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弾琴緒歌集『桐園歌集』三点について

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弾琴緒歌集﹃桐園歌集﹄三点について

弾琴緒は明治期の大阪を代表する旧派歌人である。しかし、旧派 歌人と現在呼ばれる彼ら伝統的地下歌人は、新派とよばれる歌人た ちに対して後々そうした呼称でょばれてまとめられているに過ぎな いわけであり、当時は彼らこそ多くの知識有識者から腎られた存 在であった。﹁優美高尚なる姿を専として詠ぜられたれは彼新派の 野部俗調の類にあらず﹂(後述す邑と新派に対する意識が無かっ たとは言えなさそうであるが、正統を{寸るという強い誇りが旧派の 歌人たちを支えていたのである。 明治二十年代は、大阪は文壇萌芽のころで小説グループ﹁桃谷党﹂ が文芸誌﹁なにわがた﹂を発刊しはじめる。その﹁浪華文学会員姓 名﹂を一覧すると、磯野秋渚・西村天囚・渡器亭・武田仰天子 武富瓦全・木崎好尚・本吉欠伸など大阪朝日新聞で活躍した人々の 名が拾える。そのなかに住吉大社の津守国敏といった和歌の世界で 重んぜられた名家の人が交じり所載和歌も歌風は伝統的典雅なもの (住2) である。磯野秋渚・西村天囚編﹃古今歌話﹄はもともと大阪朝日新 聞の投稿欄であるが、和歌がどんなかたちで新聞の一般読者に親し はじめに まれていたかを知ることができる。 (注3) ﹃古今歌話﹄に次の話が載る。 (八一己あやしの露桐園 ある人伴林光平の門に入り後は同氏の勤王攘夷の志操に化せられ て、総て西洋の事を忌嫌ひて、安政初年の頃、種痘の術伝来せしを りにょめる歌 ちりだにもすゑでおふししなでし子に あやしき露はかけじとぞおもふ 此の歌よみて、終に接種せ、ざりしに、其の撫子は成長して、 の美男子となりぬ、僧にせむは惜しき心地せしに、二十四五歳に 至りて重き天然痘に櫂りて、満面に痘痕を生じ、美男子は醜夫と なりしこそ気の毒なりしか (注4) この大阪朝日新聞読者投稿の﹁桐園﹂が弾琴緒の号で、投稿読者の 恕な一人であった。右の和歌は﹃垣内摘草﹄(安政六年正月刊) に所載のもので、﹁宣隆希河辺郡山本村西宗寺﹂と﹁作者名﹂ の載る伴林光平門人で伊丹あたりの社中の僧侶とあきらかになる。 ﹃垣内摘草﹄では、 稚子に種痘といふことをものせさせよと

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す、むる医師に申し遣しける 塵だにも据ゑで生し、なでしこに あやしき露はかけじとぞ思ふ宣隆 とあり、﹁一個の美男子﹂云々は、和歌の後日談の実話なのか、琴 緒の創作なのか、今は明らかにはしがたいがなかなかに弾琴緒も筆 の立つことである。 木村三太郎は﹁彼(小野利教)は稲園社設けて子弟に和歌を教ヘ たが、当時の大阪歌壇は弾琴緒の桐園吟社、北里蘭齋藤周吉等の さはらび会等々の短歌結社があつて、いづれも歌壇的には相当な勢 (住6︺ 力をもつてゐた﹂と明治中後期大阪の歌人の中心についてのべてい るが、小野利教とも弾琴緒は親しい歌友であった。 弾琴緒は弘化三年摂津伊丹に生まれ家業は代々醤油醸造業(家 伝では酒造醸業とも)を営み、父は徳斎、風流韻事好学の家風で和 田玄作に入木道を、橋本香岐に漢学を学んだ。文久二年五月十六歳 で遠州流生花の宗匠元村左中に和歌の手ほどきを受けたのがはじめ というが、その後伊丹で帷をおろしていた中村良顕に和歌国学の教 えを受けた。 明治と新時代になると、兵庫県戸籍課に出仕していたが、明治十 二年大阪高麗橋三丁目に転居して以降、大阪を本拠地とする。はじ め、新時代の役人をしたため、法律法令関係の出版事業に乗り出し ており六十八部・七十一冊を刊行したと﹃桐園詠草附録﹄の巻末﹁弾 舜平編纂の雑書類﹂にあげているが、﹁弾舜平編纂の雑書類﹂に併 一、兵庫県戸籍課弾舜平 せて﹁桐園出版の歌書類﹂との二つの目条あり弾琴緒には、﹁弾 舜平﹂と﹁桐園﹂との使い分けがあることがわかる。法律法令関係 出版と歌書出版との二束の草靴を使い続けたが、それも明治二十年 代後半になると﹁雑書は。法令規則の改廃にょりて。今は実用にな りがたく。恰も反故にひとし。﹂として、手を引くこととなるよう である。 歌人弾琴緒の活躍は明治という新時代にふさわしく、ぼちぼちと 和装活字版歌書の出版をして鈴屋門流の重鎮中村良顕の門人という ことを一枚看板にしながらも、伊丹から大阪船場あたりの、明治に なって他の地域からやって来た富裕な新しい階層に桐園社中門人を 増やしていった。また、それには郵便を活用し新聞など新時代の情 報伝達を利用したことも忘れてはならないことであろう。 弾琴緒の歌集﹁桐園詠草﹂について熊谷武至氏は﹁明治類題集篇﹂ (注8) 一﹁一、弾琴緒﹂のなかで次のように述ベている。 弾琴緒の詠をあつめた﹁桐園詠草﹂(明治四0・七桐園吟社版) 附録に﹃近世の類題歌集長入の歌数表﹄といふものがあつて、 それにょると、琴緒の歌は、佐佐木弘綱の﹁明治開化和歌集﹂ に二首、本居豊穎の﹁大八洲歌集﹂に四首、井上喜文の﹁東海 拾玉初編﹂十二首﹁同二編﹂に十二首同じく﹁新英集﹂に 十六首、琴緒自身の編の﹁類題秋草集﹂に二十五首、佐佐木弘 綱の﹁千代田歌集第一編﹂に二十八首、﹁同第二編﹂十五首 佐佐木信綱の﹁同三編﹂に七首、砂川雄健﹁響洋集﹂に十八首、 ニ、﹃桐園詠草﹄など三点の家集 2

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-拝郷蓮菌の﹁桑の若葉﹂に二首、税所敦子の﹁内外詠史歌集﹂ に一首、中村良顕の﹁猪名野摘草﹂に十二首、木山清名の﹁明 治佳調﹂に九首、丸山道太郎の﹁甲斐嶺集﹂に三十二首、島多 豆夫の﹁類題正龍集﹂に三十二首﹁京都邦光社歌集自初輯至 二十輯﹂に二十首、中垣内の摘草自一輯至七輯﹂二百首で、以 上合計三百四十七首である。この数は﹁桐園詠草﹂黒歌数五 百六十七首の半ば以上である。 これで明治中後期の類題歌集の流行と、旧派著名歌集の多くに琴 緒の和歌が採られていることがわかる。個人の歌集が編まれて出版 にまでことが運ばれるのは、旧派の場合は老人か故人の場合が多 かったが、﹃桐園詠草﹄は自他共に出版を許す還暦にあてて和装活 版という、桐園出版らしい装丁ではあるが、還暦などの晴れがまし く、零すべき歌集にしては地味な本であることに意外な思いもする が、男子が皆天折した弾琴緒には仕合せな晩年のめでたい上梓とい えるかもしれない。 弾琴緒歌集﹃桐園詠草﹄は明治四十年刊行の本のほかに、度々自 ら編んでは浄書したようで、三点の歌集をみることができるのは幸 運といぇよう。それぞれに(1)刊本﹁桐園詠草﹂﹁桐園詠草附録﹂ (2)﹁桐生園家集﹂・(3)﹁桐園家集﹂と名付け(表紙題簸また打 付書の書名をそのままとった)、三点の書誌などをあげる。 (活版一枚刷・贊厘では、﹁弾琴緒家集・桐園詠草一冊父翁の青 年時代より五十九歳迄の詠歌数千首の内より一節ある歌五百六十九 首を精撰して今回六十賀をする為めに出版す﹂とあり、所載和歌を 一覧して比較すると(2)﹁桐園歌集﹂・(3)﹁桐生園歌集﹂とは前 後する歌集としての関係は薄く、別本と位置づけるべき本である。 また、﹁桐園詠草附録﹂(明治四十年七月二十三日刊、編輯者弾愛子 発行者弾舜平印刷者椋橋藤郎)は﹁新刊歌書広止口﹂に﹁これは詠 草中の歌にて有職、故実、歴史古歌、古文晝等にょりて詠せら れたる作は其根拠を知らざる時は意味を解する事かたければ門人等 の質問より指示せられたる引書四十三部の古典籍を渉猟して要ある 歌及各種の文章を採録し何十丁オ何行と一々記載して本書と 照校する時は明瞭に作業をしる事を得ベし翁の歌体は萬葉及八代集 中の優美高尚なる姿を専として詠ぜられたれは彼新派の野娜俗調の 類にあらず幸に一読を給はらば幸甚ならむ(中略)弾舜平嗣子弾 愛子﹂とあり、﹁門人聞毒白﹂とした和歌注釈で別稿で述ベたく思う。 次に﹁桐園詠草﹂の弾愛子(琴緒の娘で弾家嗣子、婿養子を取った) の践文をあげる。 弾愛子践文 我父いにし年おもきやまひにわつ らひ給ひていとあやふかりしを月日 へてやうくおこたり今はたちゐも 心のま、になしたまふはいともく うれしうなむありけることしは 六十になり給ひていよ、すこやかに おはすれはこれをいはふ÷ろにてわ (1)刊本﹁桐園詠草﹂﹁桐園詠草附録﹂管蔵 ﹁桐園詠草﹂は﹁桐園詠草附録﹂の巻頭のなかで家集ではないと ことわっており、その編集に和歌の精選歌数などに整わぬことを 述ベているが、六十歳(還暦)を零した歌集で﹁新刊歌書広告﹂

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かきほとより月花のをりふしにょみ いて給ひし言の葉をあつめてすりまき となしをしヘ子たちはさらにもいはす したしき友かきにもおくらはやとこひ まをししかと色も香もなき桐の おち葉は塵つかのちりとなしはて よとてゆるしたまはさりしにおなし こ、ろの人にもす、められけれは やうくにうへなひ給ひぬかくて 詠草の歌ともを四季恋雑とつ いてわかつ吉田好信井口 敬久守広城田中秀穂なとのよたり のぬしたちもともにちからを へたまひて詠草の附録をさへ ものせられけれはよろこは しさのあまりにかくなむ 愛子しるす 次に﹁桐園詠草附録﹂の巻頭の、﹁ゆゑよし﹂の部分をあげる。 桐園詠草附録のゆゑよし 一師翁のわかきほとより詠せられし歌ともを。桐園詠草と名っけら れたるは。前栽に大きなる桐の木のある故なりとそ。こたひ摺巻に 物せらる、につきて。貴顕かたの題字。よに名たかき大人たちの序 文なとを乞い求めて。錦の上に花をそへむことをす、めまゐらせけ れと。翁のいはる、に。か、ることは今の世のならはしにて。誰も かれも物すめれと。こは詠草にして。家の集とは異なりとてゆるし 給はねは。さてやみぬ(以下略) 次に﹁桐園詠草﹂本文一丁表の巻頭三首をあげておく。 春部

社聖春

たきすてしうけらの煙うちかすみ八坂のみや居はるたちにけり 浦立春 和布苅せししほ路やいつこ春たてははやくもかすむ早鞆のうら 教1呈 わか菜つみ小松ひくこそみやひとの野山に遊ふはしめなるらめ (2)﹁桐生園家集﹂弾家蔵 ﹁桐生園家集﹂は弾家蔵の琴緒自筆の歌集であるが、惜しむらく 上巻のみの端本一冊のみで序文もあるが年記が無い。次に、本文一 丁表から裏の八首をあげる。 桐生園家集 弾王手緒詠 春歌 年内立春 うなひ子か待やこ、ろをなくさめて年の内にも春は来にけり 立春 春のくるあしたの原に立そめてことをへたつる薄霞哉 蓼生園初会兼題名所早春 春されはあまかとまやのけふりより霞もよほす塩かまの浦﹂ 早春氷 春されとなつみの川の河よとは氷とむすふ山陰にして 初春水

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-30-こほりゐしおほろのしみつぬるむめりうかへる月もうちけふりつ 初春川子日蓼生園初会兼題二首 さくら川氷ふきとく春風にまつ打いつる波のはつ花 春ことに子日の松をうつし植て千世の林の陰となさはや 朝けたくたみのかまとのけふりよりなにはの浦は霞初けり 他にも﹁中村氏月次会に題をさくりて花下送日わきも子か待ら んこともわすられて花の木陰にけふもくらしつ﹂などの和歌が見え て、中村良顕の朱点が付けられているので、明治三十三年九月十二 (注9) 日七十二歳で中村良顕が没する前にまとめられた歌集ということに なる。中村良顕は明治十五年に伊丹から大阪東区瓦町二丁目に転居 していた。次に弾琴緒序文をあげる。 弾琴緒序文 この夕雲のはたてをなかむれは雁もさひしく鳴渡るなり 今よりの÷ろうつくしやらこれならんほのえにそむる三日月の影 さもこそはゆくへをいそく旅ならめ雨まのそらに渡る 山はみなそめぬ梢もなきものをまち残るたきのしら糸 秋深くなる尾の衛のひとつ松かはらぬ色かふるしくれ哉 残りなくそめし木の葉をさそひ?秋吹おくる森の下風 うちつけに物そ悲しき荻の葉の露ふきみたる秋のはつ風 天の川月の小舟もうかひけりたなはたつめや 荻の葉の風のたえまをよすかにて置露深しよもきふの宿 深草のあれにしさとを来てみれは人待むしの音に立て、なく 老くのね覚のさとの名も高く夢を覚して衣打なり あま人のあとと、のふる聲たえて波路の千鳥またさわく也 ﹁弾氏/蔵書﹂・﹁琴/緒﹂・﹁弾琴/緒印﹂(朱印)の蔵書印があり、 はじめから捺されたもののようである。 (3)﹁桐園家集﹂管蔵 ﹁桐園家集﹂は、明治初年七月二十二日琴緒自序があり﹁桐その﹂ の号も、桐の樹があったことにちなむというが早くから称したこと がわかる。また、弾琴緒は晩年まで細字小字が得意で小一冊﹁桐園 家集﹂は銅版刷罫料紙は薄様で、緑色竜文鳳凰文の実に繊細な鞭 に書かれた歌集は明治の時代を感じさせずにはいない見事さであ る。全六十丁(巻頭に﹁日新斎﹂の朱印が捺された一丁、次に遊紙 一丁また部立ごとに遊紙一丁あり)、処々に朱筆添削が施されてい るが、これも琴緒の自筆のようである。歌数はΞ二六首に拾遺七首 巻末二首で合計三三五首を集録しているから歌集としては十分な体 裁といぇる。 次に、琴緒序文をあげる。 桐園家集序 春山の花にうくひすのさえつるあした 秋の池にくまなき月のうかへる 夕をりにふれときにつけてょみいてたる 、 夜をこめて人やこえけん朝霜に跡あらはなる野ヘの板はし さしふ水あらはとなひくうき草のねさしかたむるあつ氷 野辺はみな花のにしきとなりしよりはた織むしの聲そ聞ゆる あつさゆみ夕ゐる雲も消はて、月はしのほる高円の山 酒かすに影しつみてもふく風にやくすみまさる秋の夜の月 いつはりをた、すの森の宮ゐにも玉とあさむく月の影哉

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言葉の花よとしころしるし書きつるに つしかひと、ちの冊子となりぬおのれ し もとより学の才なくしてた、筆の行 ま、にかいしるしおきつるなれは風に乱る 、 野辺のかる萱のしとろもとろにみたれ たるふしのみおほからんめるをそか中より いさ、かゑりいて、桐園家集と名つけつる になんあはれ今より春山の鷲の さえつるあした秋の池にくまなき月の うかへる夕ヘ猶つきくうたひいてん 言葉の花は摘ためて拾遺に物し てんかし 明治はしめのとし七月二十日あまり 二日桐その、あるし弾琴緒しるす 次に巻頭三首をあげる。 桐園家集 春歌 年内立春 空はまたかすむともなきとしの内に春の名のみはたちわたりけり 早春霞 雪しろきをちの八重山た、ひとへかすむやはるのふもとなるなむ 初春待花 さきにほふぉもかけ見せて霞みけり花まつか枝にか、る白雪 緒二十二歳にあたるこの頃には歌人として世に立つつもりでいたの であり、和歌ヘの精進ぶりの一端が窺える。 弾琴緒は生涯に﹁詠歌数千首﹂と弾愛子はいうが、明治初年は琴 弾琴緒の﹃桐園歌集﹄の3点(1)刊本﹁桐園詠草﹂﹁桐園詠草 附録﹂・(2)﹁桐生園家集﹂・(3)﹁桐園家集﹂は、二十二歳の折の ものもあれば、還暦の折のものもあり、その折々の節目節目で編ま れたものであり、儿帳面な琴緒の偲ばれる律儀で真面目な伝統的歌 風旧派の歌集である。 そして、旧派歌人が踏んだ段階であるところの、家集を一旦はま とめて老師匠の添削を受け、自他ともに男満を持しての家集が門 人らの助力でめでたく上梓されるという順序を経たのは弾琴緒も旧 時代の歌人そのままであった。しかし、(1)刊本﹁桐園詠草﹂﹁桐 園詠草附録﹂と(3)﹁桐園家集﹂との四十年間の時代の流れこそ 生まれたばかりの新派歌人が厳しい批判に曝されながらも新時代の 文芸壇の中心になり、弾琴緒は旧派和歌宗匠として一目置かれなが らも新時代の文壇主流と見なされはしなくなっていた。歌集の上梓 にもかかわらず(1)刊本﹁桐園詠草﹂﹁桐園詠草附録﹂と名付け、 晴れがましい名家貴顕の序文も無く出されたのも時代の趨勢という のは寂しいかぎりであるが、旧派歌人の家集の末尾をかざるものと して零すべきものといぇよう。 その和歌には近世後期から幕末期に国学者や歌人たち鳶争した 古今調、萬葉調、新古今調も、明治の終りには、一まとめに伝統的 とみなす新派歌人には古い歌調でしかなかった。旧派歌人が御世と むすび

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-32-感じ詠んだ開化短歌など目新しい題詠が(1)﹁桐園詠草﹂﹁桐園詠 草黒﹂に多く採られているのは当然のことでもあろう。 本稿にも(1)﹁桐園詠草﹂﹁桐園詠草附録﹂の﹁新題部﹂から時 代の気分の伝わる三首引いて締め括りとしたい。﹁桐園詠草附録﹂ は﹁桐園詠草﹂の所載和歌の注がかかれている。和歌の技巧や需 など、また本歌取りについてはこの和歌が本歌といった注までも施 す配慮は旧派らしいが、和歌初心者に対する注が付いているのは還 暦の家集としてはやはり変わった本である。﹁桐園詠草附録﹂は旧 派歌人の宗匠が大阪の富裕な商人の旦那たちを門人に擁して社中経 営を図るという形態が時代の流れのなかで根本的に変貌したことを 教えてくれる。しかし、大正昭和となり和歌宗匠は短歌結社の先生 に姿を変え、文芸の場は船場から阪神芦屋西宮と場所を移し、船場 の座敷は芦屋西宮の洋館が新時代の学校教育を受けたモダンな青年 たちの集まる社交の場となっていき大阪の文化の伝統は連綿として 続くこととなった。 韓国政府改革金七丁ぎ 日の本の国のひかりに闇夜なすかけのはやしもや、しらみけり 朝鮮国は。我帝国より独立国として。世界各国に紹介したるを。 清国は猶属邦と称して。彼是干渉する所あるにょり。明治二十七 年五月頃より。日清交渉起り一時属邦の意味を削除せしより。大 鳥公使は。内治庶政の改革の各条綱目草案を出し。韓廷に於て実 行せしむる事となりぬ。往昔より。朝鮮国を鶏林と称す(一九丁

つくまりのまろひてあたる響にもかちてふ事はしるくそ有ける これは。西洋遊戯具にして。広き台の上に。紅白の玉をおき。 又一個の玉を。棒にて突き当るなり。玉のカチ。カチ。と響く 音にょりて。勝負の知る、なりとそ。カチの音に勝を含む(一 九丁裏) 生徒運動会金八丁表) 難波津を手習ふ子等か一つらにねりゆくあしはみたれさりけり 古今集序に。難波津浅香山のふた歌は。父母のようにて手習ふ 人の初にもしける﹂とあるにょり小学生徒に比す。下句は。運 動会の列を揃ヘ歩行ずる事にて。足と芦とをいひかけたるは。 難波津の照応なり。とそ (二0丁表) (付記)本稿をなすにあたって、団家菩提寺浄春寺、弾琴緒御子孫 の弾泰幸氏・弾俊幸氏をはじめとする方々には御協力いただいたこ と心より感謝申し上げます。

球突場金八丁ぎ

(注) 1 管宗次﹃上方歌壇人物誌﹄(平成五年九月一 0日刊、臨川書店) 一三八S 一三九頁。 西村天囚・磯野秋渚編﹃古今歌話﹄(明治三十九年十月十日刊、 発行柳原喜兵衛・篠崎純吉) 管宗次﹃京大坂の文人1続々1﹄(二00八年四月三0日刊、 和泉書院)﹁6伴林光平と種痘の和歌﹂九五S九八頁 木村三太郎﹃浪華の歌人﹄(昭和十八年四月三十日刊、全国 書房)﹁弾舜平﹂二九九S三0九頁。 2 3 4

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5 佐々木編編﹃伴林光平全集﹄(昭和十九年一月二十日刊、 湯川弘文社) 注(4)の﹁小野利教﹂三三頁。 管宗次﹃京大坂の文人1続々々1﹄(二0-0年二月六日刊、 和泉書院)﹁9、弾琴緒﹂一 0二S 一一西頁。 熊谷武至﹃類題和歌集私記東海学園国語国文叢書第四篇﹄ (昭和四十七年八月一日刊、馨武至発行)三云S 三一八 頁。 森繁夫編・中野荘次補訂﹃名家伝記資料集成﹄(昭和五十九 年二月一日刊、思文閣出版) 6 7 8 9

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