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フリードリッヒ・ヘルダーリン : その誕生から死まで(Ⅱ)

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フリードリッヒ・ヘルダーリン

 一その誕生から死まで一(ll)※

大  谷  欣  也

皿  ヘルダーリンは1794年のはじまりと共に社会人として家庭教師の生活をはじ めるが,9歳の教え子ブリッツや他の人々,また環境にも満足して,孤独な田 舎で詩作にも打ち込むのである。カルプ夫人は3月になってようやく家に来る が,詩人を教育者としても称賛に値すると見る一方,彼は夫人の “非凡な精神 力”に感嘆するのである。また彼は村の牧師のすすめに応じて時折説教もした ようであるが,これはおそらく本心からではなく,新しい生活をより強固にし, 周囲の人々との関係をより善くするために行ったものであろう。かくて詩人が 社会人になった時,かっての文学の盟友マーゲナウはもはや共に文学を語ると ころがら離れてしまい,ノイファーだけがこれ以後文通の相手となり,詩人は, ノイファーが副牧師の生活に支障のない程度におさえられるが,自分は全面的 にすべてを詩作に注ぎ込んでしまうと伝える。  やがて詩人は,当時すでにゲーテとならび称されていた偉大な詩人シラーに, おそらくシラーと泥懇であったカルプ夫人の口添もあって同郷の後輩として手 紙を出し,「私はひとりの男子に成らんと欲しています。ときどき私にお目をお      ヨの かけください」と書き,詩を同封するのである。この時送った『運命」は,や がてll月『タリーア」に「断篇ヒュペーリオン』と共に載るが,詩人はこの詩 を“私の青春の大切な記念品”と呼ぶ。すなわちその最終節では, 「嵐のうち  ※ (1)は第250号に掲載済みである。  37)StA VI, S.113.

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の最も神聖なる嵐のなかに/わが牢獄の壁はくずれ落ちよ/そしてより壮麗によ り自由に/わが精神は未知の国へ巡礼せよ/ここではしばしば鷲達の翼は血をな がす/かしこでも戦闘と苦悩を待て!/もろもろの太陽の最後のものまでたたか       ゆえ/勝利に養われて,この心よ」と歌った。この前半4行は,後年弟ゴックによ り詩人の墓碑銘として選ばれる有名な詩句であるが,いわば神学寮という青春 の牢獄をうち破り,いよいよ一人前の男子とならんため実社会に打って出んと する,ひたすらなる決意,意気込みがひしひしと伝わってくるのである。  詩人はこれからシラーに心酔するが,4月ノイファーの婚約者ロジーネ (1767−1795)に寄せる,『友の願い ロジーネに』を送った。また彼はこの頃 母が紹介した故郷の副牧師の職を断るが,これが最初の拒否であり,これ以後 母は何とかして牧師という “正業”にっかせようと努力するけれども,その度 に詩人が断るというパターンが繰り返されて行くのである。それから7月母が, またいまだに詩人をおもっているレブレットとの関係も含めて,副牧師になっ たらと伝えたことに対して,彼は,「よかれあしかれみずからの固有の性格を知 り,まさにこの性格に有益な境遇に移ろうともとめたり,あるいはできる限り        そのような境遇で暮らしてゆくことは,義務です」と拒否したのである。しか し母が,このような詩人の言葉をどこまで理解したか分らず,母はこれからも 機会あるごとに正業をすすめるが,それは母として当然のことであったろう。  この弓田ルプ夫人はシラーにあてて詩人を称賛しっっも,「しばしば不満であ       の る唯一の存在は一ヘルダーリンに関してですが一命自身なのです」と書き,あ まりに鋭すぎる感受性と意志的精神集中の危険な兆候を敏感に伝え,9月はじ めシラー夫人にあてた手紙が称賛の最後となるのである。それはせいぜい夏子 までしか続かなかった幸福な家庭教師の生活と関連しており,詩人は教え子の 悪癖と習学の進歩のなさに苦しむのである。とにかく彼は夏『断篇ヒュペーリ オン」を完成させシラーに送ると共に, 10月には 「青春の守護神に寄せる讃 38) StA 1, S. 186, 39) StA VI, S. 122, 40) StA N[1, 2:S. 11.

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      フリードリッヒ・ヘルダーリン  75 歌」の改作である,「青春の神』を完成させた。またこの頃ギリシャ悲劇の理想 にのっとり,ソクラテスの死のドラマを計画したようである。この10月詩人は とうとうノィファーに苦衷を打ち明けるが,少年の悪癖を見張るためほとんど 不寝番をするような毎日を過ごし,また懲らしめのたあ当時の風習に従い,ム チ打ちなどの手段をとったようである。  カルプ夫人は少年があまりに厳しく扱われていると受け取るが,かくて失わ れた多くのつらい時間に対する補償として,また新しい家庭教師への切り換え もひそかに含み,11月詩人は教え子と共にイェーナに行くのである。当時 イェーナはフィヒテ(1762−1814)をはじめシラーもおり,ゲーテ(1749− 1832)もよく来て精神的興隆のただなかにあったが,詩人は弟子のようにシ ラーのもとに出入りし,“愛すべきシュヴァーベン人”と呼ばれて気に入られた。 時あたかも「タリーア』に「断篇ヒュペーリオン』と『運命」が載り,詩人は いわば中央文壇にデビューしたと言えようか。詩人がシラーをたずねた時, ちょうどゲーテが居合わせたのであるが,余りに緊張してシラーその人にのみ 全注意力を注いでいた結果,ゲーテを無視するそっけない態度をとることにな り,あとで知って後悔する。以後二人はこの出会いが象徴するように,幸福な 関係をもち得ないという運命の不思議が起るのである。ゲーテはこの年からシ ラーと親しく交わるようになったのであるが,何事にも一心集中しすぎる,世 渡りの下手な詩人の傾向がマイナスに現われたのであろうか。  いずれにしても詩人はフィヒテの講義を熱心に聞いて大いに発奮し,テユー ビンゲンの先輩で哲学を教えていたニートハンマー(1766−1848)をたずねた りして,活発な精神世界の活動を一挙にはじめるのである。彼は当地で講師な どの職につくことを考え,家庭教師の辞職を申し出て,央人も同意するが,シ ラーが復活祭までもう少し努力してみたらと妥協案を出し,それに従う。また 彼はすぐれた女流詩人で当時或る教授夫人であり,その魅力によって有名で あったゾヒー・メロー (1770・一・1806)とおそらく知り合ったが,彼女はのちに ブレンターノ(1778・一 1842)と再婚するのである。さらにこの頃母から話の あった副牧師の職を断ると共に,まだ詩人をあきらめきれないらしいレブレッ

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トについて,結婚する意志のないことを母にはっきり告げた。それから彼は12 月末カルプ夫人,教え子と共にヴァイマールに移るのである。  あけて95年1月中旬,彼はイェーナから母にあてて教え子について本当の事 情を伝え,夫人も同意して辞職し,3ケ月の給料を得てイェーナに戻ったと知 らせる。それから『ヒュペーリオン』の原稿を復活祭までに仕上げれば,母に 金銭的に頼らなくても済む見通しであり,秋まで講義を開くか,新しく家庭教 師になるか未定という。いまや彼は1日1食に切りつめフィヒテの講義を聞い たり,シラーのところへ行ったり,ゲーテやヘルダー(1744・一・1803)にも会っ たりして,再び活発な活動を行うのである。ヴァルターハウゼンの家には,カ ルプ夫人の娘の家庭教師をしていた若き寡婦,非凡な精神と心のもち主である キルム婦人(1772・一・1836)がいたが,詩人は失いたくない人だったと感じたよ うである。カルプ夫人は,シラーに対して“彼はすばやく走る車輪です”と告 げるが,詩人の素質と才能を認め,母にもとりなしの手紙を出す。それに対し て母は財政の許すかぎり援助すると返事し,詩人はそれに感謝する。また詩人 は,テユービンゲン以来の知り合いである医学生カメラー(1772・一・1849)とも 親しくっき合い,時には故郷へ帰ろうかしらんと思う気持と,イェーナの精神 的昂奮のなかに留まってより自己形成したいと望む気持との間で,次第に少し ずつ揺れ動いて行くのである。  3月シラーはコッタに『ヒュペーリオン』の出版を推薦し受け入れられるも のの,100グルデンの稿料はすぐ入らず,かくて母に最初の仕送りを頼む。ま たこの頃前年5月より法学生として来ていたシンクレーアと再び知り合い親し くなるが,シンクレーアは“あらゆる他の人々をしのいで心の友”と呼び,や がて一緒に住むようになったらしい。そして夏には二人だけで寂しい園亭で暮 らす計画をめぐらす。この3月下旬母は,とうとう広大すぎる故郷のスイス館 を当分の間住みつづける条件の下で,4700グルデンで売却するが,これは詩人 の援助を考えたことも売却理由のひとつに入るであろう。彼は下旬から4月に かけ一週間ほど,ハレ,デッソー,ライプチッヒを徒歩旅行し,その帰途,大 学時代讃歌を捧げたグスタフ・アドルフ(1594−1632)が倒れたりッツェンの

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      フリードリッヒ・ヘルダーリン  77 戦場を通り,感激をあらたにしたのである。  4月ヘルダーリンは,弟に,秋には試験を受けて講義ができるようにするつ もりと知らせ,ノイファーにも,シラーのすすめでオイディウスの『プファー エトン』を8行詩型に訳したと伝え,いまだシラーに全面的に心服している状 態をうかがわせる。それから5月はじめノイファーの婚約者が亡くなったこと を知り,深い衝撃を受け慰めの手紙を送るが,「君たちの愛は唯一のもの,現今 の無情な偏狭な世界においてはひとつの奇蹟であった。それは永遠にわたる愛        う ではなかろうか」と書き,すぐにも故郷へ帰りたくさえ思う。22日彼は母にあ てて,フランクフルトに家庭教師の口があり,返事をいそがされているから引 き受けたが,もし決ったら故郷にたち寄ると言い,「人は異郷においてたいへん,       る  たいへん多くを学びます,母上!人はその故郷を尊敬することを学びます」と, 人生における旅の本質的意味を記すのである。この話はそれきりとなった。  またこの頃詩人はニートハンマーの家で或る夜,フィヒテとその信奉者,そ してノヴァーリス(1772−1801)と会い,宗教,啓示,哲学について話し合い,        るの多くの問題が未解決のまま残る機会をもったようである。それから6月頃か彼 はシラーにも何も知らせず突然の帰郷を行い,おそらくイェーナの周囲の人々 ばかりか,伊達をもひどく驚かせたであろう。この一種の“逃亡”の理由はさ まざまに言われるが,郷愁,シラー等の精神の巨人が無名の新人に与える精神 的圧迫感,心友ノイファーを慰めんとするいたたまれない気持,さらに母に経 済的に迷惑をかけたくない心情等がふつう考えられるであろう。しかし最も主 たるものはおそらく,いさんで社会に出た最初の職業がみずからに原因がない とはいえ,うまく行かず短期間で終らざるを得なかった挫折感であったろう。 これは後にフランクフルトのゴンタルト家に就職する時の,エーベルあての書        の簡に間接的に反映しているであろう。これらすべてが混然として,このまま 41) StA VI, S. 171f. 42) lbid. S. 174. 43) VgL StA VII, 2: S. 27 f. 44) Vgl, StA VI, S. 177.

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イェーナに居つづければ自分自身を見失い駄目になってしまうという思いが次 第に強まり,浸る日突如として“出奔”したのであろう。これは後にボルドー から急遽帰国する出来事と似て,余人には理解しにくい不思議な行動と見られ たにちがいなく,じじつシラーはこの不可解な帰郷に不審の念を抱き,やがて 以前のような全面的好意は少しくうすれて行くようであった。  いずれにしても詩人は帰国の途中ハイデルベルクでおそらくシンクレーアの 紹介により,フランクフルト出身の医師・自然研究家,運命の銀の糸の結び手 となるエーベル(1764−1830)と知り合い,すぐに友情を結ぶから,不可知な 突然の帰郷は霊妙な運命の守護神のみちびきであったと見なければなるまい。 それから6月23日彼は故郷からシラーに弁解の手紙と共に,『プファーエトン』 の訳稿を送るが,シラーはこれに返事を出さず,訳稿は結局採用されないこと になる。かくて詩人はこの夏引ュルティンゲンで失意のうちに暮らし,深い不 愉快,不機嫌,体調の不調と共に創作力はおとろえ,自分と周囲に対する不満 がつのるのであった。彼は下旬テユービンゲンにシェリングをたずね哲学の話 をした後,8月工一ベルからゴンタルト家の家庭教師の紹介があり,救われた 思いで9月はじめ引き受ける旨の返事を出す。そこで彼は,「われわれの現在の 世界において家庭教師が,人間の形成に対する願望と努力をもって,人が逃げ こあるであろうほとんど唯一の避難所であろうと私が信じませんでしたならば, おそろしく失敗した努力が,私を二度とそう軽々しく教育にたずさわらせない        の よう,もしかしたら私に決心させていたことでしょう」と書いて,家庭教師だ けが詩人として生き得る道であると告白したのである。  それから10月はじめまずシュトゥットガルトのノイファーをたずね,そこで 芸術に理解のある富裕な商人,後に深い友人となるランダウエル(1769・一・1845) とおそらく知り合い,ついでウンターラントの親戚を訪ずれる。また近くのコ ンッを訪問しさらにマーゲナウにも会うが,マーゲナウは一年後ノイファーに 対して,「彼は以前のものに比してすべての同情に無感覚になっていた,生ける 45) a a, O,

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      フリードリッヒ・ヘルダーリン  79        屍だった!」と伝えるから,この頃詩人がいかに意気消沈していわば人生に絶 望していたかがうかがわれるのである。やがてノイファーは,彼と親しいシュ トゥットガルトのシュトレーリン教授の家庭教師を世話するが,フランクフル トの話がどちらかに決まるまで待ってもらうよう返事し,それから「私たちの 様子は,若い馬達のようだ。私たちが一緒に道をはじめた時,私たちは翔って いた,語るいは翔っていると信じていた。そうして今やしばしばほとんど,人        のが拍車や鞭を必要とするほど苦境のようだ」と告げる。詩人が実社会に出た時, イェーナに出た時,まわりは巨匠ばかりであって,それに較べれば何の職業に もついていないから,よけいまことに取るに足りない存在であることをいやと いうほど骨身にしみて体験した故に,まさに追いつき追い越すために拍車と鞭 が必要と言うのであろうか。たとえそれが外的には挫折した失意の日々に見え ても,故郷における休息は,内的には巨匠達から受けた強烈な精神的衝撃を消 化受容し,偉大な男子と成るべくみずからの人間形成に生かすための必然の過. 程であったのであろうか。かくて彼はあとから“生徒として”登場した地点か ら,カルプ夫人が鋭くも見抜いたように,詩人の人間的根本特徴である,普通 の人々よりもはるかにすばやい意識の運動,精神の飛翔をもっていよいよ加速 して巨匠達の後を追うのである。  それ以後彼は辛抱強く返事を待つもののなかなか来ないところがら,とうと う11月9日工一ベルに対して手紙を出し,下旬にはヘーゲルにも戦争の影響で 二人の件がはかばかしく進まないと伝える。12月詩入はノイファーに対して, 境遇の不安定,孤独,そして家ではたぶん厄介者になるのではないかという気 持のために気が滅入って,時間がほとんどいたずらに過ぎ去って行くと苦しい 状態を知らせた。その直後ようやくエーベルから手紙が屈き,彼は半年にもお よぶ窮境,宗務局によってどこかの副牧師に任命されないかという不安から救 われて,ただちに承諾の返事を出すと共に,旅の準備にとりかかる。また中旬 にはシェリングがたずねて来て哲学上の話をするが,彼はそれからシュトゥッ  46)StA V旺,2:S.44.  47) StA VI, S.183.

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トガルトで旅の必要品を整え,ついで親戚へ向かい,そこでクリスマスを過ご した後,フランクフルトに出発した。彼は暮の28日到着するが,先方の準備が まだ出来ない故近くの旅館に泊まることになる。これはかってのカルプ家の時 と似て,つねに何か“拍車と鞭”ですばやく行動するような詩人の傾向が,い わば普通の速度の一般社会とひき起こす微妙な“ずれ”のあらわれであろうか。 それから彼は母にあてて,書斎のなかで孤独に過ごす方が,まったく関係のな い人たちのつまらない喧騒のなかで過ごすよりはやはりよいと伝え,孤独に耐 えて多くを期待せず静かに新しい生活をはじめる覚悟を示す。 rv  詩人はかくて大晦日富裕な銀行家ゴンタルト(1764−1843)の宏大な “白鹿 島”にあいさっに出向き,家族に紹介されるが,おそらくこの時はじめてズ ゼッテ夫人(1769−1802),すなわちディオーティマと運命的出会いをして,そ の比類なき高貴な,静誼な美しさにさぞかし死に枯れていた心と魂をゆり動か され目覚あさせられたであろう。彼は再び自然の動きと一致して新年から家庭 教師として働きはじめるが,8歳の教え子ヘンリー(1787・一・1816)の授業は午 前中だけであり,必要品は無料で供給される他,年報400グルデンであるから その頃としては恵まれた方であったろう。詩人はさっそく徒歩で3時間の距離 にあるホンブルクに,その方伯に仕えていたシンクレーアをたずね,また他の 人々とも知り合い,以後しばしば訪ずれることになる。また彼はゴンタルト家 の人々に好印象をもち,静かな,恵まれた家庭教師の生活をするうち故郷から フルートをとりよせ,詩人,ズゼッテ,晶晶の教育係であるレツェル(1772− 1849)の三人は合奏して嬉しい音楽のひとときをもつが,詩人がフルートに強 かったことは記録されている。  それからニートハンマーの哲学雑誌に約束した論文として,前年『タリーア』 に発表されたシラーの『人間の美的教育について』にならった,“人間の美的教 育についての新書簡”と題するものを書く予定と伝えるが,結局これは書かれ なかった。やがて3月彼は,新しい女性に心を寄せていると書いてきたノイ

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       フリードリッヒ・ヘルダーリン  81 ファーに,こういう件はもともと誰も他人には何も言えないとしてから,「私は 能うかぎりうまく行っている。私は心配なく暮らしている。そしてこのように       ゆじっさい至福な神々は生きているのだ」と印すのである。これは,詩人が理想 の時代とする古代ギリシャの人々と同じく,まさに神々のように至福に暮らし ていることを意味し,いわば永遠の美を体現するディオーティマなるズゼッテ と,アポロンの如きヘルダーリンが,あたかも不毛な乏しき時代のドイツに あって,あり得べきより善き時代の人々のあり方を先取して,その生ける模範 を人類に対して暗黙のうちに示すが如く幸福に生きていることを示すであろう。  また詩人は同じ書簡で,「シラーが『プファーエトン」を採用しなかったこと については,彼は不正をしなかった。そしてもし彼がこの無思慮な問題で私を まったく決して苦しめなかったら,彼はいっそうより善くふるまったことにな ろう。しかし彼が「自然に寄せる』を取り上げなかったことは,それについて は私の考えによれば,彼は正しきを行わなかった。われわれの詩が,シラーの 年刊詩集にひとつばかり多く煎るいは少なく載るかはとにかくほとんどとるに       ゆ 足りないことだ。われわれはしかしながら成るべきものには成るのだ」と書く のである。すなわち詩人はもはや以前のようにシラー一辺倒ではなくて,いわ ばその生徒たる状態から脱け出て,はやくも自立しっっ独立の歩みをはじめて いることが知られるのである。4月シェリングは旅の途中フランクフルトにた ち寄り,二人はまた哲学上の対話を続けるが,その成果は,シェリングの『ド イツ観念論の最古の組織綱領』にあらわれたと言われる。それから5月中旬彼 は,コッタに対して『ヒュペーリオン』を全面改作し,全体を今日見られる一 冊の書簡形式にする旨申し出て,紙数が増えても稿料は同じで構わないけれど も,ラテン文字で鮮明に印刷してくれるよう頼み,2ケ月後に原稿を渡すこと になった。これはよく言われるように,ズゼッテとの出会いにより作品の構想 が大きく変化発展し,いわば彼女をモデルとするディオーティマの生ける姿が 新しく確立されたことを意味するであろう。 48) lbid. S. 205. 49) a. a, O.

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 そうして一家は豊かな人々の習慣に従い郊外の田舎の別荘を借りて移るが, 美しい静かな自然のなかで詩人はズゼッテ達と幸福な時を過ごし,二人はいつ しか互いに心を通わすようになり,天上的至福のうちに暮らすのである。 6月 彼は職場の不満を訴える弟に対して,男子に成れ,そして打ち勝てとはげまし, 詩人の資金でイェーナ大学へ行ってはどうかとすすめ,さらに 「もしもそれが はばめられ得ないならば,世界はその歩みにまかせよう,われわれはわれわれ の道をすすむ。われわれが立ち去るならば,後に残る何かをわれわれの本性か ら作り出さんとする衝動が,そもそもわれわれを唯一生にしっかりっかませる      の ものである」と書いて,巨匠達の模倣をするのではなく,もはや自己独自の道 を歩みっつあることを明らかにするのである。  やがて7月とうとう詩人はノイファーにみずからの愛を告白した。「世界には, 私の精神が何千年もそれに留まり得るし留まるであろうし,またそれでもなお 見ることができるし見るであろうような人が存在する。すべてのわれわれの思 索と理解はこの天性を前にして比べれば,いかに未熟であるかがわかる。愛ら しさと気高さ,そうして落ち着きと生気,そうして精神と感情と形姿とがこの 人のなかで至福な全一をなしている。私は今あるように鷲のようにほがらかに なり得ただろうか,もしも私にこの,ひとりの人が現われなかったならば,そ して私にはもはや何の価値もなかった私の生命を若返らせ,強化し,快活にし,         賛美しなかったならば,その人の春の光で。」もちろん二人の愛は,最初からこ の世的には結ばれるはずのない諦念からはじまった,精神的,天上的愛である が,詩人はイェーナから主観的には挫折して故郷に逃げ帰り,“生ける屍”で あったことから,いまやディオーティマの聖なる愛によって復活し甦ったので ある。それはまさに『ヒュペーリオン』として芸術化され昇華され永遠化され るべく,創作に心血を注ぐのである。  この頃皇帝軍が退却してフランクフルトが仏軍との戦場になる恐れが生じた 結果,家族は当主だけを残してズゼッテの実家があるハンブルクに避難の旅に  50) Ibid. S,210,  51) Ibid. S,213.

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      フリードリッヒ・ヘルダーiJン  83 出るが,彼女はしかしカッセルに到着した時,なぜか実家へ行く計画をやめて そこに滞在する。その理由は分らないが,もしかしたら不思議な愛のなせる御 業であったのであろうか。下旬彼はシラーに短かい手紙と共に,『名づけがたい 人』,『ヘラクレスに』,『ディオーティマ(中間稿)」,「賢い助言以たちに』を送 るが,もはやこの年の年刊詩集には間にあわなかった。けれども詩人はその事 情を知らず,シラーに見放されたと感じるようになって行くのである。  ディオーティマの詩はたくさんあるが,失われた最初の詩では“アテネーア” と題されてからついで“ディオーティマ”と呼ばれるようになり,シラーに 送ったものは後に長すぎると注意される中間(第三)稿である。たとえばその第 三節では,「ディオーティマ!神の祝福を受けた人!/素晴しき人,この人によ りわたしの生命の息吹は/生命の不安から救われて/神々の青春が約束された! /わたしたちの青空は存続するでしょう/測りがたくもたがいに近似して/わた        したちが会うより前に/たがいにわたしたちの最深奥は知っていた」と歌われた。 ズゼッテの弟ヘンリー・ボルケンシュタイン(1773−1828)はハンブルクで豊 かにワイン商を営んでいたが,ほとんど毎年のように夫婦で訪ずれて長期滞在 し,ズゼッテとは緊密に結ばれていた。その弟と詩人がよく似ていたと伝えら れる人生の不思議は,二人をまずより容易に近づけたであろうが,二人は外的 類似性をこえて,精神的霊的近親性をたがいに発見して驚いたのである。まさ にこの内的近親性こそはすべてのディオーティマの歌に通ずる根本認識なので ある。  そのうちゴンタルト家の友人,当時有名であった『アルティンゲロ』の作者 であるハインゼ(1749・一・1803)が一行に加わり,詩人はこの年長の詩人をずっ と後まで尊敬しつづけ,後に『パンと葡萄酒」を捧げるが,ハインゼはしかし 一定の距離を保っていたようである。詩人はカッセルで素晴しい公園や美術館 を訪ずれて,模造品の他オリジナルのギリシャ彫刻にも触れて,はじめて偉大 な造形芸術を目の当りにしたのである。やがて8月一行はバート・ドリーブル クに移るが,新しい知己を求めず湯治場でひっそり暮らすうち,二人の親密な  52)StA I, S.216.

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間柄は人々に逸話の種を提供するほどであったらしい。まさにこの2ケ月程の 避難の旅は,天が二人に与えた希有なる至福の瞬間であったかもしれぬ。また この頃ヘーゲルは深遠なる詩『エレシウス』を詩人に捧げるが,実際受けとっ たかは疑わしいものの,詩人は彼にフルンクフルトの非常に有利な家庭教師を 紹介したりして,二人の友情はこの頃が頂点のようであった。  9月になり三軍が撤退したので一行は中旬まずカッセルに移るが,エーベル はフランスの実際を見るべくこの頃パリに出かけ,17日シュトイドリーンは:革 命の熱狂者として追放された後,ライン河に身を投じ38歳の生命を絶ったので ある。かくて月末ようやく帰着するが,ゴンタルトはまだニュルンベルクに留 まっていた。10月彼は弟にあてて,母が経済上の理由でイェーナ行きを許さな いなら,せめて一度フランクフルトに来るよう招待し,クリスマス前にも旅費 を送ると言う。ゴンタルトの妹マルガレーテ(1769−1814)と相思相愛であっ たけれども,豊かな家庭との不衡合のため結婚できぬままゴンタルト家に親し く出入りしていたエーベルは,革命の惨状について落胆した手紙を詩人に送っ てくる。11月20日彼はシラーに送付した詩を返送してくれるよう書くと, シ ラーはただちに返事して,締切り後であったことを知らせると共に,哲学的素 材をさけ冗長にならないよう忠告し,詩人は見捨てられていないことを知り気 持をとりなおす。またこの二三がニュルティンゲンのラテン語学校教師の口を 知らせると,彼は詩作という“無垢な仕事”ができなくなるような職にはっけ ないと断るが,より根本の理由は,最後まで家族にかくし通したディオーティ マとの愛ではなかったろうか。この年の詩は他に『かしわの樹』,『青年から賢 い助言者たちに』がある。  あけて97年1月彼はエーベルに返書して,「私はこれまでのすべてのものを 赤面させるであろう,信念や観念の未来の革命を信じています。そしてそのた        の めにドイツはおそらく大変多く寄与できます」と書くのである。それからマル ガレーテについて伝えたが,詩人はこのゴンタルトの妹とも親しくなり,少な くとも後には彼女は詩人達の愛をよく知るようになるのである。また彼は弟が  53)StA VI, S.229,

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       フリードリッヒ・ヘルダーリン  85 親戚のブルームの下で書記となったことを喜び,復活祭の休暇に来るよう旅費 を送った。ついで母が入婿を条件とする牧師の口をすすめてきたことに対して はっきり断り,「教職はじっさい一般的に私の見ますかぎり,現在の時代では聖         職よりも効果的なのです」と興味深い見解を示すのである。  2月になっても詩人はあいかわらず幸福な手紙をノイファーに送るが,ディ オーティマについて讃美した後,「<<神々が愛する人には大きな喜び大きな悲し みが与えられる>>小川の上を舟行することは何の技術でもない。しかしもし も私たちの運命が,下は大海の底へそして上は大空へ私たちを投げるならば,       それは蛇手を練成する」と綴る時,するどく二人の運命をみずから預言したこ とになるのであろうか。ゴンタルトは仕事に没頭するタイプの人であり,ラン ダウエルとちがって音楽や芸術には理解がなく,子供達の教育もすべて夫人ま かせであったようである。しかしもともと教養豊かに育てられたズゼッテは, 詩人と教育問題をはじめとして文学や芸術を含むもろもろの話を交わすにつれ て,みずからが実は心の奥底から求めていてそれまで満たされなかった高貴な 精神の世界に目を開かれて,それまで内に秘められていた天性がよりいっそう 輝き出て,ついに詩人を永遠の美の似姿へと誘ったのであろう。かくて詩人は かってのルイーゼ・ナストやレブレットとちがって, このズゼッテにこそ “よ り善き日々”をめざして共に努力する“魂のもち主”を発見したのである。  だが二人の親密さが増して行くにつれて,いつしか人の眼にっき人の口にの ぼりはじめることは必然の過程であり,たとえ二人が永遠に清く精神的友情で あることを自覚していたとしても,世俗的愛しか知らぬ市民社会の“常識”は 少しずつ目立たぬように二人を追いつめて行くのであろう。あるいはこの頃が 二人目幸福の頂点ではなかったであろうか,4月中旬待ちに待った『ヒュペー リオン』第一巻が復活祭の大勢に出版されて,詩人は一部をズゼッテに献呈し たのであるから。それには“高貴な天性の人々の影響は,日光が植物にとって そうであるように,芸術家には必要なものです”と記すが,なぜなら「一致し 54) lbid. S, 233. 55) lbid. S. 237.

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      おう た二つの想念は力を7倍に増すという法則が存在する」からであろう。彼はこ のようにして独立した出版をして詩人としてデビューしたにちがいなく,数少 ないとはいえ心ある読者を獲得するのである。  またこの頃弟カールがたずねて来て楽しい日を過ごし,ヘーゲルとも会い, 弟とヘーゲルは哲学論争をして以後不仲になったらしいが,ホンブルクのシン クレーアを訪ずれたりする。しかし仏軍が来るという知らせに,弟は急遽帰郷 しなければならなかった。6月20日彼はシラーに『ヒュペーリオン』第一巻, 「エーテルに寄せる』,「さすらい人』,『かしわの樹』を送るが,「私は,他の芸 術の批評家や巨匠達から独立してふるまうための,そしてその点において必要 な落ち着きをもってみずからの道を行くための,勇気とおのが判断力を十分に         持っています。しかしあなたには打ち勝ちがたく従属してしまうのです」と書 くのである。すなわち彼は『ヒュペーリオン』を出版した27歳のこの時,もは や“生徒”から一人前の男子となり,芸術の巨匠に近づきっっある独立した歩 みをしていると告白するものの,シラーに対してだけは人生の不思議によりい まだ畏敬の念をうち払えないと言うのである。シラーはただちに「エーテルに 寄せる』と「さすらい人」を最初は名前を伏せてゲーテに送りその批評を乞う が,両者は手紙のやりとりをして,ゲーテは前者を年刊詩集に,後者を『ホー レン」に載せたらどうかと結論したのである。  7月10日ゴンタルト家の “養女”とされ可愛がられていたレツェルは,ズ ゼッテと心を交わせていたが,白鹿館で結婚する。この同じ日詩人は別荘から ノイファーにあてて最初の危機の勃発を打ち明け,「おお,友よ!私は沈黙しま た沈黙している。それで重荷が私のうえに積み重なり,しまいには私をほとん ど圧しつぶしそうになり,少なくとも私の心を抗し難く暗くするにちがいない。 そして私の眼はもはやいままでのようには決して澄んでいないことが,まさに 私の禍なのだ。おお1私の青春を私に返してくれ!私は愛と憎しみに引き裂か 56) Leaves of Morya’ s Garden, ll, Agni Yoga Society, lnc. 1979, p. 78. 57) StA VI, S, 241.

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       フリードリッヒ・ヘルダーリン  87    お  れている」と叫んだのである。直接的なきっかけが何であったにせよ,これに はズゼッテとの関係ばかりでなく,特に商業都市フランクフルトでは低く見ら れていた家庭教師の地位も影響していたであろう。いずれにしても詩人は幸福 な生活に止めを刺され,あとは一年後の破局に至るまでまさに愛と憎しみに引 き裂かれて,大海の下と大空の上,光と影,永遠の潮の干満の間でゆれうごき っっ,忍耐と沈黙の重荷に苦しみながら別れがたく日をのばして行くのである。

V

 詩人は7月下旬シラーから暖かい手紙を受けとり生き返った気持になるが, この夏は別荘にひき込もり創作に没頭し,8月中旬シラーに礼を述べると共に, 改作した『ディオーティマ』と『賢い助言者たちに」を送る。たとえば詩人は 後者の第1節と最終節では次のように歌った。「わたしが人生の戦場でたたかう なというのか/わが心が至高の美を得んと努力するかぎり/わたしがわが白鳥の 歌を歌えというのか墓のほとりで/おんみらがいとも好んで生きながらわれらを 埋葬する/おお!わたしをいたわってくれそして旺盛なる奮闘をゆるしてくれ/ その奔流が最遠の海に突き落ちるまで/とにかくも,おんみらくすしたちよ,わ たしを生かしてくれ/運命の女神が路を縮めないかぎりノ空しくも,たとえも ろもろの精神の先駆者たちが倒れ/もろもろの力づよき美徳が,蝋のように,衰 え消えても/美はこれら戦闘のすべてから/この夜から昼のなかの昼が生ずるに ちがいない/かれらのみを,おんみら死者たちよ,おんみらの死者たちを葬れ! /おんみらがいまだ葬儀の松明をかかげている間にも/出来するすでに,われら       の心が要求したように/にわかに始まるすでに新しきより善き世界は。」  そうして下旬彼はシラーのすすめによりゲーテを訪ずれるが,それほどの好 意は感じられなかったらしい。おそらくゲーテはもはや若き詩人の本質を理解 する意識の次元からずれており,また詩人も巨匠として尊敬するとはいえ,み ずからの独自孤高の歩みをゆるぎなきものと自覚していたであろうから,この 58) lbid. S. 243, 59) StA 1, S. 223 f,

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ような両者の交差はあるいは必然の成り行きであったかもしれない。だからこ そ彼はこの頃弟にあてて,ヒュペーリオンがうれしい言葉を収穫していると知 らせるが,9月中旬ノイファーとランダウエルがたずねて来て,二人はズゼッ テに紹介されてその高貴な美しさに驚嘆し,その折り詩人は“ギリシャ婦人だ ろう”と言ったと伝えられる。ディオーティマはアテネ女性として讃美される が,ズゼッテは髪も黒く瞳も黒かった。また彼は弟に対して,いままでの“男 子に成る”ことを超えて“完全なる人間”をめざさんと伝え,いわば生徒から 一人前の男子を越えて,真の巨匠たるべく意識しはじめたことが推察されるの である。  しかし時の流れと共に真,善,美,聖をひたすら求める詩人と,物質的世俗 的価値のみを追求する周囲とのあつれきは強まり苦悩するが,11月弟にあてて, 「もしも世界がこぶしをもって打ちかかってくるならば,誰がその心を美しい境 界のなかに保っていられようか。そのようにわれわれの最も純粋なものは運命 によって汚されるのではないか,そしてわれわれはまったくの無垢のまま滅び          の なければはらないのか」と告げるのである。彼は二人の神聖な,無垢な,清浄 な愛が,潜在意識の奥底では真実なものと知っているが故に,逆にみずからの 卑しい世俗的愛が明らかにされることをきらうが故に,暗い無明の深い嫉妬か ら攻撃する人々の冷たい眼と口によって汚され破滅させられる運命を嘆くが, 家族とごく少数の友人たちの “無私の愛”だけがかろうじて傷つき弱った詩人 の魂をいたわるのである。  もちろんズゼッテもまた傷つき悩み苦しんでいることはこの頃創られた 「ディオーティマに寄せる』において,「美しき生命よ!おんみは生きる,冬の 可憐な花々のように/年老いた世界のなかで咲いているおんみはうちとけず,ひ とり/愛しっっおんみは外へと切望する, 日向ばっこしようと春の光に/それに 暖まらんとおんみは世界の青春をさがす/おんみの太陽は,より美しき時は,沈 んでしまった/そして凍てつく夜のただなかで腿風たちがののしりあっている今 60) StA VI, S, 253 f.

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       フリードリッヒ・ヘルダーリン  89  め は」と歌うところがら推し量られよう。二人はおそらくこの頃からやがて平和 的に別れることを互いに覚悟したらしく,それは12月母に対して職を変えよう か,しかし教え子達と別れたくないと揺れ動く気持を伝えることからうかがえ ようか。だが別離の日をあえて互いに言い出せぬまま,別れがたい思いに流さ れて一日また一日とのばして行くのである。この年はたくさんのエピグラムが 創られたが,たとえば『秀でた人々』の“ドイツ詩人の古典時代は過ぎ去った” という言葉は,あるいはゲーテ,シラーに対する独立精神の宣言,その生徒か ら対等になった自覚の現われであろうか。そのほか『招待友人ノイファーに』, 「ノイファーに』,『閑暇』,『ボナパルト』,『エムペドクレス』等があるが,未完 の『国々の民は黙して』では時代の激動を格調高く深遠に歌うのである。  98年1月詩人は母にあてて,混沌と矛盾を通して弁証法的により高次の大調 和に至る世界観を述べるが,それまでシラーにも警戒されていた主観主義の克 服がなされたと言えようか。それから2月弟に対して,「お前はすべての私の禍 の根源を知っているだろうか。私は,私の心が愛着している芸術に生きたい, そうして人間達のなかであちこち働かねばならず,私はしばしばかくも心から 人生に疲れて(lebensmUde)しまう。そして何故そうだろうか。芸術はおそら く生徒ではなく,その巨匠たちを養うからである。詩人に創られていた幾多の 人がすでに没落して行った。私たちは詩人の風土には生きていない。それゆえ         そのような植物の10のうちほとんどひとつでも繁茂しない」と伝えた。これは 同じ書簡で繰り返し“私はただ心のやすらぎだけを求めている”と言うように, この頃いかにまわりの雑音と冷淡に苦しみ疲れ果てているかを示すが,その根 本原因一ズゼッテとの関係の原因でもある一が,芸術,すなわち周囲とはちが う価値を追求していることであるとし,しかもいまだ巨匠ではないと謙虚に告 白しているのである。また弟を介して手紙を返却してくれるよう求めてきたレ ブレットについて,彼女との関係はうわべだけの名残りであったと完全に大学 時代の“軽率”を克服していることを明らかにした。  61)StA I, S.230.  62)StA VI, S.264.

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 詩人は4月復活祭には帰郷できなくなったと母に知らせると共に,「私の将来 の生計にっきましては,御已・配なさらないでください,母上!私は,確かに決 して二度ともはや,あなたの重荷にならなければならないような事態には陥ら        ないでしょう」と書いて,別離がもはや時間の問題であることを高めかす。つ いで彼は妹にあてて,「お前の幸福は本物である。お前は,多くの豊かな人々, そして多くの貴人たち一般,多くの貴族たちがいない区域で生きている。そし て黄金の節度が住みついている社会においてのみ,いまだ平和と心と純粋な気 持が見い出されるだけのように私には思われる。当地ではたとえば,わずかの 本物の人間たちを除いて,まったくの途方もない慢画たちばかりである。大多 数の人々にとっては,農民たちにとって新しいワインがそうであるように,か れらの富が力をもっている。なぜならまさにかくもおろかで,いかさまで,粗        野でそして傲慢なのであるかれらは」と綴り,詩人とまわりのとくに裕福な 人々との価値観のちがいをはっきり印したのである。世間の人々とのちがいは 『人間たちの喝采』において,「ああ!大衆には市場に役立っものが気に入る/ そして下僕は圧制者のみを敬う/神的なるものを信じるのはただ/みずからそう          である人々のみである」と歌われるが,これはまたやがて『ヒュペーリオン』 第二部の有名なドイツ人への叱責となってより直接的なる詩的表現を得るので あろう。  5月になりこの年もおそらく別荘に移るが,6月彼はノイファーの『教養あ る婦人のための手帖』に二二の短い詩を送り,その手紙で,「私に対する信頼を いまだもっている人々はごくわずかである。そして人間たちの苛酷な判断はお そらく長く私を追いまわすだろう,私が最後に,少なくともドイツから立ち去     るまで」と書くのである。まわりの人々の不信と冷淡の直接的原因は疑いもな くズゼッテとの親密さであろうが,たがいに無垢であることを意識しているも 63) lbid. S, 268. 64) lbid. S, 270. 65) StA 1, S. 250. 66) StA VI, S, 272,

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       フリードリッヒ・ヘルダーリン  91 のの,孤立無援のまま同邦であるドイツ人たちから苛酷に報われるという自覚 がはっきり詩人の内面に生まれて,この思いは作品に対する世人の無理解とあ いまって以後生涯つきまとうのである。そうしてノイファーに送った有名な 「運命の女神たちに寄せる』において,「魂は,人生においてその神的権能が首 尾よく発動しなかったら/そは,かの下方冥府にてもしずまりやすまらぬ/だが わたしにいっか神聖なるものが,わが/心にせつにかかる,詩が成就したならば ノ歓迎するそのときは,おお,影の世界の静けさよ!/満足であるわたしは, たとえわが琴のしらべが/わたしを下方へ導びかなかったとしても。ひとたびは        /生きたのだわたしは,神々のように,そしてそれ以上は要らぬ」と歌った。す なわち詩人はここで詩歌を“神聖なるもの”(das Heilige)と呼び,富,権力, プライド,名声,女色など無常な物質的諸価値のみを追い求める人々のなかで, 聖なるものを歌う詩人としての運命を自覚し,その神聖なるものに殉ずる覚悟 を歌い,深い運命愛の心境をあきらかにしたと言えようか。  それから6月末シラーに『太陽の神』,『ソクラテスとアキビアデス」,『ヴァ ニー二」,『人間』,「われらの偉大な詩人たちに』を送るが,今回も締切りに遅 すぎ短かい後者二篇のみがかろうじて余白に載せられた。しかしやはりその事 情を知らぬまま,詩人は再び拒否されたという印象をもつが,最後の詩におい て,「おお 目覚ませよ,おんみら詩人たちよ!目覚ませよかれらを実際また まどろみから/今なお眠りっっあるところの,掟を与えよ,与えよ/われらに生 命を,勝利せよ,半神たちよ!おんみらだけが/征服の権利をもつ,バッカス      のように」と歌い,より善き時代をめざす詩人一般に至高至善の存在理由を与 え,この点があるいはゲーテやシラーとニュアンスの異なる意識なのであろう か。また7月彼は弟に,「青年から男子への過渡期ほど,・あらゆる顧慮において よりひどい時期はない。泳ぎ切れ,勇敢な泳ぎ手よ,そして頭をただつねに高 くあげていよ!私もまた多く,たいへん多く苦しんだ,お前や誰か他の人間の 前でかって口に出した以上に,すべては言い表わせ得ないが故に,そしてなお 67) StA 1, S. 241. 68) lbid. S. 261.

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も,なおも私は多くかっ深く苦しんでいる,そしてそれにも拘らず,私にかか       わる最善のものはいまだ滅亡していないと思う」とこの頃の状態を知らせてい る。  8月彼はノイファーに,「私に,私が不幸においても愛する運命がこの愛をも しかしたら平静と晴れやかさと共に報いるであろう時には,私はじっさい君に より力づよく奉仕するつもりだ。私たちが愛し合ったように,ひとたび互いに 愛し合った人間たちは,まさにそれ故にあらゆる美しいこととあらゆる偉大な ことをなし得ると,私は信じる。もしも私たちが,私たち自身について,私た ちのテイオン(神性)について,あるいはどのように君がそれを呼ぼうとも,迷       アの うならば,その時はすべての芸術とすべての労苦もまた空しい」と書いた。す なわち詩人はここにはっきり“運命愛”(amor fati)を告げると共に,詩人の根 本的思想である,おそらく直接的にはプラトンから学ばれた人間の内なる神性 が語られるのである。たがいに愛し合う人間たちの代表はもちろんズゼッテと 詩人であるが,二人の愛は世俗的官能的愛ではなく,人間に内在する神性がた がいにその聖なる光をもって照らし合いひとつに溶け合うことであり,そこか らはじめてその神的愛の光の反映として聖なるものが生まれ,真正なる芸術と して創造されると云うのであろうか。二人は『ヒュペーリオン」第二巻につい てもさまざまに構想を話し合っていたから,聖なる愛によって愛しあう魂と魂 との一致は,なるほど“あらゆる美しいものと偉大なもの”を生み出し得るは       ア   ずなのだ。しかし「悪を行っている者はみな光を憎む」とあるように,そのよ うな清浄なる魂の愛を認めたくない世俗の人々によって,二人が引き裂かれな ければならない運命を覚悟していることは,ノイファーに送った「愛し合う人 たち』において,「別れようと欲したわたしたちはたがいに,妄想したそれが善 く賢いと/わたしたちがいざ実行したとき,なぜぞっとさせたのかわたしたちを, 謀殺のように,この行為は/ああ!わたしたちは少ししかたがいに知らないの 69) StA VI, S. 277. 70) lbid. S. 278. 71) Johannes 3, 20,

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      フリードリッヒ・ヘルダーリン  93        ア  だ/なぜならわたしたちの内にはひとりの神が支配したもうから」と歌うことか ら知られよう。  9月になって詩人はすぐ母にあてて夏中ずっと教え子ヘンリーが置歌熱を病 み,その世話で帰郷できなかったことをわびるが,詩人になついていたこの子 供の病気は,あるいは来たるべき破局の不気味な前兆であったのかもしれない。 かくて25日頃の夜か,詩人は何かのきっかけから誤解と邪推にかられたゴンタ ルトの激しい言葉と屈辱的振舞にあい,ズゼッテの“すぐさま”という言葉に 従いいとま乞いもせず,“この敵意のある色あいに染められて”ただちに立ち 去ったのである。この原因についてはさまざまに言われるが,当人たちはもと より周囲の人々もいっか破局が訪ずれることを予感していたにちがいなく,そ の事情はゴンタルト家の言い伝えによるとおよそ次のようであったらしい。  良家の愛らしい娘が新しい家政婦となったが,彼女は詩人によって出来得く んば未来の教授夫人になる夢を抱くものの,その見込みがなくなるや彼女は, 詩人が女主人と交際して楽しむ幸福の邪魔をしはじめたのである。ゴンタルト はいつも夜パーティーに外出するから,詩人が妻に本を渡したり読んで聞かせ ることを承知して,妻が楽しく過ごすことをよしとしていたのである。ところ が家政婦は主人が帰る毎に玄関に出て,“ヘルダーリン様は彼女に朗読をしてい ます”という答に或る強調を置くのである。そしてこのたびかさなる強調が, ゴンタルトの機嫌の悪い折爆発の口火の役割を果したらしい。彼は“いったい あの人間はいつも私の妻のそばに坐っているのか”と叫び,部屋にとびこみ, ヘルダーリンに突っかかったのである。潔白を自覚していた詩人は激しく怒る が,驚愕している女主人を見て自制し,婦人の言葉に従いその夜のうちに立ち 去ったのである。ズゼッテもみずからの潔白を自覚していたから傷つけられた 女性の誇りから激しく怒り,詩人を呼び戻すか,さもなければハンブルクの弟 のところへ帰ると主張するが,昂奮のあまり発熱して実行できなくなる。叔父 は罪を自覚したゴンタルトを商用旅行としてウィーンに送り出し,世間体をっ 72) StA 1, S. 249.

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   アヨう くろつた。  このような家政婦の仕業を証明するものは今日何も残っていないが,一般に 家の言い伝えというものはなかなか真実に近いことを物語っているから,やは り似たようなことが起ったと見て差し支えないのではあるまいか。いわゆる “ディオーティマ事件”の勃発であるが,このような悲劇的出来事は二人にほと んど致命的衝撃を与え,おそらく当時の人々にかっこうの噂の種を提供したこ とであろう。人はみな多かれ少なかれ魂の本体からひびいてくる“微妙なもの”, “聖なるもの”を日常生活のなかで殺して生きるのを当り前にしているが,フラ ンクフルトという商業都市の象徴でもある銀行家によって,その真,善,美, 聖を必死に守り歌わんとする詩人が無惨にも打ち倒されたとヘルダーリンは感 じたのである。かくて詩人はいわば物質的諸価値のみを尊しとする一般大衆の 世俗意識 業想念の闇に流されて,まさに不思議な有難き天の配材というべき か,ホンブルクの親友シンクレーアによってかろうじて救い上げられるが,あ るいはこの頃創られて後に第二巻に載せられた有名な『ヒュペーリオンの運命 の歌』で,「運命から解かれて,ねむれる乳呑児のように/息づいている天の 神々は/純潔にまもられて/つつましやかな蕾のまま/咲いているとこしえに/お んみらにとりて生命の息吹は/そうして至福なるまなごは/眺めている静やかな /永遠なる澄明のままにノだがわれらには与えられている/いかなる場所にも憩 わぬよう/消え失せる,落ちて行く/苦しむ人間たちは/やみくもに/刻一刻と/        水が断崖から断崖に投げつけられるように/年中不確かさのなかへ下方へ」と 歌ったのである。あたかも詩人28歳の秋であった。        (未完) 73) Vgl, StA VII, 2:S. 65 fL 74) StA 1, S, 265.

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