滋賀大学経済学部研究年報Vol.15 2008 一31 一
小樽高等商業学校における外国語教育
一高商英語教育が伊藤整の文学活動に与えた影響一1)
菊 地 利 奈
1.はじめに 実学重視の旧制高等商業学校(以下,高商) では,海外との商用・貿易のために外国語習得 が必要不可欠であったことから,語学教育は重 要な課題であった。1911年目,「一は商業実践 二は企業実践,三は商品実験」との教育方針を もって開校した小樽高等商業高校(現小樽商科 大学,以下小樽高商)でも,語学教育は非常に 重視された2)。 小樽は当時,はやくも鉄道が敷かれ,重要な 1)本稿は,平成18年度陵水学術後援会学術調査・ 研究助成を受けた「旧制高等商業学校における英 語教育の位置と意義一小樽高等商業学校における 英語教育がもたらした社会的・文学的影響」の研 究成果のひとつとして,2007年2月に滋賀大学経済 学部ワークショップ「Texture in Cultural Backyard」にて報告した「伊藤整と英語文学一小 樽高商における外国語教育の影響一」,関連資料 「小林象三先生の思い出(一)一京都大学名誉教授 佐野哲郎先生インタビュー」(『彦根論叢』第370号, pp.193−215),およびその続編「小林象三先生の思 い出(二)一京都大学名誉教授佐野哲郎先生インタ ビュー」(『彦根論叢』第373号,pp.123−144)に基 づき,その後の調査と研究を踏まえ,執筆したも のである。 調査は,小樽商科大学附属図書館小樽商科大 学歴史編纂室,潮陵記念館,市立小樽文学館,北 海道立文学館,日本近代文学館,国立国会図書館 を中心におこなった。各機関で資料提供に快くご 協力いただいたことに,心より感謝申し上げる。 小林象三,鈴木重道,伊藤整の3名が通った旧 制小樽中学校時代の資料について,ことにお世話 になった小樽潮陵高等学校同窓会潮目倶楽部事務 局の井筒健三氏が,この5月にお亡くなりになった ことが残念でならない。ここに,追悼の意を表す とともに,井筒氏の惜しみない資料・情報提供に 心からの感謝を表したい。 港街として栄えていた。海外との商用が盛んで あったことから,小樽高商における外国語重視 の教育は必然であり当然であったとも考えられ るが,小樽高商における外国語教育には,「実 用英語」の枠を超えた,さまざまな特徴があった。 商業を専門とする高等教育機関として多くの経 済人を輩出するのみならず,小樽高商における 当時の教育方針,特に語学教育方針の影響と成 果は,経済界以外にも及んだ。その一例とし て,小林多喜二(1903−1933,1924年卒),高浜 年尾(1900−1979,1924年卒),伊藤整(1905−1969, 1925年卒)が,挙げられる3)。この北の果ての 商業実践教育重視といわれた高商では,開校か ら大正期までの15年たらずの問に,これら3名 の文人を育てあげたのである。 本研究は,高商における外国語教育が社会に 与えた影響の一例として,小樽高商における英 語教育の影響と成果が経済界以外にも及んでい ることに注目し,小樽高商の大正期の外国語教 育が,伊藤整の文学活動に与えた影響を考察す るものである。特に伊藤の文学活動に注目する 理由は,3名のうち,伊藤の文学活動に,外国 語および外国語文学の影響が顕著にあらわれて いるからである。伊藤は,彼の持ちうる外国語 2)本稿における小樽高商の歴史については,『小 樽高商の人々』,『緑丘五十年史』,当時の卒業アル バムや事務資料および『校友会誌』など,小樽商 科大学が発行・所蔵する資料を基本とし,大学新 聞『緑丘』および同窓会誌『緑丘』を参考資料と して使用するものとする。以下,『小樽高商の 人々』は『人々』,『緑丘五十年史』は『五十』,同 窓会誌『小丘』は同窓『長丘』と記載する。 3)本稿では,必ずしもすべての人物に生没年や卒 業年度を記載しない。一32一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.15 2008 能力を駆使し,外国語文学を読み,影響を受け, 自作を生み出し,それらの外国語文学作品の翻 訳と紹介にも力を注いだ。本稿では,伊藤の文 学的素質と文学的趣向をふまえたうえで,当時 の小樽高商の校風 カリキュラム,図書館の蔵 書,(語学)教員,英語教員による授業内容な どに注目し,小樽高商における外国語教育が伊 藤整文学に与えた影響を検証する。 皿,小樽高商への進学 1922年,小樽高商に入学した伊藤整は,塩谷 の自家から汽車通学をしていた4)。商学を専 門とする高等教育機関に入学した伊藤であった が,彼が商学や経済学に興味を持っていたとい う記録はない。むしろ興味は薄く,不得意でも あったようだ。 伊藤自身,小樽高商の入学試験では,「出来 ない筈の数学が七十点ほどとれたから」入学で きたに違いない,と思っていたようだ5)。小 樽高商入学後にも,経済学や簿記への興味が増 したわけでも,それらの科目を熱心に勉強した わけでもなかったらしい。小樽商科大学には伊 藤の成績表が残っているが,伊藤は「商業実践 4)伊藤整の自伝的情報については緒論があるが, 本稿では,講談社文芸文庫に収録されている曾根 博:畦編伊藤整年譜および著者目録を基本とし,伊 藤整本人の書簡や小樽商科大学に残る当時の資料 から,総合的に判断するものとする。できるだけ 一次資料に則し,伝記や評伝などは二次的参考資 料とする。 伊藤の自伝的小説『若い詩人の肖像』はフィク ションであるが,自伝的要素が非常に強い小説で あるため,その事象がその他の資料と照らし合わ せたうえで信見性の高い場合には,自伝的資料と して参照するものとする。 5)「海の見える町」p.13。本稿では,伊藤の『若い 詩人の肖像』(1956年)からの引用は,講談社文芸 文庫を使用し,『若い詩人の肖像』の記章「海の見 える町」(1954年)「雪の来るとき」(1954年)「卒 業期」(1955年)「職業の中で」(1955年)「乙女た ちの愛」(1955年)「若い詩人の肖像」(1955年)「詩 人たちとの出会い」(1955年)のタイトルを示した 上で,引用ページを記載するものとする。 や商業算術などの科目を苦手とし」,珠算にい たっては落第している6)。 伊藤自身,小樽高商での3年間の勉学を振り 返り,「簿記は特に私には苦手であったし,経 済学には自信がなかった」と,告白している7)。 小樽高商卒業後東京商科大学(現一橋大学, 以下東京商大)に進学しようと受験した際にも, 「配られた簿記の試験問題を見たとき,そのほ とんどが分から」ず,そのために不合格であっ たに違いない,と本人は回想している8)。 そんな伊藤が,小樽高商へ入学したのは,小 樽高商が当時「北海道でただ一つの文科系官立 専門学校であった」からであろう9)。旧制小 樽中学校(現潮陵高校,以下小樽中学)を卒業 した伊藤にとって,進学し,文科系の学問を学 ぶためには,小樽高商に進学することが,唯一 の道であったと考えられる。小樽を離れ,上京 することは,兄弟姉妹の多い家庭の長男であっ た伊藤には,困難なことであった。事実,小樽 高商卒業後の就職先として,東京の銀行があ がったとき,父親は伊藤の上京に反対し,「こ れまで見せたことがないほど腹を立て」たとさ れている10)。 「海の見える町」のなかで,伊藤が,当時の 経済的状況についてふれている箇所がある。 姉と私の下に弟や妹が六人出来ていたので, 生活は楽でなかった。父は月給の外に二種の 年金を得ていたから,その収入は他の吏員の 二倍ほどであったらしいが,この年の四年前 に終わった第一次大戦は,世界的なインプレー ションを日本にも波及させ,物価が三倍ほど に上った。俸給生活者が一様に困った。私が 中学校を出る時,父は私を官費の師範学校へ 入れるつもりであった11)。 6)伊藤整と小林多喜二の成績表は,小樽商科大学 に展示されている。引用は,『人々』p192。 7)「職業の中で」p.181。 8)「乙女たちの愛」p.263。伊藤は,1回目の受験で 東京商科大学に落ち,その翌年の受験で合格して いる。 9)『人々』P.iiG 10)「卒業期」p.148。
小樽高等商業学校における外国語教育一高商英語教育が伊藤整の文学活動に与えた影響一(菊地利奈) 一33一 このような家庭の経済状況から,伊藤は「自家 から通える小樽の高等商業学校を選んだ」と述 べているが,このような選択は,当時ままあっ たものであろう。 同時期に小樽高商生であった菅谷重平は,「昔, 小樽高商に集まった若者たちはそれぞれ違った 理由をもっていたが少なくとも,二つのものが いた,一つは官立学校であるから,というもの, もう一つは自宅から通学できるから,というも のであった」と,当時を思い起こし,「伊藤整 君の実家が裕福であったら同君は東大の文学部 へ行ったか,早稲田の文科へ行ったかも知れな い。しかし,小樽高商へ行かざるを得なかった」 のではないか,と言及している12)。 中学時代の伊藤整が短篇や詩を掲載した 『校友会雑誌』 高商進学前,小樽中学校に通っていた頃の伊 藤は,多くの15,6歳の少年がそうであるように, 将来についてはっきりとしたビジョンを持って いたわけではない。「文学に心を占められてい 11) p.360 12)同窓『緑丘一伊藤整追悼号』p.81。 ながら,医者になりたいと思っていた」時期も あったらしい13)。しかし,当時彼がすでに文 学に非常に深い関心と興味を抱いていたことは 間違いない。実のところ,伊藤は中学時代に,「非 常に深い関心と興味」などという言葉では表現 できないほど熱狂的に,文学へ傾倒してゆくの である。 伊藤は,自らの文学への開眼について,中 学時代の友人鈴木重道(歌人北見拘吉,1902− 1990)から渡された島崎藤村の詩集がきっかけ になったことを,情熱的に述べている。 鈴木は薄緑色の菊判裁形の藤村詩集を私に読 ませた。彼は文学青年で,それは彼の愛読の 書であった。〔中略〕私はほとんど自分の運命 にめぐり合った人間のようにその詩集に取り つかれた。〔中略〕その中の次のような詩句は, 私を悦惚とさせ,私自身の生命をはじめて見 出したと感じさせるような魅力があった。 都鳥浮く大川に 流れてそそぐ川添の 白董さく若草に 夢多かりし吾身かな また おのれも知らず世を経れば 若き命に堪えかねて 岸のほとりに草を藷き 微笑みて泣く吾身かな また をかしくものに狂へりと われをいふらし世のひとの げに狂はしの身なるべき この年までの処女とは14) 伊藤がその後愛読する口語自由詩に比べると, この七五調の詩には,古臭い印象を受けなくも ないが,1920年,15歳だった伊藤は,藤村詩集 13)「海の見える町」p.36。 14)「海の見える町」pp.22−23。本稿におけるすべて の引用部は,仮名遣いは原文のままとし,旧漢字 のみを改めるものとする。
一34一 滋賀大学経済学部研究年報Vo1.15 2008 に「自分の生命の泉を発見したように」熱中し たらしい15>。 「運命にめぐり合った」「取りつかれた」「悦 惚とさせ」「私自身の生命を初めて見出した」「自 分の生命の泉を発見した」という熱狂的な言葉 をページー杯にちりばめ,たたみかけるように 使わなければならないほど,伊藤にとって,藤 村の詩と出会ったことは衝撃的であったのだ。 そして,このような状態は一月ほども続き,「ど うにかしてこの本の魅力から抜け出さなければ, 学校の勉強もウワノソラになってしまう」と, 伊藤を悩ませ,「一体どうしたらこの詩集から 自由になれるだろう」と,彼を当惑させるほど であったとされる16)。 伊藤が,「海の見える町」に,これらの文章 をしたためたのは,50歳近くになってからであ る。35年前,自身に起こったこの運命の出会い をt伊藤がどれだけ重視していたかは,たとえば, 青年伊藤整にとって同じように重大であった少 女たちとの出会いが「うれしかった」「もう一 度逢いたいと思った」「顔や姿を何度も思い出 した」「大変胸がドキドキした」という一般的 な言葉で表現されていることと比べても,明ら かであろう17)。 さらに,伊藤が中学時代に文学,特に詩の世 界に傾倒していたことは,当時の日本詩壇を代 表する詩人たちの作品発表の場であった文学雑 誌『日本詩人』の愛読者であったこと18),中 学時代からすでに「日本の象徴詩や自由詩や ヨーロッパ系の訳詩」を読みはじめていたこ と19),『踏絵』という詩や短歌を載せた冊子を 15)前掲書p.23。「海の見える町」の中では,当時 の年齢は明確に述べられていないが,1952年に再 販された詩集『雪明りの路』の「あとがき」で, 伊藤は,それが「大正九年頃」だったと述べてい る(『伊藤整詩集』p.256)。 16)「海の見える町」p.23。 17)ここでは,「海の見える町」pp.58−62で,女給や, その後付き合うことになる重田根見子,根見子の 友人の少女たちとの出会いについて,伊藤が使っ た表現を挙げている。 つくりクラスメイトに回覧していたこと,中学 の校友会雑誌に詩や短篇(散文)が掲載されて いることなどから20),容易に推測できる。 『踏絵』の現物は吉凶記念館にも残っていな いが,伊藤の中学時代からの文学仲間であった 田居尚(伊藤の生涯の親友川崎昇の従兄)は,伊 藤整未発表作品として,『踏絵一号』に掲載され た短歌「或る日」,『ふみゑ二号』に掲載された 短歌「街の歌」,『ふみゑ二号十一月号』に掲載 された詩篇「雪の夜」「静物」「悲しがりし日に」 を,『「青空」と伊藤整』に収録している21)。複 数の中学時代の同級生も「踏絵』を記憶してい る。『踏絵(ふみゑ)』は,伊藤がクラスメイト らと作成した生徒間回覧用の文芸小冊子だった ようである。中学の同窓生森雄一は,「同級生 の何人かが,詩や短歌などを持ちよって『踏絵』 という小冊子の第一号を出した」と回想してい る22)。同窓の藤田小四郎は,「踏絵』の回覧は「確 か〔中学〕三年の一学期頃,年内に二回か,翌 年に一回はどうであったか。ガリ版刷りではな く,万年筆書き従って一冊切りの回覧。水彩画 の口絵付き,羅紗紙表紙,リボン綴。伊藤整主 18)「海の見える町」p.32。『伊藤整詩集』の「あと がき」でも,伊藤は「日本詩人』について,「私は その創刊号からの熱心な読者であった」と述べて いる。 伊藤は,『日本詩人』や『中央文学』の単なる 愛読者だけではおわらず,後には,自作を投稿す るほどであった。(「海の見える町」p24)。1920年 発行の『中央文学』第12号の読者詩作投稿欄の「選 外佳作」に,伊藤整の名前がある。投稿詩のタイ トルは「此国は」(p.103)。 高商卒業後,詩人になろうと心に決めた頃の伊 藤は,萩原朔太郎らが名前をつらねる『日本詩人』 を「一流雑誌」と考え,その本欄に作品が掲載さ れる詩人らを一流詩人と考えていたらしい(「乙女 たちの愛」pp.261−262)。 19)「海の見える町」p.14。 20)掲載された伊藤整の作品は,「寒き夜」(短篇,『校 友会雑誌』第16号),「荒れた晩に」(短篇,『校友 会雑誌』第17号),「骨牌の占ひ」「朝の歌」(詩2篇, 「校友会誌創立二十念記念誌』)。 21)『踏絵』は2号目より『ふみゑ』とされた。 22)「伊藤のちいさん一人間形成の小樽中学時 代一」同窓『緑丘一伊藤整追悼号』pp.21−22。
小樽高等商業学校における外国語教育一高商英語教育が伊藤整の文学活動に与えた影響一(菊地利奈) 一35一 宰と記憶する」と記している23)。 私は,伊藤が入学した当時の小樽高商は,こ のような伊藤の文学に対する好奇心に充分にこ たえ,彼の文学的才能を開花させることができ る教育方針を持った教育機関であったと考えて いる。 皿.伊藤整文学における「詩」の重要性 伊藤整を二二とさせたとされる島崎藤村の詩 は,1928年目上京し,本格的に文学活動を開始 した際に伊藤が力を入れたモダニズム的作品 や,その後伊藤が翻訳するジェイムズ・ジョイ ス(James Joyce,1882−1941)の『ユリシーズ』 (『Ulysses』1922)や, D. H.ロレンス(D. H. Lawrence,1885−1930)の『チャタレイ夫人の恋 人』(『Lady Chatterley’s Lover』1928)といっ た斬新で革新的な作品群と比べると,古風な印 象を受けるため,一見,伊藤の文学嗜好にそぐ わないようにみえるかもしれない。しかし,伊 藤は本来,このような素朴な拝情詩を好む傾向 が強かった。 この文学的趣向は,伊藤が高商時代に気に 入った詩を書き写していたノートをみると, はっきりとみてとれる24)。そこには,野口雨 情や北原白秋の童謡風の詩をはじめ,身近な動 植物をモチーフにした口語自由詩がいくつも目 にとまる。伊藤は,「若き詩人の肖像」の中で, 自分が好んだ「単純で透明な,自然と人間の混 じり合った詩を好む性質」の詩の例として,山 村暮鳥の「雲」を挙げている25)。 おうい雲よ ゆうゆうと 馬鹿にのんきさうちやないか どこまでゆくんだ ずっと磐城平の方までゆくんか このような素朴な暮鳥の詩は,伊藤が高商時代 に気に入った詩を書き写していたノートにも, たびたびあらわれる26)。
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23)前掲書p.22。 24)伊藤整自筆ノートは,市立小樽文学館所蔵のも のを閲覧させていただいた。 25) p.281e 麟昏乱鳶面魂撫憾黛爆峰山西嶺薦さ ﹁訓 職、陶業凝
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羅臼鯉瞬中藍概・、嘉、 瀟 無 詩を書きためた自筆ノート。表紙に,「詩 集」と記載され,「伊藤整1922」の文字 が読み取れる。 上京後の伊藤と長年に渡り文学活動をともに した瀬沼茂樹は,伊藤が当時愛読した詩を分析 し,「『感情』詩派にぞくする室生犀星,萩原朔 太郎,山村暮鳥などの,どちらかといえば,北 辺の詩を愛し,また『白樺』から出て,ホイッ トマン流の民衆詩をも書いた詩人佐藤惣之助の 人間臭のあふれる詩」に近づいたと結論づけて いる27)。瀬沼が挙げた詩人たちは,伊藤の自 筆ノートにも,たびたびあらわれる。しかし, 伊藤は特定の詩人から影響を受けることを避け たいと強く意識していたこともあり,詩集ノー トには特定の詩人による作品が書きとめられる 26)筆者が確認した伊藤整の自筆ノートは2冊(市立 小樽文学館所蔵)。本稿に掲載した自筆ノートや同 人民の写真は,市立小樽文学館の学芸員玉川薫氏 のご協力を得て,調査をさせていただき,論文へ の掲載を承諾していただいものである。この場を 借りて御礼申し上げる。 27)「詩人としての出発」『伊藤整』p.46。一36一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.15 2008 というよりは,さまざまな詩人によって書かれ た,人々の生活に密着し,自然を詠んだ,素朴 な詩が多く集まっている傾向がある。たとえば, 川路柳虹の「蚊」「水すまし」「蝉」「紙切虫」「つ くつくぼうし」,山村暮鳥の「きりぎりす」「閑 古鳥⊥野口雨情の「十五夜お月さん」「別後」, 童謡「通りゃんせ」,西条八十の「お月さん」 などが目にとまる。 この傾向は,外国語詩にもみられる。高商入 学後,英語詩を原詩で読むようになった伊藤 は,イェイッ(W.B. Yeats,1865−1939)の詩に 惹かれ,熱心に英語の原詩をノートに書き写し ている。これらのイェイツの詩は,詩集『葦問 の風』(『The Wind among the Reeds』1899) から選ばれたもので,伊藤はこのような多少ロ マンティシズム的傾向があり,幻想的な要素を 持った初期のイェイッの作品に,愛着を感じて いたようだ。伊藤は,「特に私はイエーツの『葦 間の風』等初期の詩集を一番自分に近いものの やうに思って図書館で筆写したりした」と,述 べている28)。 『葦間の風』をはじめ,イェイッの初期の作 品には,神話や伝説をモチーフにした幻想的, あるいは幻影的な傾向があるものや,比較的ロ マンティックな傾向があるものが多い29)。伊 藤が,『雪明りの路』の扉に引用したイェイツ の詩「He wishes for the Cloths of Heaven」も, 28)引用部のカタナカ表記は,原文に従うものとす る。よって,本稿における引用部分のカタカナ表 記は統一されていない。 伊藤はイェイツについて,ここであえて「初期 の」と言及しているが,これは伊藤が当時を回想 して書いたからこそ言えることであり,伊藤の高 商時代,つまり1922−1925年以降に書かれることに なるイェイツの「後期」の作品について,当然の ことながら,当時の伊藤は知る由がない。 29)本稿は純粋な意味での文学研究論文ではないの で,個々の文学作品や詩人・作家については,詳 しく議論しない。そのため,どうしても文学作品 については概括せざるを得なくなっている。 30)詩は,伊藤が『雪明りの路』に引用した通りの パンクチュエーションで記載した。本稿は,『雪明 りの路』については,復刻版を使用。 『葦間の風』に収められている一篇である30)。 Had 1 the heavens’ embroidered cloths, Enwrought with golden and silver light, The blue and the dim and the dark cloths Of night and light and the half }ight, 1 would spread the cloths under your feet: But 1, being poor, have only my dreams; Ihave spread my dreams under your feet Tread softly because you tread on my dreams. イェイツの代表作でもあり,もっとも良く知 られている詩のひとつであるこの詩は,「もし も僕が金銀で織られた天上の布を持っていたら, それを愛するきみの足もとに広げてあげるのに, 僕は貧しいので,その代わりに,自分の夢をき みの足元に広げている。だからどうか,やさし く足を運んでほしい,きみは僕の夢の上を歩く のだから」という,なんともロマンティックな 詩である。 この詩を詩集の扉に選ぶにあたって,文法上 のつくりが単純でわかりやすいという点も,慎 重派の伊藤は考慮したのではないだろうか。万 が一理解が行き届いていない,あるいは誤解が あるような可能性がある詩を,神経質なまでに 注意深い性質の伊藤が,自分の詩集に選ぶとは, 思えないからである。とはいえ,もちろんこの 詩の内容が伊藤の好みであったことは疑いもな く,「夢をひろげる」という表現も,詩人にな りたいという大きな夢のために詩集を出した伊 藤の幕開けにふさわしい詩であると思われる。 同時期に伊藤が気に入って読んでいたとされ る英国詩人ウォルター・デラメア(Walter de la Mare,1873−1956)の詩で,伊藤がノートに書 き写した5篇は日本語訳であるが,どれも素朴 で民話的要素と幻想的な性質を持つものである。 伊藤の自筆ノートを見ると,デラメアの詩は, 西条八十の訳詩である。デラメアの作者名は英 語で記載されているが,英語の原文や原題につ いては,ふれられていない。書き写された5篇
小樽高等商業学校における外国語教育一高商英語教育が伊藤整の文学活動に与えた影響一(菊地利奈) 一37一 は,「かくれんぼ」(「Hide and Seek」),「かり うど」(「The Huntsman」),「おとむらひ」(「The Funeral」),「夏の夕」(「Summer Evening」),「馬 に乗った人」(「The Horseman」)という,今で もよく読まれる童謡的な詩で,これらは子供の ための詩としても広く知られている。 このような文学的趣向は,伊藤がこの時期に はまだヨーロッパのモダニズム文学を知らな かったことに由来するものではなく,伊藤の 持っていた文学的本質なのではないか,と私は 考える。伊藤が15,6歳のときから書きため, 『雪明りの路』(1926年)に収録した詩の多くも, 自然色豊かな好情詩であり,北海道という土地 柄を感じさせる厳しくも美しい自然や動植物を 題材とするものである。伊藤自身,詩集『雪明 りの路』の特徴は「北海道の自然」であると, 記している31)。 ・・ ¥・難.…雌蝶1諺:懸; 伊藤整自筆ノートに書き写されたデラメアの訳詩 伊藤の言うところの「北海道の自然」とは,「石 狩の平野」や「北見天塩の方」の大自然をさし ているのではなく32),伊藤にとって極身近で あった風,雨,緑石狩の海辺,といったもの であった。詩集に収められた詩は,それらの自 然に囲まれて暮らす家族や近隣…の人々の様子を 題材にしたもの,童話的物語風のものなどであ 31)1926年『雪明りの路』出版時に書かれた「『雪 明りの路』序」。 32)前掲書。 る。たびたびあらわれるモチーフは,むせかえ るような山の緑ざあっと音をたて降りそそぐ 雨,よしきりやかっこう,雪と吹雪,荒い波の海, 落葉松の林,そしてそのなかで暮らす母,泣く 子供,人々の日常生活を象徴するかのようにあ らわれる涙や眠りである。 もちろん若者らしい恋の詩も多いが,それ以 上に,この詩集の大きな特徴となっているの は,小樽,塩谷,忍路など,伊藤自身の生活を 囲んでいた自然環境と風土であり,そこで暮ら す人々の生活である。だからこそ,伊藤は,詩 集冒頭に,「雪明りをよく知り,永久に其処を 辿るあの人々に,/私は之等の詩篇を捧げる。」 と,記しているのだろう。 たとえば,次の「春日」は,小樽高商校友会 誌に載った「春日小曲」という詩を,伊藤がそ の後半を大幅にカットし,『雪明りの路』の最 初に収録したものである33)。 春の畑に老婆がひとり 土は俄雨と太陽の熱とで気持ちよい暖かさを 抱いてみる。 老婆は軟い畑に畝をつくり 黒土の穴に 真白い豆を一つ一つ並べてみる。 その豆の間違いなく萌え出るのを知るものの やうに ていねいに いつくしみつ・土をかける。 この老いたる女と白き豆とに約束あり 夢みる太陽の廻転するいま 老いたる女と白き豆とに約束あり。 これが,後に文学の最先端を走り,新心理主義 文学やモダニズムを唱えた伊藤文学の出発点で 33)「春日」を「春日小曲」の一部ととらえる説も あるが,私は「春日」はこれで完結している作品 だと考える。「春日」は「春日小曲」の一部ではな く,「春日小曲」の後半をカットすることによって 新たに生まれた「春日」というひとつの作品だと とらえる。
一38一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.15 2008 あることは意外にも感じられるが,実はここに こそ,伊藤文学の本質をみることができるので はないだろうか。 平野謙は,瀬沼茂樹との対談のなかで,『雪 明りの路』について,「中学時代から小樽高商 時代の文学的教養をよくあらわしている」と評 し,同時に,『雪明りの路』出版後1年目らずで, 詩をあきらめ,前衛的な小説や評論を書き出す 伊藤の行動には,「一種別飛躍」があるように 思えてならないと,疑問をなげかけている34)。 髄鞘栃っ 鑑騒霧馨ワ島藁ら、 た堂和考蔵に騰れ敬亀みろ, 影考ら安・ 簗畦岬一 葡命ゆ;す3.薫,ザリ薯鵬、 ∫晦2看,ロリ吾が穿。﹁・ ﹂昂レみしゴリ嘆が老に身鷺わ 口 藁喬り夢う山、え㍉ ∵鈴ウ予&まか達勾幽ご 購畦醜、. −、
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一、 {七 『雪明りの路』に収録された「春を待つ」(伊藤整 創作ノート) 「一種の飛躍」という違和感を感じさせるほ どに,1928年の上京は,伊藤を変える。伊藤 は,上京したことによって,変化せざるをえな い状況にいる自分に気がついたともいえるかも しれない。上京した伊藤は,「北国の自然や素 朴な生活から完全に」切り離され,「そのため に,私は次第に詩を書かなくなった」と告白す る35)。伊藤は,ダダイズムやシュールレアリ ズムなど,新しい文学手法が渦巻く東京におい て,自分の好む拝情詩はもはや時代遅れである と認識しながらも,自分の本質を変えることも できず,次第に詩をあきらめ,散文や批評の世 界へ移行してゆくことになるのである。 伊藤は,モダニズムの影響を受け,大胆に変 34)「対談伊藤整人と文学一平野謙・瀬沼茂樹」『群 像』2月特大号pp.187−188。 35)「あとがき」『伊藤整i詩集』p262。 容してゆく大正期から昭和初期にかけての詩壇 の変化を目の当たりにし,「私のやって来た拝 情的な自由詩系統の作風は流行遅れになりか かっていた」と感じながらも,その流れに自分 はついていけないことをも,どこかで悟ってい たのであろう36)。 伊藤整といえば,小説家,それも前衛的小説 の手法を駆使した小説を書き,文学裁判として 名高いチャタレイ裁判に代表されるような斬新 な文学作品を翻訳し紹介する文学者としての印 象が強いかもしれないが,伊藤の文学の原点は 詩であり,それも北園克衛らが挑戦した前衛運 動的なものではなく,伝統的ともいえるような 素朴な仔情詩であったのである。この点におい て,伊藤は,翻訳に力を注いだジョイスに似て いるともいえる。あるいは,文学的本質が似て いると感じとったからこそ,伊藤はジョイスに 傾倒したのかもしれない。 伊藤は,上京後,彼の文学の出発点となった 詩をあきらめ,数多くの小説,批評論文,翻訳 等を発表し,文人として成功するが,伊藤が後 に,自作の中でもっとも大切な作品だと述べた のは,伊藤文学の原点であった詩であった。そ れらの詩の多くは,伊藤が小樽で生活していた 小樽中学,小樽高商,その後勤めた小樽市立中 学校(現長橋中学校)時代に書かれたものである。 伊藤は,これらの詩を「私自身の原型のやうな もの」とよび,自作の詩ついて以下のように述 べている37)。 私は後に散文作家になったが,年が経つにつ れて,これ等二冊〔『雪明りの路』と『冬夜』〕 の詩集を38),ある意味では自分の全作品の中 で一番大切なものと考えるやうになった。〔中 略〕一人目作家にとって,それぞれ重要ない くつかの時期はあるのだが,その人目らが形 成される過程をなしてみる初期の仕事は,や つばり一番重要なもののやうである。私は 36)「若い詩人の肖像」pp.280−281。 37)「あとがき」『伊藤整詩集』p263。 38)『三夜」は,1925年頃から1930年頃のあいだに 書かれた詩を集め,1936年に出版された詩集。小樽高等商業学校における外国語教育一高商英語教育が伊藤整の文学活動に与えた影響一(菊地利奈) 一39一 十六七歳から二十歳ぐらみの間,これ等の作 品を創り出す心の働きを通して,外部に接し, 創作の世界の秩序によって自分を保護し,自 分を発見し,かつ作ったのである。これらの 作品の基礎の上に私のそれから後のものが築 かれ組み立てられていることは否定できない。 中学時代から詩に魅せられていた青年伊藤整 は,高商入学後,力がついてきた外国語を使って, 高商図書館にある洋書を読むという新たな喜び を発見する。そこには,中学時代に読んできた 日本の詩とは違う,新たな「外国語詩の世界」 がひろがっていた。中学時代に,伊藤は,島崎 藤村を介して日本の詩の世界にひきこまれ,日 本詩人の作品をむさぼり読み,吸収した。中学 卒業後,小樽高商で伊藤を待ち受けていたのは, さらにひろがる文学の世界,外国文学作品の新 しい世界であった。
峯の夢判攣
號 擁 総
i遭 高商時代,伊藤整が友人らと作った同人誌 『青空』 うに表現されている。 私は自分の内心の自己批判では,自分の作品 にかなりの自信を持っていたけれども,しかし, 自分の詩には,萩原朔太郎の持っているよう な決定的な力のないことも知っていた。そし てひそかにそれを苦にしていた。私は,新旧 の詩人たちが大勢ひしめき合い,名前ばかり の大家がいつもよい発表舞台を占めている詩 壇では,自分の納得するような地位を与えら れるようなことは決してないだろう,と思っ た。おれは,いまのままで,たいていの若い 詩人よりは確かだが,しかしここ三四年たっ マ マ て二十五歳になるまで決定的な力のある詩を 書くようにならなければ,厳密な意味では二 流詩人で終わるかもしれない,と私は思った。 それは残念なことであった。しかし私は,そ れでも仕方がないとも思った。もしそうだつ たとしても私は何とかして詩壇に四五十人並 んでいるあの詩人たちの席を一つ得て,生涯 詩を書き,詩を発表して行こう,と思った39)。 著者伊藤は,「しかし」と,何度も逆接をもち いながら,将来につれてゆれる青年の心を表現 している。 詩人になりたいという気持ちをあきらめきれ ず,しかし同時に,12人兄弟姉妹の長男であり, 優秀な稼ぎ頭として家族に期待されていただろ う伊藤整には,市立中学の教員という安定した 職をも捨てがたい,という気持ちがあったのだ ろう。伊藤は,詩人になろうと決意し,上京す ることを決めた自分自身を,親不孝で不義理で あると感じ,診たちに迷惑をかける,と常に気 にしていた40)。 幼い弟妹と安定した収入生活に加え,故郷ま でを捨てても,「詩人になりたい」と決意した 中学・高商時代を過ぎ,社会にでた伊藤に, 文人としての将来を決意させるのも,また「詩」 であった。高商卒業後,中学で英語教師として 働きながら,ついに詩人になることを決意した 青年伊藤の心境は,自伝的小説の中で以下のよ 39)「乙女たちの愛」p261。 40)伊藤整の手紙や,上京後の伊藤の知人たちの回 想から判断。当時,父親が病床にあったことや, 教師の給料から家計を助けていたことなどからも, 詩人になろうとすることが,長男としての家計を 助ける義務を放棄するのと同じであると,良心の 呵責と葛藤があったことが,推測できる。一40一 滋賀大学経済学部研究年SU Vol.15 2008 伊藤整。後に伊藤が告白するように,北海道と いう故郷の大地を捨てたことで詩を書けなく なったとすると,この決意は皮肉な結果に終わ ることになるが,しかし,伊藤の「文士」とし ての人生は,この決意から始まるのである41)。 伊藤は心が決まると,書きためていた自分の 詩を詩集として出版する手はずを,着々とすす めていく。そして,自分のボーナスで自費出版 したのが『雪明りの路』(1926年)であった。『若 い詩人の肖像』によると,同僚の実家である小 樽の印刷屋に印刷を頼んだこの150ページほど の詩集出版費用は,「百円ぐらい」といわれ, 当時の月給が「十円上って九十五円になってい た」青年伊藤は,年に一度のボーナスが「月給 の一倍半ほど出るだろう」との噂を聞き,その ボーナスの中から詩集の印刷費用をまかなうこ とを決めた,とされている42)。 この詩集出版が機となり,『日本詩人』の編 輯メンバーとして活躍していた百田宗治(1983− 1955)との縁が生まれる。百田は,『雪明りの路』 のための広告を『椎の木』に出し,伊藤は自ら の詩集を,雑誌等で調べた詩人の住所宛に,小 樽から送る作業を黙々とこなした。この作業は, 自尊心の強かった青年伊藤を苦しめたようであ る。 私はこれは一体どういう意味の仕事だろう? 私の詩を認めてくれと言って,見も知らぬ先 輩たちに懇願することではないか,と思った。 一体何のために私は詩集を作ったのか?と。 無名の青年がはじめて詩集を自費で作るとい うのは,こういう風に,既に名を成している 先輩の詩入や批評家たちに贈るのがその本当 の目的である,ということに私は気がついた。 贈るのは読んでもらうためだ,と分かると, それが情けないように思われ,私はそれを無 擁しようとした。〔中略〕それでも,その情け マ マ ない気持,一件ずつ詩人たちの家に自分の作 41)伊藤は自らの肩書きを「小説家」や「翻訳家」 ではなく,「文士」とした。 42)「乙女たちの愛」pp.270−271。 品を送り届けて,ここに哀れな青年がいます。 詩を書いたので,それを読んでもらいたいの です。そして,若しも万一君は天才だとか, 素晴らしい詩人であると,間違ってでも言っ てもらったら,私はどんなに嬉しいでしょう, と言ってまわるのと同じことだ43)。 このように,「詩集を贈る」という行為にまつ わる悩みが,数ページにわたり,ながながと告 白されている。 「詩集を贈る」という行為をいやしく感じつ つも,そうせざるをえない自分にジレンマを感 じる青年伊藤の心情描写に,多くの行数を割か ねばならぬほど,この苦痛と矛盾は,伊藤にとっ て大きなものであったのだろう。しかし,その 成果として,「雪明りの路』は少しずつ認知され, 雑誌に好意的な批評が掲載され,伊藤は「文士」 への基盤を築くことに成功するのである。 『雪明りの路』出版から約1年半後伊藤は, 百田主催のグループ椎の木を足がかりに,詩人 になることをめざして上京する。そして,百田 から,三好達治や坂本越郎に紹介され,入学し た東京商大の文芸サークルでは瀬沼茂樹らと知 り合い,先に上京していた同郷の親友川崎昇ら と,同人雑誌を組む計画をたててゆく。伊藤の 文士としての道は,伊藤の詩への情熱と野心が 込められた詩集『雪明りの路』の出版から,出 発したのである。 lV、大正期の小樽高商の校風 文学,特に詩を愛する青年伊藤整が入学した 1922年当時の小樽高商は,どのような校風とカ リキュラムで,文学に関心を抱く伊藤の知的好 奇心にこたえたのであろうか。ここでは,当時 の小樽高商の校風について,分析したい。 綿蜜に調べ,詳細に満ちた表現を得意とする 伊藤の作品らしく,『若い詩人の肖像』に収め られた「海の見える町」,「雪の来るとき」,「卒 43)「若い詩人の肖像」pp.294−295。
小樽高等商業学校における外国語教育一高商英語教育が伊藤整の文学活動に与えた影響一(菊地利奈) 一41一 業期」には,大正期の小樽高商学生生活の詳細 が描かれている。特に,「海の見える町」と「雪 の来るとき」は,当初,独立した短篇として書 かれたこともあり,小樽高商に通う青年伊藤整 の生活を中心に繰り広げられる,高商の学生生 活の描写に富んだ青春小説風の作品になってい る。 「海の見える町」という短篇,つまり,この ジョイスの自伝的小説『若い芸術家の肖像』 (MA Portrait of the Artist as a Young ManJ 1916)を彷彿させる自伝的長篇小説『若き詩人 の肖像』の出だしにあたる部分は,「私が自分 をもう子供ではないと感じ出したのは,小樽市 の,港を見下す山の中腹にある高等商業学校へ 入ってからであった」という小樽高商とのかか わりから始まっている。 開校してから10年あまりの当時の小樽高商は, 伊藤が描写している通り,学生ひとりひとりに, 「おとな」として扱われていることを感じさせ るような,学生の自主性を重んじるリベラルな 校風であったようである。 初代校長の渡邊龍聖は,アメリカの大学・大 学院に学び,高等師範学校教授などを務めた後 ドイツの大学院にて学び,1911年に小樽高商校 長となった人物であった44)。渡邊校長は,教 育方針を,「一は商業実践,二は企業実践,三 は商品実験」とした。渡邊が,コーネル大学大 学院やベルリン大学など,欧米で学んだ経験を 活かし,小樽高商開校に尽力したことは,『小 樽高商の人々』に,30ページにわたり説明され ている。小樽高商史上において,渡邊がいかに 重視されているかがわかる。 渡邊は,「卒業してすぐ実務にあたり何ら不 便を感じない」だけの「実用英語」に重点をお いた。これが「語学重視」の小樽高商の教育方 44)「実業教育の理念と実践 初代渡辺龍聖」 『人々』pp.3−7。『人々』では「渡辺」と記載され るが,もともとは「渡邊」と表記されていたこと から,本稿では『人々』からの引用部をのぞき,「渡 邊」と表記する。 針の始まりであった45)。語学学習時間は全体 のカリキュラムの三分の一を占めたとされる。 小樽高商はその後も「英語教育のメッカ」と してその名を馳せ46),「北の外国語学校」とし ての定評を得たが47),特に,大正末期までの 英語教育への力のいれようは,特筆に値するも のであった。そして,伊藤整の在籍期間は,ま さにその盛期であったのである。 伝説的ともいえる大正期までの英語教育のあ り方ついて,1956年発行の大学新聞特集「英語 よもやま話」のなかでも,「今にくらべ入って くる時から英語に対する意気込みが違ってい た」ことや,入学試験でも英語が重視されてい たことが,述べられている48)。 北の僻地で立地的に恵まれなかったにもかか わらず,語学教員,特に外国人語学教員の数が 多かったことは,渡邊校長の語学重視教育姿勢 を反映してのことであろう。イギリス,アメリ カ,ドイツ,フランス,中国の各地から来た語 学教員が,外国語教育にあたっていた。また, 日本人の(英語)教員たちにも,留学体験者や, 海外の大学や大学院での学位取得者がいたこ とも,質の高い語学教育につながったといえ よう。これだけの人材を,創立10年たらずの「北 辺の高商へ,〔中略〕引っ張ってくる」ことは, 容易ではなかったはずである49)。校長の語学 教育にかける熱意が,それを可能にしたのであ ろう。 このような実学重視の教育方針でスタートし た小樽高商であったが,在米中に大学院で倫理 学を専攻していた渡邊の教育方針は,ただ単に 実用的なものを身に着けさせるという単純なも 45)「小樽高商の創立」『人々』p.10。 46)大学新聞「緑丘』(第85号,昭和10年2月発行)。 小樽高商を視察にきた名古屋高商が,いかに小樽 高商の英語教育水準が高いかを語った記事が掲載 されており,その記事のタイトルが「英語教育の メッカと小樽高商を語る」となっている。 47)「人々」p.194。 48)大学新聞『緑丘』(第278号,1935年7月発行)。 49)『人々』p.17。
一42一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.15 2008 のではなかった。 単なる実務教育ではなく,実業人の倫理養成 といった方面に力をおき,三年目在学中は, 帳簿やソロバン術をマスターすることではな く,商業の基本を教えるべきだと〔渡邊は〕 していた。だから,商業学校には不要のよう にみられる哲学もあり,最も重点をおいた英 語も実用商業英語より帝大英文科卒の文学士 が多かった50)。 英語教育に「最も重点」がおかれていたことと, 英語教員に「帝大英文科卒の文学士が多かっ た」ことは,文学に深い興味を抱いていた伊藤 整にとって,非常に大きな影響を及ぼしたと考 えられる。 伊藤が在学した1922年から1925年は,渡邊に 続く第2代校長伴房次郎にあたり,渡邊から引 き継がれた校風が「高商ルネサンス」として花 開いた時期であった。「この高等商業学校では, マ マ 私たちは戸まどいするぐらい寛大に扱われた」 と回想する高商時代である51)。入学式の様子 について,伊藤は以下のように記載している。 伴という校長が,生徒への祝辞として「本校 においては諸君を紳士として扱うのでありま すから,諸君もまた,紳士という言葉にふさ わしい行動をされることを希望いたします」 と言った。壇の両側に並んでいる教授たちも, ある人はいかにも若々しい学者風であり,あ る人は重厚な紳士風であった52)。 アメリカ人英語教員のマッキンノン,イギリ ス人英語教員のラウンズらをはじめ,ドイツ人, 中国人,ロシア人の外国人教員にかこまれた語 学学習環境53)。外遊帰りの大西猪之介や中村 賢二郎らが寄贈したり選定したと思われる欧文 の文学書が並ぶ図書館。そして,薄緑色に塗ら れた「しゃれた」校舎54)。外遊帰りの教員が多く, 50)「渡辺龍聖の当初の努力」『人々』p.18。 51)「海の見える町」p.10。 52)前掲書。 53)1923年5月,伊藤在籍中の小樽高商には,6名の 外国人教師がいた。『五十』pp.38−40。 長期海外滞在にでかける教員も多かった小樽高 商では,経済学の講義でも原書が用いられるこ ともあった。学内では,年に一度学生による外 国語劇が上演され55),外国語でスピーチをす る外国語大会が開催され56),英語授業では文 学書が使用され,詩や短歌を作る教員や学生が 文芸誌を発行するなど,「実学重視」とはいえ ども,実際には文化的な校風がそこにはあった。 これが,伊藤整が学んだ小樽高商の学習環境で あったのである。 V.英語授業 具体的に,どのような外国語授業が展開され ていたかを,英語の授業に焦点をあてて検証し たい。『小樽高等商業学校一覧』の「教授要目」 で「英語」の欄をみると,伊藤整が入学した 1922年度の英語授業テキストは,以下のように 記録されている。 第1学年用としては,5冊の英語書籍が挙げ られている。まず,富田義介編『Henry Van Dyke:Fair Play and Democracy』。これは,高 商として妥当な選択であろう。次のRobinsons and Beardによる「History of Europe:Our Own Time』も,教養に必要な範囲であろう。残り3冊は, 文学作品を扱ったもので,Charles Lamb『Tales from Shakespeare』,北星堂編『Selections from Robert Louis StevensonS, rStories from Sexton Blake』である。 チャールズ・ラム(Charles Lamb,1775−1834) の『シェークスピア物語』(1807)は,イギリ ス文学史には必ずでてくる作品であるが,高商 で実践的な英語能力をつけるために役立つとい う意味合いは薄いであろう。スティーブンソン (Robert Louis Stevenson,1850−1894)は,『宝 島』(『Treasure Island』1883)や『ジキル博士 54)「海の見える町」p10。 55)伊藤は,1年生のときにフランス語劇に参加。 56)武井静夫は,伊藤が3年生時に,フランス語の スピーチをしたと指摘(『「信天翁」発刊直後』pユ7)。
小樽高等商業学校における外国語教育一高商英語教育が伊藤整の文学活動に与えた影響一(菊地利奈) 一43一 とハイド氏』(『The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde』1886)などの代表作で日本でも 知られる英国の小説家で,詩も書いた。最後の セクストン・ブレイクは,第3学年用に使用さ れていたシャーロック・ホームズ同様当時英 国で流行していた推理小説のシリーズである。 後者3冊からは,高商に入学したばかりの青少 年向けの読み物,という印象を受ける。 第2学年用としては,H. F. Brayの『Commercial Composition and Correspondence』 という,い かにも商業専門教育機関らしいテキストの選択 に,東京明治書院発行の『Specimens of Recent English Literature』と東京羅文社の『Selected Literature』が続く。後者2冊は,タイトル通り, 文学作品を扱ったものである。 伊藤整が使用していた英単語帳 第3学年用には,小樽高商で教鞭をふるって いた苫米地英俊(後,第3代校長)の『Standard Commercial Correspondence in English and Japanese』が商業英語授業用に選択されてい るが,それと並んで,コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle,1859−1930)のシャーロック・ ホームズシリーズ『The Return of Sherlock Homes』や当時英国で売れていた作家トマス・ バーディの『Little Ironies』が使用されてい た。トマス・バーディ(Thomas Hardy,1840− 1928)は小説家として人気をえた作家であるが, 多くの詩も残した。 具体的に,どの英語教員がどの英語授業でど のテキストを使っていたのか,という記録は 残っていない。しかし,伊藤やクラスメイトた ちの回想から推測すると,伊藤が受けた英語授 業では,上記のスティーブンソン,ラム,バー ディのなんらかの作品が使われていたことはほ ぼ間違いない。バーディについては,伊藤が使 用していたテキスト『Selections from Thomas Hardy』が現存する57)。「海の見える町」によ ると,伊藤は「この学校で学びはじめたスティー ブンソンやシングやラムの英文に直面してかな り緊張していた」とされるし58),「小樽高商一 年Cクラスで〔伊藤と〕同級」であった萩原栄は, 「小林〔象三〕教授はシェークスピヤを,浜林 生之助教授は,トマス・ハーデーをそれぞれ講 義していた」と,回想している59)。また,伊藤は, 「雪の来るとき」のなかで,「英詩好きの小林象 三教授」と「スティーブンソンやバーディを私 たちに教えている浜林生之助教授」と記してい る60)。以上から,伊藤が受講したクラスで使 用したバーディのテキストを教えていたのは, 浜林生之助であろうかと思われる。 これらのテキストが使用されていたことを考 えると,大正期の小樽高商では商業英語と実用 英語に重点をおいていたとはいえ,商業英語一 辺倒でなかったことがわかる。実際に英語を教 えた教員に,「帝大英文科卒の文学士が多かっ た」ことからも,英語の授業には,文化的・文 学的教育傾向があったと考えられる。 文学的趣向があったのは,英語教員だけでは ない。伊藤が入学する前に急逝した大西猪之介 57)市立小樽文学館所蔵。 58) pp.30−31. 59)同窓『緑丘一伊藤整追悼号』pp29−30。 60) p,86.
一44一 滋賀大学経済学部研究年報Vo1,15 2008 は,当時最も有名な高商教員のひとりであった が,経済学を専門とした彼も,ヨーロッパの哲 学,思想,文学に造詣が深かった。英語,ドイ ツ語をはじめとするヨーロッパ言語に長けた大 西は,ヨーロッパ滞在中に多くの舞台作品の台 本や文学書をも収集していた61)。 大西亡き後をつぐ形となった大熊信行も経済 学者として名高いが,彼は若い頃から短歌を書 き,文学を本気で志したこともあった人物であ る62)。1915,6年頃には,『地上』という長篇 小説の執筆に励んでいたほどの熱の入れようで あった。小説はもう一歩で完成というところで 未完に終わったが,大熊はその後も短歌は続け た63)。大熊は,伊藤が入学した同年1922年4月に, 小樽高商に着任し,教鞭をふるった。 伊藤整が使用していたバーディの短篇集 前述の伊藤の同級生萩原栄は,小樽高商では 「読み,書き,そろばん」ができればよいもの と思い入学したところ,「英文学という必修科 目があった」と述べている64)。同じく同級生 であった藤田小四郎によると,伊藤は「学校の 一年で小林〔象三〕教授からイエツやシングの マ マ 詩を教つたとき,その感銘らしきものを殊更に 語りかけて来た」とある65)。伊藤が「一番自 分に近いもののやうに」思って愛読したアイル ランド詩人イェイツとの出会いは,小樽高商で の英語の授業を通してだった可能性がある。 イェイツとシング(J.M. Synge,1871−1909) は,ともにアイルランド文芸復興運動にかかわ りが深く,アベイ座の創立に力をそそぎ,それ ぞれアベイ座で上演するための劇作品を書いた。 「イェイッとシング」と,名前を並べられるこ とはごく自然であり,授業で一緒に扱われたと しても,なんら不思議はない。授業でイェイツ の詩集を扱ったという公式な記録は残っていな いので,シングの劇作品を授業で扱った際に, コンテンポラリーであるイェイツの詩について も,習ったのかもしれない。シングについては, 伊藤がたびたびすぐれた英文学の教授として名 をあげる小林象三の授業で扱っていたらしい。 「海の見える町」によると,「この高等商業学 校へ入ってからの小林教授の最初の時間に,私 は購買部で買ったシングのアイルランド劇のテ キストを机の上に置いて」,授業を受けたとさ れる66)。にもかかわらず,伊藤の関心は,同 じく小林の授業で断片的に扱ったのではないか と思われるイェイツの詩に,一心に向けられて いる67)。これは,伊藤の文学的趣向を端的に 示している。同時に,当時の伊藤の文学的興味 が詩にのみ,といっていいほど,詩に集中して 61)大西猪之介については,『五十』(pp.10−29)およ び『人々』(pp.71−83)参照。 62)大熊と文学については,桶谷秀昭「小樽の人々」 (pp.17−29)参照。 63)伊藤整は,「海の見える町」にて,小林多喜二 らが作った同人誌『クラリテ』に載った大熊信行 の詩を読んだエピソードを書いているが(pp.47− 50),これは,その後,桶谷秀昭や倉田稔らが指摘 したように,事実とは異なる伊藤の「フィクショ ン」だと考えるべきであろう。『若き詩人の肖像』 については,大熊もなつかしく,何度も読み返し ていたらしいが,自身について書かれた箇所につ いては,事実と反していると述べたことがある。 詳細は,谷秀昭『伊藤整』の「小樽の人々」,およ び倉田稔「伊藤整『若き詩人の肖像」のフィクショ ン性」参照。 64)同窓『緑丘一伊藤整追悼号』p.30。 65)前掲書,p.19。 66) p.130
小樽高等商業学校における外国語教育一高商英語教育が伊藤整の文学活動に与えた影響一(菊地利奈) 一45一 いたことを裏付けている。 「文学」とひとことにいっても,そこには,詩, 小説,劇作品などさまざまな形態があるが,伊 藤の関心は一心に詩に向けられていたようであ る。短歌を作る親友川崎昇と同人誌を作ろうと するエピソードにふれ,伊藤はその同人誌に掲 載するための「歌を十種ぐらいも作って見たが, その形式に従うのが伝統への屈服のように感じ られて,すぐやめてしま」い,そして「詩を書 くことに専ら心をそそいでいた」と,述べてい る68>。この同人誌とは,川崎昇と田居尚が作っ ていた『青空』のことであろう。伊藤は,2号 ほどに短歌を載せるが,その後は,詩を載せて いる。 また,当時伊藤は「小説というものを,ほと んど読んでいなかった」といい,文芸雑誌で「大 きな場所を占めるところの,中身も表現も粗雑 な小説というものを,私はいくらか憎んでい た」とさえあることから,当時の伊藤にとって 小説とは「退屈すると」読むような暇つぶし程 度のものであり,文学的価値は低かったのであ ろう69)。 劇作品にいたっては,小樽高商には外国語劇 の伝統があり,伊藤もセリフはない役であった がフランス語劇メーテルリンクの『青い鳥』に 参加した経験もあったし70),高商時代の伊藤 はチェーホフに関心を抱いてもいた71)。さらに, 授業テキストもシングの劇作品であったならば, 少しは劇作という文学ジャンルに関心が寄せら れてもよさそうであるが,高商時代に伊藤が劇 作品や劇作家に興味を持っていたらしいことを 示唆する記述は特に残っていない。 このような環境で,中学時代から英語を得意 67)小林象三の英語授業と伊藤整との関連について は,「小林象三先生の思い出一京都大学名誉教授佐 野哲郎先生インタビュー一」(一)と(二)で論じた。 68)「雪の来るとき」p.81。 69)「海の見える町」pp.32−33。 70)伊藤は第二外国語としてフランス語を履修して いた。 71)伊藤とチェーホフについては後述。 とした伊藤は,小樽高商でも非常に熱心に英語 授業を受講したようだ。1年半に,伊藤が使用 していたバーディのテキストをみると,小さな 字が余白にびっしりと並んでいる。それらの メモは,第1には,予習時に伊藤が書き込んだ であろう単語の意味である。そして,第2には, その意味が間違っていたり,その単語に他の意 味があることを授業内で新たに学んだ際に書き 込まれたと思われる訂正,あるいは,予習段階 で誤解していた点についての訂正や補足説明な どである。第3には,カタカナや発音記号で書 き込まれた英単語の発音である。これらのメモ が整然と並んでいる様子からも,伊藤の英語に 対する並々ならぬ関心がうかがえる。 、 ギ孝罫 ンs 溺
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難 ヒ巖鎌 e「sc,蕪 、 バーディ短篇テキストへの伊藤整の書き込み 前述の同級生は,このバーディのテキストで 授業をしていたと考えられる浜林生之助の授業 では,厳格に予習を命じられたという。そして, 「伊藤君はいつも前列にいてよく予習をし,先 生の質問にはよく答えていた。浜林先生は僕の 寮の舎監だったのでサボることができず,いつ一46一 滋賀大学経済学部研究年報Vo1.15 2008 も伊藤君の隣席にいた」と,述べている72)。 同時期に伊藤が英語授業で使用していた英文 研究社の英単語帳『The 4,000 Most Essential Words』にも,びっしりと書き込みがなされて いる。この単語帳には,発音記号が記載されて いないため,伊藤は,自身で各単語の横に発音 記号を書き込んでいる。伊藤のメモは,ただ単 に英単語の意味を知るためだけに書かれたもの ではない。メモにも,伊藤の英語文化圏への好 奇心の高さがあらわれていることは,興味深い。 なかでも,伊藤の音への関心の高さと,当時 の日本国内の中では知ることが容易ではなかっ たのではないかと思われる英語文学作品中にあ らわれる文化的背景についてのメモは興味深い。 たとえば,英語の個人名や土地名などの固有名 詞には,必ず発音の仕方やメモがついている。 それらは,当時の日本社会の中では,なじみが 薄かったのであろう。バーディの短篇にでてく る「Alicia」という女性名には,「=Alice」と メモされている73)。「Versailles」については, カタカナで「ヴェルサイユjと書き込まれた下 に,「ヴェアサイ」と英語の発音が記載されて いる74>。 また,当時の日本社会でそれに当てはまる日 本語で適切なものがなかったり,日本語での説 明がむずかしかったり,すでによく知っている 英単語で置き換えられたりするものについては, 英語で意味が記載されている場合もある。現 在では「ムード」(mood)というように,カタ カナで日常語となったものについても,「state of mind」と英語で説明書きが加えられている。 72)萩原栄「万年青年賞一卒業四十周年クラス会 で一」,同窓『緑丘一伊藤整追悼号』p.30。 73)例は,すべてバーディのテキストの最初の短篇 「Aliciis Diary」から取られたもの。 74)Versaillesの発音は,研究社のリーダーズ英和 辞典によると,〔Fvεrα:」〕となっている。最後の〔j〕 が聞き取りにくいことから,「ヴェアサイ」という カタカナ表記は,実際の発音に近い表記といえる であろう。授業で教員が発音したものを伊藤がカ タカナで書き取ったものではないか。 同義語や,そのコンテクストにあった別の英単 語や,関連する語が書き加えられることも多く, 「childlike」には,「子供ラシキ馬鹿ゲタ」に 加え「innocent」とも書き込まれ,「query」に は「question」と書き込まれている。 バーディの短篇テキストには,英語表現の ニュアンスをつかもうとしているか,あるいは 自分で実際にそれらの英語表現を使用すること を念頭においていると思われるメモ書きも多く, 「attend to=出席ス」などのイディオムはもち ろん,「Iwonder who this M. de la Feste is」 では「wonder」の意味がわからなかった形跡 があるが,「wonder」の単語の意味だけを書き 取るのではなく,「ドンナ人ダロウ」と全体の 意味をメモしている。この場合,「wonder」の 意味だけを書き取っても日本語でそれに値する ものがないため,実際に英語表現として使いこ なすことは困難になってしまいがちである。こ のような場合には,伊藤がメモ書きしているよ うに,英文全体の意味で理解するほうが効率的 である。 同様に,「What are you driving at?」につい ても「結局ドウナンダ?」とある。このような 口語表現において,「drive at」というイディオ ムの意味だけを抜き出して覚えてもほとんど無 意味であるので,フレーズ全体の意味を捉える ことが適切な学習法である。伊藤は,常にその ような心がけでメモをとっていたようである。 特殊な文法表現など,疑問に思った箇所も, ぬかりなくメモしている。伊藤は,かなり集 中して英語の授業を聞いていたのだろう。「He wishes he were」については,「he」のあとに 「were」がくるという仮定法が不自然に感じた のか,フレーズとしてメモされている。「could」 や「might」のニュアンスは,日本語でつか みにくいものであるが,たとえば「Caroline might have told me...」の箇所には,前後の文 脈から判断した「言ツテクレテモ良サソウナモ ノダ」との書き込みがある。 また,キャロラインに子馬の世話を頼まれた
小樽高等商業学校における外国語教育一高商英語教育が伊藤整の文学活動に与えた影響一(菊地利奈) 一47一 主人公が,一日たりとも世話を忘れないよう に「Iwould not miss a day」と,自分に言い 聞かせるところについては,どうやら「miss a day」の意味がはっきりわからなかったらしい。 日本語で「一日モオコタリナク見テクレト頼ン ダ」と書き込まれている。 メモには誤解や誤りが書き込まれていること も,数箇所ではあるが,見受けられる。「strange ノアトニハshould多シ」も,伊藤が短篇を読ん で受けた印象から書き込んだ誤解メモのひとつ であるが,学生時代の授業メモである以上,間 違えを書き留めることがあるのも,当然であろ う。重要なことは,このようなメモを書き留め ていた伊藤の英語学習態度である。これが,小 樽高商の教育方針の賜物であるのか,伊藤自身 の英語に関する興味によるものなのかはわから ないが,メモの取り方を見る限り,良質な英語 学習方法で勉強していたことが見受けられる。 さらに,伊藤の英語の音に対する興味は,彼 の英語詩への興味と直結するものではないかと 思われる。英詩を理解するうえで,音は必要不 可欠なものであるからである。伊藤は,英語の 聞き取りや発音に自信はなかったようであるが, イギリス人に日本語を教えるアルバイトとして 英語教員の浜林が伊藤を選び,「〔小樽高商の外 国人教員である〕マッキンノン君とも相談した んだが,君が一番よく英語を聞き分ける,とい うことになったんだよ」というエピソードが『若 い詩人の肖像』にでてくることからも75),伊 藤が英語の読解だけではなく,聞き取りや発音 も,熱心に学んでいたことが推測される。同級 生の萩原の回想にも「マッキンノンという英語 会話の米人教師がいて,前の席に坐るとよく唾 がとんできたが,伊藤君はその唾がとんで来る 最前列にいるのが常であった」とある76)。 英単語帳の1ページ目に,伊藤は,発音記号 の読み方について丁寧に記載している。日本語 75)「職業の中で」pp.199−200。 76)同窓r緑丘一伊藤整追悼号」p.29。 の「ア」の系列に属する音については,4通り に区別され,ほぼすべての単語に,発音記号が 小さな几帳面な字で書き込まれている。この研 究社の単語帳には,ひとつの単語につき,主な 意味が2,3種印刷されているだけであるが,伊 藤は,そこにその他の意味を書き込んでいる場 合がある。.たとえば,「bay」という単語を現 在の研究社のリーダーズ辞典でひくと,5種に わかれている。第1が「入り江(名詞)」,第2が「柱 間(名詞)」,第3が「猟犬が獲物を追うときの ほえ声(名詞)」と「追い詰められた状態,窮 地(名詞)」,および動詞の意味で「(猟犬が獲 物を追って)太く続けてほえる」,第4が「ゲッ ケイジュ(名詞)」,第5が「鹿毛の《赤茶色》(形 容詞)」となっている77)。伊藤が使用していた 単語帳には,「湾」「吠える」の意味しか記載さ れておらず,その横に,伊藤は,「栗色,月桂, 困ナン」と書き込んでいる。丹念に辞書を引い ていたことがうかがえる。 「major」の横には,「→minor」と記載するなど, 同義語や反意語,派生語を記載している場合も ある。さらに,うっかり覚えそこねてしまいそ うな二次的な意味にも伊藤は充分注意を払い, それを覚えようと努力した形跡もある。単語帳 には,ところどころ,日本語の意味に下線がひ かれているが,下線部はどれもそのような箇所 である。たとえば,「monkey」が「猿(名詞)」 であることは,中学時代にすでに知っていたで あろうが,それが「猿まねをする,からかう,