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- はじめに - 飽食国家飽食国家 日本日本 という単語があります この状態は 日本人は常に食に囲まれた生活を送っている と言い換えても何ら変わりません 例えば大学生の一日で見てみると 朝寝坊して大学に遅刻しそうな時でも 登校途中のコンビニエンスストアに寄れば簡易的な食料を安価で手に入れることができ

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加藤奈津子・小林遼・西正広 -はじめに- 『 『『 『飽食国家飽食国家飽食国家・飽食国家・・・日本日本日本日本』』』』という単語があります。 この状態は、「日本人は常に食に囲まれた生活を送っている」と言い換えても何ら変わりません。 例えば大学生の一日で見てみると、朝寝坊して大学に遅刻しそうな時でも、登校途中のコンビニ エンスストアに寄れば簡易的な食料を安価で手に入れることができますし、昼食は街中に立ち並 ぶファーストフード店から自分の好みに合った店を選んで食事を摂ることができます。一人暮らしで 自炊している人も、帰り道に少しスーパーに立ち寄れば気軽に夕飯の食材を購入できます。 ところが、日本人がこのような恵まれた生活を昔から送ってきたわけではなく、我々の祖先達は 全く程遠い食生活を過ごしてきていました。子供の頃に歴史の授業で習った通り、かつての日本で は、食に対しての選択肢は限られている、又は選択肢すらも無い、最悪その日の食事を確保する ことすら厳しい時代もあったのです。 では、今のような食に恵まれた時代に至るまでに、日本人はどのような過程を経過してきたので しょうか。 様々な資料に目を通した上での私の意見を述べると、異文化との交流とその吸収によって、日 本人の生活様式は変化していったと思われます。特に外国文化と交流をする度に、日本人はその 文化、そしてその食生活を取り入れていきました。代表的なものですと、弥生時代には中国から米 食の、明治初期には欧米から牛肉食の文化を取り入れ、そして他国との往来が比較的自由になっ て以降は、様々な国の食文化を取り入れてきました。 そしてその結果として、今のような「食に困らず、食を自由に選べる」日本という国が出来上がっ たのです。小学 6 年生の肥満傾向児の割合が、昭和 52 年の 6.5%に比べて平成 14 年では 10.9% に増加している事も、年々食生活が豊かになってきている良い証拠になっているのではないでしょ うか。 また、変わったのは食の種類や量の多様化&豊富化だけではありません。冷凍庫や電子レンジ

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等が発明されてからは、冷凍食品といった新しい分野が開拓されましたし、単に「食事=生きていく 上で必要なもの」という考え方に留まらずに「食事=自身の健康・体型を維持するもの」といった発 想により健康食品というジャンルが広まりを見せていたりと、食の保存・調理方法や、食という概念 の捉え方の変化まで起こっているのです。 食生活は豊かになり、日本人の心も豊かになりました。こういった心の余裕から、今の日本人の 消費者側は「(消費する)食を選択する」という行為が可能であり、それによって生産者側にも「(生 産する)食を選択する」という行為が要求されてきているのです。かつては自分たちの食料すら確 保できず生活苦を歩んだ時代がありましたが、今では逆に作った食物が売れ残ることで生活苦が 訪れる時代になってきています。消費者の選択傾向を的確に把握し、それを考えた上での食の供 給を行わないと、食分野業界での生き残りが厳しい、という時代になったのです。 今回、私たちはこういった文化の推移に伴う食生活の変化や消費者側・生産者側の考え方を 「主食・間食・飲料・保存食」の 4 つの柱を軸に調べ上げ、考察していくことで、食の需要の移り変わ りや、これからの食の向かう方向性を推測すると共に、健康食や簡易食などに代表される現代の食 習慣の良し悪しを判断することにしました。 「食の変化と文化の変化とは相互関係にある」という仮説が、調べ上げていく上でどのように肉付 け又は削ぎ落とされ、最終的な考察の段階で真偽を明確に出来たならば、と思うと共に、自分たち の食生活を顧みる良い機会になれば良いと思って、このレポートに着手していく次第です。 -目次- 1.日本日本の日本日本ののの食生活食生活食生活食生活のの変化のの変化変化変化 … 担当:西正広 2.主食主食主食でない主食でないでないでない食事食事食事(食事(((間食間食)間食間食))の)のの歴史の歴史歴史歴史 … 担当:加藤奈津子 3.飲料飲料の飲料飲料ののの購買購買購買購買のの推移のの推移推移 推移 … 担当:加藤奈津子 4.食品食品の食品食品ののの保存形式保存形式保存形式保存形式のの多様化のの多様化多様化多様化 … 担当:西正広 5.まとめまとめ(まとめまとめ(((調調調調べてべて分べてべて分分分かったかったかったかった事事、事事、、そこから、そこからそこからそこから見見見る見る考察るる考察考察考察))) ) … 担当:小林遼

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はじめに はじめに はじめに はじめに 日本人の食生活は昭和三十七年に始まる高度経済成長を境に大きく変化したといわれて いる。それまでは、戦前と戦後間もない時期とで多少のカロリー摂取量のちがいなどある ものの、基本的な食生活に変化は見られない。高度経済成長の波に乗って、主食は米や麦 などの穀類、副食は野菜に海草に小魚などといった食生活に加え、油を大量に使い、動物 性のたんぱく質や乳製品・卵製品を大量に摂取する現代の食生活の基盤が作られたのだ。 また、サッカリン(甘味料)・着色料・保存料といった食品添加物も戦後の物資不足が 深刻だったころに登場したが、昭和三〇年代後半からは大量流通・大量保存の流れにのっ て、急速に使用量が増えていった。ここでは、この変化の激しい食生活が年代を追ってど う変わってきたのか、戦前から現代までを中心に考察していきたい。 明治時代 明治時代 明治時代 明治時代のののの食事食事食事食事 明治初期の主な食事は、ご飯、味噌汁、漬物、サトイモが中心だった。江戸時代と比べ、 一番大きな変化はそれまで将軍に味噌漬けなどで献上される程度だった牛肉を食べるよう になったことだ。一般的に牛肉が広がるようになったのは牛鍋屋ができてからで、この牛 鍋が現在のすき焼きに発展し、このころからそれまで穀類中心だった日本人にとっては食 肉文化が始まったといえる。 明治維新が成立すると、鎖国の遅れを取り戻し、世界的水準に追いつこうとする西欧文 化模倣の風潮が食文化において顕著になってきた。その例として挙げられるのは ◆肉等、獣肉食用の開始 ◆バター・チーズの使用 ◆ミルク・コーヒーの飲用 ◆洋食・洋風調理法の普及 ◆洋風食事礼法の普及 といったものである。また、このころから従来の和食を洋風に調理したり、洋食を和風 に調理する試みも盛んに行われ、簡単な調理法の洋風料理や中華料理が、一般家庭で行わ れるようになっていった。 明治時代の米食については、外国の技術を取り入れた農業革新を積極的に行っていくこ とによりお米の生産量が、人口の増加と国民の所得水準の上昇からお米の消費量が、とも に飛躍的に拡大していった。小規模な家族経営農業という基本構造はそのままに、外来文 化の近代科学技術を積極的に摂取していく、伝統と改良の二人三脚方式の農業技術革新が 行われ、お米の生産量は著しく向上していく。 江戸中期以来、日本人の主食の地位は精白米が占めたが、やむをえぬ代用食として大麦

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や裸麦を用いた。特に、農民は、自給食糧として麦を量産。自らが麦を食べることによっ て、お米をより多く都市消費者へと供給していった。 戦争時代 戦争時代 戦争時代 戦争時代のののの食生活食生活食生活食生活(((大正期(大正期∼大正期大正期∼∼第二次世界大戦終結∼第二次世界大戦終結第二次世界大戦終結第二次世界大戦終結))) ) 戦時中の食生活は田舎のほうが有利だった。都会では農産物など作るスペースがないか らだ。それに対し田舎では、みな思い思いのものを作って食べていたようである。田舎で は粟、稗こそ食べなかったが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、薩摩芋、干し杏、 大麦、等が主食の座を占めたこともある。白米のご飯と梅干は最高のご馳走で、肉などお 眼にかかることはなかった。 当時の日本は昭和十二年から始まった支那事変(日中戦争)やその後の大東亜戦争(太 平洋戦争)により、国外からの物資、原材料の輸入が激減した(その当時日本人が消費す る米の三十一パーセント、砂糖の九十二パーセント、大豆の五十八パーセント、塩の四十 五パーセントは、海外からの輸入に依存していた)為、昭和十四年十月の米穀配給統制法 の実施を皮切りに、食糧や衣料品は言うに及ばず砂糖、味噌、醤油、大豆、鶏卵、牛乳、 酒、タバコ、マッチに至るまで、順次、配給統制が実施されていた。 昭和十五年になると更に厳しい生活状態になり、 ◆二月 米穀統制令公布 ◆三月 青果物配給統制規則 ◆八月 でんぷん類配給統制規則 ◆十月 砂糖配給統制規則、牛乳及び乳製品配給統制規則、鶏卵配給統制規則、大豆油 等配給統制規則 などが設けられた。 主食のお米に例をとると東京都ではそれまでは平均で一人当たり一日三合五勺の消費量 だったが、昭和十六年四月から配給制となり、一人につき、一日当たり二合五勺(ご飯に するとお茶碗で軽く五杯分)の割り当てとなった。 戦況の激化に伴い海外からの米の輸入が途絶え、そのうえ軍隊への食糧配給を最優先に したため、次には二合三勺、ついには二合一勺(約300グラム)ご飯にすると(四杯分) (配給前の消費量の六十パーセント)にまで配給量が激減した。 当時の児童は、親元での生活では食糧配給の不足分を、親がヤミ市場で工面するなどで、 質の面はともかく、量的には空腹になることはなかったが、学童集団疎開をした現地では、 乏しい食糧配給だけに依存する生活を余儀なくされたため、全員が栄養不良、当時の言葉 では栄養失調になった。

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戦後 戦後 戦後 戦後からからから高度経済成長から高度経済成長高度経済成長高度経済成長へへへへ((((食食の食食のの欧米化の欧米化欧米化欧米化とと簡便化とと簡便化簡便化)簡便化))) 昭和二十一年(1946年)五月、文部省体育局が発表した小学校児童の身長、体重に 関する下表のデータから、敗戦前後の飢えがもたらした児童の発育低下を、数字の上で具 体的に知ることができる。 昭和二十二年度の経済白書はこの数字を引用しているが、そこでは次のようにコメント している。 『注意してみればすぐ気付くことであるが、この九年の間に、身長も体重もほぼ一年ず つずれている。いいかえれば、小学校六年生は九年前の五年生に相応し、五年生は四年生 のレベルにしかないことがわかるのである。』 しかしこの数字は全国平均の値であって、親元を離れて集団疎開をした児童の値だけをと れば、もっと悪い値になったことは容易に想像できる。 このように、第二次世界大戦終結直後、日本は未曾有の食糧危機に陥り、栄養失調者も 多数出て、ヤミ市などが相次ぐ。そうしたなか、昭和20年代、アメリカは小麦、トウモ ロコシ、大豆等の農産物の過剰生産、在庫が深刻化し国家財政を圧迫しており、一刻も早 く農産物の滞貨をさばく必要に迫られていた。その膨大な余剰農産物のはけ口として標的 にしたのが日本で、戦前までのご飯に味噌汁、漬物という伝統的な食生活に代わって、パ ンに牛乳、肉類、油料理という欧米型食生活を日本で普及させる活動を密かに行ない、そ れが成功すればアメリカ産農産物はすんなりと日本で消費されると見込んだのだ。また、 アメリカは学校給食にも介入し、子供のときから食生活の洋食化の下地を作った。こうし て食生活の欧米化が達成された。 一方で、戦後の技術発達に伴って昭和27年には電気トースター、冷蔵庫が登場し、30 年に炊飯器が誕生し、食事がより簡単に取れるようになった。昭和30年代には高度経済 成長を迎え、女性の社会進出が盛んになったために、食の簡便化が求められるようになり、 昭和33年に日清食品が『チキンラーメン』を発売し、一躍インスタント食品ブームのさ きがけとなる。それから 10 年ほどの間にインスタントコーヒー、レトルト食品などが相次 ぎ発売し、食の用意にかかる時間はぐんと減った。 昭和 46 年7月には、東京の銀座のデパートの銀座通りに面した1階にファーストフード のマクドナルド一号店がオープンした。初日から 2,000 人以上の客がつめかけ、1個 80 円 (当時)のハンバーガーが飛ぶように売れた。前年には国内初のファーストフード店のケ ンタッキーフライドチキンといったファーストフード店もなども開店しており、この頃よ り全国にファーストフードが広がっていく。こうしたファーストフードなどの普及は、家 族がそろって出かける催事としての外食というイメージを変え、手軽な外食というライフ スタイルの変化を引き起こした。

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現代的食生活 現代的食生活 現代的食生活 現代的食生活 先に述べた欧米化の食生活がより浸透し、脂肪分、畜産物を摂取カロリーが年々増加す るのに対し、消費カロリーは仕事の自動化、自動車の普及などにより減少しつつあるため、 カロリー過多になり肥満が増加している。 また、欧米化の食生活も原因のひとつと考えられている生活習慣病の予防のために健康 食がとられるようになった。具体的にはカロリー控えめだとか、有機野菜だとか、そうい ったものがそれにあたる。最近ではいくら食べても太らない薬なども市場に出回っている。 肥満は健康の大敵なのでこういったもので抑制できるのであれば悪いことではないだろう が、ある調査では、ヒトという動物にとっては明治時代のような食生活があっているとい う調査結果も出ている。日本の食生活も見直す時期にさしかかっているのではないだろう か。

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次に間食の歴史・菓子について調べてみる。 弥生式文化人が農耕民族であり、穀類を主食としてほかに魚介類、鳥類を食していた事 は今や周知の事実である。その時代は一日二食であり、途中空腹になれば野生の「久多毛 能(くだもの)」、「古能実(この実)」を補助食として食べていた。そして、この補助食を 総称「くだもの」と呼んでいた。そのため、菓子の原点がくだものとされている。この頃 は果物と菓子の区別はなかった。例えばうどんやそうめんも、ある時代には菓子の分類に 入っていた時もある。 大陸文化の影響は、飛鳥時代に入って遣随使・遣唐使など本格的な交流が始まって、一 段と文化・食文化が日本に及ぼす影響が大きくなった。またこの頃、唐菓子の輸入が始ま り、唐菓子が現在の和菓子の原形となった。この唐菓子の持つ大きな意義は、菓子を加工 食品に仕上げた事である。それまでの日本の菓子とされるものは、くだものを中心にせい ぜい穀物を搗く・焼くなどして、もち・焼米などにする技術だけであった。それが、穀物 を挽いて、米粉・餅粉・小麦粉・そば粉などの粉にする技術により、二次加工・三次加工 が可能になり、現在の菓子の原形が出来上がった。 そして、次にまんじゅうが出現した。南北朝時代に元の曽 林浄因によってまんじゅうの 製造がなされ、それが奈良の地で始まったことから「奈良まんじゅう」と呼ばれた。そし て、その後に京都に移り、本格的に製造された。つまり、まんじゅう出現により菓子業が 成立したのである。この時代の創業者が現在の日本最古の老舗につながっている。 日本の名が西欧に紹介されたのは、マルコ・ポーロの東洋見聞録によるとされている。 これに惹かれて西欧から来たのが、ポルトガル人であり、本格的に貿易が始まったのは1 571年であった。当時ポルトガル人を南蛮人と言っていたので、輸入された菓子を南蛮

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菓子と称した。この貿易はポルトガル人を筆頭に、スペイン・オランダ・イギリスと続い た。南蛮貿易の出現に伴い、日本菓子にも重大な革命をもたらした。それは、白砂糖の大 量輸入とその製法である。これにより、黒砂糖の無糖時代から白糖の有唐時代へと移って いった。当時輸入された南蛮菓子にはカステラ・ボーロ・金平糖・ビスケットなどがある。 江戸時代270年の間、菓子は京都の京菓子と江戸の江戸菓子の二系統に対立し、それぞ れの特長を生かして成長をとげた。特に江戸時代でも最も潤沢な文化の華と言われた元禄 時代と文化文政時代に、菓子の製法が急成長を遂げ、今日の和菓子はこの時代に完成の城 に達したとされている。 鎖国令が解かれ、外国文化が自由に収容されるようになって、西洋文化模倣時代に入っ た。菓子も流行を追って洋菓子輸入が行われたが、長い間の肉食を断った食生活の習慣で 動物性の油や動物性蛋白質が日本人には親しめず、バターやミルク、卵を中心にした洋菓 子の売り上げは、なかなか上がらなかった。その後、喫茶店の出現と共に洋菓子は昭和初 期にかけて需要は順調に伸びていった。 昭和27年に粉・砂糖の統制は撤廃され、菓子業界もだんだん本格的な製造を開始した。 その後、今日までの40年の間に、他の産業と同様に規模は小さいが急成長をとげて来た。

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.飲料

飲料

飲料

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の購買

購買

購買の

購買

の推移

推移

推移

推移

次に飲料購買の歴史について調べてみる。 飲料も人間にとって、大切なものだ。現在、スーパーマーケットのドリンクのコーナー には、たくさんのペットボトル商品が並べてある。お茶、スポーツドリンク、ジュース、 炭酸飲料・・・など中身の種類は、様々だ。さらに、お茶やスポーツドリンクひとつとっ ても何十種類ものバリエーションがある。それぞれの分野について、起源を調べてみる。

1.炭酸飲料

炭酸飲料の起源は、ローマ時代にさかのぼる。健康のために、天然に涌き出る鉱 泉や温泉を飲んでいたのが始まりである。鉱泉は、普通の水とは異なり、ミネラル を多く含んでいたため、特に病人に飲まれていた。また、クレオパトラが、美容と 不老長寿の秘薬として飲んでいたと言われている。ただし、当時の炭酸水とは、今 で言う炭酸水とは違い、多少の炭酸が含まれたものであった。それらは、今でも健 康のために飲まれている。 日本に初めて炭酸水が上陸したのは1853年のことで、ペリー提督がレモネー ドを浦賀へ持ち込んだ。これが、現在の「ラムネ」と呼ばれるものである。「レモネ ード」という言葉がなまって「ラムネ」という名前が生まれた。今のようなビー玉 が入ったラムネは、1900年頃に販売され始めた。 現在、炭酸の飲み物と言われて、真っ先に思い浮かべるものは、何であろうか。

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最も普及し、たくさんの年齢層に人気なのは、コーラではないだろうか。小さい子 供・若い人はもちろんのこと、私の祖父がよくコーラを飲んでいる。 コーラは、戦後になって進駐軍と共に軍納品として入ってきた。しかし、当時の 日本は非常に貧しかったため、コーラの原液をアメリカから輸入するための外貨割 当が日本政府から受けられず、外国人向けに限られていた。また、日本の飲料メー カーからの反対もあり、コーラビジネスはなかなか浸透していかなかった。自由な 輸入が許可されたのは、昭和31年で、アメリカ政府からの外圧によるものだった。 そして、昭和36年頃から一般に向けて普及し出した。日本で販売されてからは、 戦後の復興・東京オリンピック・万国博などの追い風もあり、その勢いは止まらな かった。そして従来とは違う、「問屋を通さない直接のルート販売」といった販売方 法で、隅々まで効率よく販売した。 コーラといえば、コカコーラを一番に思い浮かべる人が多いと思う。ペプシコー ラなどがサントリーと業務提携を行うなどして追い上げている中で、なぜここまで コカコーラが人気なのかというと、東京オリンピックでコカコーラが協賛したのが 大きいと考えられる。

2.お茶

今ではなくてはならないお茶。しかしペットボトル飲料としてのお茶の歴史は意 外と浅い。以前は、お茶はお金を出して買うという認識がなかったのだ。 昭和55年に売り出された伊藤園のウーロン茶あたりから缶のお茶が認知されて きた。当時は、焼酎ブームにのり、また、飲むとやせる・油っぽい物を食べた後に 飲むと良い…などクチコミも加わり、昭和60年前後には、各社よりウーロン茶が 発売された。緑茶や煎茶は、酸素に弱く、空気に触れるとすぐに酸化して、色が変 色し味も劣化してしまうため、製法技術も難しかった。そのため、すでに酸化して いる、麦茶・ウーロン茶・ほうじ茶などが先に発売された。緑茶の先駆けとして、 伊藤園の「おーいお茶」が発売されたのは、平成元年のことである。それから現在 にいたるまで、健康に良いと言われている様々な茶類や薬草をブレンドした、たく さんの種類のお茶が発売されている。 例えば、キリンの「生茶」・「聞き茶」、サントリーの「ウーロン茶」・「伊右衛門」、 アサヒの<十六茶>・<旨茶>、コカコーラの<爽健美茶>・<まろ茶>・<Love Body>… など挙げていけばきりがない。新商品も続々と登場し、売上本数では、コーヒーに 次ぐ2位となった。また、他の清涼飲料が伸び悩む中、毎年前年をクリアしていて、 総売上量では第1位にまでなった。

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3.スポーツドリンク

今では、たくさんのメーカーが様々な種類のペットボトル商品を出しているが、 一番初めにこの分野を開拓したのは、大塚製薬のポカリスエットだろう。 ポカリスエットとは、昭和 55 年に点滴輸液の技術を生かして発売された。ポカリ スエットの「スエット」とは汗という意味で、カラダと水分の関係を象徴的に表す もので、「ポカリ」とは、語感の軽い明るい響きを持つ言葉としてつけられた。運動 したときに失われる水分・ナトリウムイオン・カリウムイオンなどを体に負担をか けることなく、素早く補給するための飲料で、体液に近い組成のイオン飲料である。 そのため、カラダ健康飲料として発達していった。 その後、コカ・コーラのアクエリアスが販売された。アクエリアスは、英語で星 座の水がめ座を意味する。また、アクアにはラテン語で、水、液体の意味があり、 水分や電解質などを体に供給するアイソトニック飲料というイメージに合った語感 ということでつけられた。渇いた体のための水分補給飲料で、激しい発汗を伴うス ポーツから、寝起き、仕事・勉強中や風呂上りといった日常生活における喉と体の 渇きを補給する。カラダと同じ浸透圧に調整し、カラダに良い水分補給を考えたア イソトニック飲料である。 平成初期は、このポカリスエット・アクエリアスが市場の約8割を占めていた。 その後に、様々な機能を持ったスポーツドリンクが発売されていった。 例えば、キリンの「アミノサプリ」。これは、アスリートにとって必ず必要となっ てくるアミノ酸を、日常生活でもおいしく簡単に補給できるという飲料である。ア ミノ酸に注目した飲料は、他のメーカーからもたくさん発売された。アミノ酸の次 に注目されたのは、クエン酸である。キリンから発売された「903」は、スポー ツのライバルである「乳酸」に注目し、アディダス ジャパン株式会社と共同開発 したスポーツ生理プロダクトである。クエン酸・カルニチン・ナイアシンを配合し、 乳酸に対抗する。日本アンチ・ドーピング機構の公式認定商品である。 このようにどんどん機能性を増したスポーツドリンクが登場している。

4.

.食品

食品

食品

食品の

の保存形式

保存形式

保存形式の

保存形式

の多様化

多様化

多様化

多様化

① 保存食の歴史 食において忘れてはいけないのが食の保存技術である。保存食とは古くから一年を通じ た食料の安定供給に一役買ってきた。気候や風土の関係で冬季、長期にわたり食料の確保 に困難を抱える地方や、遠洋航海、戦争などの食料の確保に大きな制約を受ける状況下で も困らないようにと工夫された加工や処理がされた食品のことをさす。手法として自然の 力を最大限に利用して保存を高める工夫としては、塩蔵、乾燥、燻製、発酵などがある。

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これらの保存の仕方は食品の風味を変え、場合によっては特殊な調理方法が必要なことも 少なくなかった。 19世紀に入り、缶詰の時代が到来する。1804年、フランスのニコラ・アペールが 広口ビンに食品を詰めるビン詰めを発明し、海軍の非常用食料として採用された。181 0年にはイギリスのピーター・デュランがブリキ容器による貯蔵法を発明し缶詰が生まれ る。これは戦争のたびに需要が高まって産業として成長した。これにより加熱殺菌と密封 によって、食品の風味を余りそこなわない長期保存が可能となった。しかも、これらは調 理済みなので、容器をあければそのまま食べることができる。当初、軍用食として開発さ れたが、その有用性、利便性が知れ渡り、現在に至るまで量産され続けている。日本で作 られた最初の缶詰は、明治 10(1877)年に開拓使石狩缶詰工場でつくられたサケの缶詰で ある。日清・日露戦争を機会に発展し、軍事用食料として牛肉の大和煮、野菜缶詰(ゴボ ウ、ニンジン、マツタケ、タケノコなど)、果実缶詰(みかん、リンゴ、モモ、ビワなど) など日本人の口に合うものが開発された。大正 12(1923)年に起こった関東大震災では被 災者の救援物資として使われ、さらに需要が高まった。しかし第二次世界大戦中は、缶材 のブリキや食材の不足が深刻になり、缶詰産業は一時、衰退してしまった。 そして、近代になり、冷凍保存の時代を迎える。低温で腐敗菌の繁殖を抑え、長期の保 存を可能にした。調理済み、半調理済み、生の素材いずれも問わず冷凍により保存が可能 である。缶詰よりも食品の性質変化は少ない。現在では、冷蔵庫を買えば必ず冷凍機能が ついているので、一番新しく、かつ大衆に一番広まっている保存方法といえるだろう。 この他にも、缶詰の技術を応用したレトルト食品や凍結乾燥の技術を応用したフリーズ ドライ食品も保存食の歴史を変える大きな技術革新であった。 ②現代人と保存食とのかかわり わが国における保存食としては、佃煮、梅干、干し柿、漬物、餅など多くのものがある。 意外なところでは、茶や寿司なども保存食のひとつであるという。現在の保存食には旧来 の漬物などの保存食に加え、さらに 2 種類のものがあると考えられる。ひとつは非常食と しての保存食、もうひとつは簡便な食事を取ることのできる保存食だ。ここではそれぞれ 分けて書いてみたい。 ■現代人と非常食 阪神大震災以降、鳥取地震(00.10.6)、芸予地震(01.03.24)、宮城県沖地震(03.05.26)、 宮城県北部地震(03.07.26)、十勝沖地震(03.09.26)、そして昨今起こった新潟県中越地震 (04.10.23)と日本の国と地震の発生は切っても切れない関係にある。最近では非常時に 備えて防災グッズをきちんと備えている家庭も珍しくないのではないだろうか。 とはいえ非常食に関しては別に用意してなくてもそのうちすぐに援助が来るという考え を持っている人も多いのではないだろうか?しかし、いざそういう状況に陥ったとき、空

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腹という感覚を感じると正確な判断をしづらくなるという話も聞く。また、非常食を常備 しておくことでいざというときでもこれだけの食料をもっているという心理的な安心感も ある。ここでは、非常用保存食として有名なカンパン、アルファ米について触れたい。 ――カンパンの歴史―― 天保13年(1842)、反射炉で有名な伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門担庵公が非常 時に備え、保存できる軍用の携帯食としてパンを焼き始めたのが、我が国のカンパンの始 まり。外国文化の取り入れに熱心だった当時、水門藩は「兵糧丸」、長州藩は「備急餅」、 薩摩藩は「蒸餅」と名付けた軍用パンを作り、非常時に備えていた。 明治10年、西南戦争のとき兵糧に困った官軍が、フランス軍艦からカンパンの援助を 受けたと記録されている。当時はカンパンをビスコイドと呼んでいた。ビスは二度、コイ ドは焼くことを意味している。 日清戦争でカンパンの重要性を痛感した軍は技師を欧州に派遣、ドイツ式の横長ビスケ ットを採用し「重焼パン」とした。日露戦争後、軍用食の改良が行なわれ、カンパンの製 法に5%のもち米を入れたり、おにぎりのイメージを出すため胡麻をまぶすようになり、 「重焼パン」の名称は“重傷”に通じるとして忌み嫌い、その後「乾麺麭(かんめんぽう)」 と改められ、最終的には「カンパン」となった。当時のカンパンは旧陸軍によって開発さ れたもので、世界の携帯食糧の中からドイツのものを模範としていた。 現在ある小型のカンパンは、昭和5年頃より研究開発されたものである。カンパンは、 その性格上味付けがされていない。旧陸軍が研究開発した当時は、7年半の保存を目標と したため、糖、脂肪を除かねばならなかった。大正9年に、糖分を補う目的で白い金米糖 をカンパンと一緒に入れ、シベリアの極寒地でテストを行なったが、白い金米糖は氷を連 想するということで不評を買った。そこで、白を除き、黄、青、ピンク、紫、緑の5色の 金米糖を採用しテストした結果、大好評を得た。(現代のカンパンはカンパン 6 個あたり角 砂糖 1 つの割合で入っている。) ――アルファ米―― アルファ米とは、一度炊いたご飯を乾燥させたお米で、長期間の保存が可能で、お湯か 水を注ぐだけで食べられるので、非常用保存食のほかにも軍用食、レジャー用食品などと して使われている米である。 このアルファという名前は、消化吸収がしやすい結晶構造の α でんぷんのままお米を乾 燥させて作ったことからきている。普通にお米を冷ましてしまうと消化吸収されにくく、 あまりおいしくないβでんぷんとなってしまうのだ。 アルファ米は太平洋戦争前の日本で潜水艦・航空機乗組員向け食料として開発され、昭 和13年に発売された。とはいえその昔から「干飯(ほしいい)」「枯飯(かれいい)」と呼 ばれた形で似たような物があり、その起源はなかなか古い。大雑把に言えば、人工乾燥さ

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せるアルファ米に対して自然乾燥により作られたものである。 現代では白飯に加えわかめご飯、きのこご飯、赤飯などの味のバリエーションまで増え、 よりいっそう親しみやすいものとなった。味、量、調理の簡単さどれを取っても申し分な いうえ米の非常食ということで日本人にとってはこの上ない非常食といえるかもしれない。 ほかにもアルファ米と同時期に非常用の軍事保存食として乾燥牛肉、乾燥野菜、乾燥醤 油、味噌粉末などが開発された。 ■より調理の簡単な保存食 現代、カップ麺やレトルト食品、冷凍食品やレンジでチンするだけなどの保存食が市場 に出回っている。これらを取り入れた調理は、料理の時間を半減させた。ここでは、これ らそれぞれの保存食について触れたい。 ――インスタント麺、カップ麺―― 日本が誇る世界初に、インスタントラーメンとカップラーメンの発明がある。毎日新聞 によると、インスタントラーメンの生産量は、袋麺、カップ麺合わせて、日本で年間54. 9億食(袋麺20億6000万食、カップ麺32億300万食、生タイプ2億3700万食)、世界では年 間652億食ということだ。 日本国民の平均消費量は年間で 42.7 食になるというまさに一 大産業である。 世界初のインスタントラーメンは日清食品のチキンラーメンで世に出たのが 1958 年。チ キンラーメンはご存じの通り、お湯をかけて3分間待つ、という作り方で、鍋がいらない ということが当時画期的だった。その後、スープを別に添付したタイプが登場し、その方 が優勢になっていく。 インスタントラーメンというのは、麺に加工して、戻りやすくしたものをさしていうの だが、近頃は生麺タイプも登場している。麺の加工の方法は、当初は油で揚げるという方 法をとっていた。高温の油に麺を入れると、麺の中の水分が一気に蒸発する。そのとき、 内部の水分も一瞬で逃げていくため、麺に細かい穴がたくさんあいた状態になり、油から 上げると、乾燥した麺になっているが、この細かい穴があるため、普通の乾燥麺と比べる と、お湯に入れた時、水分を素早く吸収するというわけである。 油で揚げないタイプのものでは、熱風乾燥というのがある。熱風ですばやく乾燥するも のだが、油で揚げたものとは少し質が違い、油揚げタイプの麺は表面がザラザラしている が、熱風乾燥のものは少しつるっとした、固くかたまったかんじの麺になる。 1971年には世界初のカップラーメンとして日清食品のカップヌードルが発売される。 まずカップは、発泡スチロールを薄く成形する技術が確立して初めて、片手で持って食べ やすい軽さと大きさの器ができるようになった。卵やねぎなどの具材は、昭和 40 年代以降 に実用化が始まったフリーズ・ドライ(凍結乾燥)技術のおかげで、乾燥前の形状・味を 保ったまま長期保存ができるようになった。ほかにも輸送中の麺の崩れをふせぎ、もどり

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ムラがない「宙づり法」など、世界初のどんぶり付きラーメンの発売までには、発想から 実に 5 年の月日が費やされた。しかし、発売当初はインスタントラーメンが 1 袋 35 円で販 売されていたのに対し、カップラーメンは 1 個 100 円と、消費者の購買意欲をそそること ができなかった。 ところが、こうした即席麺類が消費者の健康志向の高まりにより敬遠される風潮も起こ り始める。そこで、1993(平成5)年1月1日から、「即席麺類の栄養成分表示に関す る基準」に基づいて、エネルギー、たんぱく質、脂肪、炭水化物、食塩の5項目について は表示を義務とし、また、ビタミンB1、B2、カルシウムを強化した場合にはこの3項 目について任意に表示することとした。 さらに1995(平成7)年4月1日から、食品の日付表示が賞味期限(品質保持期限) 表示に移行し、JASなどの関連規定が改正された。 また、現在では低価格戦略をとるラーメンとは別に素材などにこだわりグルメを狙った 高級カップ麺なども発売。有名ラーメン店の味を真似たカップ麺なども発売され話題にな った。 これらのインスタント食品は非常食としてもよく利用される。とはいえ袋麺やカップ麺 の賞味期限は約半年と、保存食としては少々物足りない感じも受けるが、価格自体が現代 は安くなってきているので問題ないだろう。 ――レトルト食品―― レトルト食品は、昭和 44 年に市場に出されてから 33 年間で、およそ 14 億 9,712 万個、 生産金額で約 2,031 億円に達している。有力なブランドが積極的な広告宣伝を行い、市場 開拓のために努力してきたことと、軽量で取扱いやすく、わずかな時間で温められ、簡単 に開けることができ、容器の廃棄処理がしやすいなどの商品の特長によって、消費が大き く伸びてきた。 レトルト食品とは、レトルト(加圧加熱殺菌装置)で殺菌できるパウチ(袋状のもの) または成型容器(トレー型など)に詰められた食品のことをいう。 現在、市販されているレトルト食品には、 ①アルミはく等とプラスチックフィルムを重ね合せた、光線も空気も通さないもの ②透明なプラスチックフィルムだけ重ね合せたもの があり、それらの中で袋状と箱型のものが作られている。 しかし、JASでいうレトルトパウチ食品とは、上に述べたアルミはく等とプラスチッ クフィルムを重ね合せたものを指していて、カレー、シチュー、パスタソース、麻婆料理 の素、ハンバーグ、スープ、食肉、魚肉味付・油漬、米飯類など 17 品目の規格が決められ ている。これらのほかに、中国風調味料、和・洋・中華料理の素、ソース類など多くの種 類の製品が作られている。 レトルト食品の容器は、耐熱性に優れ、ヒートシールによって密封したのち、120∼130℃

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の温度で短時間内に加熱殺菌をすることができ、アルミはくやスチールはくを重ね合せた レトルト食品の場合は、1 年以上の保存ができる。しかし、透明の容器の場合は、ふつう光 線とごくわずかながら空気を通すため、賞味期間は 3∼6 カ月ぐらいとみられ、それぞれ商 品に表示されている。 また、食品に接する内側のプラスチックフィルムは、ポリエチレン またはポリプロピレンが使われているが、すべて食品衛生法に基づく試験方法によって試 験し、基準に適合したものだ。なお、完全に加熱殺菌し、常温で流通できるように作られ たレトルト食品は、食品衛生法によって、「気密性の容器に入れて密封し、加圧加熱殺菌」 したことを必ず表示するよう義務づけられており、商品を選ぶときの目安となる。 最近では、スタンディングパウチ(立置型)や各種トレー(皿状)、カップ容器のほか、 業務用の大型レトルトパウチによる製品も作られている。 ――冷凍食品―― 世界初の冷凍食品は、20 世紀初頭、アメリカのコロラド州でジャム用にイチゴが冷凍さ れたのが、その始まりといわれている。 日本で最初の冷凍食品も冷凍イチゴで、誕生したのは 1930 年(昭和 5 年)。戸畑冷蔵(現・ ニチレイ)が不漁の際に空いてしまう冷凍設備を有効に活用するために、考え出されたも のだ。このときの冷凍イチゴは、糖液中に牛乳または生クリームを混入してその中にイチ ゴを漬け、それを容器のまま凍結するという特許を得て、大阪方面で販売したといわれて いる。それ以前の冷凍食品は魚を丸ごと冷凍したものだったが、以後、一般消費者向けに、 三枚おろしや切り身にした魚がデパートなどで売られるようになった。 1954年からはじまった学校給食では、コロッケ、魚のフィレーなどの冷凍食品が使 われ、1957年には都内のほとんどのデパートに冷凍食品売り場ができた。同じ年から 始まった南極観測隊の食料に採用されたことや、1964 年の東京オリンピックで選手の食料 に利用されたことも影響して、冷凍食品ブームがはじまる。のちの大阪万博では、さらに 冷凍食品についての認知が進み、ファミリーレストランなど外食産業の発展に伴って、業 務用分野では冷凍食品はなくてはならないものとして広く使われるようになった。 冷凍食品が普及するためには、製造元から物流拠点、小売店舗、家庭にいたるまで、冷 凍食品の品質を保つための低温度帯の流通網(コールドチェーン)の存在が欠かせず、ス ーパーマーケットの全国展開、冷凍食品普及のための日本冷凍食品協会の設立、電気冷蔵 庫の普及などによって冷凍食品の本格的な普及が始まったといえる。ニチレイが先鞭をつ けた電子レンジ対応商品の発売によって家庭でも簡単に調理できるようになり、ますます 身近なものになった。現在では揚げ物から麺類、ごはん類、スナック、冷凍野菜、そして 有名料理店とのコラボレーション料理まで、ありとあらゆる冷凍食品が販売されている。 「冷凍食品はまずい」という時代は終わったといえる。

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――レンジ製品―― 電子レンジの普及率が上がるとともに、それに合わせた加工食品も登場する。1985 年に ハウス食品から発売された「レンジグルメ」シリーズは、蒸しパン、おかゆ、カレーライ スなどを電子レンジで温めるだけで食べられる手軽さが受けて、ヒット商品となった。電 子レンジ用の包装資材の開発が商品化を可能にした。 現在では、ごはんに始まりさまざまな食材がレンジでチンするだけという保存食として 販売されている。

--まとめ

まとめ

まとめ-

まとめ

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今回、4つの観点から食文化の推移を調べ、それぞれの原因を見比べてみたところ、い くつかの共通する項目があることが分かった。以下はそれを示した図式である。 次に、ここで共通点として挙げられた項目が、当初の仮説通り文化の変化を示すものか 考察してみる。 まず、「海外の文化の介入」という点だが、これは鎖国の中止、終戦処理などによって海 外の様々な文化が日本に流れ込んできたことで、字面通り文化の変化に該当するものであ るといえる。 間食の変化要因 ・ 大陸文化の流用 基本食の変化要因 ・ 原材料の輸入量の減少 ・ 欧米による食生活変更の政策 ・ 台所技術の発達 ・ 女性の社会進出 ・ 家族の個人化 保存食の変化要因 ・ 保存技術の革新 飲料の変化要因 ・ 海外から日本への持ち込み ・ 外国政府による圧力 ・ 健康志向の一般化 主な共通点 ・ 海外海外海外海外のののの文化文化文化文化ののの介入の介入介入介入 (基本食・間食・飲料) ・ 食食食を食ををを取取取取りりりり巻巻く巻巻くく技術く技術技術技術のののの進歩進歩進歩 進歩 (基本食・保存食) ・ 大衆大衆大衆大衆のののの意識意識意識意識ののの変化の変化変化変化 (基本食・飲料)

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2つめの「食を取り巻く技術の進歩」については、新しい調理技術の考案やその実現、 冷却・保存方式の変化ということを指すものであり、電力の大衆化などがこれらの大きな 引き金になっているものである。 そして、「大衆の意識の変化」という要因は、人々の願望が新しい文化を開拓する、とい う見方であり、上記2つとはベクトルが逆になってきてしまうが、食の変化と文化の変化 との間の相互関係自体は成り立っているものといえる。 以上の3つの共通項を、仮説と照らし合わせて検証した結果、食形式の変化と文化の変 化の繋がりとしては、以下のような相互関係が成り立っているといえる。 例えば、「海外から新しい食材 A が入ってきた」というケースの場合、 1.海外から A という食材を使う文化が日本文化に追加された 2.日本なりの A という食材を用いた調理方式などが考案される 3.日本人に広く知れ渡り、 A という食材が日本の食生活の一部となる となる。また、先述した「大衆の意識の変化」というケースの場合には、 一、大衆に「痩せている方が良い=ダイエットしたい」という意識が芽生える 二、大衆の要望を食品関係者が受け取り、新しい食形式 B が発案される 三、2つが結びつき「ダイエット食 B 」という新たな食文化が追加される という関係が生じているといえる。 このように、食生活の形式の変化の要因を見てみたところ、やはり根底にあるのは文化の 変化であると見て取れた。この結論は、調査前に建てた仮説が正しかったものであるとい うことができる。 これらの考察を終えた後に、今回の調査を振り返ってみると、私たちの食生活にはそれ ぞれの時代の文化が強く反映されていること、そして、その影響は数世紀経った後でも色 濃く残り、新たな文化を取り入れて、常に変化し続けているものであることが分かった。 文化 文化 文化 文化ののの追加の追加追加(新しい文化が既存の文化に追加される)追加 文化 文化 文化 文化ののの進歩の進歩進歩(新しい技術や形式が考案・導入される) 進歩 文化 文化 文化 文化ののの浸透の浸透浸透(人々にその食形式が広がり、一般化する)浸透 1. 2. 一. 二.

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そして、この変化の推移の仕方が、既に数百・数千年続いている事から、これからの日本 の食形式の変化についても、日本を代表する「コメ」の文化を残した上で、新しい食材・ 新しい調理方式・新しい保存方法などを、時代毎の情勢や需要から汲み取って変化してい くものであろう。

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“FOOD TIMES”

:Safety and Health

石原 靖士

臼倉 彩乃

武田 宏一

田中 清貴

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目次

1.はじめに・・・ 担当田中 2.食と安全 (1)BSE問題 担当臼倉 (2)遺伝子組み換え食品 担当田中 3.食と健康 (1)健康・サプリメント食品 担当石原 (2)お酢 担当武田 4.まとめ 担当全員

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1....はじめに

はじめに

はじめに

はじめに

今の時代、1世紀前とは比較にならないほど経済が発展、またグローバル化し、それに より人々の生活様式も多種多様になってきた。その中でも人々の「食」に対する意識はか なり変わってきたように思う。「飽食」とよばれる現代において人々は「食べる」という行 為を当たり前のように感じている。以前は「食べる」という行為はただ人間が生きる為に するものという考えが普通であった気がするが、現在はそれに付加価値(栄養の摂取、ま たは自己満足など)といったものを求めているのではないか?その為に人々は「食」に対 して色々な「こだわり」を持つようになったと思う。 その「こだわり」としてここで我々が考えたのは、「安全性」と「健康」である。 昨今、新聞テレビなどで「食の安全性」に対する危機が警鐘されている。日本人に食の 安全性を大きく意識させる要因となっただろうO−157食中毒事件以降、所沢産キャベ ツのダイオキシン汚染疑惑、未だ安全性が完全に証明されてない遺伝子組み換え食品、B SE問題、鳥インフルエンザ問題などといった「食の安全性」に対して疑問符を付けたく なるような事が続出している。 また欧米の影響を受けて、若い女性を中心にダイエット食品、サプリメント食品などが ブームとなっている。美容や健康のために良いとの理由で近年、日本国内でも大きな市場 となりつつある。 我々はこの二つの問題を「安全性」に関してはBSE問題と遺伝子組み換え食品。 「健康」に関してはサプリメント食品、お酢に焦点をあてて調べていきたいと思う。

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2、

、食

食と

と安全

安全

安全

安全

(1

1)

BSE

BSE問題

BSE

BSE

問題

問題

問題

臼倉 彩乃

① BSEとは?

食に対する意識が高まっている中、日本中を騒然とさせた事件が起こった。「BSE問題」 (別名:牛海綿状脳症・狂牛病)である。 そもそもBSEとは1986年にイギリスで始めて発見された。BSEにかかった牛の 組織がスポンジ状になることから、牛海綿状脳症とも名づけられた。 なぜBSEが発症したかというと、羊の残骸から製造された肉骨粉を使ったために羊の 「スクイピー」という病気が何らかの変化を受けて狂牛病が発生したとももしくは自然発 生したとも言われているが、広がったのは狂牛病の牛から作られた肉骨粉が牛に用いられ たからである。参考までに上記の羊に発生していた「スクイピー」と「狂牛病」は似てい るが、違う病気なので区別する必要がある。また、「狂牛病」だからといって牛にしか発症 しないのではなく、狂牛病の牛から作られた肉骨粉を与えると他の動物にもうつってしま う恐ろしい病気なのだ。ただ、調査によると鳥や魚などには狂牛病は感染せず、肉骨粉を 口にすると感染するのが牛・羊・ヤギ・マウス・猫科動物であるというのが報告されてい る。 この狂牛病がどのように発症するのかというと、その原因は神経組織などに存在する「プ リオン」と呼ばれる神経の働きを支えるたんぱく質が異常に変形すると言われている。も し、牛が異常型プリオンを摂取するとそれが脳に達してもともと脳内に存在するプリオン に感染するのが感染ルートである。異常型―プリオンを含む餌を摂取した牛は、2∼8年 の潜伏期間を経てまずは神経症状を示し、その後死に至る。 ここで専門的な単語「プリオン」について少し調べてみた。 正常型プリオンは全ての哺乳類が持っていて、体内できちんと遺伝子管理のもとに作られ ている。リボンをくるくると丸めたような形をしていて、神経細胞の形を整えたり、神経 の情報伝達に関わったりした後古くなって寿命がくると、細胞の中で分解されてなくなる。 また、普通の状態でもこのプリオンの中にはとても低い確率で「異常プリオン」が作られ てしまうが、とても少ないので病気を起こすことなく、いつの間にかプリオンに寿命がき て分解されてしまう。ところがこの異常プリオンがたくさん作られてしまうと、これを分 解するスピードが間に合わなくなり、神経細胞の中にたまってしまい病気になる。 異常型プリオンの形は正常のものが一部変化して、立体構造が異常になってしまったも ので、たくさん集まって針金を何度も折り曲げたような形になっている。

参照

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