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歴史におけるアイデンティティの諸相
一 課題と方法
-高田 実 編
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INSTITUTE OF SOCIAL SCIENCE
AND THE HUMANITIES
KYUSHU INTERNATIONAL UNIVERSITY
2-6-1, OGURA YAHATAIDGASID-KU
KITAKYUSHU, JAPAN 805-0059
TEL (093) 661 -7694
FAX (093) 663-1612
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歴史におけるアイデンティティの諸相
一課藩と方法-高田 実
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要
旨
≪アイデ ンテ ィテ ィの危機 ≫をめ ぐ りさま ざまな分野で真剣 な問いかけが続 け られ ている。 その中で時間、空間上の他者との対話を通じた 自己認識を課題とする歴史学は、 いかにして新たな歴 史認識の方 法と歴 史像をつくりあげることができるか。本ペ ーパ ー は、 西ヨーロッパの歴 史における多層的な 自己意識 とその関係性を明らかにする方法を模 索す ることで、この課題 に取 り組もうとしている。記憶 、ネイション、アソシエイション、そして宗教を 問う新たな視座が提示される。目 次
はじめに 第1章 「記憶」と史料 -・-- 高 田 実 1 --・・・ 鶴 島博和 2 第2章 中世フランスにおける地域/王国アイデンティティ -・-- 鈴木道也 7 第3章 「ドイツ国民 」の誕生と神聖ローマ帝国 ・・--・ 山本文彦 12 第4章 "fratemitas":中世の人的ネットワークの実態に係る研 究課題 ・・-・- 前 山総一郎 18 第5
章 近代イギリスにおける個 ・アソシエイション・国家 -「中間にあること」-の問いかけ一第6章
エリザベス時代の国教強制とアイデンティティ I--- 高 田 実 23 ・--- 楠 義彦 27は じ め に
世紀転換期を迎え、さまざまな21世紀論が論壇をにぎわしている。われわれはどこから来て、ど こ-向かおうとしているのか、100年単位、1000年 単位 のこの区切り目に考えてみようというのだ。 この問い 自体 は単なる数字 の切れ 目を契機 として発 せられるニュー トラルなものであろう。しかし、 それを社会的背景や認識の枠組みの中に置いてみると、これが深刻な≪アイデンティティの危機≫ の表象であることに気づくO 「グローバリゼーション」の進行がもたらす 「国民国家」の相対化と「市 場主義的効率」のみを追求する異様な競争社会の出現、その中で暮らす現代人の孤独と疎外感 の拡大とそれを反 映する一連の 「事件」、こうした個 と社会の隔絶を危うい共 同性 の再興で埋め戻 そうとする政治 的な動きとそれを後 押しする歴 史と記憶 の書き換 え。この 中で、一体われわれはど こに居場所を定め、どこを見据 えながら生きてゆけばよいのか 、真剣な問いが、さまざまな分野で 発せられている(細見和之『アイデンティティ/他者性』、岩波書店、2000年、豊泉周治『アイデンティティの社会 理論一転形期日本の若者たち-』、青木書店、1998年、テッサ-モーリス-鈴木(大川正彦訳)陀壬境から眺める -アイヌが経験する近代-』、みすず書房、2000年など)0 「われ」とは、「われわれ」とは何かというこの問いかけに対 して、これまで佳われてきた「言葉」た ちは、どうも納得 のゆく答 えを与えてくれないようだ。むしろそのような「言葉 」、例えば 「近代的個 人」、「共 同体」、「階級 」、「国民国家」などとそこに含 まれた認識 の構 図、それ 自体-の根本的な 問い直しが求められている。だからこそ、その≪危機 ≫は一層深刻なものにならざるをえない。 時間、空間上の他者 との対話を通じた 自己認 識を課題とする歴 史学は、この問い直しの重みを どう受け止め、いか にして新たな歴史認識の方 法と歴 史像をつくりあげることができるのであろうか。 「歴 史 におけるアイデンティティの諸相」と題す る社会文化研究所 共 同研 究(3年 間予定)は、この 課題 に歴史認識の具体的な場から取り組もうとしている。歴史の中に含まれる多層的な 自己意識 と その関係性を、西ヨーロッパの歴 史の舞 台で明らかにすることを意 図している0本プロジェクトは、 2000年10月の全体研 究会 (九州 国際大学で開催 )を中心とした活動をおこなったが、このペーパ ーはその初年 度の活動成果報告書である。具体 的には、文字 史料によってつくりあげられたアイ デンティティ-
「集 団的記憶 」の意 味(PARTI:鶴 島工 「ネイション」の歴 史 的成 り立ちと構 図 (PART Ⅱ:鈴木、山本)、アソシエイションや 「中間団体」の特質把握 (PARTⅢ:前 山、高 田)、 そしてヨー ロッパ社会の基層をなす宗教と国家の関連(PART Ⅳ :棉 )、これらを問題 にする研 究 動向の整理や方法論を検討し、今後の研 究のための方法的視座を確認 しようとしている。 「われわれ」とは何か、歴史学 自体 のグローバリゼーションの中でこれまでの「日本学」としての存 立基盤を問われつつあるわが国の西洋史学にとっても、この問いは重たい。 (高田 実)第
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章
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記憶Jと史料
鶴 島 博和 は じめに アイデ ンテ ィテ ィ(identity)を 日本語で言い表す とすれば居所証明 とで もいお うか.それ も 本論で問題 とす る、歴史におけるアイデ ンテ ィテ ィとは、ま さに 「来 し方の証明」である。 「来 し方証明」は 「記憶」 と言い換 えて もよいで あろ う。但 しカ ッコで括 らな くてはな る まい。 とい うの も歴史における 「記憶」 とは、個人的な過去 を呼び起 こす知性 としての記 憶(memory)ではな く、共有 された過去の説明 とい う意味だか らであるO この歴史学が扱 う 「記憶」は、一般的には集合的記憶(collectivememory)とか、社会的記憶(socialmemory)とか 言われて きた。 しか し、記憶が本来個人のメンタルな過程 であることを考慮す ると、 こ う した用語は意味論的には不明確 とな らざるえない。 「記憶」は、個人の記憶か らも生まれ、 個人の記憶を生んでい くとして も、結局 は、思い出 された 「真実」 とい うよ りは、ある集 団の過去 に対す る共通 の認識だか らである。 そ して 「真実」 はその限 りにおいて意味 をも つO とすれば、集合記念(commemoration)とで も呼ぶべ きであろ う. しか し、本論では一般 的に使用 され てきた、集合的記憶 とい う言葉 を使用す る。但 し、多少 とも限定的な概念規 定を必要 とす る。 集合的記憶 とは、共 同体構成員 によって受 け入れ られた過去の説明である。 これは、共 同体 によって、取捨選択 のメカニズムを通 して、突然変異的 にない しは反復的に作 り上 げ られ、公式の歴史 として 自明 とみな された構成体(composition)である。共同想像または共同 幻想 と言 い換 えて もよい。 ここでい う共 同体 とは、持続的な共同行為が計算可能で秩序化 され た集 団 とで もい うものである。従 って、家族 か ら国家まで、地域共同体か ら職能共 同 体まで と様々である。歴史学 とは、様 々な共 同体 が作 り上げた 「記憶」 の宇宙に線 を引き 星座 を作 り出す古の牧者 の試みに も似ているのか。 アイデ ンテ ィテ ィとは、 この取捨選択の秤 である。 そ してそれ はまた、計 ることによっ て少 しずっ、あるいは突然 自らの尺度を変 える秤 である (第二次世界大戦後 に叢生 した 「民 主主義者」をみ よ)。本論 は、この厄介な秤 によって想像 された 「記憶」の諸相 についての ささやかな考察である。 それ も、その 「記憶」を伝 える史料 の存在形態 を意識 したもので ある。対象 も.11世紀か ら13世紀のイングラン ド中世史 に限定せ ざるをえないO しか し、 12世紀に起 った 「中世文書主義」とで もい うべ き、「記憶」の保存 に関す る地殻変動故に、 そ して記憶 をメモ リー とも表現す る ヨー ロッパ化 としての 「世界史の成立」 とい う歴史の宿命故に (た とえ 「歴史は死んだ」 と強弁 しても)、この限定は、思想 を強靭なものにす る チャンスを我々に与えて くれるだろ う (西谷修 『世界史の臨海』岩波書店
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年)0 1.記憶は如何に して伝達 されたか一 口頭伝承 と文字伝達一 記憶 を伝達す る方法は二つある。 口頭伝承 と文字伝承である。現代社会においては、読 書き能力(literacy)は市民生活の前提 となっている。 この文明の常識は、 しか し、ひ とつの、 決 して間違いではないけれ ど真実で もない神話を生み 出 した。 口頭伝承 に対す る文字伝承 の優位である。文字資料(text)のもつ累積性 は、過去を年代記的に配置 してやまない。 これ に対 して 口頭伝承 の世界は、時 として非連続的であ り、共時的であ り通時的で もある全体 である。そこには、過去 と現在の、一見錯綜 した独 自な関係 がある。文字を持たない世界 を近代は侮蔑の 目で解釈 してきた。文字 を持たないことは非文明の証 とさえされたので あ る。た しかに、 レグィ ・ス トロースの 『野生の思考』 は侮蔑 の差異を砕 いて、世界を分節 化す る醒 めた 目を与えて くれた。 しか し、それで も口頭伝承か ら文字伝達- とい う、発展 の神話は崩れ ることはなかった。 マイケル ・クランチーの 『記憶か ら書かれた記録へ :1
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年のイングラン ド』 (M_T.Clanchy,FromMemo7ytOWrittenRecord:EnglandlO6611307,2ndedn.Oxford,1993)は、歴 史学の基礎 ともい うべき、史料の在 り方 とその社会的環境を見事に描き出 した名著である。 「書かれた記録」は、1
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世紀か ら1
3世紀にかけて圧倒的な革命的重要性を獲得 した。現荏 の IT革命 を印刷術の発明に例 えるな らば、この革命は 1980年代後半のコンピュー タ普及期 のそれに匹敵す るかもしれない。 しか し、「記憶か ら」 とい う表題は、この時期に口頭伝承 の衰退が起った、 とい う印象を読者に与えて しま う。 1999年の英国王立歴史学協会の紀要(Transactz'OnsoftheRoyalHistoricalSocieO',6thser.9)は、 「口頭の歴史、記憶、そ して記述 された伝統」 とい う特集 を組んだ(
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。 ここに収 録 された論文 に共通 して見 られ るのは、かか る神話の総括である。 中世の早い時期か ら文 字資料の作成 は重要な意味をもっていた。一方、近代 になっても、否、現代 において さえ も、 口頭 による伝承は、記憶伝達の圧倒的部分を占めているのである。 口頭伝承 と文字記 録は相互に依存 しあいなが ら 「記憶」を伝 えていった。我々が検討すべきは、1
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世紀にな って顕著 となってきた、記憶の文字化、ない しは文書主義で あって、記憶か ら記録-の道 を発展 として描 くことではない。 さらに重要なことは、記憶が文字化 され ることによって、 新たな 口頭伝承が生まれたことであって、記憶が正確 になる とい うことではない。事実のなかに、様々な憶測、脚色そ して嘘が入 り込み、文字によって固定化 (均質化) され、以 前には想像もできなかったほど多 くの人々の共通の記憶 と化 したのである。伝承はこ うし て伝統 となる。 口頭伝承は文字文化に大きく依存 していた。 2.文書主義一史料はいつか ら管理されたか一 史料を分類す る作業は容 易ではない。 ここで、本論の展開に必要な限 りにおいて (イン グラン ド中世史 とい うことを前提 に して)史料を、文書史料 、記述史料、報告史料の三つ に分類 してみ よ う。それぞれ、広い意味での 「手紙」、「日記Jない しは 「手帳」、「台帳」 と考えれば大過ないであろ う。 文書資料は、通常裁判な どで証拠能力がある資料である。チャー ター(charter)、告知文書 (notification)、書状(Writ)な ど再分類できるが、詳細には立ち入 らない。ただ、イングラン ド の文書資料の始ま りは、 7世紀末であるが、大陸 とは異な りローマ帝国の習慣 よりもロー マ教皇庁にあった ことは明記 してお く必要があるだろ う。証拠能力は、文書そのものにあ るのか、それ とも冒頭定式の十字架や 「神の御名 において」 とい う荘厳なる文言、もしく は持ち手の権威 によるのかは時代 によって異なるであろ うが、ここでは検討できない。 年代記(chronicle)に代表 され る記述史料は、その始ま りの一つを、復活祭表の余白-の事 件の書込みにもつ。今風に言えばカ レンダー-の書込みが始 ま りである。本格的なものは、 12世紀か ら出現 している.年代記が生者のための記述史料だ とすれば、『命の書』(励ervT'tae) は、死者の年代記であった (聖人伝は省略す る)。 キ リス ト教は、「思い出の宗教」である。 死者-の記憶は、宗教行為 としての 「思い出」なのである。『命の書』は、 ミサ典礼書に、 教会や社会に とって重要な人物を書 き入れたことに始まる。思 い出は ミサ執行によって再生 産 され る重要な儀式であった。ただ、イングラン ドには、『命の書』は、グラム司教座付属 修道院、ハイ ド修道院、 ソーニ修道院の三箇所に残っているだけである。 ソーニ修道院の
『命の書』は福音書の前に綴 じられている(BritishLibraryAdd.40,000,fTos.1112)Oここには貴 族か ら地域の騎士 ・ジェン トリにいたる家の 「記憶」が詰め込まれている。
報告書 (ない しは台帳)形式の史料で最 も有名 なものは、『ドゥー ムズデー ・ブ ック』
(DomesdayBook)である (他 にはPipeRolls,ManorialAccountsな ど). 1086年にウイリアム
一世は 『ドゥームズデー・ブ ック』を作成す るために、全王国の調査 を命 じた、と考えられ てきた。これに対 して、D.ロフは、1086年に国王政府が意図 していたのは審問であって、
た、 とい う画期的な論 を展開 した(D.Roffe,Domesday:melnquestandTheBook,O
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ford,2000)a 『ドゥームズデー ・ブ ック』がそのなかで群 を抜 く存在 となったのは、国王政府 の史料であ った こともさることなが ら、その形式が、政府の一般的な文書保管様式である巻物(rolls)で はな く、聖書 と同 じ本形式(codex)であった とい う理 由による。従来、11世紀末か ら出現 し て くる報告書形式の史料 は、ある行政上の 目的にそって作成 された と信 じられてきた。 た しかに現代官僚社会 にお いて、報告書は行政 の一環で あるo しか し、中世においては、報 告書を作成 し、それ を恒 常的に必要 とす る行政機構 は存在 しなかったO ドゥ- ムズデー審 問が可能だったのは、審 問の舞台であった州 共同体の情報収集機能 と王権の命令下達機能 が共に作動 していたか らで ある。従 って、州 の審 問で作成 された史料は、共同態 の性格 を 強 く持 ち(InquisitioComitatusCantabrigiensis,ed.N.E,S.A.Ham ilton,London,1876のよ うに 陪審団についての情報 を提供す る といった)、一方、『ドゥームズデー ・ブ ック』 は、国王政 府の家政史料 としての性 格 を備 えていた.一つの審問過程 において、複数 の 「記憶」 の取 捨選択原理が機能 していたのである。12世紀 に、史料の作成数 は劇的に増加 した。エ ドワー ド証聖王の治世 (1042年- 1066年) の約23年 間に残存 した王文書数 は165通(P.Sawy er,Anglo-SaxonCharters,London,1968)、残 存率を1%(クランチ-)と計算す る と、総数 16,500通、年平均717通であるのに対 して、-ン リー世が1130年 に発給 した文書数 は、クランチーの試算では4,500通、ほぼ6倍強 とな っている。 11世紀末か ら12世紀末 までに、文書の数は20倍か ら100倍 の幅をもって増加 した とい う鶴 島の試算 も可能であろ う。 1226年か ら1271年の50年間だけで、国王の尚書 部(chancery)が消費 した文書に付 ける印章用の ワックスの量は約 8.8倍 に増加 している.単 純に言 えば、文書発給はその数だけ増加 した ことになる。 しか し12世紀 を通 して起 こった変化は、 この数 の増加 だけに留ま らない。 もっ とも、 こ の等比級数的な増加 は、それだけで、文書主義の到来 と、記憶の保存 に対す る集合心性 の変化 を意味 してはい るが。-つは、史料形式の多様化 である. 二つ めは、史料保管の体 系化 と合理化 であろ う。 まずは、文書庫(archives)が 出現 した。従来 、祭壇 の周辺 に保 管 さ れていた史料 は、その数 の増加 に よって、別 個の文書庫 に収蔵 されてい く。 さらに、一葉 の文書は、 目的に従 って纏 め られ 、転写 され 、製本 された。 これで散逸 を防 ぐことがで き るo こ うした文書集成 を私たちは cartularyと呼んでいるO最古の例 は11世紀 に ウ-ス ター の教会で作成 された。それ に続 くのが、1120年代 に ロチ ェスタで作成 された TextusRoffensis
13世紀には 200冊を超 え、俗人領主のものも現れてくる。初期の cartdaryは、所蔵 して いるほぼすべての文書をおお よそ時系列 にそって並べていた。時代が経つにつれて、明確 となった編集 目的にそった文書が選択 され、その配置 も地理的配置や時系列などを組み合 わせたより体系的なもの- と変貌 していった。そ して、インデ ックス付 きの cartularyが出 現 し、保存場所の箱の番号な どが付 され、よ り行政的 目的に適 うもの となっていった。 こ の変化は、受領 した文書の保管システム と文書庫の成立過程を反映 している。三つ 目は、 「中世文書主義」を示す最 もよい事例であろ う。 それは、発給 した文書の写 しを保存 して 体系的に整理す る官僚的な文書管理の始ま りである。ジョン王の治世 (1189年- 1216年) か ら国王の尚書部は自ら発給 した文書の写 しを、巻物の形で保存 し始 めたのである(Charter
Rolls,CloseRolls,PatentRollsetc:R_Bartlett,EnglandundeT'theNonnanandAngevinKT-ngs
1075-1225,OxIoTrd,2000,pp.193-201)O 3.記憶 とアイデンテ ィテ ィの諸相一終わ りとして-ll・12世紀は、史料の大量生産の幕開けであった一方で、偽文書の大量生産の時代でも あった。 中には、偽文書作成の専門家 も存在 した。 ヨー ロッパ 中が 自分たちの 「来 し方」 と居所証明を求めて、奔走 し始めた。 必要な史料を集め、整理 し、そして作成 した。 そこに 大量の偽文書が発生す る余地があった。 「文書主義」-の傾斜は、 ヨー ロッパがラテン的キ リス ト教世界 とい う一個の文明圏 として確立 した ことを示 しているO それは、共通のラテ ン典礼によって ミサを行い、真実語 としてのラテ ン語 をもつ世界であった。世俗内化 した 教皇庁を頂点 とす る教会組織が整備 されれば され るほ ど、各教会は、 この組織の中に自分 の居場所 を定め、権利 を確認 しな くてはな らなかった。そのために司教座教会や修道院は 「歴史的探究」をはじめ、文書を整理 して、膨大な量の cartulary と年代記を作成 していっ たのである。同じ頃、王国も制度的領域国家 として構造化 されていった。地域の有力者が、 彼 らの州共同体が、王国を超えた汎 ヨー ロッパ的貴族が、王家が、そ して王国そのものが、 「正 しき秩序」 と居所証明を模索 し始めたのである。混沌 と争いの中か ら、ジェン トリと 貴族、州共同体 と王国共同体、イ ングラン ド王権 とい う諸共同体理念 が各々の一様化 され た 「アイデンティティ」に支えられて生まれてきた。 「記憶」の文字化 と社会的環流はアイ デンティティの均質化ない しは社会化に大きな役割を果た した。そ してそれは、一方にお いて、様 々な可能性があった 「過去」の 「史料」による抹殺でもあった (鵜島博和 「動 く 森のように
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『思想』2001年、近刊)a第
2章 中世フランスにおける地域/王国アイデンティティ
鈴木道也 すでにベルナール ・グネは1967年の論文 『中世 フランスにおける国家 とネイ シ ョン』(文 献[2])の中で中世国家 とネイシ ョンの問題 を取 り上げ、中世 フランス王権がネイシ ョンを 創造 していく過程 に着 目していた。 しか し今か ら十年 ほ ど前に多 くの中世史家が参加 して 編んだ論文集 『近代国家の起源』 (文献 [3])では、認識概念 としてのネイシ ョンあるいは ナシ ョナ リズム と支配装置は切 り離 され、再編 ・統合 の枠組み として中世 フランス王国の 存在 は 自明の もの とされている。そ こでは中世的統治機構 の近代-の連続性 が強調 され る とともに、国家的内実を備 えていた とされ る複数 の政治的統一体が領域の拡大、縮小 を繰 り返 しなが らも、最終的には 「必然的に」フランス王国に統合 されてい くことになる。 他方で、最近刊行 された 『地域アイデンティティとネイシ ョン意識』 (文献[
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は、地域 意識 あるいは王国意識の諸相に言及 しているが、支配 の実態-の関心は必ず しも高 くはな い。 ここには認識概念 と実態概念 の混同、あるいは短絡的な接合が見受 けられ、そ こに中 世における王国 としての 「フランス」
「フランキア」 と、「邦 (regnum)」 と表現 され る諸領 邦 との正 しい関係性 を読み とることは残念なが ら難 しい。 以下では、
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M.メ- グランの論 文 (文献 [4])を参考に しなが ら、中世 フランスにおける地域意識 と王国意識 (以下、地域 /王国意識)について考察す るためのいくつかの論点を整理 しておきたい。 中世の地域/王国意識 を巡 る最近の議論 はほぼ次の三点 にま とめ られ るO先ず第-に、 「エ トニ」概念の再検討 が進んでいることが挙げ られ る。 これ までフランス史学では、ネ イションの近代的性格を相対化 し、その起源 を中世にまで遡 らせ ようとす る作業の中で、 ネイシ ョン概念に先行す る自生的な地域意識 としてエ ト二の存在 を想定 してきた。 しか し このエ ト二が、上か らの創造 と強制 とい う側面を持つネイ シ ョンとの対比において、生態 的で客観的な現実を有 し均質な共同体を構成 している とす る考え方は、いまでは一つの神 話 と見な されている。特定の集団-の帰属意識が醸成 され る要件 の一つに、集団の一個人 もくLは複数が財産、生命、名誉の危険に直面 した際に集 団 として協調 し連帯性 を示す こ とが可能か否か、い うことがある。 しか し地域 とい う広が りの下での共 同性 は、少な くとも限 られた生活圏の中で生きる民衆の側 か ら要請 され るものではない。広域的な経済的軍 事的連帯を必要 とす る一握 りの集 団が、生涯一度 も顔 を合わせ ることのない よ うな人々が 同一の共同体に帰属 していると思わせ るよ うな、地域共同体意識を創造 してい くのである。 中世にあっては、いわゆる 「想像の共同体」は地域 レグェルか ら構想 されてい く。 第二に、地域/王国意識を特権化せず、幾重 にも積み重なる諸々の帰属意識 の一つに位置 づけることで、あらためてその特性 を探 ろ うとす る試みが現れてきている。そ こでは地域/ 王国意識 も世帯や親族 といった血縁集団や友人関係、あるいは職能団体や結社的宗教組織 への帰属意識 と同列に論 じられ る。 この時地域/王国意識の形成は、それが親族や友人のよ うに 日々接す るわけでもな く、職能団体 のよ うに生産活動に直結す ることもない以上、 よ り困難であ り、また仮に認識 され得た として も帰属意識はよ り希薄なもの とな らざるを得 ない。それで も地域意識 は統治組織や領域 といったある程度の実体を伴 って構成 され るの に対 して、王国意識 に至っては、観念的に構想 され照応す る実体を持たない もの として位 置づけ られることになる。 第三に、地域/国家意識の形成、普及 に決定的な役割を果たす政治社会集団の在 り方 とそ の具体的な行動が注 目されている。 中世は想像のための有効な装置を持たないか ら、地域/ 国家の物語 (記憶)を創造 して発信 し、それ を定着 させ民衆の想起、協働を促 してい くこ とは極 めて難 しい。遠い過去か ら現代に至 る人民の歴史を明示 し、それ を通 じて 自らとそ の生活す る土地 との間の切 り離す ことの出来 ない関係 を意識 させ るための具体的かつ有効 な手段が模索 され ることとなる。 もっとも、地域的あるいは王国的統合 に際 して持ち出さ れ る理念や起源神話、象徴的事件 は多様 であるが必ず しも実態に基づ くものではな く、む しろそれ らは中世国家や領邦の現実的形態に大きな影響を与 えてい く。身近な集団に対す る強固な帰属意識や、よ り伝統的な法 ・権利 共同体意識 と競合 しつつ、中世 にあってこ う した地域意識 の確立に尽力す るのは広域的支配を行 う諸侯 とその廷臣集団であ り、また-領主 としての王であるが、同時に王権は、王国 とい う特殊な観念体の構築をも目指 してい くことにもなる。 十三世紀以降のフランスにおける地域/国家意識の展開は中世歴史叙述の発達 と軌を一に してお り、政治的支配集 団に よる創造 活動 の場 とな った年 代記 (chronique)と家系譜 (genealogie)に史料的関心が寄せ られている。 そこでは年代記 を通 じて 「王国」意識が、ま
た家系譜の中か ら 「地域」が生み 出 され る過程を明 らか しよ うとしてい る。 中世 フランス 王国で作成 された年代記は、キ リス ト教的普遍史を書き記す ことを 目的に作成 された普遍 年代記の系譜 を引いている。そ こでは普遍史的歴史叙述の中に王を中心 とす るその一族 の 事績 が位置づけられ、法史料や諸記録が挿入 されてはいるものの、一つ一つの歴史的因果 関係 を説明 しよ うとす る意欲は希薄であ り、王国は神 によって定められた歴史の-構成要 素 としての役割 を与えられ描かれていく。 こうした王国年代記の中で王国は 「フランス」、 また王国民は 「フランス人」 として描かれ るが、注意 しなければな らないのは、 これ らは 明確 な領域性 を伴 って想起 されているものではない とい うことである。従って例 えば中世 カペ-王権の年代記の中で統治の中核地帯をなすパ リ周辺地域やパ リ周辺民は 「パ リ」 と か 「パ リ人」 とか呼ばれ ることはあっても、それ らが限定的に 「フランス
」
「フランス人」 と呼ばれ ることはない。
「フランス」は地域 としてのフランスの領域的拡大や、諸地域の総 体 としてではな く、普遍史の中でその性格 を規定 された観念的構成体 としてのみ存在 して いるのである。そ してそ こにあらゆる種類 の歴史的神話、伝説、儀礼、象徴物が注ぎ込ま れてある種の王国イメー ジが形成 されると、今度 はそれが王権に集約 されて 「フランス」 の運命が王の歴史 と同一視 され るよ うになってい く。 (文献 [2]) 四 一方、地域意識の形成に大きな役割を果た した とされているのが、フランス各地で有力諸 侯が作成 した家系譜である。 もともと家系譜 は、いに しえか らの絶 えなき系譜を示す こと で、当地 とその住民に対す る諸侯 の支配 を正当化 し、それが神意に適 うものであることを 示す とい う目的を色濃 く帯びていた。 しか しそれはまた同時に、家系の起源 ・歴史 と彼 ら が支配す る土地の起源 ・歴史 とを混同させ、両者 を一体化 し、ひ とつの地域集団を浮かび 上が らせ る効果 も持っていた。起源神話 に始まる家門の歴史が語 られ る中で土地 と人民は 有力家門 と分かち難 く結び合わ され、そ こに 「地域」が創造 されてい く。我々がこれ まで 取 り上げてきた 「ェ トニ」なるものは実はこ うして生み出されてきたのである。 は じめは家系成員の個人名 を羅列 しただけだった家系譜 も、次第に個々の生年や結婚年、 そ して没年な どの個人情報を加 えて内容 を充実 させてい く.次いで一人一人の事績が事細 かに書き添え られてい くなかで、今やそれは 「地域」の歴史を記録す るもの- と発達 し、 形態上は年代記 と変わ らないものになる。 しか し普遍史の中に王朝の歴史が融合 していっ た王国年代記 とは逆に、 ここでは諸侯の物語が地域の歴史を作 りだ していくのである。 さらには、特定の地域出身者が帯びていた集団名が、同 じ有力諸侯の支配下にある別の場所 の住民に適用 され る場合、また諸侯位継承者だけではな く、その親族が支配す る領域全体 が特定の家系譜的年代記の叙述対象 に含 め られてい く場合 もあった。様 々な土地の様 々な 人民の記憶が家系の記憶 と呼応 した り対立 した りしなが ら次第に融合 を遂げ、「地域」その ものの再編、拡大が行われてい く。 ここか らは、家門意識の形成がまた同時に地域意識 の 問題 とも深 く関連 してい ることが理解 され る。 しか し時には、ある家門が当地 を支配 し公 的な称号を得 るまでに、すでにその地に強固な伝統が作 り上げ られて しまっていることも あっただろ う。家門の物語 とは明 らかに異な り、それ ゆえ相容れない記憶を有 した土地が 存在 していた場合 には、そ うした土地の歴史を犠牲に してで も諸侯が構想す る 「地域」の 正当化が進め られ ることになる。 こ うした家系譜における叙述内容の量的増加 と質的充実 に伴 って、その形態上にも様 々な変化を確認す ることが出来 る。例 えば当初 ラテン語で記 録 されていたのが次第に中世 フランス語 を用いるようにな り、また文体 も散文形式が主だ った ものが次第に韻文で叙情的に物語 られてい く。追記に際 して も、あるものは旧版-の 書き込みを重ねるとい う方法をとっているが、別 のものは全面的な改訂、あるいは全 く新 しい家系譜の作成 を頻繁に行 う場合 もあった ことが知 られている。 この家系譜 とともに、死者の記念顕彰を 目的 とし、具体的には葬送行列、追善祈祷 、墓 地 ・墓碑の建設 といった形態を とる追悼儀礼 (mem。ria)も、地元住民の協力 と参加 を通 じ て、土地の記憶 と諸侯の記憶 とを同一化 させ るひ とつの場 として注 目されている。 五 中世フランスにおける地域/王国意識を巡 る最近の動向を、利用史料の問題 も含め概略的 に整理 してきたが、なお最後に三点ほど指摘 しておきたい。第一に、いま上で見たよ うな、 諸侯の家系譜を軸に 「地域」形成の具体的態様 を解明 してい く手法は確 かに有効であるが、 全ての地域意識 をこの方法で説明す るこ とは困難である。早 くもフランシス ・ラップ (文 献[6])は、中世アルザス地方の分析 を通 じて、 ヴォ-ジュ山脈か らライン川に至るこの地 域では、 自らの固有の歴史 と地域の歴史の同化を試みた有力家門は存在 していなかった こ とを指摘 している。 この地では、いかなる諸侯 も地域の記憶 を 自らのために用い、発達 さ せ ることはなかったOアルザスの地域意識が急速 に発達 してい くのは、近代 における諸国 家間の紛争によるものであ り、その試みは現在で もまだ継続 しているとい う。分析手法の 適用可能性を慎重に見極 めなければならない。
第二に、諸侯 による 「地域」形成のプロセスか らこぼれ落ちて しま う土地固有の記憶-の配慮が必要であろ う。特定の土地が何 らかの卓越性 、例 えば他に比べて著 しく肥沃 であ った り、聖人が存在 していた とい うような歴史を持つ場合、あるいは反対に、ある種 の喪 失感、例えば伝統的権利が侵害 された とい うような経験を共有する場合、その地に住む人々 と土地 との間に特殊な結びつきが 自生的に形成 され る可能性 は否定できない。諸侯層 は、 こうした記憶の全てを排除することはないものの、取捨選択 を行い 自らの思惑に従 って 「地 域」の性格規定を行 ってい く。諸侯 の歴史叙述に取 り込まれ ることな く無視 され、排除 さ れ、次第に忘却 されてい く古層の住民意識、そこには中世初期か らの地域の記憶が眠 って いる。それ らを掘 り起 こす手だてがあれば、あらためて 「エ トニ」概念 を論 じることも出 来るだろ うO 第三に問題 となるのは、地域 と王国、かた ち作 られ始めたこの二つの帰属意識が今後 ど のよ うに出会い、いかなる関係 を とり結んでい くのか とい うことである。諸侯 による 「地 域」形成の試みが王権が志向す る 「王国」 と対峠 した時の、両者 の相関、相勉関係 に着 目 す るべきだろ う.年代記の中で 「祖国 (patria)」と繰 り返 され る 「フランス」は、諸侯 の 「地 域」を包摂 してい くのか、それ とも協調の可能性 を模索す るのか。後者だ とすれば両者 の 関係性はいかなるメタファーによって表現 されてい くのであろ うか。 この点では十三世紀 後半の王国年代記 に散見 され る 「兄弟」、 「親子」 あるいは 「四肢」な どの表現が、一つの 示唆を与えて くれ るように思われ る。 【主要参考文献】
ll】R・BABEL,J.M,MOEG
L
IN(ed.
)
,Identiti rdgt'onale etconscience nationaleen France etenAl
lemagneduMoyenAgea
l'
E
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[5]J・M・Moeglin,NationetNationalismeduMoyenAgeA1.Epoquemoderne(France-Allemagne)フ
Revuehistorique,61ll1999,pp1537-553・
第 3章 rド イ ツ 国 民 J の 誕 生 と 神 聖 E)- マ 帝 国 山本 文彦 近年の ドイツ史研究においては、中世後期 ・近世の神聖 ローマ帝国は、独 自の政治構 造を持ち、当時において しかるべき機能を発揮 していた組織体 と理解す る傾 向が示 され てきた。 とりわけ近世の帝国は、平和 ・法 ・防衛共同体 と理解 され、領邦国家 とは相互 補完関係にあって、決 して互いに排除 しあ うような関係ではないことが強調 されている。 また最近 の研 究では、帝国が、 17/ lS世紀の さま ざまな国法学等 の文書の 中では、 Reichs-Staatと記載 されていたことに着 目し、帝国に国家性 を認 める傾向にある。その際 国家性 とは、プロイセ ン的国家観 (国民国家観 ・権力国家観)の意味においてではな く、 連邦的国家観の意味において使われている。 この Reichs-Staatは、当時体制を整 えつつ あった領邦国家 とは、相互補完的関係にあると理解 され、この Reichs-Staatは、諸国家 か らなる国家、あるいは諸国家か ら構成 され る ドイツNationの政治的枠 とされ る。この Reichs-Staatとは何か。あるいは連邦的国家観における国家性 とは何か。この間に答 える ためには、様 々な角度か らの分析が必要であ り、そのような分析の一つ として、中世後 期以降におけるNationの問題を設定す ることができる。このReichs-StaatにおけるNatiom の問題、それはまた Reichs-Staat-のアイデンティティの問題である。そ こで当面の課 題 として、近年の研究成果に依拠 しなが ら、15世紀以降の ドイツにおけるNationの変遷 の整理を行 う。 1.15世紀のNatiorL Nationは、 ドイツにおいては15世紀になっては じめて具体的な姿を現す。 15世紀の 様々な戦争 (フス戦争 ・対 トル コ戦争 ・イタ リア戦争)において、皇帝が帝国等族か ら 戦争の援助 (帝国援助)を引きだす必要に迫 られた時、皇帝サイ ドの文書に ドイツNation とい う表現が表れ る。 当時の国制改革の流れの中で、政治的パ ンフレッ トの中にも ドイ ツNationとい う表現は多 く見 られ るよ うにな り、この言葉が、当時の帝国政治に関わる 者たちに受容 されたことが分かる。 このことはまた、15世紀後半において、「ドイツ国 民の神聖 ローマ帝国」 とい う名称が表れた ことにも反映 している。 この 15世紀におけ る ドイツNationは、帝国援助を提供す る主体者である帝国等族、特に選帝侯 ・帝国諸侯 の St畠ndenationであ り、その上、上部 ドイツを中心 とした地域の帝国等族に妥当する内
容 とい うことができる0 15世紀の様々な戦争の中でも特にフス戦争 と対 トル コ戦争は、ドイツに大きな影響を 与えた。 しか しフス派の問題に しろ、 トル コの進攻に しろ、 ドイツ全体に共通す る危機 感 を生み出す ことはなかった。 この間題にひ ときわ大きな危機感 を抱か ざるを得なかっ たのが、東方に領地を有 していたハブスブル ク家で、15世紀半ば以降、ハブスブル ク家 が帝位 に執着す る理由の一つが ここにあった。-ブスブルク家は帝位 を持つかぎ りにお いて、帝国等族に援助を要請す る権利を持つのである。それ ゆえこの時期においては、 ハブスブル ク側か らの積極的な ドイツ観念が示 され、彼 らはフス派や トル コの侵攻が ド イツに大きな驚異 となっていることを強調す るのである。そ してこのような皇帝か らの 援助提供の要請 と引き換 えに、帝国等族は 自分たちの帝国政治-の共同統治権を要求 し、 皇帝はこれを認めざるを得ない立場に追い込まれていった。 こ うして 15世紀末には、 帝国政治は皇帝 と帝国等族の共同によって行われ るにいた り、
Ka
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とい う言 い方に如実に示 されるよ うに、ライ ヒは帝国等族の総体 として、ある程度の政治的実権 を持つ組織体 とい う姿を現 した とい うことができる。2.1
6
世紀のNa
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シュマルカルデン戦争において、上部 ドイツの福音派帝国等族は、低地 ドイツの福音 派等族 とも連携 して皇帝に対抗す る。 ここにおいて初めてアルプスか ら北海 ・バル ト海 にいたる地域の帝国等族が行動 を共にす る現象が見 られ る。 このシュマルカルデン戦争 で、福音派帝由等族は皇帝に敗北 し、皇帝はこの時点で皇帝絶対主義的な体制の実現を 図るが、カ トリック ・福音派双方か ら厳 しい批判 を浴び失敗 に終わる。 ここにおいてカ トリック ・福音派双方の帝国等族は、皇帝に抵抗す る自分たちの法的根拠 として、15世 紀以来獲得 してきた彼 らの政治的権利、 ドイツ的 自由を掲げた。選帝侯 ・諸侯 を中心 と したライ ヒが、政治的実権 を握 り、彼 らはここで ドイツNa
t
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として 自己理解す るので ある。 ここにおいて ドイツでは皇帝を統合の中心 とす る社会ではな く、領邦が分立 し、 その上にライ ヒがあるとい う連邦的な社会体制の道が選択 された とい うことができる であろう。 さらに 1555年のア ウクスブル クの宗教平和令 ・帝国執行令によって、低地 ドイツの帝国等族が帝国政策に深 く関与す る道を選ぶ こととなった。1555年のア ウクス ブル ク体制を受容すれば、信仰選択権 ・領邦高権が帝国法的に保障 され、また帝国クラ イス制度によって整えられた安全保障の中に入ることができたが、その一方で、ア ウク■ スブル ク体制の受容は、帝国援助の提供 を義務づけ られることを意味 していた。 このこ とは15世紀の上部 ドイツを中心 としたStandenationの低地 ドイツ-の拡大を意味 してい る。 こ うしてアルプスか らバル ト海 ・北海沿岸までの地域の帝国等族が、 ドイツNation とな り、この地理的範囲は ドイツ語を話す地域 とほぼ重な りあ う。すなわちスイスやネ -デル ラン ト、北イタ リア、フランス語地域の帝国等族は、 レーン法上は帝国等族資格 を持ち続 けるが、1555年以降、実際にはこのライ ヒか ら離れ、帝国は 15世紀後半の呼 び名通 り、「ドイツNationの神聖 ローマ帝国」 となる。 ここにおける ドイツNationは、 依然 としてSt由Idenationである. さらにまた、16世紀後半の宗派体制化の進展によって、帝国等族は宗派によるグルー プ化の傾向を示すが、このことは Standenation内部の分裂を必ず しも意味 しないO とり わけ福音派帝国等族は、そのグループ化にあた り、 ドイツ的 自由と、 ドイツの協調を強 調 し、福音派内部において、従来の身分の違いを超 えたま とま りが生み出された。 この ように帝国の支配者層の中で、宗派体制化 をきっかけ として、身分の相違を超 えたま と ま りが作 られつつあるとともに、このま とま りは従来の伝統的な地域的境界を超えた規 模で展開する。 この新たな空間的な広が りは、 しか しなが ら、宗派を同 じくす るヨー ロ ッパのあらゆる地域の諸勢力 との結合ではな く、 ドイツ語を話す地域内部での広が りで あった。 宗派体制化による帝国等族のグループ化において、ニーダーザクセンとか ヴェス トフ ァー レンといったような伝統的な地域を越 えて生 じた点が重要である。伝統的な地域性 は、帝国クライス制度によって帝国法的に保証 されてお り、この時期にも依然 として重 要性 を持ち続けている。それ と並行 して宗派によるグループ化がこの伝統的な地域を越 えて行われ、帝国等族は広 く ドイツ規模で新たなネ ッ トワー クを有す ることとなった。 さらにこの宗派による党派の集会は、様々な身分の者が一堂に会す る傾 向を持 った. ド イツ語 とい う共通の言語を持ち、同 じ宗派に属す る等族が しば しば顔 を合わせてい くこ とで、共属意識が強まる。 さらに福音派は、 自分たちの信仰 の防衛 を ドイツ人の故国の 救出と表現 した。福音派等族は、「自由な ドイツ人
」
「旧き自由」 とい う言葉 を多 く用い、 彼 らは皇帝の君主政的な統治を批判 し、皇帝 と帝国等族の共同統治を志 向した。それは ドイツ的 自由であ り、皇帝はその古き良き ドイツ人の 自由を脅かす存在 と認識 された。 こうして宗教改革 ・宗派体制化 を通 じて、特に福音派サイ ドか ら 「ドイツ」的なものが 強調 され、 ドイツとい うものへのアイデンティテ ィが意図的に創造 され始めた とい うことができる。 この福音派を中心 とした主張は、当時の印刷技術の進展 により、多 くのパ ンフ レッ トになって、農民 ・都市民にも伝 え られ、「自由な ドイツ
人
」、「旧き 自由」 と い う言葉は、彼 らに ドイツNa
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意識 を植 え付けていくことになった。 他方、帝国の支配者層に属 さない レベルでは、宗教改革が大きな影響 を与えた。ル タ ーの教義か ら引きだ された 「参加」の観念が、社会に大きな影響を及 ぼす。 「財産の 自 由」
「権利の保障」 とい う考 えが、農民 ・臣民層に広が り、それは 旧来か らの観念に符 合 し、伝統的な ドイツ的 自由と認識 されたO とりわけ財産の 自由は、農民か ら帝国諸侯 にいたるまでの広範囲に共通す る ドイツ的な価値観 と認識 され、この ドイツ的 自由を保 障す る機関が、帝国の最高裁判所であった。 また農民戦争は、農民か ら帝国諸侯 にいたるまでの多 くの階層に、紛争の平和的な解 決の重要性 を認識 させた。すなわち裁判による紛争処理の重要性の認識 である。 これは それぞれの領邦の裁判制度の充実 とともに、 ドイツNa
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の裁判機 関 として、帝国の最 高裁判所の整備 によって現実的に保証 された。農民をは じめ平民は、 自らの領主を相手 取って、この帝国の最高裁判所に訴 えを起 こす ことが可能であ り、また実際に数多 くの 訴えが起 こされている。16世紀においては とりわけ帝国宮内法院が、この平民か らの訴 えを多 く処理 している。 この事実は従来、この裁判所の活動によって、皇帝が領邦の国 家化を阻害す る機能を果た した ことが強調 されているが、その面 とともに、平民に して みれば、 自分の領主の上にさらに大きな政治権力が存在 していることを実感す ることが できたことになる。3.1
7・1
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世紀のNa
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1618年か らの 30年戦争は、 ドイ ツにおいて初めて 「ドイツ戦争」 と認識 されたO こ の戦争中に、16世紀末に見 られた宗派体制化 による超身分的 ・超地域的ま とま りが、さ らに超宗派的性格 を帯び、 ドイツの協調 ・団結を言匝うよ うになった。戦争 とい う共通の 体験の中で、 ドイツ人を苦難に陥れているものに対す る敵対意識が生まれ、古き良き ド イツ的 自由を取 り戻 し、平和を回復す ることが、諸侯か ら農民にいたる共通 の思い とな った。その具体的な成果が、1
64
8
年の ウエス トフア リア条約である。 この 30年戦争を 通 して、 ドイツ語を話 し、財産の 自由に代表 され る伝統的な価値観 を共有す るまとま り -ドイツの一体性が強化 された とい うことができる。 この ドイツNa
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においては、政 治的権利は不均一で、政治的参加の度合いも身分によって段階付けられている。農民 ・臣民 ・市民の政治的参加 は、確 かにその領主 (領邦君主)・都市の支配領域の 中に限定 されてはいるが、彼 らは さらにその上のま とま りとしての ドイ ツ・Reichs-Staatを認識 し ていた。 30年戦争は、宗派 ・身分 ・地域の別な く人々を苦 しめ、戦争の後半には ドイ ツの共通 の敵-フランス とい う観念が生まれた。 当時多 くの政治的パ ンフ レッ トともに、 ドイツ の悲惨な状況を訴える多 くの詩人たちの作品が残 されている。 これ らの詩は、この悲惨 な状況を打ち破 るために、 ドイツNationの強調 ・団結を訴 え、フランスに憎悪の 目を向 け、 ドイツの古 くか らの 自由を請い、 自由の回復 による平和の確立を求める論調であっ た。 帝国等族は、帝国政治-の参加資格を持ち、伝統的な ドイツ的 自由を享受 した。彼 ら にとって ドイツ的 自由とは、信仰選択権 をは じめ諸々の領邦高権を指 した。帝国政治に 関与 し、なおかつ領邦君主 として、臣民に支配権を行使す る位置にあった。彼 らは 自ら を ドイツNationと自認 し、この意味での ドイツNationは依然 として、St畠ndenationとい う性格を持っていた とい うことができる。一方、平民の レベルでも、 自分たちを ドイツ Nationの一員 と理解 していた とい うことができる。彼 らは、た とえばニュル ンベル クの 住民であれば、ニュルンベル クの市民であって、フランケン人であ り、 ドイツNationで あるとい う多層的な意識 ・アイデンティティを持 った と考えられ る。 この意味では帝国 諸侯か ら平民にいたるまで、 ドイツNationとい う意識 を17世紀段階において、ある程 度共有 したことを指摘す ることができる。 1757年か らの7年戦争が、ドイツのNationに とって分岐点 となる。Reichs-Staat的Nation とプロイセン的Nationが対峠 し始めることになるか らである。プロイセンではこの頃か ら、農民 ・市民 ・貴族がプ ロイセ ン国王の臣民- と均質化 され る傾向を示 し始める。 こ こにおいてプロイセンの様 々な政策は、近代国民国家的な様相 を呈 し始 め、帝国の政治 体制 とそれに結びついた ドイツNationの観念 とは異なる観念を生み出し始める。 ドイツ の共通の敵であるフランス と結びついたハブスブル ク家、 さらにそのハブスブルク家の 敗北によって、北 ドイツを中心 として、従来の ドイツNation観が揺 らぎ始める。プロイ センのこの地域-の覇権の拡大 とともに、プロイセ ン的なNation観が広がってい くこと になる。
4.おわ りに
今後は、16世紀後半の宗派体制化の時期 における、福音派によって意識的に形成 され
た ドイツNation観 を具体的に考察することによって、ドイツにおけるアイデ ンテ ィテ ィ の問題 を検討 していく予定である。
【参考文献】
GeorgSchmi dt,TeutscheKdege:NationaleDeutungsmusterundintegrativeWertvorstellungen im飢ihenneuzeitlichenReich,in:D.Langewiescheund G.Schmidt(Hg.),FOderativeNation, M也nche
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formation,FesfschrlftfurH.Rabe,Frankfurta.Main1996.#4
%
"
f
r
a
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e
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a
s
" :中世の人的ネットワークの美音に係る研究課題
前山総一郎Ⅰ
は
じめ
に
:ヨーロッパでの基底的な人的ネットワークの形とし
ての典礼祈祷共同体中
世
ヨ
ーロッパにおいては、キリスト
教的通念が生活の底を流
れかつ規定 している。 これを
特に
如実に物語っているのが、司祭が典礼祭式行為におい
て生者死者の名前を祈祷 のうち
に
読みあげ記念するme
mo
r
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aと呼ばれる行為 (
祈祷典礼的
記念)であ り、これが聖職者、
俗
人を問わず共同体が形成されるにあたって核となって
いた。 こ うした点の研究は、ヨー
ロッパを含め、ようやくこの1
5年ほどで進展するにい
た っている。典
礼記念としての追憶が共同体を創設する側面を持って
い ると述べたが、それはつぎのよ
うなことによっている。生者死者を問わず、同じ「
兄弟
」のメンバー となった ものは、死
後にあってもメンバー達から典礼儀礼のなかでの祈祷
を通 して、 「記念」 して もらう、つまり典礼的記念をしてもらうことにより、「
魂の安寧」を
援助 され、保証 され る。具体的には、教区教会などの教会において、依頼した司祭などに
よ り教会の脇祭壇でお こなわれ る。また、送る側の兄弟たちにとっても、こうした活動が
死後の 自らの 「魂Jに とっての救いにつながるものと捉えられる。こうして、祈祷典礼
的記念 を核 として、メンバー達は生死を
超越 した形で、相互に r魂の兄弟 (fratresanimarum)」として強力な一体感 を伴いつつ強 い粋をむすぶ共同体を形成することとなる。 こうした典礼記念を核 として形成 された共同体は、"societas"…fratemitas" という名前で 史料にあらわれている。 ドイツ語ではこうした典礼記念を核 とした共同体の形成について ``verbriiderng'u '(兄弟盟約)と呼び、英語では "fraternity"と呼んでいるが、本稿ではこう した典礼祈祷共同体を、その実際に即して8から11世紀の修道士によるものについては 「祈祷典礼盟約」 とよび、 12世紀以降の俗人のものについて 「兄弟会」とよぶD典礼祈 祷共同体は8世紀から知 られ、後に触れるように 12・13世紀に転換を経つつ 16・17世紀 まで、ヨーロッパでの基底的な人的ネッ トワークの形 として存続 したものである。また、 今 日の各種の自意的団体 (yoluntaIYassociation)の原型としても少なからぬ影響をおよぼし ているものでもある。 本稿においては、研究準備を目的としての課題探索とい う性格上、統治機構の基盤 とし ての問題 (Ⅱ)、典礼祈祷共同体の展開の問題 (Ⅲ)、社会的保障の契機 としての問題 (Ⅳ)I に関して、問題提起をお こな うこととしたい。 Ⅱ 統治機構の基盤 としての問題 典礼祈祷共同体 (「兄弟会」)について、まず もって確認 しておきたいことは、中世 ・近 世を通 じた過程において、大まかに二つの段階があることである。 8- 11世紀頃までに 見 られたのは、主 として農村の修道院を舞台 として展開 した、修道士達を中心 とす る共同 体
(
「祈祷兄弟盟約」)であ り、その後12世紀頃か らは主 として都市で族生 したのは、都 市民 (俗人)によ り担われた共同体 (「兄弟会」)である。後に触れ るが、この二つの段階 での共同体組織のあ り方を両方射程に入れ る必要がある。 フランク王国、神聖 ローマ帝国の統治機構 との関連においては、修道院共同体が着 目さ れている。修道院共同体 は8世紀に、修道士の福音宣教活動か ら現れた と考 えられる。修 道士たちは各地に宣教活動に派遣 されたが、そ うした遠隔地生活が、出身地の親族-の結 びつき、さらに現地での聖職者 と政治的代表者 との結びつきを促 し、派遣地での共同体 (ネ ッ ト)形成、それ と故郷の人脈 との さらなる リンクの形成 (ネ ッ トワー ク) を促 した こと が分かってきている (ドイツの地出身でBritaniaに派遣 された女修道院長Cuniburgaを中核 とした共同体ネ ッ トワー クの事例 [8世紀]な ど)O また、このよ うな ヨー ロッパ レベルで 各地の共同体 をつな ぐしくみ として、記念 され るべき死者の名簿が使者 によ り運ばれて回 送 されることがお こなわれたが、当時 "rohlus''と呼ばれた 「回状」によっておこなわれた (GAlthoff らによる研究)。 ところで、こ うしたネ ッ トワー クは、 8- 9世紀にカ ロリング王国によ り、その統治の 基盤 として用い られた.関連す る史料 としての、当時典礼記念で用いられたLibervitaeと Libe一memorialisとい う各種の 「名前 リス ト」には、修道院長 ・修道士のみならず、国王 ・ 王妃 ・伯等の有力俗人貴族な どが記載 されてお り、修道院の典礼共同体にこれ らの統治機 構の柱をなす人物がほぼ網羅的に組み込まれていた ことが解 明 されつつある。 (Fulda修道 院を研究 した0.GOexleらのグループ) また、カ ロリング王国解体後の、神聖 ローマ帝国 (ドイツ)・フランス ・イタリア-の 分割後 も、とりわけ神聖 ローマ帝国においてこの しくみは継続 した。1
0
世紀以降か ら、ラ イン川東側では、Reichenau・ St_Gallen・ Fuldaの各修道院が核 となって、広域にわたる祈祷兄弟盟約がな され、聖俗有力者 を含めた修道院共同体の広範な共同体相互のネ ッ トワー
kj; 修道院の共同体を兄弟盟約で結んだ とされる。 これ らの共同体相互のネ ッ トワー クを、皇 帝ハイン リヒ2世のよ うに強力な時期に王権が強いイニシアテ イヴをもって、帝国の人的 基盤づ くりのために援用 しよ うとした。帝国機構 の要職にあるものが 「魂の兄弟」 とい う 盟約 を、修道院共同体を介 してであれ結ぶ ことは、帝国行政 にとり大変 に強力な推進母体 を創 出す ることを意味 している。 同帝が、帝国の要職者 (大公な ど)お よび帝国教会制機 構の担い手たる有力聖職者の計数十人でむすんだ 1005年Dortmund死者同盟Crotenbund)な どがその例 として知 られている (J.Wollasch)oこの局面は、これまでの国利史において捉え 切れていない側面だけに、重要な観点である。 ところで、このように8-11世紀には 「典礼祈祷共同体」は統治構造の人的基盤 として 機能 した ことは理解できるのであるが、問題は、修道院サイ ドにあっていかなる観点か ら これに対応 したのか とい うことである。 これについては、修道院での改革運動が関連 して いると考えられ る。 10世紀の時点で、ク リュニー本院が改革修道制を推進す る必要に迫 ら れたが、それ について指令一つで数百にお よぶ西 ヨー ロッパ 中の修道院がそれに取 り組む ことは困難であった。 こ うした際にクリュニー本院 とク リュニー系諸修道院を結んだのが 「典礼祈祷共同体」相互のネ ッ トワークである。その実例 として、ク リュニー修道院長Odo が 4人の使者 を Limogesの St_Martialの院長 Aimoに、典礼祈祷共同体相互の盟約 を結ぶた めに送った事例な どが知 られているが、こうした施策にあって帝国有力者の援助は不可欠 であった と考えられ る。 統治機構の人的基盤 としての典礼祈祷共同体ネ ッ トワー クとしては、こ うした二つの局 面、つま り統治機構の人的基盤-の援用 とい う側面 と、修道院 自体の改革か らの帝国の下 支えとい う側面 との関連 を、複合的に ・構造的に見て行 くことが不可欠であ りこれか らの 大きな研究課題である。 Ⅱ 典礼祈祷共同休の展開の実糞 上記の通 り、 8- 11世紀頃までに見 られたのは、修道士達を中心 とす る典礼祈祷共同 体 (「祈祷兄弟盟約」)であった。その後12世紀頃か ら当時経済的機能 を強 く帯びつつあ った都市で族生 したのは、都市民 (俗人)により担われた典礼祈祷共同体 (「兄弟会」)で ある。各都市でこ うした純粋な俗人共同体が族生 し、中世後期 と初期近代にわた り各種の 名称 ・団体にて存続 した。契 りを結んだ者達は相互に 「兄弟」 (frater)と呼んだ ことか ら ``fratemi tas"ない し ``confratemi tas"(「兄弟会」)と呼ばれ る.その主たるはた らきは、死
l一一 者記念を通 じて、成員相互の相互扶助 と貧民-の世話が柱 となっていたo とりわけ、こ う した俗人 「兄弟会」の実態については、ケル ン、フィレンツェ、- ン トなどの当時の大都 市について、G.GMeerseman,R-F-E・Weissmann,J・Hendersonらによ り集 中的に研究が進 められ ている。また、その機能的側面については、LRemlingが着手 している。 ところでこうした俗人 「兄弟会」について、特 にその形成過程の実態について研究が手 薄である。 12世紀以降の俗人 「共同体」の形成は先の8-11世紀の修道院共同体 (「典礼 祈祷共同体」) といかなる関連にあったのか、あるいはその形成は どうした点で固有独 自の ものであるのか。 こうした問いが問われてこなかった。 この点について、とりわけ当該分 野全体にとって検討課題であるが、 ここではその指標 となると考えられ る例を検討的に上 げておきたい。 11世紀に CoⅣey修道院に付随す る 「下層民」Umtersschichtemにより担われていた複数 の 「兄弟会」があったことが突き止められている。 1350名以上の名前を列挙す る、いわゆ る 「Corveyの隷属民名簿」 と呼ばれる リス ト (StaatsarchivMtinster写本 I132folll(r)-1(V)) が近年再検討 され、それによりこれが修道院に付随す る下層民の 「兄弟会」に関わるもの であることがわかった。それによ り、職業や、登録 ・参集 ・貧民-の施 し ・成員の死に伴 う蝋燭代 ・埋葬時の貧民給食代を定めた規約 observantiaも一定程度再構成 され る可能性が あるものである。 この転換期に併存 した聖俗の典礼祈祷共同体について、概念図を記す と下記のようになる。 ___ー__htr ※
套蓮蔭定義高話読 義叙
要
JLYt3J lモク人巳: lc.rvey修道院共同体 【修道士】 f堆
…(場所‥Corvey) \撃麺毒筆章毎轟!
壬
廼 蕪串葺
串東夷窒
襲葉垣 尋萎譲葉葦 撃軸 重義衰轟套 (1133年)【
凡例
⊂=コ
:修道士の典礼祈祷共同体 (「祈祷兄弟盟約」)匡≡ヨ
:俗人の典礼祈祷共同体 (「兄弟会」) こうした事例の本格的検討によ り、俗人の典礼祈祷共同体が、修道院の典礼共同体 との関係性のなかで 自立 してゆ く過程の実態 が解 明 され なけれ ばな らない。修道士共同体か ら 俗人共同体-の移行過程が現在研 究上の大 きな課題 をな してい るこ とを指摘 してお きたい。 Ⅳ 社会的保障 (公的扶助t社会福祉ー医療 ・公衆衛生、保険)の契機 と しての問題 紙面 の制約上、詳細 には述べ られ ないが、 ヨー ロッパ史の上で典礼祈祷共 同体が上記の 社会的保障の契機 をな した とい う点 を等閑視 されてはな らない。10世紀 にク リュニー系修 道院の典礼祈祷共 同体 にお いて社会慈善活動が活発化 し (聖俗 の有力者 のみ な らず俗人全
体の典礼記念活動-発展 -万霊節 commemmoratioomniumdefunctorum事業)、また救貧活動
も並行 してお こなわれた。11世紀 にはこれが神聖 ローマ帝国の帝国教会制の もとにいわば 「国家的」にお こなわれた時期 が あった。 12世紀に都市で族生 した、俗人の典礼祈祷共 同体 にあっては、メンバー相互 に よる没落失業者-の扶助 ・貧民への給食施与活動 ・救貧 院 Spital設置 とい う形で社会的保 障に進 んだ。この点については、いまだ本格的な研究がな いに近い状況であ り、上記
Ⅱ・
Ⅲの研究課題検討 の上 に、解 明 され るこ とが必要 とされて いる。 以上、研究準備 を 目的 と しての課題探索 とい う観点にて、典礼祈祷共 同体 に係 る課題 を 提起 した。関連す る研 究文献を以下に上 げてお く。 【参考文献】GAlthoq,GebetsgedenkenRirTeilnehmeranltalienz也gen.Ein bisherlmbeachtetesTrienterDiptychon
(FMSt15,1981)S_36-67; GGMeerseman,Ordofraterm'tatL'sIConfratemiteeptletLidet'lat'ct'"el
medLloevo,3Bde_Iitalia Sacra24-26)Ron 1977;0_GOexle,MemoraundMemorialbild(in:Memoria
DergeschL'chtlt'CheZeugenL'swert des IL'tufgLIssche17Gede77nkens im ML'tleLaller,1984,Mtinchen; 0-GOexle,DiemittelalterlichenGilden:IhreSeobstdeutungundihreBeitragzurFormtmgsozialer
Strukttlren (MiscellaneaMedL'aevaLia 12/1/SozialeOrdnu71gen tom SelbsLversE伽血L'sdesMiEleLallers
I,1979,)S-203-226;K.SchmidundJ.Wollasch,SocL'efasetFralernjtasIBegrandungeL'neskommenEt'erlen
Que/lenwerkeszurErforschungderPersotlenundPerso〝engruppendesME'(lela/ters,I975,Berlin-New
York;KSchmidlmdJ.Wollasch,DieGemeinschaRderLebendenundVerstorbeneninZeugnlSSendes
Mittelalters (Frtimittelalterliche Studien I, 19678, S.365-405)-,J.Wollasch,Die mittelalterliche
Lebensform derverbrtidenmg (in:Memoria Der geschichtliche Zeugeniswertdes litllrgiSschen GedennkensimMittelalter,I984,Mtinchen.
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