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ジュニャーナシュリーミトラのアポーハ論

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Academic year: 2021

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近年のアポーハ論研究の進歩には目覚ましいものがあ る。アポーハ論の提唱者であるディグナーガの﹃プラマ ーナ・サムッチャャ﹄︵集量論︶アポーハ章の文献学的研 究が服部正明博士により押し進められ、同章のサンスク リット断片やサンスクリット還元がムニ・ジャンプヴィ ジャャ師により大量に公表された結果、原田和宗氏の一 連の解釈学的研究、ラディヵ・ハーッ$ハーガー女史のバ ルトリハリ、ダルマキールティとの比較研究、リチャー ド・ヘイズ氏の同章の英訳研究が、次点と公表されてい ① る。一方、ダルマキールティのアポーハ論については、 フラウワルナー博士の優れた先駆的研究を受けて、フェ ッター、シュタインケルナー両氏を始めとするウィーン 大学出身者の貢献が目立つ。我国でも戸崎宏正博士の ﹃プラマーナ・ヴァールティヵ﹄知覚章中のアポーハ論 研究とともに、太田心海、赤松明彦、大前太、若原雄昭、

ジュニャーナシュリーミトラのアポーハ論

矢板秀臣、小野基などの諸氏の同書自比量章の研究が着 実に成果を挙げつつある。他方、トム。ティレマンズ他 の諸氏によって進められている、チベット文献を用いた ② アポーハ論研究も注目されねばならない。 サトカーリ・ムヶールジー博士がアポーハ論の歴史的 発展に三段階を想定して以来、ディグナーガとダルマキ ールティはその最初期の﹁否定的アポーハ論者﹂に同定 されて来た。しかし、ハーッバーガー女史が指摘するよ うに、今や両者の本質的な差異が解明されねばならない もっとも、、彼女のディグナーガ、ダルマキールティ理解 は筆者と異なる所が少なくないので、いずれその点を明 らかにしたい。第二期の﹁肯定的アポーハ論者﹂とされ るシャーンタラクシタについても、マーク。シデリッッ 氏が疑義を投げかけている。第三期の﹁折衷主義的アポ ー︿論者﹂とみなされるジュ’一ヤーナシュリーミトラに

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ついては、夙に小川英世氏によってダルマキールティと ③ の本質的同等性が指摘されている。従って、ムヶールジ ー博士の史的三段階説は、全面的修正が要請されている ④ と言わねばならない。拙稿言冒鼠﹄⑳目旨・動○コシ宮冒に おいて、筆者もジュニューナシュリー、、、トラの﹃アポー ハ華、﹄︵少も巳︺翼︶岳庁p3唇四.].曽昌の]白ご茸秒冒ごP画皀肖曽、昌剴Ⅱ]zシ 2.ごショー“旨貝國言餌︾ら思雪︺西日l笛どの概要を示 し、ダルマキールティとの繋がりを指摘し、ムヶールジ ー博士の説に疑問を呈しておいた。ここに、再度ジュ’一 ヤーナシュリー、﹃、トラの﹃アポーハ論﹄の内容を紹介し、 彼のアポーハ論の特徴を叩審らかにしたい。 ジュニャーナシュリーミトラは、﹃アポーハ論﹄の製 作意図を提示するため次のような問題提起の詩頌を挙げ る。 .切法は不可言である︵曾鼠昌騨︶﹂と確証するため に、﹁言葉と証相は︹他者の︺排除︵go目︶を明らか にする﹂という定立︵切昏旨︶が︹以下︺立証される。 ︵第一偶︶ 色も巳]巴︶段ウユ角冒面倒臣毎動ヨも禺巴勵段国国洋昌 妙ニラ一言二︶、 ﹁言葉と証相は他者の排除を明らかにする﹂という定 立とは、言うまでもなくディグナーガによってうち立て られたものである。フラウワルナー博士によって見事に 立証されたように、ディグナーガは最初の体系的論理学 書﹃因明正理門論﹄︵易︲身騨目二匡昌︶第十七、十八偶にお いて推理知の本質を考察する際に、証相︵冒噌︶は推理の 対象︵冒唱ごID三二口喝“︶の様々な属性の一部を﹁他者の排 除﹂︵“昌幽︲ぐ胃ぐ“o9の旨︶という仕方で知らしめるという 見解を提示した。アポーハ論は、まず証相が推理の対象 を知らしめる機能を表現するために用意されたものであ った。直接知覚と推理知を峻別するのがディグナーガ認 識論の最大の特色である。彼によると、証相は、直接知 覚のように対象を全面的に、しかも肯定的に知らしめる ものではなく、対象の多様な属性のうち自己と﹁必然的 な随伴関係﹂︵Pご匡冨目冨︶をもつもののみをそれぞれの 対立概念︵I他者︶の排除という形で間接的、否定的に 知らしめるものである。また、証相の多様な属性のうち 推理の対象を逸脱しない限りのものは、後者を知らしめ めいQ−.︾ぐ、こるい②儲く動ユゴ四﹄..閏馬巨︺騨昌,国Pぐ働○ご“一ソ﹃ロ.ご]’印1 t ︲岸 ゅ巨昌︺沙竜①、、Czシg︺い’ら 、

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るとも言われる。﹃因明正理門論﹄において、必然的な 随伴関係、あるいは、非逸脱性︵妙く百一︶言33︶等と暖昧 に表現されたものは、ディグナーガの晩年の主著﹃プラ マーナ・サムッチャャ﹄に至って、証相と推理の対象の 間には前者の集合が後者のそれに包摂されるという﹁遍 充関係﹂︵く冨菖︶がなければならないという理論に結実 するのである。﹃プラマーナ・サムッチャャ﹄第二章では 証相の機能としてのアポーハ論がより詳細に展開される とともに、同書第五章ではアポーハ論が言葉による認識 ︵殴目“︶に適応される。すなわち、言葉も証相と同様に、 ﹁他者の排除﹂︵“身署。g︶という仕方でその表示対象を 知らしめるというものである。ディグナィガのアポーハ ⑤ 論については既に何度か触れる機会を得たので、今その 詳細を論じないが、ディグナーガが推理知と言語知を統 一して説明出来る原理としてアポーハ論をうち立てた事 だけは確認しておきたい。かくして、彼は言語知あるい は所謂﹁証言﹂に基づく知を推理知の一部に含ませる事 が出来たのであった。 再び、フラウルナー博士が明確に指摘されたことであ るが、ディグナーガのアポーハ論が意味論的色彩が濃い のに対して、ダルマキールティは推理知や言語知を含む 広義の﹁概念知﹂︵昌畠一冒︶に関わる様右な問題を説明す る原理として﹁他者の排除﹂の理論を理解している。ダ ルマキールティにとって、アポー︿論とは概念知の本質、 その生成、対象、機能などを明らかにする﹁概念論﹂で ある。﹁言葉と証相は他者の排除を明らかにする﹂という 先の定立は、彼が﹃プラマーナ。ヴァールティカ自注風一 ⑥ において展開するアポーハ論の主要テーマに他ならない。 ジュ’一ヤーナシュリーミトラのアポーハ論の最大の特 色は、先に引用した第一偶に如実に示されている。彼に とってアポーハ論は単なる理論的設定に過ぎず、.切 法は不可言である﹂という究極の真理に導くための一種 ⑦ の方便である。実在と言語の乖離という問題は、般若経 以来、仏教哲学共通の課題であった。恐らく仏教徒のな かでは言葉の分析に最大の関心を払った唯識系の論理学 者たちが、最終的に﹁一切法は不可言である﹂という中 ⑧ 観的な理解に到達した事は興味深いと言わねばならない。 先の定立に対して、次のような反論が想定される。す なわち、﹁言葉と証相は他者の排除を明らかにする﹂とい う理論は、我々の実感に反する︵輿。二三国ぐ幽冒︹三国︶とい うものである。﹁火﹂という言葉を聞いて、もしくは、煙 という証相から火の存在を知る場合、﹁山のある地点に 71

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火が存在する﹂︵白色言色目d呂風①忽各巳胃曾ぃ巳という肯定 的な形︵ぐ己冨昌冨︶で我々は火を認知する。アポーハ論 者の言うように﹁非︲火が存在することはない﹂︵自侭目. 目9画くいは︶という二重否定の形で﹁単なる否定﹂ ︵巳貝甚目算国︶を認知する事はない。従って、言葉や証 相によって、他者の排除︵アポーハ︶という否定ではな ⑨ く、外界の事物︵園耳騨︶が肯定的な形で知られると言う。 ︵:一zシ函含やl苦い闇︶。 これに対してジュニャーナシュリーミトラは、﹁言葉 と証相は他者の排除を明らかにする﹂という定立は、︲単 なる理論的設定︵く厨ぐ騨騨冨冒目﹃妙︶に過ぎず、﹁他者の排 除が第一義的に言葉などの対象である﹂というのは、実 ⑩ 在の真相︵く騨緬目︲国芦くぃ︶ではないと答える。既に述べた ように、彼にとって、アポーハ論は﹁一切法は不可言で ある﹂という究極の真理に導く方便に過ぎない。﹁実在の 真相﹂は次のように提示される。 言葉によって、まず第一義的に︹外界の、もしくは、 心的な︺対象が伝達されるが、/その際、︹他者の︺ 排除がその︹対象の︺副次的属性︵唱二届︶として理 解されるはずである。/ところで、一方の対象︵I 二 一一①一 一一●一一 この詩頌はジュニャーナシュリーミトラのアポーハ論 の内容を見事に要約している。残余のテキストが当該詩 頌の注釈という形を取っていることを示すために、彼の ﹃アポーハ論﹄のごく簡略なシノプシスを提示しよう。 外界の独自相︶は、断定︵且ご留騨︶という観点から 他方︵l心像盲目ご︲堅§・画︶は、顕現︵匡国の鯉︶とい う観点から、/言葉の対象︵ぐ胃冒︶として設定され うる。︹しかし、言葉の対象と設定されるものは︺ 真実には何もない。︵第二偶︶ のPウ包色尉岸固く印ロ門己匡弄ロぐぃH冒國汽彦ぐ四ぐぃ芦の︾]︲匡︺ゆめ 、、 、、D当J 庁ゆげ吋凹己巳〆画い詐四・伽口唇凹計﹃⑦ロ秒函色目︶くい伝、 色禺蒔日四の○四]戸○︺Q旨く画印騨︽○ヶ己勵いゅ一句へ憲争包みg︾ロぐP言 叱 〆 、 tD a岸ご動。ご○ぐゅ︵﹀ぐゆめ︷p諄く四件○口い﹄くP戸四の○洋、、 トL 匙 、一 ︵]zシ画・函﹄le 本論の意図︵第一偶︶ 反論 答え 実在の真相︵第二偶︶ 第二偶a句の解説 TJNA一己一二’一︿ 二つ一・九’二つ二・三一 二︵︶二。二二’二一二一①一一 二︵︶二・一二一’二︵︶三”三 二三一・一︿’九

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さて、﹁言葉によって、まず第一義的に︹外界の、もし くは、心的な︺対象が伝達される﹂という第二偶a句は ﹁アポーハ論は我々の実感に反する﹂という上述の反論 に対する答えである。ジュニャーナシュリーミトラは、 哲学説が我々の経験を全く無視して構築されうると考え ていない。従って、言葉を聞いたり、証相を知覚したり した後に、肯定的な形の概念知が生じる事は否定できな 三 三 二 二 三 茜 一一●一一一一一一一 一一e一一一一一一 一一●一一一一一 一一台一一一一 一一●一一一 同b句の解説 同Cl山句の解説 独自相︵、ぐ巴巴息騨目︶は言語知 ・推理知の対象ではない。 一般相︵出目曽胃崗冨目騨︶は言 語知・推理知の対象ではない。 外界対象は断定︵且辱四く儲ご“︶ の観点から、心的表象は顕現 ︵冒昌目削騨︶の観点から言語 知・推理知の対象である。 第二偶山句の解説 まとめ 結頌 一三五・一二−二三口・八 二三つ“八’二一二一・四 二一二一・一塁’一一 二一三・一二’一九 一二一つ・二’二二五・一一 二つ一︿・言一’二二つ。 二︵︶八・五’二一一つ・八 二︵︶三・九1こつ一ハ。五 ⑪ いと考えている。 しかし、言語知や推理知の内容は肯定的な形をとると いう対論者の考えを全面的に承認する訳ではない。﹁そ の際、︹他者の︺排除がその︹対象の︺副次的属性として 理解されるはずである。﹂という第二偶b句は、a句に示 された概念知における肯定的理解を制限している。この 結果、言語知や推理知において、まず肯定的な対象が理 解され、続いてその否定的側面が二次的に理解されると 考えられるかもしれない。しかし、これは彼の真意では ない。ジュニヤーナシュリーミトラによれば、人は﹁ウ シ﹂という言葉を耳にする時、︿他の非︲牛から排除され たもの﹀︵騨彊ぐgog四︶︹すなわち、現に存在する牛、も しくは、牛の心像︺という肯定的な対象と︿他の非︲牛 の排除﹀︵曾盟ぐ号○冒︶という否定を同時に理解するので ある。何故ならば、両者は不可離の関係にあり、一方が ⑫ 他方に対して優勢となることはないからである。 ジュニャーナシュリーミトラは、ここでシャーンタラ クシタやカマラシーラを名指しで批判する訳ではない。 しかし、肯定的対象と否定︵アポー︿︶の同時理解を繰り 返し主張する事は、彼がシャーンタラクシタ等のアポー ︿論を強く意識していることを示唆している。シャーン 句 の イ ◎

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タラクシタによると、言葉の第一義的な対象は﹁相対否 定﹂言“|望二目換幽︶と規定される肯定的な心像︲︵|︶二︹三三︲言鱒︲ 岳ご冒冨︶であり、同じく相対否定と規定される外界の独 自相と﹁絶対否定﹂︵冒画閨ご色︲冒勢扇且冒︶とは含意によ ⑬ って二次的に理解されるに過ぎない。 ジュ’一ヤーナシュリーミトラの︿肯定と否定の同時理 解﹀という考えが、ダルマキールティの﹁プラマーナ・ ヴァールティカ自注﹄に遡ることは既に指摘されている が、ジュニャーナシュリーミトラ自身の引用からも明ら かなように、﹃ヘートゥ・ビンドゥ﹄により直接的な起源 ⑭ を見いだす事が出来よう。同書において三種の証因のう ちの﹁非知覚﹂︵目ご穏言gご︶を論ずる際に、ダルマキ ールティは、あるものxの非知覚をx以外のものの知覚 ︵色目。冒一“gご︶と同一視する。例えば、︿壺の非知覚﹀と は、壷以外の︿単なる場所の知覚﹀に他ならない。ここ で、ダルマキールティが﹁非知覚﹂という語の否定辞︵I 接頭辞目︶の意味を肯定的な対応物を予想する﹁相対否 ⑮ 定﹂と理解している事に注意しておきたい・後に、アポ ー︿論の否定の意味は肯定を含意する相対否定か、或い ⑯ は、単なる否定かがしきりに論じられるからである。ダ ルマキールティは非知覚に関する上述の原理を概念知一 般に適用し、︿xの確定﹀含旦︲園﹃go胃目︶とは、︿x以外 の他者の排除﹀︵“﹄一富︲く百ぐ煙9房︵盲︶に他ならないとする。 すなわち、我々があるものを﹁水﹂と同定し、確定する 時、当該対象に関して同時に、水以外のもの、例えば、 火などを排除しているというのである。xであると確定 し、非xを排除し、両者以外の第三の可能性の無い事を 示唆するのが単一の認識手段言騨白目沙︶の機能であると ⑰ される。かくして、肯定と否定の同時理解の原型は﹃ヘ ートゥ。ビンドゥ﹄の非知覚の議論に見いだされると言 える。 ジュニャーナシュリーミトラは、言語知と推理知の肯 定的対象に関して、要約の詩頌である第二偶Cl山句に おいて次のように述・へた。﹁ところで、一方の対象︵I外 界の独自相︶は、断定という観点から、他方︵I心像︶ は、顕現という観点から、言葉の対象として設定されう る。﹂この一節を説明するに先立ち、彼は独自相も普遍 ︵臥日曽司︶も言語知の直接的対象にはなり得ないことを 立証する。そのうち独自相は、直接知覚される場合と異 なり、言語知等の概念知にはそのままの形で顕現しない から言葉の対象となることが否定される。直接知覚と概 念知ではその顕現、表象に明確な差異があり、両者が同

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じ独自相を対象とするとは認められないのである。︵冒崖 曽圏や国C・喝︶さらに、ジュニャーナシュリーミトラは正 理学派のヴァーチャスパティミシュラとミーマーンサー 学派を相手に、独自相が言葉の対象であれば、同一の対 象について﹁存在する﹂もしくは﹁存在しない﹂という 肯定・否定の言明を行う事が出来なくなるという帰謬論 証を展開する。現に存在する壷を名指しにして﹁その壷 は存在しない﹂と言明する事は出来ない。しかし、我々 は時と場合に応じて﹁その壷は存在する﹂と言ったり、 ﹁その壺は存在しない﹂と言ったりする事が可能である。 従って、そのような言語知の対象は、外界に実在する独 自相ではなくて、肯定・否定いずれの述語とも結合可能 な概念知の表象でなければならない。︵盲シ閏巨︲巴選︶ この議論は小川英世氏によって詳しく紹介されており、 それがダルマキールティに由来する事も明らかにされて ⑱ いる。ジュニャーナシュリーミトラは﹁壷﹂等の命題の 主題︵︵三胃曽旨︶に相当するものだけでなく、述語に相当 する属性言国曽国︶に関しても同様の議論を展開し、ヴ ァーチャスパティだけでなく、トリローチャナや﹃ニヤ ーャ・ブーシャナ﹄作者等の当時の代表的な正理学派の 学者を相手に、彼等の普遍や内属︵の自国く母騨︶の考えを 批判している。︵冒シ曽旨?隠旨︶次に、ジュ’一ヤーナ シュリーミトラは、正理学派やミーマーンサー学派が外 界に実在すると考える普遍も、言語知の対象とはならな い事を明らかにする。何故ならば、普遍は直接知覚によ っても、推理によっても、その存在が確定されないから である。勿論、仏教徒にとって普遍とは﹁他者の排除﹂ と呼ばれる概念的な構想物に過ぎない。︵冒シ隠烏︲臆函. 胃]︶ 続いて、第二偶Cl山句の解釈にはいる前に、ジュニ ャーナシュリーミトラは﹁対象﹂︵く圃冨︶という語の二 種の用法を区別する。すなわち、あるものは﹁断定﹂ ︵員亘国く“切魯P︶という視点から対象と呼ばれ、またある ものは﹁顕現﹂︵冒昌豆国吹閣︶という視点から対象と呼ぱ ⑲ れると言う。かくして、直接知覚によって把握されるべ き外界の独自相は概念知に顕現しないが、以下述謬へるよ うに外界の対象を﹁某である﹂と断定してはじめて、そ れに向かう認識者の実際の行為が可能であるという視点 からすると、外界の独自相は概念知の対象と見敬す事が ⑳ 出来るのである。 ﹁間接的判断﹂﹁実体化作用﹂等とも訳される四目菌︲ ぐ沙鼠冨︵断定︶の概念は難解であり、ジュニャーナシ1 再 F = イ 。

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リーミトラもそれについて詳しく論じている。︵皀ン隠切. こ︲隠麗︶端的に言えば、pg怠く儲母四とは対象を断定す る概念知の能力もしくは機能である。たとえある対象が 現に直接知覚されていなくても、断定に基づいて認識者 はその対象に向かって実際的な行動︵ぐ葛ぐ呂閏ミ官四月E︶ ⑳ を開始し得る。例えば、水の単なる直接知覚は仏教論理 学の伝統では概念的構想を欠く︵菌毎騨邑砦og。︶から﹁こ れは水である﹂と断定する力を持たず、知覚者を活動に 導く事はない。ただ知覚が﹁これは水であり、他のもの ではない﹂と断定する概念知に後続された時はじめて、 認識者はその水を飲んだり、避けたりするという行為を ⑳ 起こす。断定とは概念知の持つ、人間の活動を引き起こ す能力である。﹄一方、言語知や推理知は、勿論本来的に 概念知であるから、常に断定を伴い、実際的な活動を引 き起こし得る。ところで、認識者は決して概念的な構想 物としての水一般を追い求めず、実在する水そのものを 求めるから、その活動の対象は人間の目的を成就しうる ⑳ ︵胃昏騨冒箇いぃ昌肖昏凹︶実在する対象でなければならない。 従って、﹁断定﹂の対象もまた、外界の実在でなければ ならない。この意味で、独自相が断定という視点から概 念知の対象とされたのである。 一方、概念知にある心像は、顕現という視点から概念 ⑳ 知の対象とされる。有形象知識論︵削圃目︲弓目︺“︲く且騨︶を 奉じる仏教論理学者にとって、知覚にせよ、概念知にせ よ、す書へての知識はそれ固有の形象︵巴自国︶を具えてい る。概念知の形象は、決して実際の対象を正確に表現す るものではないが、概念知に顕現する限り、その対象と 見倣され得る。この心像は、仏教徒にとって﹁普遍﹂に 相当するものであるが、およそ知識は自己認識︵いぐ四“P︲ 日くの8.鋤︶であるという視点からすれば独自相と見倣す 事も出来る。 かくして、外界の独自相は概念知が断定を下し、働き かけるところの間接的対象であり、心像すなわち一般相 は概念知の直接的把握対象であるという事が出来よう。 直接的対象︵鴨:胃︶と間接的対象︵且ご妙ぐ秒い①茜︶という 区別はダルモーッタラに起源を発するようであるが、断 定︵且ご湧く騨切凹冨︶の概念はダルマキールティの﹃プラマ ーナ・ヴィ’一シュチャア﹄第二章冒頭や﹃ヘートゥ・ビ ⑳ ンドゥ﹄中に散見される。ジュ’一ヤーナシュリーミトラ は明らかに概念知に二種の肯定的対象を想定している。 例えば、﹁ウシ﹂という言葉を聞いて、我々は通常︿非︲ 牛から排除されたもの﹀という形を取る︵く房四壱働豊︺四︲

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騨魍ご号。巳︺己牛一般という心像を伴う概念知を形成する。 ところが、そのような言語知によって導出される実際的 行為の対象、すなわち、断定の対象は、︿非︲牛から排 除されたもの﹀という独自相︵“聰くgo曾騨︲いぐ幽巨曾冨︶で ⑳ あり、外界の実在である・これら二種の肯定的対象が﹁他 者の排除﹂という否定と同時に不可離に結び付いている 事は言うまでもない。 以上がジュニャーナシュリーミトラの究極的立場では ない。第二偶の末尾で彼は、﹁︹しかし、言葉の対象と設 定されうるものは︺真実には何もない。﹂と言う。この句 を理解するため、彼は﹁二諦﹂の原理を導入する。すな わち、常識的真理によれば、独自相と心像がともに概念 知の対象と見倣される。しかし、究極的にはなにものも 概念知の対象ではない。独自相は概念知に顕現しないが 故に、そして、単なる心像は﹁断定﹂の対象ではあり得 ないが故に、いずれも概念知ひいては言葉の対象とはな ⑳ り得ないのである。換言すれば、ジュ’一ヤーナシュリー ミトラの﹁二種の対象﹂を前提とするアポーハ論は単な る理論的設定に過ぎず、真実は、如何るものも言葉で言 い表す事は出来ないと言う点にある。︵冒酔圏民︲圏置︶ ﹁言葉の対象はアポーハである﹂という言語分析の最 終結論として﹁如何なるものも言葉で言い表す事はでき ない﹂と言うのは、一見奇妙に思われるかもしれない。 ジュニャーナシュリーミトラは﹁従って、あらゆる言葉 ⑳ も概念知も否定︵く耳の富︶を対象とする。﹂というダルマ キールティの一節を援用して彼の立場を正当化する。彼 は、﹁xの非存在がある﹂︵沙匡国くc言胃昌︶という言明 が﹁xの存在はない﹂︵g身。国騨冒曾く農︶を意味するよう に、﹁アポーハが言葉の対象である﹂︵眉。房吻冨鼠。冒国︶ という言明は﹁言葉の対象性の排除﹂︵く胃冒国圃のぐ竿 ⑳ 官冨巳に他ならないと言う。彼は、ナーガールジュナ以 来の仏教哲学者の言葉と実在の問題に対する最も正統的 ⑳ な立場を継承していると言えよう。 最後に、アポーハ論に対するジュニャーナシュリーミ トラの貢献を指摘して、本稿を終える事にしたい。①言 語知や推理知における肯定と否定の同時理解という考え はダルマキールティに遡り得るが、それを子細に検討し、 明確に提示したのはジュ’一ヤーナシ﹁一リーミトラである。 ②﹁断定﹂の概念もダルマキールティに見出されるが、 概念知を外界の対象と結び付けるために、それを詳細に 検討し、的確に定義したのは、ジュ’一ヤーナシュリーミ トラであろう。③﹁如何なるものも言葉で言い表す事は 再 ワ イ イ

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概念知(言語知/推理知) 直接的対象(grahya) =心像(buddhyakara/pratibl'5sa)

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=〈非一牛から排除されたもの〉 =〈非一牛の排除〉 断定(adhyavasEya) ↓ 活動(pravrtti)。

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ー<非一牛から排除されたもの〉 =<非一牛の排除〉 究極的には:如何なる対象もない! 出来ない﹂というテーゼは、般若経やナーガールジュナ に遡る伝統的な仏教的言語観である。それをアポーハ論 の結論とするのは、シャーンタラクシタにも見られるが、 ジュニャーナシュリーミトラの特色であり、弟子のラト ナキールティとの微妙な違いでもある。ラトナキールテ ィは主として師の﹃アポーハ論﹄からの引用によって自 己の﹃アポーハ論﹄︵言呂閏邑三︶を作成しているが、彼 の結論は﹁言葉の対象は他者の排除に限定された肯定的 な対象︵P昌弓cg︲ぐ罫m国ご畠ご︶である﹂という有名な一 ⑪ 句に集中している。本論の要点を要約し、ジュ’一ヤーナ シュリ!、、トラのアポーハ論を図式的に示せば上のよう になろう。 注 ①原田和宗﹁ディグナーガのアポーハ論研究ノート日○ 日﹂﹃高野山大学仏教学会報﹄十’十二、一九八四’八六、 閃pQ写涛色国①目ウの侭①H︾閃言費さ愚息ミミ尋、町望包包言い爵.、 尋冨恥罵ミミ善、号ご亀号冒巨ミミ、ご号ミミ吻貴琴・ミミミ 罫。提言.堕員爵旦o言鼠言ミ冒島亀︵Iのg︶酌﹄ロ○巳幟の○亘 ら甑︾囚oga国昌の、︾b錆菖贈ミミ意曽§、ミミミ舎旦 m一m嵩吻︾の○門P]や“酌 ②目○日目旨①目②。のゞ︽︽屋①冒丘ご色目局旦①Hの具巨○忌日ご 宮門号の什四回国房己呂目黒Pも○口P門口①○H団︾︺︶配望&画意亀耐o酉。 亀員同宣吻詩ミ旦侭掌の9ずぐ頃・周.冨四は﹄巴昏罰.ロ.国くいロ、︾ 膿 氏

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の○月司骨@m口 ③旨①烏凹号昌の︸↑︽君四の断口国国府澤四四︽︽句○m旨く目ご︾・︾︾ 旨凹巨巴昏固く四場︹息誤旨小川英世﹁言習鼠風冒冒色の シg冨論﹂﹃印度学仏教学研究﹄二九’二、一九八一・ ④冨騨は巨倖固くP口吻︹畢誤︺君・弓﹄山罷.以下の本論は、 この英文論文に多少の加筆修正を加えたものである。 ⑤︻︽H常琵gg目冨Oqgb飼目咽︾﹃印度学仏教学研 究﹄二八’一、一九七九、﹁ディグナーガの認識論と論理 学﹂梶山雄一編﹃講座大乗仏教9認識論と論理学﹄一九八 四、一二六’一三三頁。なお、ディグナーガにおける遍充 概念の確立については、拙稿﹁インド論理学における遍充 概念の生成と発展lチャラヵ・サンヒターからダルマキ ールティまで﹂﹃広島大学文学部紀要﹄第四五巻特輯号一、 一九八六、﹁論理学派﹂梶山編﹁岩波講座東洋思想8イン ド仏教1﹄一九八八を参照されたい。 ⑥例えば、⑦国呂︺ぬ&.︵罰○日四岳g︶.層.鴎・ミー鵠︽ ぐ葛ぐ曾○§&昌留巨騨冒租g薗日甘呉5四号鼻①参照。 ⑦]z缶鴎瞬gl巨“国ゅ目弾$g昌一侭葛oHgo富ぐ耐昌色︲ 詩倒里巨詳g円いの倒○ぽゅ豈四ヨの四う﹃PQ彦臼員昌割く凶○ぎぃす国もHP陣も画。色︲ ↑ 邑色も四門色緯己芦匡もH騨庁盲騨戸口④陛○丙群民庁彦○やゆ⑳色[旨戸凹拭四ロ、、 ③なお、ジュ’一ヤーナシュリーミトラ以前に、中観派の伝 統に立つシャーンタラクシタが﹁真実には言葉の対象は何 も存在しない﹂︵閂§ごsのミ免菖言々2.9画.属国切言秒日四︲ ○ず色吋冒色︺ぐ.皇。﹃④即岸騨拝ご少庁四のoP昌四の色ウニ凶冒勤ヨく固○冒紗︼ご 儲gと明言していることに注意しておきたい。 ⑨]z鈩呂騨匡l扇ゞ鯉口号冨く習匡⑳倒目ぐ届宮昌冨目のぐ四 ずい]ごN伊旦酔い秒ウ包倒q]ぬ妙、ロ宮くい国営色の庁巨、 ⑩]z缶邑騨隠︲麗坤ぃ目詳肖旨ぐ園くい胃目目弾昌己の3辻 、 ]ロロぽずくゅ↑ゆく軌。○旨四画いいご色勵。①罠ぐ届Pぐゆ]陸ロ①Qp閏ゴぐゆゆ庁巨汁四l く くト ロ“L 詳計ぐゆ口︺旨く國閂計ロpロ、 く 。、 、盲罷邑患l司口④唇昌邑箇黒目日四国号冒ぐP昌冨︲ 国ケゲ国ぐゅご芦ゆく詳匡。胄丙のpHご色口冒芦丘ごHe宮冑ロCPH目四房ロロ庶冒いく④ロロ 、 膀 唱 ①ぐPぐ卦丙色一己Pロロゆ一四くぃ庁煙︺陣寺画く自︺冒騨の騨炭くゆH口騨ごOppO守匡ロ︺ ト 卜1t 1 二形 ■﹄■ l4i一凸凸﹄ 桿巨pH⑳奔置pp︺四口ゆpp時ご目色ロ、 ○F 凸卜 ■﹄ ②]z鈩邑ら?畠︾巴&冒昌gCPpg国冨$g息昌3厘 ︲傍・凸 いく①庁色のゆずPbP含汁Hいむ川口蝕むP持陣くゆQmOのゆず凸凹”HP汁帥ぐ四℃瞳いいゆく四︲ も○。旨いも扁曾庁詳四口]劉陸ぐ凶。]国凹む割ゆくいい菅脚ず胃巨もPmPp余ゆぐ電pHロ 、 goぽぐ跡①$国騨の①目巨め自習国風冒願可四ga目の獄詳其︵和 訳﹁プンダリーカ﹂という言葉を聞く時、白蓮という理解 があるように、﹁ウシ﹂という言葉を聞く時も、︿非l牛か ら排除されるもの﹀の理解において、肯定が否定を限定者 とする知︵I非l牛の排除︶と不可離に結び付いている事 は、たとえ普遍論者といえども必ず承認す、へきである。︶ ]zシ9画や己哩⑳ロ思いも○ぼゆく群①閏口凹昌冒ぐ匡巨の3耳目詠四ごO L ﹄]。ご晨冨旨①ぐぃ、︵和訳ところで、他者の排除という限 定者が︹すなわち︺肯定であり、その両者のいずれかに優 越性があるわけではない、と既に言われている。︶ ⑬弓豊ご冒昌ミ電寧言ぐぐ.巳呂︲ご国.シャーンタラクシタの アポーハ論については、伊原照蓮﹁タットヴァサングラハ におけるアポーハ説について﹂一J文化﹂十五’一、一九五一 とマーク・シデリヅッ前掲論文を参照されたい。 ⑭国ミ息冒s↑︵2.9国・鯉。旨冨冒①儲︸雪苛ロ﹄ご雪︶非知 79

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覚の部分、特に弓曽器gl路鵜.唖﹄弓.腱升・瞳1鵠鶚・己ゞ喝. 画③外靹1画﹃升.一酌 ⑮国§含量重︾や国筈・閏l麗閻昌○君盲目ご﹃僅口色冨盲目巨戸 ぐ畔ご沙丙樫庁○℃p畳包ウロロ①H四口思い合くいQゆごぽゆ丙や罰勵印己PHの秒ロ﹄討騨くい什 勺1 ℃四叶吋ロロ伊のPぐH計計ぐゆ. ■口唱 ⑯例えば、冒岸邑圏や閏参照。ここで、ジュニャーナ シュリーミトラは、ダルマキールティが相対否定と絶対否 定を適宜使い分けていると理解している。 ⑰国愚息雷§︾喝.農器.鴎l曽井・岸可PC群百画目秒邑Pg目色︲ ぐ尉斤詐沙寓す計P命も四目○○]昼ロ画什陣汁四邑色口葺四口ぐ割いく魚Oo旨芦口凹汁は 命H衝く四己尉④炭倒吋脚冒庁p叶いウロ働く四邑口○秒い巨○色吋四式汁昌①穴四もH四Hロ四目四一︲ ぐ葛冒目の闇ご前半部分が]zシ9m.ロに引用される。 ⑬小川英世﹁ジュ’一ヤーナシュリーミトラの概念論﹂﹃哲 学﹄三十三、一九八一・ ⑲]zシ隠留司号昼目ぐ碕四制ぐ菌ぐ昌胃島﹄冒画武g開園 ﹄ 色Q旨くPぐゅめゆく四○○四世 上 t 、 ⑳冒陛隠切・弓1房許且旨い冒胃旨目の:目くの︺己團国︲ 〆 己○○彦四ゆく⑳﹄P]ふいご色印琶画旦彦﹃ゆく④めい]p︻旨画詐Hopゆく胃、色冨P誌ぐぃ呂冒 口ぽい目、 ⑳]z睡隠目“且ごいく院畠院尊凹唄冒蔚ゞ逗冒ゆく胃g︲ 冒色﹃品冒四国昌昌昌洋蝕伝、○端.罰四首四画H陸ゞQミヨ号昌昔、§ざ︲ 唖白金画包曇︵記§冨畠罫葺営啓亀冨包容割己無蜀函ごgの。.ずご衿・目言①丙口吋宮 ]や割切甸P詐国p︶、]い式。’﹂つ即叩pH画pp曽井四H四℃H凹寸﹃四目ゆず四国吋騨詐四︲ 、くい己Hpはげ声動のいく品①切秒ご①。P口ゆHp幽庁H脚色四m付丘詳①︶己]もPHゆ毎吋四 冒四自律箇厩名。﹄昌冨く院ご農、︵和訳直前の知によりも たらされたある特定の自己顕現を知覚するだけで、他者 ︵ⅡⅡ外界︶が直接把握されていなくても、それに向かって 活動を引き起こすのが、断定且ご国ぐゅ困冒である。︶ 、この種の概念知は、スチェルゞハッキーにより﹁知覚判断﹂ と名付けられたものであるが、詳しくは拙稿﹁知覚判断・ 疑似知覚・世俗知﹂﹃藤田教授還暦記念論文集﹂︵近日刊行 予定︶を参照されたい。 ⑳ダルマキールティの存在論のキータームである閏昏P︲ 胃萄倒については、拙稿﹁ダルマキールティの因果論﹁南 都仏教﹄五○号、一九八三参照。 ⑭冒捧画罵・弓︲届“$目凶曽口鼠乱昌盲目目ぐ騨餅四︲ Hロ叫詐HP、域p己禺色威ごロ脚の騨口幽庁印ゆく画く耐p﹃P口。]p汁①、 ⑮己冒Hgo洋間四.ご冒曽gミミ募詞︵①︵]。ご旨こぐ四目四﹄ 国自画忌引︶︾牙冒目。冒鳥昌鳥胃僻目牌目遇騨l唱倒ご鼠 ○煙く色色動﹄穴鋤叶い黒旨巨詐も四口罰P庁の︺も吋酔宅四pH黙四②C色割四Hp蝕旦壹憾p︲ くいめ封色盆、P国営○ぽ︺ぬ屍画ロ討○④ご罰いい○画・ロ胃ゆく凹めの﹃いぼ、己﹃P︲ 汁ぐ四戸mゆめぐ凹丘芦嚴のロロ四・里門○ぬH脚毎割四口、凶。p]ゆぐ四mの思いめす桿 0畠6。、 もばい庁理画]息四ずい昌○汁も四口ロ①pPp品○四国①国騨めいHご庁幽己.轡①ぐゅ、おゆ口詐脚口い ●甦 ①ぐ四○四もH画庁割騨]ぷいの冠四℃H倒冠②pH電凹昏、丙切騨ごゆめ罰いも詞倒も四割詳巨ご︼ 患画ご胃乱ご︵和訳実に、確実な認識手段の対象は二種 である。すなわち、①直接的把握対象であり、その形象を 伴って︹知識は︺生じる。②到達されるべき対象であり、 それについて︹認識者は、これは某であると︺断定を下す のである。実に、直接的把握対象と間接的判断対象とは全 く別のものである。何故ならば、直接知覚の把握対象は、 一刹那︹の存在︺であるが、直接知覚によって生じた決定 知︵昌背葛凹︶により判断される対象は相続に他ならない

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からである。そして、相続こそ直接知覚の到達対象であ る。何故なら、︹刹那減の原理により︺刹那に到達する事は 不可能だからである。︶、ミミミミミミ旨曼曇目︵且.ご 向.、8冒岸①冑]のH﹀至急①画]④﹃eや函汁酌lPいくPも吋四武ずぽ凹め① ︾ロ四H岳①、Hg帥。p﹃ゆく儲凹昌①pいも3ぐ時芹①H・・.︵]z陽隠式鴎に 引用される。︶国風息冒§弓.静.El昼誤堂ig﹄弓l息. ⑳︼zシ麗画・下孚穏目白曾目凹昏巨日ご騨○冨日昌 口ロ自国○mP伝﹄添い○脚もH騨威ずぽ脚⑳倒包②汁ぽ脚色廿望ゆく四の脚ぐ倒す・・岸]ぐ︺]︻四l ﹄も罰煙︾ぐ︺丙P]bゆめ詐唇○︵含msalm汁屋○︶︺ロ罰幽もOQ彦劉丙画Hゆけ︺四口謎包もl OQ旨四mぐゅ﹄四丙の四国四尻目・◆昌武ご吋四はぐ四○四国山口啓斥鄙ゆ民巨①ロ凹茸q⑦痔ぐ く ’︾ 昌丙計包国ロヶぽいごP口、 ⑳]z琵隠]・El忌叩怠酎四旨四口の樹ロロ秒目鼻旨目鞭呉の ﹃①ロ四ぐ凹望P口ロpくい閏矧P汁①の色ロ四庁p切目ひご届騨討○望凹庁彦料 、○]ロ四口四の望倒のぐゆ言、ロ四℃門四盆ずぽ勤め四余①。いい脚ごQ色]画脚口の、ぐぃ目四1 斤いいロゆ園ご﹂ロ四ぐゆ閏くいオ①○④口①pいずロ。。ぼく脚屏倒H四茸陸ぐ昌倒も秒屏幽I pg巴:目檬、︵和訳︹遍充関係︺ある知xに顕現しない もの、或いはxによって断定されないものは、xの対象で はない。例えば、牛の知に対する馬のごとし。︹主題所属 性︺言語知に独自相は顕現せず、また、それ︵I言語知︶ によって心像は断定されない。﹁結論従って、独自相も 心像も言語知の対象ではない。︺以上、能遍の非知覚︹を証 因とする論証式︺︶ ⑳、昌言曾ミミミ富︲恕倉ミミ︾弓.縄・腿1房.岸薗の昌弾 巴qQp四群ロの詐色計の四Hq①のゆず○脚く計ぐ巴肉Pぐ厨Pご倒ぐ感謝四]己倒小○色、 。●当 ト ー Qz鈩麗︺閏l圏に引用される。︶ ⑳︺zシ腸いや孚制昏幽号扇ぐ。冨騨ぐ鼻昌冒曹。pPg四︲ ぐゆ画汁望のぐ劉尉詐彦ゆぽ︺守口詐茸倒四も○ごゆめ罰ゆぐ動○く四件の丘ぐ劉○ぐゆ詐倒ぐ回

4t

のぐ四○○毎曾岸ぐゆ民庁ぱぃぽべ い く a、 ⑳例えば、ミミ倉ミミミミご急ぎ富蔑蔚︵&.gF・く弓○用い宮︾ 陣.呼蔚Hの自侭岳畠︶・減ぐ昌胃当るゞ〆〆ぐ。饅参照。 、記事曽尋ミ曽琴国富§冒員3.9.印Pロ乱ロ。旨く屋鼻oagご 卜 と卜 $ず。回国習口胃昏農、なお、ラトナキールティのアポーハ 論、および、彼のジュニャーナシュリーミトラからの引用 については、次の論文を参照されたい。。。目冒go言]︺ 国ケ殿斥画○ず騨馬討色︾罰員︾菖雪嵐弓。鳶﹄、暮色︾旨色陣旨﹄陣向く凹邑の ︹]の“②︺。 81

参照

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