孫文について
1、孫文と日本
辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。ま た、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼 ばれている。 孫文が日本亡命時代には東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に 「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の「中山」という名字が気に入り、 自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名 乗っていた。号の「中山」は貴族院議員の中山忠能の姓から来ている。 孫文が日比谷公 園の界隈にある邸宅の「中山」という表札に重大な関心を持ったのは、表札の字が立派な 字であったということだけではないだろう。孫文は、日本の明治維新を理想としていた。 そして、ご承知のように、明治政府は明治天皇の下、日本国の近代化を進め、軍事力も日 露戦争に輝かしい勝利と治めるまでになっていった。その明治天皇を産んだご生母が中山忠能の娘中山慶子(よしこ)である。私は、孫文は「中山」という表札を見て、明治維 新、明治天皇を連想し、「中山」を号するようになったのではないかと思う。日比谷公園 の界隈にある「中山」の邸宅は別邸であって、本宅は京都御所の一角にある。そしてそこ で明治天皇はお生まれになるのである。 中山邸は日比谷公園にもあったようだが、本宅は京都御所の中。 それでは、ちょっと横道にそれるが、京都御所の中の中山邸にご案内しよう。 京都御所を取り巻く御苑の北の端は、かの有名な「猿が辻」からすぐのところに、板塀で 仕切られた 屋敷跡がある。その庭の一角に、一棟の小さな家が建っている。明治初期、 初めて古都に住むことを許されたアメリカ人宣教師たちは、自分たちの家を 探す当座の 間だけ、家具調度など身の回りの品々を置く倉庫代わりにこの家を使ったことがある。今 となってはほとんど目をとめる者とてないが、この家は寛永 7年(1854)4月の内 裏を全焼させた大火をまぬがれたばかりでなく、明治元年(1868)の事実上の東京遷 都後の荒廃と破壊をも生き抜いた数少ない公 家屋敷の一つである。 人の出入りを禁じるように周囲に板塀をめぐらせた外側には、「祐井(さちのい)」と記 された 小さな 木柱が建っている。板塀の内側には、より重々しい石碑があるのが塀越し にかろうじて目に入る。過去を物語るこの二つの標識だけが、ここを訪れた者 に次のこ とを教えてくれる。この家は江戸末期に立てられた伝統的な日本建築の一つ・・・それも
実にありきたりの・・・・というだけでなく、はるかに重要な 意味を持っている、と。 事実、この家で明治天皇が生れ、「祐井(さちのい)」の水で産湯を使ったのだった。明 治天皇が御所の中でなく、このような質素な家で生れたのは宮中の慣習によるものだっ た。生母中山慶子(よしこ)(1835∼1907)は、懐妊が 明らかになるや御所の 局(つぼね)を出なければならなかった。出産は建物を穢す(けがす)、と古くから信じ られていたからである。代々、天皇の御子は宿下 がりした生母の家の近くで生れるのが 普通で、それも用済みの後は壊される別棟で生れることが多かった。皮肉にもこの小さな 家は壊されるどころか、かってそ の周囲に見事な屋根を競い合っていた公家たちの凝っ た屋敷よりも長く生き延びることになった。御子の誕生にあたり慶子の父、権大納言中山 忠能(ただやす)(1809∼88)は敷地内の屋敷の隣に、この「産所」を建てた。当 初は、近隣の公家の 邸内の空地を融通してもらうつもりだった。生れてくる子供は、或い は将来天皇になる皇子かもしれないのだった。にも拘らず忠能の土地借用の申し出は、こ と ごとく断られた。仕方なく忠能は、狭い自分の屋敷内に産屋を建てなければならな かった。忠能は当時の多くの公家がそうであったように、浴室と厩のついた二 間だけの 質素な家を建てる費用さえ賄えないほど貧しかった。建築の費用の大半は、借金しなけれ ばならなかった。 皆さん方には、明治天皇誕生の家を見るために京都御所に出かけてほしい。きっと何か響 き合うものがあるに違いない。そしてできれば「孫文」まで思いを馳せていただければあ りがたい。 京都御所は見るところが多く、四季折々何度も出かけ下さい! 京都御所は広すぎて中を歩くのはちょっと大変ですが、 一度は歩いてどこに何があるかを確かめておくとよいと思います。 そして、四季折々出かけて下さい。 まずは春先ももの頃・・・・、ここをクリッ ク! そして桜ですね。 [八重桜1] [八重桜2] [八重桜3] [八重桜4] [枝垂 れ桜1] [枝垂 れ桜2] [枝垂 れ桜3] ここもクリックし て下さい!御苑の桜情報ページ(リンク)です。 私の桜情報です! [蛤ぐり御 門] [正面の大通 り] [内裏] [猿が辻] [猿が辻2] [公園内の散 歩道]
さて、中華民国の国立中山大学および中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山 大学、南極大陸の中山基地、そして現在台湾や中国にある「中山公園」、「中山路」など 「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。 「孫文」は、清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の客家の農家に生まれる。アメリカ新 領のハワイにいた兄の孫眉を頼り、ホノルル市のイオラニ・スクール卒業。同市のプナホ ウ・スクール にも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配 し、中国に戻された。帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思 想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業した。 清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月、ハワイで興中会を組織した。翌 年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に 亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を 通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田 鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。1902年、日本人の大月薫と駆け落 ちに近い形で結婚した。1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際 に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日 本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文 の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。長い間、満州民族の植民 地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言ってきた。同 年、宮崎滔天らの援助で東京池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結 成。 宮崎滔天 (http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/339.htmlより)
頭山満 (http://www.toyamamitsuru.jp/より) 1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独 立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と 上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争った が、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌1912 年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。1913年3月、国会議員選 挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議 席を獲得。 同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした。宣統帝の退位と引き換え に清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウ(英語版)による強権政 治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国 民党の弾圧をはじめた。 これに伴い、同1913年(大正2年)7月、袁世凱打倒の第二革命 がはじまる。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した。1915 年には共和制を廃止、帝政を復活させ、袁世凱自らが中華帝国大皇帝に即位する。 直ち に反袁・反帝政の第三革命が展開される。この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、 「軍閥割拠」の状況であった。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東 軍政府を樹立する。 しかし、軍政府における権力掌握の為に、広西派の陸栄廷を攻撃し たことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、また、第二次護法運動は陳炯明と の路線対立により、広州を追われた。そして、孫文は一時、日本へ亡命した。日本亡命時 には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言 葉を犬養毅へ送っている。 ところで、先にも述べたように、憲政常道による議会政治が始まったのは大正十三年(1 924年)であって、それから八年間は民政党、政友会の二大政党が交互に政権を握ると いう、憲政常道による議会政治が確立したかの加く見えた。 しかし、昭和7年(193 2年)5月に5・15事件が勃発し、犬養毅が、首相官邸において、白昼、軍人によって
暗殺された。犬養毅は憲政常道による議会政治の最後の首相となったのである。 それか らは日本は軍人に依る恐怖政治が行われ、遂に東条英機という首相を生み出すのである。 ところで、八年間の憲政常道時代の最初の政府は三派連合(政友、民政、革新)内閣で、 民政党の加藤高明が首相であった。その加藤首相が昭和二年一月病死した為めに若槻禮次 郎が内閣総理になった。これが第一次若槻内閣である。そして田中義一内閣、濱口雄幸内 閣と続く。若槻が二度目に内閣の首班になったのは、昭和五年十一月十五日浜口首相が東 京駅において兇漢の為めに狙撃され、その経過が悪かった為めである。そして浜口は翌年 四月若槻にその地位を引き受けてもらったのである。そして、第二次若槻内閣の後が犬養 毅内閣である。加藤高明と若槻禮次郎は憲政会総裁、田中義一と犬養毅は立憲政友会総 裁、濱口雄幸は立憲民政党総裁であった。これらの総理大臣は、選挙で選ばれて総理に なった人たちであるので、一応、国民の代表であったと言い得る。そのような民主的な政 党政治の最後の総理大臣が犬養毅であって、彼の考えはある意味で国民の考えでもあった のである。だから、犬養毅が「孫文」を支援したということは、当時の国民の意思でも あったといってもけっして言い過ぎではないと思う。私達はこのことをけっして忘れては ならないであろう。歴史的な経緯から多少の行き過ぎがあったとしても、その都度、軌道 修正をして、「孫文」を支援するという犬養毅の考えを貫いておれば、日中関係の歴史は 間違いなく今とは変わったものになった筈である。何故犬養毅の考えを貫くことができな かったのか、大いに反省すべきことではなかろうか。 犬養毅 (http://www.city.okayama.jp/tokyo/nissi/16fy/040515bokudo/bokudo.htmより)
2、対華21ヶ条
対華21ヶ条要求とは、第一次世界大戦中、日本が中華民国政府とおこなった外交交渉に おいて提示した21か条の要求と希望のこと。二十一か条要求などとも呼ばれる(中国語 版では「二十一条」)。これが孫文をして抗日運動に向かわせる原因となった。 第一次世界大戦が欧州で始まり、日本は第三回日英同盟協約により1914年8月23日にドイ ツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦した。中華民国はドイツ権益が中華民国政 府の管理下におかれるべきと要求したのだが、日本政府は戦時国際法上の軍事占領として 日本軍が管理するべきものとした。日本政府としてはドイツと開戦したのであり、休戦後 の講和条件によって山東半島の対ドイツ租借権をドイツから継承したのち中華民国に返還 する意向であり、一方で中華民国の主張は対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文 言があり中華民国に直接返還されなければならないとした。欧州では第一次世界大戦が継 続中であり、日本政府としてはドイツとの休戦・講和が成立するまで山東膠州湾のドイツ 権益を占領する必要があり、膠済鉄道や青島税関は日本が戦時接収していた。軍事占領は 権益の帰属を確定させるものではなく、日本政府が一方的に中華民国に返還した場合、戦 争の推移や講和条件の如何によっては日本政府がドイツあるいは中華民国に対して山東の 一方的返還について多額の賠償義務を負う可能性がある。日本政府は袁世凱大統領と直接 交渉することで事態の打開に動いた。1914年12月3日、加藤高明外相は、駐華公使日置益 に対華要求を訓令し、翌1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大 臣)は袁世凱に5号21か条の要求を行ったのである。 大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)が清朝(袁世凱)に行った「5号21か条の要求」は、 主に次のような内容であった。 第1号 山東省について。*ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること。* 山 東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと。*芝罘または竜口と膠州湾から済 南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと。*山東省の主要都 市を外国人の居住・貿易のために自ら進んで開放すること。 第2号 南満州及び東部内蒙古について。*旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉 鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は 2004年まで)。* 日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸 借・所有権を与えること。*日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来した り、各種商工業などの業務に従事することを許すこと。*日本人に対し、指定する鉱山の 採掘権を与えること。* 他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から 資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得る こと。*政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議するこ と。*吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること。第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について。*漢冶萍 公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産な どを処分しないようにすること。*漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公 司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が 及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること。 第4号 中国の領土保全について。*沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと。 第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他。*中国政府に政治経済軍事 顧問として有力な日本人を雇用すること。*中国内地の日本の病院・寺院・学校に対し て、その土地所有権を認めること。*これまでは日中間で警察事故が発生することが多 く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同 とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関 の刷新確立を図ること。*一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本よ り行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰 ぐこと。*武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権 を日本に与えること。*福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関し て、外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること。*中国において日本人の布教 権を認めること。 第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲 渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。 この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。 保坂正康によれば、宮崎滔天や山田良政・山田純三郎らが孫文の革命運動を援助した理由 のひとつは、明治維新または自由民権運動の理想が日本で実現できなかったことの代償で あったという。しかし孫文自身も1919年に次のように発言しているそもそも中国国民党 は50年前の日本の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志 士が生まれたことにより、はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じること ができた。わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした。また 1923年には、次のように発言している。日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命 は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つのつながって東亜の復興を達成する。 このように明治維新への共感にもとづき日中の連携を模索した孫文にとって、日本による 対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させること であった。
3、孫文とソ連
日露戦争での苦戦が続く1905年1月には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァー リに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事 件)。この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィ エト(労兵協議会)が結成された。そして、遂に、1917年にロシア革命が起きる。 先程述べたように、第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山 東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。 五・四運動である。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大してい く。陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文 にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。旧来のエリートによる野合 政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした。実 際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍に あたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母 兄弟」とする見方もある。 国民党の指導者孫文はソ連の援助を受け入れたが,中国共産党との合作においては党と党 との提携ではなく,中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合 作の形式を要求 した。1924年1月,国民党第1回全国大会は〈連ソ・容共・労農援助〉の新政策を決定し合作は 正式に発足した。この大会には165名の代表が参加,すでに国民党に入党していた多くの 共産党員も参加した。大会は,〈大会宣言〉および党の〈総章〉〈政綱〉等を採択,そ の中で〈連 ソ・容共・労農援助〉の三大政策(この名辞はのちに提唱されたものだが)を確立し,国民党の 主義として三民主義に新しい内容を与えた。すなわ ち,反帝国主義と民族自決・国内各民 族平等を内容とする民族主義、平民が自由と権利を享有し売国奴・軍閥の自由と権利を認 めない民権主義、地権平均・資本 節制を実行し労働者・農民への援助と彼ら自身の奮闘に よって彼らの生活の保障と解放をめざす民生主義、である。 1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11 月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗 となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王 道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。 1922年に広東駐在武官となった佐々木到一は、 当時、中国国民党の本拠であった広東で 国民党について研究し、その要人たちと交わり深い関係を持った。佐々木は後年国民党通と言われる。孫文が陳炯明を追 い払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。佐々木は 孫文の軍用列車に便乗して国民党の戦いぶりを観察している。また列車の中で孫文から蒋 介石を紹介され た。なお人民服(中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされ る。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。 1928年1月、蒋介石が国民革命軍総司令に復職。佐々木は総司令部に従軍を申し入れ許可 され4月、北伐が再開され北伐軍と共に従軍した。総司令部は日本側との衝突が起こりそ うになった場合の連絡役を佐々木に期待した。前年とこの年と二度に渡る日本軍の山東出 兵で、中国側の敵愾心が高まっており同年5月、日本軍と国民革命軍が武力衝突(済南事 件)。佐々木は両軍の使者となって停戦の折衝にあたるが途中、中国兵に捕らえられ暴兵 と暴民にリンチされる。蒋介石の使いに何とか救出されたが、佐々木の中国観に大きな変 化が起こったとされる。状況報告のため帰国。佐々木の発言が革命軍の肩を持つような記 事に捏造され新聞記事で出たり、暴行を受けながら、おめおめ生きて帰ってきたと卑怯 者、売国奴あつかいをされた。このため転地療養を命じられるが、田代皖一郎支那課長か ら戻って欲しいと要請を受け南京に戻る。しかしこれ以降、中国側が佐々木との接触を 断った。蒋介石は済南で佐々木を見舞った時、日本軍の行動に強い不信の念を表明し、日 本軍との提携の望みはなくなったと語ったという。 1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統 一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表ア ドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国 統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした。 この宣言 は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の 支援の元、2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。
しかし、連ソ容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥との結びつきの強い人物 からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。 コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民 党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧 問となった。ボロディンの進言により1924年1月20日、中国共産党との第一次国共合作が 成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる 国民革命軍の組織を開始する。1925年にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する 機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。 1925年、孫文は、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志 よって須く努力すべし)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫 文が了承したもの)北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。 霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行 い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読。 霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発 して迎え、イタリア主席公使・蒋介石と共に廟後の墓の柩側に立った。孫文没後の国民党 は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され、蒋介石と汪兆銘とは対立、最高顧問ボロ ディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。
4、孫文と中華人民共和国
孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評 価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えてい た。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域 革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、 宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体 のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。 1905年に中国同盟会が創設されたときに「韃虜の駆除・中華の回復・民国の建立・地権 の平均」の「四綱」が綱領として採択され、孫文はこれを民族(韃虜の駆除・中華の回 復)・民権(民国の建立)・民生(地権の平均)の三大主義と位置づけた。そして1906 年に「四綱」を「三民主義」へと改めた。すなわち、三民主義は1906年に孫文が発表し た中国革命の基本理論であり、のちに中国国民党の基本綱領として採用され中華民国憲法にその趣旨が記載されるに至ったものである。孫文は、三民主義の一つに民族主義を掲 げ、秦以来万里の長城の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族 の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の 民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した。しかし、この五族共和論は、 すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する。1921年の講演 「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主 義国家となさねばならぬ」と訴え、1928年には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、 青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行うという政策に 変わってく。 では、ここらで少し一休みして、「万里の長城」についてご説明しておきたいと思う。ま ずは、次のホームページをご覧戴きたい。 http://www.china8.jp/heritagedetail/1.html このページの中にある地図をズームアウトないしズームインしながら見ていくと、「万里 の長城」の位置関係を理解できるかと思う。案外、北京に近いですね。大雑把に言うと、 「万里の長城」は、下の図、これは日本が朝鮮や台湾を統治していた戦時中の地図です が、これで言うと、朝鮮と満州国の国境から満州の南側をとおって、現在の内モンゴルの 南側に延々と続く世界最大の構造物である。
「万里の長城」は、秦の時代から作られ、明の時代にもっとも盛んに作られた、中華を象 徴するまさに歴史的に巨大な遺産である。
中華を象徴するまさに歴史的に巨大な遺産・万里の長城の位置図 ( http://wadaphoto.jp/kikou/banri.htm より) なお、中華民国の領土の変遷は、次のページの中に「中華民国の領土の変遷」という地図 があるので、それをクリックすると時代の変遷が判るので、是非、ご確認下さい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%BD %E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 さて、武昌起義によって、1911年10月11日午前、武昌全域が決起軍の支配下に置か れ、夜には謀略処が設置された。起義とは義のために立つという意味で、中国の維新のた めの武装蜂起のことを言う。武昌起義(ぶしょうきぎ)または武昌蜂起(ぶしょうほう き)は、1911年10月10日に中国の武昌で起きた兵士たちの反乱。辛亥革命の幕開けとな る事件である。
武昌市街図・各隊の進攻
武昌起義で中華民国湖北軍政府が掲げた十八星旗(鉄血十八星旗、別名・九角十八星旗) 満洲人の支配に対し、漢民族を主体とする内地十八省を象徴する18個の黄色い星に、 古代の九州を象徴する九角の黒い星をあしらう。 後に五族協和を象徴する五色旗に替えられた。 謀略処(参謀本部)により中華民国軍政府鄂軍都督府(中華民国湖北軍政府)の成立が宣 言され、同時に軍政府の檄文と『安民布告』が発表され、国号を中華民国と改め、清朝の 年号である宣統を廃止して黄帝紀元の採用を発表、宣統3年を黄帝紀元4609年とした。軍 政府は参謀部、軍務部、政事部、外交部を設置、咨議局大楼を事務所とし十八星旗を軍旗 とした。謀略処は軍政府名義により『布告全国電』や『通告各省文』などの電信を全国に 発信している。 その直後、清朝は、北洋軍を派遣し武漢三鎮江北漢口及び漢陽を攻撃、以前罷免されてい た北洋軍の袁世凱が再び召還して北洋軍内部の人心動揺を抑えた。11月1日、清朝政府は 袁世凱を内閣総理に任命、海外華僑や留学生及び国内世論の間に袁世凱による初代大総統 の気運が高まった。11月9日、黄興は袁世凱に書簡を送りナポレオンやワシントンの資格 を持ってナポレオン、ワシントンの功績を作るべしとし、袁世凱に民主的に選出された総 統となることを求めた。11月16日、パリ滞在中の孫文も国民軍政府に対し袁世凱の総統 就任に同意の意向を示す電報を送信している。
袁世凱 ( http://www.vmlab.jp/blog/tsujii/2008/10/post-207.html より) 革命軍は陽夏防衛戦を展開したが清朝の北洋軍に敗北、11月27日には江南武昌に撤退し ている。47日間の作戦の中で1万人強の死傷者を出したが、武昌防衛は堅持していた。そ の間に中国15省が次々と清朝からの独立を宣言し、内地十八省中で清朝の統治が及ぶの は甘粛、河南、直隷(おおむね現在の河北省)のみとなり、独立した各省では一部が革命 党の主導を受けたほか、大部分は諮議局メンバーによって政治運営が行われた。 甘粛省 河南省 河北省
さらにその後もさまざまな武力衝突があったが、遂に、12月2日、革命軍は南京城を攻 略、これにより長江以南の地域はすべて革命軍の支配下に置かれることになった。そして 同日、イギリス駐漢口領事館の斡旋により革命軍と清軍の間で停戦協定が成立した。 そして、12月4日、宋教仁、陳其美等は、上海における各省代表の沈恩孚、兪寰澄、朱葆 康、林長民、馬良、王照、欧陽振声、居正、陶鳳集、呉景濂、劉興甲、趙学臣、朱福 、 さらに章炳麟、趙鳳昌、章駕時、蔡元培、王一亭、黄中央、顧忠琛、彭錫范な どを召集 し、上海江蘇省教育総会にて会議を開催、投票方式により孫文への帰国要請と政治参加を 求める公電発信を決定した。12月25日、フランスのマルセイユより孫文が上海に帰国し た。孫文は多くの革命団体より支持を受ける人物であり、大総統就任が期待される人物で あったため、立憲派及び旧勢力より孫文は袁世凱から大総統の座を奪い取るものであると 認識されていた。 12月28日、南京で臨時大総統選挙予備会議が開催され、29日に臨時大総統選挙が実施さ れた。臨時政府組織大綱第1条で「臨時総統は各省都督代表がこれを選挙し、投票総数の 3分の2以上の獲得で当選とされ、投票権は各省1票」と規定されていた。選挙に参加した のは直隸、奉天、山東、山西、河南、陝西、湖北、湖南、江西、安徽、江蘇、浙江、福 建、廣東、廣西、雲南、四川の17省45名の代表であり、孫文は17票中16票を獲得し、中 華民国初代臨時大総統に選出されたのである。
12月8日、袁世凱は唐紹儀を内閣総理大臣の全権代表として派遣、12月9日には唐紹儀は 武漢に赴き黎元洪やその代表との会談を行い、同日各省代表は伍廷芳を停戦交渉の全権代 表に選出した。 列強諸国の介入もあり、清朝政府代表の唐紹儀と各省代表の伍廷芳は上海イギリス租界で 交渉を開始、その結果、袁世凱は宣統帝の退位を支持することを 条件に、各省代表は袁 世凱の中華民国大総統への就任を支持した。成立したばかりの共和国から内戦や外国軍隊 の介入を未然に防止する観点からも、孫文もまた 中国の統一と袁世凱を首班とする共和 政府の樹立に同意している。 唐紹儀 伍廷芳 1912年1月1日、中華民国臨時政府が正式に成立、孫文が臨時大総統に就任した。1月2 日、孫文の大総統就任を知ると、袁世凱は唐紹儀の交渉代表資格を停止している。 1月16日、袁世凱は朝廷からの帰路、東華門丁字街で同盟会京津分会組織の爆弾による暗 殺計画に遭遇している。この暗殺は失敗したが、17日に袁世凱は革命勢力に対し暗殺活動 の停止を要求している。 1月20日、民国臨時政府は袁世凱に対し、皇帝の退位と優待条件を提示、1月22日に孫文 は袁世凱が宣統帝の退位に賛成するのであれば自らは大総統職を辞任し、袁世凱の就任を 要請する声明を発表した。地位が保証された袁世凱は清朝に対する圧力を強め、慶親王奕 と那桐への政治工作、隆裕太后の寵愛を受けた太監である張蘭徳に賄賂工作を行い、
「時局の大勢は既に決し、もし革命軍が北京に到達すれば皇帝の生命の確保もおぼつかな いが、退位することで優待条件を受けることができる」と退位を勧めた。
1月29日、清朝は朝議により宣統帝の退位を決定、2月3日には隆裕太后は袁世凱に全権を 委任し、民国臨時政府との皇帝退位条件の交渉に当らせた。
2月6日、臨時参議院は皇帝退位のための『優待条例』と張謇が起草した『退位詔書』を 承認した。承認された優待条件は下記の通りである。 1. 大清皇帝尊号は今後も使用可能であり、民国政府により外国君主と同等の待遇を受 ける。 2. 民国政府は毎年400万元を皇帝に支出する。 3. 皇帝は暫時紫禁城に居住し、後に頤和園に移る。 4. 清室の宗廟は民国政府により保護を受ける。 5. 光緒帝王の崇陵建設費用は民国政府が支出する。 6. 宮廷内の雇人は継続して雇用される。 7. 皇室の私有財産は民国国軍により保護される。 8. 禁軍は民国陸軍に編入する。 皇帝退位に伴う優待条件以外に清皇室及び満蒙回蔵各王族の待遇条件7条も同時に定めら れた。 2月12日、清朝内閣総理大臣袁世凱等の内閣勧告により宣統帝の母后である隆裕太后は清 皇室への優待条件を受け入れ、『退位詔書』を発布、清朝最後の皇帝、宣統帝の退位と袁 世凱が組織する共和政府への権限移譲が行われた。この時に、有期限の元号は廃止され、 1912年を元年とする無期限の民国紀元(中華民国暦)が施行された。『退位詔書』は張 謇により起草、臨時参議院を通過したものである。しかし袁世凱により全権組織された共 和政府という表現は袁世凱により追加されたものである。これにより清朝は死滅し、 2000年以上続いた帝政は終に廃止されたのである。 「ラストエンペラー」は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による 清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画である。 この映画がYouTubeで紹介されているので、それを次ぎに紹介しておきたい。 http://www.youtube.com/watch?v=mTTeE1Lhbkg http://www.youtube.com/watch?v=IbyHSmIR9fA&list=PL8FDACDBCB7A4B2A7 http://www.youtube.com/watch?v=CppajH6il5Q&list=PL96ACDB31E24545B7 http://www.youtube.com/watch?v=OEBStAjm1Eo&list=PL8FDACDBCB7A4B2A7
宣統帝退位後の1912年2月13日、孫文は辞表を提出し、臨時参議院に対し袁世凱の大総統 就任を推薦した。2月15日、臨時参議院は袁世凱の第2代臨時大総統就任と南京を首都と することを承認、3月8日には『中華民国臨時約法』を制定した。 3月10日、袁世凱は北京で中華民国第2代臨時大総統に就任、この直後より諸外国からの 政府承認が中華民国に行われた。袁世凱は北京兵変を理由に北京に遷都している。 袁世凱の就任後強力な中央政府の保持に努め、一部革命メンバーによる各省の分離独立の 動きを阻止している。同時に袁世凱は積極的に列強との間にモンゴル及びチベットに対す る主権承認交渉を行っている。 これより1928年までの期間を「北洋時期」と称し、当該期間内の中華民国政府は「北洋 政府」と称される。 1913年2月、『臨時約法』の規定に従い、中国史上初めての国会選挙が実施された。選挙 の結果は中国国民党が第一党の地位を占め、宋教仁を総理大臣とする内閣組閣準備が進め られた。しかし3月20日、宋教仁が上海で暗殺された。この暗殺の背景には袁世凱の指示 があったことから、7月には孫文により第二次革命が計画され、袁世凱に対する武装蜂起 が実行されたが、程なく鎮圧されている。第二次革命を阻止した袁世凱は自ら皇帝を自称 しようとしたが、支持を得られずに失敗し、間もなく病死した。袁世凱の死後、中国は軍 閥割拠となり、孫文は広州で護法政府を組織し(第三次革命)、中国の政治情勢は分断と 動乱の時代に突入した。 孫文の二回の護法運動は、軍人の支持により開始されたものであったが、軍人の支持を失 うことで失敗に終わった。護法運動の後、孫文は、自分で軍隊を創設し革命を進めるよう になった。連ソ容共政策が開始され、1923年1月26日、上海における孫文とソビエト連邦 代表アドリフ・ヨッフェの共同声明は中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し た。孫文・ヨッフェ宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告で あった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次 広東政府)した。コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿 いながら中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年中国に入り、孫文の主要な顧 問となった。ボロディンの進言により1924年、中国国民党に中国共産党員を受け入れる 第一次国共合作がなされ、黄埔軍官学校も設立された。護法運動の理念は、強化された中 国国民党の軍事力を背景に、最終的に、蒋介石の北伐で結実することになった。 護法運動(ごほううんどう)は、1917年から1922年にかけて孫文の指導の下、中華民国 北京政府の打倒を図った運動のこと。中国国民党の歴史の中では「第三革命」とも称され る。ただし、日本では護法運動と第三革命は必ずしも同義ではない。
国共合作を行った孫文は大正13年(1924)に日本の神戸高等女学校で有名な「大アジア 主義」の講演を行なったのち、北京に戻って肝臓がんで死去した(1925[大正14])。 そのとき、孫文は遺言で墓を南京郊外の紫金山に指定し、そこに葬られた。 南京郊外の紫金山の孫文の墓(中山陵) ( http://blogs.yahoo.co.jp/axttony/archive/2007/03/24 より) 昭和12年(1937)12月、日本軍が南京を攻めたとき、紫金山に大砲を上げて撃つと狙い がつけやすかったにもかかわらず、松井岩根司令官は「孫文の墓があるところだから遠慮 しよう」といって使わなかった。それぐらい気を使って南京を攻めた。孫文の死去により 国民党は求心力を失い、激しい党内権力闘争が始まった。その凄惨さは北洋軍閥間の内戦 以上だった。孫文の急死と共に国共合作の矛盾は表明化し、その中で台頭したのが黄埔軍 官学校長の蒋介石だった。 では最後に、孫文の遺言をご紹介してこのページを終わりたいと思う。彼は次のように 言っている。すなわち、
『 余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は大アジア主義に 基づく中国の自 由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったこと は、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起 し、また、世界中でわが民族 を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということであ る。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてのような功利主義的国内革 命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つ め直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道に対するアジアの王道の優越性を強く唱え続 けることが肝要である。 しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した 『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続 き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。』・・・と。