105 氏 名
川
かわ口
ぐち淳
あつし学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 甲第 128 号 学位授与の日付 2017 年3月 17 日 学位授与の要件 学位規程第3条第1項 学 位 論 文 題 目 清沢満之における「他者」 —その思想と問題を巡る考察— 論 文 審 査 委 員 (主査)大谷大学教授 加 来 雄 之 (副査)大谷大学准教授博士(文学)[大谷大学] 福 島 栄 寿 (副査)大谷大学名誉教授博士(文学)[大谷大学] 安 冨 信 哉 学位請求論文審査要旨 Ⅰ.論文内容の要旨 明治を代表する思想家・清沢満之(1863‒1903)については、讃仰と批判 とが繚乱し、相互に相容れない様相を呈している。その理由は、清沢の思 想が、単なる学説にとどまらず、この人世をどのように生きるのかという 実践の問題に深く食い込んでくる性質を有することと、「近代親鸞教学」 (本多弘之氏)と名づけられるような極めて特異的な教学の伝統を形成する 嚆矢となったからであろう。 川口淳氏の学位請求論文は、題目が示すように清沢満之の「他者」問題 を、清沢の「思想」という側面から考察するものである。氏は、これまで の清沢の思想への批判の多くが倫理関心に向けられていること、つまり清 沢の思想が社会に対する全肯定の思想として、倫理的主体が欠如し、社会 性が希薄であると批判されている情況について問題を提起する。つまり清 沢の「他者」問題に対する多くの議論は、讃仰も批判も、それぞれのパラ
ダイムで描いた清沢像のもとでなされている、というのが氏の基本的認識 である。その議論を可能な限り正しい地平に定置し直すために、これまで 清沢満之における「他者」に関する未開拓な面に光を当てることが氏の本 論文の目的である。 氏は、清沢における「他者」について、本論文では、とくに倫理道徳観、 社会観、国家観に視点を定め、それらが清沢の思想や信仰とどのような関 係にあるのかについて考察している。そして、清沢がそれらについて言及 する主要なテキストに資料的な検討を加えることで、清沢の言説を確定し、 かつ当時の関係文献を丁寧に渉猟することによって、清沢の言説を当時の 時代社会の文脈の中に位置づけ直すことに努めるのである。 本論文の構成は以下の通りである。 序章 本論の目的 —清沢満之という人と研究の可能性— 第一章 清沢思想の基礎的考察 —「有限無限」の思索を中心に— 1、本章の目的 2、有限と無限とは何か 3、語れない無限、語る無限 4、無限の擬人化 —阿弥陀仏— 5、無限が与える世界観 —浄土荘厳— 6、本章のまとめ 第二章 信仰と倫理道徳 1、本章の目的 2、宗教と倫理は同じなのか —井上哲次郎と清沢— 3、われわれには、倫理以上の安慰と根拠が必要である 4、宗教は真正の、歓喜の道徳を生む 4‒1、万物一体と、全責任無責任の思想から 4‒2、同情心 —如来の光明の中にある自己— 4‒3、内観主義 —その思想と誤解—
(学位論文審査要旨) 107 5、真正の道徳は倫理的苦悩を超える —全責任主義と無責任主義— 6、本章のまとめ —内観と無責任という語感の問題— 第三章 清沢と社会批判 —かれの仏教的社会観— 1、本章の目的 2、生存競争主義という思潮 3、清沢の反応 4、主我主義ではなく無我心 5、国家と不諍 —阿含経読誦から— 6、雑誌『政教時報』における生存競争主義批判 6‒1、問題提起 6‒2、雑誌『教界時言』と『政教時報』 6‒3、「心霊の諸徳」のテキスト批判 6‒4、「心霊の諸徳」における戦争と不諍 6‒5、和合と同胞 7、社会主義への視点 8、本章のまとめ 第四章 『臘扇記』とエピクテトス —自己と他者の真の関係を求めて— 1、日記『臘扇記』とその倫理性 2、三つの日記 3、エピクテトスとの出遇い 4、なぜ、エピクテトスだったのか 5、エピクテトス思想とその影響 5‒1、如意なるものとは何か 5‒2、死の恐怖 5‒3、エピクテトスの神への信仰 6、ジョージ・ロングの解説 —倫理を生む信仰— 7、自己とは何か 8、信仰と修善の関係と、信仰と理性の関係
9、真の友とは何か 10、本章のまとめ 第五章「服従」思想を巡る問題 1、本章の目的 2、問題の所在 —清沢・暁烏思想への「服従論批判」研究— 3、清沢とその弟子 —山本伸裕「精神主義」研究を踏まえて— 4、「服従論批判」の検証への入り口 5、『臘扇記』と「服従」という用語 6、『有限無限録』〔五三〕「執着は奴隷心の源なり」の考察 7、「明治三十六年『当用日記抄』」中の「奴隷」という用語 8、ソクラテスの見方にある「服従」という用語 9、「心霊の修養」と「服従の美徳」における服従思想 10、「心霊の諸徳」の「従順の心」「和合の心」について 11、「服従」の誤解の可能性 12、論文「自由と服従の双運」の考察 13、本章のまとめ 結章 本論は五章で構成される。 第一章は、清沢満之における「他者」を理解するための基礎作業として、 清沢の宗教哲学の基礎的な概念である「有限・無限」について論じている。 従来、ほとんど注目されていない「無限の擬人化」という視点を取り上げ、 ここに無限が他者と苦痛を共にしようとする意志の源泉をみている。 第二章では、清沢の「他者」観を、宗教(信仰)と倫理(道徳)との関係 に見定め、清沢が①宗教は倫理的責任に対して安慰を与える、と同時に、 ②宗教は他者と関わる真正の道徳を生む源泉でもあると主張したことを論 じる。とくに清沢の「内観主義」を「外面を無視した内面への沈潜によっ て他者理解が欠落した」とする批判のもつ問題点を整理している。
(学位論文審査要旨) 109 第三章では、清沢の「生存競争批判」が、当時の「生存競争、優勝劣敗」 という社会思潮に対する仏教的社会観からの批判であることを論じている。 具体的には、一般雑誌や宗門内の雑誌などを渉猟しながら、清沢の言説を、 当時の思潮の中に定位する。あわせて清沢が社会主義に対してどのような 見解をもっていたかを検討している。この章で、氏は山本伸裕氏の『精神 界』掲載論文のテクスト批判という方法論にならい、『政教時報』に掲載 された「心霊の諸徳」などにおける清沢の言説を確定することを試みてい ることは特記すべきであろう。 第四章では、清沢の日記『臘扇記』において展開される信仰から修善 (修養)へという思索に、日記中に多く引用される古代ギリシアの哲学者エ ピクテタスの思想の影響があったことを論じている。従来、エピクテタス の思想が清沢の分限の自覚にもった影響はよく知られているが、清沢の関 心がエピクテタスの思想の倫理性・社会性にあったという指摘は、これま で十分に考察されてこなかった視点である。 第五章では、暁烏敏が『精神界』に掲載した「服従論」に見える倫理的 主体が欠落した「服従」思想が、清沢の全肯定思想に基づくという批判に ついて論じている。清沢における「服従」は、「如来への服従」を意味し、 前章で論じたエピクテタスの倫理思想と深い関係をもっており、暁烏の 「男らしい服従」とは正反対の主張であることをさまざまな資料を通して 論証している。とくに清沢の最晩年の論文である「自由と服従の双運」が 清沢の「他者」理解についての核心となると指摘する。 「結章」において、川口氏は「今までの清沢批判は、清沢の周囲の人々の 戦時下の歴史的帰結からその原因を清沢の思想に求めて」おり、それでは 「清沢の社会に対する視点という側面が無化されてしまう」とし、本論文 では、清沢が生きた「生存競争主義」「国家主義」という時代思潮の中で、 なぜ清沢が倫理道徳と信仰との関係を晩年の大きな課題としていたか、ま た清沢が「関心を持って今この社会に語らねばならないと考えたもの」が 何であったのかを「時代状況から導くことができた」と結んでいる。
Ⅱ.論文審査結果の要旨 上述したように、本論文は、清沢満之の思想に対する批判への応答を有 効にするための地平を開拓するという課題のもと、清沢の讃仰者と批判者 との清沢像を問い直すためのさまざまな新しい知見を提供するすぐれた論 文である。 氏は序章において、福島栄寿、山本伸裕、近藤俊太郎、曽我量深などの 諸氏の見解を取り上げて清沢の思想を研究する方法について検討している が、氏が意図したほどに、みずからの方法論を明確にできたかは疑問であ る。氏にとって清沢が単なる研究対象となりえない以上、讃仰と批判との 中立を目指すよりも、清沢批判に対して「事柄の是非をあきらかにする」 姿勢に徹するべきではなかったか。氏が論文内で用いる表現を借りれば、 清沢の敬愛したソクラテスの、いわゆる「弁明(アポロジー)」という態度 こそ、氏の研究方法に相応しいのかもしれない。とくに第五章は、清沢批 判に対する「弁明」の具体的な実践と位置づけるならば、その執拗な論証 も納得できる。ただ、弁明には、弁解、申し開き、擁護に陥る危険が潜む ことに自覚的でなければならないだろう。この論文は、それらの危険を回 避することができるような論理を展開できたのであろうか、もしくは文体 を採用することができたのであろうか。この清沢批判に対する「弁明」と いうべき学的方法論の確立こそ、氏が本論文で試みようとしたことであり、 今後の課題であろう。 川口氏は、清沢の「他者」観が、一貫して、仏教思想にもとづく如来の 中に見出される「他者」を基礎としているとする。この指摘は重要である。 さらに、清沢が「他者」理解において使用する儒教思想における「天」や 「天命」、エピクテタスの哲学における「天帝」「神」など、さまざまな観念 が、「如来」と共通する側面をもつとともに、それぞれが清沢の「他者」理 解や社会実践にどのような役割をもつのかを明らかにすることができたな らば、さらに充実した考察となったと思われる。 論文全体の印象としては、清沢の著述のみならず、当時の文献を丁寧に
(学位論文審査要旨) 111 渉猟し、清沢の言説を当時の文脈の中に位置づけ直そうという苦労を感じ 取ることができる。そのことは 503 項目にわたる精緻で情報量豊かな注が 証明している。この注が本文に活かされたならば、より説得力のある論文 となったであろう。 審査会では、氏の論文における研究方法と、氏の論文の主題である「他 者」という概念をめぐって活潑な討議がなされた。 福島栄寿審査員は、自身の論文を川口氏が研究の指針として紹介してい ること(序章)をうけ、「讃仰論、批判論、反批判論という水掛け論には意 味がない」という自身が提起した課題が十分に理解されていないのではな いか、結局のところ本論文は「清沢を擁護するという立場」からなされた 「清沢批判論に対する反批判論」ではないか、との疑義が呈された。また 氏が使用する「他者」という概念が素朴すぎるので、先行研究などによっ て確かめる必要があり、あわせて「他者」問題については、近年の清沢満 之への批判者だけを問題とするのではなく、親鸞思想などより大きな思想 史的な射程をもつことも必要ではないかと指摘した。論文の内容について は、従来あまり詳しく取りあげられていない加藤弘之との対論を取り上げ たこと、清沢のエピクテタス引用についての丁寧な読解について、とくに 第五章において清沢の思想と暁烏敏の思想を明確に区別すべき道筋を示し た点などを評価した。 安冨信哉審査員は、すぐれた論文であると評価した上で、氏が主題とす る「他者」については、仏教思想における「他者」は人間以外も含む点や、 また「他者」にも二人称の「他者」、三人称の「他者」などがあり、「他者」 のさまざまな位相についても考慮すべきではないかと提案し、さらに清沢 の「他者」理解における重要な思想である「万物一体」については、単に 仏教における存在論的な真理にとどまらず、「万物一体の仁」(程明道)とい う表現もあるように実践的な思想であり、子安宣邦氏などが注目するよう に清沢と儒教思想との関係についても目配りが必要であることを指摘した。 審査員からの「他者を自己に取り込むような思想性についてどのように
考えるか」という質問について、川口氏は、清沢の他者理解にはかぎりな く、他者の痛みを自己の痛みとし、かぎりなく暴力的でなく、他者に無上 の価値を見いだすという視点があり、それらは清沢の「すべての衆生は如 来の子である」という理解にもとづくものであると応答した。 審査員からは、論理展開や文章表現が十分に熟れていないため、読み手 にとっては理解することが難しい箇所もあることが指摘されたが、それら の点は審査会における質疑応答を通して概ね解決することができた。 本論文は、上記したようないくつかの課題を残してはいる。しかし清沢 の著述のみならず、同時代の周辺資料や、先行研究を丹念に読み込むとい う、誠実な姿勢で作成された論文であり、今後の清沢研究に多くの新しい 知見を提供する力作であることは審査員一同の一致する感想であった。 審査に必要とされる最終試験および語学試験については、審査委員全員 により 2017 年1月 26 日に試問を行った。その結果、審査委員一同一致し て川口淳に大谷大学博士(文学)の学位を授与することが適当と判断した。
113 氏 名 あずま
東
真
しん行
ぎょう学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 甲第 129 号 学位授与の日付 2017 年3月 17 日 学位授与の要件 学位規程第3条第1項 学 位 論 文 題 目 金子大榮研究—浄土顕揚の課題— 論 文 審 査 委 員 (主査)大谷大学教授 藤 嶽 明 信 (副査)大谷大学教授博士(哲学)[関西学院大学]村 山 保 史 (副査)大谷大学名誉教授博士(文学)[大谷大学] 安 冨 信 哉 学位請求論文審査要旨 Ⅰ.論文内容の要旨 金子大榮(1881∼1976)は、清沢満之(1863∼1903)の思想に影響をうける とともに、仏教や真宗に関して独自な思想を提示していった人物である。 本論文は、金子大榮の生涯における思想の展開を研究したものである。そ の際に金子の生涯を仮に三期(初期、中期、後期)に分け、そのなかでも特 に中期に軸足を置いて考察している。 本論文は六章で構成されている。第一章は金子における初期の思索の展 開、第二章は「真宗学」という金子による学問論、第三章から第五章まで は金子の『浄土の観念』における思索を中心とした浄土観、そして第六章 は金子による『教行信証』読解を取り上げている。 論文の目次は次のようになっている。 序 はじめに—完全燃焼の生涯—
本論の構成 金子大榮研究の状況と本論の位置 第一章 初期の思索 第一節 如来中心の救済 第二節 「如来中心の救済」に至るまで 第三節 思想的苦悩からの脱却 第二章 金子大榮における「真宗学」 第一節 論文「教行信証の研究」と初期の思索 第二節 真宗学の三問題 第三節 『教行信証』における文章論 第三章 『浄土の観念』の思索 第一節 「観念としての浄土」論の形成 第二節 『浄土の観念』は何を批判したのか 第三節 『浄土の観念』以後の思索 第四章 『浄土の観念』論争(一) 第一節 第一次論争—学の自由と内観— 第二節 清沢満之から金子大榮へ—内観と内感— 第五章 『浄土の観念』論争(二) 第一節 第二次論争—金子大榮における「未来」— 第二節 「死」及び「死後」の問題 第三節 第三次論争—「尊信」と学— 第六章 金子大榮における『教行信証』読解 第一節 如来による二種回向 第二節 行信論について 第三節 『教行信証』の構造 結 序の「はじめに」では、金子大榮の生涯とは完全燃焼である涅槃への歩
(学位論文審査要旨) 115 みであると捉えている。次に「本論の構成」では、浄土を顕らかにして称 揚することが金子の生涯を貫く課題であったと述べた後、本論文の構成に ついて示している。最後の「金子大榮研究の状況と本論の位置」では、金 子の生涯における思想の展開という観点をもって論考していくのが本論文 であると示し、この観点からの考察は従来の研究では不十分であったと述 べている。 第一章では、『真宗の教義及び其の歴史』へとまとめられていく初期に おいて、金子の思索には如何なる問があったのかを確かめている。物質的 であろうと精神的であろうと、自らの外に如来を立てて救済を取引するよ うな如来観を厳しく問い直し、その上で「如来は自己を超越したる真実の 自己である」と金子は述べたと考察している。 第二章では、金子における初期(「理性の価値」、「教行信証の研究」)と中期 (「真宗学の三問題」、『真宗学序説』、「真宗学の概念」)と後期(『教行信証の研究』 のなかの「教学 」等)の学問論を取り上げ、金子による学問論の展開を考 察している。 第三章では、『浄土の観念』を中心にして金子の浄土観を考察している。 金子の浄土観は、『浄土の観念』で大成したと考えられる。「観念としての 浄土」という浄土観の概観と成立過程、およびその浄土観によって金子が 何を批判したのかを確かめている。また『浄土の観念』以降に浄土観に関 する思想がどのように展開していったのかを考察している。 第四章と第五章では、『浄土の観念』を契機として惹起した論争を取り 上げている。第四章では、金子と村上専精および多田鼎との論争を取り上 げている。第五章では、金子と木村泰賢との論争、また多田鼎と伊藤証信 との論争を取り上げて考察している。これらの論争では、金子による浄土 観のみならず、それまでの金子の学問論や如来観や未来観などの様々な問 題が金子に対して問として投げかけられている。それらの問への応答を通 して金子の思索は深められていく。またこれ以降の金子の思索の変遷を追 う上においても重要な意味を有する論争であると位置づけてこの論争を考
察している。 第六章では、金子自身が『教行信証』における主要問題として示してい る三点を取り上げて、金子による『教行信証』読解について考察している。 その三点とは、第一は如来回向、第二は行信論、第三は『教行信証』の構 造である。第一の如来回向に関しては、金子は「往相は心霊の限りなき純 化を求むるものであり、還相は肉体の限りなき浄化を願ふものといふこと が出来よう」などと述べ、往相回向と還相回向とを衆生の心(霊)と肉体 とに対応させた了解を示している。このように特色ある了解を取り上げて、 金子による二種回向に関する思索を考察している。第二の行信論に関して は、行信は如来の回向によるということが、中期に比べて後期ではより強 調されている。この強調が有する意味を、中期の思索(凡夫の能動性や如来 の内在性への着目)と対比して考察している。第三の『教行信証』の構造に 関して、金子は中期には回向と転入という言葉で論じていたが、後期には 「二部作」『教行信証』という構造論を提示している。この構造論によって 真実と方便の関係についての新たな了解を金子が示そうとしていることを 考察している。 結では、これまで論述してきた内容の要約と今後の研究課題について述 べている。 Ⅱ.論文審査結果の要旨 金子大榮は、浄土や如来などについて根本的な問い直しをし、かつ独自 な了解を提示していった人物である。また『教行信証』に関する金子の著 述は、現在においても重要な参考書として読み続けられている。そうであ るのに、金子に関しての研究論文は多くはない。また全生涯を視野に入れ ながら金子の思想について述べているものは、伝記類を除けば無いに等し い。このような研究状況において、金子の生涯における思想の展開という 観点から論考しているのが本論文である。このような観点からの考察は、 金子の思想研究において意義あるものとして評価できる。
(学位論文審査要旨) 117 本論文は、金子の生涯を三期(初期、中期、後期)に分け、その上で中期 に軸足を置いて考察を進めている。その理由は、初期を踏まえて金子自身 による思索が形成され結実していくのが中期であると論者は考えるからで ある。この中期を基盤として後期の思想的な展開もあると論者は捉えてい る。このように三期に分けて論考したことによって、思想の展開を把握し やすくなったという点は評価できる。また三期のなかで特に中期に着目し ていった点も、金子による浄土観などの形成や結実が中期にあったことか らすれば妥当性があると言えよう。 本論文は金子の思想の核心として、金子による学問論、浄土観、『教行 信証』読解という三点を取り上げている。浄土観は、浄土を明らかにする ことが「私の思想的運命」であると金子自身が語っているように、金子の 存在の根底を貫く課題であった。また『教行信証』読解は、三期を通して 繰り返し取り組まれた、金子による親鸞思想研究の中心に位置づけられる 事柄である。その浄土観や『教行信証』読解の前提や基礎としてあるのが 金子の学問論である。それゆえこれらの三点は金子の思想の核心と捉えて もよいであろう。この三点は相互に密接な関係をもつものであるが、本論 文は副題にも示されているように、浄土が金子の生涯の根本課題であると 捉えて考察している。金子による思想の全てを浄土に集約して語れるかど うかは検討の余地があるが、一つの観点としては成り立つであろう。 第一章は初期の思索の考察である。如来とは「真実の自己」であるとい う如来観を提示して、恩寵主義的な了解から脱却した如来観を金子は明ら かにしようとしていたと述べている。初期において金子が何を問題や課題 にしていたかがよく分かる論述になっている。 第二章は金子大榮における「真宗学」の考察である。あらゆる旧来の前 提を払って、宗教的言説に自身の課題をもって向かい合っていくのが「直 接研究」である。このような自由で主体的な学び方を金子は提示した。ま た、親鸞の学び方に学ぶのが「真宗学」である。親鸞思想に肉薄するこの ような学び方を金子は提示した。金子による独自な思想はどのような学び
方から生まれてきたのか、そのことを探る上での大切な論考になっている。 第三章は『浄土の観念』の思索の考察である。金子による学問論の整備 と時期を同じくして、金子の思索は如来観から浄土観へと展開していった。 そのなかで浄土は、常識的実在観における有無を超え離れた世界として捉 え直されていき、「観念」(浄土の観念、観念としての浄土)という用語で表さ れていった。「観念」という語を用いて金子は従来の浄土観の何を批判し たのかという考察は、金子による浄土観を明らかにする上で有効な論点で あろう。 第四章と第五章は『浄土の観念』論争の考察である。論争は幾種類かの 媒体を通して繰り広げられたのであるが、論者はここでも資料を丹念に収 集し、論争の流れや論点をよく整理している。またそれぞれの論争を、開 始から集結までを視野に入れて論考したことは評価に値する。 第六章は『教行信証』読解の考察である。金子自身が『教行信証』にお ける主要問題とした三点(如来回向、行信論、『教行信証』の構造)を取り上げ ているが、三点それぞれに生涯における深まりや展開があるという考察は、 『教行信証』読解の多様性が示されていて興味深い。 結では、これまで論述の要約と今後の研究課題が示されている。今後の 研究課題は、論者自身の課題でもあるが、これからの金子大榮研究が取り 組むべき課題の一端を示しているものでもあろう。 本論文全体を読んでみると、金子において学問論・浄土観・『教行信証』 読解の三つの事柄が密接に関係しながら思想展開していることがよく分か る。金子の思想の核心として三つの事柄を取り上げた論者の観点は妥当な ものと評価できる。 審査員からは以下のような講評がなされた。金子の思想研究に必要な第 一次資料を丹念に収集し、丁寧に読み込んでいる点は十分に評価できる。 また先行研究もよく踏まえている。さらに論者独自の研究成果も所々に窺 われる。それゆえ、先行研究との差異をもっと強調した論述の仕方をして もよかったであろう。三期に分けての考察は概ね有効と思われるが、時期
(学位論文審査要旨) 119 を跨ぐ観点からの考察を示す箇所があってもよい。本論文において重要な 用語である「浄土」「観念」「即是の道理」は、『教行信証』、西洋哲学、「即 非の論理」などとの関連を視野に入れて、さらに一歩踏み込んだ考察を今 後の課題としてほしい。また金子における清沢満之の思想からの影響につ いては、論者が取り上げた観点以外から考察することも大切であろう。 「二部作」『教行信証』という構造論に関しては、金子が「二部作」と示し た意味を明示した上で、論者による考察を展開した方がよい。金子におけ る「内観」と「内感」という用語の使い分けへの着目は、論者の独自性が 窺われるので特記するような示し方をしてもよかったであろう。 以上のように、本論文はさらに一歩踏み込んだ論考や異なる視点からの 考察が望まれる箇所もある。しかし、丹念な資料の収集と丁寧な読み込み を通して、従来の研究では十分ではなかった金子の生涯における思想の展 開を、論点を整理した上で考察している点で、学位論文として十分な水準 を有するものと評価できる。 審査に必要とされる最終試験については、審査委員全員により 2017 年 1月 17 日に試問を行った。その結果、審査委員一同一致して東真行に大 谷大学博士(文学)の学位を授与することが適当と判断した。
氏 名
松
まつ岡
おか智
とも美
み 学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 甲第 130 号 学位授与の日付 2017 年3月 17 日 学位授与の要件 学位規程第3条第1項 学 位 論 文 題 目 魏晋南北朝期における尼僧と仏教受容の研究 論 文 審 査 委 員 (主査)大谷大学准教授 博士(文学)[京都大学] 松 浦 典 弘 (副査)大谷大学教授 桂 華 淳 祥 (副査)大谷大学名誉教授龍谷大学教授 博士(文学)[大谷大学] 大 内 文 雄 学位請求論文審査要旨 Ⅰ.論文内容の要旨 本論文は、魏晋南北朝期を対象とし、尼僧を通して中国の仏教受容の一 端を考察する。その際に、先行研究の成果を踏まえつつ、『比丘尼伝』や他 の仏教典籍・正史・石刻史料などを基にして、女性の出家動機や尼僧の宗 教活動・交遊などの観点から、個々の事例を再検討することで、尼僧を通 じて仏教がどう受容されたのかについて解明していく。 本論の構成は以下のとおりである(節以下、省略)。 序章 第一章 南北朝期における女性の出家動機について 第二章 『比丘尼伝』の成立背景 第三章 尼僧の活動と仏教受容 終章(学位論文審査要旨) 121 第一章「南北朝期における女性の出家動機について」では、北朝と南朝 に分けて、北朝については正史と石刻史料を用いて、南朝については正史 と『比丘尼伝』を用いて、尼僧が出家に至った動機について考察した。北 魏では、孝文帝の洛陽遷都以降、寵愛を失ったり、皇帝と死別したりした ことなどを契機として、皇后が出家している。なお、尼僧となった皇后の 多くは、生前は瑤光寺など皇族や関係者が建立した尼寺に住しており、逝 去後は邙山に埋葬されるなどして陪葬はなされず、また諡号を贈られるこ ともなかった。北魏では公主の元純陀が、再婚相手の死を契機として出家 したが、在俗の時に縁のあった場所にて逝去した。また、慈慶尼は、戦乱 により官奴となり、文昭皇后高氏の殺害を機に出家を求めた。出家後、皇 室と関わりを持っており、逝去すると朝廷によって葬儀が執り行われ、比 丘尼統を追贈された。西魏・北斉・北周でも皇后の出家が行われ、南朝で も、南斉代に出家する后妃が存在したことから素地は有ったものの、皇后 出家が行われなかった。このことから、隋・唐代において、皇帝が死去し た後、后妃が出家するという行為は、北朝の例に倣って行われたと結論づ ける。他方、南朝では、皇后出家が行われなかったものの、華北の戦乱を 契機に出家する者や結婚や再婚を拒んで出家する者、劉宋以降では、自ら 願って仏門に入る者らがいたことを指摘する。 第二章「『比丘尼伝』の成立背景」では、南朝の尼僧を探る上で重要な史 料である『比丘尼伝』の成立背景について考察する。劉宋・元嘉九年 (432)に范曄によって『後漢書』に「列女伝」が立伝されるなど、儒教倫 理に照らし合わせて称賛されるべき女性に関する著述がなされてきた背景 から、梁代に入ると宝唱によって、仏道修行や弘道などに秀でて称賛され る人物を立伝した『比丘尼伝』が編纂されるにいたる。また、尼僧教団の 風紀の乱れや重受戒の問題など様々な弊害もあったことから、『比丘尼伝』 には、仏法に賢明通達なる尼僧達によって正法を堅固に維持していく重要 性を説くとともに、仏道修行の手本となるべき尼僧を示し、本来の尼僧の 有り様を伝えようとする意図があったことも指摘する。
第三章「尼僧の活動と仏教受容」では、主に魏晋南北朝期の尼僧の活動 について論じる。南北朝期の尼僧は、僧からは間違った教えに流されやす い存在として見られており、知識人からは儒教倫理から外れた存在として 捉えられていた。このような批判がなされたのは、宝唱が『比丘尼伝』序 文で指摘するように堕落や破戒という尼僧自身の問題や、儒・仏・道によ る論争が背景にあったからである。しかし、本章第三節で指摘したように、 業首尼や宝賢尼らのように人々の尊崇を集めた者もおり、皇族や士人から の喜捨が絶えることが無かったことから、この批判は一部の尼僧に向けら れたものであったことが分かる。東晋・劉宋代には、卜占に優れた術士や 僧がおり、皇帝や士人の行動に影響力を与えていたが、尼僧のなかにも、 道容尼や桓温に予言した尼僧のように、卜占や斎による怪異の除去をする ことによって、皇帝や士人らを仏教信仰へ向かわしめた者もいた。また、 尼僧のなかには皇帝や皇后・士人から尼寺を建立されたり、喜捨を受けた りする者、死後に賛などを作成される者もいた。これらの事例から、尼僧 との関わりを通して、皇族や士人が仏教に接し受容していった可能性を示 唆する。 Ⅱ.論文審査結果の要旨 中国仏教史上において尼僧に関する研究は重要な分野の一つであるが、 先行する論著は少なく、研究が進んでいるとはいいがたい。これは利用で きる史料が少ないことが主な原因である。本論文は中国に仏教が定着して いった魏晋南北朝時代に焦点を当て、『比丘尼伝』をはじめとする仏教史 料や、当該時代の正史、墓誌などを用い、尼僧に関して出家に至る動機や 出家後の活動などの観点から論じ、それを仏教受容に関連づけて論じよう とする意欲的な研究である。 第一章では、女性たちの出家動機について扱うが、特に北魏期の后妃に ついて詳細に論じる。『魏書』や墓誌を利用し、歴代の后妃について網羅 的に検討し、孝文帝期以降、皇后の出家が見られることを明らかにし、こ
(学位論文審査要旨) 123 れが北朝では、その後も、受け継がれていくものであるとする。一方、南 朝では后妃の出家は通常見られず、隋唐代における后妃の出家は、北朝の 例に倣って行われたと結論付ける。ただ、この点については、唐代の后妃 の出家の事例を具体的に示した上で、果たしてそれが一般的に見られるも のであったのか、慎重に検討をする必要があるであろう。 第二章では、当該時代の尼僧について研究する際の基本史料でもある 『比丘尼伝』を題材に、その成立の背景について考察する。結論としては、 列女に関する伝記が著されるようになってきたことや、発展していくにつ れて見られるようになってきた尼僧教団の風紀の乱れなどへの危機意識が 『比丘尼伝』の著述につながったとする。『比丘尼伝』は史料としては利用 されてきているが、その著作としての性質を考察したような論考は、これ まであまり見られず、本論文独自の視点である。 第三章では、南北朝時代に起こった尼僧への批判と、皇帝や士人との関 係など尼僧の活動について論じる。史料の関係もあり、考察の範囲が東 晋・劉宋に偏っているが、仏教が定着していく中で尼僧の活動の場が広が っていく状況を示したのは意義深い点である。ただ、もう少し南斉・梁に 考察を広げてみてもよかったのではないだろうか。特に士人との関係を持 った尼僧がいたことに言及しながら、『比丘尼伝』中に南斉の文恵太子や 竟陵文宣王と関わっていた尼僧が存在するにもかかわらず、全く触れられ ていないのは、不十分であろう。 全体として、もう少し考察を深めることが望ましい部分が見られる。例 えば、第一章で北魏の慈慶尼の墓誌を取り上げているが、彼女が死後に比 丘尼統を追贈されていることは、僧官制度研究の視点から見れば大変興味 深い問題となりうる。しかしながら、本論では詳しく検討されていないの は、惜しまれる点である。この他にも、史料の内容により踏み込んで考察 していくことで、さらなる論の展開が期待される部分があり、今後の課題 となるであろう。 また、説明が十分でない部分も間々存在する。論証の過程で説明が不足
しているがために、論者の考えが十分に伝わっておらず、もう少し推敲を 重ね慎重に文章をまとめていく必要があろう。 しかしながら、既に述べたように、先行研究が少なく、史料が限られて いる中、それらを網羅的に検討した上で、論者なりの新たな視点から考察 が進められていることは、東晋∼南北朝の尼僧研究の成果の一つとして評 価できる。また、墓誌など興味深い内容を含む史料を蒐集しており、それ らをより深く考察していくことによって、一層の研究の進展が期待される。 審査に必要とされる最終試験については、審査委員全員により 2016 年 12 月 26 日に試問を行った。その結果、審査委員一同一致して、松岡智美 に大谷大学博士(文学)の学位を授与することが適当と判断した。
125 氏 名
工
く藤
どう祥
しょう子
こ 学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 甲第 131 号 学位授与の日付 2017 年3月 17 日 学位授与の要件 学位規程第3条第1項 学 位 論 文 題 目 日本中世のムラと惣村 論 文 審 査 委 員 (主査)大谷大学教授 博士(文学)[大谷大学] 草 野 顕 之 (副査)大谷大学教授博士(文学)[大谷大学] 宮 健 司 (副査)大谷大学教授博士(文学)[大谷大学] 東 舘 紹 見 (副査)京都大学名誉教授文学博士[京都大学] 大 山 喬 平 学位請求論文審査要旨 Ⅰ.論文内容の要旨 本論文は、現在急激に死滅しつつあるムラ及びムラ社会の歴史的意味を、 日本中世を対象として問おうとするものである。現在、中世村落共同体研 究の問題として、「村落共同体」「惣村」概念の多様化が挙げられるが、文 字史料上の「村」と「惣」を無条件に研究上の概念としての「村落共同体」 「惣村」として理解したうえで、文字史料上にあらわれる「村」「郷」「惣」 の用法を時代別に検討することで、中世社会の現実認識に迫り、それぞれ の言葉の歴史的位置づけを行おうとする。そこから、中世前期村落と後期 村落の断絶、地理的条件による生産・景観の差異、荘園制の枠組みとの関 係や、在地社会における権力関係なども含めて、立体的な地域社会の復 元・把握を行い、地域性・個別性と普遍的要素の抽出を行おうと試みた論 文である。そのため、以下のような論文構成をとって論を進めている(項は省略する)。 序 章 日本中世村落史研究の軌跡と課題 はじめに 第一節 日本中世村落共同体の研究史 第二節 課題と本論文の構成 第一章 「惣」と「惣村」—村落における「惣」の論理— はじめに 第一節 村落における「惣」の出現 第二節 今堀郷の「惣」について 第三節 「惣」概念の拡大 おわりに 第二章 「惣村」成立以前の菅浦と領主竹生島 はじめに 第一節 菅浦荘について 第二節 竹生島と熊谷氏 第三節 建武訴訟における竹生島雑掌訴状の意味 おわりに 補論1 鎌倉から南北朝期における日吉神人と延暦寺衆徒 第三章 中世淡路国の郷と村—「ムラの戸籍簿」から— はじめに 第一節 「淡路国の郷村表」からみる特徴 第二節 十三世紀の村—「淡路国大田文」を素材として おわりに 第四章 中世淡路国の伊勢道者の存在形態からみる在地社会 はじめに 第一節 伊勢御師と道者の分布について 第二節 道者の特徴—在地寺社・個人名を含む地域—
(学位論文審査要旨) 127 第三節 道者の特徴—地域名のみの地域— おわりに 補論2 天正十三年「淡路国指出帳」からみる在地社会 結 章 (補論1・2の数字は、説明の都合上付した) 第一章「「惣」と「惣村」—村落における「惣」の論理—」では、村落文 書上の「惣」の用法から村落における惣的結合の性格、惣論理の展開と惣 村への変容を検討している。すなわち、南北朝期の惣は村の宗教的機能を 担う「村人」の「座」という集団そのものであり、共同体所有を維持・運 営するための正統性を共同体内部に主張する対内的なものとして始まった とする。それが、次第に仏神事や構成員の行動規制のための概念として展 開し、戦国期には、村人の生活全般を規制し対外的な集団呼称へと拡大し ていったことを明らかにする。残る課題として、中世社会における惣概念 の創出がいかになされていったかを明らかにすることがあり、その際、村 落の場合、在地寺社との関わりが大きいため「惣寺」との関係性を検討し ていく必要があると付言する。 第二章「「惣村」成立以前の菅浦と領主竹生島」では、惣的結合以前の在 地社会の様相、惣村形成と領主権力との関係を、近江湖北の菅浦を事例に 検討する。惣村の代表とされる菅浦は、自治と自立の民衆像を求める惣村 研究の視点から、菅浦をめぐる領主や諸権力の存在が消極的に評価されて きたが、一般に惣村が成立してくる鎌倉から南北朝期の研究が少ない。そ こで、この時期の菅浦と大浦・塩津荘地頭職熊谷氏との相論を事例に、菅 浦住民がおかれていた在地社会の様相を分析して、領主竹生島がどのよう に関わっていたのかを検討する。そして、当該期の湖北の政治状況、特に 守護・六波羅御家人との対立構造に注目して、南北朝期までの菅浦は、訴 訟により獲得した権利は領主権力によって容易に侵害されうるものであり、 村落としての自立的な活動は、南北朝以降であったことを明らかにした。
補論1「鎌倉から南北朝期における日吉神人と延暦寺衆徒」では、日吉 社の組織(社司組織、神人支配)、日吉七社と延暦寺衆徒の関係とその変容を 鎌倉から南北朝にかけて検討する。中世、近江国の村落にとり一大権門で ある延暦寺と日吉社は、領主であり信仰の対象であると同時に、金融や流 通といった日常生活に深く関わる存在で、その構造の解明は重要であるも のの、明確になっていない現状がある。そこで、日吉社の組織形態を明ら かにし、その変遷を追うことで、延暦寺と日吉社の関係が「院々谷々」と 日吉七社、衆徒と神人といったさまざまなレベルにおいて形成されている ことを解明する。延暦寺の日吉社への一方的な支配の関係だけでなく、信 仰や経済面における社会集団同士の関係ともいえる有機的な関係を明らか にしている。 第三章「中世淡路国の郷と村—「ムラの戸籍簿」から—」では、村落研 究の盛んな畿内近国に対比して、圧倒的に関係資料が乏しく村落研究のな い淡路国を素材に、文字史料上にあらわれる「郷(里)」と「村」を検出し、 淡路国の郷と村の特徴を論じる。そして、旧郷(古代郷)名の継承率が非常 に高く、国衙領・荘園名、近世村名へと継承し、旧郷名を継承した十三世 紀の「村」や、国衙在庄官人=在地領主と深く関わりをもち、旧郷の再開 発の拠点として設定された「村」の存在を明らかにした。残る課題として、 旧郷名の継承性と地理的な条件、所領開発の状況の違いとの関係について、 尾張国の事例などとの比較を行い、淡路国の郷と村の特徴を検討すること。 さらに、十二世紀・十三世紀の国衙領開発過程と「村」の位置づけや、当 該期の村と在地領主と関係について、他地域の事例を踏まえて検討をする ことなどがあると付言する。 第四章「中世淡路国の伊勢道者の存在形態からみる在地社会」では、淡 路国の関係資料のうち永正∼永禄の伊勢道者売券(来田文書)を素材に、在 地社会における道者組織の存在形態を考察し、そこから窺いうる中世末の 淡路国の村落を検討した。結果、伊勢国淡路屋が淡路国の道者組織を分割 掌握し、村の道者組織には、おとなによる道者把握と在地寺院(領主)に
(学位論文審査要旨) 129 よる把握が存在したことを明らかにしている。残る課題として、道者組織 は一般に伊勢御師の経済単位という性格が強いため、道者組織の存在形態 をそのまま村落の存在形態とすることは難しく、在地状況を復元しそれと の接合が必要なこと、さらに、荘園制的枠組みや荘園を特色づける地理的 条件などとの関連についても検討する必要があると付言する。 補論2「天正十三年「淡路国指出帳」からみる在地社会」では、新出の 指出帳について分析する。そして、伊勢道者売券という異なる性格の史料 を合わせて分析することで、互いに在地社会の様相を多分に反映し作成さ れたものであったことを明らかにしている。 結章では、本論文全体をふり返り、まず近江国今堀郷の村落文書の検討 を通して、「惣」が共同体内部の対内的な概念として使用されはじめ、そ れが、次第に仏神事や構成員の行動規制のための概念に展開していき、戦 国期には、村人の生活全般を規制し対外的な集団呼称へと拡大していった ことを明らかにした。次ぎに、惣村の典型とされる菅浦地域の検討を通し て、在地領主間や守護や六波羅探題といった領主層の対立構造のなかにあ って、近江国の村落では、「惣」概念の創出からその展開のあり方を跡づけ、 社会構造が不安定な訴訟制度や権利関係の未確立な時代においては、領主 間の対立構造のなかにあったことなど、従来の惣村概念に左右されない各 村落の惣村への展開過程を明らかにしえた。さらに、淡路国においては、 従来、辺境地の村落評価つまり村落共同体の政治的主体性や共同体機能の 消極的評価がなされてきたのに反し、村のおとな層の存在や彼ら主導によ る宗教的集団の形成が村においてなされ、遠隔地参詣を可能にする経済力 を有していたこと、その一方で、在地有力寺社の領主的機能を媒介に組織 された宗教組織が存在していたことなどを明らかにしたと総括している。 そして最後に、今後の課題として、「惣」については、村落間だけでなく 広く在地社会における「惣」概念の使用について検討していくと同時に、 近江国の在地社会の様相を解明するためにも、延暦寺・日吉社の組織構造 の解明と所領経営について検討していく必要があること。淡路国の村落に
ついては、村の個性的把握のため淡路国の領国支配を検討し、村落をめぐ る在地社会の構造を解明したうえで、村落構造やその多様性について検討 していく必要があることなどを付言して終わっている。 Ⅱ.論文審査結果の要旨 試問においては、まずそれぞれの章に関する事実関係の確認や史料解釈、 また論理展開が適切か否かなどについての質疑を行った。 第一章では「惣」の結節点となったという十禅師社について、荘園支配 のために領主が設置したものであるが、そこで村民が所有権を獲得したと いうのは考えにくいのではとの質問に、十禅師社に設置された仏神田を次 第に村民のものとしていく過程が確認できると答えた。また、夏安居を行 う民僧を紹介するが、民僧とは何者で夏安居は何をやっていたのかという 質問には、民僧・夏安居についてははっきりしないが、領主のための行事 ではなく、村民の行事と考えられると答えた。本章は、今堀郷において 「惣」が形成されていく過程を、座と関係させて丁寧に追っている章であ るとの評価があった。 第二章では、菅浦が大浦から離れて竹生島領となったというが、そもそ も大浦の雑掌はなぜ菅浦を竹生島に寄進したのかとの質問に、史料からは 雑掌の思いしか読み取れず、菅浦住民の意図自体はわからないと答えた。 またその後、菅浦の支配を って領主竹生島と在地領主の対立があったと するが、その対立構造がよくわからないとの質問に、竹生島の内部構造が わからないために、十分には答えられないとした。菅浦研究は自律的・自 治的村落「惣村」の典型として多くの研究があるが、本章ではそうした自 立性・自治性を発揮する前段階に、荘園領主と在地領主の間で左右される 菅浦住民の動向を明らかにした意味で評価しうるとの意見があった。 補論1は、本論ではないにもかかわらず質疑が多くなされた。特に日吉 社 宜の補任権に関して、天台座主の補任は追認であるというが、恣意的 な補任はなされなくとも支配権がなかったとは言えないのでは、あるいは、
(学位論文審査要旨) 131 先例を追認するというのは普通になされたことではないか、など複数の審 査員からの質問があったが、論者は再考するということでその場での回答 はなかった。また、 宜に右方左方の別があり別家から輩出しており、右 方が大宮、左方が二宮の社家であったとの指摘に関しても、普通は左方が 上位と考えられるが右方が上位の大宮である理由、また左方右方というこ とは古代にも多いが一般的なことかといった質問があったが、これも現段 階ではよくわかっていないと答えた。しかし、この章は、これまで経済活 動を中心に研究が進められてきた日吉神人の組織を、大津神人や北陸散在 神人の存在も含めて検討した意味で、大変興味深い補論であるとの評価で あった。 第三章と第四章、及び補論2については、従来ほとんど研究のない淡路 国の村落の様相を明らかにした新しい研究であったためか、余り質疑はな されなかった。ただ、第一章・第二章の近江における村落の問題との関係 性がわかりにくいという指摘や、また補論2で史料紹介した「淡路国指出 帳」について、面白い史料なので、文章での説明だけでなく、史料本文を きちんと提示した方がよかった、といった評価があった。 論文全体として、第一章、第二章で明らかにした近江の村落の問題と、 第三章、第四章で明らかにした淡路国の村落の問題との接続が十分でない というマイナス面はあるが、第一章で今堀郷における「惣」の形成過程、 第二章における惣村菅浦成立の前史、補論1における日吉社神人の組織解 明、第三章、第四章、補論2での淡路国という研究の薄い地域での村落の 検証など、見るべき所が多い論文であるという評価であった。 このように、いくつかの問題や課題は残っているが、論文全体で明らか にしたことの価値を大きく損なうものとは言えず、本論文は課程博士の学 位請求論文として、十分の内容を持つものと審査委員一同判断した。 審査に必要とされる最終試験については、審査委員全員により 2017 年 1月 13 日に試問を行った。その結果、審査委員一同一致して、工藤祥子 に大谷大学博士(文学)の学位を授与することが適当と判断した。
氏 名
山
やま本
もと春
はる奈
な 学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 甲第 132 号 学位授与の日付 2017 年3月 17 日 学位授与の要件 学位規程第3条第1項 学 位 論 文 題 目 戦国期武家の起請文にみる誓約と神仏 論 文 審 査 委 員 (主査)大谷大学教授 博士(文学)[大谷大学] 草 野 顕 之 (副査)大谷大学教授博士(文学)[京都大学] 池 田 敬 子 (副査)大谷大学准教授博士(文学)[大谷大学] 福 島 栄 寿 (副査)東北大学教授博士(文学)[東北大学] 佐 藤 弘 夫 学位請求論文審査要旨 Ⅰ.論文内容の要旨 本論文は、戦国期武家の起請文(誓約事項、および不履行時に罰を受ける具 体的な神仏名と罰文を記した文書様式)に記載された神仏(勧請神)がどのよ うな規則性に基づいて選択されていたかを明らかにし、そこから起請文を めぐる当事者等の意識の一端を読み取ろうとしたものである。 そのため、以下のような論文構成をとって論を進めている(項は省略する)。 序 論 第一節 本論文の主題 第二節 研究史整理 第三節 本論の構成 第一章 戦国期武家の起請文と勧請神(学位論文審査要旨) 133 はじめに 第一節 主要武家の起請文にみる勧請神 第二節 戦国期武家の起請文の機能 第三節 越相同名にみる起請文の機能 おわりに 第二章 上杉謙信の領主統合と氏神春日 はじめに 第一節 謙信の権力と起請文 第二節 越後国内における領主間結集と地域神 第三節 謙信の領主統合と春日社 おわりに 第三章 毛利氏と安芸一宮厳島社 はじめに 第一節 毛利氏関連起請文にみる厳島社 第二節 安芸国外領主との起請文交換 第三節 防長移転後の毛利氏と厳島社 おわりに 第四章 安芸毛利氏の起請文にみる氏神の機能 はじめに 第一節 毛利氏と 園牛頭天王 第二節 起請文にみる 園社 第三節 毛利「家中」と「 園社」 おわりに 結 論 「序論」では、当該期起請文に関する先行研究を整理して、二つの問題 を提起する。すなわち一つには、当該期起請文の評価について、当時多く の起請文が政治的に重要な場面で用いられていたにも拘らず、以前より当
時の起請文が形骸化しているとの評価がなされてきたことへの疑問である。 近年その評価は見直されつつあるものの、勧請神についての議論は除外さ れる傾向にある。しかし起請文は勧請神と罰文が記されている点に他の誓 約書にはみられない特徴があり、その勧請神もかなり細かく選択されてい るから、起請文を捉える上で勧請神の議論は必要不可欠であるという指摘 である。 二つには、勧請神を扱う先行研究の注目が一宮などの国鎮守に集中して いることを問題とする。従来、戦国大名の領主統合には国鎮守が重要であ ったとされてきたが、大名が本拠とする国以外の領主についても同時に統 合しようとするならば、国の枠組みに規定された国鎮守が有効であったと は考え難いとし、戦国大名が大名の「家」を内包した権力体であるという 性質を持つことから、起請文に記載された氏神に注目すべきであるという 問題提起を行っている。 「第一章 戦国期武家の起請文と勧請神」ではまず、越後上杉氏など 15 の大名家について、その当主起請文に記載されている神仏の特徴を検出す る。多数の神仏を記載する、あるいはほとんど記載しない、自国鎮守や氏 神の記載の有無など、大名ごとに様々な特徴が確認されると同時に、一大 名家の中でも起請文ごとに細かく神仏を選択していた状況が見て取れると いう。それらの起請文がどう用いられたかについては、安芸毛利氏関連の 起請文を対象に、その発給契機や内容等を概観し、その多くが大名・領主 間の従属誓約および進退保証、大名・領主との同盟・和睦や兄弟契約関係 である一方、それらの発給契機や少数事例を含めると、その用いられ方が 多様であることを指摘する。このことから近年の研究に多くみられる、当 時の起請文を宣誓文書から契約文書に変化したものと捉える見方では、却 って偏った見方となってしまい、再考を要するという。そして大名間の同 盟締結に際し、起請文が数回にわたって交わされている理由に触れ、全て に共通するのは起請文の本質でもある「自身に偽りなし」の宣誓であり、 このことからやはり当該期起請文を契約文書とするだけでは説明がつかず、
(学位論文審査要旨) 135 偽りなしとの宣誓こそが重要であったという。そして、起請文の性格自体 の変化を問題とするのではなく、このような性格の起請文は、それぞれの 状況に応じてどう活用されたかという点において違いが出るのであり、そ のような視点から改めて戦国期の起請文を見直す必要があると指摘してい る。 「第二章 上杉謙信の領主統合と氏神春日」では、従来越後国の上杉謙 信の起請文が国内領主の統合に用いられたといわれるが、そこには同国鎮 守がみられず、先行研究で指摘されているような、国鎮守を介した領主統 合という構図が成立しないとした上で、謙信による起請文を介しての領国 統合のあり方を明らかにしようとする。このため、まず謙信起請文には国 鎮守が記載されない一方、全てに春日社が記載されるという、他の国内起 請文にはない特徴を検出し、他方国内では領主同士が荘鎮守や国鎮守など の国内鎮守を介して関係を結んでいたことを確認する。そして、全ての起 請文に記載された春日社については「春日」と「氏神春日」という二つの 表記があることに留意し、謙信と起請文受給者との関係を検討した結果、 「氏神春日」が記載された起請文受給者は、謙信の家臣やそれに近い国人 など、自身の下に統合しようとする領主等であったことを明らかにする。 つまり、謙信は国鎮守でまとまる領主等を起請文で統合しようとする際、 自身は国鎮守を記載しないことで彼等との間に差別化を図り、新たに氏神 春日を記載することで統合を果たそうとしたのであり、それは越後国外に も及ぶものであることを明らかにしている。 「第三章 毛利氏と安芸一宮厳島社」では、対象を安芸毛利氏に定め、 その起請文に国鎮守がどのような基準で記載されていたかを明らかにしよ うとする。まず、毛利氏の本拠安芸国内では、毛利氏を含めた国内領主が 同国一宮の厳島社を起請文に記載しており、彼等の間で同社が重要な存在 として認識されていたことを確認する。しかしこれでは従来言われている ような、大名による国鎮守を介した領主統合の有無が判断できないことか ら、次に毛利氏と安芸国外領主との間で交わされた起請文を検討する。そ
の結果、毛利氏・国外領主ともに自身の所属国の鎮守をそれぞれが記載し ていることから、基本的に国鎮守は起請文発給者の所属に基づいて選択さ れていたことになり、そこから大名の領主統合を読み取ることは困難であ るという。さらに毛利氏は関ヶ原敗戦後、本拠を安芸国から長門国に移し ているが、移転後に発給された起請文にも、しばらくの間、厳島社を記載 し続けていたことを確認し、これは彼等が移転後もなお安芸国への帰属意 識を持ち続けていたことを示すものであるという。ただし、この状況は近 世を通じては続かないことから、国鎮守は近世以降も国鎮守としての性格 の域を出ることはなく、基本的に発給者の本拠地変更にともない起請文の 国鎮守も変更されるものであったと結論付けている。 「第四章 安芸毛利氏の起請文にみる氏神の機能」でも、毛利氏を事例に、 その起請文に記載された氏神の機能についての検討を深める。まず毛利氏 が、複数ある氏神の中で居城近くに位置した 園社を最も重視していたこ とを確認する。その 園社が記載された起請文については、当主発給起請 文では自身への従属度が高い領主宛のものが多く、対して当主以外で同社 を記載しているのは毛利一門および毛利「家中」(家臣団)という限られた 範囲であり、総じて戦国大名「毛利家」の範囲に含まれる人々であったこ とを明らかにする。また「家中」内規約の遵守を誓った「家中」連署起請 文にも 園社が記載されている理由を検討し、同神が「毛利家」を核に形 成された「家中」の枠組みとしても機能するものであったことを明らかに している。このことより、毛利氏の氏神 園社は単なる毛利家の守護神と いう枠組みに収まらず、毛利氏が領主を自身の下に統合しようとする際に 持ち出された神であったと指摘する。そして同時に、その氏神の範囲に国 人層が含まれるか否かについては、毛利氏が一部の国人宛の起請文に自身 の氏神を記載することで他の国人との間に差別化を図ることは可能であっ ても、国人側の起請文には毛利氏の氏神が記載されないことから、基本的 に戦国期段階においては国人層にまでは及んでいないという。ただし、国 人等も署判した「家中」起請文が近世に作成され、そこに 園社が記載さ
(学位論文審査要旨) 137 れていることから、その範囲が最終的には国人層にまで及ぶものであった ことになるとする。この検討内容を第二章の上杉氏の事例と照合して、東 国・西国ともに同時期に同様の事象がみられたこととなり、よって戦国大 名が領主を統合しようとする際には従来指摘されているような国鎮守では なく、大名家の氏神が重要であったと結論付けている。 「結論」では、本論を通して明らかになったことを、以下のように整理 している。まず、起請文に勧請する国鎮守の選択は、戦国期を通じて発給 者の所属国に基づいて行われ、国鎮守もあくまでその国の鎮守としての枠 を出ないことが明らかとなった。このことから、従来言われているような 国鎮守を介した領主統合については、その国内の領主統合は可能であって も、複数国の領主を同時に統合することは、国鎮守では困難であった。逆 に、氏神に関しては、東国の上杉氏・西国の毛利氏ともに、彼等が領主を 統合しようとする際の起請文に記載されており、よって大名の領主統合に は大名家の氏神が重要であったことが明らかになったという。このことか ら、起請文の勧請神からは、従来言われているような個人の信仰や地域信 仰圏のみならず、発給者の所属意識や領主統合の意図、受給者との関係ま でもが読み取れること、つまり、当時の人々の様々な意識がここに表れて いることになる。これほどの情報量を持つ勧請神を抜きに、当時の起請文 を取り上げることは適当ではなく、ましてや当時の起請文が形骸化してい たとの見方は成立しないと結論付ける。また、勧請神がかなり細かく選択 されていた点については、一見不規則にみえるこの選択にも、何らかの一 貫した基準が存在したのであり、本論文で主に検討した国鎮守や氏神の記 載もそうした基準を前提になされていることが推測されると付言している。 Ⅱ.論文審査結果の要旨 試問においては、まず第一章から第四章で明らかにしようとした事柄に ついて、個別的な質疑が行われた。第一章は戦国期武家の起請文を大づか みに紹介した章であるため、多くの質疑は行われなかった。ただ、結論と
して述べている、起請文は契約文書であるという近時の研究状況への批判 に関して、例えば何事かへの感謝が起請文の形をとって伝えられる例など は、論者のいう「自身に偽りなし」の宣誓とまでは考える必要はなく、契 約文書的な要素もあるのではないかとの指摘があった。 第二章は上杉氏に関する起請文に見られる氏神春日に注目した章である。 まず氏神たる春日社を勧請した事情が分からないかとの質問に、論者は由 緒は分からず、何故この神を氏神にしたのかという経緯は明らかでないと 答えた。また、春日と起請文に勧請されたのが氏神春日にあたることは分 かるが、そもそも氏神が勧請される意味はとの問いに対して、論者は上杉 家という家を表していると考えていると答えた。全体として、興味深い分 析が出来ている章であるとの評価であったが、もう一歩踏み込んで結論を 強調した方がよかったのでは、という指摘もあった。 第三章は毛利氏に関係する起請文に見られる国鎮守厳島の問題を取り上 げている。この章では、国外領主が毛利氏に宛てた起請文にも厳島が勧請 される例が見られることを個人差と評価するが、個人差で説明するのでは なく理由を追及できないかとの質問に対し、相手側の神仏を勧請するか否 かはきちんと決まっているものではなく、例えば相手に対する気遣いで勧 請する場合などもあるとの答であった。 第四章は前章に引き続いて毛利氏関係の起請文を検討したもので、本章 では氏神 園を中心に検討を進め、第一章で扱った上杉氏と同様に、毛利 氏も領主統合に氏神を勧請していることを明らかにした本論文の中核とな る章である。この章での分析結果については、大変興味深い史実を明らか にしたものと評価が高く、個別の質問はなかった。 全体を通して、500 通に及ぶ全国の戦国武士の起請文を博捜し、それを 適切に分析したことは高く評価できる。とりわけ、東の上杉氏と西の毛利 氏とを中心に検討を進め、これまでの国鎮守が戦国大名の領主統合の神で あるという通説を覆し、両氏が氏神を領主統合のため起請文に勧請した重 要な神と位置づけていた事実を発見したことは、非常に興味深いとの評価