精 神 薄 弱 児 教 育 の 諸 問 題
(3)
―
キ
精 神 薄 弱 児 教 育 の 先 駆 者 ―
1
精 神 薄 弱 児 教 育 の 黎 明 期 今 日まで,精
神薄弱児 の教育 の歴史 を論ず る場合,
しば しばギ リシ ャ・ ローマ時代 の文献,,聖 書,
コー ラン,そ
の他な どか ら引用 され るのが通例 のよ うであ る。例えば,ギ
リシ ャ 。ローマ時代 に は,ス
パル タで見 られ るよ うにLycurgus法
制 の も とで,精
神薄 弱児 は他 の虚弱児 と同様 に戸 外 に 遣棄 された り,川
に投げ こまれ た りした とか,古
代 ローマ法 で は,不
具,虚
弱児を殺す ことが認 め られ たが,精
神薄 弱児 は人 を喜 ばす慰み もの として価値 あ るときは助命 され て いた とか。 また コー ランの第四章 第四節 に,マ
ホメ ッ トが「理性な きもの」 (thOSC Without rcason)を 引 き 取 って養 い,優
しい言葉をかけてや ることを教 えているし,東
洋 で は孔子 が論語▲ の中で,
知能 の優秀な もの と,特
に劣 ってい るものは,教
育 によ って変え ることはで きない。平均以下 の 知 能 の 持 主 に は,よ
く気 をつ けて親切 に指導す るよ う弟子 に教 えてい る,
ことな どが あげ られてい る。 しか し, 以上 の引用か ら見 ると,す
で に古代か ら精神薄弱児 の存在 が知 られていた ことは理解 され るが,
こ うい う人 た ちの収容所や保護,訓
棟 のために,何
ら特別 の尽 力や組織 的な努力 が払われ た とい う証 明がな い。 ただ,彼
等 に対 して思 いや りのあ る言 葉 をか けて い るだ けで,実
際 に保護 され教育 され るまで にはいた って いなか った と思 われ る。 とはいえ,早
期 の資料 は甚だ し く不足 してい るた め―一 ほ とん ど無 い と言 って よい一― 精神薄弱 児 の教育 に関す る事情 が,研
究者 た ちによ って過大評価 されて い る傾 向がな いで もない。例 えば, Saint Niclldas Thaumaturgosは,マ
イ ラ▲(Myra)の
司教 (四世紀 に生存)で
あ り,彼
は精神薄 弱者 の保護者 として述 べ られて い る▲ム。 しか し彼 は,す
べての子供たちか ら船乗 りたち,質
屋 さん に至 るまでの守護神で ある。後世彼 が Santa Cl豊usの原型 と して奉仕す るよ うにな った事実か ら見 ▲ 論語・ 薙也篇 :子 日,中
人以上,可
以語上也,中
人以下不可以語上也, 同上・ 陽貨篇 :子 日,唯
上知与下愚不移, ▲Myraは
河ヽアジア南部,Lyciaの
古都工
諄警乾ぎ絶粂′
舌腱湾
健鉢
::醐
雪軽曹称∵鶴
,Ⅱ :*
墓
象
箸恋
tそま
毬ぜ
招き
ち
幣法
牝
liSt°ry Of the care and study of the mentally retarded,1964. 悟 純
石 大
大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題 俗) て
,精
神薄 弱教育 の歴史上 の人物 として あげ る価値 があ るとい え るだ ろ うか。 同 じよ うな伝説 は Euphrasiaと かEupraxiaの
よ うに,種
々な名前 で記録 されてい る 博 愛 主義 の貴婦人 の場合 にも作 りあげ られてい る。彼女 の夫君 Antigonus(コ ンス が ンチノープルの元院老 議員 で,ロ
ーマ帝国最後 の皇帝 TheOdosiusの 姻戚)の
死後,彼
女 はエ ジプ トの領地 に移 り,そ
こ で 厳格な修道女 の生 活 に入 り,若
子 の精神薄 弱者 を合む家 な きものや障害 のあ るものを保護 した と い われているが,
これ も確 た る根拠がない。 このような ことは,大
よそ古 い年代史 の どの文献 にもよ く見 られ る例 で ある。 上述 の ごと く,古
代 の精 神薄 弱者 に対す る保護。教育 につ いては,か
な り伝説的な色彩 もあ ると 思 われ るが,当
時 の人 た ちが精神薄 弱 と呼 ばれ た ものたちに払 った注意 は,保
護 とか教育 に関す る こ とよ りも,精
神薄 弱 とい う用語 に多 くの関心 が払われ ていた よ うで あ る。 そ の代表 的な人 た ちは 辞書編集者 たち (Lexicographers)で あ る。司教 ISidOrus Hispalcnds(ca・ 56o∼
636)は
,
精神薄弱 とい う用語 “Fatuus"(こ
こで は adi.fatuoutt n.fatuity)と ぃ う形容詞を当て
,そ
の理 由として二つ の根 拠をあげて い る。一つ は,動
詞 ``fari''(tO Speak話す こと)の
分詞 に関係 が あ る。 したが って,“fatuuぎ'は
「 自分 が話す ことも,他人 が話 す こともわ か らな い人 」を指 して い るとい うこと。 第二 の根拠 は
,
ローマ神話 の林野 の神 “Faun''の妻 で,予
言者 で あ る``Fatua"の
名前 か ら出て い るとす る説 で あ る。彼女 の予言力で麻 酔 状態 (Stupefaction)│こ され た人 が ``fatui''(ボ ー ッとな った人)と
いわれた。 そ こで,
このてfFatui''と ぃ ぅコ トバが
「 意識な き」
(WithOut a mind)す
べての人 に転移 されて “Fatuul"と
な った とい う根拠で ある。 同様 な結果 と考 え られ る「 愛 してい る」 とい う状態 も `=infatuation"( 夢 中にさせ ること
)と
い うコ トバが当て られてい るが,こ
れ も'`fatua''に そ の起 源 があるといえ る。 ローマ人 が ``amantcs"(愛人,熱
愛 す ること)を
“amcntes"(低
能)と
,
語 ろ合 わせ に作 っ た ことも不思議でない。もう一つ の ラテ ン語 辞典 の著者 Acgidius Forcellinusは ,“ fatuus"と ``stultus''(愚か もの
)を
区別 して,`Fstultus''は 鈍感な感覚 であ り,``fatuns"は感覚 のな い もの,
と記載 してい る。また,全 くの愚鈍 (mindlCSSncss)に 相 当す る特性 は ``amCns''と 同意語 で ある。司教 ISidOrusは
,彼
の辞書で
,“amCns"は 全然意識をもたないが
,“ dCmcns''は自分の意識の一部 を持 っていること有
明 らか に しよ うと して い る。また “idiOt''(白 痴
)の
用語 が現在 の意味 に使用 されば じめた時代を正確 に定 め ることは困難で あ るが,ギ
リシ ャ語 の “idi5t5s'',す なわち “priVatc person''か ら出てい ることは間違 いない。従 って,idiotは r`the cOmmom man''(普
通人)を
意味す るもので あ った。 と ころが,
この ``COm―mon man"が
,専
門的な知 識 のな い “単純 な素人"(thC unsOphisticatcd layman)と ぃ ぅ 意 味 に 解 され,そ
れがつ ぎの段階で,idiotは
``無知 で知識 のない人 "(an ignOrant,ill―informёd indivi‐dual)を
指す よ うにな った,
と理解 され る。Liond,S,Penroscは
,社
会人 と して の役割 に参加 で き鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号
な い個人のことで,idiOmゃ
idiOSァncraSy(医学では特異体質
)も
同じ語原のものである。
もともと
この用語は
,未
熟
,未
教育
,素
人などの意味に使われ
,17世
紀までこの意味をもっていた
,と
のベ
て いる。
lmbccilc(痴愚
)の
用語 は,時
代 の推 移 と共 に,同
様 な語 義上 の変化 を うけた もので あ る。 当初,ラテ ン語 の “imbccills"(低能
)は
``baCillus"(棒)か
ら出た もので,
“弱 さ"“
薄弱"(Weak)を
意 味 した り,身
体機能上 の ``弱さ"``衰弱"(dCbility,の状態 の場合 に使用 され たよ うで あ る。 結 局,imbecileは
idiOtよ りも重 くない精神 の薄弱 (WCaknCSS Of hc mind)1こ 限定 され る ことになったようであ る。
要す るに
,語
原 は実 に不思議な細道を進んでい くもので ある。Fatlnの 妻 の 霊 験 か らfatuityへ
,a pr
ate personの地位 か らidiOCyへ,一
般 的な意味 の frailty(も ろ さ,薄
弱性)か
ら im_ bccility(低 能,痴
愚)へ
と辿 ってい る。もっと奇 妙な ことは
,医
学書 では決 して使用 されないが,精
神薄弱の同義語 と して,
しば しば使 用 され る``Duncc"と
い う用語 の起源であ る。・(Duncc''はス コ ラ学派 の神学者 で, 1303年
に死去 した 」Ohn Duns Scotus(1274∼1303)か
らきた もの といわれ る。 オ ックス フ ォー ド大 学 で は,彼
の 問下生 たちが支配的な一派をな して いた し,彼
の著書 である宗教学,哲
学,論
理学 に関す るもの は,大
学 に おけ る教科書であ った。 ところが16世 紀 にな ると,彼
の学派 はまず人文主義者 たちに,つ いで宗教改革者たちによ って
,非
難 嘲笑 され た。 この学派 の人 たちをDunsiansと
かDunscsと
い うのは,新
しい学問 (new lCarning)に対 して罵 倒 した もので, Dunsと
かDunccの
名前 は,す で に “SOphist''と か ``hair splitter"c/1ヽ 理窟屋
)と
いわれていた ものが,す
で に ``学習 に鈍 感 な,鈍
い頑 固 もの (du11,ObStinatc pcrson impervious to learning), また “学習で きない馬鹿 も の"(b10Ckhead incapaЫc of learning)の 意味に移 り変 ってい った と見 られ る。古 い文献か ら
,さ
らにわれわれは,時
に精神薄弱者 が唯一 の役割を果 している ことを知 った。 そ れ は ローマ において,家
族 や お客 たちの慰 みのため,ば
か者 (fO01)や 道化 師 (jestCr)を 抱えた こ とは,章
時 の富裕者 にとっては不思議な ことでなか った。む しろ,あ るばか者 (fO01)は 非常 に評判 が よい もの もあった。 例 えば,ロ
ーマの詩人 Marialis▲ は,Augustu号 工 皇 帝 のお 抱 えのばか者(fool)Gabbaは
非 常に評判が高 か った とのべてい る。 また,暴
君 ネ ロの先生 で あ り,ス
トア学派 の哲学者 セ ネカ (Lucius Annacus Scncca,B.C。4-A.D.65P)の
書 簡 に 一― 私 の 妻 の 愚 者Hcrpastcは
先代 の遺産であ るが,な
は このバケ物 が嫌 いである。 従 って,
妻 は盲 目で あ るが,家
の 中は暗 いと称 して妻を外へ連れ 出 してい る一一 とい う,fO。1の 忠実 な下僕 の様子 をのべてい る。
後世
,
これ らバ カ者 たち (fOOIS)は,
フ ランスにおけ る``fOus“ または “bOuffOns''(道 化者),
ドイツにおける ``HOfllarrcn"(宮 廷道化 師
)の
よ うに,王
侯や宮廷 の``慰み もの"(plaything,と
▲ Martialis,Marcus Valerius(A.D.
▲▲
Augustus皇
帝 は ローマ最初 の皇帝40-102?)は
スペイン生れのローマの風刺詩人(B.C.27∼
A.D.1つ
大石純悟 :精神薄弱児教育 の諸問題(3)
な った。 (fOuと fO01の コ トバは ラテ ン語fOllisが語原 で,fOllisは 一対 のフイゴa pair Of bellows
で
,fOuは
片方 のフイ ゴを意味 してい る。複数 の fOllCsは プ ップ ッと息を吹 く両類を意味す る)こ
のばか者 の道化者 は,不
恰好な身体 を した人 とか精神薄弱者か ら召 し抱 え られた。MOreauは
,道
化者 (thC bOuffons)の 大部分 が imbcCilC(痴 愚
)で
あ った し,ま
た,
この コ トバを認 めた科学 的 医学 的な意味では,精
神 の弱 さFffaibles d′ espriど'の
あ った ことを強調 してい る。このよ うに
,精
神薄弱者 の道化者 の中には,名
声 を博 した もの もお り,伝
記作家か ら賞讃を得 た もの もい る。 フランス国工 の Francis一世(1494-1547)の
宮庭 内で の ``Triboulet''ゃ `【Brusqu‐et''の 名前
,そ
れ にSOXOny王
国 の知者 フ レ ドリック公(Duke Frcdrick,1463-1525)の
側近 の 人 た ちを楽 しませ たKlaus Narrの
名前 は,今
な お百科辞典▲ に記載 されてい る。 フ ランスのチ ャエル ス五世(Charles v.1337-1380)の
時代 には,
フ ランス北東部 のChampagnc地
方 は,宮
廷 にバ カ者 (fO01)を 供給す る独 占権を授与 された といわれ る。偉大 な天文学者
TyChO Brahc(1546-1601)は ,
新 しい友 として痴 愚者 の ``ささや き"も
神 の 啓示 として耳を傾 けた とい う伝説がある。 彼がユダ ヤの律法典 Talmudた の一節 に (Baba Bathra12.a)``聖
殿 の破壊 の時 よ り,予
言者 の術 はそ の価値 を失 ない,愚
者 に授 け られ た"と
,の
べてい ることを知 っていた とは思 われないが,
この一節 は,愚
者 は予言者 である,
とい うこ とにな るであろ う。勿論
,保
護 され たばか者 は,精
神薄弱者やハ ンデ キ ャップ者 の中で,例
外 的な地位 を 占めた もの で あ る。 しか し,大
多数 の idiOtsゃ imbCCilesた ちは,
必 ず しもそ うで あ った といえない。 多 く の未 開地域 において,彼
等 は迷信 的 に祝福 され た ``よき神 の子"(Lcs enfants du bOn Dicu)と
し て見 られ た り,
また苦 しめ られ ることはなか ったが,
放 浪す るが ままにすてて おかれ たよ うで あ る。 精 神薄弱者 たちが最悪 の状態 にあ ったのは,16世
紀 か ら18世紀 におけ る宗教改革や啓蒙期時代 の 期間 中であ った といえ る。 精神薄弱者 の多 くは,当
時 の魔神信仰(dCmOniSm)の
犠牲者 とな った。 マル チ ン・ ル ッタと(Maron Luthcr1483-1546)は
,
神 の加護 な きものとして精神薄弱者を のべ て い る。彼 の食卓談話 (TablC Talks)の 中に,そ
の報 告があ る。 “8年 前,Dessau(東
ドイ ツの都市)に
一人 の精神薄弱児 がいた。彼 は12歳 で眼 もその他 の感覚 も異状 はなか った。 しか し彼 は,農
夫や脱穀者 の4人
分 をガ ツガ ツ食 べ る以 外 は 何 もしなか っ た。彼 は物 を食べ,脱
糞 し,よ
だれを流 し,も
し誰れかが捕えよ うとす ると金切声 を立てた。物 事 が うま くいかない と泣 いた。そ こで私 はAnhalt王
に言 った。 “も し私 が君主 で あれ ば,
この 子 供を M。ldau(Dessauの
近 くを流れ る川)サ││に連 れてい って,
溺死 させ る"と
い った。 しか し工 は私 の忠告 に従 わなか った。そ こで私 は“ キ リス ト教徒 は,教
会 で主 の祈 りを 捧げ,主
が悪▲ BrOCkhaus Konversation― 一Lexicon, v. s. Hafnarr,
鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 魔 を払 い去 ることを祈 るべ きで あ る
"と
い った。 この祈 りがDcssauで
毎 日行 なわれ た。 この馬 鹿 な子供 は翌年死 んだ。 ル ッターは,
彼 がなぜ その よ うな忠告 を したか を尋 ね られ ると,
彼 は 断固 として,
このよ うな馬鹿 な子供は,精
神 のない,単
な る肉の塊,す
なわ ち a maSSa carnis で あるとい う考 えで あると答 えた。なぜな ら,肉
の塊 は,理
性 や精神を もつ人 たちを堕落 さす悪 魔 の力 で ある。 そ の悪魔 は,馬
鹿 な子供 の精神 に宿 って い るか らだ。 このよ うに,
ヨー ロ ッパ 中世期 には,他
方 では精神 薄 弱者 た ちは宗 教改革 者 たちによ って無 残 な 処遇を受 けていた ことも知 られ る。 ところが医学 は,
この問題 につ いて長 い間全 く沈黙を守 ってい た。 18世 紀 の終 りまで,医
学 的文献 と称す るものに,精
神薄弱 に関す る資料 は殆 ん ど見 られ ない。Weygandt,W.が ,白
痴 や痴愚 に関す る古典 の論文 を紹 介 して い る中に,古
の学者 は特別 な精神病 の状態を生 き生 きと正確 に記述 している一一 例 えばテ ンカ ンの Hippocratesゃ躁欝病 の Arctacus のよ うに一一 ところが,白
痴 は ご く最近 まで稀れ に しか のべ られていなか った,と
のべて い る。精 神 医学,神
経学,そ
れ に心理学 の領域で発表 された文献 を探す のに, HCinrich Lachrの
1459年 か ら1799年 まで の編集 に誰れ もが注意を払 っているものであ る。 しか しこの立派な収集 も,中
世 時代 の怒 りの方で Cretinismに 時 々関心が払われて いる以外 は,精
神薄 弱 につ いてわずか に間接 的引喩 が あるだけで ある。 Ⅱ 精 神 薄 弱 児 教 育 の 先 駆 者 た ち 精神薄弱 に対 す る関心 は,
フ ランス,ス
イスか らヨー ロ ッパ の文明地域や アメ リカに拡大 し,19
世紀 の前半 にパ ッと燃え上 った と見 られ るであろ う。 この時期 にな ぅて,そ
の当時 まで不 当な圧迫 を加 え られた り,軽
視 されて いた ものたちの立場 を,強
く支 持 す る代 弁者 たちが現 われ た時代 とな った ともいえ る。 しか し,
フランスにおける白痴訓練 の最初 の先駆者 が,聾
唖者 の施設 でその研究 を進 めた り,ア
メ リカにおけ る白痴 の最初 の “実験学校"が
,盲
人 の施設 に設 け られた ことな どを 考 え ると,精
神薄 弱児教育 に対 す る関心 は,盲
聾教育 に関連 して起 った もの と思 われ る。従 って,早期 の精神薄弱児教育 の後援者 たちは,」 aCOb Rodrigucs Pereireゃ 彼 の聾 唖 者教育 の業績 か ら,
多 くの感化を うけた ことは有意義な ことで ある。
精神薄弱児 に対 す る最初 の探索的研究は
,当
時 の定 評 あ る権 威者 か らも奨 励 されなか った とはい ぇ,20歳
半 ばの熱心な青年 たちによって着手 された。勿論,教
育 に対 して懐 疑的で あ った ことは事 実 として も,友
情 や良 き指導者 に支 え られて,イ
タール (Itard,」・M・G)は
ピネル (Hnel,P。)の優れた判断によ って進 めた し
,ま
たセガ ン(SCguin,E.O.)は
エスキ ロール (Esquirol,」.E。)の温情 に感激 した。ltardはァベ ェロンの野生児 (lC SauVagC d′
AveyrOn)を
,
初 め普通 の生 活 に 導入 しよ うと試 み た し,
グ ッゲ ンビュール (Guggenbuhl,、丁・ 」acOb)は
,
クレチ ン患者 (Crctin)を “治療す る
"こ
とか ら出発 した。 いずれ も失敗 に終 ったが,
しか もな お,他
の人 たちによ って,大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題 ●)
これ ら全ての運動 は
,精
神 薄弱児 とともに,教
育 的社会事業的な仕事 をは じめた人 び との,パ
ー ソナ リテ ィや個人 の努力 の報 告な しでは,十
分 に評価す ることはで きないであろ う。従 って,以
下 精神薄弱児教育 に熱情を傾 けた先駆者 たちの人 と業績 につ いて考察 したい と恩 う。(1) JaCob Rodrigues Pereire(1715-1780)
Pcretireは
,ス
ペ イ ンのEstremanduraに
あ る小 さな 町BCrlangaで
1715年 4月H日
に 生 ま れ た。父 の死後,母
は異教 に改宗 したため,そ
の責 めか ら逃れ るために子供 たちとともに,
フ ランス のBOrdcauに
住 みつ いた。Pereircは 解剖学 と生理学を学 び,積
極 的に先 天性 の聾唖者 の教育 に興 味を もつ よ うにな った。従 って,彼
を精神薄弱児教育 の先駆者 にあげ ることに問題 はあるが,彼
の 聾 唖教育へ の熱情 が精神薄 弱児教育 の研究者 に多大 の激励 と感化を及 ば した点で見逃す ことのでき ない人物である。 彼 は 1747年 1月19日,
カー ンの工立純文学 アカデ ミー (Academie Royalc de Bellcs Lettre烏)に
,聾
唖教育 の方法を提 出 し,彼
の努力 に対 して身 に余 る称讃を受 けた。 1749年 6 月H日
,彼
は 'ヾ リーの科学学士院で,BuffOnAを
初 め,並
み居 る名士 の面前で彼 の研究結果を実験 した。聾 唖者が本を読み,
ものを言 う前例 のない実験を観察 した皇帝ル イ15世は, PCreircゃ彼 の 弟子 に下問 され るほど感動 された。Pereireに 敬意の しるしとして年金800フ ランが下賜 された。 その他 PCrcireが,多
くの尊敬 と名声を高めたのは,大
きな帆船 で風 の作用を最 も効果 的 に利用 す る方法を考察 した こともあ るが,何
よ りも彼 の聾唖教育 における大 きな功績 の一つ は,簡
単 に し た記号言語 (Sign languagc)を 教 えた ことであ る。 これが Percireの 指 話 法 (dacty1010gia)で あ る。 また,計
算 す る方法を教 えるため,算
数機械 を発 明 した ことな どで あ る。彼 の忍耐
,努
力,そ
れ に勇気 は,他
の人 に対す る模範,特
に盲人 や精神薄弱者 に対す る教育的可 能性 に関連 す る手本 とな った。PerCireは,
知 的に欠陥のある人 と直接,
接触 す る ことはなか った が,彼
の聾唖者 に対 す る研究 は ItardやSCguinに
多 くの刺激を与 えた。Seguinは
,
機 会 あるご とに,PCrcircに
負 うところのあることを述べているし,
また彼の論文 に も多 く述べ られてい る。Barr,M.L.は ,無
条件 に ``PCreirc,Itardな しでは不可能であ った。"と
聯言 して い る。Pcreircは
,173o年
9月 15日パ リーで亡 くな った。彼の遺体 はモ ンマル トル(MOntmartre)の
墓地 に葬 られた。
(2) Jean Marc Gaspard ltard (1774-1838)
Itardは フ ランス南東部 の
Provcnccの
Oraisonに生 まれ た。「 アベ ェロンの 野 生 児 」教育 のための彼 の努力によ って
,精
神薄 弱児教育 の傑 出 した先駆者 の一人 として あげ ることがで きる。Itardは
,実
業的 な職業 に入 ることにな っていたが,
彼 が安定 した職業 に就 く年令 に達 した当時鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 は
,フ
ランス革命 のさ中で,ま
さに興奮 の増蝸 の中にあ った。彼 の生 まれた地方 は戦乱 の中にあ っ たため,徴
兵 を避 け るため に も彼 は,陸
軍病 暁 の補助外科医 としての資格 を得 た。彼 は 自分 の仕事 に没頭す るとともに,熱
心 に医学 の研究を続 け,間
もな く医師 としての名を揚 げた。彼 がパ リーの 聾 唖者施設 の医局員 として勤務 して いた頃,彼
の最初 の主要な任務 が入所者 の訓練であ った。従 っ て彼 の興味 は,聴
覚や言語器官 の科学的研究へ 向け られた。耳 の疾病 に関す る彼 の論文 は,1821年
に発表 され,現
代 耳科学 の基礎 を築 いた もの として,歴
史的 出来 事 と見な されて い る。 Itardが25歳 で,そ
の職 につ いて間 もな く,お
およそ11, 2歳
の少年が,Avcyronの
中央学校 の 博物学 の教授 Abbる Sicard BOnnatcrrcに よ って施設 に連れて こられた。 この少年 は ViCtOrとか 」uVCniS AvcriOnensisと 言 われて い るもので,章
時 の哲 学者 た ちの空想 を刺激 した。 この少年 のと い立 ちや生捕 りの方法な どにつ いて は種 々異説 があ る。P・ 」,Vireyの
辞 典 に報 告 されて い るとこ ろによ ると,
この裸 の子供 は人間を見て逃 げ出 し,食
物 のため に木 の根や木 の実 (acOrnド ング リ)を
探 して,Tarn県
の コー ス(Caunes)の
森 を さまよ っていた と思 われ る。彼 は一 度 は捕 え られ たが,す
ぐに逃 げ出 した。 1798年,少
年 は3人
の猟 師に再び捕え られ,コ
ーヌヘ 連 れ て こられた が,ま
た逃 げ出 し,厳
冬 の寒 さに曝 されて6ヶ月間,放
浪者のよ うな生活を した。 あ る冬 の 日,少
年 はSt,Semin市
の郊外 にある染物屋 の家 に入 って きた。 半年前 に着せ られて いた名 ごりしかな い シ ャツを着ていた。 その家 の人 は,じ
ゃが い もを与 えたが,あ
たか も栗や ドング リの 実 の よ う に,生
で食 べた。他 の どんな食べ もの も彼 は食べなか った。彼 は一語 も言語 を話 さなか ったが,言
葉 にな らな い音 を発音 した。彼 は 自然 の呼 び声 で答 え,ま
た慎 しみの観念 は全 くなか った,
とのべ て い る。この少年は
,初
め
St.Attiquc収
容所に入れられたが
,そ
の後
,博
物学者
BOnnaterrcに引き渡
され
,
ついで
Itardのもとに連れてこられたものである。
少年 については
,
種々な見解があっ
た。ある観察者たちは,こ の少年 を食わせ もの (SWindlCr)で あ るとい ってい る。 当時有名な精神科 医 PhJippc Pinelは,少
年 の検査後,
この少年 の野性 はまやか しもの (fake)であ る し,ま
た,“家畜 に劣 る不 治 の白痴"(an inCurablc idiotぅ inferior to domestic)で ぁ ると判定 した。 な お他 の 人 たちは
,Rousscauの
い う “自然 のままのすがた''(natural existcnce自 然人,
自然 的存在)の
見本 の代表 で あ るか ど うか疑間を もって いた。少年 の外観 はかな り論 争 の焦 点 とな ったが,原
野や 森 の中で野性 的な生活を した後で発見 されてい るので,そ
の当時までに報 告 されてい る野生児 たち と比較 された りした。 それ ら野生児 たちには動物 によって育て られ た ものも多か った。勿論,資
料 の信頼性 につ いては疑間 もあるが,Can Linnacus(17o7-1778)は
ぃ るいろな人間 として10種類 を あげ,そ
れ らは,い
ずれ もfCrus(野生 的),tCtrapus(四
つ足 で歩 く),mutus(も
のを言 わな い),hirsutus(毛
深 い)な
人 間であ るとい って い る。Linnacusの
い う10種 類 の人 間 とはi, Juve五1ぎ Iupinus HcssёnSiS.
大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題 儒)
il・ JuVCnls ursttnus Lithuanus.
(リ スアニアの熊少年
,1661年
)i五。 JuveniS OVinus IIibcrnius.
(アイル ラン ドの羊少年
,1672年
)iV 」uVCnis bOvinus Bambergcnis.
(バンベルグの牛少年
,年
代不詳)V・ JuVenis Hannoveranus.
(ハノーバア…の少年
,別
名を “Wild Pctcr"野
生 のピーター,1724年
)HamClmの
町で発見,1726年
にロン ドンヘ連れて こられて評判 となった。国工Gcor ge一 世は
Walseの
当時の工女 に彼を献上 した。その工女が後の COrolin女王 とな った)
vi. Pucri Pyrcnaici
(ピレネー の幼児
,1719年
)v . Puclla Transisalana
(ト ラ ンシ ィサ ラナ の幼 女
,1717年
)viii. Puclla Campanica
(カ ンパ エ アの幼女 1731年)
iX・ JOhn Of Lお gc (or JOhannes Lcodェ censis) (リ ェー ジュの ジ ョン
,年
代不詳)x, Puclla KarpFcnsis
(カル フ ェンの幼女
,1767年
)な どをあげてい る。
野生 の子 どもた ち
,
あ るいは野育 ちの子供 たちへ の興 味は,
その後 も薄 らぐことはなか った。 1920年10月 17日,印
度 のMidnaporc附
近 の密林 中の狼 の洞穴か ら保 護 されたKam21aと Amala
の話題 は,最
近評判 にな った もので あ る。 “野生人"(feralman)1こ っ ぃての大規模 な文献研 究 とし て あげ られ るは,R.M.Zinggの
“WOlf childrcn and Fcral Man,New yrok,Harper,1939''が
あ る。さて
,Avcyronの
野生 児 ViCtOrが Itardのも とへ連 れて こ られ た時,
この若 い医師は,PinCl
の診 断による不可逆性 (irrるVCrsibilitO)の予見 を認 め ることはで きなか った。 Itardは
,
この少年は社会的教育的 に無視 されたため
,精
神 的 に発 達 が停止 を うけ,孤
立 によ って 白痴 とな った もので あ り,一
種 の不使用か らの精神的退化 (atrOphiC mcntale)と な った ものと信 じていた。Itardは,F`野
蛮か ら文 明へ
,
自然生 活か ら社会生 活へ"少
年 を移す ことを試 み た。 そ こで Itardはこの少年 の教育 に,五
大 目標を設定 した。鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号
1,少
年 が最 近 までつ づ けて きた野生 の生 活 によ く似た ことを させ,
この少年 によ り適 した社会 生 活を させ ること。2.種
々強力な刺激を与 えて,少
年 の神経 の感受 性 を興奮 させ た り,観
念 の生 の印象 を与 え る こ と。3.新
しい欲求 を起 させ た り,周
囲の世 界 との関係範 囲を広 げ ることによ って,少
年 の観念 を拡 大 す る こと。4.模
倣せ ざ るをえな い必要性 をつ くって,
コ トバを使用す るよ うに仕 向けること。5
成長 に ともな う身体的欲求を満足 させ るよ うに適応 させ,そ
れ か ら教育 の 目的に 自分 の知能 を適 応 さす よ うに仕 向け ること。 Itardは五年間努力 した。 しか し,彼
は 自分 の 目標を達成 させ ることはで きなか った。 この少年 が,思
春期 の F`野性 的な情熱 の暴風雨"を
起 した時,Itardは
自分 の使命 を果 し得 ない と感 じて 断 念 す ることに した。ViCtOrは長年,管
理保護 の もとに生 きていたが,1328年
遂 に 死 亡 した。 しか し,フ
ランス科学 アカデ ミーは,Itardの
努力 を賞 讃す るばか りでな く,
その少年 が,初
め は ものを言わず,四
肢 で歩 き,地
面 に四つ ん這 い にな って水を飲 み,
自分 の行動を妨 げ るものにか みつ いた り,引
っ掻 いだ りしていたものが,著
しい変化 を した とい う事実 を賞讃 した。少年 は物 を 認知 し,ア
ル ファベ ッ トの文字を見分 けた り,多
くの単語 の意 味を理 解 した り,物
や物 の部分 にそ の名前 を合わせ た り,比
較的 す ば らしい感覚的識別 を した りす ることを学 習 した り,ま
た野生 の孤 立 した生 活 よ り文 明の社会生 活へなれ させ た。 アカデ ミーは, Itardが
教育 科学 に積極 的 に貢献 し た ことを認 めた。 すなわ ち,Itardは
重度 の精神薄弱で も,適
切な訓練 によれば,
あ る程度 まで改 善 させ ることがで きる ことを証 明 した。 アカデ ミーか ら出された声 明の一部 には,ア
カデ ミーは,彼
の授業,練
習,実
験 に,
これ以上 の 英知,明
敏,忍
耐,勇
気 を要求 す ることはで きない。 また,彼
がす ぐれ た成果をおさめ られなか っ た として も,そ
れ は不熱心 とか才能が足 りなか った ことによ るのではな くて,働
きかけた被験者 の 器 官 の不完全 な状 態 によ るもの と思 われ る。 さ らにアカデ ミーは, Itardが
な し得 た限 りでの成 功 につ いて も目を見張 って い る し,ま
た彼 の努力 の真価を評価す るためには,そ
の子 ども自身だけで 比 較 され るべ きで あ ると思 う。 その少年 が,医
師Itardの
手 に委 ね られ た時 は ど うで あ った かを 思 い出 し,現
在 その少年 は ど うであるかを見 る必要があ る。 そ して,多
くの新 しい工 夫 に富 んだ教 育 方法 によ って,
このギ ャップは埋 め られてい った。Itardの報 告書 は,
す ば らしく明敏な観察 に よ る,き
わ めて珍 らしく興味の深い現象 の,
一 連 の解説を合んでい る し,
学問 に新 しい資料を与 え,少
年 の教育 に従 事す るすべての人 々に,き
わ めて有用 な知識を与 え る授業過程 の結 びつ きを提 示 して い る。 とい う内容 の ものを発表 して いる。 86大石純悟 :精 神薄弱児教育の諮問題131
(3) Johann Jacob Guggenb
hl (1816-1863)
Guggenbuhlは ,1816年
3月16日 スイスのZurich湖
のほ とりMeilcnで
生 まれた。 医 学 生 の 時,医
師で あ り哲学者 で あ った Ignaz Paul Vitals Troxlerか ら説 切 され た Crctinism(ク レチ ン病)に興味を ひかれ た。
TrOXlerは
,ク
レチ ン病 を一種 の風土病 的な人間 の変性 と論 じ,
この病気 に罹 患 してい るものに,
何 らか の方 法 が と られ て もよい とのべ た。1836年
,20歳
のGuggcnbuhlは
, U 州 の SCCdOrfの 村 を通 った時,路
傍 の十字架 の前 で ブツブツ言 いな が ら神 に祈 って い る馬鹿 づ らを した,背
の小 さい,び
っ この ク レンチを 目のあた りに見 て,強
く心 を動か された。彼 は近 くの 小屋 までその男 に従 った。珂ヽ屋 にはび っこの母親 がいた。彼 女 は,
この子 は幼少期 に祈 りを教え られ,そ
れ以来 どんな天候 で も,毎
日同 じ時刻 に きま ってその十字架 の前 で祈 りを捧げに行 ってい る ことを話 した。彼女 は極 めて貧 しいため,彼
にそれ以上 の教育を うけさせ ることはで きなか った し,ま
た年毎 に悪化す る彼 を見つ めなが ら,空
しく坐 してい ると付 け加 えた。 この若 い医者 は,一
貫 した徹底 的な訓練 を うけ る機会 が あれ ば,
もっとよ くな るのではないか と考 えた。彼 は 白痴 の子 供 た ちに,ど
の よ うな改善 された努力を払 って も,全
く効果 が あが らな い とい う従来 の考 え方 を し な か った。彼 は,
ク レチ ン病 に関す る文献を入念 に調 べ,症
候学や病 因学 に関す る論文 を多 く発見 した。 ところが,治
癒 的な試 みの可 能性 につ いては一 言 も発見 で きな か った。Guggenbuhlは
,彼
の生 涯を クレチ ン病 の治療 と予防 に捧 げ ることを決意 した。 当時,世
界 中で 精 神欠陥児 の教育 と医学 治療 のための居住施設 (rcsidCntial arrangcment)1ま どこに もなか った。 二 三 の初歩的な試 み は,遠
く彼 の理 想 に及 ばな い もので あ った。 しか し,GuggcnbiHは
失望 しな か った。彼 はク レチ ン病 の状態,出
現,そ
の原 因につ いて,で
きる限 りの観察か ら学ぶため,ク
レ チ ン病 の影響を うけてい る地域へ幾度 も訪 れた。 さ らに彼 は,
治療経験 を 徹 底 的にす るため,Glarusの
Kleinthalに普 通 の開業医 と して定住 した。 彼 はそ こで,
適 切な環境 内での居住治療 は 必要欠 くべか らざるものであるとい う結論 に到達 した。彼 はまた,教
育分野 におけ る経験 を必要 と す ることを悟 って ,23歳 の時 ,1799年 に設立 され たHOttylに
あ る代表的な教育施設 の設立者 Philip Emanuel von Fcllcnbcrgを 訪 れた。Fcucnbcrgに
激 励 され たGuggcnbuhlは ,
患者たちか ら望 まれなが らも開業を断念 し, 1839年
施設設立 の仕事 に着手 した。“神 は私 に,
も う一つ の道を選 びた も うた。 私 は神 の声を 聞かね ばな らな い°"と
して,
多 くの人 に救 い もた らす準 備 に入 って い った。 彼 の理想 には批判 もあ った。BCrneの
新 聞は特 に辛棘 であ った し,軽
率 な幻想 と してそ の計画 を 嘲 った。 そ こでGuggecnbuhlは
,権
威 あ る支持を うるべ きで あ ると感 じ,“ Christenthum und Hu‐ manitat im Blick auf den Crctinismus"と 表題をつ けた感動的な請願 を,
ス イス 自 然 科 学 学 会 (SChWCiZCrishc Natur sttnchattlichc OcsellSC4aft)へ 提 出 し た 。 こ の 学 会 は,つ
ぎ の よ う な 審 議鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 “確 か に クレチ ン病 が固定 しな い幼少期 に
,
この哀れな病気 に治療を進 め ることは非常 によい ことである。GuggcnbuH博
士 の学識 と熱意 は,彼
が計画す る病院の院長 とな るので あれ ば,:この 事業 の成 功を保 障す るだ ろ う。 " この計画 は,刑
務所 や救貧 院 を コロニ ーに代用 させ ることを主 唱 して きたスイスの森林学者 で あ るKarl Kashottr(1777-1853)の
注意 を引 いた。彼 は施設生 活 の耕作 と今後 の コロニー化 (C。10‐nizaSon)は
,高
い山岳地域で可能 であることを明 らかに した。 谷 間 に多 い ク レチ ン病 は,高
地 ほ ど多発 していることが知 られていなか った ことを考 えて,頂
上 か ら1000フ ィー ト,海
抜4000フ ィー ト以上 あるベル ン州 内の htCrlttken市 の近 くAbcndぃrgに
40ェー カーの土 地 をGuggenbuhlに
提 供 した。 まもな く南 の斜面 には住宅が点在す るよ うにな り,月
々の奉仕 は Diakonissenすなわ ち 慈 善伝導修道女団 (Evangclical Sisters of Mcrcy)に よってな され た。そ こは,
大集会 ホール,遊
戯室,入
浴設 備 のあ る中央館 があ るし,そ
の他 の建物 は付添人や教 師たちのための訓練所 と して計 画 され た。Guggcnbuhlは
,ぁ
らゆ る有益 な手段 で患者たちを更生 させ るため全力を傾注 した。 彼 は第一 の 必 要条件 として,清
らかな山の空気,そ
れ に当時の 自然美 との治療効果を,詩
的な コ トバ で激 賞 し た,文
字通 りの新 ロマ ンチ シズ ム (neo―rOmanticism)を考 えた。 彼 は,よ
い食事 といわれ るもの は,山
羊 の ミル ク,白
パ ン,タ
マ ゴ,野
菜,米
,そ
れ に若千 の肉であ るとい うことに 注 意 を 与 え た。彼 は入浴,マ
ッサー ジ,そ
れ に身体的訓練 によ る体 の治療 に重点をおいた。 また種 々の薬物治 療,特
に カル シ ゥム,銅 ,亜
鉛な どの調 理 を試 みた。 同時 に感覚的な知覚 を発展 させ るた め,原
始 的 な興奮 を起 こさせ,そ
こか らよ り洗練 された,ま
たよ り複雑な刺激へ進歩 させ よ うとした。彼 は ``不死 の魂 は,
本質 的 に人 と して生 まれ たあ らゆ る創造物 に同 じよ うにあ るも"と
い う確信を もっ て 進めていた し,ま
た規律的な 日常生 活,記
憶 の訓練,そ
れ に話 しコ トバ の訓練な どに慣れ さす こ とによ って,患
者 の魂 を 目醒 め さそ うと した。 このよ うな仕事 は,大
きな改革 と して,あ
らゆ る所 で歓迎 された。 ク レチ ン病 の発生 しな い地域 で さえ,そ
の熱意が高 まった ことは,一
見 奇妙な感がある。 しか しこの当時 は,ク
レ チ ン 病 と白 痴,痴
愚 の類を同 じもの と見 ていた し,そ
の差別 は,
その程度,
奇形 の有無 に あ った。従 って,Abcndbergの
方法 では,あ
らゆ る精神薄弱児 たちにも適用 され るもので あ った。Guggenbuhlの
名声 は,た
ちま ち文 明諸国に拡が った。彼 は多方面 の旅行 で,
自分 の考 えを普及 させ た り,ま
た多 くのパ ンフ レッ トにAbcndbergを
公表 した りして,
物 質 的 に補 助 され た ことも 事 実 であ る。彼 は,好
意的な有名人か らの保証 を うけ ることには躊躇 しなか った し,ま
た彼 の通信 に は,
これ ら有名人へ の讃辞を惜 しまなか った。有名なオース トリアの詩人,医
師,哲
学者,そ
れ に教育改革者である Ernest Freiherr vOn FcuChtcぃlCbenの
通信文を引用 した りした。すなわ ち“つ ぎつ ぎに送 って くるあな たの簡単 な報 告 は
,
この仕事 につ いての啓蒙を必要 とす る一般大 衆 に有益 な ことであ るのみな らず,非
常 に必要 な ことで あ る。報 告 の内容 は,大
衆 の注 目を 引い大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題(31
た り支持を得 た りす るため
,心
や考 えをつか む関連 のあ る目的をはたすため正 しい ことで あ る。Abendbcrgは
,確
か に この重要な問題 に関 して,あ
らゆ る努力 と研究の中心 と して見 られね ばならな い。幸多 く
,
この仕事を続 け られん ことを'''
また
Guggenbuhlは
,Bonncの
精 神 医学 者 Christian Fricdrich Nassc(1773-1851)か らの,つ ぎの通信を多 くの読者 に紹介 してい る, ``貴殿 が事業を は じめて以来
,私
は うれ しい思 いで,
その成 りゆ きをながめて きま した。 …… 私 は,貴
殿 の情深 い施設 の 目的が立派 に成功 す るだ ろ うことを確信 しています。 これ ら病人を救 けよ うとす る思 いが誰れ にも起 らない間 に,希
望 もな く生 き続 けている多 くの不幸な人 た ちに, 決定 的な第一 歩を歩 み 出させ ることは,ま
ことに価値 のあ ることであ ります。 " か くてAbcndbergは
,各
国か らの医師,慈
菩家,
作家 た ちの参観 地 とな った。彼祭 は帰 国す る と,
す ぐさま輝か しい報告を発表 した。 ベ ス トセ ラーの小説や旅行記 の 著 者 であ る Ida Hahn―Hahn伯
爵夫人(1805-1880)に
は,精
神病的な夫 との離婚 の年 に生 まれた白痴の娘 がいた。彼女 はAbcndbcrgの
ことを聞 き,そ
の地を訪 れ,非
常 な感動 を うけ,相
当な金銭上 の寄付 (7′50oス ィ ス・ フラン)を
行 な った。1843年,
彼 女 はベル リンで一 冊のパ ンフレッ トを 出 版 した。 また,Samucl Cridley Howcは
,
ァメ リカに最初 の 白痴 の地設を Massachuscttsに 設立 しよ うと して,
Abendbergを
祝察 した。彼 はAbcndbcrgに
圧 倒 されてつ ぎのよ うにのべてい る。 ('The holy mount it shOuld be callcdl''(それ は聖な る山 と呼ぶべ きだ !)
と。事実
,訪
間者 の多 くは,た
だGuggenbunを
称 讃す るだけでな く,
それぞれ の国の政府や市 民 に,同
様 な施設 の建設を力説 した。Sardiniaの工 で あ る
SavOy家
の Charics Albcrtは,本
国 におけ るク レチ ン病 の研究 のため委員を任命 した。1848年 に発表 された報告 によると
,Abcndbergは
モデル として推せん され, Guggc‐nbuhl lま “不幸 な ク レチ ン病 患者 の最 も尊敬 す る憐憫 の情 に感動 させ られた
"人
としてのべ られてい る。ゼ ノア
(Geneva)の
精神病医であ るLouis_Andcr Gossc(1778_1851)は
,同
年 に,同
様 にGuggenbinを
,“われわれ は,彼
の純粋な考 えや真実 の主張に確信を もった。"と 認 めてい る。GuggenbuHは
,特
に英 国において相呼応す るかの如 き反響を知 った。Abendbcrgは ,1842年
9月
4日,William Twiningの
訪 間を うけた。TWiningは
,帰
国 して発表 した論 文 の 中で,``人間 の尽 力 によって
,
心 は,明
らか に感覚 な きものたちを 目醒 め しめる し,ま
た教育 も,教
え る望 みな きもの と考 え られた り,仲
間た ち と交 わ ることがで きない と考え られていた ものた ち に拡大 され るだ ろ う。 これか ら一世紀 の間 に,全
ヨーロ ッバか らクレチ ン病 を根絶す ることにな った と記録 され るな ら,ス
イスの歴史上,輝
か しい光栄 あるペー ジとな るであろ う。" と賞讃を お くってい る。 上述 の知名人 の讃辞か らもうかがえ るよ うに,Guggenbuhlは
,
この時代 におけ る国際的な有名鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号
人 とな って いた。彼 の国際的地位 は
,SWiSSの
自然科学会,Zurichの
外科医学会, ViCnnaの
王立 医 師会,Turinの
医学会, St,Petersburgの
ロシヤ医学会, BOnneの
ライ ン自然科学 と医学会,Erlangcnの
医学会,Badcnの
国立医学会, Marscillcsの 国立 医学会, Strassburgの医学会,
な どの名誉会員や客員 とな ってい ることによって も うかがえ る。 したが って,Abondbcgの
イメー ジ を 型 ど り,ま
たAbendbergで
訓練 され た人 た ちを職員 と した施設 が,
ドイツ,
オ ース トリア,イ
ギ リス,ネ
ザ ー ラン ド,ス
カ ンデ ィナ ビア諸国,ア
メ リカ,そ
の他 の国で設立 され た。Guggenbuhl
は,諸
処 へ講演を した り,相
談を うけ るために出か けて,尊
敬 と崇拝 の祝辞 を受 け,
これ まで顧 み られなか った一部 の人た ちに,新
しい生 活の福音 を もた らした人 として知 られ るよ うにな った。 しか し,Guggcnbuhlに
対 して は,最
初 か ら批判 の声 もあ ったが,長
い間の各方面か らの讃辞 に よ って溺れ させ られ ていた。Auzouy,M。 は,当
時 の ことにつ いてつ ぎの よ うにのべて い る。 “幾人 か の非 難 す る人 があ って も,
これ らの人 たちは,輝
か しい彼 の栄光 の前 には,
とるに足 りな い ものばか りで あ った。"(``Stl Cut quclqucs d′ctracteurs, ccux― ci nc Furent quc dc lё gёrcs touchcs dans lc solcil, brilhant alors tout son 6clat")
国王
,有
名 な作家,医
者,宗
教改革者,そ
れ に知名 の士 は競 って彼 の栄誉をたたえた。 しか し, あ る人 た ちは,Guggenbuhと
が ぁま りにも多 くの ことを約束 し過 ぎると感 じた。彼 はほ とん ど,
自 分 の意志 を神の意志 と同一視 し,誇
張 した感動的態度 の興奮 があ った。従 って,彼
が医学研究誌 に 発 表 した論 文 に,“ス イスは,祝
福 され た理 想実現 において,
他 の国 よ り先 きに異彩 を放つ よ う神 の国によって選 ばれた。 ''と い うよ うな ことを導入 してい るし,ま
た,神
の慈悲深 い奇蹟 の一つ と してAbcndbcrgが
与 え られ,
自身奇蹟 を行 な う選 ばれた人 と してのべている。 結 局,白
痴 の子供 た ちは彼 ののべてい るよ うな方 法 で は治癒 す ることはなか った。人 び との不 満 は,見
る間 にCuggenbuhIに
対 す る憎悪 に転化 した。 彼 は擁護者 たちがますます少 くな って い く のを知 った。 1853年 の初 め彼 は,自
分 の星 が天 空 に しっか りと座 位 を 占め ることので きなか った こ とを知 りは じめた。 彼 の決定 的な挫折感 とな った最大 の力 は,
か って英 国の大 臣だ ったGordon
が,首
府BCrncに
きた ときであ る。Abcndbcrgに
は, 2, 3人
の英 国の患 者 が収容 され て いた。Gordcnが
彼等を訪ねたのは1858年 4月13日 の ことである。COrdonは
,無
視 され た よ うな最 悪 の状 態 にあ る子供 たちや,胸
の悪 くな るよ うな悪 い設 備 の全施設 を見 た。彼 が一人 の子供 に寝室 を見 た い とい った時,そ
の子供 は ``部屋 に入 るカギを置 き忘れた"と
答 えた。Guggenbuhlは
そ の時,前
年 (1357年)の
■月か ら長期 の旅行 に出ていたので留守であ った。GordOnは
,ベ ル ン州 の当局 に 自 分 の印象 を報 告 した。管理不行届の噂 は,
しば ら くの間に広 まっていった。以前 か らの崇拝 者 の多 くは,彼の保証 を撤 回 した。GordOnの
申 し立 て には,特
に不愉快 な 出来事があ った。一人 の患者 が 崖 か ら落 ちたが,患
者 の失踪 は農 夫が暫 くた ってか ら,そ
の死体 を発見す るまで気づかず にいた こ と。 ま た一人 の子供 が死亡 した とき,棺
を作 るために呼び寄せ られ た大工が,腐
敗 した状 態 の死体大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題131
を見 た と報 告 した ことな どであ った。従 って
GordOnが
慣 りを表 明 した時,州
当局 は,直
ちにVOgt
とVCrdatの 2人
の医師 に公的な調査 (Apri1 20,1858)を 命 じた ことは 当然であ る。rDcs Abcn― dberg wic cr ist''のパ ンフレッ トに,
これ らの公的 に,作
成 され た真相 がのべ られてい る。1.Guggcnbuhlは
,
自国や他国で,彼
の施設 を ク レチ ン療養施設 (Kretincn―Hcilanstalt)と 呼 んで,多
くの人 を欺 いて ぃた。 ク レチ ン患者 は収容者 中,精
々 きであ った。彼 は クレチ ン患者 を癒せ るもの と してい るが,そ
れ は密か に普通児を入所 させ てい るか らだ,
とまでパ ンフレッ トは非難 してい る。2,普
通児たちは,Abcndbcrgに
収 容 されて,公
立学校 に登校 させ なか った。3.た
だ一人 の クレチ ン患者 も,Abendbcrgで
は治療 した ことがなか った。4.Guggcnbuhlは ,は
じめ幼児 の クレチ ン患者を収容す るよ うにのべていたが,23歳
まで の人 を収容 していた し,ま
た5歳
以下 の幼児 は一人 もいなか った。5,医
学 的な監 督が行 なわれていなか った。所長 は毎年5ヶ
月 か ら6ヶ月 間留守であ った し,ま
た代理者を置 いていなか った。6.最
初Guggcnbuhlは
,十
分 訓練 された指導員を採用 した し,
彼等 の中には,
他 の新 しい施 設 に移 って立派 に仕事 につ いてい るが, Abendbergは
,
数年 間一人 の教 師 もいないままであ った。調査 の時 には,所
内に無 知 な農婦が2人
しか いなか った。7.暖
房設 備,栄
養,水
の補給,寄
宿舎 内の換気,そ
れ に衣服 は不適 当であ った。3.所
長 は,施
設 に寄付 された書物 もな く,誰
れか ら受 けたかの明細 な説 明 もで きなか った。 9・ 患者 の治療 進行状況 に関す る記録 は保管 されていなか った。 このパ ンフレッ トは,Guggcnbuhlが
純粋な利他的愛情 の計画 か ら始 めた ものであるこを と認 め てい るが,ク
レチ ン病 と,神
聖な原 因による誤 った殉教者気取 り,治
療結果 の潤色,そ
れ に宗 教的 情操 の利 已的利用 とを結 びつ けよ うとす る虚栄心 によって,間
もな く不純 な ものにな った ことを遺 憾 と して い る。 調査 の結果,ス
イス 自然科学学会 は,
その後援 と支持を撒回 した。Abcndbcrgは
その後,
ヨー ロ ッパや アメ リカの各地 に施設 が設立 され始めた頃に,一
時 閉鎖 され た。Guggenbulは MOntreauに
引 き こもって,未
婚 のままただ一人 暮 らした。 その末路 は不遇であ った。彼 の末期 は,ウ
ィー ンの医学研究誌 (1860)ゃ ベル リンの医学研究誌(1862)に
編か い論 文 を発表 したにとどま った。1863年 2月 2日GuggenbuHは
年 令47歳 を もって示 寂 した。Abendbcrg
は,1867年
に売 られ,避
暑地 のホテル に姿をかえた。その後,19世
紀 におけ るEncyclopcdiaには, その地 に酪農場 の設立 された ことを記載 してい る。Guggcnbunの
Abendbcrg経
営 は,失
敗 に終 った ことは事実で あ るが,彼
の著作を熟読す ると, 疑 い もな くク レチ ンの治療 の可能性 に,真
心 こめた信念 を書 きつづ ってい る。 しか し彼 の信念 は保 証 されなか った。彼 の旅行 は,必
要 な管理的責 任感をそ らせ ることにな ったので あろ う。彼 の不在鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 中は継 父 に委ね られて いたが
,長
期 にわ た る不在 の間 に,そ
の地位 を失墜す ることにな った と思わ れ る。 しか し,Guggcnbumは
,
精神薄弱児 のための施設保護 の考 え と実践 の先駆者 として認 めねばな らない。今 日存在す る数百 の施設 はAbcndbcrgか
ら派生 した もので ある。 以上 の点か らGuggcnbuhlに
対 す る態度 は,
二つ の段階を経 て き て い る。 その第1段
階 は, 1840年 か ら1850年 の中頃までで,そ
の時代 の優れた医学者 やその他 の科学 者 たちによって与え られ た崇拝 に近 い賞讃 に値 す る人物 であ った時期,第
2段
階 は,約
20年 間続 いた ``欺嚇 でなか つた''い わ ゆるクレチ ン療養所 (Krctincn‐Hcitanstalt)と,詐
欺 師,ヤ
ブ医者,山
師,横
領者,偏
屈者 な ど と創設者 の人格を傷つ け るよ うな記事で満 たされた時期。第3段
階 は,憎
悪 が冷め,歴
史上 の彼 の 地位が,最
初 の偶像視 でな く,ま
た衰 え ることのない非難でな く,き
び し く評価 され る ことのな く な った時期であ る。 このよ うな態度 は,つ
ぎの二つ の引用 によ って最 もよ く例証 され るで あろ う。 すなわ ち,HCinrich Mathias Scngelmann師
(1821-1899)は ,Guggenbuhlの
事 業 の 簡単 な要 約 の後 で, “その人間 につ いて判 断を下 すべ きでな い。弦 の糸がその強 さ以上 に張 られた。 多 くの ことが 約束 され過 ぎた。・……彼 の穏健な判断を弱 くしたのは,追
従 のお世 辞 であった。 これ に加え る に,彼
がAbcndbergか
らのたび重な る不在 の間 に悪 弊が生 じていた ことで あ る。後 にな って, ひとたび疑惑が生 じると,初
め寛大な態度で黙許 されていた彼 の宗 教的意 図 も,
これ らの悪弊 の 源泉 として見 られ るよ うにな り,彼
は不 当に偽善者 と して印象づ け られた''。 また,1904年 ,Martin,W.Bttrrは
,先
導者 と してのGuggcnbuHの
意義 に,
尊敬 を回復 す るため最善をつ くした。Bttrrは, “彼 の方法を吟味 して見 ると,
概 して近代経験 の要求 に合 って い る し,ま
た近代経験 によって 是認 され てい るので,わ
れわれ は ク レチ ン病 その ものの献 身 的な研 究 において,
この人 によって 得 られた深 い識見 は認 めな いわ けにはいか ない。 ただその識見 は詳細 で あ るばか りでな く,広
範 囲な ものでな ければな らな い。彼 は比較 的狭 い範囲で苦心努 力 した し,ま
た今 日の大規 模な施設 で あるコロニー計画を予想 した ことは,賞
讃 されねばな らな い。歴 史 は,Guggenbuhlが
一っ の 仕事 に彼 の生涯 の最良 の歳月を捧 げた ことで,先
駆 者 たちの中に彼 の名前 を位置づ けるための仕 事 を,遅
まきなが ら果 たすだ けで あ る。"(4)
コdo■ard onesi】nus Seguin (1812-1880)
Scguinは
,1812年
二月20日 に フ ランスのClamcyで
生 まれた。彼 は Auxcrrcの高等 中学校 とパ リーの St・Louis高
等学 校 を卒業 し,つ
いで Itardのもとで医学 や外科 医術を研 究 した。Itardは彼 に
,白
痴 の研 究 と治療 に献 身す ることを勧 めた。彼 は Itardに十分 な恩義を感 じたが,個
人 的な 人間 関係 を越 えて研究 を進 めた。 当時 は,た
しか に彼 を勇気づ けた良 き指 導者や 白痴教育 を支 え る大石純悟 :精神薄弱児教育の諸問題 俗)
原理 の必要性 を感 じた。精神病 医の指導 か らそれ を期待 す る ことはで きなか った。彼 が指導 を求 め た偉 大 な る精神病 医 JCan Etiennc Esquirolは,“ 最短 期 間で も
,
不幸な 白痴 に理性や知性 が授 けられ る方法 がないため
,教
育 的努力 は無駄 で あ ると"宣
言 された。このよ うな悲観論 にも意気 を阻喪 させ なか った
SCguinは
,25歳
の1887年 に,一
人 の 白痴少年 の 教育 に とりかか った。彼 はその 白痴少年 が“ 自分 の感覚器官を うま く使用す ることがで き,記
憶す る ことや話 す こと,比
較 す ること,算
え る ことな どがで きるよ うにな る"ま
で の18ヶ月間,着
実 にたゆまず努力 した。Esquirolは
,
この冒険的 な試み の成 功を証言す る第一人者 で あ った。 1339年3月
18日,彼
は (Esquirol)そ の白痴少年 を “白痴 のよ うに思 われ る子供"(un enttnt…semblablc a un idiOt)と のべ ることによ って,微
妙 に 自己の立場 を弁護 しなが ら,SCguinの
功績 を認 めた声 明を 出 した。 も しわれわれが,白
痴 に何 も指導 す る ことがで きない と決 めた場合で も,白
痴 の状態 が改善 されたな らば,そ
れ は “白痴 らしい もの"(a scCming idiOt)で ぁ った と い う こ とによ っ て,顔
を立 て る ことがで きる。 そ うでなけれ ば Esquirolは,“望 ま しい教育体系 を立案 す ることの で きる"人
と して,Seguinを
是認す る声 明文 を結 んだで あろ う。Scguinは
,廃
疾者救護所 (L′ Hospicc dcs incurablcs)ゃ Bi∝treの 収容所 で,多
くの子供 た ち を治療 し始 めた。 1842年10月 2日,パ
リーの病院管理協議会 の開会で, SCguinの
努 力 の結果 を報 告 す るよ うに命 じた委員会で,(1)SCguinが
廃疾者救護所で,非
常 に効果的 に適 用 され てい る教育方法 を 続 け る ことを求 め るべ きで あ ること(2)救
護所長や精神病医は,SCguinに
よ って使用 され る方法の 進 展や結果 に従 うべ きこと な どを決定 した。 1843年12月H日
,Serrcs,F10urens,Parisctな どか らな る委員会 は,Seguinの
業 蹟 の詳 細 な検 査 報 告 をつ ぎのよ うにのべてい る。``M.,Scguinは
,新
しい慈善 の道を開 いた。彼 は,後
に続 く価値 ある範例 を,衛
生学,医
学, 倫理 学 に与 えた。従 って,わ
れわれ は この協議会 に提 出 された報 告 によ って, M.,SCguinに
感 謝状を書 いた り,彼
の慈善的な事業を激励す ることは光栄 である。" 1844年,パ
リー科学 アカデ ミィーの委員会 は,10人
の 白痴児 を試みよ うとす るSeguinの
要 望を 認 め,彼
はあき らか に,白
痴教育 の問題 を解決 した と言 明 した。SCguinは
,彼
の後期 の著作で, 自痴教育 の基礎 がため とす るため,す
べ ての施設 の一対 の上台 として, 1842▲ 年 と1343▲▲ 年 の研 究 報告を参照 させ た。 1846年,Seguinは
規範教本を発表 した。 それはアカデ ミーか ら栄誉を授 け ら れ た し,ま
た 彼 が,1人 間性 に報 いた奉仕精神 に感謝 して,法
王Pius IXか
ら著者 に親書が もた らされた。 この著▲ Th`Orie et pratique de l′ёducation de idiots.「 Fwo parts. Paris, Bailliere. 1841 and 1842.
鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 書 で
,Seguinは
,
白痴教育 に生理学的教育 と道徳教育 とを結 びつ けた彼 の教育方法を,詳
細 に説 明 した。彼 の教育方法 は, ``教育 は,人
間や人類 におけ る機能 と して,道
徳 的,知
的,
それ に身体的能力を調 和的,
効果 的 に発展 させ る手段 の総体 で あ る。生理学 的で あ るため には,教
育 はまず,生
命 その もので あ る 動 き と静止 の偉大 な る自然 の法則 に従 わ ね ばな らない。全 ての訓練 に この法則 を 当て はめ る と, 各機能 は順 々に活動 と休息 につかせ られ る。 す なわ ち,一
方 の機能 の活動 は他 の機能 の静上 を好 都合 にす る。一 方 の機能 の改善 はすべて他 の機 能 の改善 に反応 す る。弛緩 の方 法 ばか りで な く, 理解 力の方法 もまた対照的である。一般 的な訓練 には,と
んな瞬間で も活用 されやすい筋 肉的, 模倣 的,神
経 的,反
射的,機
能 を合んで い る。" と論 じてい る。Seguinの
名声 は遠 く広 く広が った し,各
国 の精神病 医たちはSCguinに
よ ってな され た 仕 事 を 参観 す るためパ リーヘ群 れ集 ま った。 しか し,丁
度 その時,1848年
の革命 とな り,Seguinは
新 制 度 に ついて疑惑を もっていたため,荷
物 を ま とめて アメ リカヘ移住 した。彼 は普 通 の 開 業 医 と しClevclandに定住 し
,つ
いでOhiO州
のPOrtmouthへ
移 った。1860年,
短期間で あ ったが,ペ
ン て シルバ エアの白痴養護学校長 とな り,
故 国 訪 問後 には,New York州
のMOunt Vernonに
移 った。 1861年 には,New York市
の大学 の医学部 が彼 に医学博士 の学位を授与 した時,彼
はそ の都 市 に居住す る ことに決意 した。そ こで彼 の生涯 の後 の20年 が過 ごされた。彼 が アメ リカに きて以来