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一貫性と無矛盾性

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一貫性と無矛盾性

飯田 隆

1980

年; 改訂 2012 年

なぜ数学に矛盾があってはならないのか—では、なぜ、われわれ の単純な言語ゲームに矛盾があってはならないのか。(もちろん、 ここには、ある関連がある。)それでは、これは、考えられうる いかなる言語ゲームをも支配する根本原則なのだろうか。 ウィトゲンシュタイン1

I

『形而上学』Γ 巻におけるアリストテレスは、矛盾律をめぐっては非常に 長い(そしてまた非常にわかりにくい—「機嫌の悪い bad-tempered」とい うアンスコムの形容2がぴったりの)議論を展開しているのに対して、排中律 については比較的短い議論で済ませている。この不均衡は過去百年ぐらいの 論理研究の伝統からは若干奇異に感ぜられる。というのは、古典論理のもっ とも有力なライバルとして出現した直観主義論理が古典的な二値性の仮定の 超越性を問題として以来、排中律をめぐっては多くの議論がなされている3 に対して、矛盾律そのものが問題として取り上げられることは、このような この論文は発表時「連接性と無矛盾性」という標題であったが、「連接性」を「coherence」 の訳語として用いるのには無理なことに気付いて、いったん「斉合性と無矛盾性」という標題に 改めた。しかしながら、「斉合性」という表現は漢字の意味から言ってありえないものであると の指摘を澤田多喜男氏から頂いた。「一貫性」を採用することのひとつの問題は、「真理の整合説

coherence theory of truth」という表現があまりにも強く定着しているので、これを「真理の 一貫説」とするのに抵抗があるということだが、これは単に慣れの問題であると思いたい。ま た、この論文はもともと三節から成っていたが、今回、最初の節を削除することによって、その 前身である、一九七九年秋の東京大学における哲学会での発表に近い形に直した。[2012 年付記]

1L. Wittgenstein, Remarks on the Foundations of Mathematics, 3rd ed., 1978, Basil

Blackwell, IV–57.

2G. E. M. Anscombe and P. T. Geach, Three Philosophers, 1961, Cornell University

Press, p.39.

3直観主義論理のもつ哲学的含意についてのもっとも深い議論はダメットの著作に見いだされ

る。たとえば、次を参照。M. Dummett, “The philosophical basis of intuitionistic logic” in

Truth and Other Enigmas.邦訳が、M・ダメット、藤田晋吾訳『真理という謎』(一九八六、 勁草書房)に収められている。

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伝統のもとでは4ごく少数の例外—そのもっとも重要な例として後期のウィト ゲンシュタイン5をここに含めてよいと思われる—を除いてはまずほとんどな いと思われるからである。現代のある哲学者が言うように、「矛盾律を受け入 れないとする道が何の役にも立たないということはあまりにも明白であるの で、われわれはその問題をほとんど論議する気にさえならない」6 というの がこのような事情を説明しているだろう。 しかし、矛盾律の拒否はそれほど明白にわれわれの行動や思考の全面的崩 壊へと導くのだろうか。もしそのようなことが正しいとすれば、それはそれ 自体実に驚くべきことではないだろうか。その根拠を問うことは、われわれ の言語活動のある本質的な特徴(それを欠いては言語活動が存在しえないと いう意味での)を示すことに役立ちはしないだろうか。 こうした設問が以下の議論の動機を成している。これらの設問に答えるた めに有効な方法のひとつは、次のようなものであると考えられる。すなわち、 いまひとつの仮想的な社会を考え、その社会に属する人々がわれわれの言語 活動と類似した活動に従事しており、われわれはその活動についての理論を 構成する立場にあるとする。さらに、われわれが構成すべき理論の対象であ る活動が言語活動であるという仮定のもとでは、これらの人々が矛盾律を受 け入れていないという結論が引き出されるとしよう。このとき果してわれわ れは、これらの活動についての理論を、それが言語活動についての理論であ ると見なせるような形で構成できるだろうか。もしこの問いに否定的な答が 与えられるとするならば、矛盾律の受容は言語活動の本質的特徴であるとい う結論を得ることができるだろう7。 ところで、以下の議論では矛盾律の二つの形式を扱う。第一の形式は、こ こでは「弱い形の矛盾律」8と呼ぶが、すべての文が真であってかつ偽である ことはないことを主張する。第二の形式(強い形の矛盾律)は、真であって 4もちろん、この伝統の外ではこれは当てはまらない。そのもっとも悪名高い例としてはヘー ゲル以降の矛盾律をめぐる議論が挙げられよう。筆者の関心はこのような問題設定とはまったく 無縁である。(しかしながら、次のような純粋に傍観者的な感想を書きつけたいという誘惑には 結局抗しきれなかった。すなわち、もしヘーゲルが真理の一貫説を取っていたことが真であり、 かつ、次節で論じられるように、矛盾を含む理論がもっとも一貫しているとする可能性があるな らば、ヘーゲル的なファンタジーはファンタジーであるとしてもそれほど支離滅裂なものではな いのではあるまいか。)

5このことをもっとも明瞭に証拠立てるのは、次の講義録である。C. Diamond (ed.),

Wittgen-stein’s Lectures on the Foundations of Mathematics. Cambridge, 1939 , 1976, Harvester

Press. 矛盾に対するウィトゲンシュタインの態度は、近年、多くの著者によって議論されて

いる。対照的なものとして、次のふたつを挙げておきたい。 C. Wright, Wittgenstein on

the Foundations of Mathematics, 1980, Harvard University Press, Chapter XVI; C. S.

Chihara, “Wittgenstein’s analysis of paradoxes in his Lectures on the Foundations of

Mathematics”, The Philosophical Review 86 (1977) 365–381.

6Anscombe & Geach, Op. cit., p.44.

7こうした問題の定式化からも明らかであるように、われわれの議論そのものは通常の(矛盾

律に従う)論理に従って行われる。(もしもそうでないような論証があるようなことがあれば、 それが誤りであることを認めるのにやぶさかではない。

8これは、パトナムが「もっとも弱い形の矛盾律」と呼ぶものである。H. Putnam, “There is

at least one a priori truth” Erkenntnis 13 (1978) 153–170 (Reprinted in his Realism and

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かつ偽であるような文は存在しないことを主張する9 弱い形の矛盾律を受け入れないとするような言語活動を考えることができ るであろうか。弱い形の矛盾律を受け入れないとすることは、すべての文が 真であると同時に偽でもあると主張することである。言語活動でありながら、 こうした主張がその底にあると結論できるような活動とはどのようなものだ ろうか。いまここで架空の部族を考え、それを「γ 族」10と名付けよう。こ の部族をただ表面的にのみ観察する人間は、かれらがわれわれと同じ日本語 を喋ったり書いたりしていることを疑わない。γ 族の人々は日本語とまった く同じ音声規則に従って音を発し、その発せられた音は日本語の文形成規則 によって分節化することができる。かれらは一見(一聴?)世間話に興じる ように見え、一見日本語で書かれているとしか思えない新聞や書物を読むよ うに見える。しかしながら、いったんかれらの発する音声を日本語として受 け取ったとき、観察者は途方に暮れてしまうことになる。というのは、観察 者が日本語で提出するいかなる質問に対しても、γ 族の人々から返ってくる 答はまったく一貫性を欠くように思えるからである。(γ 族の人々のあいだで も、問いを出してそれに答えると見えるような活動が存在する。)「P か」と いう問いに対して γ 族の人々は「はい」「いいえ」のどちらも無差別に使って 答えるように見え、「P か」と「P ではないのか」の二つの問いのどちらにも 同じく「はい」で答えたり「いいえ」で答えたりということが普通に観察さ れるのである。はじめのうちはこのように γ 族の答が一貫していないことを 偶然的な誤りのせいにしていた観察者も、観察を重ねるうちにこの事態が γ 族においてまったく一般的に成立するものと結論せざるをえなくなった。 γ 族が日本語を使って言語活動に従事していると仮定する限り、γ 族は弱い矛 盾律さえも否定しているという結論は不可避であるように思われる。 だが、このような結論は(われわれと同じように)日本語を話す観察者に とっては簡単に受け入れられるものではない。かれはこのような結論を回避 するためにはいかなる努力も惜しまないだろう。この結論を回避する道はい くつかありうる。第一の道は、γ 族は言語活動に従事しているが、そこで使 用されている言語は音声的ならびにシンタクティカルにたまたま日本語と同 じ構造をもっているだけの何か日本語はまったく別の言語であると仮定する ことである。だが、このような仮定も何ら事態を改善しないということは考 9この二つの形式の相違は、図式的には次のように表現できよう。「T 」および「F 」を、文に ついて言われる述語であって、それぞれ「真である」「偽である」を意味するとする。 弱い形の矛盾律の主張するところは、 ¬∀p(T (p) ∧ F (p)) であり、強い形の矛盾律の主張するところは、 ¬∃p(T (p) ∧ F (p)) である。 10この命名の由来は明らかであろう。この部族にかんすると思われる古代の記録はアリストテ レスの著作中に見いだされるが、そこで言及されているのが γ 族なのかそれとも(後出の)Γ 族 なのかは判然としない。

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えられる。γ 族の「言語」に対してどのような「分析的仮説」11を適用しよう とも γ 族の「言語」が弱い矛盾律に抵触してしまうという可能性がまったく ないとは言い切れないように思われる。第二の道は、γ 族の「言語活動」の ポイントがわれわれの言語活動とははなはだ異なった点に存するのではない かと解釈することである。たとえば、γ 族がある「文」を発するとき、かれら はその「文」が真であることを主張しているのではなく、その「文」が「文 法規則」によってかれらの「言語」に属すると認められるものであることを 主張している、という解釈が挙げられよう。しかし、このように解釈された 場合、γ 族の活動をいったい「言語活動」と呼ぶことができるだろうか。こ のような解釈は次に述べる第三の道とほとんど変わりがないように思われる。 もちろん、第三の道は、γ 族の活動は言語活動ではないとすることである。γ 族の活動が言語活動としては理解不可能であるにもかかわらず γ 族の社会生 活が支障を来たすことなく継続されていることを説明するのにほとんど絶望 的になった観察者は、次のような大胆な仮説を立てても許されると考えるか もしれない。すなわち、γ 族は互いに一種のテレパシーによって意志の疎通 を行い、かれらが発する音声やかれらが書き記す「文字」はむしろある種の 美的活動の産物である12、と。γ 族の活動を弱い矛盾律を拒否する言語活動 と見なすことを観察者がかくも忌避するのは、そのように見なされた活動の ポイントがまったく了解し難いからに他なるまい。したがって、少なくとも 弱い矛盾律は、言語活動の本質を成す論理法則であると言えよう。この結論 がいかに僅かなものであると見えようとも、もし以下の議論が正しいならば 既に強い矛盾律において同様のことが言えないということから、その重要性 は決して無視できないものである13 さて、われわれはもうひとつの部族 Γ 族を考察しよう。Γ 族への訪問者は、 かれらが非常に高度の文明をもっているらしいということに気付く。Γ 族は われわれと同様の言語活動を行っているように見えるが、かれらと生活を共 にしているうちに訪問者は Γ 族がかれの出す質問に対して答える際に常に一 定の手続きに従っていることに気付かざるをえない。「P か」という質問に対 して Γ 族は常に紙の上で複雑な計算らしきものをしてから答えるのである。 このようなやり取りを続けて Γ 族が質問に答えるために使うプロセスを研究 した訪問者は、Γ 族が「P 」の真偽を決定するために、ある理論からの演繹 によっていると推測する。すなわち、Γ 族が共通に受け入れているある非常 に強力な理論 T があって、「P 」が T から演繹されるときに Γ 族は「P か」 という質問に対して「はい」で答え、「P 」の否定が T から演繹されるときに 「いいえ」で答えるのではないか、という推測である。この T がいかなるも のであるかにいたく好奇心を刺激された訪問者は、幸運にも、(多分教育用に

11Cf. W. V. O. Quine, Word and Object , 1960, The MIT Press, Chapter II.

12ウィトゲンシュタインは、註 5 で言及した講義録のなかで、「計算式」を書き並べることが

まったく壁紙の装飾のためであるような風習をもつ人々について述べている。

13弱い矛盾律にこそわれわれは少なくともひとつの「ア・プリオリな」真理を見いだすことが

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発行されたとおぼしい)T の完全な記述を手に入れることができた。訪問者 がこれを研究してみて驚いたことには、T は実に明らかな矛盾を含む理論な のである! 古典論理(あるいは直観主義論理でもよいが)をカノンとしている国から 来た訪問者は、T が矛盾を含むならば T からはいかなる結論でも出るはずだ として、T が「非常に強力な」のは当り前だと考える。しかしながら、念の ために Γ 族の推論のプロセスを改めて検討してみた訪問者は、またもや驚い たことに、Γ 族の論理が矛盾の出現によって全体系が汚染されてしまうよう な種類の論理ではない14ことに気付かされる。すなわち、Γ 族が言語活動に 従事していると見なす限り、かれらは弱い矛盾律を拒否はしないが、強い矛 盾律を拒否しているのである。 しかし、このような記述だけから、Γ 族が強い矛盾律を拒否していると結 論するのは早計であると言われるかもしれない。T がいかに Γ 族のあいだで 明示的に定式化されており、訪問者が Γ 族の「奇妙な」論理を再構成するこ とができようとも、Γ 族が矛盾を含む理論 T にまったく満足しているはずは なく、訪問者が再構成した「奇妙な」論理は、理論 T に潜む矛盾の破壊的な 帰結を避けるために Γ 族が用いるアド・ホックな手順がわれわれに馴染みの ある論理に混入してそのように見えるだけである、と主張されるかもしれな い。Γ 族のような架空の部族を考えなくとも、矛盾を含む理論がその矛盾に もかかわらずその扱う分野に発展をもたらしうるということは、科学の現実 の歴史において見いだされる事実である。しかし、このような理論を使う科 学者は、厄介を引き起こしそうな部分から結論を引き出すことを単に(多く の場合「勘」によって)拒否するだけであって、かれはその拒否によってわ れわれが通常受け入れている推論の妥当性をも拒否しているとは夢にも考え ないだろう。 こうした反論は、一見もっともではあるが、われわれの議論の脈絡から言 うならば、それは、Γ 族の寓話のポイントを完全に見落としていると言わざ るをえない。問題は、強い矛盾律を否定するような言語活動が可能であるか どうかであった。Γ 族の公的な理論の裏に何らかの「隠された理論」を想定 する必要はどこから来るのか。それは、強い矛盾律を否定するような言語活 動の可能性を最初から考慮の外に置くことに他ならない。だが、まさに、こ うした可能性を描き出してみることが Γ 族の寓話のポイントなのである。 ともかく、こうした反論を招かぬために、Γ 族はその文明の最終段階とし て理論 T に到達し、この理論が、いかなる命題に対してもその真偽の基準と して Γ 族のあいだで採用されていると仮定しよう。(T がいかなる命題の真 偽をも原理的に決定できると仮定する必要はない。すなわち、T が、矛盾を 含んでいて—ある文は真であってかつ偽でもある—かつ、不完全である—あ 14Γ族の論理の候補としては、次の論文およびそこで引照されている文献を見られたい。G.

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る文は真でも偽でもない—ことは許される15。)理論 T とそれからの演繹が 中心的役割を果たすように解釈された Γ 族の活動は、たしかにわれわれの言 語活動とは大きく相違する。まずここでは真偽の観念は一次的な役割を果た すものではなく、むしろ T における演繹可能性から定義することができる派 生的な観念である。だが同時に、Γ 族の活動は「言語活動」と呼びうるに十 分なだけの特徴を備えていると思われる。すなわち、Γ 族はわれわれと同様 に公共的に認められるあるシンタクティカルな構造を用いてお互いに意志の 疎通をを行っていると見なせる。γ 族の活動をどうしても言語活動と見なせ なかった理由は、かれらがあるシンタクティカルな構造を共有しているにも かかわらず、その構造がかれらのあいだの意志の疎通において果たす役割が ありえないということであった。Γ 族の活動はこの点において γ 族の活動と は異なり、言語活動と見なせるだけの特徴を備えていると考えられる。 しかしながら、Γ 族の活動が強い矛盾律を拒否しているとすることには、 まだ次のような反論が考えられよう。Γ 族が強い矛盾律を拒否しているよう に見えるのは、結局、訪問者による Γ 族の言語の「翻訳」が誤りであるから に他ならない。つまり、Γ 族が強い矛盾律を受け入れないような言語活動を 行っていると主張することは、それだけでそのような主張をなす人間が Γ 族 の論理語の同定に失敗していることを証拠立てるものである16。このような 反論は、強い矛盾律を拒否する可能性をまったく認めないばかりか、異なる 論理の可能性そのものを否定することとなる。たしかに Γ 族の言語における 論理語の同定が具体的にどのように行われるかは問題であるが、これもまた Γ族の活動についての理論の一部門であって論理語の意味だけが他の考慮に 先立ってア・プリオリに決定されているとすることはできまい。実際、われ われの言語活動においてすら論理語の意味はそれほど明確であるかと疑って みる理由がある。何らかの類似性によって関連づけられた用法が各々の論理 語の意味を規定していると考えるのがむしろ実情に近いであろう。これらの 用法のうちのどれを中心的なものと見なすかは、理論的な考察をまってはじ めて決定されるべきものである。したがって、Γ 族が強い矛盾律を拒否して いるという結論に到達することを妨げるような理由をこの反論が提供してい るとは考えられない。

II

以上のような理由から、ある活動を言語活動と解釈したときそれが強い矛 盾律を否定することとなっても、単にその事実から問題の活動を言語活動で ないと結論すべきではないと思われる。しかしながら、強い矛盾律を拒否す 15Tの論理が古典論理のような種類のものでないことに注意。すなわち、矛盾を含むゆえにト リビアルに完全な理論となるようなことはない。したがって、矛盾を含むことと不完全であるこ ととは両立可能である。

(7)

るような言語活動の可能性を認めることは、そのような拒否に良い理由があ るとすることではない。 強い矛盾律の受容を説明するには、二つのルートがある。それらが、二 つの伝統的な真理観に照応することは偶然ではない。ひとつは真理を対応 (correspondence)に見るものであり、もうひとつは真理を一貫性(coherence) 17に見るものである。一見逆説的であるが、前者から強い矛盾律に至るルー トは直接的であり、後者からのルートは間接的であることを以下に示そう。 真理の一貫説(coherence theory of truth)に従えば、ある命題の真偽とは それが他の命題から成る体系と合致するかどうかにある。言い換えれば、命 題は他の命題と一緒にもっとも一貫した体系となるときに真であると言われ る。ここで一貫性をどのように規定するかがもちろん問題であるが、伝統的 には、無矛盾性が一貫性の必要条件のひとつであることはほとんど自明のこ ととされてきた。もっとも一貫している理論(その理論に属するかどうかに よって命題の真偽は決定される)が矛盾を含んでいるようなことがありうる だろうか。このような理論の論理が古典論理のようなタイプのものであるな らば、その理論のどこかに矛盾が出現することは直ちに弱い矛盾律の侵犯へ と導くことになり、その理論の価値は無に帰する。しかしながら、そこで採 用されている論理が強い矛盾律を犯しはするが弱い矛盾律には抵触しないよ うなものであったらどうだろうか。真理の一貫説の基本的なモチーフは、理 想的な統一理論が満たすべき条件を言語の外へ出ることなしに求めることに よって命題の真理性を定めようということにある。このような条件として伝 統的に挙げられてきたものは、包括性、無矛盾性、単純性などであるが、そ れらの条件をすべて完璧に満足するような理論が存在するという保証はない。 したがって、これらの条件のあいだのトレード・オフといったことは考えら れうる事態である。その際に無矛盾性が他のいかなる条件に対しても優先さ れるという理由はあるだろうか。(もちろん、ここで言う「無矛盾性」とは、 強い矛盾律を犯さないという意味である。)矛盾を含むがトリビアルではない 理論が、他の矛盾を含まない理論のどれよりも包括的で単純であって云々と いった可能性は、ばかげた空想のように見えるが、(少なくとも一貫説の立場 からは)最初から拒否してかかるべきものではあるまい。 真理を一貫性によって定義する立場を取る限り、矛盾の出現を許されない ものとする次のような反論は効力をもちえない。すなわち、もし矛盾を含む ような理論がもっとも一貫したものとされるならば、その理論は偽である命 題を含むこととなる。偽である命題を含むことが明らかであるような理論を もっとも一貫しているとして採用することはナンセンスもはなはだしい、と。

17“coherence theory of truth”を「真理の整合説」と訳する伝統は、coherence と consistency

の相違を不明瞭なものとし、本文で提起しているような問題そのものを抹殺しかねない。(本文 でその可能性が考慮されているような coherent inconsistent theory を「整合的な矛盾した理 論」と訳したのではまったく incoherent になろう。)coherence が consistency を含意すると いう伝統的な立場を取る場合でも両者の相違は用語的に明確にされねばなるまい。したがって、

“coherence”の訳語としては「一貫性」を、“consistency” の訳語としては「無矛盾性」を用

(8)

この反論は、真理の一貫説においては真偽が定義される観念であることを忘 れてしまっている。真理を一貫性によって定義する立場では、ある命題 P が 真であるとは P がもっとも一貫した理論 T に属するということであり、P が 偽であるとはその否定が T に属するということであろう。したがって、T が 偽である命題を含んでいてはいけないという要請は、その否定が既に T に属 するような命題が T に属してはいけない、すなわち、T は矛盾を含んではな らないという要請に他ならない。先の反論は、結局、T が矛盾を含んでいる ならば T は矛盾を含んでいるからいけないということでしかない。 真理の一貫説の源のひとつとして数学的知識のあり方が挙げられよう。数 学的知識においてこの観点から注目されるのは、数学が演繹的な諸関係によっ て緊密に組織立てられている理論の形で現われ、数学的命題の真偽がその証 明可能性・反証可能性(否定命題の証明可能性)に置き換えられうるように 見えるといった点であろう。ところで、証明という観点からのみ数学的活動 を見る場合、大胆な論理の変更さえ伴えば、矛盾の出現は数学的活動に壊滅 的な打撃を与えるようには思えない。(もちろん、「大胆な」論理の変更は、 現に行われているような数学的活動にとっては壊滅的な打撃となるであろう が。)たしかに、現在形式的体系として整備されている個々の数学的理論はす べて、そのベースとなる論理として、矛盾命題からはいかなる命題も帰結す るような論理を採用している。したがって、このような体系でいったん矛盾 が証明されてしまえば、その体系の言語で表現されうるすべての命題が証明 できる(しかも万能な証明法が存在する!)ことになる。しかし、このよう な論理ではなく、強い矛盾律の拒否が弱い矛盾律の拒否へと導かないような ごく弱い論理を採用するならば、矛盾が出現したとしても、そのことによっ て数学者の証明活動がまったくトリビアルなものとなるようなことはもはや ない。 しかし、いくら数学が「人間の自由な精神の創造物」であるとしても、数 学は諸々の科学理論を通じて経験に適用されるのであり、数学において矛盾 を容認することは、たとえば橋が落ちるというような事態を引き起こすがゆ えに許されない18といった反論が考えられよう。このような反論を回避する 道としては、矛盾がすべてを汚染するという立場を取らない以上、不都合な 結果を招かないような具合に個々の矛盾を隔離することが可能であると主張 することがひとつであろう。しかし、なぜ矛盾は隔離されなければならない 18ウィトゲンシュタインと、彼の講義に出席していたテューリング(あのテューリングである)の

あいだの次のようなやり取り (C. Diamond (ed.), Wittgenstein’s Lectures on the Foundations

of Mathematics, p.212)を参照。 W:私が言いたいのは、矛盾があったとしても、それが必ず厄介を引き起こす などということはない、というだけだ。 T:私が考えていたのは、ある論理体系、ある計算の体系があって、それが橋 を架けるのに使われる場合です。この体系を与えられた人々はそれに従って橋を 架けますが、橋は落ちてしまいます。その後でその体系には矛盾が存在すること が発見されます. . .

(9)

のか。それは、結局、いわゆる経験命題に関しては(強い)矛盾律を受け入 れざるをえないという理由からだろうか。たしかに「このテーブルの表面は 全体にわたって茶色であって、かつ、全体にわたっては茶色でない」といっ た言明に同意を与えうるような場合を考えることはまず不可能である。しか し、われわれの経験の全体をもっともよく説明しうるような理論がその高度 に理論的な言明のうちに矛盾を含んでいるといった可能性を頭から無視して かかることができるだろうか19 もちろん、真理の一貫説の立場からでも、理論の包括性、単純性、等々と いった点の一般的考慮から出発して、無矛盾性がもっとも一貫した理論の必 然的な要件であることを証明することは十分考えられる。しかし、無矛盾性 の要請に至るこのように間接的な道は、無矛盾性を真理の必要条件とするわ れわれの確信の根強さを十分には説明しえないように思われる。われわれの 言うことが真であったり偽であったりするのは、何かわれわれが言葉を使う という行為からは独立である事態の存立・非存立によるのだという考え方は、 それから脱却することに非常な困難を覚えるほど根強いものである。真理の 一貫説は、まさにこのような考え方を廃棄することをわれわれに要求するの であり、われわれの構成する理論がわれわれの言語活動とは独立に存在する 何かの描像であるという考え方を拒否するのである。 他方、真理の対応説の核心はまさにわれわれのもつこのような実在論的傾 向の表明に存する。そこでは、強い矛盾律の採用は、排中律の採用とともに、 命題の真偽という観念を構成するものに他ならない。真理の一貫説は、もっ とも一貫した理論が強い矛盾律に従う論理をもつことを単に仮定してきた。 しかしながら、真理についての理論は諸真理のあいだの関係をも扱いうる理 論でなくてはなるまい。もっとも一貫した理論は、それを支配する論理をも 含めて決定されるべきであり、論理そのものは固定されているとするのは、 一貫説の立場からして一貫しないものであろう。無矛盾性と一貫性とのあい だに必然的な連関があることを保証しないかぎり、真理の一貫説はわれわれ のもつ真理観についての理論としては真理の対応説に一歩を譲らなければな るまい。だが、伝統的な真理の対応説の中心概念である「対応」がそのまま で十全な真理観を提供するとはまず考えられない。強い矛盾律の正当化とい う問題の解決は、結局、われわれが真理の対応説の十全な定式化に成功する かどうかにかかっていると言えよう。 19理論的言明にのみ矛盾の出現を許し観察言明には矛盾が現れないような公理化された理論 Tがあるとすれば、T の観察言明のみを定理としてもつ公理化された理論 T′の存在がクレイグ の定理(Craig’s Theorem)から言える。(クレイグの定理の適用条件は、ここで扱われている ような「奇妙な」論理をもつ公理系にも当てはまるほど一般的であると思われれる。)このとき T′は無矛盾な理論となるが、T′は極度に redundant な公理系となるために、無矛盾性が最優 先されるのでない限り T′が T よりもより一貫した理論であるとされることはあるまい。

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