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弾琴緒歌集『桐園家集』について

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Academic year: 2021

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弾琴緒歌集『桐園家集』について

 

 

   はじめに 弾 琴 緒 の 和 歌 と 歌 集 に つ い て は、 拙 稿「 弾 琴 緒 歌 集『 桐 園 歌 集 』 三 点 に つ い て 」 ( 1) で 触 れ た が、 大 阪 で の 明 治 期 旧 派 歌 人 を 代 表 す る 存 在 で あ る 弾 琴 緒 の 社 中 と 歌 会 の 運 営 と も 深 く 関 わ っ て 歌 集 が 何 度も編まれた。晩年になって出版された 『桐園詠草』 が最もまとまっ た 歌 集 で あ る こ と を 拙 稿 で 明 ら か に し た が、 本 稿 で は 弾 琴 緒 が 活 動 の 中 心 を 伊 丹 か ら 大 阪 に 移 し た 明 治 十 二 年 前 後 の 弾 琴 緒 の 和 歌 を 知 ることができる『桐園家集』を詳細にみていきたい。 弾 琴 緒 は 弘 化 三 年 に 摂 津 伊 丹 に 生 ま れ 代 々 の 家 業 醤 油 醸 造 業 を 営 んでいたが、明治になると兵庫県戸籍課に奉職した。 (2) そ れ も 明 治 十 二 年 に は 大 阪 高 麗 橋 三 丁 目 に 転 居 し て「 弾 舜 平 」 の 名で法規関係、 「桐園」 の名で和歌関係の書籍出版に従事した。 (3) (4) 出版業の傍らに和歌教授にも励んだ。 『 桐 園 家 集 』 は 明 治 初 年 の 自 序 が あ り、 気 負 い に 溢 れ た 若 い 歌 人 の歌集であるが、 和歌と詞書を拾うと中村良顕 (5) 門人らしい雅品 あふれる和歌とともに伊丹大阪の富裕な商家の交際が浮かぶ。    一、 『桐園集』所収和歌 『 桐 園 家 集 』( 管 蔵 ) は 弾 琴 緒 自 筆 で、 朱 筆 も 諸 所 に み ら れ る が、 そ れ ら の 朱 筆 も 弾 琴 緒 筆 の よ う で あ る。 し か し、 未 定 稿 の 稿 本 状 態 の も の で は な い。 豆 本 に 仕 立 ら れ、 題 簽 も 琴 緒 自 筆 で 添 付 さ れ て、 全 六 十 丁、 料 紙 も 緑 色 竜 文 鳳 凰 文 の 銅 板 刷 罫 の 薄 様 を 用 い て、 明 治 流 行 の 文 人 趣 味 あ ふ れ た 本 で あ る。 弾 琴 緒 は 細 字 の 名 手 で 雛 道 具 の 流行した当時にはもてはやされた。 巻 頭 に 料 紙 印 刷 に あ た っ た「 日 新 斎 印 」 の 朱 印 が 一 カ 捺 さ れ て い る。 装 丁 製 本 も 凝 っ た も の で、 絹 布 の 表 紙、 は じ め に 遊 紙 一 枚 が と ら れ て い る の も、 巻 頭 題 字 の た め の 用 意 で あ ろ う。 白 紙 の ま ま 残 さ れ て い る。 題 字 は 本 文 が 揃 っ た あ と に 揮 毫 さ れ る の で、 空 欄 の ま ま 残された雅帖は多い。 晩 年 に 上 梓 さ れ た『 桐 園 詠 草 』 は、 「 弾 琴 緒 歌 集・ 桐 園 詠 草 一 冊   父 翁 の 青 年 時 代 よ り 五 十 九 歳 迄 の 詠 歌 数 千 首 の 内 よ り 一 節 あ る 歌 五百六十九首を精撰」 (6) と「新刊歌書広告」に記しているが、 『桐 園歌集』は三百二十八首を所収としている。 部立された歌集には弾琴緒自序が備わる。つぎにあげる。 ― 34 ―

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   桐園家集序    春山の花にうくひすのさえつるあした    秋の池にくまなき月のうかへる    夕をりにふれときにつけてよみいてたる    言葉の花よとしころしるし書きつるに    いつしかひとゝちの冊子となりぬおのれ    もとより学の才なくしてたゝ筆の行    まゝにかいしるしおきつるなれは風に乱るゝ    野辺のかる萱のしとろもとろにみたれ    たるふしのみおほからんめるをそか中より    いさゝかゑりいてゝ桐園家集と名つけつる    になんあはれ今より春山の鶯の    さえつるあした秋の池にくまなき月の    うかへる夕へ猶つきくうたひいてん    言葉の花は摘ためて拾遺に物し    てんかし     明治はしめのとし七月二十日あまり     二日桐そのゝあるし     弾琴緒しるす 明 治 初 年 は 弾 琴 緒 二 十 二 歳 に あ た り、 明 治 の 青 年 の 和 歌 集 と し て も 興 味 深 い が、 気 負 っ た 装 丁 に は 経 済 的 に 恵 ま れ た 伊 丹 の 商 家 旦 那 衆の遊芸が形をとると、どんな有様であったのかが窺える。 『 桐 園 家 集 』 は 三 百 二 十 八 首( 拾 遺 と 補 遺 が 各 々 の 部 立 の あ と に 数首ずつ添う) 、部立の呼称は 「春歌」 「夏歌」 「秋歌」 「冬歌」 「恋歌」 「 雑 歌 」 と し て「 春 部 」「 夏 部 」 な ど と は よ ば ず、 伝 統 的 な 呼 称 を わ ざと使っていないが、以後は用いてはいないようである。 つぎに、各部立のなかから秀歌とおぼしきものをあげる。 春歌   年内立春 空はかすむともなきとしの内に春の名のみはたちわたりけり   早春霞 雪しろきをちの八重山たゝひとへかすむやはるのふもとなるなむ   花暦といふ題に さきいてん野山のはなのあらましを日数さたむる花こよみかな   竹間鶯 くれ竹の枝うつりするうくひすの声にも清きふしはありけり   岡霞 松雪にむかひのをかの朝ほらけひとむらしろくたつ霞かな   野残雪 はしたかのすゝ菜さくへく成にけりうたの御野の雪のむら消   山家梅 霞めるもうきよの外の月かけにまつの戸もれて梅かをるなり   窓下梅 文机の筆のはやしも香るまてまなひのまとの梅咲にけり   霞中柳 柳糸それとも思はすかすみけりした行水のおとはかりして   花洛春月 分くらす花見車のかへるさを門まて出くる春の夜の月   暁春雨 柳原ふかくかすみておほろ夜の名残しつけき雨そゝきかな ― 35 ―

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  雉子 小雨ふるかた野の花の影くもり霞にぬれてきゝすなくなり   暮山花 霞みつゝ暮る外山の花くもり月より花はおほろなりけり   人の花を手折をゝしみて こゝろなく花を手折てゆく人は風にさきたつこゝちなりけり   風前惜花 ともすれはちりゆくかたにこゝろさへさそわれやすき花のした風   夕蛙 桜ちる川そひに小田の夕月夜霞の庵に蛙なくなり   春魚 よしの川かは瀬をのほる若鮎も花をかつきて春をしるらん 「春歌」七十三首、補遺六首あげている。 夏歌   山家首夏 ほとゝきすはつねいつかと山里は人にとはれて夏をしるかな   更衣 夏衣またみにさむきあさ風にまたもかさぬる花染の袖   里卯花 卯つ木さくかつらの里を夜々とへは月の中なるすみ家なりけり   雨中卯花 ほとゝきす待夜の月は影きえてうの花かきはあめそゝくなり   里郭公 風かをるあやめの里の月影にねもはえてなけ山ほとゝきす   雨後早苗 あめはれて浮田にうつる白雲の色かき分けて早苗とるなり   草端蛍 しのすゝきしのひかねたり秋風を穂にあらはしてとふほたるかな   蓮 はちす葉の露より露にかけ清き月をうつして夕風そふく   林頭蝉 なく蝉の声のはやしと成にけり水面の里のまつのひと村   納涼 風わたる汀のあしのかたよりに秋をくるなみのすゝしさ   松下泉 松垣のひまもる清水すゝしきは清たきに秋もなかれいつらん   六月祓 みそき川ぬさの末はくれ初て波の程しろく夕風そふく 「夏歌」三十八首(補遺一首が附い加されている。 ) 秋歌   立秋 ちきそむる桐のひと葉は秋風の木の葉をさそふはしめなりけり   七夕別 天の川わかるゝなみのうき霧にまたひとゝせたちへたてつゝ   雨中荻 はきの葉の下葉みたるゝむら雨に風の音さへしめる夜半かな   月前萩 小はぎ原小枝の露もいろめきて花の数そふ夕つく夜かな ― 36 ―

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  薄 見渡せは千里をかけて風しろし尾花につゝく真野のうら波   岡紅葉 くれなゐのやしほの岡は紅葉ゝの色つく秋の夕にこそ有けれ   松間紅葉 立ならふ松をあらしのやとりともしらて紅葉の色つくすらん   暮秋 さき初しまかきの菊の露の間に千とせの秋はくれにけり   暮秋虫 有明の月にならひてむしの音も夜なゝほそる秋のくれかな   山鹿 紅葉せぬ常盤の山になく鹿は我みひとつに秋をしるらん   秋動物 露分てむしゑらひする宮人に尾花か袖もたちまちりつゝ 「秋歌」七十二首、補遺三首を付加する。 「冬歌」   田家初冬 刈残す門田のいねのほのかにもはつ霜見えて冬は来にけり   初冬氷 薄氷むすひそめたる山の井に冬のはしめをくみてしる哉   森時雨 木からしにかしの実おつる夕より森の下道しくれうそめたり   夜時雨 浮雲のたえ間もとめてもる月のかなたとなたに降しくれ哉   暮山時雨 夕日さす雲母の坂のつゝらをりなかはくれて時雨降なり   冬の歌よみける中に かしの実のおつる木かけに分くれてぬれぬしくれのおとを聞かな   落葉 宮城野の木の下かけを分ゆけはおつる木の葉も雨にまされり   宮前落葉 くまなくもさし入まとの月影にかけさへみえてちる木の葉かな   残菊 冬枯しまかきの菊のきせ綿そ風のかけたる木の葉なりけり   朝寒草 岩代の松かけさむき朝しもにあらしをむすふいとすゝき哉   木枯 紅葉せし月のかつらの一本をさそひのこして木からしそふく   をし鳥のねむるかたに 薄氷日かけにとくる朝川に夢をなかしてをしそねむれる   雪 時の間に山とこそなれ塵塚の落葉の上につもるしら雪   関路雪 関の戸はあらしにとちてあしからの雪の八重山ゆく人もなし   霰 さひしくも人あられ行やま里はあられのみこそおとつれにけれ   雪中客来 月花のをりもとはれし柴の戸を雪にたゝくは都人かな   炭窯煙 ― 37 ―

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遠近に炭やく峰の薄けむり春にさきたつ霞ならまし 「 冬 歌 」 四 十 九 首、 一 〇 首 の 附 加 が あ る。 そ の 附 加 一 〇 首 の な か に 次のような和歌がある。   東京勝景ノ内東叡山木枯 木からしになくねみたるゝむら烏雪の上野やねくらなるらん 「恋歌」   忍恋 一すちにおもひかけひのおとし水かよふこゝろを世にはもらさし   聞恋 ほのかにもかたらふ声はもらしてもすかたは見せぬほとゝきすかな   顕恋 ふみ分てかへりし今朝のしら雲にわか通路はあらはれにけり   待恋 我も又こよひは人をまたせつゝこぬ夜のうさもおもひしらさん   占恋 お も ひ わ ひ 千 ま た に い て し と ふ う ら は こ ゝ ろ つ と ひ の は し め な り け り   思憐女恋 かひまみしとなりのそのゝ深み草ふかくもおもふこゝろしりきや   年頃いひよりける女の門をとをり侍りつるに   ほのかにも琴引そのおとすれは しめやかにうたふしらへを聞しよりことの為にも君そこひしき   行末かけて契りし女のこゝろかはりけれは   うらみをいひやりける誠なき事のみ消息にて   いひおこせけれは うたかひの心の雲のたちそひぬうはの空なる風のかへしに   いかてとおもふ女のこと人に   あふよしきゝて おもひきやしら玉つはき八千代迄かけてちきりし文あらんとは   寄木恋 時雨にもつれなうきける椎柴のしひても人にあはんとそおもふ   寄硯墨恋 行末をまつのけふりの千代かけて硯の海のふかくちきらん 「恋歌」二十八首。 「雑歌」   天 入し日のいつるを見れはかきりなくおもひし空もかきりありけり   海上眺望 沖遠く行かふ舟の帆かけのみ波にのこしてたつかもめかな   古戦場    四條縄手   富士川 朝風をかへすあらしも吹たゆみ縄手の松にしくれふるなり   窓燈 夜もすから書読むまとの燈火にくらき我身のひかりともなれ   秋旅 秋よりやゝ夜寒の里のくさまくら露よりもろきゆめのみたれや   淡路の国にまかりし時   岩屋に舟とまりして ふなはたをうつしら波のしなひにうきねのゆめそみたれかちなる ― 38 ―

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  龍 せゝらきかひそめるたつも末つひに雲井にのほるこゝろやはなき   巌 よる波は雪とみたれてしま山のあらしをくたく磯のいはむら   艶書 薄色の桜かさねのちらしかきたかかきすてし夢の話そ   松か枝かける画に ちりぬれはこふれとしるしなき時にみてをしのはん花のひと枝   和歌 立田山若葉のにしきさなからに言葉のあやとなすよしもかな   詠史 あし原の国のみたれもしはらくはかりてをさめし鎌くらの里   源頼朝 かくれつるうつほのくち木うきやみの花と世にさくねさしなりけむ   真田幸村 朽ぬ名も世にしたておきて難波江のあらふも波にふみをつくしけむ   明治十三年五月六日中村良臣大人の三十年の   霊祭して広岡別荘に人々つとひて 橘のかをる夜ころそしのはしきむかしの人の夢にみえつゝ   我祖先の二百年の霊祭すとて いさけふの手向にをらん菊の花千年の後もあとをとふへく   積玉園のあるしの十一月はかり   みまかられし時 川そひのひと本柳ちりはてしかへらぬ水にさしもなくなる   小西業広の母の六十の賀に   寄松祝 老の波こえぬかきりを契りにてさかゆく千代の末のまつ山   寄国祝 松しまやえそか千島のはてまてもひらけてひろき君か御代かな 「 雑 歌 」 六 十 九 首 所 収。 「 通 計 二 百 二 十 八 首 」 と し た あ と に、 「 拾 遺 」 七首と二首の添書がある。    二、 『桐園家集』成立年次 本 稿 で は 弾 琴 緒 自 序 が「 明 治 は し め の と し 七 月 二 十 日 あ ま り 二 日 桐 そ の ゝ あ る し   弾 琴 緒 し る す 」 と あ る た め、 『 桐 園 家 集 』 は、 明 治初年成立としてきたが、 先にあげたように 「雑歌」 のなかには、 「明 治 十 三 年 五 月 六 日 中 村 良 臣 大 人 の 三 十 年 の 霊 祭 と て 広 岡 別 荘 に 人 々 つ と ひ て 」 と い う 詞 書 の 和 歌 が あ り、 明 治 一 〇 年 を 過 ぎ て か ら も 和 歌が補入されていることがわかる。 ま た、 「 冬 歌 」 の な か に「 東 京 勝 景 ノ 内 東 叡 山 木 枯 」 と 詞 書 が あ る の は、 三 世 広 重 の 木 版 画 を 指 し て い る と す る な ら 明 治 十 三 ~ 十 五 年 頃 の も の で あ る の で、 風 景 画 と し て「 冬 歌 」 の 部 立 と し て い れ て い る が、 文 明 開 化 期 の「 赤 絵 」 木 版 版 画 の 東 京 風 景 が 題 詠 に と ら れ て い る の は 題 詠 の 広 が り の 一 つ と し て、 こ の 時 期 の み の こ と で あ ろ う。 歌 枕 の 名 所 が か た ち を 変 え て 新 時 代 の 実 所 が 歌 枕 と し て「 雪 の 上 野 」 に「 烏 」 の 取 り 合 わ せ、 流 行 の 版 画 の 風 景 画 の 世 界 を 取 り 込 む工夫ではあるが、和歌自体には目新たらしささえ感じられない。 木こからしになくねみたるゝむら烏雪の上野やねくらなるらん の 和 歌 に は、 詞 書 が な け れ ば 極 て 平 穏 無 事 な 作 で む し ろ 詞 書 の ほ う ― 39 ―

(7)

に注意がひかれる。 和 歌 の 出 来 は 至 極 お と な し く 開 化 期 の 多 く の 旧 派 歌 人 と 旧 時 代 か ら の 画 家 た ち は 目 新 し い 題 材 に 手 を つ け る こ と に 終 始 し て 処 理 の 方 法 は 変 え よ う と し な い。 新 規 な 題 詠 も、 そ の 枠 を 超 え る こ と は で き ていない。 弾 琴 緒 は 商 業 活 動 の 盛 ん な 中 に あ っ て、 役 人 も 勤 め て 新 時 代 の 空 気を吸うことのできる年齢でもあった。しかし、 指導を仰ぐ宗匠は、 江 戸 時 代 後 期 の 本 居 宣 長 門 の 学 統( 鈴 屋 ) を 継 ぐ と い う こ と に こ そ 存 在 意 義 を 感 じ て い た 歌 人 た ち で あ っ た か ら、 創 作 さ れ る 和 歌 に 大 胆な革新はありえないことであった。 よ っ て、 『 桐 園 家 集 』 は 明 治 初 年 か ら 明 治 十 五 年 ご ろ の 文 明 開 化 期の弾琴緒の和歌実作がまとめられた歌集ということになろう。    三、詞書にみる弾琴緒   「 雑 歌 」 に 載 る 小 西 家 に 関 わ る 次 の 和 歌 は、 伊 丹 の「 白 雪 」 の 銘 柄 で 知 ら れ る 小 西 酒 造 の 繁 栄 に 支 え ら れ た 風 流 韻 事 の 和 歌 が 趣 味 の 道 楽 と し て 軽 ん じ ら れ る こ と は な く、 同 業 者 間 の 社 交 の 道 具 と し て 重んじられたことをも示しているが、次にあげる。   小西業広の母の七十の賀に   寄松祝 老の波こえぬかきりを契りにてさかゆく千代の末のまつ山 旧 派 和 歌 の 守 ら れ ね ば な ら ぬ こ と は、 際 立 つ 個 性 の 消 去 で あ る か ら、 和 歌 会 で も 社 中 の 誰 の 作 か、 容 易 に は 推 量 り 難 い。 そ う し た 和 歌を苦も無く詠む稽古に自己修練があると考えられた。 小 西 家、 特 に 小 西 業 広 は 中 村 良 顕 の 熱 心 な 和 歌 の 弟 子 で 社 中 歌 集 『 稲 野 の 摘 草 』 ( 7) の 出 版 に 多 く の 費 用 を 出 資 し た よ う で あ る。 『 稲 野 の 摘 草 』 は、 伊 丹 と 灘 と の 酒 造 業 者 仲 間 が、 そ の 中 心 で、 伊 丹 で は 俳 諧 の 結 社 の グ ル ー プ と 懐 徳 堂 の 漢 学 漢 詩 結 社 の グ ル ー プ と 鈴 屋 末 葉 の 和 歌 結 社 グ ル ー プ と あ り、 そ の グ ル ー プ に 和 漢 を 超 え て、 親 しむ者も多い。また、酒席を嫌い茶会を同時に持った。 漢 詩 結 社 は 煎 茶 席、 和 歌 結 社 は 抹 茶 席 と い う こ と も 一 般 的 で あ っ たが、席を設ける主人の好みにあわせることも多かった。 和 歌 の 長 い 詞 書 は、 そ の 顛 末 も 弾 琴 緒 の 創 作 で あ る の か、 或 い は 事実の身辺の事情から詠まれたのか、 和歌の常としての「遊び」か、 「 恋 歌 」 に 恨 む 和 歌 や 詞 書 の 物 語 風 な も の が あ っ て、 弾 琴 緒 と い う 人の嗜好性格も浮かぶ。次あげる。   行末かけて契りし女のこゝろかはりけれはうらみを   いひやりけるに誠なき事のみ消息にていひおこせけれは うたかひの心の雲もたちそひぬうはの空なる風のかへしに ま た、 次 の 和 歌 も、 ほ の か に な に か し ら あ っ た 思 い の 一 節 が、 弾 琴緒に詠ませた和歌かと、いかにも思わせぶりである。   いかてとおもふ女のこと人にあふよしきゝて おもひきやしら玉つはき八千代迄かけてちきりし文あらんとは    むすびに 弾 琴 緒 は 和 歌 多 作 と は 言 え な い よ う で あ る が、 筆 ま め な 人 物 で、 編 集 分 類 に 熱 心 な 人 で あ っ た た め に、 多 く の 歌 集 の 編 集 に あ た り、 自 分 の 歌 集 も 何 度 も 編 ん で い る。 先 に あ げ た 論 考 に 弾 琴 緒 歌 集 の 三 ― 40 ―

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種 を 比 較 し た が、 こ れ ら に は 全 く 和 歌 の 重 複 が な い。 こ れ は 和 歌 で は、 す こ し 珍 し い こ と で あ る。 弾 琴 緒 と い う 歌 人 の 個 性 と い っ て し ま え ば そ れ ま で の こ と か と も い え る が、 こ と さ ら 個 性 を 消 し て ゆ く 旧 派 歌 人 の 和 歌 と い う も の の 読 み ぶ り で い う と、 一 首 一 首 が 際 立 つ 個性を消した結果と言えば、当然の経緯かもしれない。     注 (1) 管宗次 「弾琴緒歌集 『桐園歌集』 三種について」 (「武庫川国文」 七十四 号、平成二十二年十一月十日刊) (2) 木村三太郎著『浪華の歌人』 (昭和十八年四月三〇日刊、 全国書房) 「弾 舜平」二九九~三〇九頁。 管宗次著『京大坂の文人―続々々―』 (二〇一〇年二月日刊) 「9、 弾琴 緒」一二五~一二八頁) ) (3) (2)に同じ。 「弾琴緒―明治期旧派歌人による出版事業―」 ( 4) 管 宗 次「 『 桐 園 詠 草 附 録 』 ― 明 治 期 旧 派 歌 人 の 歌 書 」( 「 武 庫 川 国 文 」 七十五号、平成二十三年十一月十日刊) (5) 森繁夫編 ・ 中野荘次補訂 『名家伝記資料集成』 )(昭和五十九年二月一日刊、 思文閣出版) ( 6) 管 宗 次「 弾 琴 緒『 再 撰   類 題 秋 草 集   初 編 』 に つ い て 」( 「 武 庫 川 女 子 大学生活美学研究所」二〇号、2010年十一月十六日刊) (7) (6)に同じ。    (付記)本稿をなすにあたって、 弾家菩提寺浄春寺、 弾琴緒御子孫の弾泰平氏、 弾 俊 幸 氏、 弾 昌 子 氏 を は じ め と す る 方 々 に は 御 協 力 い た だ い た こ と を 心 よ り 感謝申し上げます。          (すが・しゅうじ   本学教授) ― 41 ―

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