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戦後の教育紛争と教育権

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Academic year: 2021

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(1)

社会科教育教室 細

l―

l

教 育 紛 争 の 背 景 と して の 教 育 と政 治

戦後

,憲

法第26条の「教育 を受 ける権利」(right tO rece e education)の 保障 とあいまって,

教育 に関する権利 の主張 としての教育裁判・ 教育紛争が教育行政当局 との対立 において全国各地 に 波及 したが

,こ

れ は諸外国にその例 を見ない我が国特殊の現象 と考 えられ る。 この教育紛争の背景 をなす「教育 と政治」の基本的関係 について まず若干ふれてお くことにす る。 元来公教育 における教育 は教育者が被教育者 に働 きかける内面的文化的創造的活動であ り

,そ

の 教育的活動 は組織的計画的に行われる意図的活動であるが

,そ

の対象 としての被教育者 は

,単

に個 人 として存在す るのみでな く

,同

時 に社会的国家的存在である。 したがつて

,教

育 は

,そ

の ような 人々に働 きかける作用ではあるけれ ども,同時 にそれは国家社会 に対 して も

,無

関係ではあ りえず, 結果的には

,必

ず何 らかのかたちでそれ らに影響 をおよぼす ことにな り

,教

育が個人の問題である と同時 に社会的国家的関心事 となる。か くして教育 は一方文化的内面的創造の活動 として自主性 を もっているにかかわ らず

,他

方社会的国家的問題 として

,国

家的監督統制 に月艮せ しめ られ ることに なる。 この国家的統制 と教育 の自主性 との関係 は

,法

的・ 政治的・ 教育行政的困難 な問題 を提起せ しめ両者の限界 は

,国

家の政治的性格如何 によって も左右せ られるところである。 この点 について戦前のわが国においては全体主義の思想や国家主義的統制の下 に個人の権利 自由 はとか く抑圧 され勝 ちであったのであ り

,教

育 において も国家の強い監督統制の下 に国家主義的・ 全体主義的教育が展開せ られていた。すなわち

,戦

前わが国の教育 は国の近代化 と富国強兵政策の 一環 としての国家的要請か ら

,国

家の手厚 い保護 と監督統制の下 に発達 して来た もので

,我

が国に おける近代教育が

,政

府の手で推進せ られた ことは注 目せ られなければな らない。 これは教育の普 及 という面や

,特

定のイデオロギー国家意識の養成 とい う面 において は

,効

果 は大であったのであ るが

,そ

れ と同時 に

,教

育 に対する政府の権力 とい うものを非常 に強大 な らしめる結果 となった。 この戦前教育の国家統制 は

,教

育勅語 を支柱 とし

,天

皇大権の一つである独立命令 によって

,諸

学 校令が立案・運用 され

,教

育 は帝国議会の意志 さえ越 えて

,教

育 にお ける勅令主義 として

,超

然主 義の名の下 に強力 に展開せ られたのである(D。か くして教科書 は国定制度の もとで,画 一的に統制 さ

,授

業内容 に関 しては,「小学校令施行規則」 により

,学

校長 は,「教則

J(省

)や

「教授要 目」 (訓令

)に

のっ とって「教授細 目

Jを

定むべ きであるとされ

,教

員 はこれ らに もとづいて「教案」 をたて

,校

長の検閲 をうけねばな らなかった。 こうして公教育 は国家主義的統制の下 に教育勅語 を 中心 とする国民的一体性 の確保 の場 として画一的教育が押 しつけられ

,教

師の創造的教育の自由は なかった。 ここでは

,教

育 は

,

もっぱら

,国

家の側か ら

,公

法的行政法的観点か らとらえられ

,市

(2)

民の側か ら教育 を問題 にす るという余地 はほとん どなかったといってよい乳 すなわち

,戦

,明

治 憲法下の教育が

,兵

役・納税 とな らんで

,国

民の三大義務の一つ とされていた ことか らもわかるよ うに

,教

育 は国民の権利 でな く「臣民の義務」であった。教育 は

,子

どもが

,人

間 らしい幸福 な生 活ができるように能力 をのば して もらうことを要求で きる権利 としてあったのではな く

,巨

民 とし て

,そ

れを受 けしたがわなけれ ばな らない義務であったのである。 しか も

,そ

の受 け従わねばな ら ない教育義務 の内容 には

,極

端 なナショナ リズムを背景 とした ものがあ り

,

とくに昭和年代 に入 っ て

,満

州事変か ら支那事変へ と戦争の拡大 は

,政

府 の文教政策 を

,ま

す ます

,国

家主義・軍国主義 の方向に もりたて

,昭

和10年には

,文

部省内に教育刷新評議会が設 けられ,「国体 の本義」に立脚 し,「皇国の道」にのっとった皇国教学思想の確立 をみることになったのである。か くして戦前の教 育が

,そ

の本来の意義 を失 い

,政

府の思想統制の一翼 をにない

,国

策の具 と化 して しまった一面 を 有 していた ことは

,当

時のわが国の状況か らは

,あ

る程度

,止

むを得なかった として も

,ま

ことに 遺憾 に思 うものである。 戦後の教育が前者の轍 を踏 まない為 には

,こ

の こと (政治 と教育の関係

)は

充分警戒注意 されな けれ ばな らないが

,教

育 は元来政治 と密接な関係 を有するが故 に

,政

治 との限界・調節 は複雑微妙 な面 を有するのである。 すなわち教育 と政治 (POlitics,POlitik)は人 によ りその定義 に相違があるに して も一般的には両 者 ともにある一定の理想 を前提 とする活動であって,理念 と現実,存在 と当為 との対立のなかにあっ て現実 に対する不満 とその改善 をはかろうとするものにほかならない。 したがって

,両

者 はその理 念において同一性 を有す る。ただ人間改造 としての教育 は主 として現在の社会の構成者でな く

,未

来の社会の成員たるべ き個々人 を対象 とするのに対 して

,社

会改造 としての政治においては

,主

と して

,現

在の社会の構成要素 としての成人一般 を対象 としている。 このように両者はその対象にお いて相違点が存在するが両者 はともに理念的な面において共通性 を有するのである0。 さらに政治 はそれ 自身の力 によって

,社

会改革 とい う目的 を達成 しようとして も

,な

かなか困難であ り

,現

実 の社会の中にあってあるべ き理想社会 を実現 しようとすれば

,社

会の構成員 に対 して

,実

現 しよう とす る理想的な社会 を理解 させる必要が生ずるであろうし

,特

に将来の社会の中核的構成員 となる 子 どもの啓蒙・ 教育が必要である。 またか りに理想的な社会が実現 した として も

,そ

の理想的社会 の担手 としての新 しい人々 を必要 とする。 したがって

,そ

こに教育の協力 を要請せ ざるをえな くな るのであ り

,こ

のことは

,一

面 において社会改革の機能 を有するといわれている教育の場合におい て も同様 である0といわれ る。ここに政治 と教育の間に密接不可分の関係がみいだされるのである。 この面か ら「教育立国

Jと

もいわれ教育が「国家百年の大計」 と考えられるのであ り

,教

育基本法 もその前文 において「民主的・文化的国家を建設 し世界の平和 と人類の福祉 に貢献する」憲法 (政 治

)の

理想の実現 は「根本 において教育 の力にまつ」 ことを指摘 してお り

,教

育 と政治の深い関連 が うかがわれるのである。 しか し一方教育 は人間 に対する価値的な創造 を目的 とするもので

,そ

れは人間の内面的形成 を中 心 とす る全人的教育であって

,直

接的には社会生活 に重点 をお く政治 とは異 なっているし

,さ

らに 教育ではその対象の自発性が強 く要求 されるのに対 して政治では必ず しもそうではな く

,

したがっ て

,教

育がた とえ国家の機能 として行われる場合 において も

,他

の行政の遂行 と大 いに異 なるもの があ り

,教

育の内面性 。人格性・専門性・創造性等か ら

,政

治的官僚的統制や指揮命令 に親 しまず, 非権力的性格 を基本的に有するのである。 か くの如 く教育 と政治 は一面 において次元 を異にしつつ

,他

面では共通の関係 があるのである。

(3)

この共通面か らは

,教

育 は個人 に向けられた政治であ り

,政

治 は協同体 に向けられた教育 であると 言 い得 るいのであ り

,そ

の共通の理念 を実現する為 に政治 と教育 の協力が要求 され ることも事実で ある。特 に教育 の外的事項 については政治の関与 と協力の必要なことは

,教

育の公的社会的国家的 性格 か ら当然である。問題 は教育 の内的事項 について

,教

育 と政治の異質性 か ら

,教

育 内容への政 治的行政的介入 。関与・ 協力の可否及びその限界・ 調節 を如何 に考 えるか と言 うことである。 この点に関 しては

,戦

,明

治憲法下の教育法制 においてはすでに述べた如 く

,教

育 は天皇大権 に直属する権力的行政作用の一環 として教育 に対 する国家的政治的介入は憲法学者 。行政法学者の 間で もほ とん ど問題 とされ ることがなかった。勿論政治 と教育 の理念的同一面 を強化 し

,両

者 を理 想的状態で とらえるな らば

,政

治 と教育 は相共 にたず さえて

,そ

の理想的理念の実現の為 に協力す ることにな り国家 目的に反する教育 は否定 され ることにな り

,国

家 は自らの手 によ り教育 を行 い教 育 を独 占することになる。戦前の我が国の教育や現在の社会主義国家の教育 に見 られ る関係 である が

,

これは政治の理念が全 く理想的状態で把握せ られることを前提 とするにして も

,教

育 と政治が その次元を異にする面か らは

,か

かる教育 と政治の一体性 は

,認

容 し得ない ところである。特 に現 在の我が国が

,個

人主義的国家観の立場 に立 つ民主制国家である観点か らは

,国

家 は教育 に対 して は

,そ

の教育的価値の創造 を教育専門家に任せ

,自

らは

,主

として助長

,奨

励するという間接管理 の立場 を取 ることになる。 この教育 に対する不干渉主義

,教

育 と政治の分離 は戦後の教育改革 を通 じて打 ち立て られた原則 であ り

,日

本国憲法 との関連 において制定 された教育基本法 は教育 と教育行政 とを区別 し

,そ

の立 案 に当った田中耕太郎氏 は「教育の自主性」「教育権の独立

Jが

新教育法制の原理 となったむねを明 らかに した0。 しか し

,戦

後 日本の教育 は

,1950年

頃 を境 に,日 本の占領 に当った初期 のアメ リカの 総司令部 を中心 として行なわれた戦後教育改革 に対するいわゆる「再改革

Jの

立法期が早 くももた らされ る。すなわち

,サ

ンフランシスコ条約および旧安保条約が締結 された1951年には

,マ

ッカー サーにかわ った リッジウェイ司令官の指令 による政令改正諮f尋委員会が「教育制度 に関す る答 申」 を発表

,教

科書の国定化

,教

育課程のコース制化

,教

育委員去 ⊃任命制化 と文部大臣の権 限強化 な どの教育統制の方向を明 らかにした。 また同年 には

,天

野貞祐文相が「国民実践要領

Jを

発表

,修

身科の復活 を説 き

,1952年

になると

,朝

鮮戦争 による特需景気か ら資本の再編成がすすめ られ

,日

経連 あた りか らの教育 に対する発言がめだつようにな り

,10月

16日 には,日経運か ら政府 へ「新教 育制度の再検討 に関す る要望」が出された。 また

,こ

の年には

,産

業教育振興法がつ くられ

,そ

う した状況のなかで

,い

わゆるポポロ事件

,早

大事件 などが

,そ

の年 に起 こっている。1952∼

53年

に は文部省設置法および学校教育法の改正 によって監督庁たる文部省の権限強化がはか られたのにつ づ き

,1954年

には,「教育の政治的中立性」の確保 を名 として教員の政治活動 と「偏向教育」とを取 り締 まる「教育二法」(教育公務員特例法一部改正・義務教育諸学校 における教育 の政治的中立確保 に関する臨時措置法

)が

制定 され

,さ

らに1956年には,「地方教育行政の組織及 び運営 に関す る法 律」(地教行法)が強行可決 され

,旧

教育委員会法が保障 していた教育委員の公選制 を廃止 す る とと もに

,任

命制教委 による学校管理・人事管理体制の強化が意図 され るところとなった。 1957年か らは教育管理 にかかわ る教育行政の強化期 に入 り,しだいに教育統制的様相 を濃 くして い き,不幸 にも教育行政側 と教員組合運動 との間に全般的恒常的な紛争状況が生 じて くる。1957∼ 58 年各地の教委規則が学校管理規則 を制定 し

,つ

いで勤務評定 を定めたのに対 して

,反

対運動が全国 化 した。文部省の教育課程行政 も

,1958年

に道徳教育 をふ くむ学習指導要領の告示 を出 し

,翌

年か らは伝達講習会たる研修が各地で教員組合の阻止闘争 と出会 うこととなった。 さらに1961年か ら

(4)

,学

習指導要領 に準拠 した全国一せい学カテス トが計画実施 され

,阻

止闘争 もまた全国的に波及 し且つ厳 しさを加 えた。 これ らの継起 し恒常化する教育紛争状況は諸外国にその例 を見ない我が国特殊の現象であるが, この ことが我が国 にお ける教育 と法・教育 をめ ぐる権利関係 について

,あ

らためて注 目をあびるこ とにな り

,1962年

以降講習会・勤評・学カテス トの阻止闘争 に端 を発する教育裁判が大量 にその本 格的姿 を現わ し

,教

育問題 が法廷の場で常時争われ るとい う異常な事態 を迎 え

,教

育 と法

,教

育 と 政治 (国家

),教

育 に関す る権利義務の問題 は教育法学・教育行政法学の研究の必要性 をます ます明 確にすることとなった。 これ はまた

,頻

発 し

,恒

常化する教育紛争 という日本の特殊的状況 に刺激 せ られて

,我

が国における教育 をめ ぐる権利関係の研究が

,幸

か不幸か

,世

界で も最 も盛 んに研究 せ られることになるのである。 か くして「教育 の自由」「教育 をうける権利」「教育権 の独立」 をはじめとする教育権法理論が, じょじょに形成せ られ るのである0が,しか し,教 育法学が一般行政法学か ら一特殊法領域 として分 化独立 をはじめたのは

,1960年

末の ことであ り

,い

まだその 日も浅 く

,為

に教育法学の理論的体系 化 とその深化 は

,い

まだ不充分 と考 えられ る。 しか もそ こでの研究のほとん どが教育権 をめ ぐる考 え方に集中 し

,学

カテス ト・ 勤評・ 教科書裁判等の教育裁判 。その他教育行政 にかかわる教育紛争 を通 じて「国家の教育権」に対立す る「国民の教育権」「教師の教育権」の問題が複雑多様 な論議 を よんでいる。教育権法理が

,宗

像誠也氏の言われる如 く

0,国

の教育行政権 に対する抵抗の理論 とし て出発 したことはその歴史的社会的政治的背景を考 えるとき

,

もっともと考 えられる面 はあるが, 教育 をめ ぐる権利関係 をかか る立場か らのみ考察することは問題である。 教育が個人的に同時 にまた社会的国家的に重大な機能 を有 す るだけに教育 をめ ぐる権利関係の考 察 は教育裁判だけでな く

,教

育立法・ 教育行政・教育政策・教育実践の上 で重要課題 と言い得 るで あろう。 これ らの問題 については

,筆

者 は

,戦

,憲

法的原理である国民主権主義 による新 しい国家観 を 背景にまず

,教

育 の場 における子供の「個人人格の尊重」と

,人

権 としての「子供の学習権 の保障」 を中心 として考察 さるべ きと考 える。 この個人人格の尊厳 は近代の民主主義思想の根底 をなす もの であ り

,正

しい民主教育の発達のためにも

,何

よ りも尊重 され るべ きことであるが

,新

憲法の「個 人 として尊重 され る」 というのは

,他

人がいわゆる全体の分肢 としての地位 においてはじめてその 価値が認 め られ るという超個人主義的観念(uberindividualistische ldeologie)を 排 して

,個

人 それ 自身に価値 を認 め

,個

人価値 を一切の国家社会生活の基本 とす る趣 旨で

,い

わゆる個人主義的国家 観 (indi dualistische Staatsauffassung)の 表明である点0は

,現

代 における教育 と国家の関係 を 考察する上で重要 な視点である。 さらに

,子

どもの「個人人格の尊重

Jと

な らぶ

,子

ども

Q「

学習権の確立」 については

,憲

法 は 第26条で「すべて国民 は

,法

律の定めるところによ り

,そ

の能力 に応 じて

,ひ

としく教育 を受 ける 権利 を有する」 と規定 し

,国

家以前の基本的人権 として「教育 を受 ける権利」 を保障 し

,こ

の権利 を尊重 し擁護す るために教育の機会均等 と義務教育の無償 を規定 した。 この ことは

,戦

前 と戦後 で 教育 に対する考 え方を180度変 えた ことを意味するもので,「教育 を受 ける義務」か ら「教育 を受 け る権利」 に教育 の質的転換が行われた ことになる。 しか も戦後の我が国の教育は民主主義国家 にお ける主権者国民の民主政治的教養能力の育成の場 として

,ま

た戦後の我が国を文化国家・平和国家 た らしめるための重大な機能 を果たす もの として

,格

別 の意義 を持つ ものであ り,そ のためには「中 正で科学的で創造的」な

,且

つ「憲法理念 に即 した教育」が要請せ られることになる。「教育 を受 け

(5)

Jこ

とを権利 として保障す る限 りは

,そ

の受 ける「教育の内容」が重要であ り

,そ

れは正 しい内 容の教育 を受 けることを子 ども (国民

)の

権利 として保障す るものでなけれ ばな らない。何 が正 し い教育であるかは

,窮

極的には

,歴

史の進行方向

,或

はまた社会の発展法則 によつて決定 される間 題であろうが

,一

義的には

,人

類の多年 にわたる自由獲得の努力闘いの結果制定 されるにいたつた 憲法の理念か ら逸脱 した ものであってはな らないのであ り

,さ

らに憲法が国の最高法規・根本法規 として法的社会的理解の基礎であ り

,戦

後わが国の価値観の共通の基盤 であるところか ら

,憲

法理 念に即 した教育 をうけることは

,子

ども (国民

)の

権利 と言い得 るであろう。 この ことは

,戦

後, わが国教育の指針

,基

本 を明確 にした教育基本法の前文に,「われ らは,さ きに,日本国憲法 を確定 し

,民

主的で文化的 は国家 を建設 して

,世

界の平和 と人類の福祉 に貢献 しようとす る決意 を示 した。 この理想の実現 は

,根

本 において教育の力にまつべ きものである。われ らは個人の尊厳 を重 ん じ真 理 と平和 を希求する人間の育成 を期す るとともに

,普

遍的にして しか も個性 ゆたかな文化の創造 を めざす教育 を普及徹底 しなければな らない。 ここに日本国憲法の精神 に則 り

,教

育の 目的を明示 し て新 しい日本の教育 の基本 を確立するため

,こ

の法律 を制定す る」(傍点筆者)と して

,教

育が憲法 の精神 に則 り行なわれ るべ きことを宣言 している点にもうかがわれ るところである。 ところで

,こ

の憲法が保 障す る「教育 を受 ける権利」(第26条

)に

ついては

,戦

後初 めて認 め ら れ

,戦

前は全 く問題 とされ なかった ものであるだけに

,そ

の解釈・サ性格づ けはい まだ極 めて不充分 なものがあ り

,そ

れが現実的・ 具体的にどの ような権利 として生か されなければな らないか という 事実や実践的運動 に対応 した理論的解明が未だ充分になされていない。か くして「教育 を受 ける権 利」の規定 をいわゆる綱領 的規定(PrOgrammvorschriften)と して

,具

体性のない単 なる「社会権」 あるいは「教育請求権」,「国務請求権」,「国家行為要求権」

,ま

たは

,た

だ教育 の「機会均等」とい う教育の社会的経済的条件整備 を求めるという抽象的消極的権利 として とらえる0に とどまらず, 子 どもの生存権 をふ まえ

,子

どもの「成長

,生

,発

展」 をうなが し現代 に生 きる人間 として

,そ

の能力 を全面的に発達せ しめ,「自己 自身 を形成」する人間に不可欠の生来的 自然法的人権 としての 「学習権」 として積極的性格 を付与するときは

,教

育 をめ ぐる権利義務関係 はこの子 どもの「学習 権の保障充足」 を中核 として新 しく再構成 されなければな らない と考 える。 国民主権主義 を背景 に新憲法によって「教育 を受 ける」 ことが義務 か ら権利へ180度の憲法的転 換 をしたことに関連 して,「教育 をする権利」について も,「教育 をす る義務・ 責務」へ と変換 さる べ きもの と考 える。か くして1960年代以降我が国教育界で特 に問題 になっている親・教師・ 国民・ 国家の各教育権理論 は

,子

どもの「学習権」の前 に転換・修正・止揚 (aufheben)さ るべ きであ り, 教育 における権利義務関係 は

,教

育 における「権利主体 としての子 ども

Jの

「学習権

Jを

中核 にし て新 しく有機的に構造化せ られるべ きで

,教

育 と政治・教育権・教育権独立(PddagOgishe Freiheit) の問題 も

,か

かる観点か ら考察するべ きものである。

D

戦 後 教 育 民 主 化 と教 育 権 我が国で言われている教育権 の概念 は

,戦

後,主として1960年代以降使用せ られ るに至 った もの と考 えるが,「教育 に関す る権利」の思想が戦前全 く

,み

られなか った ものではな くすでに明治維新 以後 の自由民権運動 における中江兆民・ 植木枝盛の思想 にまず見 い出 し得 るところであ う 1!さ らに 戦前強固な絶対主義国家の中で「民法出デテ忠孝亡 ブ」 といわれた我が旧民法の解釈の歴史 は「子 の権利」 よ り「親の権利」 を重視するものであ り「子供の権利 は

,ま

さしく親 に対 しては不孝

,国

(6)

に対 して不忠を意味す る(1ゆ 」 と考 えられた旧民法制定当時の親権規定の解釈 をめ ぐる論議の中に も 見い出 し得 る。例 えば法典調査会での梅謙次郎 は

,穂

積八束委員の子 どもの権利否定論 を反論 して 「親 はその子 を必ず教育す る義務がある。 これは国家に対 してではな く

,子

に対 してである(1か 。」と のべ

,ま

た下中弥二郎 も「教育 を受 けることは社会成員の義務ではな く権利」であるとし,「権利 と しての教育」の思想 を中心 として国民教育の根本的改造論 を書いている°9。 しか し戦前の我が国では一般に「子 どもの権利」の確認の上に立つ「権利 としての教育」の思想 は極 めて少な く

,政

府 による国家主義的教育体制の整備が強力に進 め られるに従 いこれ らの思想 は 国家的・ 社会的に認め られない もの となった。か くして「富国強兵」のための国家主義・ 全体主義 の教育体制が確立 されてゆき

,そ

こには

,被

支配者だった「臣民」の意思が教育 に反映 され る制度 的な仕組 は全 く用意 されず

,国

民 はただ無条件 に国家が行 なう教育 をうけるこ

│だ

けが義務づけら れていた。その義務 は

,ほ

かの兵役・ 納税の義務 とな らぶ国民の三大義務 (国家 に対する

)の

一つ として強要 されたのであ り

,特

に昭和年代 に入 り満州事変・ 支那事変・ 太平洋戦争 と戦争の拡大 と 共に

,政

府の文教政策 はます ます国家主義・軍国主義教育 の体制 を取 り

,昭

10年

文部省 内に教学 刷新評議会が設 けられ,「国体の本義」 に立脚 し,「皇国の道

Jに

のっとった皇国教学思想が打出 さ れ

,天

皇制絶対主義教育観の確立 と共 に「権利 としての教育」の思想 は消滅 していった と考 える。 では

,戦

後 になってす ぐ教育権論が盛んになったか というとそうではな く

,1960年

代以降

,国

家の 教育への関与が強 まるに従 って

,主

としてそれへの抵抗の理論 として主張 され るようになった もの であるが

,以

下 しばらく

,戦

後教育政策・ 教育行政の変遷 と教育権 との関連 を見 ることにす る。 戦後のわが国の教育 は

,連

合国による占領

,管

理の下に著 しい変革が行なわれ ることになった。 すなわち

,日

本が無条件降伏 によって受諸 したポツダム宣言は

,そ

のなかで「国民 ヲ欺睛 シ世界 征服 ノ挙二出ズルノ過誤 ヲ犯サシメタル権力及勢力

Jの

永久の除去

(6項

),軍

隊の解体

(9頂

), 戦争犯罪者の処罰 (10項

)な

どを要求するとともに「 日本国政府ハ 日本国国民 ノ間二船ケル民主的 傾向ノ復活強化二対 スルー切 ノ障凝 ヲ除去スベ シ

,言

,宗

教及思想 ノ自由並二基本的人権 ノ尊重 ハ確立セラルベシ」(同項

)と

定めている。 この宣言の受諸 により

,旧

来の国家主義 。軍国主義教育 を無批判 に国民 に受けいれ させ るための

,い

わゆる天皇制教学体制の崩壊が もた らされた(W)と され る。 か くして戦後 いちはや く

,教

育 か ら軍国主義・ 国家主義

,ま

たそれをささえた神道思想が払拭せ られることになった。 そして教師たち も戦前の教育 に対する反省 にもとづ き

,戦

後の荒廃 した教育 環境 と生活条件のなかか ら,みずか らが新 しい日本の教育民主化の担い手であるとい う自覚の下に, まず団結する必要にめざめて

,20年

12月 1日には

,早

くも教師の全国組織 であ る全 日本教員組合 (全教

)一

― いまの日教組 の前身一― を結成

,東

京 において も同月 23日 に東京都教員組合 (都教) を結成 した。 そうして

,こ

れ らは

,教

育 の民主化 と教師の社会的・ 経済的 。政治的地位の向上 を共 通に要求 しつつ

,戦

後の教育改革のための実践的な力 となっていった(19。 1946年 (昭和21年

)に

入 ると

, 1月

1日

,天

皇の神格否定の「人間宣言」――「新 日本建設 に関 する詔書

J―

― が発せ られた。 この詔書 において天皇 は平和主義 と人類愛 とを強調 し

,

とくに長年 国民の間 に行われ

,わ

が教育 を支配 して きた「天皇 ヲ以 テ現御神 トシ

,且

日本国民 ヲ以 テ他 ノ民族 二優越セル民族ニシテ

,延

テ世界 ヲ支配 スベ キ運命 ノ有 ス」 とする観念 を「架空」なもの として否 定せ られた。 この宣言 (詔書

)は

戦前の教育思想 を支配 した天皇制絶対主義教育観 を天皇 自ら完全 に否定 した もの として終戦後 における教育思想の動向に重大な意義 をもった国家的宣言 と云 い得 る。

(7)

21年

3月 には

,第

1次米国教育使節団が来 日し

,戦

後の教育改革が本格的に推進 され る段階 に入 る。教育使節団の一行 は教育制度の全般 にわたる報告書 を連合国最高指令官に提出 した。 この報告 書の内容 は「20世紀の前半 までに発達 したアメ リカにおける民主主義的教育思想のみ ごとな結実の 見本(1°

Jと

評価 され

,あ

るいは「戦後教育のアメ リカ化・ 植民地教育(η 」,「日本の歴史的・ 社会的 な課題 をにないうる主体 を形成 してい く

,そ

の ような教育 の方針 としては多 くの問題 を残 してい た(1° 」な どと批判 され もした。が

,

ともか く報告書 は過去の 日本の教育事情 についての把握 も鋭 く, 軍国主義・ 国家主義教育の否定

,個

人の価値 と尊厳 を確立する教育

,中

央集権的教育行政の否定 と 教育委員会制度の実施等 をはじめ として教育制度全般 にわたって具体 的改善策 を示 し

,旧

来 の教育 を改革するための戦後の教育改革の基本的指針 を示す もの としては

,か

な りの進歩的役割 を期待 し うるものであった といえる(19。 この ような使節団か らの報告書が公表 され

,マ

ッカーサー司令部が

,そ

こに示 された教育理念 を 全面的に支持 した ときに

,戦

後の日本の教育改革の基本的な方向が一応明確 にされた といい うる。 か くして以後の 日本の教育改革 は米国教育使節団報告書 に示 された具体的改善策の方向に即 して 民主化がすすめ られる。 か くの如 く戦後の教育改革が進 め られる一方わが国の旧法制 を含 む国家体制 を根本的 に改変 しよ う とす る憲法改正の作業が着々 と進行 していた。すなわち同年 3月 6日 には

,政

府の「憲法改正草 案 要綱」が発表 され

, 6月

20日 に開かれた第90帝国議会 に「帝国憲法改正案」が提出 され

,審

議 の末

,日

本国憲法が制定 された。それには国民主権主義

,平

和主義

,基

本的人権 の尊重の原則の下 にわが国の進 むべ き方向が明確 に示 された。 か くして天皇主権 か ら国民主権 と憲法原理 は転換 され

,明

治憲法 にはなかった「教育 を受 ける権 不UJが新 しく保障 され ることになった。 これによ り

,過

去のわが国の教育が「皇国ノ道二則 リテ…… 国民 ノ基礎的錬成 ヲ為 ス」(国民学校令1条

)た

めに行 なわれ

,こ

れ を受 けることを `臣民 ノ義務、 として きた ことが根本か ら否定 され

,新

しく平和的で民主的な国家建設の目的にそって行 なわれな ければならない教育 をうけることこそ国民の権利 であることを明確 に した9° 。教育 を受 けることが 「臣民の義務」か ら「国民の権利」へ と180度の転換が行 なわれ

,そ

の権利 は主権者た る国民の意 思に基づ く法 によって支 えられ ることとなったのである。 なお

,そ

の審議過程で「 この憲法のなかに教育憲章 ともいうべ き一章 を新設 し

,こ

こに教育 の理 念の保 障や教育の自主性

,機

会均等

,義

務教育制 な どの事項 について,さ らに詳細 にしてお きたい」 (第 90帝国議会 における大島多蔵氏の発言)とい う

,

この憲法 に教育の基本 に関す る条章 を力日える べ きであるという意見が提起 された。 このような意見に対 して

,当

時の田中耕太郎文部大臣一― の ちに最高裁長官 となった一― は「教育 の理念 に関す る教育の目的や方針などについて この憲法 に一 章 を設 けることは全体 のわ り合いか らみて不適当 と思われるので別 に文部省 において教育 に関す る 大方針及 び学校系統のお もな制度 について教育根本法 ともいうべ きものを立案 して早急 に議会の協 賛 をえた く法律 として制定するよう準備 している。」(上掲の大島氏の発言に対する答弁のなかで) 旨

,答

えていた。1ち 教育基本法 は

,こ

のような趣 旨か ら制定 される運 び となった もの といわれ る。 教育基本法案 は昭和22年 3月 13日 第92帝国議会 に提案 されたが

,そ

れが衆議院 に提案 された 際

,当

時の高橋誠一郎文部大臣は

,提

案理由 として

,つ

ぎのようにいっていた。すなわ ち「 これ ま でのように

,詔

,勅

令 な どの形式 をとりまして

,い

わば上か ら与 えられた もの としてではな く, 国民の盛 り上 ります る熱意 によりまして

,国

民の代表者 をもって構成せ られてお りまする議会 にお きまして

,討

議決定す るために

,法

律 をもっていたす ことが新憲法の精神 に適 うもの といた しまし

(8)

,必

要かつ適 当であると存 じた次第であ ります。…… この法案 は

,教

育の理念 を宣言する意味で, 教育宣言であるともみ られ ましょうし

,ま

た今後制定せ らるべ き各種の教育 に関する諸法令 の準則 を規定するとい う意味 にお きまして

,実

質的には教育 に関す る根本法たる性格 をもつ ものであると も申し上 げうるか と存 じます°D」 と。 これによ り

,日

本国憲法の国民主権主義 に もとづ く

,国

会中 心主義の法治主義原理の もとに

,教

育の根本的改革 (民主化

)の

ために

,旧

来の詔勅 な どによる勅 令主義 を廃す るとい うことが

,政

府の公式見解 として うちだ された°かとされ る。 その後

,衆

議院お よび貴族院で

,新

しい教育基本法 と旧来 の教育勅語 との関係 などが討議 された。 1948年 (昭和23年

)6月

19日 の衆議院の「教育勅語等の排除 に関する決議」および同 日の参議 院の「教育勅語等の失効確認 に関す る決議」の両決議 によって

,そ

れ までのそれに関する論議 に終 止符が うたれたのである°9。 か くして戦前の天皇制教学体制 あるいは教育勅語体制 は完全 に崩壊 し

,国

民主権 の日本国憲法 に もとづ く民主的で文化的な国家 を建設す る理想の実現 を期す る教育基本法が憲法 と共に教育の基本 とされることになった。 この教育基本法の制定のあ と

,さ

らに

,そ

の理念・ 目的を実現するための 金面的な教育改革がすすめ られ,そのための学校教育法 を始 め各種の教育法令が相ついで成立 した。 このような日本国憲法 と教育基本法の理念 に基づ き

,そ

れを実現するために用意 された法制度が, 「憲法・教育基本法制O牝 とよばれ るものである。 戦後 日本の教育改革の支柱 となった教育基本法制 は

,そ

の前文で「われ らは

,さ

きに

,日

本国憲 法を確定 し

,民

主的で文化的な国家 を建設 して

,世

界の平和 と人類 の福祉 に貢献 しようとす る決意 を示 した。 この理想の実現 は

,根

本 において教育 の力 にまつべ きものである」 と述べている如 く, 日本国憲法の理想の実現 を「教育 の力にまっ」て行な うとい う「教育立国」の姿勢の下 に

,平

和的 で民主的なわが国の次代の国民 を現在主権者である国民が教育 を通 じて育成する `権利 としての教 育、の理念が

,旧

来の天皇制教学 に代 って憲法・教育基本法制のなかに確立 されていったのである。 そこに戦後教育改革の重大な意義が見いだされ るのであるいち 戦後国民主権主義 による教育 の民主化が憲法・教育基本法制の下 に確立 した時期 は

,教

師たちも, 戦前の教育 に対す る各 自の反省か ら

,み

ずか ら新 しい日本 の教育民主化の担 い手であるという自覚 の下 に

,積

極的に戦後の教育改革 を推進する実践的力 となっていった。か くして民主主義 と平和主 義の教育が急速 に浸透 し

,一

方政府(文部省)も

,み

ずか ら示 した戦後 日本の教育改革のための「新 教育指針」のなかで「民主的政体 としての議会政治が確立 され ると政党の力が強 くな り

,教

育 が一 方的にゆがめ られ るおそれがある。 そういう場合 には

,教

師 は教員組合の団結の力 を強めて

,そ

れ に対抗 していかなければな らない。 それは教師 自身のためばか りでな く

,国

民に対する教師の責任 である°°」 といって

,教

師の自主的組織的活動 にも協調的で

,こ

の時期 は国家 (政府

)も

教師 も共 に戦後教育の民主化 を試行錯誤 を重ねなが ら積極的に推進 した時期 ということが出来 る。従 って, 後述の如 き「教育 に関す る権利」 をめ ぐって国家 と教師 (あるいは教師集団

)が

対立す ることは少 な く

,国

民 も,「義務 としての教育」か ら「権利 としての教育」へ180度の転換 をした直後だけに, その権利 の保持の為 に努力 し主張 し闘 うということもな く

,む

しろ憲法・ 教育基本法制 を結構 な制 度・権利 として歓迎す る程度であって,「教育 に関する権利」 について主張す ることは一般 に見 られ なかった。 か くして敗戦後の教育民主化の確立期 には国家・ 教師・ 国民に も「教育の権利」 をめ ぐって特 に 対立抗争 もな く

,教

育権思想 も定着 しなかった時期 といい得 る。

(9)

戦後教育行政 の展開 と教 育権

国家 と教師の協調 による戦後教育民主化の時期 は長つづ きしなかった。1950年6月 25日 の朝鮮 戦争 を境 として

,戦

後の教育改革の方向は

,そ

の方向を大 きく変 えは じめたのである。それは

,国

家による教育管理統制の強化の方向が とられ ることになった ことである。 戦後 日本の占領 にあたっていた初期のアメ リカは

,そ

の任務上

,ポ

ツダム宣言の比較的忠実な実 施 にあた り

,旧

治安立法の廃止

,軍

国主義同調者の公職追放

,独

占資本 の解体

,労

働運動の保護奨 励

,農

地改革な どの民主的施策 をとり

,教

育 の面で も

,そ

の民主化 にかな り積極的に改革 をすすめ てきていた。 しか し数年 を経ず してアメ リカは

,新

中国の誕生 によ り

,従

前のポ宣言 に比較的忠実 であった占領政策の方向をかな り転換 して

,日

本 をアジアで最 も信頼 ので きる自由主義国化 し

,最

強の反共大国た らしめようとした°つ。朝鮮戦争直後

,第

二次米国教育使節団が来 日した。彼 らは50 年 9月 22日,報告書 を提 出 したが,その内容 は第一次使節団報告書のそれが 日本教育の「非軍事化」, 「民主化」に重点がおかれていたのに対 して

,そ

の「反共化」 を目的 とするものであった°分。報告 書 はその中で「極東 において共産主義 に対抗す る最大の武器の一つは日本 の啓発 された選挙民であ る9° 」とのべてい る。か くしてアカハ タの発行停止が指令 された り,レッ ドパージ方針が政府 によっ て決定 され

,教

育界で も全国で 1700名 の教師が学校 を去 った。報告書 はさらに「道徳的精神教育」 の必要を強調 した。 1951年

,天

野貞祐文相 は道徳教育 の振興・修身科の復活 を強調 したが

,文

部省教育課程審議会が 「修身科 に類似 した教科 を設 けることは望 ましくない」 との結論 を出 した こともあって

,教

科の復 活が駄 目ならば

,道

徳的基準 を出す ことを考 え,「近 く一般の道徳的基準 となるものを出すが

,国

民 の道徳的中心 は天皇 にある」と参議院でのべた。51年 11月,「自主的教育確立

Jを

めざす 日教組第 1回教研大会が開かれているときに,「教育勅語」にかわ る「国民実践要領」の概要が天野個人名で 発表 され「われわれは独 自の国柄 として天皇 をいただ き

,天

皇 は国民的統合の象徴である。 それゆ えわれわれは天皇 を親愛 し

,国

柄 を尊 ばねばな らない」 とのべた。 これは教育 における教育勅語体 制の実質的復活論・教育 の国家主義化 として教師集団の反対 を呼んだ。1952年には「教師の倫理綱 領O鼈 を日教組大会で決定 し

,こ

こに戦後の政府文部省 と教師集団 との対立抗争の時期 を迎 えるこ とになる。 1951年にマ ッカーサーにかわ った リッジウェイ司令官は指令 を出 して「占領政策是正

Jの

ために 日本政府 に「政令改正諮問委員会」 を設置 させた。その重要審議部分が教育 に関す ることであった が

,そ

の「教育制度 に関す る答 申J(51・11・

16)は

,教

科書の国定化

,学

芸大学の教育専修大学化, 教育課程のコース制化

,教

育委員会の任命制化 と文部大臣の権限強化 な どの教育の国家的再統制へ の方向を明 らかに した ものであった°ω。 1952年8月 義務教育費国庫負担法が成立 し

,53年

には「義務教育学校職員法案」が国会 に提出さ れることになる。 この法案 は「(目的)義務教育 について

,国

の責任 を明確 にし

,教

育 の機会均等 と その水準の維持向上 を図 る。(義務教育諸学校職員の身分)義務教育諸学校 の教職員身分 は

,国

家公 務員 とし

,文

部大臣が任命すること……・」 とうたっていた。 これは教員身分 を国家公務員 として任命権を文相がにぎ り

,教

育 の中央集権体制 を確立 し

,同

時 に教員の政治活動 を規制す ることをね らっていた といわれる。う。 日教組第

2回

教研大会では「本質 的に

,憲

法 に もとづいて教育 をまもり

,平

和 をまもろうとする教 節の活動 をお さえよ うとす るも の°1ち と規定 し,日教組 は実力行使の体制 に入 り

,吉

田首相の不信任案が可決 され

,国

会解散 となっ

(10)

,こ

の法案 は廃案 となった。 1954年2月 の閣議で教育公務員の政治活動 を国家公務員法 (102条

),人

事院規則 (14ノ

7)を

用す ることによって一切禁上 しようとする「教育公務員特例法の一部 を改正す る法律案」 と

,義

務 教育学校教職員 に特定の政党等 を支持・ 反対 させ る教育 をおこなうことを教唆

,せ

ん動 した ものは 懲役

,罰

金を科するという「義務教育諸学校 における教育の政治的中立の確保 に関する臨時措置法 案」 を決定 し

,国

会に提出 した。 日教組 はこの二法が国家主義軍国主義復活のための ものであ り

,教

員だけでな く国民の自由をう ばうものだ として 3月 14日 日曜 日に振替授業 をお こない翌 日各地で教育防衛大会 をひ らき父母 に も法案反対 を訴 えた。 日本教育学会

,全

国大学教授連合

,全

国教育委員協議会

,全

国連合小学校長 会

,全

日本中学校長会 な ども法案 に反対 した°か。 1955年11月

,鳩

山内閣は「臨時教育制度審議会設置法案J,「地方教育行政 の組織及 び運営 に関す る法律案」(任命制教委法

,地

教行法),「教科書法案」を準備 した。右の教育三法案 に対する反対運 動 は

,国

会請願「教育 を守 る署名

Jが

700万をこえるという国会史上最高の もの とな り

,日

教組・ 小 。中校長会

,民

間教育団体

,主

婦連

,子

どもを守 る会

,母

親連絡会

,学

,学

者・文化人のみな らず

,教

育委員 (全教委

,全

地教委

)ま

でを含 めた大運動が展開された。矢内原東大総長

,南

原繁 東大前総長

,木

下一雄東学大学長

,大

内兵衛法大総長

,大

浜信泉早大総長

,安

部能成学習院大学長, 内田俊一東工大学長

,娘

山政道お茶の水女子大学長

,上

原専禄― ツ橋大元学長

,務

台理作元東京文 理大学長の 10氏 は「文教政策の傾 向に関する声明」(十大学長声明56・ 3・

19)を

発表 し

,法

案 は 「 いずれ も部分的改正ではな く民主的教育制度 を根本的に変 える」 ものであ り,「言論・思想の自由 の原則 をおびやかす」 もの として「政府 と国会の反省 をうなが し

,世

論のいっそ うの興起 を期待」 した。9。 鳩 山内閣は,「他の重要法案 は犠牲 に して も新教委法案 は成立 させる」として

, 6月

1日 か ら2日 にかけて

,500人

の警官隊 を院内に導入 し強引に通過 させた。これによ り教育行政の中央集権化体制 が確立 した といわれ る°°。 か くして政府文部省 と教育界・教師集団 との対立 は一層深 くなって行 った。 成立 した新教委法は第38条 (学校等の管理

)で

,教

育委員会が行使する学校管理権 を明確 にする ために

,教

育委員会が学校管理規則 を制定することを定 めた。法成立直後 に文部省 は「公立小・ 中 学校管理規則要項試案」 を作成 した。校長研究協議会が復活 し

,文

部省 は

,教

育 の政治的中立

,教

育内容の刷新

,道

徳教育の強化

,学

校管理の秩序確立 な どを指導 したが

,日

教組 は「公立学校管理 規則の制定 を阻止する」態度 を決定 した。 その後

,各

県教委で管理規則が制定 され るにつれ

,教

組 も管理規則闘争 をすすめた。 1957年岸信介内閣は「教員 に対す る勤務評定」の全国実施 に踏み切 った。 日教組 は臨時大会 を開 き「勤評絶対阻止のたたかいは

,わ

れわれの権利 を守 り

,生

活 を向上 させ

,国

民教育 をその破壊か ら防 ぎ権力支配 にまかせない……岸内閣の政策 と対決するたたかいであ り……教育の権力支配 をね らう勤評 に

,絶

対反対する立場 をつ らぬ く」ことを決定 し,「非常事態宣言Jを発表 した。 日教組 と 日高教の共同闘争 もすすめ られ

,勤

評反対 のたたかいは全国的に

,地

域的に日本教育史上

,最

大の 行動 をもってたたかわれた°D。 57年 7月 30日

,松

永東文相 は道徳教育科 目の時間特設 を言明 し

,翌

年 3月 19日

,文

相 によ り道 徳教育 の実施要綱 と4月 か らの時間特設が通達 された。 7月 31日 発表 された小 。中学校 の学習指導 要領の改訂案では

,道

徳の時間特設が きめられ

,8月

28日

,文

部省 は道徳時間特設のため学校教育

(11)

施行規則一部改正 を公布 し

,10月

1日 には「官報告示」とい う新 しい形式で もって

,国

家基準性 を 強化 した もの としての学習指導要領全面改定がお こなわれた°°。 この1958年の文部省告示の学習指導要領 による「特設道徳」に対 して

,当

時東京大学教育学部教 授の宗像誠也氏 は

,戦

後 はじめて「教育権」 とい う概念 を打出 して抵抗 した。すなわち「道徳要領 に反対の価値観 を有するもので も」 自分の子 どもに「義務教育で

,そ

れによる道徳の教育 を受 けさ せなければならないのか」 という問題 を提起 し

,親

には自分の子 どもの「価値観の決定 に対 して教 育行政 に対抗 して」「発言する権利があるJと い う答 をだ したのである。 これ を

,宗

像誠也氏 は「親 の教育への発言権」 と呼び

,教

育権 とは「教育 に対 する権利・ 発言権 という意味である°つ」 と云 っ た。 また

,1958年

の学習指導要領全面改正 による学習指導要領の基準性強化 と「道徳の特設」は勤 務評定の全国実施 とあわせ

,学

校 で教育 にたず さわ る教師の立場が どのような ものかを

,人

々 に考 えさせてい く発端 をな し,「教師の教育権」や「教育 の自由」が教育界で も論 じられるようになった の もこの頃か らである。

lWl

教 育 裁 判 闘 争 と教 育 権 1960年代 に入 り

,わ

が国の教育界 は,「教育紛争

Jが

頻発 し

,全

国では百数十件 もの「教育裁判」 が展開せ られ,「全般的恒常的教育紛争状態」│こ入 り

,わ

が国は勿論

,諸

外国にも

,か

つて例 を見 な い特殊的状況が展開せ られ る。教育 は本来

,法

的紛争 にな じまないものであ り

,教

育が裁判問題 と せ られ ること自体異状 とせ られなければな らないが

,そ

れが全国各地の裁半J所で取扱われ る とい う 現象は

,わ

が国教育界 に とって誠 に遺憾 な状況 と云わざるを得 ないのである。 その教育紛争

,教

育裁判 の中心 をな した ものは

,数

の上では「勤評裁判」 と「学カテス ト裁判」 であ り

,全

国的注 目を集 めた もの としては「家永教科書裁判」である。 これ らは

,い

まだ決着のつ いていない もの もあるが

,こ

れ らを通 じて

,教

育 の自主性・教師の立場 。教育権等の問題 も合せて, 検討せ られることになった。 教師の勤務評定 については

,行

政当局 は

,教

師の身分が地方公務員であるという理由か ら

,教

師 に対 し勤務評定 を実施す ることは

,地

公法40条を法的根拠 とす る単純 な人事管理事務 の一 つで あ る

,

という。 したが って「本条 (地公法40条 )に規定する勤務評定 は本法24条 (給与

,勤

務時間), 46条 (措置要求)お よび51条 (不服 申立

)等

に規定する勤務条件ではない。従 って勤務評定 の立案 及びその実施 は

,い

ずれ も本法55条に規定する職員団体 の交渉事項 とは解 されない°°」(昭和33・ 1・ 27初中局長通知

)と

される。 これに対 し教師は

,勤

評 は教師の `教育の自主性、 と労働基本権 を抑圧 し

,い

たず らに学校運営 における教師の創意 にみちた集団的秩序 を停滞破滅 に導 くもので

,民

主的な学校運営 を侵害す るも のであ り教師の教育権の破壊政策であるとして一斉 に反対聞争が展開せ られた。 この反対闘争が, 1958年9月 15日 の全国統一行動 を頂点 とする教師の一斉休暇闘争へ と発展 するに及 んで

,逮

捕者 も続出 した。すなわち

,同

年 4月 23日 に都教組が一斉休暇闘争 を行なったのに対 し

,同

4月 26日 に警視庁 は日教組の本部 および執行部三役の 自宅

,都

教組の本部 と支部 および執行部の自宅 な ど77 カ所 を地公法61条

4号

違反容疑で捜査 し

,以

後 7月 28日 までに都教組執行部 をは じめ

,28名

を逮 捕・拘留 し

,そ

の うち7名を 8月 23日 に起訴 した°9ち それ以後

,翌

59年8月 19日 にいたるまでの 間に

,福

岡・和歌山・大阪・高知・京都・群馬・福 島な どで

,一

斉休暇闘争に対するものだけで145 名が逮捕 され

,そ

の うち82名が主 に地公法61条

4号

違反 として起訴 され

,反

対闘争 に参加 した疑

(12)

いということで任意出頭の呼出 しをうけた者は全国で実に数千名 に及ぶ までにいたった “ω。 か くして裁判闘争へ と発展 した勤評事件 は

,ご

く概括的 にいえば

,そ

の主要な争点 は

,①

地公法 37条 1項について

,公

務員か ら憲法上の基本的人権,と くに労働基本権 としての争議権 を劉奪 しう るか

,②

憲法上の「全体 の奉仕者」あるいは「公共の福祉」の概念は

,公

務員の争議権等の劉奪 の 根拠 とな りうるか

,③

公務員の争議行為 に刑事罰 を科す る地公法61条

4号

は合憲か

,④

「 あお り」 という行為 に対する刑事責任可罰 は合理性 をもつか どうか

,な

どであった1ち したがって勤評裁判 は

,い

うまで もな く教員の勤評 という重大 な教育問題 にかかわ りをもつ ものであるが

,同

時 にそこ での最大の法律上の争点 は

,公

務員の争議行為禁止規定の違憲性 をめ ぐる争いであった。 この意味 では

,そ

れは

,す

ぐれて労働裁判的性格 “Dをもつ ものであったが

,そ

の本質的背景は勤評の不当性 と教師の教育権 (教育 の自由

)の

正当性 を明 らかにしようとするものであった。 1961年 に入 って

,文

部省 は中学二・三年の金生徒に対 して一せい学力調査 をお こなうと発表 した。 「趣 旨」 は「教育課程 に関する諸施策の樹立

,学

習指導の改善」「 自校 の学習の到達度」「学習の改 善に役立つ教育条件の整備」「育英,特殊教育施設の拡充整備」な どの資料 に役立 てるというのであっ たが,「学力

Jと

は一体何か

,ペ

ーパー・テス トで測定 され得 るものか

,ふ

だんのテス トとどうちが うのか

,五

教科 (国

,社,数 ,理 ,英

)の

テス トでは他教科が軽視 されないか

,地

域の条件

,各

校の教育条件 に差があるのに

,一

せいテス トが どれほど意味があるのか

,な

どの疑問律9が出 される なかで

,次

第 に問題が深め られていった。それは,Кl)本来学力のテス トは教師の責任 において自主 的な教育活動の一環 として行なわれることに委ね られ るべ きものであ り

,文

部省の作成 した問題 に よるテス トを教師の授業計画を変更 させてまで強行的に実施するのは

,民

主教育 の破壊であ り

,教

育の画一化強制であちて

,文

部省 には強制的に実施 させ る権限 はない。(2)教育 (学

)上

これほ ど問 題がある一せいテス トを強行するのは

,教

育の国家統制 。官僚統制 を教科 内容のすみずみ まで及 ぼ そうとするものである。13)その ことを通 して

,い

わゆる「人材開発」 と呼ばれる生徒の選別 と差別 の道具 に使お うとする ものである。に)国民の教育権 の侵害である

,教

育 を受 ける権利 はどんな悪い 教育で もよいのではな く憲法・教基法の平和 と民主主義の教育 を受 ける権利 であるが学習指導要領 改定

,教

科書検定

,に

表現 され る教育 は憲法

,教

基法 に反す る。低)教師の教育権 の独立の原理 に反 する。授業計画 を命令 によって変更 させ

,

しか もテス ト自体 が政策 テス トであ り

,勤

評 とも結 びつ き

,学

習指導要領 の拘束力・勤評体制 を強化 し

,生

徒の教育 に悪影響 を及 ぼす ものであ り

,職

務命 令が出されて もそれは違法である “OJ,などであった。その反対 も全国に及んだ。そうして

,そ

のテ ス トを阻上 しようとする教組執行部・ 教師・ 支援労組員が

,公

務執行妨害罪違反 あるいは建造物侵 入罪違反等の理由で起訴 され

,一

部 は行政処分 をうけるな どして

,い

ゎゅる学 テ事件・学 テ裁判 と なるわけである。 学テ反対闘争 は広 はんに組織 されたが

,県

教委

,校

長等の管理者側 は

,ひ

とりひとりの教師 に職 務命令書 を手渡 して強行 をはかった。 そして

,拒

,不

完全実施

,白

紙答案続出 という結果が生 ま れたが

,全

国で 160カ 所の捜査

,2000人

の任意出頭

,逮

捕拘留61人

,免

職20人

,停

職63人

,減

給 652人

,戒

告1189人とい う警察

,行

政 当局両面か らとりしま りが行 なわれた “9。 学カテス トの実施 に反対する教組 な どの「学テ反対闘争」が事件 とされた裁判では,(1)学カ テス トを適法かつ妥当 とする判決例 と

,鬱

)学カ テス トを違法かつ不当 とする判決例 は

,そ

れぞれ相 なか ばする状態である。すなわち, (1)に属す る主な もの としては

,①

熊本・ 荒尾事件

,熊

本地裁 (昭37・ 9・

14,公

務執行妨害

,有

罪。

)②

高知・佐喜浜事件

,高

知地裁 (昭38・ 4・

24,公

文書毀棄

,有

罪。

)③

山形・西郷事件

,山

(13)

形地裁鶴岡支部(昭39・ 4・

17,共

闘農民の公務執行妨害

,有

罪。但 し

,学

テの一部違法論 を含む。) ④右②の控訴審

,高

松高裁 (昭39・ 4・

30,控

訴棄却

,確

定。

)⑤

岩手 。大槌事件

,盛

岡地裁 (昭41・ 7・

22,教

組役員の争議行為 あお り

,有

罪。

)⑥

右の③の控訴審

,仙

台高裁秋田支部 (昭 41・ 9′。1, 控訴棄却

,確

定。

)で

あ り (2)に属する主な もの としては

,次

の如 きものがある。①福岡・苅 田事件

,福

岡地裁小倉支部 (昭 39・ 3・

16,教

組役員の建造物侵入 と共闘者の公務執行妨害有罪。)(凱1)の① の控訴審

,福

岡高裁 (昭 39・ 5・

13,控

訴棄却

,確

定。

)③

大阪・淀川事件

,大

阪地裁 (昭41・ 4・

13,教

組役員の公務執行 妨害・傷害・建造物侵入 は無罪

,暴

行 は有罪。

)④

北海道旭川事件

,旭

川地裁 (教員 と共闘者の公務 執行妨害は無罪

,共

闘者の建造物侵入 と暴行 は有罪。

)⑤

右の①の控訴審

,福

岡高裁 (昭42・ 4・28, 控訴棄却

,確

定。

)⑥

右④の控訴審

,札

幌高裁 (昭43・ 6・

26,控

訴棄却

,検

事上告中

)qxl)の

⑤の 控訴審

,仙

台高裁 (昭44・ 2・

19,破

棄 自判

,無

罪。(一部 に学 テ適法論 を含 む0)) ところで

,右

の(1拓 (2)の判決 となる主な理由は

,次

のような点 とされ る “°。 (1)の理由ll「教育基本法第10条第1頂は

,教

育の自由 と独立の尊重 を定 めているが

,文

部大臣に よる学習指導要領の決定や

,学

カテス トの実施 は

,教

育水準確保 のためにする同条

2項

にい う教育 の条件整備のための行政 として認 めうる」 同l l「学力調査 に当たっては

,地

方教育行政 の組織及 び運営 に関す る法律第23条 17号によ り, 教育委員会の主体性 と自由裁量性 が認 め られるか ら適法である」 修)の理由l―l「教育行政の任務 は

,教

育 の自主性 を尊重 し

,教

育の具体 的内容 に立 ち入 って監督命 令す るのではな く

,教

育基本法第10条第

2頂

にいう教育 の条件整備 を行 うことである。本件学カテ ス トは

,文

部省 当局が自ら定 めた学習指導要領 に準拠 し

,自

ら試験問題 を作成 して

,そ

の結果の報 告を教育委員会 に義務づ けるもの として実施 した ものであるか ら

,行

政権力である文部省が

,不

当 に教育行政権 の限界 を越 えて教育 内容 に介入 し

,教

育の独立 を侵害 した ものであ り

,教

育基本法第 10条等 に反する」 同働「教育の自由 と独立 を本質的に侵害 しない限 り

,学

カテス トはただちに教育基本法第10条に 違反す るとはいえないが

,本

件学カテス トは

,地

教行法54条

2項

によ り

,行

なわれ ることになって いるにもかかわ らず

,文

相が一切 を企画 し

,命

令監督 して教育委員会 に行 なわせた ことが明 らかで ある以上

,違

法であ り

,本

件 は同法53条

2項

によるべ きものである146ち 右の判決理由か らも明 らかなように

,学

テ裁判 は

,直

接的には

,教

師の教育権・ 教育権の独立 そ の ものにかかわ り

,法

律上 の争点 としては勤評裁判 と同様 に教育の本質論 と深い関連 をもつ もので あ り

,現

行教育法では教育基本法10条の解釈 をめ ぐって

,重

要かつ困難 問題 を含 んでい るもので あった。 1970(昭

45)年

には

,翌

年度か ら使用の小学校教科書 には

,社

会科 に「神話

Jが

全場する教科書 検定の結果が発表 された。一方

,東

京地裁民事二部の杉本裁判長 は

,第

二次家永訴訟 に対 して

,い

わゆる「国家の教育権」を否定 し

,い

まの文部省の教科書検定 は検閲にあた り教基法10条の`不当 な支配、 にあたる旨の判決 を下 した。 この教科書裁判 にお ける杉本判決 は「国家の教育権」を明確にしりぞけ,「国民の教育権」を打出 した もの として画期的判決 といわれた。 この裁判における原告 (家永

)側

の主張は

,ご

く概括的にいえば

,理

論的には

,い

わゆる `教育 の自由、論 に徹底 した弁論 を展開 した。すなわち,「①教育の自主性 について

,は

)それが戦後教育改 革の民主的遺産であること,lpl教育 の本質論 にそ くして

,教

師の自主的な教育研究 とそれに もとづ

(14)

く教育実践が尊重 されるべ きこと

,│,そ

れが

ILO・

ユネスコの「教師の地位に関する勧告」にも みられる近代教育の原則であること

,②

教育の自由を公教育 としての学校教育 における教育 内容 と のかかわ りで

,m民

主主義の存立の基盤 としての国民の内面的自由

,思

惟 ない し思想の自由 とその 多様性 は絶対 に保障 され るべ きであ り

,す

なわち

,教

育 。学術・ 文化への政治権力の介入 は許 され ないこと,lHl公教育 は

,一

人 ひ とりの子 どもの全面的発達の契機であ り

,本

来的 に行政権力が干渉 し統制すべか らざるところであること

,│,公

教育 における教育内容の形成 は

,教

師 と国民の民主的 基盤の上 での自由な討議 を通 じてすすめ られるべ きであることな どを掲 げ

,い

わゆる`国民の教育 権、の思想 と法理 を展開 してきた°7も もの とみることが出来 る。 これに対 して

,杉

本判決 は

,こ

の訴訟の中心的争点である「教育権」の所在 をめ ぐる論点

,つ

ま り憲法第26条は,国民の教育権 を保障す るものか,それ とも国家の教育権 を予定 するものかについ て

j冒

頭か ら法解釈論 を展開 し

,い

わゆる国家の教育権説 を否定 し

,全

体 を通 じて

,国

民の教育権 を国民の教育の自由 として位置づ けた。 すなわち, この規定(憲法第26条 )は,「憲法25条をうけて

,い

わゆる生存権的基本権 のいわば文化的側面 として

,国

民の一人一人 にひ としく教育 を受 ける権利 を保障 し

,そ

の反面 として

,国

に対 し右の教 育 を受 ける権利 を実現するための立法その他の措置 を講ずべ き責務 を負わせた ものであって

,国

民 とくに子 どもについて教育 を受 ける権利 を保障 した もの ということがで きる。…… そ して

,こ

こにい う教育の本質 は

,こ

のような子 どもの学習する権利 を充足 し

,そ

の人間性 を開 発 して人格の完成 をめざす とともに

,

この ことを通 じて

,国

民が今 日まで築 きあげられた文化 を次 の世代 に継承 し,民主的

,平

和的な国家の発展ひいては世界の平和 をにな う国民 を育成する精神的, 文化的ない となみであるとい うべ きである。 この ような教育の本質 にかんがみると

,前

記の子 どもの教育 を受 ける権利 に対応 して子 どもを教 育する責務 をになうものは親 を中心 として国民全体 であると考 えられ る。…… このような国民の教 育の責務 は

,い

わゆる国家教育権 に対する概念 として国民の教育の自由 とよばれ るが

,そ

の実体 は 右の ような責務 であると考 えられ る。……J 「 この点 に関 し

,義

務教育 に関する憲法26条

2項

の反面か ら

,国

家 もまた教育 する権利 を有 する 旨の見解が あるが,それは,上記のような親の子 どもに対する教育 の責務の遂行 を保 障 した もの と解 するのが相当であって

,こ

の規定の反面か ら国にいわゆる教育権があるとするの は相当でない とい うべ きである。……」 と。 か くして `公教育、と

,そ

のなかでの国民の教育権行使 ないし教育内容事項 のあ り方については, 次のように判断する。 「国民 は家庭 において子 どもを教育 し

,ま

た社会 において個々の形で教育 を行 な うのであるが, しか し現代 において

,す

べての親が自ら理想的に子 どもを教育することは不可能であることはいう まで もな く,右の子 どもの教育 を受 ける権利 に対応す る責務 を充分 に果た し得 ない こととなるので, 公教育 としての学校教育が必然的に要請 され るに至 り

,前

記のごとく

,国

に対 し

,子

どもの教育 を 受 ける権利 を実現するための立法 その他の措置 を講ずべ き責任 を負わせ

,

とくに子 どもについて学 校教育 を保障す ることになった もの と解せ られ る。 してみれが

,国

家は

,右

の ような国民の教育責務の遂行 を助成するために もっぱ ら責任 を負 うも のであって

,そ

の責任 を果たすために国家 に与 えられ る権能 は

,教

育内容 に対す る介入 を必然的に 要請するものではな く

,教

育 を育成するための諸条件 を整備することであると考 えられ

,国

家が教

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