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タンバレインの死を主題とする第二部は,第一部に比べると大変低い評価を 受けている。そもそも第一部が評価されるとは言っても,ブランク・ヴァース による大胆な謳いぶりが注目されるのが主で,芝居としては必ずしも高く評価 されているわけではない。したがって,第二部は著しく低く評価されていると 言ってよい。批評家の間でこれほどの不評を買う理由としては,第二部は第一 部が好評を博:したのをうけて短期間に急いで書き上げられたものであり,しか もマーロウは第一部ですでに主二二に関わるエピソードをほとんど使い果たし ていたために,関連性の薄い雑多な材料の寄せ集めになってしまっているこ と,そればかりか,第二部では第一部の輝かしいタンバレインの姿が見られな くなり,その結果ないしは原因として,英雄像を支えていたブランク・ヴァー スも調子が落ち,見るべきものが少ないことなどが指摘されている。要するに, 内容・表現ともに緊密さにおいて欠ける所があるというのが第二部に対する大 方の反応なのである。 このような見方に異議を唱えたのがヘレン・ガードナーの論文である。その 中で女史は,一般に広く浸透している不満を意識したためか大変遠慮がちにで はあるが,第二部はすぐれた劇というわけにはいかないけれども,普通考えら れている以上にはすぐれている,また,様々なエピソードや副筋が内容の上で 主筋に結びつくシェイクスピア流の筋立てをある程度見ることができる,とい ラ う意味のことを主張している。解釈の当否はひとまず措くとして,この論文の 1) Helen Gardner,‘The Second Part of“Tamburlaine the Great”’, Modern五an’ guage Rewiew, XXXVII (1942), p. !9.82 彦根論叢 第237号 画期的意義は何よりもまず,第二部を取りとめのないものと考える従来の大雑 把な捉え方,場合によっては,ほとんど無視して顧みようとしない態度に反省 を促した点にある。 女史が批判する不当な取扱いの背景には,劇作家マーロウについてのある固 定したイメージがあったことは言うまでもない。ということは,第二部には, そのイメージとは異質のものが多分に含まれているということである。しかし ながら,いわゆるマーロウらしさを欠いている作品の中に,却ってマーロウ理 解を深めうるものを見出すことも不可能ではないと思われる。以下は,そのよ うな眼で眺めてみた第二部の特質についての覚書である。 1 第二部が二二な動きのあまりない重苦しい芝居であると考える点では,第二 部を否定的にしか捉えようとしない側も,何らかの意味で評価しようとする側 も一致している。これは主人公が直接関与しない副次的なユピソードに依る所 も大きいが,ガードナーに劣らず重要な論文の中でクリフォード・リーチが指 摘しているように,タンバレイン自身が登場する場面についても事情は大して 2) 変わらない。第一部と同様に征服は確かに続けられて行きはするけれども,力 強く前進していくような勢いは舞台には見られないし,また,劇的要素に乏し いことも否めない。むしろ濃厚な停滞感が第二部全体を包んでいると言った方 が相応しいほどである。当時の世界地図であったオルテリウスのそれを解説し ているにすぎないとさえ思われる,征服の成果を報告する場面(1幕3場)や, タンバレインが息子たちに築城術を長々と指南する場面(3幕2場)などは, その端的な表われであろう。しかし,これらの場面でさえ,停滞感のもたらす ただならぬ雰囲気と多少なりとも関わっているというふうに見ることも可能 で,単に芝居づくりの拙劣さを指摘するだけでは,必ずしも十分とは思われな い。つまり,第一部と第二部とでは,同じ平板さという言葉を使うにしても, 2) Clifford Leech, ‘The Structure of Tambz‘rlaine’, Tulane Drama RewieTv, VIII (1964), p. 40.
『タンパレイン・第二部』覚書 83 その意味合いはかなり違ってくるのである。 一 内容に一歩踏み込んでみると,そのことはより明瞭になる。タソバレイン自 身,第一部で見られた精彩を欠いていることも事実だが,中心人物としての彼 を取り巻く状況がすっかり変わってしまっていることを,まず理解しておく必 要がある。その様々な要因のうちで第一に取り上げねばならないのは,妃ゼノ クラティーを襲う突然の病と死であろう。これがどれほど大きな意味を持って いるかは,舞台奥のベッドに横たわり死に直面している妃の前で,タンバレイ ンが次のように謳い出す場面に容易に見てとることができる。 Black is the beauty of the brightest day; The golden bal正of heaven’s eterrlal fire That danced with glory on the silver waves Now wants the fuel that inflamed his beams, And all with faintness and for foul disgrace He binds h三s temples with a fエowning cloud, Ready to darken earth with endless night. の (1工。三v.1−7) 征服の成果に燦然と輝くべき舞台に暗雲が立ち込め,底知れぬ夜の闇が訪れよ うとしていることが表現されているわけであるが,それが対比を鮮明にするか たちで表現されている点が印象的であり,また重要である。振り返って考えて みると,第一部では,ゼノクラティーは,タンバレインに光を与える存在とし て,言葉を尽して賛美されていたし,また,そこまで遡らなくとも,第二部で タンバレインが舞台上に初めて姿を見せる時に,その口を開いて出る言葉も Now bright Zenocrate, the world’s fair eye Whose beams illuminate the lamps of heaven, Whose cheerful looks do clear the cloudy air And clothe it in a crystal livery... (]1. iii. 1−4) 3)引用はすべて,J. S. Cunningham(ed.), Tamburlaine the Great,‘The Revels Plays’(Manchester Univ. Press,1981)による。
84 彦根論叢.第237号 となっている。それだけに,現代であれば照明が一変するほどの,大きく,か つ重要な変化があったことが,ここではフォーマルなレトリックでもって強調 されているわけである。 タンバレインは続いて,ゼノクラティーを迎える用意をする天の様子を描写 していくが,そこでも,同様の様式的な表現法が使用されており,なかでも, 全体で五度繰り返されるリブレインは特に興味深い働きをしている。 Now walk the angels on the walls of heaven, As sentinels to warn th’immortal souls To entertain divine Zenocrate. Apollo, Cynthia, and the ceaseless lamps That gently looked upon this loathsome earth, Shine downwards now no more, but deck the heavens To entertain divine Zenocrate. (皿.iv.15−21) 同じようにリブレインが使用されている箇所が第一部にもあったことを,ここ で思い出しておく必要があろう。自ら生命を断って無惨な姿を晒す,トルコ王 バジャゼスとその妃を前にして,ゼノクラティーが,運命の転変という伝統的 な考え(sic transit gloria mundi)を訴えかける場面がそれである(v. i.353− 63)。二つの場面にリフレインという趣向が共通しているだけでなく,表現さ れる内容にも相通ずるものがあることは注目すべきことである。ということ は,リフレインという形式が,内容の上でも二つの場面を結びつける働きをし ているということになろう。しかも,タンバレインのセット・スピーチのすぐ 後には,ゼノクラティーの次のような言葉が続いているのである。 1 fare, my lord, as other empresses, That, when this frail and transitory flesh Hath sucked the measure of that vital air That feeds the body with his dated health,
『タンバレイン・第二部』覚書 85 Wanes with enforced and necessary change. (]】[.iv.42−46) とすれば,語り手がゼノクラティーからタンバレィンに変わってしまっている ことが強く意識されてくるのは当然めなりゆきと言わねばならない。 儀式的要素が多分にあり強い印象を残す場面で,タンバレインがこのような の 語りをすることは象徴的な意味を持っている。内容・表現のいずれにおいても, 大胆で緊張に充ちた第一部の語りとは明らかに異なる,様式的な表現によっ て,タンバレイン自身が,重苦しい停滞感と決して無縁ではないことが示され ていることになるからである。その意味で,第二部の基調音と考えられるもの が,この場面で設定されていると言っても過言ではない。事実,この場面を大 きな転換点として,ゼノクラティーが,タンバレインにとって,その征服欲を 駆り立てる象徴的存在から,この世の無常を文字通り表わすひとつのシンボル に変わるのに伴ない,英雄的人物も,征服を続ける一方で,ゼノクラティーが の象徴する世界に不可避的に引き沼り込まれていくのである。 タンバレイソの場合とは対照的な活露な動きは,皮肉にも,むしろ彼を敵視 する側に見ることができる。その中でも,トルコ王バジャゼスの息子で,タン ノミレインの捕虜となっているキャラパインは,とりわけ重要な意味を持つ人物 である。重要と言うのは,単に彼が父のバジャゼスとは違って戯画化されてい ないという理由からではない。大事な点は,キャラパインが第一部戸外ンパレ インと類似した人物ないしは,その小型版として位置づけられているふしがあ るということである。それは,キャラパインが牢番を買収する場面に興味深い かたちで表われていて,特に,脱走に手を貸す見返りが,次のような言葉で約 束される点が注意を引く。 4) この場面の様式性については,Wolfgang Clemen, English Tragedy Before Shake− speare, trans. T. S. Dorsch(Methuen,1961), pp.126f.に詳細な分析がある。 5)ゼノクラティーを象徴として捉え分析しているもので参考になるのは,たとえば Judith Weil, ChristoPher Marlowe: Merltn’s ProPhet (Cambridge Univ. Press, 1977),PP.136f.である。
86 彦根論叢第237号 Athousand galleys ma皿ed with.Christian slaves I freely give thee, which shall cut the Straits And bring Armadoes from the coasts of Spain, Fraughted with gold of rich America. The Grecian virgins shall attend on thee, Skilful in music and in amorous lays, As fair as was Pygmalion’s ivory girl Or lovely 16 metamorphosbd. With naked negroes shall thy coach be drawn, And as thou ridest in triumph through the streets, The pavement underneath thy chariot wheels With Turkey carpets shall be covered, And cloth of arras hung about the walls, Fit objects for thy princely eye to pierce. (1. ii. 32−45) 語られる内容といい,語り口といい,このようなセリフは元来タンバレインの それであることは一目瞭然である。実際,第一部でタンバレインがゼノクラテ ィーやセリダマスを説得するくだりと何ら変わる所はない。したがって,この セリフはプ種のパロディーと言ってもよい質を具えていて,観客の笑いを誘っ たものであることは間違いないと思われる。 もちろん,笑われているのは表現だけではないであろ.う。リフレインを含む 先程のセリフの場合とはちょうど反対の関係になっているが,このようなパロ ディーによってタンバレィンのあり方が批判されているというのが,もし言い 過ぎであるとすれぽ,少なくとも,タソバレインの表わす価値観が相対視され ていると言うことはできる。それは,第一部でストック・フレーズと言っても いいぐらいに重要な位置を与えられていた And ride in triumph through Persepolis (1. v. 49) という一行が,上のセリフの10行目に,形を変えて忘れずに使われている所に も窺えよう。さらに,このような表現の面にとどまらず,キャラパインは,タ
『タンバレイン・第二部』覚書 87 ンバレインが第一部で羊飼から徐々に他位を向上させていったのと詠じよう に,逃走に成功した後,父バジャゼスの復讐を果たすべく活溌に準備を進めて いく点でもタソパレイソを想い起こさせる人物である。と同時に,まさにその ことによって,第二部のタンバレインとは好対照を成すことも忘れてはならな い。第二部は,プロットの上でも,タンバレインが登場する停滞感の濃厚な場 面と,キャラパイソに関わる場面とが,コントラストを示しながら展開してい のくつくりになっている。その意味では,第二部のタンバレイソは,劇の構造自 体によっても追いつめられると言えるかもしれない。 キャラバィンを代表とする反タンバレインの側の現実的言動に対して,タン バレイン自身に顕著なのは現実から遊離する傾向である。第一部に比べて大胆 さを増した誇張表現はその典型であって,大胆極まりない内容ゆえに,現実と の隔たりが顕になることは避けられなくなっている。特に,天空に関わる表現 が目立って増えているのは,その明瞭な兆候である。先に見た,死期迫るゼノ クラティーを憂える語りもそのひとつであったが,さらに興味深い例を,やは り同じ場面に見ることができる。ゼノクラティーがついに息絶えると,タソバ レィンは,次のような一節を含むセリフを語り出すのである。 Casane and Theridamas, to arms! Raise cavalieros higher than the elouds, And with the cannon break the frame of heaven, Batter the shining palace of the sun And shiver all the starry firmament, For amorous Jove hath snatched my love from hence... (1[. iv. 102−7) 妃の死に動顛している様子が,立て続けに用いられている命令法の動詞にょっ 6)たとえば,弓取り上げた場面(1幕2カ日の後に,タソバレインが初めて登場する 場(1幕3場)が続く。また,先に検討したタソパレインの場面(2幕4場)の後に は,キャラバイソがトルコ王に復帰する場面(3幕1場)が,さらにその後には,タ ソバレインが息子たちに築城術を教える場面(3幕2場)が続いている。
88 彦根論叢第237号 て表現されていると言ってよいが,内容に目を転じてみれば,「砲塁(cavalie・ ros)を雲よりも高い所に据える」などという.表現が,単にタンバレィンの悲 しみを強調していると言うだけでは済まされない。征服欲を高らかに謳い上げ ていた第r部のセリフとは違って,大言壮語が却ってその空しさを強く印象づ ける結果になっていると思われるからである。キャラパインがタソバレインの 語りをパロディーにしていることを,これに重ね合わせてみれば,大言壮語そ の.ものが皮肉な眼で見られているとさえ言えるかもしれない。いずれにせよ, このタンバレイソのセリフに添えられている,配下の部将セリダマスの次のよ うな評言を無視することは不可能である。 Ah, good my lord,’ b?@patient, she is dead, And all this raging cannot make her live. If words might serve, our voice hath rent the air; If tears, our eyes have watered all the earth; If grief, our murdered hearts have strained forth blood. (1. iv. 119−23) この冷徹な叱責の言葉が,タンバレインの意識に見られる現実離れを鋭く挟り 出していることは,少なくとも確かであろう。 このように,天空に関する表現がタソバレイソの地上での有り様を照らし出 すという逆説,あるいは,そこに見られる天と地との対比は,第二部の主題と 密接な関わりを持っている。第一部は曲折はありながらも,タンバレインの地 位の上昇を扱っていた。これに対して,第二部においては,タンバレィンは, 劇の始まりからすでに,「世界の第一の君主」(arch−monarch of the world) の とか,「地上の神」(earthly god)と呼ばれる存在になっていて,明らかに第 一部とは異なる所に焦点が移っている。タンバレイソに上昇の意志がないとい うわけではない。天上を指向する表現が如実に物語るように,その点では,む しろ飛躍的に強まっていると言うことができる。問題は,それと対比されてい 7) 工.iii.114, 138.
『タンバレイン。第二部』覚書 89 る地上の現実である。あるいは,その両者の問の落差と言った方が正確かもし れない。このような視点から見れば,妃の死を嘆く,次のタンバレインの言 葉は,実際のコンテクストにおける意味にとどまらない重要な含みを持ってい ると考えることができ.る。ことに最後の一行は,タンバレイン自身が,地上 (‘here’)における己の有り様,言いかえれば,第二部における自己の位置を, 図らずも言い当てているという意味で大変興味深い。 What god soever holds thee in his arms, Giving thee nectar and ambrosia, Behold me here, divine Zenocrate, Raving, impatient, desperate and mad... (]II. iv. 109−12) 地上の現実とは,窮極的には死に他ならない。タソバレインは,第二部にあ っては,征服者として能動的に死に関わるのみならず,逆に,死によって付き 纒われるという受身の立場にも置かれている点で第一部とは決定的に違ってい る。それは興味深いことに,同じ場面でのゼノクラティーの棺にまつわる,タ ンバレイン自身のある行為によって象微的に表わされるのである。すでに触れ たセリダマスの言葉にもかかわらず,タンバレィンは, Though she be dead, yet let me think she lives, And feed my mind that dies for want of her: Where’er her soul be, thou shalt stay with me... (]1. iv. 127−29) と述べて,棺(‘thou’)とともに遠征を続ける決意をするが,それは,この世 の無常のシンボルを,言わば同行させながら征嚴を続けることを意味していよ う。このように逆説的ないしは現実から遊離した意志を持って,タンバレイソ は劇の最後に至るまで,地に否応なく足をとられながらも,天を仰ぎ見続けて 行くのである。この辺に,リーチが「徒労感」(tiredness)という言葉で表わし
90 彦根論叢 第237号 う ている,第二部の重苦しい停滞感の最大の理由があることは間違いない。 皿 ゼノクラティrをはじめ,タソパレイン自身も含めて,この作品では実に多 くの人間が死ぬ。悲劇には死が付き物であると言ってしまえばそれまでである が,それにしても,登場人物の死に方ということが,これほど問題となる悲劇 も,そう多くはないであろう。この点に注目をすれぽ,評判の良くない副筋 も,実際には,タソバレイソの死を扱う主筋と大いに関係があることが理解さ れる筈である。 第二部開幕を飾る,ハンガリー王シギスモソドの死は,すぐれてマーロウ的 な特質を持っている。状況設定からしてそうで,これまで対立関係にあった, キリスト教徒のシギスモンドと,イスラム教徒でトルコ系の王オーケイニーズ は,タンバレインの軍勢が近づいていることから休戦協定を結ぶ。しかし,シ ギスモソドはその舌の根もかわかぬうちに,以下の理由から,イスラム教徒に 対する積年の怨みをこの隙に乗じて晴らすべきであるという臣下の進言を受け 入れて誓約に背いてしまうのである。 ...with such infidels, In whom no faith nor true religion rests, We are not bound to those accompiishments The holy laws of Christendom enjoin. . . (皿.i. 33−36) これは明らかにマーPウが好んで取り上げる主題で,たとえば,後の『マルタ 島のユダヤ人』で,上のセリフが主人公バラバスの次のような傍白の言葉とな って表われることはよく知られている。 It’s no sin to deceiwe a Christian, For they themselves hold it a PrinciPle, 8) OP. cit., p. 44.
『タソバレイン・第二部』覚書 91 9) Faith is not to be held with heretics: しかし,第二部において大事な意味を持ち,また,マーロウ劇らしくもある 側面は,盟約を破ったキリスト教徒シギスモンドの敗北と,その敗北をめぐ る,一種の意味深長な論議であろう。その論議の流れを辿ってみると,まず, キリスト教徒の背信に対する憤激が,異教徒のオーケイニーズによって次のよ うに表現されていることに注目しなければならない。 Can there be such deceit in Christians, Or treason in the fleshly heart of man, Whose shape is figure of the highest God? Then if there be a Christ, as Christians say− But in their deeds deny him for their Christ− If he be son to everliving Jove And hath the power of his outstretched arm, If he be jealous of his name and honour As is our holy prophet Mahomet... (巫.ii.36−44) 条件節の執拗な反復は挑面的ですらあるが,両陣営がそれぞれ,キリストとマ ホメットに対して,殊更に誓いを立てて盟約を結ぶ場面(1幕1場)とともに, このような表現法が,シギスモンドの死をどのように捉えるのかという問題を 導き出す役割を果たしていることも見落とすことはできない。オーケイニーズ が続いて語るセット・スピーチは,文字通り,その問題設定を行なっている。 それはまた,神的存在についてマーロウが抱いていた観念を表わすものとして ユの しばしば取り上げられ,しかも,後にマーロウ自身が『フォースタス博士』の 9) N. W. Bawcutt (ed ), The Jew of Malta, ‘The Revels Plays’ (Manchester Univ. Press 1978),皿, iii.311−13. 10) これがマーロウ独得の捉え方ではなく当時の正統的な見解と何ら抵触する所はない という見方も重要であろう。Cf. P. H. Kocher, Christopher Marlowe :AStzadyげ his Thought, Learning and Character (Russell rpt., 1962), pp. 97−100.
92 彦根論叢第237号’ エ 中で逆に地獄の描写に利用している部分を含む,大変有名な一節でもある。 . Open, thou shining veil Qf Cynthia, And make a passage from th’empyreal heaven, That he that sits on high and never sleeps Nor in one place is circumscriptible, But everywhere fills every continent With strange infusion of his sacred vigour, May in his endless power and purity Behold and venge this traitor’s per;,ury. ’ (1[. ii. 47−54) さて,このようにして視点を据えたオーケイニーズが退.場し場面が変わる と,戦いに敗れたシギスモンドが登場し,興味深いことに,前者の祈願があた かも成就したかに思わせる,次の言葉を残して息絶えるのである。 Discomfited is all the Christian host, And God hath thundered vengeance from on high For my accursed and hateful perjury. (皿. iii. 1−3) この一連の場面で,シギスモンドの死が直接,神の怒りにふれたかたちに見え るという点が恐らく重要であろう。あまりに明らかに見えると同時に,そこか ら却って疑問の余地が生じるように作られていると思われるからである。その ことは,自分の言葉が文字通り実現したと当然考えているオーケイ=一ズへの 反論として,その盟友の一人であるガゼラスに,劇作家が次のように語らせて いることにも窺え,る。 ’Tis but the fortune of the wars, my lord, Whose power is often proved a miracle. (工[.iii.31f.) ’11) J. D. Jump (ed.), Doctor Faustus, ‘The Revels Plays’ (Methuen, 1962), sc, v, 11,
122f. ’
『タンバレイソ・第二.部』覚書 93 要するに,問題がほとんど生のかたちで提示されながら,曖昧なままに残され てしまう所に,この場面のポイントがあって,その点で,後のタンバレインの 死と相通ずるものがある。したがって,シギスモンドをめぐる話は,主筋と無 関係どころか,第二部における最も重要な局面の伏線として捉えることが可能 なのである。マーロウが,シギスモンドという名前はタンパレインと同時代の ハンガリー王から取りながら,話の方は,タンパレインが直接関わらない,後 の時代からわざわざ借りてきた意味は,何よりもまず,この点にあったと考え てよいであろう。 タソバレインの臣下に征服されたバルセラの総督の妻オリンピアの場合も, また別の意味で手が込んでいる。しかも,その意味を考えるにあたっては,オ リンピアが,戦いで夫を失なった結果,残された息子とともに,その後を追お うと企てることで,最初から死と結びつき,舞台上に自ら死を招き入れる人物 であることに,まず注意を払っておく必要がある。 Death, whither art thou gone, that both we live? Come back again, sweet Death, and strike us both! One minute end our days, and one sepulchre Contain our bodies: Death, why comest thou not? Well, this must be the messenger for thee− Now, ugiy Death, stretch out thy sable wings, And carry both our souls where his remains. (=匿.iv.11−17) このような気持ちを持っているにもかかわらず,オリンピアは息子の生命を断 った所で敵方に囚われの身となり,さらに,その一人であるセリダマスに慕わ れるという具合に,話は複雑な展開を見せる。しかし,より複雑で,この場面 の焦点となっているのは,結局最初の決意通りに死ぬ時の,その方法である。 いくら求愛をされても,夫と息子を失なった悲しみから,死が, A fitter subject for a pensive soul (IV. ii. 26)
94 彦根論叢 第237号 と考える寡婦が,何とか死を手に入れようとして思い付く方法とは,銃弾も剣 も槍も通さないという塗り薬と偽って,その効き目を自分の首で試させること によって結果的に目的を果たす,という実に巧妙なものなのである。 ある学者によれば,このエピソードの背後には,テユーダー朝後期の芝居に しばしば登場し,後の『マクベス』中のマクダフ夫人の話などとも関連を持 12)つ,「武将と婦人」という常套的パターンがあるそうだが,マーロウが,その コンヴェンションをベースに,そこへ,アリオストーから借用してきたユニー クな自殺の物語を重ね合わせて作り上げたこの場面に,単なる埋め草以上の意 味を読み取ることは容易であろう。かりに埋め草であったとしても,登場人物 の的ないしは,その独得の死に方が焦点となっているからには,主筋に対して 深い連関を持つように配慮されていることは少なくとも明らかである。オリン ピアの「自害」には,その意味で,副筋が本来果たすべき役割が与えられてい ると言ってよい。 同じことは,この話のもう一方の当事者であるセリダマスについても当ては まる。それは,このすぐれた部将が,主君のタンバレインと,ある意味で類似 した状況に身を置いているという理由による。少し考えてみればわかることで あるが,セリダマスは,第一部でタンバレインがゼノクラティーに求愛したの と同じように,オリンピアを説得しようとする。また,相手に先立たれる点も 両者に共通している。そして,この場合もやはり,意識的に模倣された語り口 によって,それがわかるような仕揚けになっている所が大切である。セリダマ ユの スは,タンバレイン張りの求愛の言葉(‘sweet discourse of Iove’)を使用して いるし,また,死と向かいあうゼノクラティーを憂えるタンバレインの語りは セリダマスの次の痛恨のセリフに形を変えている。 Now hell is fairer than Elysium; A greater lamp than that bright eye of heaven, 12) D. M. Bevington, From ‘Mankind’ to Marlowe (Harvard Univ. Press, lg62), p. 208. 13) rv. ii. 39−45.
『タンバレイン・第二部』覚書 95 From whence the stars do borrow all their light, Wanders about the black circumference, And now the damned souls are free from pain, For every Fury gazeth on her looks: Infernal Dis is courting of my love, Inventing masks and stately shows for her, Opening the doors of his rich treasury To entertain this queen of chastity... (IV. ii. 87−96) 光と闇の対比の表現の仕方といい,リフレインとして反復されていたものが, 最後の行に,実質的にはほとんど元のままの形で見られる点といい,このセリ フが,タンバレイソの印象的な語りを想い起こさせるように意図されたもので あることは確かであろう。 ただし,決定的に異なっている所がひとつある。それは,タンパレインが専 ら天空の模様を謳っていたのに対して,1行目が端的に示すように,セリダマ スは主に地獄を描写している点である。オリンピアの自害に手を貸したことに 対する悔恨の情が表現されるわけであるから,当り前と言えば当り前である。 けれども,ここに主筋とのコントラストを見るだけでは十分とは思われない。 同じような枠を持ったセリフの中で,凡そ正反対の価値を示す内容が語られる ということの狙いは,すでに検討したキャラパインの場合と同じく,パロディ ーという手段でもって,タγバレインに対立する見方を示唆する所にあるよう に思われる。回しい地獄のイメージは,その明白な表われと言ってよい。確か に,この場面はある意味で滑稽である。しかし,それに関わる人物が,キャラ バィンとも,また,第一部で悲惨な最期を遂げるトルコ王バジャゼスとその妃 ゼイビーナとも異なる,タンバレインの腹心セリダマスであることは,この場 面を容易には無視し難いものにしており,主筋に対.して微妙な影を落とすこと は,まず避けられないと考えてよいであろう。 14) Cf. Weil, op. cit., p. 112.
96 彦根論叢 第237号 それが決定的と.なるのは,タンバレイン自身が直接関わり,しかも自ら手を 下す,息子カリファスの場合である。その死が,これまで扱ってきたものと比 べて,事の性質上,はるかに大きな衝撃を与え,また,重要な意味を持ってい ることは,自ずと明らかである。問題をさらに複雑にしているのは,カリファ スが,タンバレインにとって通常の意味の敵ではないにもかかわらず,その価 値観に真向から対立する人物であるという点である。:父親の教えに素直に従っ て戦に臨もうとする他の二人の息子たちとは対照的に,カリファスは,陣営に 引き籠ったままカード遊びに打ち興じ,そればかりか, My wisdom shall excuse my cowardice. (rv. i. 50) などと断言して憧らない。これに対して,タンバレインは,当然のことながら Image of sloth, picture of a slave (IV. i. 9. 1) という,同じく簡潔で要を得た言葉でもって応酬しているが,カリファスが, 単純な:意味で臆病な,あるいは怠惰な子供ではないことは,たとえば,戦に誘 う兄弟たちに対する,次の言葉によくあらわれている。 Away, ye fools, my father needs not me, Nor you, ln faith, but that you will be thought More childish valorous than manly wise: If half our camp should sit and sleep with me, My father were enough to scare the foe; You do dishonour to his majesty, To think our helps will do him any good. (iV. i. 15−21) このように冷静な観察者の眼を持っている点で,カリファスは,父親のような 武勲を求めて逸る気持ちを抑えることのでぎない彼らとは対照的である。タン バレィンにとって,様々な意味で手強い相手が登場したのである。
『タンバレイシ・第二部』.覚書 97 そのことを最もよく示す例は,やはり,次の有名な一節であろう。 Iknow, sir, what it is to kill a man− It works remorse of conscience in me. 1 take no pleasure to be murderous, Nor care for blood x?rhen wine will quench my thirst. (IV’. i. 27−30) タンバレインの価値観が4行目で,キリスト教の教義を踏まえ.た対比によって 郷諭され.ていることも見逃せないが,特に辛辣なのは,最初の二行であ.る。カ リファスの淡々とした語り口が,ちょうどタンバレインの激した語り口とは対 照的であるように,後者が追い求め.ているものの質が前者の醒めた眼に晒され ているのである。他ならぬその語り手に対して,ほどなく実践されることにな る行為を考えれば,一層その感が強まらざるをえない。このような子供らしか らぬ発言をするカリファスは,確かに,登場人物の出来栄えとしては傑作と言 ってよい。しかし,そう言って.笑ってばかりいられないのは,カリファスが, この場面で静かに告発するだけではなくて,現実にタンバレインに殺害される ことで,言わば身をもってアイロニーを実現することになるという微妙な役割 を持った人物であるからに他ならない。 カリファスをタンパレィンに対するアンチ・テーゼとして認めながら,劇全 体の中では取るに足りない存在としか考えない傾向が批評家の間にかなり見う ユら けられる。しかし,第二部の軸とな:っている,死ないしは死に方という側面に 対して,カリファスは,このように複雑な関係を持っているし,また,タンバ レインにとって重要な存在であったゼノクラテ.イーとの結びつきが,次の.よう に劇の早い段階で示唆されていることを考え.合わせれば,むしろ第二部の重要 な側面の一端を担っている人物と.考えるべきであろう。 15) たとえば,G.1. Duthie,‘The Dramatic Structure of Marlowe’s“Tamburlaine the Great”, Parts I and r, E∬aysαnd Studies, n, s.1(1948),などがそうであ る。
98 彦根論叢 第237号 But while my brothers follow arms, my lord, Let me accompany my gracious mother: 16) (1. iii. 95f.) ゼノクラティーにしろ,このカリファスにしろ,マーロウがこの作品のために 創造した登場人物であることがわかっている。とすれぽ,その事実は,両者の 役割に関して某かのことを語っている筈である。 カリファスの死にどれほどの意味が込められているかは,逆に,問題の場面 におけるタンバレイソのセリフを検討してみることによってもわかるであろ う。ここでもまた,興味深い対応と差異が見られるのは偶然のこととは思われ ない。そのセリフは以下のようになっている。 Here, Jove, receive his fainting soul again, A form not meet to give that subject essence Whose matter is the flesh of Tamburlaine, Wherein an incorporeal spirit moves, Made of the mould whereof thyself consists, Which makes me valiant, proud, ambitious, Ready to levy power against thy throne, That 1 move the turning spheres of heaven: For earth and aU this airy region Cannot contain the state of Tamburlaine. [Stabs cALypHAs.] (IV. i. 111−20) ジョウヴに対する呼びかけで始まるこの部分に,第一部でタンバレインが王冠 を手にしながら,抑え難い野心を大胆に謳い上げるくだりと,その内容におい て酷似するものがあることは歴然としている。特に,野心ないしは野心を抱く 16)他に,ゼノクラティーの墓碑を建てる場面でも,カリファスは三人の息子の中で最 も重要な役割を与えられているようである(3幕2場)。ただし,カリファスの性格 には,多少統一を欠く所があるのも事実である。Cf.1.iii.102f.
『タンバレイン・第二部』覚書 99 心が,‘move’という動詞を伴なって表現されている所に,第一部のセリフとの 結びつきを強く感じさせるものがある。しかし,類似しているのはそこまでの 話であって,全体から受ける印象はまるで逆である。第一部のセリフの場合, 17) 表現される内容が表現自体によって十分に支えられていたのに対し,ここで は,表現と内容との問に暴馬が生じていて,動的な意味を持つ言葉が使用され ているにもかかわらず,調子がいかにも平板で澱んでいるという印象を拭い去 ることは困難であろう。 この違いに,第一部と第二部の質の違いが集約されていると言っても決して 過言ではない。そのコントラストを印象づけることをおいて他に,マーロウが, 第一部であれほど大きな効果を発揮していた重要なセリフを,カリファスを殺 害するという問題の場面で,このようなかたちで再現していることの意味があ ろうとは思われない。このように複雑な反応を呼び起こすセリフを語るタンバ レィンの姿自体が,また興味深い。天上を仰ぎ見ながら,地上に平伏すカリフ ァスに刃を向ける様は,まさに第二部のタンバレインの量り様を示す象徴的な 姿とさえ言えるからである。いずれにせよ,息子の殺害に対する非難の声に晒 されながらも,タンバレイソは征服を続けて行く。しかし,これを契機として, タソバレインの現実離れは一層拍車をかけられることになる。劇がいよいよ最 終段階に入ったことを告げるカリファス殺害は,言ってみれぽ,タンバレイン 18)の自殺行為だったのである。 皿 ヵリファス殺害がタンバレインの死の隠れた表現であるとすれぽ,バビロン 攻略は,その表面化を象徴する出来事であろう。この最後に当たる遠征は,カ 17)拙稿「コンヴェンションとコントラストー『タンバレイン・第一部」の主題と手 法」『彦根論叢』第230号(1985年),6(レ61頁参照。 18) これに先立っ場面で,戦闘での負傷を恐れるカリファスに対して,タンバレインが 自分の腕を傷つけて,‘Awound is nothing’と豪語するくだりがあるが,ことによ ると,伏線的な意味があるのかもしれない(U・ii’110−!5)。オリンピアの「自害」 とも関連することはもちろんである。
100 彦根論叢 第237号 リファスが静かに,かつ鋭く写り出した,タンバレインの野心の裏面と言える ものの具体的表現として捉えられるからである。当時の舞台上演の際に事故を 起こしたことでも曰く付きの,バビロン総:督の処刑でクライマックスを迎える 一連の場面は,実際,第一部のバジャゼス虐待の場面に勝るとも劣らない狼雑 さに充ちていて,また,同じように購しい破滅のイメージに彩られている。し かも,その予兆はすでに,バビロン遠征に出発する直前のタンバレインのセリ フの中に,含みのあるかたちで表わされていて,カリファス殺害によって生じ た決定的な不協和音が,来るべき遠征においても断ち切られることなく続いて 行くことが暗示されているのである。 ...there my palace royal shall be placed Whose shining turrets shall dismay the heavens And cast the fame of llion’s tower to hell. Thorough the streets with troops of conquered kings I’ll ride in golden armour like the sun... (IV. iiL 111−15) タンバレイソはここで,諸国の征服を終えてサマルカンド(‘there’)に凱旋す る時の様子を思い描いている。しかし,描かれたヴィジョンに,表面の輝かし さとは裏腹の崩壊のイメージが潜んでいることは誰の目にも明らかであろう。 タソバレインにとって,バビnン遠征は,文字通り最後の遠征なのである。 その点を最も強く印象づけるのは,何と言っても,タソバレイソが,征服し た王を馬に仕立てて登場する戦車(chariot)のくだりであろう。バビロン攻略 の場面を通じて何度も登場してくる,この大胆でセンセーショナルな趣向が, 今のセリフに変形したかたちで表われていた,例のストック・フレーズの具現 であることは言うまでもない。しかし,それはタソバレインの野心を目に見え るかたちで表現すると同時に,その現実の姿の,少なくとも一面を,同じよう に赤裸々にさらけ出していることも否定できない。しかも,この趣向は,タン バレイソ自身の言葉が明らかにしているように,破滅型の人物の象徴.と言って
『タンバレイソ・■第二部」覚書 101 よいフ。エトソの晒た日輪の車が轍セ。な。てい乳 The horse that ggide t−he .gQlden, eye .of heaven And blow t−he morning from their nostrils, Making their fiery gait above the clouds, Are not so honoured in their governor As you, ye slaves, in mighty Tamburlaine. (IV. i圭圭.7−11) とすれぽ,野心の大胆な表現が,そのまま破滅の暗示として受け取られるのは 当然のことと言わなけれぽならない。天と地との鮮やかな対比も,舞台上の語 り手に見られる,言葉と現実との落差を強調する結果になっていることも注目 しておいてよい。そのタンバレインに今や捕われ,いずれは戦車を牽く身であ るオーケイニーズの喚起する地獄のイメージをこれに加えれば,そのコントラ ストは一層強められることになろう。 O thou that swayest the region under earth, And art a king as absolute as Jove, Come... (IV. iii. 32−34) ファェトンの辿った運命を背景に,際立ったコントラストのうちに繰り広げら れるこの場面は,まさに,地に足をとられざるをえないタンバレインの現実の 姿の縮図となっているので.ある。 このシーンは当時大変な評判をとり,シェイクスピアをはじめ,かなりの数 め劇作家によってパロディーの対象とされたことでも有名である。しかし,マ ーロウ自身, 19) ファエトンの名前は,劇の最後の場面でタンバレイン自身によって言及されてい る。Cf. V. iii.231,242−44. 20) この場面の直前に,オリンピアを殺害してしまったセリダマスが,地獄のイメージ に充ちたセリフを語るくだりがあるが,それも同じような効果を発揮するかもしれな い。 一
102 彦根論叢 第237号 Holla, ye pampered jades of Asia! (IV. iii. 1) という表現のみならず,この趣向自体を他から借りてきていることも忘れては ならないし,また,より大切なこととして,戦車が初めて舞台に衝撃的な登場 をする時はともかく,同じことが二度三度と繰り返されることによって,実質 的にはパロディーと同じ要素が生じてきているという点も見逃すことはできな い。もちろん,リーチが別の論文で強調しているように,単に,マーロウ以後 21) のパロディーのような爆笑を誘う場面と捉えるだけでは片手落ちであって,パ ロディーとは言っても,その狙いは,何度も繰り返すことを通して,タンパレ インのあるべき姿と現実との落差を拡大してみぜる所にある。それは,言いか えれば,タンバレインの華々しい行進が,実は,死へのそれに連なっているこ とが徐々に明らかにされるということでもある。この一連の場面を締め括るバ ビロン総督の処刑,あるいは,タンバレイン自身が言う所の The stately buildings of fair Babylon Whose lofty pillars, higher than the clouds, Were wont to guide the seaman in the deep... (V. L 63−65) の破壊は,征服の最後を飾るとともに,タンバレイソ自身に迫る死への序幕な のである。 そのタンバレインの死に関しても,同じように先例を意識した舞i台表現を見 ることができる。エリザベス朝の少なくとも前期までの,倫理的な色彩の濃い 芝居においては,断罪されるべき登場人物は,劇の最後の段階で,神の怒りに う ふれて突然,死に襲われて減れることになっていた。タンバレインの場合も明 らかに,その延長線上にある。というよりは,そのコンヴェンションが意識さ 21) Clifford Leech, ‘When Writing Becomes Absurd’, The Dramatist’s Experience and Other Essays (Chatto & Windus, 1970), pp. 65, 70f. 22)たとえば,トマス・プレストソ作『キャンバイシーズ』 (1570年頃)などは,その 典型である。
『タンバレ.イソ・第二部』覚書 10覧 れていることが,むき.出しになっていると.言った方がよい。なぜならば,通例 の場合であれば他の登場人物が神に訴えかけるのに対して,ここではタンバレ イン自身がマホメットに向かって,断罪を求める挑戦的な言葉を吐くことにな っているからである。 Now, Mahomet, if thou have any power, Come down thyself and work a miracle; Thou art not worthy to be worshippbd That suffers flames of fire to burn the writ Wherein the sum of thy religion rests. Why sendest thou not a furious whirlwind down, To blow thy Alcaron up to thy throne Where men report thou sittest by God himself− Or vengeance on the head of Tamburlaine That shakes his sword against thy majesty And spurns the abstracts of thy foolish laws? (V. L 186−96) バビロン総督を銃殺に処した上,さらにコーランを瞬ぎ捨てるという,挑擾的 かつ断罪に値する行為を重ねることで,コンヴェンションの前半に属する要素 は十二分に揃っている。そのうえ,このセリフを経て,場面が変わらないうち に,タンノミレインは, But stay, 1 feel myself distempered suddenly. (V. i. 217) という言葉とともに,突然,体の不調を訴えるのであるから,これは伝統的な 転落の型のパロディー以外の何物でもない。 タソパレイγが本当に神の怒りにふれたのかどうかについて,いろいろ議論 されることがある。しかし,そのような議論を呼ぶ所にこそ,マー一一 Pウの狙い があったと言った方が相応しいように思われる。パロディー的扱いは,そのひ とつの表われである。もうひとつは,ちょうどシギスモンドの場合がそうであ
104 彦楳論叢i第237号 ?一たs’うに,コソヴ ・i.ンションの基盤にある倫理観とほ対照的な見方が並置さ れていることで,ダンバ.レインの場合,、侍医による病状の詳しい報告がそれに 当たる(V。iii..82−97)。厳密に言えば,それは,タソバ・レインが病に倒れた原 因に直接触れているわけではないが,シギスモンドの敗北が単に運命のなせる わざにすぎないというガゼラスの発言と同様に,全く異なる次元の捉え方によ って,伝統的な倫理感に対するひとつのアイロニーにはなっていよう。少なく とも,タソバレインの病の窮極的な原因が何か,はっきりしないまま放置され ていることは確かであり,むしろ,そのような曖昧さを意識させることに,こ の場面の最も重要な意味があるとさえ言うことも可能である。 実際,タンバレインの死という第二部の中心的主題を扱う場面に関して大切 なことは,タンバレイソの死が神の怒りにふれたためのものか否かといった原 因の穿墾よりも,地上の覇者の現実の有り様の延長として,その最期がどのよ うなかたちで表現されているのかという点を検討することであろう。主人公の 23) 死に関する詳細な材料はなかったという事実からしても,ここは,マ・一一 Ptウが 劇作家としての個性を大いに発揮できる場面であった筈で,そのような視点か らの検討も不可欠になってくる。その端的な表われが,先程の導入部分におけ るコソヴエシションの意識的な用い方であったのである。さて,この極めて刺 .激的かつ曖昧なかたちの問題提示に続く,実際の死の場面も,同じく様式性を 意識した表現とともに始まっている。セ.リダマスを含む三人の部将が,ちょう どゼノクラティーに迫る死を嘆くタンバレインのようにして,合わせて41行に も及ぶセット・スピーチを順々に語って,主人公を迎える「背景」を用意する わけであるが,そのコロス風の表現によって舞台に厳粛な気分がもたらされる こ≧はもち・うんのこととして,三人のうち二人の部分を締め括る言葉が, Earth droops and says that hell in heaven is placed. (V. iii. 15, 41) となっていることにも注目しておかねばならない。間近に迫った終局がいかな る視点から捉られるべきかが,この第二部の根抵にある構図を簡潔に表現した ,.23) Una Ellis:Fermor (ed.), Tambarlaine the・Great (Gordian rpt., 1966), p. 272 n.
『タンバレイン・第二部』覚書 105 リフレインによって示唆されていると思われるからである。 それでは,このようにして設定された場面で,タンバレイソの死は具体的に どのように表現されるのであろうか。タンバレイソは,三人の部下の語りに応 える.ようにして,例の戦車に乗って.舞台に登場し,そして次のように語り.出す のである。 What daring god torments my body thus And seeks to conquer mighty Tamburlaine? Shali sickness prove me now to be a man That have been termed the terror of the worid? Techelles and the rest, come take your swords And threaten him whose hand aMicts my soul; Come let us march against the powers of heaven And set black streamers in the firmament To signify the slaughter of the gods− Ah friends, what shall 1 do? 1 cannot stand. (V. iii. 42−51) 内容・表現ともに,マホメットへの挑戦的な語りが,ここに引き継がれている どころか,一層過激なものになっていることは一読して明らかである。それだ けに,最後の行に見られる突然の降下は印象的である。命令文を重ねている点 といい,また,セリダvスの Ah, good my lord, leave these impatient words (V. iii. 54) という言葉が添えられている点といい,この語りはぜノクラティーの臨終に際 してのそれを想い起こさせるが,タンバレイン自身の言葉によって語りが中断 される所が決定的に違っている。これは随分大きな変化であると言わなければ ならない。なぜならば,大言壮語に充ちた語りこそタンバレインの存在の証で あったからである。この大言壮語の中断が意味する所は,さらに,劇の大詰め で,拡げた世界地図を前に,征服の生涯を振り返りながら語られるセリフの中
106 彦根論叢第237号 で,リフレインとして繰り返される And shall 1 die, and this unconquered? (V. iii. 150, 158) という行においても,同様のコントラストを伴なって表現されている。これま で様々なかたちで示唆されてきたタンパレインの限界が,ここで初めて,この ようなタンバレイン自身による効果的な「表現」を得たのである。 しかしながら,このような死の表現について,また別の評価を下すことも可 能である。それには,他の劇作家の手になる同種の表現,たとえぽ,この芝居 と同じような側面を具えていると考えられる『アントニーとクレオパトラ』に おけるアントニーのいまはの言葉と比較してみるとよい。 The皿iserable change now at my end Lament nor sorrow at: but please your thoughts In feeding them with those my former fortunes Wherein 1 llv’d: the greatest prince o’ the world, The noblest; and do now not basely die, Not cowardly put off my helmet to My countryman: a Roman, by a Roman Valiantly vanquish’d. Now my spirit is going, 24) 1 can no more. スケールこそ違え,アントニーもタンバレインと同じように「最も偉大なる君 主」とされ,また,同じように「変わりはてた姿」を晒すに至っている。その 変化が表現のコントラストによって捉えられている点も同じである。しかし, 最後の部分の表現自体はどうであろうか。登場人物の最後の言葉としては,シ ェイクスピアの方に,どうやら分がありそうである。終わりから2行目のフェ ミニン・エンディング,そして,最初の二脚で跡絶えてしまう最後の行の何の 変哲もない語の組合わせと,タンバレインの最後の行を比べてみれば,その違 24) M. R. Ridley (ed.), Antony and CleoPatra, ‘The (New) Arden Shakespeare’ (Methuen, 1954), rv. xv. 51−59.
『タンバレイン・第二部』:覚書 107 いは自ずと明らかであろう。殊に,タソバレインの文字通りのいまはの言葉 For Tamburlaine, the scourge of God, must die. (V. iii. 248) を見れば,表現の質の違いが一層理解される筈である。 アントニー臨終の場面は,とても一筋縄ではいかない問題の箇所であるこ とは十分承知しておく必要があろうし,また,マーロウがこの芝居を書いて いた当時のブランク・ヴァースの質も考慮しておかねぽならない。それにま た,T・S・エリオットが有名なマーロウ論(‘Notes on the Blank Verse of Christopher Marlowe’)の中で指摘したように,マーPウ自身,後の作品にお いて,すでに書いた行に「改善」を加えるといった具合に,表現の質を変えてい おつくことも事実である。しかしながら,このような点を考えてみても,表現の違 いには,なお,シェイクスピアとマーロウの劇作家としての違いが反映されて いるように思われる。その違いは,一口に言えば,見る視点の違いということ になろう。別の言い方をすれば,シェイクスピアは,あくまで地に足をつけた まま芝居を展開しているのに対し,マーロウの場合は必ずしもそうではないと いうことである。因みに,劇の大詰めで,例のキャラパイソは戦いを挑みはす るけれども,死期迫ったタンバレインにさえ一蹴されることになっている。 「μ一マ入によって破られるローマ人」であるアントニーや,またマクベスな どとは違って,タンバレインは地上の敵によって誉れることはないのである。 それは,マーロウの劇の大きな特色であるとともに,芝居としての弱点でもあ る。 はじめに紹介した論文で,ガードナーは第二部をシェイクスピア劇に結びつ けて評価していたが,それはあくまでプロットの上でのことであって,内容に まで及ぶものではない。とりわけ,タンバレインの死に方ないしは,その表現 にはシェイクスピアとの違いが色濃く出ているように思われる。と同時に,そ 25)御輿員三訳「クリストファー・マーロウ」『エリオット全集』第4巻,中央公論社, 1971年,5頁。因みに,問題のタンバレインのセリフには,『フォースタス博士』の 中で再使用される部分が二箇所含まれている。
108 彦根論叢第237乱 れはまた,第一部と第二部との大きな違いでもある。芝居の完成度としては第 一部に劣るかもしれないが,第二部は,荒削りながらも,全体を通してタンバ レイソの現実の有り様を執拗に追っている点で,第一部にはない深みをのぞか せている。リーチが第二部の方を幾分高く評価しているのも,その辺に理由が ラ あるに違いない。それは確かに,ある種のマーロウ像にはそぐわないかもしれ ない。しかし,一貫して見られる天と地との対比,ないしはタンバレイソを通 して表現される,その落差は,『フォースタス博士』にも通ずる所があって, その意味では,第二部は後の悲劇において深められるものをすでに胚胎してい ると言ってもよいのである。あるいは,第二部は,マーロウの眼が劇作家とし て登場した早い時期から,そうした落差に向けられていたことを示していると 言った方がよいかもしれない。いずれにぜよ,タソノミレインが地上の敵に敗れ 去ることがあったり,あるいは,天空に向かって大言壮語を吐くのを全く止め てしまうようなことがあるとすれば,それは,この作品がマーロウ劇でなくな る時であろうことは確かである。 26) Clifford Leech, ‘The Structure of Tamburlaine’, p. 41.