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精神薄弱児教育の諸問題(3) : 精神薄弱児教育の先駆者

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(1)

精 神 薄 弱 児 教 育 の 諸 問 題

(3)

精 神 薄 弱 児 教 育 の 先 駆 者 ―

1

精 神 薄 弱 児 教 育 の 黎 明 期 今 日まで

,精

神薄弱児 の教育 の歴史 を論ず る場合

,

しば しばギ リシ ャ・ ローマ時代 の文献,,聖 書

,

コー ラン

,そ

の他な どか ら引用 され るのが通例 のよ うであ る。例えば

,ギ

リシ ャ 。ローマ時代 に は

,ス

パル タで見 られ るよ うに

Lycurgus法

制 の も とで

,精

神薄 弱児 は他 の虚弱児 と同様 に戸 外 に 遣棄 された り

,川

に投げ こまれ た りした とか

,古

代 ローマ法 で は

,不

,虚

弱児を殺す ことが認 め られ たが

,精

神薄 弱児 は人 を喜 ばす慰み もの として価値 あ るときは助命 され て いた とか。 また コー ランの第四章 第四節 に

,マ

ホメ ッ トが「理性な きもの」 (thOSC Without rcason)を 引 き 取 って養 い

,優

しい言葉をかけてや ることを教 えているし

,東

洋 で は孔子 が論語▲ の中で

,

知能 の優秀な もの と

,特

に劣 ってい るものは

,教

育 によ って変え ることはで きない。平均以下 の 知 能 の 持 主 に は

,よ

く気 をつ けて親切 に指導す るよ う弟子 に教 えてい る

,

ことな どが あげ られてい る。 しか し, 以上 の引用か ら見 ると

,す

で に古代か ら精神薄弱児 の存在 が知 られていた ことは理解 され るが

,

こ うい う人 た ちの収容所や保護

,訓

棟 のために

,何

ら特別 の尽 力や組織 的な努力 が払われ た とい う証 明がな い。 ただ

,彼

等 に対 して思 いや りのあ る言 葉 をか けて い るだ けで

,実

際 に保護 され教育 され るまで にはいた って いなか った と思 われ る。 とはいえ

,早

期 の資料 は甚だ し く不足 してい るた め―一 ほ とん ど無 い と言 って よい一― 精神薄弱 児 の教育 に関す る事情 が

,研

究者 た ちによ って過大評価 されて い る傾 向がな いで もない。例 えば, Saint Niclldas Thaumaturgosは

,マ

イ ラ▲

(Myra)の

司教 (四世紀 に生存

)で

あ り

,彼

は精神薄 弱者 の保護者 として述 べ られて い る▲ム。 しか し彼 は

,す

べての子供たちか ら船乗 りたち

,質

屋 さん に至 るまでの守護神で ある。後世彼 が Santa Cl豊usの原型 と して奉仕す るよ うにな った事実か ら見 ▲ 論語・ 薙也篇 :子 日

,中

人以上

,可

以語上也

,中

人以下不可以語上也, 同上・ 陽貨篇 :子 日

,唯

上知与下愚不移, ▲

Myraは

河ヽアジア南部

,Lyciaの

古都

諄警乾ぎ絶粂′

舌腱湾

健鉢

::醐

雪軽曹称∵鶴

,Ⅱ :

*

箸恋

tそ

毬ぜ

招き

幣法

liSt°

ry Of the care and study of the mentally retarded,1964. 悟 純

石 大

(2)

大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題 俗) て

,精

神薄 弱教育 の歴史上 の人物 として あげ る価値 があ るとい え るだ ろ うか。 同 じよ うな伝説 は Euphrasiaと か

Eupraxiaの

よ うに

,種

々な名前 で記録 されてい る 博 愛 主義 の貴婦人 の場合 にも作 りあげ られてい る。彼女 の夫君 Antigonus(コ ンス が ンチノープルの元院老 議員 で

,ロ

ーマ帝国最後 の皇帝 TheOdosiusの 姻戚

)の

死後

,彼

女 はエ ジプ トの領地 に移 り

,そ

こ で 厳格な修道女 の生 活 に入 り

,若

子 の精神薄 弱者 を合む家 な きものや障害 のあ るものを保護 した と い われているが

,

これ も確 た る根拠がない。 このような ことは

,大

よそ古 い年代史 の どの文献 にもよ く見 られ る例 で ある。 上述 の ごと く

,古

代 の精 神薄 弱者 に対す る保護。教育 につ いては

,か

な り伝説的な色彩 もあ ると 思 われ るが

,当

時 の人 た ちが精神薄 弱 と呼 ばれ た ものたちに払 った注意 は

,保

護 とか教育 に関す る こ とよ りも

,精

神薄 弱 とい う用語 に多 くの関心 が払われ ていた よ うで あ る。 そ の代表 的な人 た ちは 辞書編集者 たち (Lexicographers)で あ る。

司教 ISidOrus Hispalcnds(ca・ 56o∼

636)は

,

精神薄弱 とい う用語 “

Fatuus"(こ

こで は adi.

fatuoutt n.fatuity)と ぃ う形容詞を当て

,そ

の理 由として二つ の根 拠をあげて い る。一つ は

,動

詞 ``fari''(tO Speak話す こと

)の

分詞 に関係 が あ る。 したが って,“fatuuぎ

'は

「 自分 が話す ことも,

他人 が話 す こともわ か らな い人 」を指 して い るとい うこと。 第二 の根拠 は

,

ローマ神話 の林野 の神 “Faun''の妻 で

,予

言者 で あ る

``Fatua"の

名前 か ら出て い るとす る説 で あ る。彼女 の予言力で麻 酔 状態 (Stupefaction)│こ され た人 が ``fatui''(ボ ー ッとな った人

)と

いわれた。 そ こで

,

この

てfFatui''と ぃ ぅコ トバが

「 意識な き」

(WithOut a mind)す

べての人 に転移 されて “

Fatuul"と

な った とい う根拠で ある。 同様 な結果 と考 え られ る「 愛 してい る」 とい う状態 も `=infatuation"( 夢 中にさせ ること

)と

い うコ トバが当て られてい るが

,こ

れ も'`fatua''に そ の起 源 があるといえ る。 ローマ人 が ``amantcs"(愛人

,熱

愛 す ること

)を

amcntes"(低

)と

,

語 ろ合 わせ に作 っ た ことも不思議でない。

もう一つ の ラテ ン語 辞典 の著者 Acgidius Forcellinusは ,“ fatuus"と ``stultus''(愚か もの

)を

区別 して,`Fstultus''は 鈍感な感覚 であ り,``fatuns"は感覚 のな い もの

,

と記載 してい る。また,

全 くの愚鈍 (mindlCSSncss)に 相 当す る特性 は ``amCns''と 同意語 で ある。司教 ISidOrusは

,彼

辞書で

,“

amCns"は 全然意識をもたないが

,“ dCmcns''は

自分の意識の一部 を持 っていること有

明 らか に しよ うと して い る。

また “idiOt''(白 痴

)の

用語 が現在 の意味 に使用 されば じめた時代を正確 に定 め ることは困難で あ るが

,ギ

リシ ャ語 の “idi5t5s'',す なわち “priVatc person''か ら出てい ることは間違 いない。従 って

,idiotは r`the cOmmom man''(普

通人

)を

意味す るもので あ った。 と ころが

,

この ``COm―

mon man"が

,専

門的な知 識 のな い “単純 な素人"(thC unsOphisticatcd layman)と ぃ ぅ 意 味 に 解 され

,そ

れがつ ぎの段階で

,idiotは

``無知 で知識 のない人 "(an ignOrant,ill―informёd indivi‐

dual)を

指す よ うにな った

,

と理解 され る。

Liond,S,Penroscは

,社

会人 と して の役割 に参加 で き

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号

な い個人のことで,idiOmゃ

idiOSァncraSy(医

学では特異体質

)も

同じ語原のものである。

もともと

この用語は

,未

,未

教育

,素

人などの意味に使われ

,17世

紀までこの意味をもっていた

,と

のベ

て いる。

lmbccilc(痴

)の

用語 は

,時

代 の推 移 と共 に

,同

様 な語 義上 の変化 を うけた もので あ る。 当初,

ラテ ン語 の “imbccills"(低能

)は

``baCillus"(棒

)か

ら出た もので

,

“弱 さ

"“

薄弱

"(Weak)を

意 味 した り

,身

体機能上 の ``弱さ"``衰弱"(dCbility,の状態 の場合 に使用 され たよ うで あ る。 結 局

,imbecileは

idiOtよ りも重 くない精神 の薄弱 (WCaknCSS Of hc mind)1こ 限定 され る ことにな

ったようであ る。

要す るに

,語

原 は実 に不思議な細道を進んでい くもので ある。Fatlnの 妻 の 霊 験 か らfatuity

,a pr

ate personの地位 か らidiOCyへ

,一

般 的な意味 の frailty(も ろ さ

,薄

弱性

)か

ら im_ bccility(低 能

,痴

)へ

と辿 ってい る。

もっと奇 妙な ことは

,医

学書 では決 して使用 されないが

,精

神薄弱の同義語 と して

,

しば しば使 用 され る

``Duncc"と

い う用語 の起源であ る。・(Duncc''はス コ ラ学派 の神学者 で

, 1303年

に死去 した 」Ohn Duns Scotus(1274∼

1303)か

らきた もの といわれ る。 オ ックス フ ォー ド大 学 で は

,彼

の 問下生 たちが支配的な一派をな して いた し

,彼

の著書 である宗教学

,哲

,論

理学 に関す るもの は

,大

学 に おけ る教科書であ った。 ところが16世 紀 にな ると

,彼

の学派 はまず人文主義者 たちに,

つ いで宗教改革者たちによ って

,非

難 嘲笑 され た。 この学派 の人 たちを

Dunsiansと

Dunscsと

い うのは

,新

しい学問 (new lCarning)に対 して罵 倒 した もので

, Dunsと

Dunccの

名前 は,

す で に “SOphist''と か ``hair splitter"c/1ヽ 理窟屋

)と

いわれていた ものが

,す

で に ``学習 に鈍 感 な

,鈍

い頑 固 もの (du11,ObStinatc pcrson impervious to learning), また “学習で きない馬鹿 も の"(b10Ckhead incapaЫc of learning)の 意味に移 り変 ってい った と見 られ る。

古 い文献か ら

,さ

らにわれわれは

,時

に精神薄弱者 が唯一 の役割を果 している ことを知 った。 そ れ は ローマ において

,家

族 や お客 たちの慰 みのため

,ば

か者 (fO01)や 道化 師 (jestCr)を 抱えた こ とは

,章

時 の富裕者 にとっては不思議な ことでなか った。む しろ,あ るばか者 (fO01)は 非常 に評判 が よい もの もあった。 例 えば

,ロ

ーマの詩人 Marialis▲ は,Augustu号 工 皇 帝 のお 抱 えのばか者

(fool)Gabbaは

非 常に評判が高 か った とのべてい る。 また

,暴

君 ネ ロの先生 で あ り

,ス

トア学派 の哲学者 セ ネカ (Lucius Annacus Scncca,B.C。

4-A.D.65P)の

書 簡 に 一― 私 の 妻 の 愚 者

Hcrpastcは

先代 の遺産であ るが

,な

は このバケ物 が嫌 いである。 従 って

,

妻 は盲 目で あ るが

,家

の 中は暗 いと称 して妻を外へ連れ 出 してい る一一 とい う,fO。1の 忠実 な下僕 の様子 をのべてい る。

後世

,

これ らバ カ者 たち (fOOIS)は

,

フ ランスにおけ る``fOus“ または “bOuffOns''(道 化者

),

ドイツにおける ``HOfllarrcn"(宮 廷道化 師

)の

よ うに

,王

侯や宮廷 の``慰み もの

"(plaything,と

▲ Martialis,Marcus Valerius(A.D.

▲▲

Augustus皇

帝 は ローマ最初 の皇帝

40-102?)は

スペイン生れのローマの風刺詩人

(B.C.27∼

A.D.1つ

(4)

大石純悟 :精神薄弱児教育 の諸問題(3)

な った。 (fOuと fO01の コ トバは ラテ ン語fOllisが語原 で,fOllisは 一対 のフイゴa pair Of bellows

,fOuは

片方 のフイ ゴを意味 してい る。複数 の fOllCsは プ ップ ッと息を吹 く両類を意味す る

)こ

のばか者 の道化者 は

,不

恰好な身体 を した人 とか精神薄弱者か ら召 し抱 え られた。

MOreauは

,道

化者 (thC bOuffons)の 大部分 が imbcCilC(痴 愚

)で

あ った し

,ま

,

この コ トバを認 めた科学 的 医学 的な意味では

,精

神 の弱 さFffaibles d′ espriど

'の

あ った ことを強調 してい る。

このよ うに

,精

神薄弱者 の道化者 の中には

,名

声 を博 した もの もお り

,伝

記作家か ら賞讃を得 た もの もい る。 フランス国工 の Francis一世

(1494-1547)の

宮庭 内で の ``Triboulet''ゃ `【Brusqu‐

et''の 名前

,そ

れ に

SOXOny王

国 の知者 フ レ ドリック公

(Duke Frcdrick,1463-1525)の

側近 の 人 た ちを楽 しませ た

Klaus Narrの

名前 は

,今

な お百科辞典▲ に記載 されてい る。 フ ランスのチ ャエル ス五世

(Charles v.1337-1380)の

時代 には

,

フ ランス北東部 の

Champagnc地

方 は

,宮

廷 にバ カ者 (fO01)を 供給す る独 占権を授与 された といわれ る。

偉大 な天文学者

TyChO Brahc(1546-1601)は ,

新 しい友 として痴 愚者 の ``ささや き

"も

神 の 啓示 として耳を傾 けた とい う伝説がある。 彼がユダ ヤの律法典 Talmudた の一節 に (Baba Bathra

12.a)``聖

殿 の破壊 の時 よ り

,予

言者 の術 はそ の価値 を失 ない

,愚

者 に授 け られ た"

,の

べてい ることを知 っていた とは思 われないが

,

この一節 は

,愚

者 は予言者 である

,

とい うこ とにな るであろ う。

勿論

,保

護 され たばか者 は

,精

神薄弱者やハ ンデ キ ャップ者 の中で

,例

外 的な地位 を 占めた もの で あ る。 しか し

,大

多数 の idiOtsゃ imbCCilesた ちは

,

必 ず しもそ うで あ った といえない。 多 く の未 開地域 において

,彼

等 は迷信 的 に祝福 され た ``よき神 の子

"(Lcs enfants du bOn Dicu)と

し て見 られ た り

,

また苦 しめ られ ることはなか ったが

,

放 浪す るが ままにすてて おかれ たよ うで あ る。 精 神薄弱者 たちが最悪 の状態 にあ ったのは

,16世

紀 か ら18世紀 におけ る宗教改革や啓蒙期時代 の 期間 中であ った といえ る。 精神薄弱者 の多 くは

,当

時 の魔神信仰

(dCmOniSm)の

犠牲者 とな った。 マル チ ン・ ル ッタと

(Maron Luthcr1483-1546)は

,

神 の加護 な きものとして精神薄弱者を のべ て い る。彼 の食卓談話 (TablC Talks)の 中に

,そ

の報 告があ る。 “8年 前

,Dessau(東

ドイ ツの都市

)に

一人 の精神薄弱児 がいた。彼 は12歳 で眼 もその他 の感覚 も異状 はなか った。 しか し彼 は

,農

夫や脱穀者 の

4人

分 をガ ツガ ツ食 べ る以 外 は 何 もしなか っ た。彼 は物 を食べ

,脱

糞 し

,よ

だれを流 し

,も

し誰れかが捕えよ うとす ると金切声 を立てた。物 事 が うま くいかない と泣 いた。そ こで私 は

Anhalt王

に言 った。 “も し私 が君主 で あれ ば

,

この 子 供を M。

ldau(Dessauの

近 くを流れ る川)サ││に連 れてい って

,

溺死 させ る

"と

い った。 しか し工 は私 の忠告 に従 わなか った。そ こで私 は“ キ リス ト教徒 は

,教

会 で主 の祈 りを 捧げ

,主

が悪

▲ BrOCkhaus Konversation― 一Lexicon, v. s. Hafnarr,

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 魔 を払 い去 ることを祈 るべ きで あ る

"と

い った。 この祈 りが

Dcssauで

毎 日行 なわれ た。 この馬 鹿 な子供 は翌年死 んだ。 ル ッターは

,

彼 がなぜ その よ うな忠告 を したか を尋 ね られ ると

,

彼 は 断固 として

,

このよ うな馬鹿 な子供は

,精

神 のない

,単

な る肉の塊

,す

なわ ち a maSSa carnis で あるとい う考 えで あると答 えた。なぜな ら

,肉

の塊 は

,理

性 や精神を もつ人 たちを堕落 さす悪 魔 の力 で ある。 そ の悪魔 は

,馬

鹿 な子供 の精神 に宿 って い るか らだ。 このよ うに

,

ヨー ロ ッパ 中世期 には

,他

方 では精神 薄 弱者 た ちは宗 教改革 者 たちによ って無 残 な 処遇を受 けていた ことも知 られ る。 ところが医学 は

,

この問題 につ いて長 い間全 く沈黙を守 ってい た。 18世 紀 の終 りまで

,医

学 的文献 と称す るものに

,精

神薄弱 に関す る資料 は殆 ん ど見 られ ない。

Weygandt,W.が ,白

痴 や痴愚 に関す る古典 の論文 を紹 介 して い る中に

,古

の学者 は特別 な精神病 の状態を生 き生 きと正確 に記述 している一一 例 えばテ ンカ ンの Hippocratesゃ躁欝病 の Arctacus のよ うに一一 ところが

,白

痴 は ご く最近 まで稀れ に しか のべ られていなか った

,と

のべて い る。精 神 医学

,神

経学

,そ

れ に心理学 の領域で発表 された文献 を探す のに

, HCinrich Lachrの

1459年 か ら1799年 まで の編集 に誰れ もが注意を払 っているものであ る。 しか しこの立派な収集 も

,中

世 時代 の怒 りの方で Cretinismに 時 々関心が払われて いる以外 は

,精

神薄 弱 につ いてわずか に間接 的引喩 が あるだけで ある。 Ⅱ 精 神 薄 弱 児 教 育 の 先 駆 者 た ち 精神薄弱 に対 す る関心 は

,

フ ランス

,ス

イスか らヨー ロ ッパ の文明地域や アメ リカに拡大 し

,19

世紀 の前半 にパ ッと燃え上 った と見 られ るであろ う。 この時期 にな ぅて

,そ

の当時 まで不 当な圧迫 を加 え られた り

,軽

視 されて いた ものたちの立場 を

,強

く支 持 す る代 弁者 たちが現 われ た時代 とな った ともいえ る。 しか し

,

フランスにおける白痴訓練 の最初 の先駆者 が

,聾

唖者 の施設 でその研究 を進 めた り

,ア

メ リカにおけ る白痴 の最初 の “実験学校

"が

,盲

人 の施設 に設 け られた ことな どを 考 え ると

,精

神薄 弱児教育 に対 す る関心 は

,盲

聾教育 に関連 して起 った もの と思 われ る。従 って,

早期 の精神薄弱児教育 の後援者 たちは,」 aCOb Rodrigucs Pereireゃ 彼 の聾 唖 者教育 の業績 か ら,

多 くの感化を うけた ことは有意義な ことで ある。

精神薄弱児 に対 す る最初 の探索的研究は

,当

時 の定 評 あ る権 威者 か らも奨 励 されなか った とはい ぇ

,20歳

半 ばの熱心な青年 たちによって着手 された。勿論

,教

育 に対 して懐 疑的で あ った ことは事 実 として も

,友

情 や良 き指導者 に支 え られて

,イ

タール (Itard,」・M・

G)は

ピネル (Hnel,P。)

の優れた判断によ って進 めた し

,ま

たセガ ン

(SCguin,E.O.)は

エスキ ロール (Esquirol,」.E。)

の温情 に感激 した。ltardはァベ ェロンの野生児 (lC SauVagC d′

AveyrOn)を

,

初 め普通 の生 活 に 導入 しよ うと試 み た し

,

グ ッゲ ンビュール (Guggenbuhl,、丁・ 」

acOb)は

,

クレチ ン患者 (Crctin)

を “治療す る

"こ

とか ら出発 した。 いずれ も失敗 に終 ったが

,

しか もな お

,他

の人 たちによ って,

(6)

大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題 ●)

これ ら全ての運動 は

,精

神 薄弱児 とともに

,教

育 的社会事業的な仕事 をは じめた人 び との

,パ

ー ソナ リテ ィや個人 の努力 の報 告な しでは

,十

分 に評価す ることはで きないであろ う。従 って

,以

下 精神薄弱児教育 に熱情を傾 けた先駆者 たちの人 と業績 につ いて考察 したい と恩 う。

(1) JaCob Rodrigues Pereire(1715-1780)

Pcretireは

,ス

ペ イ ンの

Estremanduraに

あ る小 さな 町

BCrlangaで

1715年 4月

H日

に 生 ま れ た。父 の死後

,母

は異教 に改宗 したため

,そ

の責 めか ら逃れ るために子供 たちとともに

,

フ ランス の

BOrdcauに

住 みつ いた。Pereircは 解剖学 と生理学を学 び

,積

極 的に先 天性 の聾唖者 の教育 に興 味を もつ よ うにな った。従 って

,彼

を精神薄弱児教育 の先駆者 にあげ ることに問題 はあるが

,彼

の 聾 唖教育へ の熱情 が精神薄 弱児教育 の研究者 に多大 の激励 と感化を及 ば した点で見逃す ことのでき ない人物である。 彼 は 1747年 1月19日

,

カー ンの工立純文学 アカデ ミー (Academie Royalc de Bellcs Lettre烏

)に

,聾

唖教育 の方法を提 出 し

,彼

の努力 に対 して身 に余 る称讃を受 けた。 1749年 6

H日

,彼

は 'ヾ リーの科学学士院で

,BuffOnAを

初 め

,並

み居 る名士 の面前で彼 の研究結果を実験 した。聾 唖者が本を読み

,

ものを言 う前例 のない実験を観察 した皇帝ル イ15世は, PCreircゃ彼 の 弟子 に下問 され るほど感動 された。Pereireに 敬意の しるしとして年金800フ ランが下賜 された。 その他 PCrcireが

,多

くの尊敬 と名声を高めたのは

,大

きな帆船 で風 の作用を最 も効果 的 に利用 す る方法を考察 した こともあ るが

,何

よ りも彼 の聾唖教育 における大 きな功績 の一つ は

,簡

単 に し た記号言語 (Sign languagc)を 教 えた ことであ る。 これが Percireの 指 話 法 (dacty1010gia)で あ る。 また

,計

算 す る方法を教 えるため

,算

数機械 を発 明 した ことな どで あ る。

彼 の忍耐

,努

,そ

れ に勇気 は

,他

の人 に対す る模範

,特

に盲人 や精神薄弱者 に対す る教育的可 能性 に関連 す る手本 とな った。PerCireは

,

知 的に欠陥のある人 と直接

,

接触 す る ことはなか った が

,彼

の聾唖者 に対 す る研究 は Itardや

SCguinに

多 くの刺激を与 えた。

Seguinは

,

機 会 あるご とに

,PCrcircに

負 うところのあることを述べているし

,

また彼の論文 に も多 く述べ られてい る。

Barr,M.L.は ,無

条件 に ``PCreirc,Itardな しでは不可能であ った。

"と

聯言 して い る。

Pcreircは

,173o年

9月 15日パ リーで亡 くな った。彼の遺体 はモ ンマル トル

(MOntmartre)の

地 に葬 られた。

(2) Jean Marc Gaspard ltard (1774-1838)

Itardは フ ランス南東部 の

Provcnccの

Oraisonに生 まれ た。「 アベ ェロンの 野 生 児 」教育 の

ための彼 の努力によ って

,精

神薄 弱児教育 の傑 出 した先駆者 の一人 として あげ ることがで きる。

Itardは

,実

業的 な職業 に入 ることにな っていたが

,

彼 が安定 した職業 に就 く年令 に達 した当時

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号

,フ

ランス革命 のさ中で

,ま

さに興奮 の増蝸 の中にあ った。彼 の生 まれた地方 は戦乱 の中にあ っ たため

,徴

兵 を避 け るため に も彼 は

,陸

軍病 暁 の補助外科医 としての資格 を得 た。彼 は 自分 の仕事 に没頭す るとともに

,熱

心 に医学 の研究を続 け

,間

もな く医師 としての名を揚 げた。彼 がパ リーの 聾 唖者施設 の医局員 として勤務 して いた頃

,彼

の最初 の主要な任務 が入所者 の訓練であ った。従 っ て彼 の興味 は

,聴

覚や言語器官 の科学的研究へ 向け られた。耳 の疾病 に関す る彼 の論文 は

,1821年

に発表 され

,現

代 耳科学 の基礎 を築 いた もの として

,歴

史的 出来 事 と見な されて い る。 Itardが25歳 で

,そ

の職 につ いて間 もな く

,お

およそ

11, 2歳

の少年が

,Avcyronの

中央学校 の 博物学 の教授 Abbる Sicard BOnnatcrrcに よ って施設 に連れて こられた。 この少年 は ViCtOrとか 」uVCniS AvcriOnensisと 言 われて い るもので

,章

時 の哲 学者 た ちの空想 を刺激 した。 この少年 のと い立 ちや生捕 りの方法な どにつ いて は種 々異説 があ る。P・

,Vireyの

辞 典 に報 告 されて い るとこ ろによ ると

,

この裸 の子供 は人間を見て逃 げ出 し

,食

物 のため に木 の根や木 の実 (acOrnド ング リ

)を

探 して

,Tarn県

の コー ス

(Caunes)の

森 を さまよ っていた と思 われ る。彼 は一 度 は捕 え られ たが

,す

ぐに逃 げ出 した。 1798年

,少

年 は

3人

の猟 師に再び捕え られ

,コ

ーヌヘ 連 れ て こられた が

,ま

た逃 げ出 し

,厳

冬 の寒 さに曝 されて6ヶ月間

,放

浪者のよ うな生活を した。 あ る冬 の 日

,少

年 は

St,Semin市

の郊外 にある染物屋 の家 に入 って きた。 半年前 に着せ られて いた名 ごりしかな い シ ャツを着ていた。 その家 の人 は

,じ

ゃが い もを与 えたが

,あ

たか も栗や ドング リの 実 の よ う に

,生

で食 べた。他 の どんな食べ もの も彼 は食べなか った。彼 は一語 も言語 を話 さなか ったが

,言

葉 にな らな い音 を発音 した。彼 は 自然 の呼 び声 で答 え

,ま

た慎 しみの観念 は全 くなか った

,

とのべ て い る。

この少年は

,初

St.Attiquc収

容所に入れられたが

,そ

の後

,博

物学者

BOnnaterrcに

引き渡

され

,

ついで

Itardの

もとに連れてこられたものである。

少年 については

,

種々な見解があっ

た。ある観察者たちは,こ の少年 を食わせ もの (SWindlCr)で あ るとい ってい る。 当時有名な精神科 医 PhJippc Pinelは

,少

年 の検査後

,

この少年 の野性 はまやか しもの (fake)であ る し

,ま

た,

“家畜 に劣 る不 治 の白痴"(an inCurablc idiotぅ inferior to domestic)で ぁ ると判定 した。 な お他 の 人 たちは

,Rousscauの

い う “自然 のままのすがた''(natural existcnce自 然人

,

自然 的存在

)の

見本 の代表 で あ るか ど うか疑間を もって いた。少年 の外観 はかな り論 争 の焦 点 とな ったが

,原

野や 森 の中で野性 的な生活を した後で発見 されてい るので

,そ

の当時までに報 告 されてい る野生児 たち と比較 された りした。 それ ら野生児 たちには動物 によって育て られ た ものも多か った。勿論

,資

料 の信頼性 につ いては疑間 もあるが

,Can Linnacus(17o7-1778)は

ぃ るいろな人間 として10種類 を あげ

,そ

れ らは

,い

ずれ もfCrus(野生 的

),tCtrapus(四

つ足 で歩 く

),mutus(も

のを言 わな い

),hirsutus(毛

深 い

)な

人 間であ るとい って い る。

Linnacusの

い う10種 類 の人 間 とは

i, Juve五1ぎ Iupinus HcssёnSiS.

(8)

大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題 儒)

il・ JuVCnls ursttnus Lithuanus.

(リ スアニアの熊少年

,1661年

)

i五。 JuveniS OVinus IIibcrnius.

(アイル ラン ドの羊少年

,1672年

)

iV 」uVCnis bOvinus Bambergcnis.

(バンベルグの牛少年

,年

代不詳)

V・ JuVenis Hannoveranus.

(ハノーバア…の少年

,別

名を “

Wild Pctcr"野

生 のピーター

,1724年

)

HamClmの

町で発見

,1726年

にロン ドンヘ連れて こられて評判 となった。国工

Gcor ge一 世は

Walseの

当時の工女 に彼を献上 した。その工女が後の COrolin

女王 とな った)

vi. Pucri Pyrcnaici

(ピレネー の幼児

,1719年

)

v . Puclla Transisalana

(ト ラ ンシ ィサ ラナ の幼 女

,1717年

)

viii. Puclla Campanica

(カ ンパ エ アの幼女 1731年)

iX・ JOhn Of Lお gc (or JOhannes Lcodェ censis) (リ ェー ジュの ジ ョン

,年

代不詳)

x, Puclla KarpFcnsis

(カル フ ェンの幼女

,1767年

)

な どをあげてい る。

野生 の子 どもた ち

,

あ るいは野育 ちの子供 たちへ の興 味は

,

その後 も薄 らぐことはなか った。 1920年10月 17日

,印

度 の

Midnaporc附

近 の密林 中の狼 の洞穴か ら保 護 された

Kam21aと Amala

の話題 は

,最

近評判 にな った もので あ る。 “野生人"(feralman)1こ っ ぃての大規模 な文献研 究 とし て あげ られ るは

,R.M.Zinggの

WOlf childrcn and Fcral Man,New yrok,Harper,1939''が

あ る。

さて

,Avcyronの

野生 児 ViCtOrが Itardのも とへ連 れて こ られ た時

,

この若 い医師は

,PinCl

の診 断による不可逆性 (irrるVCrsibilitO)の予見 を認 め ることはで きなか った。 Itardは

,

この少年

は社会的教育的 に無視 されたため

,精

神 的 に発 達 が停止 を うけ

,孤

立 によ って 白痴 とな った もので あ り

,一

種 の不使用か らの精神的退化 (atrOphiC mcntale)と な った ものと信 じていた。Itardは,

F`野

蛮か ら文 明へ

,

自然生 活か ら社会生 活へ

"少

年 を移す ことを試 み た。 そ こで Itardはこの少年 の教育 に

,五

大 目標を設定 した。

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号

1,少

年 が最 近 までつ づ けて きた野生 の生 活 によ く似た ことを させ

,

この少年 によ り適 した社会 生 活を させ ること。

2.種

々強力な刺激を与 えて

,少

年 の神経 の感受 性 を興奮 させ た り

,観

念 の生 の印象 を与 え る こ と。

3.新

しい欲求 を起 させ た り

,周

囲の世 界 との関係範 囲を広 げ ることによ って

,少

年 の観念 を拡 大 す る こと。

4.模

倣せ ざ るをえな い必要性 をつ くって

,

コ トバを使用す るよ うに仕 向けること。

5

成長 に ともな う身体的欲求を満足 させ るよ うに適応 させ

,そ

れ か ら教育 の 目的に 自分 の知能 を適 応 さす よ うに仕 向け ること。 Itardは五年間努力 した。 しか し

,彼

は 自分 の 目標を達成 させ ることはで きなか った。 この少年 が

,思

春期 の F`野性 的な情熱 の暴風雨

"を

起 した時

,Itardは

自分 の使命 を果 し得 ない と感 じて 断 念 す ることに した。ViCtOrは長年

,管

理保護 の もとに生 きていたが

,1328年

遂 に 死 亡 した。 しか し

,フ

ランス科学 アカデ ミーは

,Itardの

努力 を賞 讃す るばか りでな く

,

その少年 が

,初

め は ものを言わず

,四

肢 で歩 き

,地

面 に四つ ん這 い にな って水を飲 み

,

自分 の行動を妨 げ るものにか みつ いた り

,引

っ掻 いだ りしていたものが

,著

しい変化 を した とい う事実 を賞讃 した。少年 は物 を 認知 し

,ア

ル ファベ ッ トの文字を見分 けた り

,多

くの単語 の意 味を理 解 した り

,物

や物 の部分 にそ の名前 を合わせ た り

,比

較的 す ば らしい感覚的識別 を した りす ることを学 習 した り

,ま

た野生 の孤 立 した生 活 よ り文 明の社会生 活へなれ させ た。 アカデ ミーは

, Itardが

教育 科学 に積極 的 に貢献 し た ことを認 めた。 すなわ ち

,Itardは

重度 の精神薄弱で も

,適

切な訓練 によれば

,

あ る程度 まで改 善 させ ることがで きる ことを証 明 した。 アカデ ミーか ら出された声 明の一部 には

,ア

カデ ミーは

,彼

の授業

,練

,実

験 に

,

これ以上 の 英知

,明

,忍

,勇

気 を要求 す ることはで きない。 また

,彼

がす ぐれ た成果をおさめ られなか っ た として も

,そ

れ は不熱心 とか才能が足 りなか った ことによ るのではな くて

,働

きかけた被験者 の 器 官 の不完全 な状 態 によ るもの と思 われ る。 さ らにアカデ ミーは

, Itardが

な し得 た限 りでの成 功 につ いて も目を見張 って い る し

,ま

た彼 の努力 の真価を評価す るためには

,そ

の子 ども自身だけで 比 較 され るべ きで あ ると思 う。 その少年 が

,医

Itardの

手 に委 ね られ た時 は ど うで あ った かを 思 い出 し

,現

在 その少年 は ど うであるかを見 る必要があ る。 そ して

,多

くの新 しい工 夫 に富 んだ教 育 方法 によ って

,

このギ ャップは埋 め られてい った。Itardの報 告書 は

,

す ば らしく明敏な観察 に よ る

,き

わ めて珍 らしく興味の深い現象 の

,

一 連 の解説を合んでい る し

,

学問 に新 しい資料を与 え

,少

年 の教育 に従 事す るすべての人 々に

,き

わ めて有用 な知識を与 え る授業過程 の結 びつ きを提 示 して い る。 とい う内容 の ものを発表 して いる。 86

(10)

大石純悟 :精 神薄弱児教育の諮問題131

(3) Johann Jacob Guggenb

hl (1816-1863)

Guggenbuhlは ,1816年

3月16日 スイスの

Zurich湖

のほ とり

Meilcnで

生 まれた。 医 学 生 の 時

,医

師で あ り哲学者 で あ った Ignaz Paul Vitals Troxlerか ら説 切 され た Crctinism(ク レチ ン病)

に興味を ひかれ た。

TrOXlerは

,ク

レチ ン病 を一種 の風土病 的な人間 の変性 と論 じ

,

この病気 に罹 患 してい るものに

,

何 らか の方 法 が と られ て もよい とのべ た。

1836年

,20歳

Guggcnbuhlは

, U 州 の SCCdOrfの 村 を通 った時

,路

傍 の十字架 の前 で ブツブツ言 いな が ら神 に祈 って い る馬鹿 づ らを した

,背

の小 さい

,び

っ この ク レンチを 目のあた りに見 て

,強

く心 を動か された。彼 は近 くの 小屋 までその男 に従 った。珂ヽ屋 にはび っこの母親 がいた。彼 女 は

,

この子 は幼少期 に祈 りを教え られ

,そ

れ以来 どんな天候 で も

,毎

日同 じ時刻 に きま ってその十字架 の前 で祈 りを捧げに行 ってい る ことを話 した。彼女 は極 めて貧 しいため

,彼

にそれ以上 の教育を うけさせ ることはで きなか った し

,ま

た年毎 に悪化す る彼 を見つ めなが ら

,空

しく坐 してい ると付 け加 えた。 この若 い医者 は

,一

貫 した徹底 的な訓練 を うけ る機会 が あれ ば

,

もっとよ くな るのではないか と考 えた。彼 は 白痴 の子 供 た ちに

,ど

の よ うな改善 された努力を払 って も

,全

く効果 が あが らな い とい う従来 の考 え方 を し な か った。彼 は

,

ク レチ ン病 に関す る文献を入念 に調 べ

,症

候学や病 因学 に関す る論文 を多 く発見 した。 ところが

,治

癒 的な試 みの可 能性 につ いては一 言 も発見 で きな か った。

Guggenbuhlは

,彼

の生 涯を クレチ ン病 の治療 と予防 に捧 げ ることを決意 した。 当時

,世

界 中で 精 神欠陥児 の教育 と医学 治療 のための居住施設 (rcsidCntial arrangcment)1ま どこに もなか った。 二 三 の初歩的な試 み は

,遠

く彼 の理 想 に及 ばな い もので あ った。 しか し

,GuggcnbiHは

失望 しな か った。彼 はク レチ ン病 の状態

,出

,そ

の原 因につ いて

,で

きる限 りの観察か ら学ぶため

,ク

レ チ ン病 の影響を うけてい る地域へ幾度 も訪 れた。 さ らに彼 は

,

治療経験 を 徹 底 的にす るため,

Glarusの

Kleinthalに普 通 の開業医 と して定住 した。 彼 はそ こで

,

適 切な環境 内での居住治療 は 必要欠 くべか らざるものであるとい う結論 に到達 した。彼 はまた

,教

育分野 におけ る経験 を必要 と す ることを悟 って ,23歳 の時 ,1799年 に設立 され た

HOttylに

あ る代表的な教育施設 の設立者 Philip Emanuel von Fcllcnbcrgを 訪 れた。

Fcucnbcrgに

激 励 され た

Guggcnbuhlは ,

患者たちか ら望 まれなが らも開業を断念 し

, 1839年

施設設立 の仕事 に着手 した。“神 は私 に

,

も う一つ の道を選 びた も うた。 私 は神 の声を 聞かね ばな らな い°

"と

して

,

多 くの人 に救 い もた らす準 備 に入 って い った。 彼 の理想 には批判 もあ った。

BCrneの

新 聞は特 に辛棘 であ った し

,軽

率 な幻想 と してそ の計画 を 嘲 った。 そ こで

Guggecnbuhlは

,権

威 あ る支持を うるべ きで あ ると感 じ,“ Christenthum und Hu‐ manitat im Blick auf den Crctinismus"と 表題をつ けた感動的な請願 を

,

ス イス 自 然 科 学 学 会 (SChWCiZCrishc Natur sttnchattlichc OcsellSC4aft)へ 提 出 し た 。 こ の 学 会 は

,つ

ぎ の よ う な 審 議

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 “確 か に クレチ ン病 が固定 しな い幼少期 に

,

この哀れな病気 に治療を進 め ることは非常 によい ことである。

GuggcnbuH博

士 の学識 と熱意 は

,彼

が計画す る病院の院長 とな るので あれ ば,:この 事業 の成 功を保 障す るだ ろ う。 " この計画 は

,刑

務所 や救貧 院 を コロニ ーに代用 させ ることを主 唱 して きたスイスの森林学者 で あ る

Karl Kashottr(1777-1853)の

注意 を引 いた。彼 は施設生 活 の耕作 と今後 の コロニー化 (C。10‐

nizaSon)は

,高

い山岳地域で可能 であることを明 らかに した。 谷 間 に多 い ク レチ ン病 は

,高

地 ほ ど多発 していることが知 られていなか った ことを考 えて

,頂

上 か ら1000フ ィー ト

,海

抜4000フ ィー ト以上 あるベル ン州 内の htCrlttken市 の近 く

Abcndぃrgに

40ェー カーの土 地 を

Guggenbuhlに

提 供 した。 まもな く南 の斜面 には住宅が点在す るよ うにな り

,月

々の奉仕 は Diakonissenすなわ ち 慈 善伝導修道女団 (Evangclical Sisters of Mcrcy)に よってな され た。そ こは

,

大集会 ホール

,遊

戯室

,入

浴設 備 のあ る中央館 があ るし

,そ

の他 の建物 は付添人や教 師たちのための訓練所 と して計 画 され た。

Guggcnbuhlは

,ぁ

らゆ る有益 な手段 で患者たちを更生 させ るため全力を傾注 した。 彼 は第一 の 必 要条件 として

,清

らかな山の空気

,そ

れ に当時の 自然美 との治療効果を

,詩

的な コ トバ で激 賞 し た

,文

字通 りの新 ロマ ンチ シズ ム (neo―rOmanticism)を考 えた。 彼 は

,よ

い食事 といわれ るもの は

,山

羊 の ミル ク

,白

パ ン

,タ

マ ゴ

,野

,米

,そ

れ に若千 の肉であ るとい うことに 注 意 を 与 え た。彼 は入浴

,マ

ッサー ジ

,そ

れ に身体的訓練 によ る体 の治療 に重点をおいた。 また種 々の薬物治 療

,特

に カル シ ゥム

,銅 ,亜

鉛な どの調 理 を試 みた。 同時 に感覚的な知覚 を発展 させ るた め

,原

始 的 な興奮 を起 こさせ

,そ

こか らよ り洗練 された

,ま

たよ り複雑な刺激へ進歩 させ よ うとした。彼 は ``不死 の魂 は

,

本質 的 に人 と して生 まれ たあ らゆ る創造物 に同 じよ うにあ るも

"と

い う確信を もっ て 進めていた し

,ま

た規律的な 日常生 活

,記

憶 の訓練

,そ

れ に話 しコ トバ の訓練な どに慣れ さす こ とによ って

,患

者 の魂 を 目醒 め さそ うと した。 このよ うな仕事 は

,大

きな改革 と して

,あ

らゆ る所 で歓迎 された。 ク レチ ン病 の発生 しな い地域 で さえ

,そ

の熱意が高 まった ことは

,一

見 奇妙な感がある。 しか しこの当時 は

,ク

レ チ ン 病 と白 痴

,痴

愚 の類を同 じもの と見 ていた し

,そ

の差別 は

,

その程度

,

奇形 の有無 に あ った。従 って,

Abcndbergの

方法 では

,あ

らゆ る精神薄弱児 たちにも適用 され るもので あ った。

Guggenbuhlの

名声 は

,た

ちま ち文 明諸国に拡が った。彼 は多方面 の旅行 で

,

自分 の考 えを普及 させ た り

,ま

た多 くのパ ンフ レッ トに

Abcndbergを

公表 した りして

,

物 質 的 に補 助 され た ことも 事 実 であ る。彼 は

,好

意的な有名人か らの保証 を うけ ることには躊躇 しなか った し

,ま

た彼 の通信 に は

,

これ ら有名人へ の讃辞を惜 しまなか った。有名なオース トリアの詩人

,医

,哲

学者

,そ

れ に教育改革者である Ernest Freiherr vOn FcuChtcぃ

lCbenの

通信文を引用 した りした。すなわ ち

“つ ぎつ ぎに送 って くるあな たの簡単 な報 告 は

,

この仕事 につ いての啓蒙を必要 とす る一般大 衆 に有益 な ことであ るのみな らず

,非

常 に必要 な ことで あ る。報 告 の内容 は

,大

衆 の注 目を 引い

(12)

大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題(31

た り支持を得 た りす るため

,心

や考 えをつか む関連 のあ る目的をはたすため正 しい ことで あ る。

Abendbcrgは

,確

か に この重要な問題 に関 して

,あ

らゆ る努力 と研究の中心 と して見 られね ばな

らな い。幸多 く

,

この仕事を続 け られん ことを

'''

また

Guggenbuhlは

,Bonncの

精 神 医学 者 Christian Fricdrich Nassc(1773-1851)か らの,

つ ぎの通信を多 くの読者 に紹介 してい る, ``貴殿 が事業を は じめて以来

,私

は うれ しい思 いで

,

その成 りゆ きをながめて きま した。 …… 私 は

,貴

殿 の情深 い施設 の 目的が立派 に成功 す るだ ろ うことを確信 しています。 これ ら病人を救 けよ うとす る思 いが誰れ にも起 らない間 に

,希

望 もな く生 き続 けている多 くの不幸な人 た ちに, 決定 的な第一 歩を歩 み 出させ ることは

,ま

ことに価値 のあ ることであ ります。 " か くて

Abcndbergは

,各

国か らの医師

,慈

菩家

,

作家 た ちの参観 地 とな った。彼祭 は帰 国す る と

,

す ぐさま輝か しい報告を発表 した。 ベ ス トセ ラーの小説や旅行記 の 著 者 であ る Ida Hahn―

Hahn伯

爵夫人

(1805-1880)に

,精

神病的な夫 との離婚 の年 に生 まれた白痴の娘 がいた。彼女

Abcndbcrgの

ことを聞 き

,そ

の地を訪 れ

,非

常 な感動 を うけ

,相

当な金銭上 の寄付 (7′50oス ィ ス・ フラン

)を

行 な った。1843年

,

彼 女 はベル リンで一 冊のパ ンフレッ トを 出 版 した。 また,

Samucl Cridley Howcは

,

ァメ リカに最初 の 白痴 の地設を Massachuscttsに 設立 しよ うと して

,

Abendbergを

祝察 した。彼 は

Abcndbcrgに

圧 倒 されてつ ぎのよ うにのべてい る。 ('The holy mount it shOuld be callcdl''

(それ は聖な る山 と呼ぶべ きだ !)

と。事実

,訪

間者 の多 くは

,た

Guggenbunを

称 讃す るだけでな く

,

それぞれ の国の政府や市 民 に

,同

様 な施設 の建設を力説 した。

Sardiniaの工 で あ る

SavOy家

の Charics Albcrtは

,本

国 におけ るク レチ ン病 の研究 のため委員

を任命 した。1848年 に発表 された報告 によると

,Abcndbergは

モデル として推せん され, Guggc‐

nbuhl lま “不幸 な ク レチ ン病 患者 の最 も尊敬 す る憐憫 の情 に感動 させ られた

"人

としてのべ られて

い る。ゼ ノア

(Geneva)の

精神病医であ る

Louis_Andcr Gossc(1778_1851)は

,同

年 に

,同

様 に

Guggenbinを

,“われわれ は

,彼

の純粋な考 えや真実 の主張に確信を もった。"と 認 めてい る。

GuggenbuHは

,特

に英 国において相呼応す るかの如 き反響を知 った。

Abendbcrgは ,1842年

9月

4日

,William Twiningの

訪 間を うけた。

TWiningは

,帰

国 して発表 した論 文 の 中で,

``人間 の尽 力 によって

,

心 は

,明

らか に感覚 な きものたちを 目醒 め しめる し

,ま

た教育 も

,教

え る望 みな きもの と考 え られた り

,仲

間た ち と交 わ ることがで きない と考え られていた ものた ち に拡大 され るだ ろ う。 これか ら一世紀 の間 に

,全

ヨーロ ッバか らクレチ ン病 を根絶す ることにな った と記録 され るな ら

,ス

イスの歴史上

,輝

か しい光栄 あるペー ジとな るであろ う。" と賞讃を お くってい る。 上述 の知名人 の讃辞か らもうかがえ るよ うに

,Guggenbuhlは

,

この時代 におけ る国際的な有名

(13)

鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号

人 とな って いた。彼 の国際的地位 は

,SWiSSの

自然科学会

,Zurichの

外科医学会

, ViCnnaの

王立 医 師会

,Turinの

医学会

, St,Petersburgの

ロシヤ医学会

, BOnneの

ライ ン自然科学 と医学会,

Erlangcnの

医学会

,Badcnの

国立医学会, Marscillcsの 国立 医学会, Strassburgの医学会

,

な どの名誉会員や客員 とな ってい ることによって も うかがえ る。 したが って

,Abondbcgの

イメー ジ を 型 ど り

,ま

Abendbergで

訓練 され た人 た ちを職員 と した施設 が

,

ドイツ

,

オ ース トリア

,イ

ギ リス

,ネ

ザ ー ラン ド

,ス

カ ンデ ィナ ビア諸国

,ア

メ リカ

,そ

の他 の国で設立 され た。

Guggenbuhl

,諸

処 へ講演を した り

,相

談を うけ るために出か けて

,尊

敬 と崇拝 の祝辞 を受 け

,

これ まで顧 み られなか った一部 の人た ちに

,新

しい生 活の福音 を もた らした人 として知 られ るよ うにな った。 しか し

,Guggcnbuhlに

対 して は

,最

初 か ら批判 の声 もあ ったが

,長

い間の各方面か らの讃辞 に よ って溺れ させ られ ていた。Auzouy,M。 は

,当

時 の ことにつ いてつ ぎの よ うにのべて い る。 “幾人 か の非 難 す る人 があ って も

,

これ らの人 たちは

,輝

か しい彼 の栄光 の前 には

,

とるに足 りな い ものばか りで あ った。"

(``Stl Cut quclqucs d′ctracteurs, ccux― ci nc Furent quc dc lё gёrcs touchcs dans lc solcil, brilhant alors tout son 6clat")

国王

,有

名 な作家

,医

,宗

教改革者

,そ

れ に知名 の士 は競 って彼 の栄誉をたたえた。 しか し, あ る人 た ちは

,Guggenbuhと

が ぁま りにも多 くの ことを約束 し過 ぎると感 じた。彼 はほ とん ど

,

自 分 の意志 を神の意志 と同一視 し

,誇

張 した感動的態度 の興奮 があ った。従 って

,彼

が医学研究誌 に 発 表 した論 文 に,“ス イスは

,祝

福 され た理 想実現 において

,

他 の国 よ り先 きに異彩 を放つ よ う神 の国によって選 ばれた。 ''と い うよ うな ことを導入 してい るし

,ま

,神

の慈悲深 い奇蹟 の一つ と して

Abcndbcrgが

与 え られ

,

自身奇蹟 を行 な う選 ばれた人 と してのべている。 結 局

,白

痴 の子供 た ちは彼 ののべてい るよ うな方 法 で は治癒 す ることはなか った。人 び との不 満 は

,見

る間 に

CuggenbuhIに

対 す る憎悪 に転化 した。 彼 は擁護者 たちがますます少 くな って い く のを知 った。 1853年 の初 め彼 は

,自

分 の星 が天 空 に しっか りと座 位 を 占め ることので きなか った こ とを知 りは じめた。 彼 の決定 的な挫折感 とな った最大 の力 は

,

か って英 国の大 臣だ った

Gordon

,首

BCrncに

きた ときであ る。

Abcndbcrgに

, 2, 3人

の英 国の患 者 が収容 され て いた。

Gordcnが

彼等を訪ねたのは1858年 4月13日 の ことである。

COrdonは

,無

視 され た よ うな最 悪 の状 態 にあ る子供 たちや

,胸

の悪 くな るよ うな悪 い設 備 の全施設 を見 た。彼 が一人 の子供 に寝室 を見 た い とい った時

,そ

の子供 は ``部屋 に入 るカギを置 き忘れた

"と

答 えた。

Guggenbuhlは

そ の時

,前

年 (1357年

)の

■月か ら長期 の旅行 に出ていたので留守であ った。

GordOnは

,ベ ル ン州 の当局 に 自 分 の印象 を報 告 した。管理不行届の噂 は

,

しば ら くの間に広 まっていった。以前 か らの崇拝 者 の多 くは,彼の保証 を撤 回 した。

GordOnの

申 し立 て には

,特

に不愉快 な 出来事があ った。一人 の患者 が 崖 か ら落 ちたが

,患

者 の失踪 は農 夫が暫 くた ってか ら

,そ

の死体 を発見す るまで気づかず にいた こ と。 ま た一人 の子供 が死亡 した とき

,棺

を作 るために呼び寄せ られ た大工が

,腐

敗 した状 態 の死体

(14)

大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題131

を見 た と報 告 した ことな どであ った。従 って

GordOnが

慣 りを表 明 した時

,州

当局 は

,直

ちに

VOgt

VCrdatの 2人

の医師 に公的な調査 (Apri1 20,1858)を 命 じた ことは 当然であ る。rDcs Abcn― dberg wic cr ist''のパ ンフレッ トに

,

これ らの公的 に

,作

成 され た真相 がのべ られてい る。

1.Guggcnbuhlは

,

自国や他国で

,彼

の施設 を ク レチ ン療養施設 (Kretincn―Hcilanstalt)と 呼 んで

,多

くの人 を欺 いて ぃた。 ク レチ ン患者 は収容者 中

,精

々 きであ った。彼 は クレチ ン患者 を癒せ るもの と してい るが

,そ

れ は密か に普通児を入所 させ てい るか らだ

,

とまでパ ンフレッ トは非難 してい る。

2,普

通児たちは

,Abcndbcrgに

収 容 されて

,公

立学校 に登校 させ なか った。

3.た

だ一人 の クレチ ン患者 も

,Abendbcrgで

は治療 した ことがなか った。

4.Guggcnbuhlは ,は

じめ幼児 の クレチ ン患者を収容す るよ うにのべていたが

,23歳

まで の人 を収容 していた し

,ま

5歳

以下 の幼児 は一人 もいなか った。

5,医

学 的な監 督が行 なわれていなか った。所長 は毎年

5ヶ

月 か ら6ヶ月 間留守であ った し

,ま

た代理者を置 いていなか った。

6.最

Guggcnbuhlは

,十

分 訓練 された指導員を採用 した し

,

彼等 の中には

,

他 の新 しい施 設 に移 って立派 に仕事 につ いてい るが

, Abendbergは

,

数年 間一人 の教 師 もいないままであ った。調査 の時 には

,所

内に無 知 な農婦が

2人

しか いなか った。

7.暖

房設 備

,栄

,水

の補給

,寄

宿舎 内の換気

,そ

れ に衣服 は不適 当であ った。

3.所

長 は

,施

設 に寄付 された書物 もな く

,誰

れか ら受 けたかの明細 な説 明 もで きなか った。 9・ 患者 の治療 進行状況 に関す る記録 は保管 されていなか った。 このパ ンフレッ トは

,Guggcnbuhlが

純粋な利他的愛情 の計画 か ら始 めた ものであるこを と認 め てい るが

,ク

レチ ン病 と

,神

聖な原 因による誤 った殉教者気取 り

,治

療結果 の潤色

,そ

れ に宗 教的 情操 の利 已的利用 とを結 びつ けよ うとす る虚栄心 によって

,間

もな く不純 な ものにな った ことを遺 憾 と して い る。 調査 の結果

,ス

イス 自然科学学会 は

,

その後援 と支持を撒回 した。

Abcndbcrgは

その後

,

ヨー ロ ッパや アメ リカの各地 に施設 が設立 され始めた頃に

,一

時 閉鎖 され た。

Guggenbulは MOntreauに

引 き こもって

,未

婚 のままただ一人 暮 らした。 その末路 は不遇であ った。彼 の末期 は

,ウ

ィー ンの医学研究誌 (1860)ゃ ベル リンの医学研究誌

(1862)に

編か い論 文 を発表 したにとどま った。1863年 2月 2日

GuggenbuHは

年 令47歳 を もって示 寂 した。

Abendbcrg

,1867年

に売 られ

,避

暑地 のホテル に姿をかえた。その後

,19世

紀 におけ るEncyclopcdiaには, その地 に酪農場 の設立 された ことを記載 してい る。

Guggcnbunの

Abendbcrg経

営 は

,失

敗 に終 った ことは事実で あ るが

,彼

の著作を熟読す ると, 疑 い もな くク レチ ンの治療 の可能性 に

,真

心 こめた信念 を書 きつづ ってい る。 しか し彼 の信念 は保 証 されなか った。彼 の旅行 は

,必

要 な管理的責 任感をそ らせ ることにな ったので あろ う。彼 の不在

(15)

鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 中は継 父 に委ね られて いたが

,長

期 にわ た る不在 の間 に

,そ

の地位 を失墜す ることにな った と思わ れ る。 しか し

,Guggcnbumは

,

精神薄弱児 のための施設保護 の考 え と実践 の先駆者 として認 めねばな らない。今 日存在す る数百 の施設 は

Abcndbcrgか

ら派生 した もので ある。 以上 の点か ら

Guggcnbuhlに

対 す る態度 は

,

二つ の段階を経 て き て い る。 その第

1段

階 は, 1840年 か ら1850年 の中頃までで

,そ

の時代 の優れた医学者 やその他 の科学 者 たちによって与え られ た崇拝 に近 い賞讃 に値 す る人物 であ った時期

,第

2段

階 は

,約

20年 間続 いた ``欺嚇 でなか つた''い わ ゆるクレチ ン療養所 (Krctincn‐Hcitanstalt)と

,詐

欺 師

,ヤ

ブ医者

,山

,横

領者

,偏

屈者 な ど と創設者 の人格を傷つ け るよ うな記事で満 たされた時期。第

3段

階 は

,憎

悪 が冷め

,歴

史上 の彼 の 地位が

,最

初 の偶像視 でな く

,ま

た衰 え ることのない非難でな く

,き

び し く評価 され る ことのな く な った時期であ る。 このよ うな態度 は

,つ

ぎの二つ の引用 によ って最 もよ く例証 され るで あろ う。 すなわ ち

,HCinrich Mathias Scngelmann師

(1821-1899)は ,Guggenbuhlの

事 業 の 簡単 な要 約 の後 で, “その人間 につ いて判 断を下 すべ きでな い。弦 の糸がその強 さ以上 に張 られた。 多 くの ことが 約束 され過 ぎた。・……彼 の穏健な判断を弱 くしたのは

,追

従 のお世 辞 であった。 これ に加え る に

,彼

Abcndbergか

らのたび重な る不在 の間 に悪 弊が生 じていた ことで あ る。後 にな って, ひとたび疑惑が生 じると

,初

め寛大な態度で黙許 されていた彼 の宗 教的意 図 も

,

これ らの悪弊 の 源泉 として見 られ るよ うにな り

,彼

は不 当に偽善者 と して印象づ け られた''。 また

,1904年 ,Martin,W.Bttrrは

,先

導者 と しての

GuggcnbuHの

意義 に

,

尊敬 を回復 す るため最善をつ くした。Bttrrは, “彼 の方法を吟味 して見 ると

,

概 して近代経験 の要求 に合 って い る し

,ま

た近代経験 によって 是認 され てい るので

,わ

れわれ は ク レチ ン病 その ものの献 身 的な研 究 において

,

この人 によって 得 られた深 い識見 は認 めな いわ けにはいか ない。 ただその識見 は詳細 で あ るばか りでな く

,広

範 囲な ものでな ければな らな い。彼 は比較 的狭 い範囲で苦心努 力 した し

,ま

た今 日の大規 模な施設 で あるコロニー計画を予想 した ことは

,賞

讃 されねばな らな い。歴 史 は

,Guggenbuhlが

一っ の 仕事 に彼 の生涯 の最良 の歳月を捧 げた ことで

,先

駆 者 たちの中に彼 の名前 を位置づ けるための仕 事 を

,遅

まきなが ら果 たすだ けで あ る。"

(4)

コdo■ard onesi】

nus Seguin (1812-1880)

Scguinは

,1812年

二月20日 に フ ランスの

Clamcyで

生 まれた。彼 は Auxcrrcの高等 中学校 とパ リーの St・

Louis高

等学 校 を卒業 し

,つ

いで Itardのもとで医学 や外科 医術を研 究 した。Itardは

彼 に

,白

痴 の研 究 と治療 に献 身す ることを勧 めた。彼 は Itardに十分 な恩義を感 じたが

,個

人 的な 人間 関係 を越 えて研究 を進 めた。 当時 は

,た

しか に彼 を勇気づ けた良 き指 導者や 白痴教育 を支 え る

(16)

大石純悟 :精神薄弱児教育の諸問題 俗)

原理 の必要性 を感 じた。精神病 医の指導 か らそれ を期待 す る ことはで きなか った。彼 が指導 を求 め た偉 大 な る精神病 医 JCan Etiennc Esquirolは,“ 最短 期 間で も

,

不幸な 白痴 に理性や知性 が授 け

られ る方法 がないため

,教

育 的努力 は無駄 で あ ると

"宣

言 された。

このよ うな悲観論 にも意気 を阻喪 させ なか った

SCguinは

,25歳

の1887年 に

,一

人 の 白痴少年 の 教育 に とりかか った。彼 はその 白痴少年 が“ 自分 の感覚器官を うま く使用す ることがで き

,記

憶す る ことや話 す こと

,比

較 す ること

,算

え る ことな どがで きるよ うにな る

"ま

で の18ヶ月間

,着

実 に

たゆまず努力 した。Esquirolは

,

この冒険的 な試み の成 功を証言す る第一人者 で あ った。 1339年

3月

18日

,彼

は (Esquirol)そ の白痴少年 を “白痴 のよ うに思 われ る子供"(un enttnt…semblablc a un idiOt)と のべ ることによ って

,微

妙 に 自己の立場 を弁護 しなが ら

,SCguinの

功績 を認 めた声 明を 出 した。 も しわれわれが

,白

痴 に何 も指導 す る ことがで きない と決 めた場合で も

,白

痴 の状態 が改善 されたな らば

,そ

れ は “白痴 らしい もの"(a scCming idiOt)で ぁ った と い う こ とによ っ て

,顔

を立 て る ことがで きる。 そ うでなけれ ば Esquirolは,“望 ま しい教育体系 を立案 す ることの で きる

"人

と して

,Seguinを

是認す る声 明文 を結 んだで あろ う。

Scguinは

,廃

疾者救護所 (L′ Hospicc dcs incurablcs)ゃ Bi∝treの 収容所 で

,多

くの子供 た ち を治療 し始 めた。 1842年10月 2日

,パ

リーの病院管理協議会 の開会で

, SCguinの

努 力 の結果 を報 告 す るよ うに命 じた委員会で,

(1)SCguinが

廃疾者救護所で

,非

常 に効果的 に適 用 され てい る教育方法 を 続 け る ことを求 め るべ きで あ ること

(2)救

護所長や精神病医は

,SCguinに

よ って使用 され る方法の 進 展や結果 に従 うべ きこと な どを決定 した。 1843年12月

H日

,Serrcs,F10urens,Parisctな どか らな る委員会 は

,Seguinの

業 蹟 の詳 細 な検 査 報 告 をつ ぎのよ うにのべてい る。

``M.,Scguinは

,新

しい慈善 の道を開 いた。彼 は

,後

に続 く価値 ある範例 を

,衛

生学

,医

学, 倫理 学 に与 えた。従 って

,わ

れわれ は この協議会 に提 出 された報 告 によ って

, M.,SCguinに

感 謝状を書 いた り

,彼

の慈善的な事業を激励す ることは光栄 である。" 1844年

,パ

リー科学 アカデ ミィーの委員会 は

,10人

の 白痴児 を試みよ うとす る

Seguinの

要 望を 認 め

,彼

はあき らか に

,白

痴教育 の問題 を解決 した と言 明 した。

SCguinは

,彼

の後期 の著作で, 自痴教育 の基礎 がため とす るため

,す

べ ての施設 の一対 の上台 として, 1842▲ 年 と1343▲▲ 年 の研 究 報告を参照 させ た。 1846年

,Seguinは

規範教本を発表 した。 それはアカデ ミーか ら栄誉を授 け ら れ た し

,ま

た 彼 が,1人 間性 に報 いた奉仕精神 に感謝 して

,法

Pius IXか

ら著者 に親書が もた らされた。 この著

▲ Th`Orie et pratique de l′ёducation de idiots.「 Fwo parts. Paris, Bailliere. 1841 and 1842.

(17)

鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 書 で

,Seguinは

,

白痴教育 に生理学的教育 と道徳教育 とを結 びつ けた彼 の教育方法を

,詳

細 に説 明 した。彼 の教育方法 は, ``教育 は

,人

間や人類 におけ る機能 と して

,道

徳 的

,知

,

それ に身体的能力を調 和的

,

効果 的 に発展 させ る手段 の総体 で あ る。生理学 的で あ るため には

,教

育 はまず

,生

命 その もので あ る 動 き と静止 の偉大 な る自然 の法則 に従 わ ね ばな らない。全 ての訓練 に この法則 を 当て はめ る と, 各機能 は順 々に活動 と休息 につかせ られ る。 す なわ ち

,一

方 の機能 の活動 は他 の機能 の静上 を好 都合 にす る。一 方 の機能 の改善 はすべて他 の機 能 の改善 に反応 す る。弛緩 の方 法 ばか りで な く, 理解 力の方法 もまた対照的である。一般 的な訓練 には

,と

んな瞬間で も活用 されやすい筋 肉的, 模倣 的

,神

経 的

,反

射的

,機

能 を合んで い る。" と論 じてい る。

Seguinの

名声 は遠 く広 く広が った し

,各

国 の精神病 医たちは

SCguinに

よ ってな され た 仕 事 を 参観 す るためパ リーヘ群 れ集 ま った。 しか し

,丁

度 その時

,1848年

の革命 とな り

,Seguinは

新 制 度 に ついて疑惑を もっていたため

,荷

物 を ま とめて アメ リカヘ移住 した。彼 は普 通 の 開 業 医 と し

Clevclandに定住 し

,つ

いで

OhiO州

POrtmouthへ

移 った。1860年

,

短期間で あ ったが

,ペ

ン て シルバ エアの白痴養護学校長 とな り

,

故 国 訪 問後 には

,New York州

MOunt Vernonに

移 った。 1861年 には

,New York市

の大学 の医学部 が彼 に医学博士 の学位を授与 した時

,彼

はそ の都 市 に居住す る ことに決意 した。そ こで彼 の生涯 の後 の20年 が過 ごされた。

彼 が アメ リカに きて以来

,彼

は精神薄弱児 たちの新 しい居住治療施設 の建設 や

,既

存 の ものの改 善 な どに

,相

談 役 と して主要な役割を演 じた。

SCguinは Samucl GFidley Howcを

1852年

の初 め

2ヶ

月間訪れて交際 した。 1873年

,彼

ViCnnCで

の万 国博覧会 のアメ リカの教育委員 と して ヨー ロ ッパヘ行 った。 そ して子供 の養育

,学

校教育

,そ

れ にハ ンデ ィキ ャップ児 の保護 な どにつ いて, 現 代的観念 の印象 につ いて

,説

得力 のあ る報 告 を発表 した。 1876年

,6人

で 白痴 と精神薄弱児施設医師協会 を設立す る相談 をまとめ

, Seguinは

初代 の会 長 と して選 ばれた。 彼 の生涯 の最 後 の事業 は

,ニ

ュー ヨー ク市 の精神薄弱児

,身

体虚 弱児 の生理 学的治療 学校 の設 置 で あった。 専 門外 の興味 として

,SCguinは

医学 的検 温 に夢 中にな って

,広

く使用 され る検 温 器 を 考 案 し

て,検 温についての本を発表している。その一つは,「 お母さんのための検温手引」

(1875年) は

,一

般大衆 向 きと して書かた ものれで ある。

Seguinは

, 188働千10月28日こ没 した。

(5)SamuCI Gridley Howe(1801-1876)

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