい」

という語の意味が発話解釈にどう絡んでいくかを 考察する。

(6)

まず,(14)のやり取りにおける正夫の発話を 考えることからはじめよう。

(14)(論文の提出期限が迫っているところで)

良夫:論文,書けた?

正夫:やばいんだ。

良夫は正夫の発話を,正夫にとって状況が危うい と主張していると解読するとする。正夫にとって 状況が危ういという情報自体は良夫の問いに対す る答えにはならない。しかし,良夫は,自分の問 いへの答えになるよう,したがって関連性の期待 を満足させるよう推論を働かせる。もし彼が得た 最初の想定が,正夫にとって危うい状況というの は彼が論文を書いていないことを意味するという のであれば,良夫はこの想定を推論的前提として,

正夫が論文をまだ書けないでいるという結論を推 意として導出してくれることを,正夫は意図した ということになろう。良夫による正夫の発話の解 釈には次のような想定が含まれていると考えられ る。

(15)a. 正夫にとって危うい状況である。

b. 状況が危ういということは,論文が書 けていないことを意味する。

c.正夫は論文が書けないと危うい状況に 陥るだろう。

正夫は良夫の問いに,論文が書けていない,書け ないと言うことによって,直接答えてもよかった のである。関連性理論によれば,(14)のように 言うことによって,要求される余分の処理労力は 余分の効果によって相殺されるということにな る。すなわち,正夫は書けないことだけを伝える のでなく,書けないことからくる結論をも伝達し ている。さらに,良夫は正夫の発話から,たとえ ば(16)に見られるようなもろもろの想定を推 意として導出しうるのである。

(16)a. 正夫は単位を落とすかもしれない。

b. 正夫は卒業できないかもしれない。

c. 正夫は先生に叱られるだろう。

d. 正夫は予定している遊びに行けないの ではないか。

これらの結論が,良夫にとって呼び出し可能であ ったとしても,正夫の発話によって生み出される 特定の関連性の期待を満足させるものにはならな い。正夫が良夫の問いに答えようとしているとい う事実こそが,良夫に,問いを発することによっ て求めている関連性の種類と程度を探らせるので ある。

(14)の正夫の発話を,最小のルートを取りな がら,意味拡充し(表意を構築し),(15b)と

(15c)の推意を導出し,関連性の期待にかなう 解釈にいたるという過程を示した。しかし,正夫 の状況が危ういというだけの事実から,良夫は正 夫が論文を書いていないことを正しく推論するこ とはできない。(15b)と(15c)が正しく(つま り話し手の意図したように)導出されるためには,

状況の危うさが特定されなければならないのであ る。すなわち,「やばい」によって正夫の意味して いること,正夫が意図した「やばい」の意味が,意 図された推意を保証するところまで拡充されなけ ればならないということである。関連性の期待が 特定の推意の導出を保証し,その推意が導出され るためには表意が適切に意味拡充されていなけれ ばならないのである。表意への拡充は,語彙調節 のプロセスを経て,「やばい」という語が,その プロコンセプト「ヤバイ」から話し手の頭の中にあ る心的概念(「ヤバイ」)へと拡充されなければ ならないということである。

したがって,正夫は単に状況が危ういという命 題以上のことを伝えようとしている。つまり,危 うさは論文が書けないほどであり,書けないとも っと危ういことになるということを,「やばい」の 使用によって伝えているのである。当該の発話に おいてのみ通用する,特定化された概念を話し手 は意図し,聞き手は推論による語用論的拡充作業 を通してこれを復元することになる。(14)にお いて,正夫の発話に続いて良夫が次のように言っ たとしよう。

(7)

(17)それほどやばくはないよ。

良夫は正夫が危うい状況にあることを否定してい るのではない。(17)で否定されていることは

(14)の正夫の発話によって伝えられた危うさの 程度(「ヤバイ」)なのである。したがって,

(17)の「やばい」は,「ヤバイ**」として解釈さ れるものであると説明される。

「やばさ」の絶対的尺度はない。正夫が伝達し ていることは「やばさ」のその場限りの,おそら く二度と使用されないであろう「やばさ」加減の 概念なのである。これは記号化されている「ヤバ イ」の意味より,もっと特定的なものであり,日 本語に語彙化されていない概念である。話し手の 心的概念として決して恒常的なものではなく,聞 き手の解釈した「やばさ」の概念も,このときのみ,

正夫の発話のみに適用されるものであると考えら れる。この概念は,いろいろな言い換え,説明に よって記号化されうるが,話し手が最初からもっ ていなかったと考える理由はない。正夫の発話は

(18)と同じことであるが,

(18)良夫:論文,書けた?

正夫:何も書けなくて,やばいんだ。

(18)は明確な思考を伝える一方で,(14)の応 答は,聞き手に解釈の復元をかなり任せることに なる。ポイントは,正夫がYes-noの問いに答え ているという事実が語の意味調整をさせるのであ るということ,つまり可能な推意の導出と推意を 保証する表意の構築のために,聞き手が行う拡充 作業の範囲を狭めるために,まず語彙の意味調節 作業があるということである。

次に,(1)の例によって,「やばい」の意味を 考えてみよう。この場合,表意は先行発話がある ので極めて一般的に得られるが,一連の推意は

(14)と比べるとはっきりしないと思われる。

(1)(イチローが,WBCで優勝の後,インタビ ューで今の気持ちを尋ねられて)

こんなすばらしい仲間に出会えて,やばいっ すね。

イチローの発話が,聞き手にとって関連性がある とすれば,イチローが(14)の「やばい」とはま ったく異なる概念を伝達していることになる。こ のコンテクストにおいて,すばらしい仲間に出会 い,今彼らと別れようとしている状況が「やばい」

のである。推意として,たとえば次のような想定 が漠然と導出されるかもしれない。

(19)a. イチローはすばらしい仲間と出会って 幸せである。

b. イチローはすばらしい仲間と一緒に試 合ができて幸せである。

c. 出会いは別れの始まりというが,すば らしい仲間と別れるのはつらい。

d. みんなも,すばらしい仲間だと思い,

一緒にプレーできて幸せだと思ってい るだろう。

e. 別れ別れになっても,WBCで一緒に

プレーしたことは忘れないだろう。

(19)に示されたような(あるいはもっといろい ろの)結論が発話の推意であるとしても,それら はすべて弱い推意群である。話し手が意図したも のかどうかは別として,それらが導出されるため には,聞き手は発話の表意を確立しなければなら ない。推意の導出を保証するように,どの程度の

「やばさ」なのか,何がどんなふうに「やばい」

の か に つ い て , 話 し 手 の 意 図 し て い る と こ ろ

(「ヤバイ」)が復元されなければならない。普 通の気持ちでいられないほど「危ない」といった 方向で狭められ,特定化されると考えられる。

(20)の「やばい」はどうだろうか。和子と正 夫が鮨屋で食事をしているとしよう。

(20)和子:このお寿司やばくない?

和子はこの店の寿司がまずくて中毒でも起こしそ うだと意味しているのだろうか。それとも応えら れないくらいおいしいと言いたいのだろうか。和 子の寿司に対する評価は大部分,これまで時々正 夫と行った鮨屋,あるいは家の近所の鮨屋で食べ

(8)

た寿司に基づいているものであろう。和子の発話 が正夫にとって関連性を有するのは,和子が今寿 司を楽しそうに食べているのか,まずそうに食べ ているのかいずれを推意するのかにかかってい る。同時に,使用されている「やばい」について,

意味の方向ないし範囲を示してはいるが記述はし ていない特定化されたアドホック概念「ヤバイ」 を,正夫が復元することにかかっている。「やば い」という語の意味は,前者のコンテクストにお いて正夫が復元するのは「ヤバイ」であり,一方 後者においては,「ヤバイ**」である。発話の表 意内容のみならず,推意の導出を保証するよう調 整されるのである。

「やばい」の使用を少し異なる観点から考察し てみよう。次の例は「やばい」が過去の事象につ いて使われている。

(21)良子:昨日彼氏と始めてデートしたんだ って?どうだった?

和子:かなりやばかったのよ。

良子:うまくいくといいね。

(22)a. 彼氏はハンサムである。

b. 彼氏は和子の好みの男性である。

c. 和子は彼氏にまた会いたいと思ってい る。

これまでの考察から,「やばい」はその場との結び つきが強い表現のように思われる。事実,北原

(2005, 98)も「カレー,おいしかった?」「うん,

うまかった,やっべー」というような,その場を 離れた思い起こしや報告にはあまり使わないと述 べている。「やべーうまくなった」という副詞的使 用も不自然であるということも指摘される。これ らの事実から,「やばい」は感動詞的に使用され るという北原の指摘は的を得ていると考えてもい いかもしれない。しかしながら,ほめ言葉に使う

「やばい」は感動詞のように使われるという言明 は,受け入れがたい。第一に,感動詞のように使 われるということは概念を記号化していると考え にくいということである。さらに,それが本来の マイナス評価での使用と区別されることにもな

り,そうなると,多義であると主張していること になろう。

たとえば,次の例において,

(23)やばいよ,この味。

(24)a. 今度の試験やばいよ。

b. やばい,遅刻しそうだ。

(23)は(20)で例証したように,コンテクスト 次第で,腐って食中毒を起こしそうな味であると も,おいしさが際立っているとも解釈が可能であ る。(24a)(24b)の「従来」の用法と区別される ところは何もないであろう。

(21)の例に戻ると,良子の第2発話からわか るように,ほめ言葉として使用されている。発話 の表意としては,「昨日会った彼は思っていたよ りヤバカッタ」というようなもので,推意とし て(22)に示されるような想定を復元したので あれば,聞き手は話し手の意図したやばさの種類 と範囲(「ヤバイ」)を正しく構築したのである。

これは明らかに,期待はずれだったことを伝える

「ヤバイ**」とは真理条件が異なるものである。

つまり,過去というその場を離れた事象の記述に 使用されるという事実は「やばい」が何らかの概念 を記号化していることである。「やばい」は「疲れ ている」や「うまい」などと同じように,記号化し ている概念を伝え,かつ当該のコンテクストの中 で足された,無限とも言うべき関連した別の概念 を伝えうると考えるのが妥当であろう。

本節での議論は,発話解釈に推論が欠かせない というテーゼが与えられたら,語というのは記号 化している最小の概念を超えて,さまざまな,関 連する概念を伝えうるということを示すことであ った。「やばい」の記号化している意味が語用論 的にいかに意味調整され,そのスキーマ的概念を 超えて,話し手の思考に近づくかを例証した。

「やばい」はその時々,無限の区別される概念を 伝達するのだが,これはわれわれの心的概念は,

語よりもはるかに多いということの実証である。

(9)

5 結び─記号化された意味と伝達される思 考

本小論の私の関心は,言語的意味決定不十分性の 下,発話そのものも発話を構成する語も,話し手 の伝達しようと意図した思考の一片の証拠であ り,発話解釈の長い道のりのスターティングポイ ントであるということを示すことであった。

われわれの心的概念は言語にある語よりはるか に多い。語としての確立は,語がその言語を使用 する成員のものという性格上,手間ひまかかるも のであるが,一方個人の心的概念は,他人との相 互調整の問題ではなく,個人の中の記憶や知識と の関係であるから,比較的制約を受けないのであ る。このような中でのことばによるやり取りを考 えたとき,そこに含まれる概念と語とのペアリン グの調節作業は関連性理論のような認知理論こそ が説明しうるものである。

良夫に論文が書けたかと尋ねられて,正夫がや ばい状態にあると発したとき,正夫の発話は一連 の弱い推意群の導出を保証することと呼応して,

その明示的意味を確立する。良夫が構築するやば さのアドホック概念は,正夫の心的概念とまさに 同じものであるとは考えられないが(話し手が正 確に意図した推意ではないから),それでも伝達 は成功する。良夫の拡充したやばいさと正夫の心 にあったやばいさは種類も程度も異なっているか もしれない。両者の意味の隔たりにもかかわらず,

伝達は成功したのである。関連性理論の考えは,

伝達というのは決して話し手の心的概念の写し

(duplication)を手に入れるのではなく,意図さ れているのは,そして達成されるものも,きわめ てルーズなレベルであるというものである。

思 考 と い う の は , 一 方 で は , 形 式 の 記 号 化

(encodability)の問題であり,一方には形式の伝 達能力(communicability)の問題がある。ほと んどの心的概念は表明・表示され得ないと思える 一方で,ほとんどの概念は表示され得るのである。

二つのレベルを取り持つのは語用論的推論であ り,認知上の問題として説明・解明されるべきこ とである。

1)武内(2002)は,論理形式から表意へいたる語用論 的作業全般について解説している。

2)橋渡し現象とは次のような発話解釈に見られる。

(ア)Peter: Did you enjoy the picnic yesterday?

Jane: The beer was warm.

(イ)The beer was part of the picnic.

(ア)において Jane の発話の‘the  beer’が bridging  ref- erence  と呼ばれる定名詞句指示表現で,Peter の発 話にはその直接先行詞はないが,間接先行詞として

‘a  picnic’が候補である。そこで,‘the  beer’の指示対

象を確立するために(イ)のような想定が必要とな る。これは上記( ii )の推論的前提である。ポイン トは,推論的前提があって初めて,表意構築過程の 一部である‘the  beer’という指示表現の同定が可能に なるということである(松井 2003 参照)。

参照文献

Carston,  R.  1996.  Enrichment  and  loosening:  Complementary processes  in  driving  the  proposition  expressed? 

UCL Working Papers in Linguistics

8. 61-88.

Carston,  R.  2000.  Explicature  and  semantics. 

UCl Working Papers in Linguistics

12. 1-44.

Carston, R. 2002. 

Thoughts and Utterances: The Pragmatics of Explicit Communication.

Oxford: Blackwell

Grice,  H.  P.  1989. Studies in the Way of Words.Cambridge, Ma: Harvard University Press. 

北原保雄(編).『続弾 問題な日本語』2005.  大修館書 店.

松井智子.  2003.「関連性理論:認知語用論の射程」『人 工知能学会論文誌』18 巻 5 号. 1-10.

Sperber, D. and D. Wilson. 1995. 

Relevance: Communication and Cognition.

Oxford: Blackwell. 

Sperber,  D.  and  D.  Wilson.  1997.  The  mapping  between  the mental  and  public  lexicon. 

UCL Working Papers in Linguistics

9. 1-20.

武内道子. 2002.「言語形式の明示性と表意」『英語青年』

第 48 巻 第 4 号 240-241(2002 年 7 月号 36-37).

武内道子. 2005.「関連性への意味論的制約−「しょせん」

と「どうせ」をめぐって」武内道子(編).『副詞的 表現をめぐってー対照研究』ひつじ書房.63-87.

Wilson,  D.  and  D.  Sperber.  1993.  Pragmatics  and  time.

Carston,  R.  and  S.  Uchida(eds.)1998. 

Relevance

Theory: Applications and Implications.

Amsterdam: John Benjamins. 1-22.

参照

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