十八世紀スコットランドの「法学」 : グラスゴウ大学の「法学教育」一斑(序説)
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(2) 2. 閑. 蘭. 郎. 一. 日. 次. 序説-アダム・スミスの「法学」 1十八世紀イングランドの概況 2. 十八世紀スコットランドの概況. 3. ジョン・ミラーの生涯と思想 (1)ほじめに一二通の手紙. (2)ミラーの生立ちとその青少年期 (3)ミラーの教授就任とその「法学教育」 (4)ミラーの家族とその家庭生活(未完) 序説-7ダム・スミスの「法学」. 18世紀に,スコットランドで「古き学寮01dCollege」といえば,それほ,グラスゴウ 大学University. of Glasgow. アダム・スミスAdam. (1450-)のことであった。. Smith. (1723-1790)氏は,はじめは,. 1751年から論理学の教授. ・として,次いで翌1752年から道徳哲学の教授として,そして, 1760年から3年Fp3,同大学 の人文学部長をつとめ,つづいて, 1762年,同大学の副総長となり, 1764年2月には,大 学へ辞表を出し, 41才で大学をはなれた。いわゆる「経済学」ないし「政治経済学」の講 義ほまだ行われておらず,この著名なる「経済学者」が,なんと, 「論理学」, 「道徳哲学」, 「法学」等を講じていたのだということ,そしてまた,ちなみにいえば,それが「法学部」 ではなくして、. 「人文学部」で行われていたということも,今からみれば,そんなに妙で. もないが,筆者にはたい-ん興味深いことと思われた。 周知のとおり,スミス氏は,この間に,. 41才で大学を去るoそして, Causes. を発表し,. of the. Theory. Moral. of. Senti・. 36才の時に,その第2版を1761年,38才の時に刊行し,. ments」(1)の初版を1759年, and. 「道徳感情論The. 1776年, 53才で有名な「国富論Anlnquiry. Wealth. the Natur昌 Nations(諸国民の富の性質ならびに原因に関する研究)」(2). of. 1778年第2版,. 1764年,. into. 1784年第3版(改訂増補),. 1786年欝4版,. 1789年第5版と刊. 行を重ねた。同氏にほ,生涯この二著以外に刊行した著述はなかったといわれており,そ. れほおそらく事実であろうoつまり,筆者の関心の的である「法学」についての著述は, (1)この著述ほ,スミスが大学を離れてから, れ, 1767年第3版,. 1774年第4版,. 1764年にフランス語訳,. 1781年第5版,. 1770年にドイツ語訳が現. 1790年(没年)には大巾な増訂を托どこされ. た第6版として刊行された。. この第6版はAdam Analysis. of the. Charactor, Dissertation. First on. Smith,. Principles of their the. The. by. Theory. which. Neighbours,. Origin. of. Men and. of. Moral. Naturally Afterwards. Sentiments;. Judge. An. Essay. Concerning. the. of Themselves.. To. Towards Conduct. which. an. and. is added. Languages,という長いタイトルになったが,約150年を経て,. (日光書院1948), 日本語訳が現われる。すなわち,米林富男訳,アダム・スミス「道徳情操論」 (未来社1969)であるoなお,高島善哉教授ほ,これを「道徳感情諭」と訳されているo高島善 哉「アダム・スミス」. (岩波新書1968) 38貢など参照。. a.
(3) 5. 十八世紀スコットランドの「法学」. 同氏の意図にも拘らず,その生存中には刊行されていなかったのである。 「道徳哲学教 しかし,僕倖というのであろうか,スミス氏がグラスゴウ大学在職中に, 授として, 1752年から1763年12月末まで講義し,さらに, 1764年1月に入っておそらく数. 「おそらぐ・-・・アダム・`スミスの〔大学〕離任. 日の講義をしたであらう」その講義の一部,. 1762-3年の学期において講ぜられたもので、ぁら にさきだつ176314年の学期の間か, ら.そしてその講義が, 1761-2年以前のものでないことは,まず確実といぅてよ-く, 1760-1年より前のものではないことほ絶対に確実である.」と,エドゥィソ・キilナン Edwin. Cannan教授が推定したところの,スミス氏の講義が,受講学生のノートから更匠 転写,清書された写本の形で存在していることを, 1895年4月21日,同教授は,初対面の Charles. 弁護士チャールズ・マコノキー氏Mr.. Maconochieから知らされ,同教授は4年. の歳月をかけてこれを研亥Ilし, 1898年これを刊行したo すなわち,これが, university with. an. of Glasgow introduction. LectuLres. by. Justice,Police, Revenne. on. S血itb, reportedもy. Adam. by. notes. and. Edvin. a. Cannan,. Arms,. and. in. student. 0Ⅹford,. at. the. delivered 1763. in the. and. editted. Clarendon. Press,. 1898であり,これの秀れた日本語訳は,翻刻刊行後約50年を経て,ようやく現われた.す. なわも,高島善哉・水田洋訳「アダム. グラスゴウ大学講義」. スミス. (日本評論社版,. 1947,昭22)である。このスミス氏の「法学」ないしスコットランドの-「法学」の一斑を 示す,いわゆる「グラスゴり大学講義」の資料ほ,さらに1958年になされた新らたな発見 によって豊かにされた。. 筆者が,在外研究中に入手した資料Adam by. Ronald. L二Meek,. David. Daiches. Raphael,. Smith, and. Lectures Peter. G.. on. Juri岳prudence, edited. Steinの解説`(9頁)によれ. ば,これは1958年晩夏スコットランドのアバディーンにおいて,アJ:ディーン大学のロー ジァソ教授Professor. John. M.. Lothianに【よって発見されたもののようであるo. この新資料は,キャナン教授の旧資料と対照されることによって,より詳細な「スミス の法学」像を開示し,私たちをより深くかつ広い学問的世界に導く㌢ものであるが,これの■ 紹介は残念乍ら,後日の課題とせざるを待ない. なお,ちなみに,ロージァン教授によって,この新資料とともにもう一つの新資料も発見 く2)この著述は,スミス生存中,. 1776-78年の問にドイツ語訳,. 1779年にフランス語訳が現われ,. その没後約100年を経て, 1884年(明治17年)-1888年(明治21年)に日呑語訳が現われ声。す なわち,「英国 東宮斯密氏著 日本 尺振八先生開 同 石川咲作詩 富国論 第1巻(明治17 「英国 アダム・スミス氏著 日本 石川喋作詩 富国論 第2巻(明治18年5月)」, 年6月)」, 「英国. アダム・スミス氏著. 日本. 石川咲作. 富国論. 嵯峨正作分諸. 第3巻(明治21年4月)」. がこれである。. (「国富論」慶'るいは「諸国民の富」)が日本に上陸してから100年余,アダム・ スミス氏(「王巨嘗斯密氏」, 「壷達母斯覆土」, 「亜当須密斯」, 「斯美」)について,どれほど多くの この「富国論」. 文献が現われたことか.さしあたりほ,アダム・スミスの会(代表者 スミス文献」 (弘文堂, 1955,昭30),同(会長・大河内一男) 会, 1965,昭40)など参照.. 矢内原忠雄)「本邦アダム. 「アダム・スミスの味」. (斉大出版.
(4) 4. 関. されたoそれほ・ of Glasgow. Lectures. by. Adam. 教授の手によって,. 禰. on. Rethoric. and. Smith,. Reported. by. 郎. 一. Belles. Lettres,. Student. a. 1963年9月に刊行されたもので,. in. Delivered. in. the. University. (Nelson)として,同. 1762-63. 「グラスゴウ講義」とともに,. 「エデ. ィンバラ講義」と併称されるようになったものである。筆者の手許にこれほなくプライス A.S・ Press. oxford, Skinner編のそれ(Clarendon 1983)杏 参看しうるにとどまっている。その検討もまた後日の課題である。. J・C・ Bryceと,スキナ-. 「グラスゴウ講義」は,仲々博識,雄弁な講述で,キャナン教授が推測したように,ス ミス氏が30代後半から40才になる前の時妄執 いわば箔の乗りきった時期のもので,その断 定的口吻は彼の自負を窺わせる。 冒頭,「法学とほ,すべての国民の法の基礎たるべき一般諸原理を研究する学問である。」 とし・グpチウスHugo. Grotius. プ-フエンドルフSamnel ツェ-イHeinricb. (158311645),ホップスThomas. (1588-1679),. Hobbes. Pu#endorff(1632-94),コツケイ男爵Baron. de. Cocceii. (コク. Cocceji 1644-1719か?),を次々に援用して前二者を好意的に, 後二者を批判的に紹介,概括したのちに,勇敢にも,「以上の外にほ,この問題に関して注 Yon. 目すべき体系ほ存しない.」と断じているo何故か,ロックJohn モンテスキューMontesqtlieu. そして再び,. Locke. (1632-1704)も,. (1689-1755)も登場してこないのである。. 「法学とほ,法および統治の一般諸原理の理論である」とし,その四大目. 的として,正義Justice,治政Police,国家収入Revenue,軍備Armesをあげ,この. 四つを柱として講義を組み立てている。筆者にとってほ第1部正義の中の第2篇家族法 Domestic. Law,第3篇私法Private. Lawの箇所がとりわけ注目させられる。 そこでほ,今でいうところの文化人類学的な,あるいほ民俗学,民族学,社会人類学的. な知見紅近いものであろうが,各時代各地の風習,習胤. たとえば,古代ローマやゲルマ. ンのそれ,イングランドやスコットランドのそれ等々に注意を払い,よく知られた歴史書. や施行記などをその典拠として適宜に言及しながら,基本的には,未開社会と近代社会と いう二段階に歴史を区分して比較対照するという手法の講述が行われていたと思われる。 「法学」の講述とすれば,当時までにすでに多くの判例も立法もあるわけであるが,それ らについては何故かそんなに力点をおいていなかったよう紅思われる.. 受講生によるこのノートに反映された「講義」をよむことによって,私たちほこの時期 のスコットランドの「法学」についてその全豹を卜するわけにほいかないが,少くともそ の一斑を知ることができる. ここで同じ時期のイングランドの「法学」ほどうであったかをみよう。. 1. 十八世紀イングランドの概況(3). イングランドでほ(4),オクスフォード(0ⅩfordUniv.)や,ケムプリッヂ(Cambridge Univ・)に, Professorship. VIII. -ンリー8世Henry. (1509-47)の肝入で,王立ローマ法講座Regius. of Civil Lawがもうけられたのほ,. 16世紀に入ってからであったとはいえ, 中世以来・長く講じられてきたローマ法は,激動するイギリス史の中で,「王国の一般的慣 ●. ●. ●. ●. ●. 習general. custom. of. the. ●. ■. ●. ●. realm」であるコモン・ロウ旺「法学」における主役の座をゆ.
(5) 十八世紀スコットランドの「法学」. 5. ずり渡す時代を迎えていた。 Report. コモン・ロウの多くの原則は,コウクの「判例集Coke's かのぼることができるといわれる(フィーフット,. 99京)。まさしくコウクほ,コモン・. (戒能通草「裁判」,岩波新書1951,. ロウにとって権威的であった。. 21頁以下参照。) (1215, 1225)」を近代的に解釈したり, 「権利請願the (1628)」を発案,起草したのも彼であった。. 「マグナ・カルタMagna Petition. 1572-1616」にまでさ. of Right. Carla. Edward. 18世紀に入ってからも,このコウクSir. (1552-1634)の影がイギリスを 覆っていたことほうたがいない。その著書「英法提要Institute of the Laws ofEmgland」 を頂点に, Glanville,. Coke. Bracton,. Littleton等の書が「四大典籍」として判例法の典拠となり, 大学の教材ともなっていた。コウク自身は,ケムプリッヂのトリニティ学寮で,プラクト ン・リトルトン,フリータ,ブリトンなどを読み,特にリトルトンを好んだと伝えられる.. 「五大典籍」の列に序せられたのが,ブラックストン この「四大典籍」に一つ加えて, Sir William on Blackstone(1723-1780)の「英法釈義Commentaries the Law of England」 である。当時のイギリスの「紳士」は皆この本を読まないにしても書棚に飾ったという。 (3) 18世紀イングラ./ドは, 1707年以降,スコットランドと合同して,大プt)テン島の王国の一部 となったのであるが,法制的には,独自単一の「イングランド法簡」というべきものを維持し, 合同の当初からスコットランドとは一線を劃してきたことほよく知られている。 イングランドとは,狭い意味では,ウェイルズ地方とスコットランド地方を除く大ブリテン島. テン連合王国United して(Union and. with. Kingdom lreland. Act. of Great. in Wales. Act. 1536による), 1707による),「大プリ Britain」とし,アイルランド島のアイルランドを併合. の一部であり,これにウェイルズを加えて(-ソ1)八世の時,Laws 「イギリス」とし,スコットランドも加えて(Union with Scotland 1800による),. 「連合王国United. Act. Kingdom. of. Great. Britain. GovermentoflrelandAct. lreland」とする.しかし,第一次大戦後,北部アイルランドは,. Free State (1922)と 1920で6つの分県区となり南部ほ1区でアイルランド自由共和国IrisII なり,のちエイル共和国Eire (1939)となったので,いまは, 「連合王国」といえば,大プリテ. ン島のイングランド,ウェールズ,スコットランド並びにアイルランド島の北アイルランド(時 にアルスクー地方UIsterともよぷ)を主たる領域とする. したがって,イングランド法といえば,大ブリテン島の中のウェールズとスコットランドを除 く地域の法,イギリス法といえば,スコットランドだけを除く地域の法,プリテンの法といえ ば,北アイルランドを除く地域の法ということ匠なる. その意味で,イギリス法(英法)といってもかなり複雑な様相を呈するわけであるが,ここで はスコットランド法に対比する意味で,イングランド法又はイギリス法を考えている。 (4)以下の叙述については, C・H.S.フィーフット,伊藤正巳訳「イギリス法-その背景」 版, 1952), W.M.ゲルダート,宋延三次訳「イギリス法原理」. (東大出 (東大出版1958),P.ヴィノダラ. ドフ,矢田一男,小堀憲軌真田芳意訳「中世ヨーロッパにおけるローマ法」. (中大出版, 1969), (中大出版, 1965),F. H・ローソソ,小堀憲助,真田芳憲,長内了訳「英米法とヨーロッパ大陸法」 (中大出版, 1971), TIF・T.プラクネット,イギ1)ス法研究会訳「イギ1)ス法制史,総説篇」(東大出版, 1959)。 J.H. F・H・ローソソ小堀憲助,船越隆司.真田芳意訳「イギ1)ス法の合理性」. ベイカー,小山貞夫訳「イギリス法制史概説」. (創文社,1975),田中英夫「英米法総論」. 版, 1980),ウイリアム・シーダル,西村克彦訳「西洋法家列伝」. (東大出. (成文堂, 1974)等参照,. …■.
(6) 開. 6. 爾. 一. 郎. ブラックスト./自身は,オックスフォードのペソプロ-ク学寮にいる間に法曹学院の一 つ,ミドル・テムプルに五年問在籍し,そこで,コークやリトルトンを読んだといわれる。 ・彼にはスコットランド人のウイリアム・マレイ(1705-93)という18才年上の法律家の友 人〔のちのマ,/スフィールド卿, 1761年に畔,彼の結解式で附添人までつとめてくれた先 輩〕がおり,その口ききでオックスフォードで講義をすることになるo 1753年6月23日,イギリス法講義開講の昔示がなされた。講座ほ1年,授講料は6ギニ ー,掲示された講義の目的ほ次のようであったo 「本講座の趣旨は,コモン・ロウという専門科目にいっそう精通したい紳士たちの利用 に供するだけでなく,そのはか自国の憲法と政治にある程度したしみたく思う人たちに ..も利用されることを考えている。 この目的のために予定されている内容は以下のとおり. -イギリス法をT一般的・包括的にえがくこと.その歴史をたづねること。'指導的準則と 基本原理を説明すること。これを自然法や外国法と比較すること。ただし,こまかい実. (シーダ. 際問題にほ入らないし,特定の事件間のこまかい区別も攻わないことにするo」 ル,. 179頁)0. ブラックストソは,偶然であろうが,スコットランドのアダム・スミLスと生年を同じく des Lois(1748)」 する。モソテス'*ユー、 Montesquieu(168911755)の「法の精神L,esprit が現われてから5年後,スミス氏がグラスゴウで道徳哲学教授に転じてから1年後,イン グランドで,ブラックストン氏が,イギリスの大学では初めてのイギリス法EnglishLaw 30才ゐブラックストンは,当時Solicitor・Generalの地位にあ. の教壇に立つ.すなわち, ったWilliam. Murray. (lateLord. Mans丘eld)の推薦によって,オクスフォード大学にお. Englandを開講.その5年後の 1753年秋の学期から,イングランド法Lawsof 1758年には,qharlesVinerの遺言で寄贈された,新設のヴァイナア・イギリス法講座担当教 いて,. 授の地位に就任。 1761年には庶民院議員となったが,すぐ法曹界に戻り, 1762年SolicitorKing's Benchの裁判 General, 1765-69年の間にCommentariesを刊行. 1770年Court of 官, 1770年から80年に没するまでCommon. Pleas'の裁判官で叡った,o. スミス氏に先立つこと10年,ブラックストン氏ほ57才でこの世を去ったが,残された. 「英法釈義」が,. 18世紀イングランド法律学における学問的金字塔ともいうべきものであ. ろうこと,あたかも同年令のスミス氏の「国富論」が,スコットランド経済学における学 問的金字塔というべきものであろうことと対照,比肩しうると思われる。 18世紀後半のイングランドにおいて,ブラックストン氏につづく法学者は,彼の受講生 Bentham (1748-1832)であろう.彼ベンタムやであったといわれるベンタムJeremy チスソの名とともに想起される「最大多数の最大幸福tbe dtest. greatest. happiness. of the. numbers」という功利主義Utilitarianismの標語があるoベンタムは,ブラックス. ト-ソの講義をノートもとらずに,きいていたというエピソードが示すように,コウクや. ブラックスト-ソが築きあげ,繁栄成熟しつつあったイギリス社会が受容してきた判例法 主義を, 「犬の法」と批判するo掛ま,法の内容を予め知らされることのない「多数」が,. gre・.
(7) 十八世紀スコットランドの「法学」. 7. それを知っている「少数」によ,-'て支配され,自分のしたいかなる行為が違法不当である かを,裁判で制裁又は不利益を課されてからこれをさとるというわでほ,それは「犬の法」, 「犬がなにをしてはならぬかを仕込むのと同じやり方ではないか」. (田中英夫,. 153頁)と激. 「多数の不幸」の上にそびえ立つ「少数の最大幸福」に奉仕. しく攻撃した。その標語は,. する法と国家が,いわば``寄らしむべし,知らしむべからず'というその姿勢をあらため, コモン・ロウやエクイティの法を制定法化codifyして,これを「多数」に知らしむべし. とする主張をふくむスローガンであったと解すべきであろう。 楽天主義的なイングランドないしブリテンの法と法学に浴せられたベンサムのこの痛烈 な批難ほ,. 「嘘が嘘として通用」(5)していた,. 17・. 8世紀にイギリスの法と社会と国家に対 する深い洞察を含み,これに大きなイム′モクトを与えたものであったと思われる. 18世紀後半のイングランド法学は,ブラックストンとベンサムの対抗の時代であったと いってよいであろう.ベンサムに続くオースチンJohn. Austin. (179011859)は,-. いわば. 次の19世紀の人である。 ここでは,再びスコットランドに目を転じてその概況を眺め,さらにもう1人のジョン, 即ちスコットラ1/ドのミルヒ且一在ジョン・ぐラー氏JohnMi11arofMilheughについ て紹介しなければならない。 2. 十^世紀スコt7トランドの概況 18世紀初頭,正確には, (5)戒能通草「法律講話」 故. 1707年5月1日,スコットランド統合法Union (日本評論新社, 1952,昭27). vitb. Scotland. 285頁参照。. 戒能教授が,イングランドの17,. 8世紀を目して述べた次のような言葉をよむと,まるで ベンサムがイギリスの法と社会を批判しているような迫力が感ぜられる。 「現在の限からみたならば,ずいぶんと不法であり不当であると思われるその頃のイギリスの 状態が,ヴォルテールにせよモンテスキューにせよ,一代の総明な人々を驚かせただけでなく, ●. うらやましがらせたことである. ●. ●. ●. 17世紀から18世紀にかけてのイギリスでほ,あらゆる物事がで. たらめをきわめていたとほいうものの,しかもなお何らかの筋道だけはついていた。たとえば議 会の制度にしても,買収と腐敗とは顕著であるが・・-・・最終的にほ投票者の意思にかゝっているこ とだ桝も. 原則として樹立されている. ・・・・・・裁判に適用される法律も,相当な苛酷さと混乱を示 していたが・・・・・・陪審制の運営は全体的にほ個人的権利を維持するに有利であった. -・・・. ・・・・-イギリスの制度は大陸の人たちを感心せしめたが,それほ制度がよかったからというより も,大陸の方があまりにも悪かったからであるム ●. ●. 第18世紀代のイギリスと大陸を比較して最も顕著な差の現われている点は,イギリスでは嘘が ●. ●. ●. ●. ●. ●. 嘘として通用しておったのに,大陸では嘘が真実として通用していたことである。 (大陸でほ) ・・・・・・国王やその有司らは,「ますます人民の幸福のためにやっているのだといいだ した。彼らは公共の福祉に仕えずに,君主なり権勢ある大臣のエゴイズムに仕えている事実を意 識すればするだけに,表面的には万民の幸福を強調した。彼らはl個人の法律的・政治的・人間 的価値をいよいよますます否定し,個人が国家と主体的・市民的関係に立つことを拒否するとと もに,人民を国家経済の目的物化し,人間として考えることをやめている」o (大陸のルソー達 が焼慨した理由は十分あるo) ・・・・・・けだし,同じように搾取が行われるにしてみても,搾取その ものが恩にきせられたら,全くたまらないからである. (「法律講話」 283-287貢)c.
(8) 8. 閑. 瀦. 一. 郎. Act1707. によってイングランドとスコットランドは統合され,グレイト・ブリテン王国 が成立し,スコットランドほイギリス議会に議員の定員ワクをもつことを条件(6)に,イギリ ス国家にくみこまれた。スコットランドほ,イギリスの社会構造,経済構造,あるいほ市場 構造全体の中の一部分として,まさに激動的な体験に曝されることになったわけである(7)0 Hill, Refor-. たとえば,ヒル教授ほ,これを大要次のように記述している(Cbristopher to. mation. IndustrialRevolution,. pp.. 22415).. イングランドとスコットランドの統合(1707年)紘,自由な交易市場の拡大をもたらし た。イギリスが,フランスをしのいだ主要な原因はここにあったとアダム・スミスは考え (6)この条件は,スコットランド貴族院議員16名,庶民院議員45名をイギリス議会に入れることで あった.大野真弓編「イギリス史・新版」. 190頁など参照o. スコットランド統合法によってグレイト・ブリテンの国会Parliamentほイングランド,スコ ットランド双方に対して立法権をもつものとされ,スコットランドの法と裁判所は,国会の法律 によって変更されない限り,これまでどおり維持されるものとされた。 したがって,スコットランドは,北アイルランドと共に,それぞれの裁判組織をもつが,刑事 事件をのぞく全部の裁判事件について,イギ1)ス(ないしグレートプ1)テン)の最高,最終裁判 所であるHouse. of Lords. (貴族院)に上訴できることとされた。. 立法府たる国会は,しばしばスコットランドについては別の立法をしてきたので,スコットラ 7-8京参照)0 ンド法は,今日でもイデリス法とかなり異なる(田中英夫「英米法概論上」 17, 18世紀イギリスの階級社会構造や社会経済思想については,次のような文献を参照。 (7) (岩波新書, 1949) 大塚金之助「解放思想史の人々」 高島. 善哉「アダム・スミスの市民社全体系」. (岩波, 1974) 「現代国家論の原点一宮の支配と権力の支配」 (新評論, 1979) 難波田春夫「スミス・「-ゲル・マルクスー近代社会の哲学」 (講談社, 1948) 藤塚 知義「アダム・スミス革命〔増補版〕」 (東大出版, 1952) ・′. 水田. 洋「アダム・スミス研究入門」. (未来社, 1954), 「アダム・スミス研究」 (真善美社, 田中 1948,論創社, 1979) 浜林 正夫「イギリス市民革命史」 (未来社, 1971) R・H・ト-ニー著,浜林正夫訳「ジェントリの勃興」 (未来社1957). (未来社1968). 書六「スミスとマルクス」. R. ・H ・ト-ニー著,出口勇蔵,越智正臣訳「宗教と資本主義の興隆」 H.フエイガン著,泰玄龍訳「平民の薮徒たち」 (岩波新書1960). (岩波文庫, 1956-59). H.ホロレンショー著,佐々木専三郎訳「レゲエ≠-ズとイギリス革命」 (未来社1964) 内田 義彦「アダム・スミス一人文学と経済学」 (「作品としての社会科学」〔岩波, 1981〕所 ・/. 大野. 収, 71頁以下), 「社会認識の歩み」 (岩波新書, 1971) 真弓(宿) 「イギリス史(新版)」 (山川出版, 1965). ′′. 越智 米川 三好. (中公文庫, 1975). 武臣「近代英国の起源」. (ミネルヴァ書房, 1966) 伸一「イギリス地域史研究序説」 (未来社, 1972) 洋子「イングランド王国の成立」 (吉川弘文館, 1967) ′′. 阿閉. 「世界の歴史8,絶対君主と人民」. 「イギリス中世村落の研究」. 吉男「市民社会の系譜」. (東大出版, 1981) (培風館1955).. 赤羽 裕「アンシアン・レジーム論序説」 高木八尺,未延三次,宮沢俊義「人権宣言集」. (みすず書房1978) (岩波文庫, 1957).
(9) 9. 十八世紀スコットランドの「法学」 ていた。. スコットランドの古い通貨ほ回収され,イングランド通貨に置き換えられた。スコット ランドに対する40万ポンドの補償金の支払いほ,スコットランド経済を大いに刺激したo 18世紀. この統合は,スコットランドの織物産業に打撃を与えたが,植民地貿易の解禁は,. の末までに,グラスゴウをイギリス屈指のタバコ貿易港にのしあげた。グラスゴウの成長 「スコットラ. 紘,その後背地の工業的発展を刺激した。この統合の長い目でみた結果ほ, ンド経済にとって全くの利益」であったと-ミルトン教授は考えている。. スコットランドの,イングランドに対する,穀物,家書の取引が,盛んになり,他面, イギリス資本はスコットランドをこも投下されたo スコッチ・リネン産業に刺激が与えられ た。スコッチ・コミッショナーによって集められた税金の収入は,. 1707年から1780年の間. に,何んと6倍に跳ねあがった。 1745年反乱〔Jacobiteの乱〕の敗北は,. この統合は,ロンドンの大拡張をももたらした。. スコットランド高地地方にも影響を及ばした。一世紀前の市民革命戦争の結末が,イング ランド北西部の暗黒部分に影響を及ぼしたように。 --・新しい道路や橋梁が建設され,裁 判官は巡回に出かけ,高地地方の人々は強制的に英語を教えられた.ドクター・ジョンソ Johnson(1709-84)紘,この社会変動に注目していわく,. ソSamuel. 『ウマレ(血筋)と. カオ(地位)の力が,ものをいわなくなる時,カネ(財産)の御利益だけが希望をつなく.. When. the. power. of money』と。. of birth. and. station. ceases,. hope. no. but. remains. from. the prevalence. (彼は,この純朴な地方社会が,産業化,資本主義化,つまり「万事は金」,. 「地獄の沙汰も金次第」の社会に変貌していくさまを皮肉っていたわけであろう)0 まだ,ジャコバイト主義は,なぐさめの昔話として生きのこっていた。しかし,スコッ. トランドの文化的な黄金時代は,. 「45年」反乱の敗北ののちにやってきた。. アダム・スミス,ディヴット・ヒュ-ム,ウィリアム・ロバートソン,アダム・ファー ●. ●. ●. ●. ●. ●. ガスソ,ロバート・ウォーレス,ケイムズ卿,ジョン・ミラー,ウイリアム・オヂルヴィ -!ジェームズ・ボズウェル,ロバート・バーンズ,そして,ジェイムズ・ワットの時代. である〔傍点筆者〕。 このヒル教授のかゝげた「時代の人々」の中に登場する,ジョン・ミラーとほ何者であ るか?. 3. これが,本稿でとりあげるグラスゴウ大学人文学部. 法学教授ミラー氏である0. ジョン・ミラーの生涯 (I). はじめに-ニ通の手紙. ジョン・ミラーJobn. Millar. (1735-1801)紘,. 1761年6月,つまり,アダム・スミス. 氏がグラスゴウ大学の人文学部長時代に,若冠26才の若さで,しかも,. 1年後にほ弁護士. への道を約束されていたにも拘らず大胆にもこれを放播して,グラスゴウ大学のシゲィル ・ロウCivil. Lav教授の地位に即いたという。ちなみにこのシヴィル・ロウというのは,. 我が国では通常,市民法とか民法とか訳されていて,市民社会における市民つまり私人問. の生活関係を規律するルールであるなどと定義されるが,これには幾通りかの意味がある.
(10) 関. 10. 葡. 郎. 一. 1789年の革命以前, 1804年ナポレオン法典公布以前のこの時. ことほ周知のとおりである。. 期,スコットランドでほ,シゲィル・ロウとほ,これからみていくように,ローマ法を意 味していたわけである(8)0. ジョン・ミラーの生涯と思想,そこから窺知しうる18世紀スコットランドの「法学」と. 「法学教育」を検討する前に,先ず,彼の人物像を示す,二通の手紙から紹介することに 1764年2月2日附の手紙,もう一つは,. したい.一つは,彼がアダム・スミス氏に宛てた,. 1776年中頃と推定される,日附なしの手紙であるo. ディゲイッド・ヒュ-ム氏に宛てた,. 大学の人事問題や,国富論-の言及などもそれ自体彼の考え方の現われとして参考にな るが,同時にここにほ,彼の生涯や思想にかゝわっていた様々な人物の氏名が登場する点 も興味深い。. 〔1〕アダム・スミス宛,スミスの後任者の錠衡について (於グラスゴウ, 1764年2月2日)㌔ 拝啓. Blackの同意のもとに,貴方が私たちの大学を. 私ほ,この手紙を,ブラック博士Dr.. 去ってから貴方の研究室がどうなっているかを知らせるということで,書いております。 Reid 〔Thomas Reid 1710-96スコットランドの哲 ァ,:デインにいる.) -ド博士Dr. Kamesによって,強力に推選されていますo. 学者か?一筆者〕が,ケイムズ卿Lord. リード博士ほ,デスクフォード卿LordDeskfordによっても,トレイル博士Dr・ をとおして,やはり強力に推遷されていますo思うに,すべてマッケンジー氏Mr・Mc・. Trail. Kenzieの関係する様々の筋からの影響力が用いられているものであろうと信ずべき大 きな理由がございます。ことによると,また,タイソズベリ公Duke. やホウプトン卿Lord. ofQueepsberry. Hopetonも彼の為にうけあっているかも知れませんが,以上の. 成りゆきはどうなるのか,ことがらの現状では,総じて不確実でありますo. ブラック君と私ほ,ヤング君〔Tbomas. Young,スミスはその任期を終えるために彼. を後任に予定した一原注〕が,公表されたなら,モア-ッドMoreheadがうけいれを拒 否するわけですから,断然,最良の人物と考えています.私たちは,このような外からの 働きか桝こ対抗する御努力を何か貴方が為しうるのでありますれば,どうか御自身を奮 われて御尽力賜わるよう,つよくお願い申上げます.もし貴方が,ヤング君についての御. (8)グラスゴウ大学は,グレイト・ブリテン王国が成立してから5年後の1712年,国王から,シゲ 1721年から61年までの問に, 3人の人 ィル・ロウの講座を寄贈され,その教授の椅子cbairは, Forbes, Hercules Lindsay, (William WilliamCrosse,によって占められたというo 物William Lehman, to. John. Millar. of Glasgow. sociologicalAnalysis,. Cambridge,. 1735-1801, 1960,. His. Life. p.19参照o. and. Thought. and. his Contributions. -以下の叙述は,ほとんど本書に依. っており,訳出した資料も本書に依ったもので原典には当っていないoSyracuse大学のレ-マン 教授-1960年当時-の,この詳細な社会学的研究に心から敬意と感謝の辞をとどけたい。).
(11) ll. 十八世紀スコットランドの「法学」. 〔そこで〕その. 自分の意見が役に立つであろうような何らかの場所を御存知であれば,. 御意見を表明なさる模会をもうけられますように,我々二人ほ,それを熱望している点 で一致しているということを開陳するに止めざるを得ません。私は,ヤング君がそのよ. うな援助を必要としているということを貴方に確信させることができます。いまでは, 我々が以前にほ知りえなかったような,彼に対する好意にみちたあつい環境があります。 掛も. これまでのクラスを教えてきて,その全員の大きな拍手喝采に浴しており,そし. 七,あらゆる点において,. 〔彼の〕話し方は自然かつ流暢になっているのです。これほ,. 小生が思-;でもいなかった意外の点だったことを白状いたしますo' 私がこの手紙を書いておりますことほ,ブラック君以外ほ誰も知っておりません。 敬. 具 ジ畠ソ・ミラー. 〔2〕ディヴイッド・ヒュ-ム宛,スミスの「国富論」について (於グラスゴウ,日曜日〔日付なし,. 1776年中頃か?-原注〕). 拝啓. スミス氏のスタイルについての貴方の批評は,総じて理由がなくほないかもしれない, -けれども,どちらかというと厳しいものであると思いますo 紘,. スミス氏のスタイルに. 「独創的」にみえる何ものかがあります.その思想においても,またこれを極端に. 他へ応用した点においても。しかしながら,同氏が払った全努力にもかかわらず,私か. らみて,理解のとどかない見解,一特に貿易の無制限な自由unbounded. freedom. tradeに関する同氏の卓越した指導的思想を立証せむとする意図がどんな幅をもつもの なのか,私にほ理解の届かないところが多々あることを白状いたします.私ほ,それが. どこまで真実であるのか,あるいほ同氏がそれをどこまで実現されるべきであ・ると言お うとしているのか,漠然`とした理解しかありませんが,この点について,貴方のご意見 がどうであるのか,お聞かせ下さればありがたいと思います。. 私ほ,政府というものは,貿易を規制するのに慎重であらねばならないと思いますo 何故なら管理に直接かかわるものは,一般に,当該管理問題について,悪しき裁判官に すぎないのですから.国民的英知なるものたっいで大言壮語する時に,しばしば・我々 紘,かなり乱暴な表現を用いるのも,悪しき裁判官たることを示しますo また私は,貿易に対する諸制限ほたやすく実現されず,それの強行を図ることは総じ て多くの費用を伴うと考えます。 しかし,尚,以上の二点を考慮するにもかかわらず,貿易を制限することが適切であ るような諸ケースがありそうもないのかどうか?この問題点は,各々の商業者や生産 者の利益が,あらゆる場合に公共the. publicの利益と一致するか,あるいほしないか. を,見極める我々の見極め方によって,肯定的にか,否定的にか論決されねばならない ものと思われます。商業的な仕事にいる人々は,総じて,彼ら自身の利益をよく知って おりまして,もし仮に,彼らの私的利益private. interestが,公的なそれと常に一致す. of.
(12) 閑. 12. 禰. 郎. 一. るとすれば,彼らほ安心して,ほしいままに貿易をする方につくだろうということは想 像できます。 けれども,私ほ,公共the. (しかし)商人たちに. publicに対してほ有害hurtfulな,. は極めて利得的pro丘tableな,貿易の部門がないかどうか,或いほ,少なくとも私的な事 業者にほ同じく利得的なさまざまな部門の中で,他の部門より公共部門に対して,より. 一層,便益的bene&cialな部門がないかどうか,疑うのでありますo飯にこれが真実で あれば,貿易制限は,しばしば,高度に便宜,得策expedientといわねばなりません. 一例を仮定しましょう。ワインを輸入する貿易は,その原材料を輸入するの他の貿易 よりも,一層便益的beneficialであるかどうかという問題です.この部門のかなりの商 人ほ,彼ら自身の利得が,他の部門の取引-それが,例え公共にとって,より便益的 にみえるとしても,ワイン取引による利得の方が原材料取引より大であることを重視す. るでしょう。この場合それゆえ,政府が干渉するのでなければ,よき取引が,悪しき取 引にとってかわります。おそらく,いま挙げた事例は他所で言われている事例よりよく ないかも知れません。. 貴方は,私がいま,スミス氏がその一般準則に対する例外としたところの,未成熟な 産業者infant. manufacturers. のケースを無視していることにはお気づきでしょう。. 私は,貴方が私に課した〔法律(?)一厘注〕問題にお答えする余裕がありません。そ れに対しては,のちほどお答えいたしましょう。 敬. 具 ジョン・ミラー. 〉く. 法学の分野では,. 「事実はそれ自身で語るres. ipsa. loquitur-the. thing. speaks. for itself」. という法諺がある。 スミス氏宛のものは,. 1764年彼が41才で大学に辞表を出した直後のもので,大学にいた. 29才のミラー氏がスミス氏の研究室の消息をったえることに事寄せて,大学の人事につい て秘かに助力を乞うている内容のものである。 ヒュ-ム氏宛のものは,そもそも日附のない点が致命的であるが,. 1776年初版が刊行さ. れたスミス氏の「国富論」に言及したもので,その言及のしかたや,その口吻からみても, かの哲学者であるヒュ-ムDavid. Hume. (1704-76)に宛てたものでほなく,当時ミラー. 家に寄宿していた,老ヒュ-ムの甥David宛のもののようであるoこの年,65才の老Hume 紘,. 1776年4月1日にSmith宛に「国富論」の刊行を慶賀する手紙をかき,. 8月25日に. は病没している。いずれにせよ,これらの書信は29才と41才当時のミラー氏のイメージな いしフィギュアを換起する材料の一斑でほある。. (2)ミラーの生立ちとその青少年期 ジョン・ミラーJolmMillar1735-1801は, James. Millar. 1735年6月22日,父ジェイムズ・ミラー. 1701-85と母アンAnneの間の子として,グラスゴウとエディンバラの中.
(13) 十八世紀スコットランドの「法学」 問にあるキルコウシヨット. 13. Kirkoshottsの牧師館に生れた。. 父,ジェイムズほ,スコットランド教会の聖職を長くつとめた。彼は!. ゴウを卒業し,のちに神学の学位をとった。. 1720年,グラス. 1726年,牧師の資格をとりその2年後に,辛. ルコウシヨットに赴任した。その教会の門は横木で鎖されていたという。群衆は集まって 教会に抗議した。それは新しい牧師にたいするものではなく,むしろ,教会の牧師任命方 法をこ抗議するものだったという。新しい牧師は窓から外へむかって説教をするという始末 だった.. 1737年,グラスゴウから-ミルトンの第2教会the. Second. へ移り, 1766年までそこに属し,同年同地区の第1教会に移って, 職にあった。 母,アンは,ウエストバーンのアーチボールド・-ミルトンの娘 Hamilton. ofWestburnであり,よく知られたカレン教授prof.. Church. at. Hamilton. 1785年没するまでその daughter. of Archbald. Cu11enの最初の従妹にあ. たる。. 1734年に結婚したが,彼女の家族ほ彼らの身分の不相応unworthy を理由にその結婚を承諾しなかったので,彼女の後半生は孤独であった.. of their. status. ジョンほ,アンの生んだ4人の子のうちの最初の子であったが,母が実家と疎遠であっ たせいもあったのか,. 7才までは,父の独身の兄〔伯父〕. ,ミルヒュ一に住むジョンJobn この地で, atMilheughのもとで過し,のちに,ミルヒュ-の地を相続することになるo 彼は,. -ミルトンの小学校grammer schoolに入るべく文字の初歩を習い,小学校では, LatinやGreekを学び,父の出たcollegeへ入寮,進学する下地を作った。彼が,cbnrcb of Scotland. への信仰に即した聖書物語や宗教上の教理を両親によって教え込まれたであ ろうことは想像に難くない。 ジョンは,11才で,父ジェイムスの卒業したグラスゴウ大学(スコットランドでほ,過. 称「古き学寮」. Old. College)に入り,. 当時のグラスゴウは,. 6年間の学生々活を送った。. 1721年当地に旅行してきた,ロビンソソ・クルウソウ物語(1719). で有名な,ロンドン生れのジャーナ1)スト,作家,ダニエル・デフォウDaniel. Defoe. (1660-1730)によって「大ブリテン島の中では最も清潔,優美で,最良の街だ。」とほめら れたが,. 1750年頃には,急速に商工業が勃興し,エディンバラと共に,スコットランドの. 中心的都市になるにしたがい,だんだんに喧騒な街にかわりつつあった。. グラスゴウの港にほ,植民地アメリカや西インド諸島からの船がきびすを接し,タバコ 業者や砂糖業者ほその富を蓄積していた。街の中でほ,スコットランドの高地人,低地人 たちが,街頭,マーケットにいりみだれて自由に活動していた。. 大学の学生たちほ,殆ど,貧困家庭からきており,倹約,質素な生活をしていた。たと え金持の家の子弟であっても見栄を吏らずに,大学の学寮collegeとか,教授たちの家 パイアティ. professors'bomeとかに逗宿していた。恭. 塀であることが,学. スカラシップ. 識があることよりも,. いささかならず,大学生活のためのよきパスポートであった時代である。.
(14) 閑. 14. 禰. 郎. 一. 教授たちはというと,幾人かは卓越した教師,大方は不器用な教師であり,高い学識だ 桝ま建て前として求められたo彼らはたいがい乏しいサラリーで暮していたoクラスの数 が多すぎるような場合だ桝土(たとえば,ギリシャ語のクラスでしばしばそうであったよ フィー. うに),学生たちは謝礼を払わせられた. 教授たちほ,しばしばその収入を補うために,裕福な家庭の子弟を寄宿学生ないし書生 boarding. students. or. resident. pupilsとしてひきとったo若干の例外を除桝ま,教授たち. は学寮にくっついている,教授たちの家professors'bouseに住んでいたo 彼ジョン・ミラーほ,ラテン語やギリシャ語を習得してから,. 一教授と-チスン教授(1694-1746)から,. 「道徳哲学」をクレイギ. 「論理学」をロウデン教授と1751年就任して最. 初の学期に当っていたアダム・スミス氏から聴いているo. 1751年から61年までの10年間の彼の活動については,不完全な知見しか得られていない。 1759年には, "法曹試験,,をパスし"passing advocate"エディパラでの法曹入りを許さ れるこ年位前から1760年中頃まで,彼はケイムズ卿Lord. Kamesの家に滞在しているo. クレイグCraigによれば,それは彼が「グラスゴウでの勉学を終へて」直後からであったo House, Craigとの結婚届(Register 1759年10月10臥後述のようにMargaret burgh,. Glasgow. under. marriage,. Edin-. 1761)0. エディソパラでのごく短い法律実務の経験をしながら,かれほ,リンゼイ教授の法律講 義Iaw lectures of Prof. Lindesayに出席していたらしい(後のマンスフィールド軌マ レイの引用する手紙による)0 (この時期のミラーの関心や行動を示す処の,蒸気機関の発明者として著名なワット James. Watt. (1736-1819)がのち1805年にかいた手紙があるが,これほ割愛する)o. 1761年の初夏,グラスゴウ大学のシヴィル・ロウ講座が, 〔注(8)参照。〕 死によって空席となった。. -ルクルス・リンゼイ教授の. 若き法曹ミラー氏は,その空席を襲う供補者として,ケイムズ卿やスミス氏の推薦を享 受したoのみならず, "英国王と王立講座の改廃任免についての関心を国王のために代行 するブート伯Earl. of. Bute"宛に急送された2人の推薦状(リソゼイ教授の没した翌日. 附)もあった。このことは,空席が生ずる前から準備されていたと思われるo (3)ミラーの教授就任とその「法学教育」 1761年6月2日の評議会の議事録に,「王室の寄附にかかる本講座を補充すること・,I-・こ. れを適正に補充することは大学にとって極めて重要であるo」と記録されているo評議員 ほ直ちにミラーを,適切な験補者として提案した.. 3週間の業漬審査の結果ほ,ミラー氏. に対して好意的であった。慣習となっている就任講話inaugural. discourseも認められた..
(15) 十八世紀スコットランドの「法学」. 15. of Faitb」(9). 就任に際して,どこの大学でも全教授に要求される「忠誠の宣誓Confession ち,グラスゴー長老会の前でなされたo. ミラーの教授職就任ほ,その椅子(地位)の評判と影響において,目に見えるほど好評 喧々であった.オックスフォードのブラックストーン氏のヴァイナ講座を除桝ぎ,時を移 さず,スコットランドでは,並ぶ暑がいなくなった.その少なからぎる好評は,全体とし て,大学の好評につながった。. ・・-・数年の問に〔講座の〕改良ほ急テンポになった。. シィヴィル・ロウ専攻の学生ほ,常時40人ほいたし,彼の統治論の講義にほいつもかな りの学生が出席していた。. 「受講者は大ブリテン島のあちこちからだけでほなく,海を越えた土地からもきており, ●. ●. ●. ●. ●. ■. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ○. ●. ●. ●. ●. ●. --・法学ならグラスゴウ,医学ならエディンバラ,と併称され有名であったo」ノ(R.-ロ Heron, Western Journey 418頁R. tbrougb ン「1793年の西スコットランド旋行記」 in. Scotland. γol.ⅠⅠ,p.418.). 1793,. 「もっとも有能な,上流ウイッグ党の特権階級も大学へ顔を出した。政治的教養を身に 60年政界で. つけるのに,ミラー教授の講義に出席する必要があった.同教授は,こ.の5,. リベラル派としてきこえている人達の精神に影響を与えたと思われる」 27-30頁Gray. Autobiography,. pp.. (グレイ「自叙伝」. 27-30). 法学教授の仕事は,建て前としては,"シゲィル・ロウCivilLav"杏"講述Prelecting'' Instittlte and. することであり,それは通常,ユステイニアヌスの「提要」 Justinianを含むローマ法Roman. Pandects. of. 6人. Lavの講義として,理解されていたが,普通5,. の受講生のところ,彼のクラスにはそれ以上の学生が講義や試験に出席していた。 「市民の法iuris. Law」や,特定. civilis」を教授する地位ほ,他の「都市の法Municipal. の国またほ行政上の管轄にかんする法,あるいほ「刑法CriminalLaw」の教授の地位に interest. 比し,さはどきわだっていたわけではないが,中世的大学で,神の恩寵divinity 「教会法CanonLaw」を教授する地位. によってあつく守護されていると考えられていた, よりはきわだっていた。. of Justinianや-イネッキュ. ミラー教授は最初に,エスティニアヌスの提要Institutes. ウスHeinecci11Sを教科書として使いながら基礎的コースを仕上げ,それからすぐに,彼 of Faitbの内容はおおむね,次のようなものである。. (9)この宣誓Confession. I r私,ジョン・ミラーは,王の任命にかかる,本大学の,法の講述者Professor. ofLawとし. て,自己の気力と能力の最善をそそぎ,自己の地位に課された義務を勤勉かつ忠実に遂行するこ 〔署名〕ヨアンネス・ミラー とを,ここに約束し,かつ,おごそかに,自ら宣誓するものである。 Ego, sancteque pro. mea. Ioannes. Millar,. polliceor, tenuitate. Legis in. me,. versaturum. Professor. muneris. mihi. in. hac. academia,. demandati,. [signed] Ioannes. ratione. a. Rege. obeunda,. nominatus,. promitto. studiosefideliterque. MillarJ. なお,ラテン語その他の外国語の訳解について,いつもながら,同僚の吉村忠典教授(歴史学), 古田光教授(哲学),及びRobert Rolf氏の御示唆を頂いた。深く謝意を表するものである。.
(16) 閑. 16. 郎. 一. Grotiusやぼか,当時推奨されていた「権威的典. 自身の作った教材で,グロティウス 籍autborities」〔当晩. 禰. イギリスでは,グラングィル,ブラックトン,リトルトン・クッ. ク,などが,四大典籍と考えられ,ブラックストソは,まだそれ程の権威を有していなか ったと思われる〕の講読をてきぱきとすすめた。 このように授業内容ほ二つに割られていて,時間割上は1週間に5日,年度sessionの 初めから終りまで毎年,通年でおこなわれた。年度の約半分についてほ,彼は,教材をや や急ぎ気味に仕上杭. さまぎまな権利や義務の位置づ桝こ関して顕著な事項を簡単に明ら. かにし,認識させようと努め,それに基づいて次の半年度にほ,倫理的,心理的基礎を含. む諸原理,解釈,例証,歴史的展望,近代的生活状況への適用,などの点を強調した。こ の後老の内容が,法学Jurisprudenceなるものの内容として,しばしば語られていたも のらしい。 「提要Institutes」の放かに「大全Pandects」も口述した。 入手しうる資料によれば, うに思われ,それほ,. 「大全」を口述するのほ別の独立したコースを示しているよ. 「提要」の場合と同じように,全年度を通して,毎年おこなわれた 「捉. ようである。この点の資料ほ必ずしも全部が明かではないが,いずれにせよ,彼ほ,. 要」, 「大全」,. 「一般法学」の3つとも講述していたわけであるo. マレイMurray Lord. 〔スコットランド出身,弁護士,法務長官solicitor-general,大法官. Chancellor,国会議員等を歴任,のちのEarl. of. Mansfield。博くローマ法,ス. コットランド法,フランス商法典に通暁し,イギ1)ス商事法の発展に貢献したといわ CollegeJ p.212-21に れる人物一筆老〕氏の資料, 「古き学寮-グラスゴウ大学Old よれば,法学関係の時間割当は次のようであった。 1.提要,. 64講, The. lnstitutes,. 64. lectures.. 2.大全,. 46講, The. Pandects,. 46. lectures.. 3.法学,. 45講, Jurisprudence,. 45. lectures.. 4.政治,. 46講, Government,. 46. lectures.. 50講Scots. 5.蘇格蘭法(スコッツ法), 6.英吉利法(イングリッシュ法),. Law,. 50. (?)講English. lectures. Law,. (?). リードReid氏ほ,. 1794年頃と思われるが, 1日に2時間というミラー氏の講義プログ his public department」与えられる,と書いている。リー ラムを「彼の研究事務室でin ド氏は,英法コースについては何も述べていない。 ミラーほ,. 1週間に3日は通常の講義をしたが,. 1年置きにだけ,その2日分を,スコ. ットランド法LawofScotlandに充てた。後年になると,そのスコッツ法ScotsLawと 選択的に,イングランド法Law. 講義は,普通,. of Englandをも講述した。. 11月10日頃から5月中頃まで(ちなみに,人文学コースほ,. 10月初旬か. ら6月初旬まで)であったo講義開始まえ3週間ほグラスゴウ・ペ-′く-という,脊料の 新聞広報で講義の日程,概要が公示された。例えば,次のように。 「ジョン・ミラー!グラスゴウ大学法学教授は, ス提要,大全の講義を開始する。また,. 11月1日月曜日,ユステイニアヌ. 11月8日月曜日政治論講義。. 11月9日火曜日,.
(17) 十八世紀スコットランドの「法学」. (グラスゴウ・ジャーナル,. スコットランド法講義を開始する」 G壬asgow. Joumal,. 7-14. 0ct.. 17. 1773年10月7-14日. 1773). 「ジョン・ミラー,大学の法学教授は,エスティニアヌスの提要,大全の講義を, 来る11月3日月曜日に開始する。公法講義ほ,. 10日月曜日から同じく,そして,スコ. ットランド法講義ほ,同月11日火曜日から同じく。」 Mercury, 23 0ct. 1783) 年10月23日Glasgow. (グラスゴウ・マーキュリー1783. 講義が始まるころになると,そのクラスに属する前提として学生ほその入学許可書certi丘cate of. of qualificationをもって, matricutation又はその資格を示す書類evidence かつ,規定の受講料を教授に支払うために,個々に教授に面接する。しかるのちに,その フ. ィ. ー. クラスに出席するのだが,しばしば,学生は,その諸掛りが高いので,遅れてきたり,学. 生生活の諸費用を稼ぐために,その授業を早退せざるをえなかった。 講義の外に,ある種の試験もおこなわれた(下宿生メルポンMelborne. の答案による)a クレイグやジャルディ-ヌによると,正式にほ月曜日の朝,学生が学位をとる目的の為. の授業においてはかなり集中的に試験をしたという。講義ほ英語で行なわれた(その点ほ, ミラーの前任者, -ルキュレス・リンゼイ教授から,強く批判されていたという)0 試験は,少なくとも一部はラテン語でなされた.何故なら, "弁護士になる"ための法 曹試験bar・examinations. `pass. to. advocate'の用語ほ,まだなおラテン語であったからで. ある。学生たちは,教授の講述を,精粗濃淡ほあるけれども,そのまま書き写していた。 それほ疑いもなく試験を気にしているからである。ノートは貸し借りされ,暇なときに補 充,完成され,それほ時には,他の学生に売られたりした。 ミラーほ,多少は規則的に,家で仕事をした.教授になりたてで,講義の準備に没頭し ていたころほ,かなりの数の"書生". "resident. students pupils"又ほ,下宿生boading 4人位のときもあった。経済的にかなり豊かな学生を家に置いて,下宿. がいた。時には,. 料のような副収入additional. incomeを得ることが,このようなやり方の主なねらいであ. って,教授の立場上ゆるされていたが,ミラーの場合は,少なくとも学生の素質や将来性 の良さq11ality. and. promise. of future. achievementをもとに選んでいた。夏の間彼らを 受けいれる旨の手紙なども残っている(例えば, Lauderdale, Hume, Melbourne, Mentieth. 宛のものなど)。これらの学生に対する個人指導は,もちろんクラスでの講義の補充的な ものでほあるが,学生指導活動の重要な一環となっていたo (4). ミラーの家族と家庭生活. 教授就任の2年はどまえ(1759年),. 24才のミラー氏は,彼とほぼ同じ歳で,知的才能. に恵まれ,多くの性格的美質を備えた,グラスゴウ出身の一女性,マーガレット・クレイ グMargaret. Craigと結嬉した。. この結婚において,. 18年間で13人の子供,. 5人の息子と8人の娘,が産まれた。. 1人の.
(18) 閑. 18. 息子と,. 禰. 郎. 一. 1人の娘は幼時に死亡したo. 4人の息子ほ全部,父の大学に在籍した。うち長男,次男の2人は確実に,三男は略確 実に,四男ほたぶん,父の講義に出席しているo 長男のジョンJohnは,. ``成長する若き法律家rising. lawyer"として,父親ミラ. young. ーが彼に最上の教育的努力を注ぎ,その愚かな盲愛が彼の未来をしぼりつけたが,その幻 black country"で消え去った。 想ほ実現ケこ至る前,ペンシルヴェニアの"黒い国the 次男のジェームスJamesは,大学の数学の教授となり,. 1832年までつとめ,その6年 後の1838年に没した。彼ほ一度だけ,父ミラーの英法を受講している。 三男のウイリアムWi11iamは,よく知られた陸軍砲術少佐. major. in. the. artilleryと. なった。 末子で四男のアーチボールド Signet. in. Edinburgh. Archibaldは,エディン,;ラの弁護士. a. Writer. the. となった.. Mylne. 7人の娘のうち,アグネスAgnesは,ジェイムス・ミルヌ教授ProfessorJames. と結婚した。彼は,ラーサー教授Prof. った,. to. Arthurにつづいて,リードReid氏があとをも. 「道徳哲学」の講座をついだ。有用で,かつリベラルな政治的心情を,ざっくばら. んに吐露する人物であった。 マーガレット. Margaret. (彼は再嬉). Thomson. は,ジョン・トムソソ博士Dr.John. と結婚した。彼ほ,エディンバラの外科教授として著名であった。その息子のアラン・ト. ムソンA11enThomsonは,グラスゴウを含むスコットランドのあちこちの大学で,解剖 学教授を務め,その時代の,スコットランドにおける最も学識ある医師として,令名を得 て没しt. 後に,. -ックス1). Huxley. 〔T.H.Huxley氏(1825-95)か〕につく小第二の生物. 学者として評価されたと言われている。さらに,このアランの息子,つまり,ミラー教授 Millar. の曾孫こそ,誰あろうジョン・ミラー・トムソンJohn. 法学博士,王立協会々員など数々の称号(LL.D., を享け,. F.良.S.,. Tbomson博士,である。. ど.良.S.E.,. F.Ⅰ.C.,. F.C.S.). 1887年からその没年1933年までロンドン・キングス・カレジの化学の教授,. (その間1905から1914まで副学長),そして後の名誉教授であるo. 以上ほ,ミラーから出自し,我々の時代に及ぶ著名なる子孫たちである。 次女のメナリーMaryは,父ミラーの没する約10年前(1791年),肺病で死亡した。 長女と下の3人の娘は,判明しているかぎりでほ,結婚しないで,父の没後,その「遺 言」によって,父および彼女ら独身4人姉妹の感懐深きミルフィユーMilheughの地に住 みつづけた。 この大家族について,その在学中"教授たちの家Professors'house''に出入りしたり住. んだりしていた学生たちの多くが,やや誇張して喧伝したきらいもあるが,何人かの子供 たちほ,疑いもなく,他に比べれば,特権的な暮しぷりのなかで成長し,成人したわけで ある。 5月未から, 離れて,まずは,. 11月初めまでの長い夏休みを,少なくともその一期間学寮とその市街から -ミルトン在のミラーの父の邸宅bis. fatber's. manse. at. Hamiltonで,.
(19) 十八世紀スコットランドの「法学」. 19. bride. (これは,グラスゴウから7,. of Milbeugb Law. の法. of. Kil-. at. 8マイル先にあるミラーの伯父が彼に与えた処)で, ミルフィユー. 1784年以降であれば,あの古くからの家族の土地である estate. farm. Whitemoss. 次いで,キルプライド在のホワイトモスのミラーの農場his. tbe. family. old. 8マイル先にある,表向きほ,限嗣相続. (これほグラスゴーから約7,. entailに基づいて,同じ伯父から承継した処)で,それぞれ過すのを常と. したのである。. ミラーの同僚の少なくとも2人,神学講座のベイリー教授Prof.Bai11ieと論理学講座の ジャルディ-ヌJardineほ,. 〔このミルフユーにおいて〕その隣人であり,彼らの家族と. もっとも親密なつきあいをしていた。かつて有名なスコットランドの詩人で,このベイリ Baillieほ,ちょっと奇妙な詩の-篇の中で,. ー教授の娘,ジョアンナ・ベイリーJoanna ミラーの娘たちの1人を,はめちぎっている。. このように,ミラーの大家族は,大学学寮Collegeおける生活の一部を,一様ならず多 様に過していたのであった。 ×. ×. attack of pleursyで,ミルヒュ-の地に65才の生 ミラー教授が,肋膜炎の急発acute 涯をとじた時,みかけ上はまだ血色旺盛にみえたという。その逝去passingは,グラスゴ. ウ・アドヴァタイザ一紙1801年6月5日号に一見簡略に報ぜられている。すなわち, 「ジョン・ミラー殿,弁護士,グラスゴウ大学法学教授ほ,先月30日ミルヒュ一に於て 死亡。」. (the. Glasgow. Advertizer-now. Glasgow. the. また,同日付の大学議事録minutes. of the. Herald-for. 5. June. ). 1801.. Universityの次のような簡潔な記事にも我. 々は止目させられる。すなわち,. 「国王寄贈講座担当の本大学法学教授,ジョン・ミラー氏は,過く巾る5月30日逝去され たが,学部授教会は,学部長,事務長連署の上,国王陛下の内務大臣-送付すべき氏の死 (University Manuscript, 亡公告書a notification of his deatbの作成を命ずる。」 81,. fo.. vol.. 46.). 当初, 「18世紀スコットランド法学と法学者群像」として,グラスゴウ学派,ミラーの. 「序. 「階級差別の起源」と「法と政治に関する学問の進展」な紹介するつもりであったが,. 完). (未. 説」のところで,紙数がつきてしまったo次稿にゆずる. <主なる参考文献> Wi11iam. C.. Contributions Adam. Smith,. (Oxford. Univ.. Adam. Smith,. Lehmann, to. John. Sociological Lectures Press,. Miliar. of Glasgow. Analysis,. Cambridge,. Smith,. The. His. Life. and. Thought. and. hisL. 1960 R.L.. Meek,. D. D.. Raphael. and. P.G.. Stein. 1978). "Lectures. on. Justice, Police,. 高島善哉,水田洋訳「グラスゴウ大学講義」 Adam. ed, by. Jurisprudence,. on. 1735-1801,. Theory. of Moral. Revenue. and. Arms,". ed,. by. E. Cannan,. (日本評論社, 1947) (1759)米林富男訳「道徳情操論」. Sentiments. 189&. (上・下). (未来社, 1969-70年) Adam. S皿itb,. An. inq1ユiry into. the Nature. and. Causes. of the. Wealth. of Nations,. 1776. 大.
(20) 閑. 20. 河内一男監訳「国富論」 Adam P. M.. Smith,. Lectures. Bromley,. Lawrence. Law,. The. Family,. Stone, Hume,. The. David. Hume,. A. David. Hume,. G.M.. Trevelyan,. Christopher Britain. Vol. 2. London,. Webb, Knox,. XVII. history-a. social. survey. Industrial. to. Books,. Lollards. A. History. Growth. introduce. to. attempt. of. six. the experimental. (岩波, 1933) (岩波, 1952) Chaucer. centuries,. Queen. to. Pelican. Economic. History. of. 1967. Levellers,. to. (The. Revolution. XVIII. of. Scotland,. Rebels. their. and. Methuen, in. of Nationalism. Enthusiasm-a. and. Brian. The. an. Causes. (Lawrence. &. Wish_. p. 49167.. Mitchison,. Keith. being. (1752),小松茂夫訳「市民の国について」. 1530-1780), Penguin 1978). (London, 1977) (1778) (Liberty classics) 1500-1800. subjects. (1739),太田善男訳「人性論」. moral. (Oxford 1983). 1976). in England. 6. :. J.C. Bryce. 1942). Hill, From. Rosalind. Nature. discourses. English. Vols. ed, by. Butterworths. Marriage. and. England,. of. Hill, Reformation. Christpber. R・A・. Political. (Longmans,. Victoria. the. into. Sex. Lettres,. (London,. ed.. of Human. treatise. Belles. and. 5th. History. of reasoning. method. Rhetoric. on. 郎. 一. ・Ⅲ) (中央公論社文庫, 1978). Ⅱ. ・. Family. David. art,. (Ⅰ. 蘭. in the. chapter. centuries,. P. Levack,. The. Civil. A.. Law. and. 1970. Scotland,. history. of. Penguin. Books,. religion, with. 1977 special. reference. to. (Oxford, 1950) Lawyers. in. England. 1603-1641,-a. political. (0Ⅹford,. study. 1973) Louis. Kna8a,. Ellesmere,. Fifoot,. S. F. C.. Milsom,. Historical. W.W.. Buckland,. Arnold. comparison. in. (後. in Jacobean. England-The. tracts. of. Lord. Chancellor. (Cambridge, 1977). C.H.S.. David. Politics. M.. History. 2nd. outline,. Walker,. Sources. and. of the. Foundations D・. ed.. Principles. McNair,. Common. of the F.H.. Law. Common. Lawson,. Law. (London, 1949) (London, 1969). Roman. Law. Common. and. Law,. a. (Cambridge, 1952) of Scottish. Private. Law. (γols2). 2nd. ed.. (0Ⅹford,1975). 記). 本学部赴任以来二十数年余の長き㌢こ亘り,社会系の先輩同僚として公私ともに御厚誼を いただいた,本間要一郎教授(経済学),河村十寸穂教授(社会学)の定年退官の年に当っ ●. てしまった。民事法学,法社会学専攻の「ア法学徒」たる小生とその専攻を異にしたとほ いえ,両教授の該博犀利な学問的識見に啓発され,反俗話語の人間的馨咳に示唆された有 形無形の恵沢ほ筆舌に表しがたく, 「惜別」の感既はまさに無量というも過言でほない。 敬意と好意を込めて「カワムラーホンマ」と併呼された両教授の抱懐する大志,あるい ほその大義をあらためて想起すれば,ここに燕雀が献ぜむとする小稿の如きほ,不敏にし. て蕪雑をきわめるものではあるが,社会科学の退潮を等しく憂へ,その復権再興を深く念 ずる衷情に免じて,これを笑納されむことを巽ふところである。 -みちのくのそのまたおくにおはれたる. ゑみしのたみのあきほさむしも. 燃. 山.
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