教育とは何か
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(2) 教育とは何か. ". 教育 が どこまで人為 に任 さるべ きで あ るか とい う問題 は ,教 育 の 構 造 に関. わ る重 要 問題 で あ る。 これ には 最後 に また触 れ るこ とと して,教 育 の 本 質 を 明 らか にす るため に,教 育 の 基 本的 諸特徴 を見 いだ して吟味 して い きた い 。. I. 教育 の 不 可避 性. 教育 は どの個 人 に対 しても,い つ でもどこで も行なわれてい る。 われわれ は生 きてい る限 り,だ れひとりとして教育 か ら免れるこ とがで きない。 あ ら ゆ る人間 に とって教育は空気 の よ うに遍 在的であ り,生 理 の よ うに不可避的 である。 それは心臓 の鼓動 の よ うなもので,そ れが止 まるときは本人 が死 ぬ ときで ある。だれで も生 きて いる限 り,自 己 に生起す る教育 を避 けることは で きない。 「狼少 人間は単 に学校 においてだけでな く,家 庭 で も会社で も教育 される。 年」 の よ うに人里 か ら離 れ,野 獣 の群 の中で暮 らしていて も教育 は進行す る。 ぃや それ どころか,自 己以外 には人間 も野獣 もい ない ところへ放置 された場 合 です ら,人 間は生 きてい る限 り,自 己 に対 して行 なわれる教育 を停止 させ ることはで きない。なぜ なら,教 育 とは個 人の「1生 向」 とか「行動体制」 と かいわれる心的状態 の形成 もしくは変様 をもた らす作用 だか らである。 教育 とは何 かとい うこと を最 も一般的 に規定す るなら,上 の よ うになると 私 は考 えぎるをえない。 そ してこの よ うに考 えるとい うこ とは,「 教 育 」 を 「学習」 によって規定す ることで もある。 学習 と教育 とは同一ではないが,学 習 を生ず る作用 はすべ て教育 である。 学習 が どの よ うに して生 じよ うとも,と にか く学習 が生 じて いれば,そ こに 教育 があるとしなければならない。学習は個 人 ご とに生ず るか ら,教 育 も個 人 ごとに行 なわれる。 「学習」 とは,個 人 の性 向 もしくは行動体制 の形成 もし くは変様 の ことである。 それ を生ぜ じめる作用はその個 人の教育 である。 こ うい う個人個人 の教育 の他 にはいかなる形の教 育 もありえない。逆 にいかな る種類 の教育 も上 の個人個人 の教育 に還元 される。教育 における効果 として 学習 は生ず るが,概 念的 には「学習」 か ら「教育」 を規定すべ きだと私 は考.
(3) 牧. 野. 宇 一郎. 91. えるの で ある。 学 習 が生 じなければ教育 が行 な われた とは い えず ,学 習 が 生 じれば必 ず教 育 が行 な われた とい えるもの とす る。 この よ うに「教育 」 を「学 習 」 によ っ て規定 し,教 育 とは個 人 に学 習 を生 ぜ じめ る作 用 で あ るとす るな らば ,そ う い う教育 は さきにみ た よ うな遍 在的 で不可避 的 な教育 で あ る こ とが わか る。 なぜ な ら学 習 は どの個 人 に とって も,彼 が生 きて い る限 り,い つ で も生 じて い るはず だか らで あ る。 学 習 をもた らす作 用 とい う教育規定 ほ ど,「 教育 」 の定義 と して簡潔 な もの は な い で あ ろ う。 しか しその た め に却 って,そ れは最 も包括 的 な内容 をも っ た規定 だ ともい えるで あろ う。 それば か りか,そ れは大変厳 格 な規定 で もあ る。 なぜ な ら教育 は絶 えず効 果 た る学 習 に 照 ら して評 価 され るこ と に な るか らで あ る。 「 教育 」 と聞 くと学校教育 しか思 い 浮 かべ な い 人 が 少 な くな いか も しれ な い。 「教育 の あ る人 」 とは学校教育 をた くさん受 けた人 の こ とだ と考 え られや す い。進 学 す る者 は続 けて教育 を受 け るが,就 職 す る者 は教育 か ら離 れて い くの だ と解 されやす い。 これ らは教育 を学校教育 と同一視 す る偏 見 の 表 明 に 他 な らな い。進 学 して も怠 けて勉 強 しな い学生 と,就 職 して職 務 に励 む青 年 と どちらがよ り正 しく教育 され つつ あ るだ ろ うか。 とい って も私 は,勉 強 しな い進 学 者 は 教育 され な い とい うの では な い。彼 も何 か を学 習す る。 た とえば怠 け方 ,遊 び方 等 を学 習す る。進 学 して も就職 して も,職 務 や勉 学 に励 も うと怠 け よ うと,そ れ ぞれ の 行動 に応 じて一定 の 性 向 や習慣 の 形 成 な い し変 様 が 行 な われ る。 常 に何 らかの 学 習 をす る とい う こ とは ,本 人 が避 け よ うと して も避 け られ な い こ とで あ る。 それは在学 か 在 職 か と い うこ ととは関係 が な い。 「教育 の機 会 均等」 とい われ ると きの 「教育 」 も,学 校教育 だけ を意味 す る必要 は な いの では な か ろ うか。 い わんや教育 の 機 会 均等 の拡 大 は義務教育 期 間 の延 長 によ ってのみ達 せ られ るの だ と考 え られ ることがあ ると した ら. ,. それ は教育 と学 校教育 を混同 す る以上 に狭陰 な見解 とせ ぎる を えな い で あ ろ.
(4) 92. 教育とは何か. う。小 0中 学校 の教師 が,「 私 の ところでは道徳教育 は行 なってお りません」 とい った としよ う。子 どもの道徳 を何 らかの方向 に,つ まり善の方向 にで あ れ悪 の方向 にであれ形成す るとい う道徳教育 は,人 々が一緒 に生活 している ところでは どこで も行なわれてい るのだから,こ の 見地 か らみ ると,上 の発 言 は奇妙 に感ぜ られるのである。 もちろんそれは,自 分の学校 では文部 省指 定 の「道徳教育 」 とい う指導 は行 なってい ない とい う意味 だ と考 えられよう。 しか しそれは,何 らかの道徳教育 はそれに もかかわ らず いつ も行なわれて い るのだ とい う意識 をもっていた ら出ては こなかった発言 であろ う。 制度的な教育は どんなに拡 大 して も教育 のすべ て を尽 くす こ とはできない。 「生涯教育」 といわれるもの をもって して もそ うであろ う。藤原英夫氏 によ れば,「 生涯教育 」 とは,「 万人 が その生涯 にわた って適時適期 に各 自に必要 な 学習 を して い くの を適切 に助 けるための,教 育諸事業の 開発 と構造化」 の こ とである。続けての氏 の説明 によれば,「 それは……『全教育 構造 の再編成』 …… をしてでも『万人の生涯学習 の保障』 ……・をしよ うとす る社 会的営為で あ り,『 万人 に生涯 にわたって教育 を受 ける権利 を保障』 す るよ うな教育体制 づ くりのはた らきである。」「生涯教育」は制度的 な営 為 と考 えられているとい えよ う。私は この よ うな定義は,よ く考えられた ものだ と思 う。 これ までよ りも,あ るいは これか らは じめて,振 興 しようとす る生涯教育 は,藤 原氏 の 定義 にみ られ るよ うなもので なければ無意味 であろ うも とい うの も,私 が 「教 育」 の語で指 示 しよ うとしてい るものは, どの個 人 に対 して もそれの生涯 を 通 じて いつ で もどこで も休みな く行 なわれている教育であって,そ の意味 で その まま生涯教育 とみなされてもよい ものだか らである。すなわちこ うい う 生涯教育 なら,改 めて振興す る必要 はないか らである。 あるがままの教育 を見損 わ しめ るもう一つの錯誤 は,教 育 はよい ものだ と い う考 えである。教育はよい もの であって欲 しいが,現 実 には必ず しもそ う は いかず,わ るい教育 も存在す る。 とい うことは,「 教育」 は一般的 にはよい. 1)藤 原英夫『社会教育体制 と生涯教育』,共 同出版 ,昭 和49年 ,120頁 。.
(5) 牧 野 宇一郎. 93. もの だ ともわ る い もの だ とも規定 されては な らな い と い うこ とで あ る。 しか し,「 教育 」 の 語 は 称揚 の 意味 を帯 びて い るよ うに 使 われ るこ とが多 い。「教育 があ る」とか「 教育 を受 けた」とかい えば ,そ れは よ い こと,結 構 な ことだ とほめ称 えるニ ュー ア ンス をもつ と解 され るの が ふつ うで あろう。「教 育権 の確保 」 とか「教育 の振 興 」 とかは それ 自体 で よいこととみ られ て い る。 私 は 教育 の 重 要性 を認 め る。教育 によ るこ とな しには個 人 の 生長や幸福 も ,. 社 会 の 発展 や更 新 も期 待 され えな い で あ ろ う。 教育 によ ることな しには 科学 も芸術 も文 明 も発展 しえ な か ったで あろ うし,今 後 も発展 しえな いで あろ う。 しか しこれは 教育 が それ 自体 で,あ るいは どん な教育 で あ って も,よ い もの だ とい うこ とでは な い。労働 が重要 だか らとい って, どん な労働 も無 条件 に よ い もの だ と い うこ とには な らな い。立法 や司法 が大切 だか らとい って, ど ん な立法 や司法 で もよ い もの だ と い うこ とには な らな い。教育 の 重 要1生 は そ の まま教育 の よ さとは な らな い。 教育 がす べ て よ い もの であ るわけでは な い こ と を証 明す るには,わ るい教 育 が現 実 在す るこ と を示 せ ば 十分 で あ る。 わ る い教育 が あ るこ とは わ るい人 間 がい るこ とによ って わか る。 なぜ な らわ る い 人間 とは わ るい性 向 をも った 人 間 で あ り,わ るい性 向 は わ るい教育 によ って 生 じた と しなければ な らな い か らで あ る。 それ ともわ るい性 向 , した が って わ る い 人 間は存 在 しない とか. ,. 存 在 して もそれは教育 の 結 果 では な い とか考 えることがで きるで あろ うか。 私 には それは で きな い。善悪 の 基 準 が 人 によ って異 な って も,い や異 なれば な お さらの こ と,す べ ての 教育 が よ い もの だ とは い えな い で あ ろ う。 は っ き りい えば1国 人 の 善悪 は ,専 らその 時 点 までの そ の個 人 に対す る教育 の 結 果 で あ って,わ る い人間 の 数 だ け わ るい教育 が な されたの で あ る。善 と 悪 を どの よ うに定義 しよ うとも,よ い人 間 とわ る い人 間 が この 世 に存 在す る こ と を認 め る人 は ,教 育 によい もの とわ るい もの とが あ るこ と をも認 め なけ れば な らな い。 つ ま り教育 その ものは,よ い ともわ る い ともい えな い もの な の で あ る。 だ か ら「 教育 」 の 語 は 称揚 的意味 をもた な い言葉 と して扱 われ る 必要 が あ ると思 う。.
(6) 94. 教育とはf可 か. J.デ ュー イは晩年 の教育学書 『経験 と教育』 の最後 で,「 基礎的な問いは. ,. 修飾 す るいかなる形容詞 をも接頭辞 として もたない教育 の本性 に関 わる。 わ れわれが欲求 し,必 要 とす るのは純粋で単純 な教育 である……」 とのべ てい る。 ここには,教 育 は本来 よい もの,望 ましい ものだ, とい う前提 が うかが われる。彼は ,「 正 しい」 とか「 よい」 とか「理 想的」 とかい う修飾語 を何 ら 冠 しないで,た だ「 教育」 とい っただけで,望 ま しい教育 を表わす ことに し た い とい ってい るわけである。彼は ここでは, 自分 が理想的 と考 える教育 の 姿 を,教 育 の本来のあ り方 だ として いる。つ ま り生長 としての教育,経 験 の 連続的再構 成 としての教育 を,単 に「教育」 の語で表 わす ことにしたいとい って いるのである。 彼 の『民主主義 と教育』 には,他 種 の教育観念 を批判す る際の見 出 しとし て,「 準備 としての教育」,「 展開 としての教育」 ,「 形成 としての教育」 などの言 葉 が使 われている。一 見 これ らの教育 がとにか く教育 として認 め られて いるか の ご とく見 えるであろ うが,実 はそ うではない。 とい うの も,こ れ らの見出 しは,そ れぞれ「準備 としての教育 とい う考 え方」,「 展 開としての教育 とい う ・といった文言 を省署 した ものだ と解 され るか らである。すなわち 考 え方」 ¨ ,. さまざまな教育 があることが認 め られてい るのではな くて, さまざまな教育 の 考 え方 があることが認 め られて い るにす ぎないので ある。 この ことは本文 を読 めば納 得 され るであろ うが,次 の一文で も了解で きるであろ う。 「これ らの 章 で 唱 道 された教育 の観 念 は,形 式的 に要約 す ると経験 の連 続的再構 成 とい う観念 となる。 これはある遠 い将来へ の準備 としての,展 開. としての,外 面的形成としての,そ して過去の反復としての教育 〔という観 内引用者 念〕からはっきりと区別される一つの観念である:(〔 〕 )」. だ がデ ュ ー イだ けで な くさま ざまな人 々が, 自 ら理 想 的 と考 える教育 を単 に「 教育 」 とよぶ な らば ,「 教育 」 の 語 は一 義性 を失 うに ちがい な い。教育. JOhn Dewey,Eχpθ γjθ πcc a材. 1938,p. 116.. ]acarjο. ",New York:The Macmillan Co". J.Dewey, Deπ οcγ αcy αtt Edacα ιjο η,Ne" yOγ λf 1916,p. 93。. イαcπ jJ′ απCο 。 Tん θハ ,.
(7) 95. 牧 野 宇一郎. の 理 想 を着 実 に構 想 す るため に も,理 想 の い かん にかか わ らず だれ もが「 教 育 」 と認 めねばならない もの をつ きとめねばならない。私 はデュー イに もそ うい 『 う最 も一般 的 な「教育 」 の 規定 があ るはず だ と考 えて調 べ てみ たの であった それ は彼 によれば ,教 育 は性 向 の 形 成 な い し変 様 だ とい うことで あ った。 本 稿 で の 「教 育 」 の 定義 は これ に示 唆 された もの で あ る。 私 は この 考 え を,J.― J.ル ソーの 『 エ ミー ル』 を吟味 す る こ とによって. ,. い っ そ う強 め るこ とになった。 「 自然 か らの教 育 」 とよば れ る個 人 の 内部 か ら の発 展 に,「 諸物 か らの教育 」 と「人 々 か らの教 育 」 とが一 致 す るときにその 個 人 の よい教育 が成立 し,一 致 しな い と きには わ るい教育 が行 なわれ るとい う。 これは 『 エ ミー ル』 の ほ とん ど冒頭 に書 かれていて,よ く知 られて い る。 そ して この 書 の 全体 は ,エ ミー ルの 教育 を,他 の理 想 的 で な い教育 と対比 さ せ な が ら展 開 して い る。 よ い教育 も わ る い教育 も教育 と して認 め られて い る とい うこ とが重 要 だ と私 は 思 う。 なぜ な らその ことは ,教 育 とは一般 的 には よ い もの で あ る ともわ るい もの で あ ると もい えな い とい うこ とだか らである。 これ に反 し,よ い教育 だけ を「 教育 」 とよぶ な ら,わ るい教育 は「 教育」 と は よべ ず , した が って教育 では な い と見 られ るこ とにな って しま うか らで あ る。 個 人 の性 向 の形 成 な い し変様 と して の 学 習 こ そ,何 の修飾 語 もつ け な いで 「教育 」 とよぶ べ きものでは な い か と私 は 思 う。 われ われは「空 気 の 海」 に 浸 か つて 生 きて い るが,空 気 の 重 さを感 じな い。 われ われが い わば「 教育 の 海」 に浸 か ってい な が らそれ に気 づ かな いの も,そ れ と同様 で あろ う。教育 を受 け るため には ,生 きる以 外 の 条件 は い らな いか らで あ る。人 間 は生 きて い る限 り,野 に放 た れ よ うと,獄 につ な がれ よ うと,す べ ての 教育 を遮 断 し た つ も りで い よ うとも,場 面場 面 に応 じて 自己 の性 向 が形 成 ,変 様 ,な い し 調整 され るの を防 ぐこ とはで きな い。. 4)拙 著 『デ ュー イ教育観 の研究』,風 間書房 ,1977年. 7月 ,51-60頁 。. jο π 5)Jean― Jacques ROu,seau,Ё π θoπ Jθ J'ι dacα ι ,EditiOns Garnier Frares, Paris,p。 7.三 種 の教育 の訳語 に関 しては拙稿「 Eπ cに おけ る “1'6ducation" jノ. J′. の 用法 につ いて」 (『 人間科 学年報』甲南女子大学人間科 学研究会 ,1980年 3月 を参照 の こ と。. ).
(8) 96. 教育とは何か. 「 よい教育」 も「 わるい教育」 も,「 適切 な教育」 も「不適切 な教育」 も. ,. 「公教育」 も「私 教育」 も,「 意図的教育」 も「無意図的教育」 も,そ の他 どの よ うによばれる「 教育」 も,「 教育」 とはよばれていない作 用でさえも,学 習 を 生ぜ じめ る限 りは,本 稿 でい う教育 に属 している。 われわれが教育 の正 しい あ り方 を考 えなければならないのは,教 育 をこれか ら始めなければならない か らではない。 それはむ しろ教育 が絶 えず行 な われていて,な に人 もそれ を 回避す ることがで きないか らである。 私 は,こ の世 には よ くもな くわるくもない教育 が行なわれていて,最 広義 の教育 はそ うい う教育 だと主張 してい るのではない。 現実 に行 なわれている 教育 は個人 ごとに,ま た場 面 ご とに,よ い教育 かわるい教育 か どちらともい えない教育 かである。私は そ うい うこ とを否定 しない。 それ どころかその こ とを強調 してい るつ もりである。私 はそれ らがともに「教育 」 とよばれ うる ための,「 教育」の語の 意味 ない し定義 を提案 して い るのである。 よ しあ しや 適否等 に関 わりのない「教育」の規定 を提示 して い るのである。 よい教育 を もわるい教育 をも教育 として認め ることがで きるよ うな教育 の 考 え方 を提案 して いるの である。 Ⅱ 教 育 の 可 能 1生 人間はなぜ不可避的 にいつ も教育 されて い るのか。 それは,人 間はその よ うにで きてい るか らだ, とい うこ とになるであろ う。すなわち人間は, さま ざまな本能 的ない し衝動的な要 求や傾向 をもって生 まれて くるか らである。 そ して生 きる限 りは,こ れ らの要求や傾向 を調整 しなが ら環 境 に適応 しなけ ればな らないか らである。 この調整 力測生向の形成や変様 を,す なわち学習 を ,. もた らす わけである。 しか しこの点では他 の動物 もほぼ同 じであろ う。た とえば象は絶 えず学習 す る。 そ して老い るにしたがい群 を指導す るほ どまで に生長す る。 つ まり大 いに教育 されるの である。人 間であろ うとなかろ うと,本 能 ない し衝動 をも つ ほ どの動物 は,生 きていさえすれば経験 し活動 し,そ の過程 で1生 向の形成.
(9) 牧 野 宇一郎. 97. や変様 をうけるの である。何 もしないで いれば,何 もしないでい る習慣 がつ く。 これ も一種 の性 向 の形成 ない し変様 である。人間 と他 の動物 との違 いは ,. 教育 の不可避性 に関 しては五 十歩百歩 だ とい えるであろ う。 両者 の違 い が大 きいのは,教 育 の可能性 に関 してではなかろ うか。 なぜ な ら人間は他 の動物 とは異 な り,善 悪 ,美 醜 ,賢 愚等 の方向へ途方 もな く大 き な程度 に学習 し教育 される例 が 多 く見 られるか らである。 だが教育 される可 能性 の程度 が人間の場合 に格段 に大 きいこ とが,人 間的特質であ るとまで認 め られ るためには,他 の動物 には 見いだ されない質的 な違 いが指摘 されなけ ればならない。 その よ うな違 い として私は,人 間は個 としてのみで な く種 と しても学習 し生長す ることがで きるとい うこ とに想倒 した。言語使用能 力. ,. 宗教性 ,道 徳性 ,道 具使用能 力等 は他 の動物 に も多少は見いだ されるかもし れないが,種 としての生長 を可能 にす る学習 とい うこ とは人間 にのみ見 いだ されるこ とではなかろ うか。人類 は何世紀 も続 けて文化 を発展 させ,生 活 を 向上 させ ることが可能であるが,牛 や馬の生活は,人 間 に強 い られ調教 され る場合 の他 は さきの世代 をしの ぐ向上 を示 さない。それは彼 らの間で引 き継 が れて種 としての進歩 をもた らす とい うこ とがない。種的生長 が可能 だとい う ことは人 間の一 大特 質 である。 私 はず つと以前,考 えに考 えて上の結論 に達 したのであったが,最 近 ,ル ソーの 中 にすでにこの 考 えがあるの を知 って安心 す るや らが っか りす るや ら であった。彼は人間が動物 と違 う点の一つ が,「 自分 が同意す るか抵抗す る か1ま 自由 であると認 め る」 ことに,ま た「選 ぶ とい う力」 と「 この力の感情 」 の なかにある とのべ てから,次 の よ うに話 している。 「 しか し,こ れ らの 問題 をとりまいてい るさまざまな困難 が,人 間 と動物 との違 いについて議論の余地 を残 してい るとしても,両 者 を区別 して異 議 の あ りえない よ うな, きわめて特殊 なもう一 つの特徴 がある。 それは 自己 を完 成 して い く能 力であ り,環 境の助 け を借 りてつ ぎつ ぎに他 の能 力を発展 させ. ,. われわれのあいだでは種の なかに も個人の なかに も存 在す るあの能 力である。 これに対 して動物 は,数 ケ月たてば一生 そ うであるよ うな状態 とな り,ま た.
(10) 98. 教育とは何か. その種 は千年 た ってもこの千年間の最初 の一年 めにそ うであったままの状態 6). で い る。」 ルソー は け っ き ょく,種 と して の 生長 を可能 に し,個 人 と して の 生 長 を大 な らしめ る 自己完 成能 力 だけ を明確 な人間的 特 質 と してあげて い るわけで あ る。 人類 の 進 歩 に懐 疑的 な彼 の 主張 だけ に,こ れは い っそ う注 目す べ き言 明 の よ うに思 われ る。 果 たせ るか な彼 は ,人 間 をけ だ もの よ り も さらに低 い状 態 に落 ち こ ませ るの も,人 間 の あ らゆ る不 幸 を引 き起 こ し,人 間 の 知識 の 光 と美徳 だ けで な く誤 謬 と悪徳 をも花咲 かせ て,つ い には 人 間 を彼 自身 と自然 に対 す る圧 制 者 に して い るの も,こ の 能 力 だ との べ てい る。 私 は彼 が この よ うに,人 間 には 種 と しての進 歩や 堕落 を招 来 す るほ どに教 育 され る可 能性 が備 わ ってい ると主張 して い るこ とに注意 した い。もっとも ,. その 力 が「 自己完 成能 力」 だ とい われて い るこ とには 問題 があ るの では な い か と感 ず る。 と にか く人間は個 人 と して,自 己 の 種 を進 歩 させ るほ どに教育 され るこ ともあ る し,逆 に 自 らの 種 を破 滅 に瀕 せ しめ るほ どに も教育 され る ことが あ るの で あ る。 デ ュ ー イには ,教 育 に関 す る人 間的特 質 を語 った もの と して次 の 言葉 があ る。 「 なお い っそ う重 要 で あ るの は ,人 間的存 在 は一 つの 学 習 の 習慣 を獲 得す る とい う事 実 で あ る。彼 は 学習 す るこ と を学 習 す る。」 学 習 の 学 習 も教育効 果 で あ る。 学 習 の仕 方 をも学 習す るよ うな教育 が行 な われ うる と い うこ とは,種 と して の 生 長や 堕落 を可能 にす るため の一 つ の重 要 な条件 だ とい って よ いの では な か ろ うか。 以上 で ,人 間 に生 起す る学習 の , した が って教育 の 可能性 が他 の 動物 の場 合 とは比 べ もの にな らな いほ ど大 きい こ との 証拠 は 見 と どけ られ た とす るこ. 6)ル ソー「 不平等起源論」,『 ルソー,世 界の 名著36』 ,中 央公論社 ,昭 和53年 6月 129頁 。. 7)同 書,129-130頁 。 8)拙 著 『 デュー イ教育観 の研究』(前 出),68頁 。. ,.
(11) 牧 野 宇一郎. 99. とがで きよ う。では どうして人間の場合 にだけ教育可能性 が絶大 なのであろ うか。 その根拠 は どこに見 いだ されるであろ うか。 それは人間の幼児 と他 の 動物 の幼児 との生得 の本性 (性 向)の ちがいに求 めるほかないであろ う。人 間 における文化・ 文明 が高度 に発達 して い ることは根拠 にならない。 われわ れはその原因 を究明 しよ うとしているのであるから。問題 の点 につ いて デュ ー イがのべ て い るこ とを以前 に解説 した とき,私 は次 の よ うに書 いた。 「本性 に関 して人間の幼児 が他 の動物 の それ と異 なる特徴 は,基 本的 に次 の二 点 にあるとデュー イは考 えているよ うに思 われる。一つ は人間の幼児 に おいては素材的衝動 もしくは衝動的活動 の数 が莫大 だ とい うことである。 も う一つ は本能的要求 あるいは衝動性 としての衝動 の 中 で,社 会的な面 が他 の 動物 の場合 よ りも優勢 だとい うことである。」 ここには二つの特徴 が指摘 されている。第一の,人 間の衝動 が多種 多様 だ とい うこ とは,人 間は手で物 を掴 む とい った簡単 な動作 がで きるよ うになる ためにさえ,他 の動物 の場合 よ りも遥 かに多 くの学習活動 を必要 とす るとい うこと を意味 し,莫 大な学習活動 を必要 とす ることは,学 習活動 の方法 をも 学習 させ るよ うに導 くとい うこ とを意味す る。 また同 じ特徴 は,人 間 だけが 高度 のデ リケー トな動作や思考 がで きるよ うになれ ることを意味す るであろ う。第二の特徴 は,人 間の子 どもにおいては コ ミュニケー ションの 力量 が大 きいこ とを意味 してお り,こ れは人間 に世代 を追 って文化 を継承発展 させ る こ とを可能 にさせ る一 つの条件 だ と思 われる。 コ ミュニケ ー シ ョンの能 力,力 量 も,は じめは衝動 として もたれているに す ぎないであ ろ う。人間の幼児 の生得的力量 た る衝動 が多種多様 であるとい うことは,他 の動物 の子 どもの場合 とくらべて単 に量的優位 をもつにすぎない ように見 えるかもしれない。 しかしその在庫 の中 には コ ミュニケー シ ョンの衝 動 の よ うな社会的衝動 が強力な形 で含 まれているとされていた。 この衝動 が. 9)同 書,474頁 。.
(12) χθ. 教育とは何か. 含 まれて い るか い ないか,強 いか弱 いか とい うこ とは 素質の性 格 を質的 に左 右す ることであろ う。 それ に,衝 動 が一つ二つ と数 えられるとした ら,全 衝 動 の組 み合 わせ. (コ. ンビネー シ ョン)の 数は,衝 動 の総数 が一つ増加す るご. とに三倍以上 になるので ある。 このよ うに考 えると,衝 動 の数 の大小 も単 に 量的差異 を意味す るの ではないこ とがわかると思 う。 私 はただ,こ の二 つの特徴 だけでは,人 間の教育可能性 が進歩 の方向 に大 きいこ とは理 解 され えて も,そ れが破 滅の方向 に も大 きいこ とは根拠 づけ ら れないか もしれない と思 う。後者 の根拠 づ けには支配 とか征服 とか破 壊 とか い う衝動 をも考慮 しなければならないであろ う。 教育 され る可能性 が大 きいの は,人 間 には神性 とか魔性 とかが宿 っている か らではな くて,生 まれながらにもっている本性 を構成 してい る衝動の種類 の いかん とそれが多種 多量 であることとに存 す るのであって,こ うい う見解 に は何 ら超 自然的 な要素は含 まれて いない。 そ して教育可能性 の大 きいことは. ,. もちろん単純 に喜ぶべ きことではな く,人 間性 の一特質 を成す事実として受 けいれるべ きことで ある。 そ してわれわれは それ が適切 によい方向 に実現 さ れるよ うに努 むべ きである。 われわれはいつで もどこで も教育 されつつ あるが,わ れわれの教育 される 可能性 は十分 には生 か されてい ないか もしれない。生 かされていて もわれわ れは,望 ましくない方向へ教育 されてい るか もしれないの である。 だか ら教 育実践上 の 問題 は,教 育 をどこかで創始す る問題 では ない。 む しろ,個 人個 人 に対 してすでに行 なわれつつ ある教育 ,あ るいはいやお うな しに始 まる教 育 が,そ の個人個 人 にとってベス トの もの であるよ うにす るには どうした ら よいか とい うこ とである。実現 しなければな らないの は,単 に教育ではない。 それは望 ましい教育 ,個 人 ごとに生ず るベ ス トの教育である。 これのために こそ,わ れわれは教育 の何 た るか を一般的 に考 えてみ なければな らないの で ある。 教育 は一般 に,個 々の 人間 に対 して行なわれる作用である。 ところが人間.
(13) 牧 野 宇一郎. 」θJ. は誕生 によっては じめて個人 として生 きるよ うになる。 だか らそれよ りまえ の胎児はまだ個人 とは い えない。 そ うす ると誕生以前 に胎児 の成熱 に影響す る作用 は,ま だ教育 とはいい難 いこ とになる。 しか し明 らかに,妊 娠 中の こ の作用 は,そ してこの作用 のみが,生 誕 時 の子 どもの性 向 をつ くるのである。 それは子 どもがもって生 まれ る性 向の形成作用 として一 種の教育,少 な くと も教育 に準ず る作用 と考えられて然 るべ きであろ う。 とい うことは また,人 間のひとりひとりに備 わる絶大 な教育可能性 (学 習可能1生 )も. ,妊 娠 中の こ. の作用 によってつ くられるとい うことである。 なぜ なら,こ の可能性 は性 向 のいわば発展 力 として誕生 とともに子 どもがもって出 るものだからである。 妊娠 中の この教育的作用 は,母 親 からのみ来 るのでは な く,胎 児 自体 か ら も来 ると考 えられるが,胎 児 は母体 に直結 し,ま だそれの一部 となってい る のだか ら,そ の作用 は母親 か らのみ来 ると考 えて も差支 えはないわけである。 母親 の生活や心構 えがいかに大切 かはい うまで もない。 われわれは胎教 を迷 台教」 信 だ として軽視 すべ きではないであろ う。 もっとも私 は,い わゆる「月 な しでも胎児へ の教育的作用 は常時働 いてい ると思 う。 それは今説明 したば か りである。胎教 は,そ れな しで も胎児へ の教育的作用の一部 として不可避 的 に行 なわれている母親 か らの影響 の,母 親 自身 による自党的修正 にほか な らない。母親 の願 いや祈 りが胎児 に直接通 ず るがごとく想像 す るのは誤 りで あろ うが,母 親 の心 の もち方 の変化 は どの よ うなものであれ,胎 児 と一体 と な って い る母胎 に影響 しないではおかないであろ う。 あえて い うな らば,妊 娠期間中ほ ど教育上重要 な時期 はないと私は思 う。 なぜ な ら,生 誕後はそれ を基 に して教育 が遂行 されるところの 素質的 な性向 や この性 向 にひ そむ教育可能1生 が創 られるのは,ま さに妊娠期 間中 だと考 え られ るか らである。 その ことはた とえば,三 ケ月日で不 幸 に も流産 した胎児 は生 きて さえい け ない,つ まり教育可能性 をまだ全 然 もって い ない,と い う こと を考 えてみ るだけでも明 らかであろ う。 しかも生得 の この教育可能性 は. ,. 生誕後 は減少 の一途 を辿 ると考 えられるの である。 「十で神童 ,十 五で才子,二 十す ぎればただの人」 とい う諺 は,教 育可能.
(14) χ2. 教育とは何か. 性 が一般 に年齢 とともに減少 する傾向 があることを表 わしていると解釈 してよ いであろ う。 そ してその よ うに解釈す ると,そ れは諷刺 ではな くて事実 をの べ てい ることになるであろ う。学習内容 は年 月の経 つ につれて増大す るが. ,. 学習可能性 である教育可能性 は減少せ ぎる をえない。 た とえば,新 生児 は ど んな国 の言語 をも母国語 として身 につける可能性 をもってい るが,数 年後 に は特定 の言語以外 の言語 は十分 には学習 で きなくなる。 これは可塑性 が減少す るのだとい う説明でもわかるけれども,「 可塑性 」 とい う語 は外 からの作 用 によ って形成 される能 力 といった感 じを残 しているので適当でない。教育可能性 は 新生児 において最大 であ り,老 年 において最小 であるとい うのが,一 般 の傾 向 であろ う。教育可能性 は学習の能 力ない し力量 の強 さとも考 えられよ う。 生後 の二 ,三 年 は どんなに育 てても大 して変 わ りはないご とく説 く書物 もあ るが,そ んなことを信 じてい る親は,自 分の子 どもが誠実 な人間へ の道 とな らず者へ の道 との分岐点 をす ぎた ことに も気 がつか ないであろ う。 Ⅲ 教 育 の 定 義 と本 質 すで に触 れて きたよ うに,私 は「教育」 とい う言葉の,ま たこの言葉 によ って呼ばれ指示 される事象 の,最 も一般的 な意味 を表 わす もの として,「 個人 の性向 ない し行動体制 を形成ない し変 様す る作用ない し働 き」 とい った形 の 表現 を採用 して きてい る。すな わち私はそれ をまた,「 教育」 の定 義 だと考 え ているのである。 「教育 の本質」 といわれる もの も,こ の よ うな定義 によって 表明 さるべ きであろ う。 「教育 」 の定義 は, どんな教育 に もあては まるもの でなければならない。 それはあたかも「三角形 」の定義 が どの三角形 に もあてはまらねばならない よ うなもの である。二等辺 で も二等辺 でも,一 つの角 が直角 で も鈍角で も. ,. 「三角形」 と呼ばれている図形 はみな,「 三 つの 直線 で囲 まれた平面図形」と い う「三角形 」 の定義 に適 って いるがゆえに三角形 として確認 される。 しか しその定義 は また,通 常 は三角形 とは 目されて い ない よ うな極端 にとがった 細長 い楔形 をも三角形 として指摘 す る働 きをす る。 ここに私 が提 出 してい る.
(15) 牧 野 宇一郎. I慇. 「 教育 」 の 定 義 も同 様 で あ って,通 常 は 教育 とは認 め られて い な い よ うな と ころに も教育 を見 いだ す よ うに作 用す る。個 人 がだれ か らも指導 を うけ な い で放 任 されて い て も,そ の 定 義 によれば彼 は 教育 されて い るの であ った。 そ れ によれば ,個 人 は いつ で も どこで も,生 きて い る限 りは教育 されて い るの で あ った 。 「 本質」 とい う言葉 は ,何 の 本 質 が 問題 で あれ,そ の もの に共 通 な,な く ては な らな い基 本 的 な特徴 を表 わす よ うに使 わ るべ きで あ ろ う。 あ るものの 本 質 は ,そ の もの が その もの で あ るため の 必要条件 だ と考 えて よ い で あろ う。 人間 の 本 質 は ,人 間 が人 間 で あ るため の 必要条件 で あ る。 教育 の 本質 は,教 育 が教育 で あ るた めの 必要条件 で あ る。 さ きの 「教育 」 の定 義 は この 本 質 を 表 わ して い る とみ て よ いの では なか ろ うか。 す なわ ち, さきの「1国 人 の性 向 な い し行 動体 制 を形 成 な い し変 様 す る作 用 」 と い う規定 は ,教 育 が教育 で あ るため の 必要条件 を表 わ して い ると考 え られ る。 この 規定 の 中 の「 個 人 の性 向 な い し行動体 制 の形 成 な い し変様 」 とい うこ とは「学 習 」 の 最 も一般 的 な 規定 で あ り,私 の 考 えでは「 学 習」 の定 義 とみ な して よ い もの であ る。 だ か 国人 に学 習 を生 ぜ じめる作 用 」 といい換 えるこ とがで ら「教育 」 の定義 は,「 イ きるの で あ って ,こ れ が また教育 が教育 で あ るため の 必要条件 を,す な わ ち 教育 の 本 質 を表 わ して い ると考 え られ るの で あ る。 「性 向」 の 語 を私 は ,英 語 の 「 デ ィス ポ ジシ ョ ン (disposition)」. と同 じ. 意味 に使 いた い。 それは個 人 の 心的状 態 を全体 的 に も部 分的 に も表 わす こ と がで きる。 それは態 度 ,能 力,習 慣 ,人 格 ,人 柄 な ど を含 み ,あ るいは 表 わ す ことがで きる。 それは全体 と しては個 人 の 行動体需1を 表す とい えよ う。 そ れは生得 的 で あれ後天 的 で あれ,個 人 の 行動 を駆 動 し規 制 して い る内的 な力 で あ る。 「形 成 」 とか こ うい う性 向 が変化 す るこ とは学 習 に他 な らな い と私 は思 う。 「変様 」 とか い う言葉 は ,性 向 の 変化 を表 わす の に相応 しい と思 われ るの で 使 って い るにす ぎな い。破 壊 も膨 脹 や縮 小 も変 化 では あ るが形 成や変様 は変 化 では な い,な どとは い えな い。性 向 は 暫定 的 な気 分 では な いか ら,酒 を飲.
(16) 4. Iθ. 教育とはf可 か. んで陽気 になった か らとい って学習 があった とは い えない。 しか し飲み続 け るうちに,酒 の こ とがよく思 い出 されるよ うになるなら,性 向 は変 化 したの である。 それは一 種 の学習である。 こ うい う考 え方 に対 して,学 習 は単なる性 向 の形成や変様ではな くて,望 ましい性 向の形成や,性 向の望 ま しい方向へ の変様 でなければな らない,と い った反 論 が予想 される。 だが望 ましい性 向な らそれの形成 は学習 であるが 望 ましくない性 向な らそれの形成 は学習 ではないと考 えるのは,随 分不条理 な こ とではなかろ うか。 日常的 に もわれわれは「わ るいこ とを覚 えない よ う にさせる」 とか,「 わるい習慣 がついてしまった」 とかい うけれ ども,こ れは「わ るい習慣 」 といわれている性 向 も学習 されること を示 してい る。 それにある 性向 は,あ る時期 の ある個人 にとって望 ま しいか否 か判定 が困難 な こともあ る。 そんなとき,そ の性 向 が学習 されたか否 かは,そ の性向 に対する価値判断 が きまらなければ きまらない とい うこ とになって しま う。 私 が「教育 」 とよんで い るものは,個 人 に生起す る学習 がいか なるもの で あろ うとも,そ れ を結果す る原因 を成 しているすべ ての作用であ る。 もし望 ましい,な い しはよい性 向の形成 だけが学習 を成立 させ るとす るならば,望 ましくない,わ るい学習 とい うものはあ りえないことにな り, したがって望 ましくない,わ るい教育 もあ りえないことになる。 そ うなれば教育 をわぎわ ざ苦労 してよい ものにす る必要 も,教 育 を研究す る必要 もな くなるであろう。 そしてただ行な われている教育 を発見 し,行 なわれていない ところで行なわ れるよ うにす るだけでよいことになるであろ う。 もしよい教育 ,理 想的な教育 だけ を「教育 」 とよぶ とす るならば, さきに 見たよ うに普遍的 な教育 の不可避性 は成立 しないこ とになり,教 育 の 本質は 教育 の理想 と混同 されることになる。望 まし くない教育 は理 想的でないか ら 教育ではないとされることになる。 もしそれ もいぜ んとして「教育」 とよば れるとした ら,そ れは教育 の本質 を欠 いているのに そ うよばれてい るとい う こ とになる。 しか し,わ るい人間 も人間であるのは,彼 に も人間の本質 は備 わっているからである。 「 お前 のよ うな極道者は人間ではないノ」 の ご とき台.
(17) 牧 野 宇一郎. I万. 詞 もあ るが,こ れは相 手 を通 常 の 人 間性 す ら欠 い て い ると評 す るこ と に よ っ て極 め て 強 い叱 責 の 意味 を表出 して い るにす ぎな い。 多 くの 人 々が 本 質 と理 想 との 区別 をあ い ま い に して い るよ うに思 われ る。 「 真 の 」 とい う形容 詞 がよ く使 われ る。理 想 的教育 は「 よ い教育」 とよばれ て よく,ま た そ うよば れ るこ とがあ ろ うが,多 くの 場 合 に そ うは よば れず に 「 真 の 教育 」 とい われ,理 想 的 で な い教育 と区別 され る。 しか し私 は非 理 想 ・ 的 ,反 理 想 的教育 も真 の 教育 だ と思 う。 とい うの も,「 教育 」 の「真」 「偽 」 とは ,教 育 が理 想 的 か否 か を表 わすのでは な く,こ れ と区別 された教育 の 本 質 が認 め られ るか否 か とい う問題 の よ うに思 われ るか らで あ る。教育 が理 想 的 で あ る とい う判断 その もの につ い て 真偽 が 問 われ るこ と もあ ろ うが,そ の ときは「 真 に理 想 的 な教育 」 の ご と き使 い方 とな るべ きで あ ろ う。 「 真の 教 育 」と い った場 合 には ,そ れは 真 に教育 の 本 質 にかなった 教育 とい う意味 を表 わ すと解 す べ きでは な かろ うか。 そして,そ うい う教育 は 善悪 ,適 否等 に関 わ りの な い,要 す るに個 人 の性 向 を形 成 な い し変 様 す る作 用 と して の 教育 なの で あ る。 それは個 人 に学 習 をもた らす作 用 で あ りさえ した らよ いの で あった。 教育 の 真偽 は 教育 の 本質 の 存否 で あ る。 だか らそれは教育 の 存否 で あ る。 この 関係 は「 教育 」 に限定 がつ け られて も変 わ らな い。 どんな教育 で あれ. ,. 事 実 と して行 な われ,存 在す れば ,そ れは 真 の そ うい う教育 で あ る。 た とえ ば よい教育 が事 実 と して存 在す れば ,そ れは 真の よ い教育 で あ る。 なぜ 教育 の 真偽 が教育 の 本 質 ,存 否 では な くて理 想 の こ とが らと され るよ うに な るか。 それは お そ ら く,わ れ われは それ ぞれ 自己 の理 想 に適 った教育 に しか,教 育 と しての 存 在価値 を認 め よ うと しな い傾 向 をも って い るか らで あ る。 だれ も が これ こ そ真 の 教育 なの だ と主 張 した が る。 だ が これでは 真偽 は存否 の 問題 と い うよ りも価値 の 有無 の 問題 に な って しま う。 教育 の 本 質 ,す な わ ち教育 が教育 と して認 め られ るた めの 不可欠 な特徴. ,. 教育 の 存 否 が それ によ って判 定 され る条 件 ,教 育 が教育 で あ るため の 必要条 件 は ,け っ き ょ く何 で あ った だ ろ うか。 それは個 人 に学 習 を生 ぜ じめ るとい うこ とで あ った 。 それ の さらに必 要条件 は ,個 人 が生 きて い る とい うこ とで.
(18) I%. 子 わ〔 手とは1可 か. あ った 。 しか し個 人 とは生 きて い る個 人 だ とす れば ,個 人 に学 習 を生 ぜ じめ るとい うこ とです べ て の 必要条件 は尽 くされて い る。教育 の 不可避性 は派 生 的 な特徴 だ と い えよ う。個 人 が学 習 して い れば ,そ こに教育 が行 なわれて い るの だ と定 め た と ころ,事 実 と して学 習 は いつ で も絶 えず不可避 的 に生 じて い るこ とが知 られ るの で ,教 育 も不可避 的 と結 論 され ること に な って い るの で あ る。教育 の 可能性 も,個 人 に生 ず る学 習 は ,個 人 は人間 で あ るか ら,人 間 にの み可能 な著 しい もの で あ るこ とがで きる とい うこ と を意味 して お り. ,. 教育 につ い ての派 生的 では あ るが人間的 な特徴 とな って いたの で あ る。 この定 義 が まだ不完 全 だ と感 ぜ られ ると した ら,そ れは 多分 ,教 育. (と. い. う作 用 な い し働 き)を 発 す る主 体 は何 か とい うこ と につ いての 規定 が 記 され て い な い か らで あろ う。教育 は個 人 を学 習 させ る働 きで あ る といった具合 に のべ られて い るだ けで , ど こか ら この働 きが くるか につ いては何 も記 され て い な かった。 だ か ら上 の よ うな感 じが もたれ るの は 当然 だ と思 う。 しか し私 は実 は,教 育 主体 につ いての説 明 は「教育 」 の定義 文 の 中 へ 入 れ る必 要 は な いの で は な い か と考 えて きた ので あ る。個 人 に学 習 を生 じさせ る働 きの主体 が何 で あ るかは ,「 教育 」 の概 念規定 の 問題 とい うよ りも事 実 の 問題 で あ り. ,. した が って事実 を調 べ てみ れば わか るこ とで あ る。 私 は この よ うに考 えて い た 。 だ か ら「イ 固人 が教 育 され る」 とか「教 育 を受 け る」 とか い う表現 を使 っ て も,そ の 教育 作 用 がイ 国人 の 外 か らのみ くる とは考 えて いなかった。「個 人 に 学 習 を生 ぜ じめ る」 とい う表現 を使 って も,教 育 作 用 が意図 的 で あ るとい う 意味 は必ず しも含 まれて い な か った の で あ る。 私 の 定 義 の 意味 は ,教 育 は. ,. 個 人 に学習 が生 ず る場 合 に,そ の 学 習 を結 果 と して生 ず る原 因 となって い る 作 用 な い し働 きだ とい うこ とで あ る。 この 作 用 が どこか ら くる か,意 図的 で あ るか否 か とい った こ とは未 決定 の ままに残 され て い る。 教育 作 用 の 源 泉,教 育 の 主体 が現 実 在 しなければ な らな い とい うこ とは. ,. 定 義 に合意 され て い るであろ う。 しか しそれ がf可 で あ るか とい うこ とは ,教 育 の存 否 ,教 育 の 本 質 には 含 め な くて よ い と思 われ るの であ る。 も しそれ が わか らな ければ ,あ る作 用 が教育 であ るか否 か わか らな い と い うの で あ るな.
(19) 牧 野 宇一郎. ノθ7. らば ,そ れは あた か も,何 か が癌 で あ るか否 かは それ の 原因 が わか らなけれ ば 決 め られ な い と い うよ うな もの では な か ろ うか。私 は教育 で あ る こ とが わ か って い るもの につ いて,そ れの主 体 を調 べ れば よ い と思 うの で あ る。 Ⅳ. 教 育 の 主 体 と 自然 主 義. 可で あ 最 も一 般 的 な教育 規定 た る「 教育 」 の 定義 に とっては ,教 育主体 がイ るかは未 決定 の ままに残 して も論理 的 には 不都 合 が な い と思 われ る。 も し事 実 と して神 か らその よ うな作 用 が くると した ら,神 も教育主体 に列 せ られね ば な らな くな るで あ ろ う。事 実 な ら, ど うしよ うもな いの で あ る。 た だ 私 は その こ とは わか らな い し,私 の 信念 か らい えば神 (超 自然的存 在 た る)は 存 在 しな いか ら,神 を教育主体 に含 め るこ とは しな いつ も りで あ る。 こ うい う わけで教育主体 の 何 た るかは事 実 に即 した検討 によ って明 らか に な るこ とが らだ と 考 え られ るの で あ る。 しか し今 日多 くの 人 々が提 案 して い る教育 の 諸規定 は ,特 定 の もの を教育 主体 と して指 定 し,そ れが どの よ うに個 人 に働 きかけ るか,あ るいは働 きか け よ うと意図 して い るか につ い ての べ て い る。 したが って これ らとの違 い を 明 らか にす るこ とによ って,上 来 見 て きた教育規 定 をよ り確 定 的 に して お く こ とが望 ま しい。 また教育主体 の規定 を加 えることによって,わ れわれの教育 規定 は よ り内容 豊 かで明確 なもの となる。 それはあたかも癌 の原 因 を知 ること に よって癌 の 何 た るか がよ り明 らか に な るよ うな もの で あ る。 「 教育主体 」 とは教育 とい う作 用 な い し働 きの 源 泉 で あ る。 それは教育 的 な作動 因 で あ る。教育 作用 は個 人 の 学 習 を生 ぜ じめ る働 きで あ つた か ら,個 人 におけ る学 習 を生 ず る作 用 が どこか ら くる か を調 べ れば ,そ こに教育 主体 が見 いだ され るはず で あ る。 それで は学 習 を生 ず る作 用 は どこか ら くるの で あ ろ うか。 まず 学 習 は ,学 習す る本人 な しには生 じうべ くもな いが本 人 の み によ って 引 き起 こ され るの では な い とい うこ と を認 め ることが で きよ う。私 は さ きに,学 習 に必要 な唯 一 の 条件 は ,学 習す る本人 が生 きて い るこ とだ とい った 。 だ 力消国人 は 単 に独.
(20) 教育とは何か. 」. “ りでは生 きられない。彼 は環境 を必要 とす る。彼は環境 と相互作用 し,環 境 に適応 していか なければならない。 この適応 としての 活動 が1国 人 に学習 を生 ず るのである。 この 活動 は それ を行 な う個 人 に学習 をもた らす とい う意味 で 「学習活動」 とよぶ こ とがで きるだろ う。 その よ うにす ると,学 習活動 を行 なわ しめてい るものが学習 を引 き起 こす主体 であ り, したがってまた教育 の 主体 なのである。 明 らか に,そ のよ うなもの としては学習す る個 人 と彼 の環境 があり,そ れ 以外 にはない。 だからこれ らが教育主体で あり,こ れ ら以外 には教育主体 は ないわけで ある。 それ らがi国 人 に学習活動 をさせ ることによって個人 に学習 が生ず る。だから教育主体 は学習主体 で もある。学習は本人 にのみ生ず る。 だが本人 だけが学習主体 ではない。学習 を生ぜ じめる教 育作用は本人 の環境 か らもくる。 しか し環境 だけが教育主体ではない。 野生 の動物 た ちを学習 させているもの,つ まり彼 らを教育 してい るものは. ,. 個 々の動物 と,彼 の環境 を成 してい るところの物理的 自然 と,彼 の同類であ る。彼 の環境 に も物理的 な面 と社会的 な面 がある。人間の場 合 は,社 会的環 境の影響 が非常 に大 きい。 このためか,人 間の教育 と学習 に関 しては,学 習 の主体は個人であるが教育 の主体 は社会的環 境 の側 にある,と いった具合 に 考 えられ ることが多いのである。学習の主体 と教育 の主体 とは こ うして分離 させ られる。 これは私 には,今 日世 に広 く行 きわた っている教育学上 の錯誤 の一つだ と思 われる。 さきに引用 したの と同 じところで藤原教授 は,「 生涯教育」の定義 に続 いて 次 の よ うに記 されて いる。 ここには上述 の錯誤的 な考 え方 が卒直簡明 に表明 されている。 これは,生 涯教育 の制度や体制 としての見方 が一般化 されて出 て きているためでは ないか と推測 される。 「教育 と学習 とは区別 して考 えられるべ きであって,教 育 とは,人 の学習 を直接 に助 けるはた らきを意味 す るものである。学習は個 々人の 自己形成 の はた らきであ って,そ れが教育 によって助 け られるわけである。」. 10)藤 原英夫 『社 会教育体制 と生涯教育』 (前 出),121頁 。.
(21) 牧 野 宇一郎. 」″. 「教育 」 と「 学 習 」 とが区別 され るこ とには賛成 で あ る。 だ が学 習 の 主体 と教 育 の 主体 が異 な る とされて い るの には 賛 成 で きな い。学 習 が生 ず る場 所 で あ る学 習者 た る個 人 と,学 習 させ る主 体 が同 一視 されて い るの では な か ろ うか。学 習 は 学 習者 に生 ず るが,学 習 させ る もの は 本人 の 他 に,助 成 をす る 外部 の 者 をも含 んで い る し,物 理 的 な自然 を さえ も含 んで い るはず であ る。 も し学 習 が学 習 者個 人だけ の働 きで あ るな ら,な ぜ 他 か らの 助 けが必 要 に な るの だ ろ うか。 も し相 手 の 学 習活動 を助 け るこ とが,相 手 に生 ず る学 習 に影 響 を与 え るな ら, ど うして この助 けが学 習 の 原因 の一 部 に入 らな いの で あ ろ うか。 も しその助 けが学 習者 の 学 習 に影 響 を与 えな い な ら,い か な る意味 で それは助 け とい えるの であ ろ うか。 他 か らの助 けは 本 人 の 作 用 に くらべ ると,本 人 に対 して 直接 的 に では な く 間接 的 に影 響 を与 え るか らだ と応 え られ るか も しれ な い。 間接 に学 習者 の環 境 を整 える こ とに よって そ うす るの だ , と い わ れ るか も しれ な い。 しか し 学 習 に対 して 直接 に影 響 す る もの があ るだ ろ うか。 本 人 は 自己 におけ る学 習 に 直接 影 響 を与 え ることがで きるであ ろ うか。 それは で きな い。 われ われは 自己 の性 向 を,針 金 を曲 げ るよ うに 直接 に変 化 させ るこ とは で きな い。環 境 に働 きかけた り,環 境 か ら応 答 を受 けた りして学 習活動 をす ることによ って で な ければ ,自 己 の性 向 をも変様 す ることがで きな いの で あ る。 この よ うな次 第 で あ るか ら,学 習 の主体 と教育 の 主体 を別 々に想 定 す るこ とは誤 りだ と しなければ な らな い。学 習者 だけ が学 習 の 主 体 では な く,助 成 者 だけ が教育 の 主体 では な いの で あ る。学 習 の 主体 と教育 の 主体 とは全 く同 一 で あ る。一 つ の過 程 を結 果 に注 目 した と き学 習 があ り,そ れ を生 ず る原因 的働 きに注 目 した と き教 育 が 見 いだ され るの だ か らで あ る。 私 は 今 ,「 教育 」 と「 学 習 」とが区別 されて い るこ とには賛成 だ とい った。 しか し藤原氏 の い う「学 習 」 と私 の 「学 習 」 とでは意味 を異 に して い る。氏 の い う「 学 習 」 は む しろ,私 の い う「 学 習活動 」 に相 当す るで あろ う。私 は 「 学 習 」 と「 学 習 活動 」 とは区別 す べ きだ と思 う。学 習 は心 的状態 の 変化 で あ るが,学 習 活動 は経 験 で あ る。氏 の 「学 習 」 は 多分 ,こ の 学 習活動 を指 し.
(22) IIθ. 教育 とは何 か. て用 い られて い ると思 われ る。 だ が,学 習活動 は「個 々人 の 自己形 成 の はた ら き」 と して個 々人 だけ が主体 な い し作動 因 とな って い るもの ,で は な いで あ ろ う。 も ちろん活動 や行為 は それ を行 う者 が行 な うの で あ るが,わ れ われ が 求 め るべ きは 単 に行為 者 と して の 作動因 では な く,す べ ての 作 動因 で あ る。 だか ら学 習活動 は個 人 の 活動 で あ ることが事実 で あ るに して も,そ して学 習 は その個 人 の 内 に生 ず る効 果 で あ るに して も,そ の 学 習 活動 の 作動因 た る主 体 は その個 人 だ けでは な いの であ る。同様 に して それは ,そ の個 人 の 学 習活 動 に外 か ら参カロした り統 市1し た りして い る人 々や 諸物 だけで もな いの である。 なぜ 学 習 活動 自体 が教育主体 と され な いの か , とい う疑 間 が生 ず るであ ろ. agent"と 同様 の 意味 に,つ まり作 う。「主体 」とい う日本 語 を 私 は 英語 の “ 動主 ,作 動 因 な どを表 わす よ うに用 い て い る。 学 習 は学 習活動 の 結 果 と して 生 ず る。 後 者 は確 か に前 者 の 作動 因 で あ り主体 なの であ る。 学 習 活動 以 外 に 学 習 を生 ず る活 動 は な い。 だか ら学 習 活動 の 他 には学 習主体 も教育主体 もな い とい って も間違 い では な い わけであ る。 しか し主 体 の探 求 を ここに と どめ て おいたの では ,主 体 の 全貌 は 明 らかにな らな い で 終 わ る危 険 が あ る。学 習 者 た る個 人 と,彼 の 物理 的 および社会 的 な環 境 とは ,学 習活動 の 構 成要 素 と して学 習活動 自体 と同様 に教育 主体 である。だ からそれ らをもって学 習活動 に 代 えて教育 主体 とみなす ことがで きる。 しかし私 は も う少 し先 へ 作 動 因 を求 め た い 。す な わ ち学 習活動 の 構 成要 素 と して よ り,学 習活動 を可能 な らしめ る す べ ての 作動因 と して上 の 三者 を考 えるよ うに した いの で あ る。 個 人 に学 習 が生 ず るよ うに作 用す る もの を「教育 的 (educat市 e)」 な もの とよぶ こ とにす る。教育 の 主体 は 教育 的 な もの で あ る。 これ まで そ うい うも の と して学 習す る個 人 ,物 理 的環 境 ,お よび社 会 的環 境 が 考 え られた。 これ ら三者 は互 い に一応 区別 がつ くと ころの 教育 的要因 で あ って,こ れ ら以外 に は教 育 的 な もの は見 当 た らな い。 超 自然的 な神 の ご と きもの は 想定 されない。 こ うい う立場 は ,デ ュー イの 「 自然主 義」 とい う形 而上 学 と斉 合 す る。私 は かつ て こ1の 形 而 上 学 につ いて か な り詳 しく考案 し,最 後 に次 の よ うに記 した。 「 要 す るにそれは,人 間 と経 験 と を自然 に属 さ じめ,そ れ 自体 人間 の す ぐ.
(23) 良5 女 里 牛 予 筍=一 ´. III. れた経 験 で あ る ところの 科学 を,経 験 全般 の 統 御 のために も哲 学的題〓 材 とし て も重視 し採 用 し,こ の よ うな人 間 の 科学的思 考 によ って 自然 の 目的 論的歴 史 的発展 をは か ろ うとす る,自 然 の経験 的形 而 上 学 で あ る。」 学 習 も教育 も,自 然 の その と きの全 体 が本 人 において,ま た本 人 に対 して 働 い て い るその 結 果 で あ り作 用 で あ る。 デ ュー イの 自然主 義 においては人 間 と経 験 が 自然 に属 す と されて い るが,経 験 は人 間 と環 境 との 相 互作 用 な い し トランスアクションに おいて 成立す るか ら,物 理 的 な環 境 もも ちろん 自然 に属 して い る。私 が想 定 す る三 つ の 教育 的要因 は か くてみ な 自然 に属 し, 自然以 外 には存 在 しな いの で あ る。 だ か ら本稿 で主 張 した 教育 規定 は ,学 習 と教 育 の 主体 を自然 に まで拡 げてい る,す なわ ちデ ュー イの 自然主 義 において想定 されて い るところの 時 間空 間的 に現 実 在す る と こ ろの 総体 と しての 自然 に ま で拡 げて い る。 そ して それ の 外 には認 め て い な いの で あ る。 こ うして個 人 の 学 習 を生 ぜ じめ る作 用 と しての教 育 とい う考 え方 は ,教 育主体 は その 学 習者 を含 む 自然 の 全 体 だ と い う考 え を包括 す ることがで きる。 した が って また. ,. 教育 は 自然 が 自然 の 作 用 で あ る学 習 活動 を通 じて,そ の 活動 を行 な う個 人 に 学 習 を生 ぜ じめ る働 きで あ る,と い うこ ともで きる。重要 な こ とは 学 習 と教 育 とは それ ぞれ,一 つ の行程 の 結 果 と作 用 だ とい うこ と,そ の 作用 (教 育 ) の 主体 は学習す る個 人 を必 ず含 むが,そ れだけでは な くて彼 の環境 をも含 み. ,. 自然 の 全 体 に伸張 して い るとい うこ とで あ る。 ルソーの 『 エ ミー ル』 で提 唱 されて い る教 育観 も「 自然主義的」 と評 され るで あ ろ う。 この 書物 で「 自然 (la nature)」 とい われて い るもの には ,倉 J 造主 もあれば ,山 川草 本 た る物理 的 自然 もあ るが,人 間 の 内 な る発展 力 と し ての 自然 が重要 で あ る。「 自然 か らの教 育 (1'6ducation de la nature)」 と い われ る と きの「 自然 」 が この 最後 の もの で あ る。 エ ミー ルの 教育 は 自然 か らの 教育 を主 軸 に して,そ れ を他 種 の 諸物 や 人 々 か らの 教育 が妨 げ な い よ う に して 行 なわれ る。 この 意味 で それも「 自然主義 的 」 とよば れて よ い もの で. H)拙 著 『デ ュー イ真理 観 の研究』,未 来社 ,1964年 ,362頁 。.
(24) I12. 教育 とは 1可 か. あろう。 しかしそれは今私 が「 自然主義的」 といいたいもの とは異 なってい る。 私 がこ うい う場合 の「 自然 」 は人 間 をも経験 をも内 に含 んだ世 界,宇 宙 ,と い った もの である。私 が主張 した い教育観 はデ ュー イ的 自然主義 の立場 か ら 位置 づ け られた教育 の 考 え方である。 それは学習す る個 人 とそれの環境 との 全体 を教育主体 とす るものである。 だが ルソーの教育観 は,そ の上 に,個 人 の うちな る自然 を主 たる教育主体 ,詳 しくは教育 の 目的 と過程 との両方 を支 配す る教育主体 ,と みなす ものである。 これはすで に一つの理 想的教育観 な のである。私 がまず もって必要 だ として求めてい るのは, さまざまな理想的 教育観 の位置 を見定 め るのに も都合 の よい よ うな,そ れ 自体 では何 ら理想的 であるか否 かには関 わ りのない教育 の考 え方 なのである。. V.人 為 主 義 的 教 育 観 教育効果 としての学習 がそこに生ず るところの個 人 と彼 の環 境 とを,自 然 の教育的要因 として認 め,そ れ以外 には教育 の主体 を認 めない 自然主義的な 教育観 に対 して,学 習す る個 人 を教育 の主体 として認 めず,彼 の外 なる環 境 の うちの社会的環境 の その また一部 で ある人 々一一親 とか教師 とか教育 者 と かい う一一 だけを教育 の主体 とみなす考 え方 がある。 この立場 では,学 習 す る個人 は 自 らの教育 の主体で はないゆ えに,単 に「教育 される者」,「 被教育 者」 とよばれる こ とになろ う。 そ して教育 の主体 に数 えられて い る者 は,被 教育者 た る学習者 に対 して外 から意図的 に働 きかける教育的要因だ とされて い るので ある。外 か らの意図的 な働 きかけを「人為」 とよぶ と, この立場 で 認 め られ ている教育 の主体 は人為的 な要因だ けで あるとい うこ とになる。 人為的要因 としての教育主体 の位置 は,自 然主義的教育観 の立場 か ら次 の よ うに図示 されるであろ う。. 瞬功 物理 ‖ 隊暮 界 人的要因 "至. に 111管 炉 属す 褒 │:][「 i々 `.
(25) 牧. 野. 宇 一郎. 」ノ3. この よ うに位置づけ られた人為的要因 は,教 育 力の 独 占者 ではな く,教 育 的要因全体 の一部分 として教育 に参カロす るものである。 これは重要 ではある が,こ れの働 きで教育 (的 作用)の 全体 を被 うこ とは到底で きない。 ところ が,教 育的要因 として人為的要因 だけ を認 め る教育観 は,よ く見かけるとこ ろであるか ら,例 をあげなが ら口 今味す ることにしよ う。 「教育は主体 としての人間が客 体 としての人間に対 して,こ れ を望 ましい 姿 に変 えよ うとして きまざまな方 法 で力 を及ぼ している働 きである。」 この定義 ない し規定は,教 育 の主体 を人為的要因 に限 る点 で, しか もこの 要因 の意図 にまで言及 して いる点 で,ま た主体 が客体 に働 きかけるとされて い るその働 きかけの結果 については何 も定めてい ない とい う点で,私 の定義 ない し規定 とは異 なってい る。 それは全 く,教 育 しよ うと外 か ら働 きかける 人的要因つ まり人為的要因 を中心 にした教育規定 である。 いや人為的要因 と それの働 き,す な わち人為,以 外 には何 に も言及 してい ない規定であ る。確 かに,教 育 が客体 としての人間 を学習 させ よ うとす る働 きだろ うとい うこ と は推 課1さ れるし,否 定 されては い ない といえよ う。 しか しこの定義 によれば. ,. 意図 された学習 が現実 には全然生 じな くて も,そ の学習へ の教育 は行 なわれ た とす ることがで きる。 これは教育 の主体 とされている人間 にとっては誠 に 有難 い規定であ る。彼 はただ相手 に望 ましい学習 を得 させよ うと意図 して. ,. さまざまな働 きかけをして い さえしたらそれでよいのである。 その結果,相 手 に その望 ましい学習 が生起するか否 かということは,教 育 の存否 にとってど う で もよいことなのである。すなわち私の定義 から見 ると,あ る学習 が生 じて い ないがゆ えにその学習へ の教育 は行 なわれていないと判断 しなければならな い場 合 に も,こ の定義 によれば教育 は立派 に行 なわれて いた とす るこ とが不 可能ではないの である。私 の定義 によれば学習 が生 じていて,教 育 が行 なわ れたことが歴 然 としてい る場合で も,こ の定義 によれば人為的要因 が働 いて い ないゆえ をもって全然教育 が なかったことになることがある。. 12)「 教育 」 の項 ,『 教育経 営事典』. 2,帝 国地方行政学会 ,昭 和48年 7月 。.
(26) I14. 牧. 野. 宇 一郎. 教育 を人為的な働 きに限 るこの種 の 考 え方 は,篠 原助市氏 の昭和24年 発行 の 『改訂理論的教育学』 にも出 ている。氏 は「教育」 を次 の よ うに定義 して いる。 「比較的 に成熟せ る前代の 人 々が比較的 に未成熟な後代の 人 々の発達 を助 成 しよ うとの愛 か らして,未 成熟者の 自立的活動 を目あてとす る意図的,永 続的 な作用」 教育 の作動因,教 育的な作用の源泉,な い し教育 の主体 としては人為的要 「未成熟者 の 自立的活動」へ の言及 があるでは ない 因 しかあげ られ ていない。 かと問 われ るかもしれないが,こ れは人為的要因 の「 日あて」 の 中 に位置 づ け られてい るにす ぎない。 だか らこの定義 について も, さきの定義 について いえるこ とと全 く同 じ批半Jが で きるのである。 前田博氏 の書物 を読 むと,い かに多 くの教育学者 が,教 育 をもっぱ ら人間 の 人間 に対 す る人為的な働 きと想定 してい るかがわかる。主 として ドイツ系 の学説 が取扱 われているが,そ の傾向 は どうもカ ン トや フ ィヒテ以来 らしい。 氏 によれば カン トはその『教育学』 において,「 教育は,そ の実行が多 くの世 代 を経 て完成せ られなければならない ところの クンス トである」 とのべ てい るとの ことである。 教育 は人 間以外 のいわゆる物 を相手 にす るテ クニー クとしての技術 とは異 なって,人 間 を相手 にするクンス トとしての技術で あるとか,テ クニークをも. Kunst"で あろ うが 内 に含んだ 高次 の芸術 で ある一一 「芸術」 も独語 では “ 一一 とか, さまざまな主張 があるよ うであるが,い ずれの場合 も教育 は教育 主体 たる人間が行使 す る意図的 な働 き,す なわち人為だ とされて いる点 は変 わ りがない。 この種 の教育観 は一口 に,「 人為主義的教育観」 とよんでよい と 私 は思 う。 私 の教育規定 は,教 育効果 た る学習 がよ くて もわるくても,学 習 さえ生ず. 13)篠 原助市 『改訂理論的教育学』,協 同出版株式会社,昭 和24年 4月 ,43頁 。 14)前 田博『教育本質論』,朝 倉書店,昭 和31年 9月 ,60-61頁 。.
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