奈良絵本『宇治拾遺虎物語』における改作について
山
口
眞
琴
はじめに 『宇治拾遺物語』の虎関係説話(三九「虎ノ鰐取タル事」 、一五五 「宗行郎等射 レ虎事」 、一五六「遣唐使子、被 レ食 レ虎事」 )を収めた絵 巻に関しては、前 稿 ( 1 ) の末尾注記に少しく紹介したところだが、小稿 では改めてそれを取り上げ、主に詞書本文についての注釈的分析や 『 宇 治 拾 遺 物 語 』 本 文 と の 比 較 検 討 を 通 し て、 そ の 改 変・ 加 筆 等 に よる改作の実態を明らかにしてみたい。 抑も、当該絵巻は二〇一〇年六月時点の森井書店ウェブ目録にお い て、 「 奈 良 絵 本 宇 治 拾 遺 虎 物 語 」 と 題 し て、 次 の よ う に 紹 介 さ れていたものであ る ( 2 ) (/は改行。以下同) 。 近世前期(寛文・延宝頃)写。/竪三十三×横約一〇九〇セン チ、 一巻。絵・合計五図、 金箔散金霞入料紙、 金銀泥極彩色画。 本文料紙には金泥で草木が描かれている。全体に折れ・スレが あるが、 状態は比較的良好。 /虎にまつわる物語を集めた絵巻。 このいわゆる「解題」には、さらに構成・内容等に関する具体的 説明がなされるなど、既に専門的な知見・判断が加えられている。 それは研究の嚆矢として貴重なものであり、小稿もそこでの指摘等 を起点にして議論を進めていく。なお、現在、当該絵巻はどこに所 在しているか不明であり、稿者も直接は未見だが、右のウェブ上に 公開された全体画像のほか、石川透氏より写真版画像を見せて頂く こともできたので、 今回はそれらに拠って考察を行っていく。また、 外 題・ 内 題 等 の な い 当 該 絵 巻 の 呼 称 に つ い て は、 「 解 題 」 を 尊 重 し て『 宇 治 拾 遺 虎 物 語 』 と 認 定 し つ つ、 便 宜 そ れ に 基 づ く『 虎 物 語 』 という略称を用いたい。その詞書本文(漢字交じり平仮名文)の引 用に際しては、適宜、仮名に漢字を当て(元の仮名は振り仮名で示 す) 、濁点・句読点・会話のカギ括弧などを施すことにする。 一 方、 『 宇 治 拾 遺 物 語 』 に つ い て は、 古 本 系・ 小 世 継 混 入 本 系・ 古活字本系・板本系などに大別されるが、 それら諸本と対比するに、 右の『虎物語』がどの系統本文に拠ったのかは判然としな い ( 3 ) 。よっ て、 当 面、 小 稿 で は『 虎 物 語 』 の 推 定 制 作 時 期 の 直 前 に 板 行 さ れ、 以降、流布本となった万治二年(一六五九)絵入り板本を用いるこ とにしたい。本文は国文学研究資料館初雁文庫蔵本に拠り、引用に 際 し て は、 同 板 本 を 底 本 に す る 日 本 古 典 全 書 を 参 照 し、 『 虎 物 語 』 と同様の仕方で表記等を行う (板本の振り仮名は*を附して区別) 。 なお、万治二年板本の虎関係説話は巻第三7、巻第十二 19、同 20だ が、説話の番号・標題については、従来通り古本系の陽明文庫蔵本 を底本とする新日本古典文学大系に拠る。一、全体構成と冒頭段「龍虎の争い」 『 宇 治 拾 遺 物 語 』( 以 下、 『 宇 治 拾 遺 』 と も 略 称 ) を 題 材 と し た 近 世の絵巻や絵入り本については、小峯和明氏の論 考 ( 4 ) に詳しく、そこ では計九点の諸本が確認された上で、陽明文庫本・チェスタービー ティ図書館本・国会図書館本など、 「複数の説話を描いたテキスト」 を中心に考察がなされている。但し、その中に『虎物語』に相当す る も の は な い ( 5 ) 。 従 っ て、 新 た な 絵 巻 本 と 言 う べ き『 虎 物 語 』 だ が、 それが他の諸本に比べて独特なのは、やはり「虎」という特定の題 材によって統一的に構成されている点にある。そのことは、 諸本中、 絵 入 り 写 本 の 一 つ と し て 知 ら れ る 吉 田 幸 一 蔵『 る し 長 者 』( 一 冊。 近世初期。濃彩)が、天竺の話題で共通する八五「留志長者事」と 九二「五色鹿事」を折衷することで、一篇の物語に仕立てられてい るのに、若干通じるものがある。また、一話のみの収録だが、出光 美 術 館 蔵『 宇 治 拾 遺 物 語 絵 巻 』( 絵 巻 一 軸。 住 吉 具 慶 画。 濃 彩 ) は 一八九「門部府生、海賊射返ス事」を、国会図書館蔵『今昔物語絵 詞 』( 絵 巻 一 軸。 淡 彩 ) は 一 一 九「 吾 嬬 人 止 二生 贄 一事 」 を 絵 巻 化 し た作例であり、それぞれ弓箭武芸譚・動物退治譚という点で『虎物 語』 と共通する。しかし、 それらの絵巻には 『虎物語』 のように 『宇 治拾遺』の原話を積極的に改変することがない。その点では、これ も絵入り写本の広島大学蔵『雀の夕顔』 (一冊。寛文頃。濃彩)が、 四八「雀報恩事」に拠りながら、末尾を中心に加筆を旨とする改変 がなされて成るのとは、似通うようだ。もとより個々内実は異なる ものの、 『虎物語』の改変というのは、いわゆる奈良絵本の「改作」 に近いと思われる。上掲の「解題」における「奈良絵本」としての 認定、奈良絵本・絵巻の「最盛 期 ( 6 ) 」に当たる「近世前期(寛文・延 宝頃)写」という制作時期の推定とも関わって、ひとまずそのよう に見通しておきたい。 で は、 『 虎 物 語 』 で と り わ け 重 要 な 意 味 を も つ 冒 頭 第 一 段 の 詞 書 を 見 て み よ う。 「 解 題 」 に は、 先 掲 の 書 誌 に 続 け て、 全 体 の 構 成 を は じ め、 『 宇 治 拾 遺 』 な ど に 依 拠 し て の 成 立 や 具 体 的 な 改 変 等 に 関 して、次のような説明が見られる。 まず初めに「竜虎の争い」が描かれ、ついで「虎の鰐取りた る 事 」、 「 遣 唐 使 の 子 虎 に 食 わ る る 事 」、 「 う ち ひ さ 虎 を 射 る 事 」 の順で語られている。/初めの二つが猛虎の恐ろしさを伝えて いるのに対し、後の二つの説話は、虎と戦う日本人を描くこと で、日本人の勇ましさ、日本人の戦への姿勢を伝えている。 こ れ ら の 説 話 は「 宇 治 拾 遺 物 語 」 な ど に お さ め ら れ て お り、 宇治拾遺物語より説話を抜粋・圧縮して編集し、成立したもの と 考 え ら れ る。 な お、 「 う ち ひ さ 虎 を 射 る 事 」 は、 宇 治 拾 遺 で は 主 人 公 を「 宗 行 の 郎 党 」 と し て い る が、 本 資 料 で は、 「 な が とのくにのうちひさ」としている。 ここの前半には、第一段の「龍虎の争い」に関する文章を第一話 と見なし、 それに『宇治拾遺物語』の虎関係説話を加えた計四話が、 主題的に前後二話ずつ配されたとする捉え方が示される。これに対 して、第一段をあくまで序章的なものと見て、実質は三話構成と考 えることも無理ではないが、いずれにしろ、そうした主題的な統一 性 に お い て、 『 虎 物 語 』 の 新 た な テ キ ス ト と し て の 独 立 性 が 際 立 っ
ていることは間違いない。 異 い 国 こく に 猛 まう 虎 こ と て 猛 たけ き も の あ り け り。 千 里 の 野 辺 に す む と い へ り。又は 竹 ちく 林 りん の 巌 がん 洞 とう にすんで、 龍 りう とつね〴〵たゝかひをなすと かや。これを 龍 れう 虎 こ の 争 あらそ ひといふなり。 龍 れう 吟 ぎん ずれば雲 起 お こり、 虎 とら 嘯 うそぶ けば風 生 しやう ずる 。 鳴 なる 神 かみ ・ 稲 いな 妻 づま 、 天 てん 地 ち を 響 ひゞ かし、 光 ひかり の中に 龍 れう あら はれて、 虎 とら をつかんであがらんとす。 虎 とら は又 巌 がん 洞 とう に 寄 よ りかゝつ て、 悪 あく 風 ふう を 吹 ふ きかけ、 虎 こ 乱 らん の 勢 いき ほ ひを出して、 龍 れう を 噛 か まむとうかゞ ふ 程 ほ ど に、 飛 ひ 龍 れう の 力 ちから もかなはずして、雲のうちにぞ入にける。 龍 れう は 通 つう 力 りき 自 じ 在 ざい のものなれども、 虎 とら に 遭 あ ふては 怯 ひる めり。その 他 ほ か のけ だもの、これに 遭 あ ふて 害 がい を 免 まぬか るゝ事なし。 右 が 第 一 段 詞 書 の 全 文 で あ る( 以 下、 傍 線・ 傍 点 等 は 稿 者 )。 こ れを第一話と見なす「解題」には、次のような説明がなされる。 ①「竜虎の戦い」はその起源が淮南子にもとめられる、龍と虎 の争うことを描いた説話。この中で、稲妻とともに襲いかかる 竜と、対峙する虎の絵が挿入される。 このうち、起源を『淮南子』に求めるというのは、その巻三「天 文訓」に、万物の働きが本末相応する例として表現された「虎嘯い て谷風至り、龍 挙 あが りて景雲 属 あつ ま り ( 7 ) 」を、前掲の傍線部「 龍 れう 吟 ぎん ずれば 雲 起 お こり、 虎 とら 嘯 うそぶ けば風 生 しやう ずる」の原拠に目するからだろう。あるい は、 『文選』巻第十五所収の「帰田賦一首」 (張衡)にある「龍のご とく方澤に吟じ、 虎のごとく山丘に嘯く。 」(全釈漢文大系・訓読文) などの詩文の影響も考えられるが、全体的には、観世小次郎信光作 とされる謡曲『龍虎』に依拠した可能性が高い。 近松門左衛門作の浄瑠璃 『国性爺合戦』 (一七一五年初演) の 「和 藤内の虎退治」の典 拠 ( 8 ) になったことで知られる『龍虎』は、仏跡を 尋ねて博多から入唐した僧が、竹林の気色を契機に、樵翁から「龍 虎の争い」のことを聞き及び、やがて雲を起こす龍と風を生む虎と の激戦を目の当たりにするというもの。その詞章のうち「龍吟ずれ ば雲起り。虎嘯けば風生ずと。 」( 『謡曲大観』 )という表現が、件の 傍 線 部 と 完 全 に 一 致 す る の を は じ め、 「 あ の 竹 林 の 巌 洞 0 0 0 0 0 は 虎 の 栖 に て候を。向ひに見えたる高山より。 常々 0 0 雲の掩ひつつ。 龍虎の戦ひ 0 0 0 0 0 あるものを」 、「あれあれ嶺より雲起り。俄かに降りくる雨の音。 鳴 0 神 稲 妻 天 地 に 耀 く 光 の う ち に 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。 現 れ 出 づ る。 金 龍 の 勢 ひ。 」、 「 竹 林 0 0 の 巌 洞 0 0 0 に 籠 れ る 虎 の。 現 れ 出 づ れ ば 岩 屋 の 内 よ り 悪 風 を 吹 き 0 0 0 0 0 出 だ し。 」、 「 金 龍 雲 よ り お り 下 つ て。 悪 虎 を 取 ら ん と 飛 ん で か か り。 飛 0 龍 0 の戦ひ。隙もなし」 、「もとより 虎乱の勢ひ 0 0 0 0 0 猛く。左も右も。剣の 如くに竹枝を折つて。 金龍にかゝれば。 」の傍点部を主とした表現が、 『 虎 物 語 』 の そ れ と 合 致 す る。 直 接 の 典 拠 と 見 て よ か ろ う が、 重 要 なのは、 『龍虎』 の「金龍雲居に遥かに上れば。悪虎は勢ひ巌に上り。 遥かに見送り無念の勢ひあたりを払ひ。又竹林に飛び帰り。又竹林 に。飛び帰つて。そのまま巌洞に。入りにけり」という結尾に対し て、 『虎物語』 が 「 飛 ひ 龍 れう の 力 ちから もかなはずして、 雲のうちにぞ入にける。 龍 れう は 通 つう 力 りき 自 じ 在 ざい のものなれども、 虎 とら に 遭 あ ふては 怯 ひる めり。その 他 ほ か のけだ も の、 こ れ に 遭 あ ふ て 害 がい を 免 まぬか る ゝ 事 な し。 」 と、 む し ろ 龍 が 怯 む 程 の 虎の猛威を強調することである。この「龍虎の争い」の猛虎譚への 変奏は、次の『宇治拾遺』三九に取材した虎と鰐の格闘説話への連 繋 を 意 識 し た も の と 解 さ れ る。 『 龍 虎 』 を 大 幅 に 簡 約 し て 既 に 説 話 的 体 裁 に は な い も の の、 『 虎 物 語 』 の 冒 頭 段 は、 全 巻 の 序 章 と 言 う
よりも、次話と対をなす第一話と見る方が確かに自然であろう。以 下、小稿も「解題」の四話構成説に従うこととする。 なお、先の「解題」に指摘される通り、右の詞書のあとに龍虎対 峙の絵(第一図)が描かれる。絵は全部で五図あり、第二図は『宇 治拾遺』三九に基づく『虎物語』第二話の途中に挿入され、残る三 図は、 『宇治拾遺』 一五五に基づく 『虎物語』 第四話の途中に第三図・ 第四図がそれぞれ挿入され、その最後尾に第五図が置かれる。すな わち 『宇治拾遺』 一五六に基づく第三話についての絵は存在しない。 陽明文庫蔵『宇治拾遺物語絵巻』などが一話に必ず一つ以上の絵を 対 応 的 に 配 す る と い う 原 則 的 な あ り よ う と 比 べ て も、 『 虎 物 語 』 と いう絵巻本は、いわゆる「説話絵巻」とは異質であることが知られ る。また、 『宇治拾遺』各話の「これも今は 昔 むかし 」「 今 いま は 昔 むかし 」の冒頭句 をすべて削除することからも、 『虎物語』とは、 虎にまつわる文章・ 話譚を順次なだらかに繋げることで、むしろ一篇の絵入り物語をめ ざしたものと見るべきだろう。 二、第二話/猛虎に怯える明州商人 まさしく『虎物語』の名にふさわしいその結構は、第二段の詞書 が、ただちに第二話を語るのではなく、次のような文章をもって始 まるところにも窺われる。 眼 まなこ に 百 歩 ぶ の 勢 いき ほ ひ あ り て、 夜 よる も の を 見 み る 事、 明 あき ら か な り。 も し 狩 かりうど 人 あつて 虎 とら を 射 い 殺 ころ す 時 とき は、 左 ひだり の 眼 まなこ の 光 ひかり は天に 昇 のぼ りて 星 ほ し となり、 右 みぎ の 眼 まなこ の 光 ひかり は地に 落 お ちて 石 いし となる。かくの 如 ごと く 猛 たけ く 恐 おそ ろしきも のなれば、 偶 たま さかにも 虎 とら に 遭 あ へる人、 命 いのち 生 い きたる 例 ためし なし。 この「虎の眼光」に関する故実伝承の如きが、直接何に拠るのか 定かではないが、 管見では、 室町中期の国語辞書『下学集』 『節用集』 などの「虎」語注記に、 類似の文章を見出すことができる。例えば、 『 下 学 集 』 天 文 二 十 三 年 本 に「 眼 ニ 有 二百 歩 之 威 一。 又 呼 テ 曰 二於 ヲ 菟 ト ヽ 一。 夜 ル 視 ル ニ 、 一 目 ハ 放 テ レ光 一 目 ハ 看 ル レ物。 猟 カリ 人 射 レ レ ハ 之、 光 リ 墜 ツ 二於 地 ニ 一。 成 二 白 石 ト 一。 ( 9 ) 」 と あ る の が そ れ で、 そ の 淵 源 は、 中 国 唐 代 の 本 草 書 で 七三九年に成る陳蔵器撰『本草拾遺』の「虎骨」に関する所説にあ るよう だ )(1 ( 。そこには「凡虎視以晴。一目放光。一目看物。猟人候而 射 之。 弩 箭 纔 及。 目 光 随 堕 地。 得 之 者 如 白 石 様 是 也 。 )(( ( 」 と あ り、 こ れ を、 宋 代 の『 経 史 証 類 備 急 本 草 』『 経 史 証 類 大 観 本 草 』 等 も「 今 按陳蔵器本草云」として引用する。但し、それらには『虎物語』の 「 眼 まなこ に 百 歩 ぶ の 勢 いき ほ ひ あ り て 」 や「 左 ひだり の 眼 まなこ の 光 ひかり は 天 に 昇 のぼ り て 星 ほ し と な り 」 に当たる表現がない。その点では、前者に相当する「眼 ニ 有 二百歩之 威 一」 を 同 じ く 冒 頭 に も つ『 下 学 集 』 な ど の 方 が 近 い 関 係 に あ る よ う だ が 、な お 典 拠 と 確 定 す る に は 至 ら な い 。さ ら な る 検 索 に 努 め た い 。 さ よ う な「 虎 の 眼 光 」 の 故 実 伝 承 は、 「 か く の 如 ごと く 猛 たけ く 恐 おそ ろ し き も の な れ ば、 偶 たま さ か に も 虎 とら に 遭 あ へ る 人、 命 いのち 生 い き た る 例 ためし な し。 」 と 結 ばれる通り、第一段と同じく虎の猛威を強調したものにほかならな い。それが章段を改めて配されるのは、このあと語られる第二話の 導入でもあるからだろう。つまり、偶然にも虎に遭った人間は命の あった例がない、との言葉は、自分たちを襲った虎が、その直後に 鰐と繰り広げた壮絶な格闘を目の当たりにした商人たちの生きた心 地がしなかった、という恐怖体験に差し向けられたようだ。第二話
の末尾、虎が仕留めた鰐を肩にかついで三本の足で岩を駈け登った 場面のあとに、そのことを裏づけるような『宇治拾遺』三九との本 文異同が認められる。 …… こ れ を 見 て ふ 船 せん 中 の 人 〴 〵 は、 生 い き た る 心 こゝ 地 ち は な か り け り 。「 も し こ れ が 船 ふね に 飛 と び 入 い り た り せ ば、 命 いのち 全 また き 人 あ ら ん や 。 たとひ 剣 つるぎ ・ 太 た 刀 ち ・ 刀 かたな を 以 もつ て 立 た て 合 あ ふとも、さしもかばかり 勢 いき ほ ひ 強 つよ からんものに 向 む かつては、 何 なに のせんかあるべき。ゆゝしの 事 こと や」とて、 船 ふね を 漕 こ ぎてぞ 帰 かへ りける。 『宇治拾遺』では、一つ目の傍線部を「なからは死 入 い りぬ」とし、 二 つ 目 の 傍 線 部 は、 「 舟 に 飛 か ゝ り た ら ま し か ば、 い み じ き 剣・ 刀 を抜きてあふとも、 かばかり 力 ちから 強 づよ く 速 はや からんには、 何 なに わざをすべき」 という文脈に元来存在しない。そこに明らかな改変と加筆は、とも に 先 引 末 尾 の「 偶 たま さ か に も 虎 とら に 遭 あ へ る 人、 命 いのち 生 い き た る 例 ためし な し。 」 に 呼応させたものと見てよいだろう。 『 虎 物 語 』 第 二 話 に お い て も う 一 つ 注 目 す べ き は、 虎 と 鰐 の 格 闘 を目撃した人々の具体を書き替えている点である。第二話は次のよ うに始まる。 唐 もろこし 、 明 みやう 州 じう の 津 に 商 あき 人 あ り。 慶 けい 州 しう と い ふ 所 ところ に 商 あきな い に 至 いた る と て、 船 ふね に 乗 の りて 行 ゆ きけるが、 海 うみ 端 ばた には山のありける。その 汀 みぎは に 船 ふね を 漕 こ ぎ 寄 よ せて 着 つ く。 船 ふな 子 こ を一人、 船 ふね より 下 お ろして、山の 麓 ふもと にある 水をぞ 汲 く ませける。…… 『 宇 治 拾 遺 』 三 九 で は「 筑 つく 紫 し の 人、 商 あきな ひ し に * 新 し ら き 羅 に 渡 わた り け る が 」 と あ る の に 対 し て、 第 二 話 は、 唐 の「 明 みやう 州 じう の 津 )(1 ( 」 か ら 朝 鮮 の「 慶 けい 州 しう 」 に 赴 い た 商 人 た ち が 虎 に 遭 遇 す る 設 定 に な っ て い る。 と く に 「 筑 つく 紫 し 」( 『今昔物語集』巻二十九 31の同話は「鎮西」 )の商人を「 明 みやう 州 じう 」の商人に改めるのは、何より後半の二話への連関を配慮したか ら で あ ろ う。 先 に 言 え ば、 第 三 話 は「 唐 もろこし 」 で の 日 本 の「 遣 けん 唐 たう 使 し 」 に よ る 虎 退 治、 第 四 話 は「 朝 てう 鮮 せん 国 こく 」 に 逃 亡 し た 日 本 の「 兵 つはもの 」 に よ る「ねき」という所での虎退治を物語る。それらの前に置かれる第 二 話 の 目 撃 者 を 明 州 商 人 に 変 え る こ と で、 「 龍 虎 の 争 い 」 の メ ッ カ である中国に朝鮮の虎の猛威を実感させ、その上で第三話の遣唐使 の虎退治はむろんのこと、 第四話の朝鮮での虎退治に誇示される 「日 本的武 勇 )(1 ( 」をも、中国に認めさせるかたちをとったのではないか。 その企図は、前掲の第二話末尾のあとに続く次の文章に顕現する。 しかるに、日本の 武 ぶ 士 し のいかめしき 体 てい を 見 み るに、 猛 たけ き 虎 とら といふ と も、 さ ら に 恐 おそ る ゝ 気 け 色 しき な し。 い づ れ の 帝 みかど の 御 時 に や、 唐 もろこし へ 勅 ちよく 使 し を立られけり。…… ついでに第三話の冒頭文も引用したが、その前に叙される右の一 文は、虎に遭った人間は命のあった例がないことを喚起的に語った 第二話を承けつつ、その例外として「日本の 武 ぶ 士 し 」の虎をも恐れぬ 剛胆に言及することで、後半二話への導入的役割も果たす。すなわ ち、猛虎さえ恐れぬ日本武士の厳めしさが、後半二話で実証される の で あ る。 そ の よ う な 展 開 を、 『 虎 物 語 』 は 中 国 の 人 々 を 軸 に し て 改作的に行ったと言える。裏返せば、それは猛虎に怯える存在から 日 本 人 を 外 す こ と で あ っ た。 『 虎 物 語 』 で 猛 虎 に 怯 え る の は 中 国 と 朝鮮の人々、それに対して、第三話の虎に食われた遣唐使の子を除 けば、日本人は専ら猛虎を退治する存在として語られる。その東ア ジ ア 三 国 に お け る 日 本 優 位 の 処 し 方 か ら す れ ば、 〝 仏 跡 を 尋 ね て 博
多 か ら 入 唐 し た 僧 が、 樵 翁 か ら「 龍 虎 の 争 い 」 の こ と を 聞 き 及 び、 やがてそれを目の当たりにする〟という謡曲『龍虎』の説話的な具 体が、第一話に語られない必然性も了解することができる。 『虎物語』 第一話は 「 異 い 国 こく に 猛 まう 虎 こ とて 猛 たけ きものありけり。 」 と始まっ ていた。 「異国」 は、 第三話にも遣唐使に関わる 「 異 い 国 こく の地に 着 つ きて」 「 名 めい を 異 い 国 こく に 施 ほ どこ し け る 」 と い う 用 例 が あ っ て、 直 接 は 唐・ 中 国 を 指 すようである。そこに第二話と第四話の猛虎の舞台としての朝鮮を 含めても支障ないだろうが、それらをあえて「異国」とするところ に、虎と虎退治をめぐって自国の単独優位を示すような対外意識が 垣間見える。それと関連して、ここで「解題」の第二話についての 説明を見ておこう。 ②「虎の鰐取りたる事」は、 海に落ちた虎がワニ(サメの事か) に腕を噛み切られてしまったが、血の滴るその腕を海に浸して ワニをおびき寄せ、近づいてきたワニを陸の上へ投げ上げ、殺 してしまう話。ワニを投げ上げた虎の絵が挿入されている。 右の末尾に、 第二話に関する第二図が「ワニを投げ上げた虎の絵」 として紹介されるが、さらに絵の左方には、その光景を慌てて沖に 漕 ぎ 出 し た 船 の 中 か ら 不 安 な 面 持 ち で 眺 め る 人 々 の 様 子 が 描 か れ る。その頭髪や衣裳は、第四話に関する第三図・第五図の虎害に苦 しんでいた朝鮮国の人々とほぼ同じように見える。少なくとも両者 を区別しないその描き方は、 日本以外の中国・朝鮮を 「異国」 と括っ てしまう見方に通じるものがある。 そうした第二話の改作で要となった「 明 みやう 州 じう の津」から「 慶 けい 州 しう 」に 至る中国商船に関する設定は、見たように『宇治拾遺』三九の「 筑 つく 紫 し の人、 商 あきな ひし に * 新 し ら き 羅 に 渡 わた りけるが」というそれを変奏したものだ が、その前提には交易を中心とする三国間交流の活発な歴史的状況 があった。とくに八二一年に港市が設けられた明州 (のち寧波) は、 宋・元期以降、高麗 ・ 日本 ・ 福建 ・ 広南などを結ぶ中継地として栄え、 日本の筑紫(博多・箱崎など)とは、中世の東アジア海域における 日中間交流の拠点となっ た )(1 ( 。また、それらが新羅を経由して結ばれ る航路も、新羅海商が広範な活動を展開した九世紀末には整ってい た可能性が指摘され る )(1 ( 。『宇治拾遺』と『虎物語』の航路を繋ぐと、 件の三国間航路が描かれることになるのは、 見逃せない。ちなみに、 明州は日本の遣唐使とも関係する。遣唐使後期の南路航行時代、入 港地としては揚州をはじめ越州・福州などが知られるが、天平宝字 や延暦などの時は明州にも入港してい た )(1 ( 。その 「 明 みやう 州 じう の津」 から 「遣 唐使」が登場する第三話への連想は辿りやすかったことだろう。 そのような東アジア海域の交流史を踏まえた『虎物語』の設定変 奏の中で、明州商人が「 慶 けい 州 しう 」に赴いたとするのは、入港先ではな いものの、やや違和感があろうか。最近、慶州に近い「 蔚 ウル 山 サン 伴 バ ン 鴎 グ 洞 ドン か ら、 古 代 よ り 近 世 に 至 る 港 湾 施 設 が 発 見 さ れ 」、 そ こ と「 日 本 列 島 と の 通 好 」 が「 慶 州 の 発 展 」「 新 羅 の 繁 栄 」 に 関 わ っ て い た と 指 摘 さ れ る が )(1 ( 、 こ と 中 国・ 明 州 か ら の 朝 鮮 半 島 へ の 寄 港 地 と し て は、 やはり西海岸がふさわしく、例えば高麗時代に外国商人が利用した 貿易港として「礼成江」などの首都開城に近い外港が知られ る )(1 ( 。ま た、 慶州や蔚山と同じ慶尚道なら、 やはり南海岸の 「新羅の 金 きん 海 かい 」(『宇 治 拾 遺 』 一 五 五 ) の 方 が 有 力 で あ ろ う。 そ れ を 商 用 先 に し ろ「 慶 けい 州 しう 」とするのは、一見、都城をそこに置いた「新羅国」を喚起する
た め の よ う だ が、 は た し て ど う か。 「 唐 もろこし 、 明 みやう 州 じう の 津 に 商 あき 人 あ り。 慶 けい 州 しう といふ 所 ところ に 商 あきな いに 至 いた るとて」という第二話の冒頭には、異国どこ ろか他国に赴いた雰囲気もない。先述したように、上記の「新羅の 金 きん 海 かい 」 も第四話では 「 朝 てう 鮮 せん 国 こく 」 の 「ねき」 に改められる。その結果、 『 虎 物 語 』 に「 新 羅 」 の 国 名 が 消 え て し ま う わ け で、 そ れ は 同 じ く 統一国家を象徴する「唐」が多用されるのとは大きな違いである。 そこには、対等ではない中国と朝鮮の、おそらくは服属支配の関係 を内実とするような一体的認識が横たわると思われる。 そのことと、 『 虎 物 語 』 が 中 国 を し て 日 本 的 武 勇 を 称 賛 せ し め る 変 奏 を 行 っ た こ ととは、矛盾しない。 三、第三話/唐の皇帝による遣唐使絶賛 「 解 題 」 に「 ③「 遣 唐 使 の 子 虎 に 食 わ る る 事 」 は、 遣 唐 使 と し て 中国に遣わされた日本人が子を虎にさらわれてしまったが、虎を追 い か け て 退 治 す る 話。 」 と 紹 介 さ れ る 第 三 話 は、 元 の『 宇 治 拾 遺 』 一五六に対して、話のあらすじこそ同じだが、叙述は対校困難な程 に 相 違 し、 そ の 上 に か な り の 重 要 な 加 筆 が 施 さ れ て い る。 例 え ば、 遣 唐 使 の 十 歳 程 の 子 は、 『 宇 治 拾 遺 』 で は、 雪 の 高 く 降 っ た 日、 外 へ 遊 び に 行 っ て 虎 に 襲 わ れ た の に 対 し て、 『 虎 物 語 』 に は、 家 の 中 に居て夜半過ぎに山から来た虎に「 首 くび の 回 まは り」を咥えられまま連れ て 行 か れ た と あ る。 そ の 跡 を 追 っ た 父 親 が 虎 を 仕 留 め る 場 面 で も、 『 宇 治 拾 遺 』 が〝 じ っ と 踞 っ て い る 虎 の 頭 を 太 刀 で 切 り 割 っ た が、 なお食らわんと走り寄ってきたので、その背骨を打ち砕いた〟など と詳述するのに対して、 『虎物語』は「山 際 ぎは にてつゐに 追 お い 詰 つ めて、 太 た 刀 ち を 以 もつ て 虎 とら の 頭 かうべ を 切 き り 落 お としけり。 」という簡単な叙述に留まる。 その反対に 『宇治拾遺』 にはない亡児の懇ろな埋葬・供養のことが、 『虎物語』に附加されるといった違いもあるが、最も大きな相違は、 次のような後日譚が『虎物語』にあることだろう。 唐 たう の 帝 みかど の 上 聞 ぶん に 達 たつ し、 大 き に 感 かん じ 給 ひ て 宣 のたま は く、 「 昔 むかし 、 李 り 将 しやう 軍 ぐん といひし人、 妻 つま の 願 ねが ひを 叶 かな へんとて、 虎 とら の 生 い き 肝 ゞも を 取 と らんため に、 雲 うん 上 しやう 龍 れう といふ馬に 乗 の りて、千里の野 辺 べ に 出 い でゝ 虎 とら を 狙 ねら ひけ るが、 何 なに とかしたりけん、かへつて 虎 とら に 食 く はれて 失 う せにけり 。 古 こ 今 こん に名を 得 え し 猛 まう 将 しやう さへ 虎 とら に 遭 あ ふてはかくの 如 ごと し。 況 いは んやその 余 よ の 人 じん 倫 りん に 於 お ゐ て を や。 誰 たれ か は 虎 とら に 手 向 む か ひ せ ん。 然 しか る に 今、 日本の人、 目 ま の 当 あ たり 虎 とら を手 打 う ちにしたり。 上 じやう 古 こ も 末 まつ 代 だい も 有 あ り 難 がた き 例 ためし なり」とて、 遣 けん 唐 たう 使 し を 召 め されて、 様 さま 〴〵にもてなし、 数 かず の 宝 たから を給はりてぞ 返 かへ し給ふ。これ日本の 面 めん 目 ぼく とぞ聞えし。 唐の皇帝が虎を仕留めた遣唐使を絶賛しあまた褒美をして帰国さ せ た と い う こ れ は、 第 三 話 冒 頭 の「 い づ れ の 帝 みかど の 御 時 に や、 唐 もろこし へ 勅 ちよく 使 し を立られけり。 これを 遣 けん 唐 たう 使 し といひて、 三位 以 い 上 じやう の人の 才 さい 覚 かく 優 いう 長 てう な る 人 を 選 えら び て、 遣 つか は さ る ゝ 作 さ 法 ほ う な り。 」 と い う、 同 じ く 独 自 な 遣 唐 使の説明的叙述と首尾呼応するものである。この「日本の 面 めん 目 ぼく 」の 顚末に対して、 『宇治拾遺』の結尾は大きく様相が異なっていた。 唐 もろこし の 人 は、 虎 に あ ひ て 迯 る 事 だ に か た き に、 か く 虎 とら を ば 打 う ち 殺 ころ し て、 子 を 取 と り 返 かへ し て き た れ ば、 唐 もろこし の 人 は、 い み じ き 事 に い ひ て、 「 猶 なを 、 日 本 の 国 に は、 兵 の か た は な ら び な き 国 な り 」 とめでけれど、子死ければ、なにゝかはせん。
こ こ で は、 「 唐 もろこし の 人 」 が 称 賛 し た 日 本 国 の「 兵 」 の 名 誉 も、 愛 児 を失った悲しみに空しく掻き消されている。そうしたストイックな 悲 話 を 反 転 さ せ る か の 如 く、 『 虎 物 語 』 は 日 本 的 武 勇 の 称 賛 を 中 国 皇帝によるそれへと強化することで、対外的国家レベルの「日本の 面 めん 目 ぼく 」譚に書き替えたことになる。それがさらに、 帰 き 朝 てう し て 後 のち 、 我 わ が 君 きみ 、 こ の 由 よし 聞 き こ し め し、 「 名 めい を 異 い 国 こく に 施 ほ どこ し け るこそ、 誠 まこと に日本の 喜 よろこ びなれ」とて、 叡 ゑい 感 かん 甚 はなは だなのめならず。 すなはち 宰 さい 相 しやう になされて、 厚 あつ くもてなし給ひけり。 と、 日本の天皇による叡感と厚遇を語って終わるのは、 両国の「帝」 による連繋の妙さえ物語るかのようだ。 例えば阿部仲麻呂、吉備真備、空海など、遣唐使の留学生や留学 僧が中国で高く評価された史実・伝説は少なくないが、留意すべき は、この遣唐使が評価されたのは「武勇」であったことだ。唐帝は その評価を先掲傍線部の李将軍説話との対比によって言明した。す なわち〝妻から虎の生き肝を所望された李将軍が、勇躍虎狩に出た ものの、かえって虎に食われてしまった〟という話を引いて、そん な 古 今 に 名 高 い 猛 将 で さ え 手 向 か え ぬ 虎 を、 日 本 の こ の 遣 唐 使 は たった一人で手打ちにした、その武勇を比類無きものと絶賛したの である。そこに引かれた李将軍説話は、次のような仮名本『曾我物 語』巻第七(李将軍が事)のそれに拠ったと思しい。 昔 むかし 、大 国 こく に、 李 り 将 しやう 軍 ぐん とて、たけくいさめる 武 ぶ 勇 よう の 達 たつ 者 しや あり。 一人の子のなき事、天にいのる、あわれみにや、 妻 さい 女 懐 くわい 妊 にん す。 将 しやう 軍 ぐん よろこぶ所に、 女 ねう 房 ばう いふやう「いきたる 虎 とら の 肝 きも こそねがひ な れ 」。 将 しやう 軍 ぐん 、 や す き 事 と て、 お ほ く の 兵 つわもの を ひ き つ れ、 野 辺 べ に いでて、 虎 とら をかりけるに、かへつて、 将 しやう 軍 ぐん 、 虎 とら にくはれてうせ ぬ。のりたりける 雲 うん 上 しやう 龍 れう 、 鞍 くら の 上 うへ むなしくしてかへりぬ。 女 ねう 房 ばう あ や し み て、 「 将 しやう 軍 ぐん 、 虎 とら に く わ れ け る や 」 と と へ ば、 龍 れう 、 涙 を ながし、 膝 ひざ をおり、なけ共かなはず。…… 本文は十行古活字本(日本古典文学大系、振り仮名が原文)を引 いたが、 太山寺本などとも大同小異の右の説話が典拠であることは、 妻 の 望 ん だ「 い き た る 虎 とら の 肝 きも 」 や 将 軍 が 乗 っ た 愛 馬 の 名「 雲 うん 上 しやう 龍 れう 」 が合致する点に明らかだろう。このあと仮名本 『曾我物語』 には、 〝当 時胎内にいて、のち出生した将軍の子「かふりよく」が、父の敵を 取るべく、七歳の時、雲上龍に乗って千里の野辺に出て、虎と思っ て射たところ、矢が刺さっていたのは苔むした石であったが、さよ うな一念をもって、のちついに父の敵である虎を射た〟という話が 展 開 さ れ る。 石 に 矢 が 刺 さ る「 没 石 」( 『 塵 袋 』 第 六 46、 東 洋 文 庫 ) などと呼ばれる故事である。それを前漢の武将李広の事蹟とするの は、 『 史 記 』 列 伝 や『 漢 書 』 列 伝 に 遡 る。 し か し、 そ こ に は 復 讐 譚 と な る 要 素 の 父 の 虎 害 死 が 見 え な い。 そ れ は『 蒙 求 』「 李 広 成 蹊 」 の末尾に「広父為虎所死、 広猿臂射、 見草中石以為乕、 遂射之没羽、 更射之、終不能没石 也 )(1 ( 」と記す古註に由来したようだ。これを、日 本では『注好選』上 70や『今昔物語集』巻十 17などが、母を害した 虎を狙った李広の話として、真名本『曾我物語』巻第四は同じく母 を害した虎を射る話を 「胡の深王」 (東洋文庫) のそれとして伝える。 それらに対して、通例は李広を指す「李将軍」の遺児による復讐譚 として載せるのが、仮名本『曾我物語』であった。 それに拠った『虎物語』で見るべきは、李将軍が虎に食われた前
半だけを切り取り、それを唐帝に語らせたことだろう。仮名本『曾 我物語』によれば、妻はこの時に待望の児を宿すことができた。そ の た め 虎 の 生 き 肝 を 求 め た の だ が、 『 虎 物 語 』 は 懐 妊 の こ と に 触 れ ない。その分、虎肝所望の理由がわかりにくい反面、胎児の存在も 出生後の父の敵討も、問い質されることはない。巧みな表現操作と 言うべきだが、 それでも、 該話の日本における伝承状況からすれば、 本来それが敵討へと展開することは自明であったろう。それは、第 三話の遣唐使の虎退治が報復であったこととも共鳴する。 その点で、 典拠が仮名本『曾我物語』であった意味は大きい。そこにおいて件 の復讐譚を弟の五郎時致が語るのは、自分たちを「寒苦鳥」に喩え て 仇 討 に 気 弱 な 様 子 を 見 せ た 兄 の 十 郎 祐 成 を 鼓 舞 す る た め で あ っ た。 す な わ ち、 『 虎 物 語 』 第 三 話 は 李 将 軍 説 話 を 仲 立 ち に し て、 曾 我兄弟の仇討までも手繰り寄せていると見てよいだろう。日本の遣 唐 使 の 虎 退 治 が、 「 武 ぶ 勇 よう の 達 たつ 者 しや 」 の 中 国 将 軍 の 虎 狩 失 敗 と の 対 比 に て絶賛され、その類稀な武名が、 「日本の大将軍」 (仮名本『曾我物 語』 巻第十) 頼朝に称賛される曾我兄弟の仇 討 )11 ( のそれに重ねられる。 そうした連関のもと、日本的武勇の顕彰がなされたと思われる。 四、第四話/朝鮮に逃亡した日本武士 第二話において「新羅」自体の存在を消すかのようであった『虎 物語』は、第四話では新羅に替えて「 朝 てう 鮮 せん 国 こく 」を虎退治の舞台とし て前面に押し出す。この一種の食い違いは、第四話が朝鮮王朝時代 の日朝交流史を踏まえて、最も積極的に改作されたために生じたも の と 考 え ら れ る。 抑 も、 『 宇 治 拾 遺 』 の 一 五 五 と 一 五 六 の 順 序 を 入 れ替え、一五五に基づく該話を掉尾に配し、そこに計五図のうち三 つ も の 絵 を 描 き 入 れ る の は、 そ う し た 意 識 の 高 さ を 物 語 っ て い よ う。 「解題」には、絵の図柄を含む説明が次のようになされる。 ④「うちひさ虎を射る事」は、朝鮮に渡った日本人が、虎に悩 まされている人々を救うべくこれと一騎打ちし、見事にしとめ る話。この中で、虎退治を申し出るうちひさの様子と、虎を射 るうちひさの様子、仕留められた虎を検分する人々の様子の三 図の絵が挿入される。 こ の ほ か「 解 題 」 に は、 先 掲 の 全 体 構 成 に 関 す る 説 明 の あ と に、 「なお、 「うちひさ虎を射る事」は、宇治拾遺では主人公を「宗行の 郎 党 」 と し て い る が、 本 資 料 で は、 「 な が と の く に の う ち ひ さ 」 と している。 」という改変の具体も指摘されていたが、第二話と同様、 確かに第四話にも地名・人名に重大な異同が認められる。 又 、 長 なが 門 と の 国 くに ゝ う ち ひ さ と い ふ 兵 つはもの あ り け り。 身 に あ て ゝ 大 敵 てき を 持 も ちけるが、 彼 かれ は一 類 るい 広 ひろ くして、こゝかしこ 付 つ き 回 まは りて 狙 ねら ふ 程 ほ ど に、身の 置 を き 所 どころ なくして、ひそかに 小 せう 船 せん に 取 と り 乗 の り、 朝 てう 鮮 せん 国 こく へぞ 逃 に げ 行 ゆ きける。 彼 か の 国 くに ゝ ねき といふ 所 ところ あり。その 所 ところ に 至 いた り ぬれば、諸人いみじう 騒 さは ぎのゝしる 程 ほ ど に、 何 なに 事 ごと の 起 お きてかくひ しめくやらんと 怪 あや しくて、かたへの人に 遭 あ ふて、これを 尋 たづ ね 問 と ひ け れ ば、 「 こ の 頃 ごろ 、 虎 とら の 山 よ り こ の 里 さと へ 夜 よ な 〳 〵 来 き た り て、 人をとりて 食 く らふ 故 ゆへ に、かくの 如 ごと く 用 よう 心 じん をするなり」と 語 かた る。 こ れ が『 虎 物 語 』 第 四 話 の 冒 頭 部 で あ る。 こ の う ち の 傍 線 部 が、 次 の『 宇 治 拾 遺 』 一 五 五 の 冒 頭 部 に あ る「 壱 岐 守 宗 行 が 郎 等 」「 新
羅国」 「 金 きん 海 かい 」をそれぞれ改変したものとわかる。 今 いま は 昔 むかし 、 壱岐守宗行が郎等 を、はかなきことによりて、主の 殺 ころ さんとしければ、小舟に 乗 の りて 逃 に げて 新羅国 へわたりて、 隠 かく れ てゐたりける 程 ほ ど に、新羅の 金 きん 海 かい といふ 所 ところ のいみじうのゝしり 騒 さは ぐ。 「 何 なに 事 ごと ぞ」と 問 ゝ へば、 「 虎 とら の 国 こ 府 う に入て、人をくらふ也」と いふ。…… では、 『虎物語』の「 長 なが 門 と の 国 くに 」の「うちひさ」とは誰か、 「 朝 てう 鮮 せん 国 こく 」にある「ねき」とはどこか、ともども明らかにすべきだが、そ の 確 定 は 容 易 で は な い。 「 う ち ひ さ 」 は「 氏 うぢ 久 ひさ 」 だ ろ う が、 長 門 国 の武将としては、大内氏家臣で文明三年(一四七一)正月に吉見信 頼と長門国地福(現、山口市)で戦って死んだという末武氏久が確 認される程度である (『萩藩閥閲録』 等) 。「ねき」 については 「ねぎ」 と読んで、日本では「とく ねぎ 0 0 ・とう ねぎ 0 0 」と呼ばれた「東萊」と いう慶尚道の地方府を指すと考えたい。なお、 「ねき」はもう一度、 氏 久 が 虎 を 射 殺 し て 帰 る 場 面 に、 「 そ の 矢 を も 抜 ぬ か ず し て、 と く ね 0 0 0 き 0 に 帰 かへ りて」と表現される。あるいは「 疾 と くねぎ」と「 東 とく 萊 ねぎ 」を掛 けたものかもしれない。ともあれ、そうした同定・比定の手懸かり も、該話が背景とする日朝交流史の実際に求めるほかないだろう。 まずは元の 『宇治拾遺』 一五五に影響を与えた事例を見てみたい。 それは『吾妻鏡』元暦二年(一一八五)六月十四日条などに記され る )1( ( 、平家の追討を受けて高麗国に逃げた対馬守藤原親光に関するも の で、 そ の 対 馬 か ら 高 麗 へ の 逃 亡 は、 薩 摩 平 氏 阿 多 忠 景 の 鬼 界 島、 平泉藤原泰衡の蝦夷島、越後城助職の佐渡への逃亡(企て)例とと も に、 「 十 二 世 紀 後 半 期 に 境 界 領 域 を 支 配 し た 者 が、 圧 迫 を 被 っ た と き に 見 せ る 行 動 パ タ ー ン )11 ( 」 と 位 置 づ け ら れ て い る。 そ れ は 当 然、 逃亡先との活発な交通・交易を前提としたが、高麗・朝鮮はその条 件 の 最 も 整 っ た ア ジ ー ル で あ っ た ろ う。 『 宇 治 拾 遺 』 一 五 五 で は、 新羅に逃亡するのは壱岐守宗行の郎等で、その原因も主従間の争い である点で、支配者の逃亡とは言い難いけれど、壱岐もまた西の境 界領域であること、逃亡先の金海が日本との交流拠点であったこと は、該話も右の類型を踏襲する証左と見ることができる。ことに金 海府(金州)は、十世紀後半以降の漂流民返還などに関わる「対日 本外交の最前 線 )11 ( 」であり、一二二七年高麗の全羅州道按察使が大宰 府に倭寇禁圧を求めた牒によれば、かつて対馬との交易等で「日本 人接待のための館 舎 )11 ( 」が設営されていたという。 その金海に替えて 『虎物語』 第四話が設定した朝鮮国の 「東萊」 は、 「 朝 鮮 初 め 三 さん 浦 ぽ の 一 つ、 富 山 浦 を 置 き 倭 わ 館 かん を 設 け、 日 本 人 が 居 住 し て交易した。 」(岩波文庫『高麗史日本伝(上) 』〔世家一 八四 〕)などと 説明されるように、同じく日朝交流の拠点であったが、近世期にか けては、むしろ豊臣秀吉による第一次朝鮮侵略(文禄の役=壬辰倭 乱)の最初の戦場であったイメージが強いのではないか。一五九二 年 四 月 十 二 日、 釜 山 に 侵 攻 し た 小 西 行 長・ 宗 義 智 ら の 第 一 軍 は 翌 十三日に釜山城を攻め落とし、十四日には東萊城を陥れた。例えば 小 瀬 甫 庵 著『 太 閤 記 』 巻 十 三( 一 六 三 七 年 三 月 以 前 刊 ) に は、 「 さ る程に小西摂津守は、 惣 ソウ 軍 グン 勢 ゼイ に先立事莫大にして、 釜 フ 山海、 とくね 0 0 0 ぎ 0 両城を攻落し、 振 フルフ 二猛 マウ 威 イヲ 一事甚以 夥 ヲビ し タヽ 。」 (寛永無刊記本、新日本古 典文学大系)とある。そのような記憶は、氏久の虎退治から、秀吉 の命で朝鮮出兵の諸大名らが行った虎 狩 )11 ( への連想にも導かれ易いこ
とだろう。その後、東萊城は「倭城」となり、主に毛利秀元・同家 臣吉川広家が在番し た )11 ( 。また、周知の通り、毛利氏は十六世紀中頃 に大内氏を倒し「 長 なが 門 と の 国 くに 」を領有した。そのことに関連づけるの な ら、 毛 利 氏 に 滅 ぼ さ れ た 出 雲 の 尼 子 氏 久 な ど も )11 ( 、「 氏 うぢ 久 ひさ 」 の モ デ ル候補に挙げることができる。 尼子氏久は、新宮党二代目当主で天文二十三年(一五五四)に従 兄弟の晴久に殺された誠久の子とされるが、抑も実在したかどうか 疑 わ し い。 誠 久 の 男 で 知 ら れ る の は、 父 と 祖 父 国 久 が 殺 さ れ た 時、 京都に逃れて、のち山中鹿介らに擁立され、一時は出雲に復活を果 たした勝久である。彼は天正六年(一五七八)毛利氏に攻められ播 磨国上月城で大将として自害するが、 香川正矩(一六六〇年十月没) の著した毛利氏を中心とする軍記『陰徳記』には、勝久自害のあと 「 助 四 郎 氏 久 0 0 サ ス ガ 大 将 ノ 御 自 害 程 候 ト テ 続 テ 腹 ヲ ゾ 切 レ ケ ル。 イ ト 潔 ク 見 ヘ ニ ケ ル。 」( 巻 之 第 五 十 六「 上 月 之 城 没 落 之 事 」。 マ ツ ノ 書店、 一九九六)と、 「従子」氏久もこの時切腹したと語られる(宣 阿 著『 陰 徳 太 平 記 』 も 同 )。 甥 か ど う か は と も か く、 そ こ で は ま る で 勝 久 の 分 身 の よ う な 氏 久 で あ る。 先 掲 の 第 四 話 冒 頭 部 に よ れ ば、 「 氏 うぢ 久 ひさ 」 の 相 手 は「 大 敵 てき 」 で、 そ の 一 類 に 広 く 追 尾 さ れ「 身 の 置 を き 所 どころ 」もなかった。中国制覇を果たした毛利氏は大敵と呼ぶにふさわ しい。長門出身ではないが、毛利氏により敗死した伝説の武将尼子 氏久が、実は生き延びて長門から密かに朝鮮に渡り再興を図ろうと した、という『虎物語』による発展的構想はどうであろうか。 そうした朝鮮逃亡劇の先蹤として注目されるのが、嘉吉の乱で追 伐された赤松満祐の弟則繁のそれであ る )11 ( 。万里小路時房の 『建内記』 嘉吉三年(一四四三)六月二十三日条(大日本古記録)に記された 「高麗国朝貢使」 の訴えによれば、 前々年の乱で播磨国を没落した 「赤 松左馬助」 (「謀反人也」 と注記) 則繁は、 その後行き方知れずであっ たが、 筑紫の菊池氏 (実際は少弐教頼 か )11 ( )を憑んで高麗国に渡り、 一ヶ 国 を 討 ち 取 っ て 難 儀 に 及 ん で い る と い う。 倭 寇 と 化 し た の で あ ろ う。 こ の 伝 聞 に 拠 っ て か、 さ ら に『 嘉 吉 物 語 』( 成 立 時 期 等 不 明、 続 群 書 類 従 ) に は、 高 麗 国 で「 清 水 の 将 軍 」 と 仰 が れ た 則 繁 だ が、 甥の則尚をもり立て再起せんと帰国、最後は追討されて「河内国太 子」で自害したと語られる。真偽の程はともかく、その高麗での英 雄譚は、 先の対馬守親光が、 彼の郎従の猛虎退治に感じた高麗の「国 主 」( 国 王 明 宗 か ) か ら 三 ヶ 国 を 与 え ら れ、 帰 国 の 際 は 宝 物 を 三 艘 の船に載せて送られたというのと同様、日本的武勇の優越を抜かり な く 物 語 る。 『 虎 物 語 』 第 四 話 も ま さ し く そ の 系 譜 に 連 な る が、 そ こでの氏久は、親光や則繁と違って、再び日本に戻ることがなかっ た。高麗・朝鮮への新たな逃亡劇と言うべき、その結末を物語る第 四話の末尾は、次の通りである。 こ の 由 よし 、 国 こく 司 し 聞 き こ し め し て、 「 か ゝ る ゆ ゝ し き 兵 つはもの は 国 くに の 大 お ほ き な る 宝 たから なり。この 国 くに の 守 まも りとなすべし」と 宣 のたま ひて、かのうぢひさ を 召 め されて、 国 くに を 与 あた へ 位 くらゐ を 授 さづ け 召 め し 使 つか はせ 給 たま ひけり。この 故 ゆへ に や、四 夷 ゐ 乱 みだ れをなさず、 時 とき つ 風 かぜ 静 しづ かにして、万 民 みん ともに 豊 ゆた かに 栄 さか へけり。うぢひさも代々、君の 寵 てう 臣 しん として、家 門 もん 広 ひろ ごりはひ か づ く。 子 孫 そん 、 今 に 穏 をだ や か 也。 こ れ 併 しかしなが ら 弓 ゆみ 矢 や の 名 めい 誉 よ な り。 め でたかりける事なるべし。 国司から虎退治により国の大きな宝と称された氏久は、領国と地
位を与えられ寵用されたが、そのため国は乱れることなく静かで万 民みな豊かに栄えた、といい、氏久も代々国王の寵臣となり家門広 がり子孫も今に安穏である、という。一方の『宇治拾遺』一五五で は、猛虎を退治してくれた郎等を、金海の人々は惜しみ留めて大切 にしてくれたが、彼は妻子を恋うて筑紫に帰り、主の宗行に報告し た と こ ろ、 「 日 本 の お も て お こ し 」 で あ る と 勘 当 も 赦 さ れ、 賜 っ た 禄を主にも取らせたする。最後の「 多 お ほ くの商人ども、新羅の人のい ふを 聞 き ゝて 語 かた りければ、 筑 つく 紫 し にもこの国の人の兵はいみじきものに ぞ し け る と か。 」 は、 明 ら か に『 宇 治 拾 遺 』 三 九 と の 連 繋 を 意 識 し たもので、郎等の猛虎退治の事実性と称賛評価の両国共有化を強調 する結びになっている。これを書き替えた『虎物語』で注意したい のは、虎退治によって家門再興の夢が叶っただけでなく、氏久の寵 用がほとんど国家レベルの安寧と繁栄までもたらしたとされること だ。それがすべて「 弓 ゆみ 矢 や の 名 めい 誉 よ 」として語られる点も見逃せない。 朝鮮国の英雄となった氏久は、 日本的武勇の勝利を象徴しているが、 そ の こ と は、 「 東 萊 」 や「 虎 」 を め ぐ る 記 憶 を 介 し て、 秀 吉 の 朝 鮮 侵略との寓意的関係をとり結ぶのではないか。すなわち、氏久にお ける朝鮮への帰化と家門隆盛は、秀吉にとっての朝鮮の征服と日本 支配を喚起する仕組みにあると観察される。 天正十九年(一五九一)八月頃より、秀吉は翌年の明国出兵を広 く催促し準備を命じているが、そのうちの例えば島津久通編『征韓 録 』( 寛 文 十 一 年〔 一 六 七 一 〕 序・ 跋 ) の 巻 頭 に 引 か れ る「 天 正 十九年九月下旬」の「御朱印」には、次のような文言が見える。 縦 たとい 朝 鮮 国 幕 下 に 属 せ ず と 雖 も、 斯 の 時 争 いかでか 本 朝 に 対 し て 干 かん 戈 か を戦はしめんや。更に漢土は文書を専にして世を保つ。和国は 弓箭を以て国を治む。 夫 それ 吾が朝は小国 為 た りと雖も、知恵国と為 す。今又、秀吉威名を 抽 ぬき んづるを以て、武勇第一之国と号せん こと必然な り )11 ( 。 朱印状としての信憑性はともかくも、右の「和国は弓箭を以て国 を治」め、今や秀吉の抜きん出た威名をもって「武勇第一之国」と 称して当然だという自国観は、先掲の『虎物語』第四話末尾におけ る氏久の英雄観とみごとに重なる。秀吉の朝鮮侵略との寓意的関係 を想定する所以だが、しかし、そこで相手にされるのは、あくまで 「文書を専」にする中国であった。その対応関係の構築こそ、 『虎物 語』における改作の眼目であったと言ってよい。 おわりに 如 上、 『 宇 治 拾 遺 物 語 』 の 虎 関 係 説 話 に 基 づ く 奈 良 絵 本『 宇 治 拾 遺虎物語』は、日本的武勇の誇示という元の主題性を継承・強化し ていると見て間違いない。それは、 とくに日本人の虎退治に対する、 第三話の中国皇帝の「李将軍」と対比しての絶賛、第四話の朝鮮で の「国の宝・国の守り」としての評価などの積極的な加筆部分に端 的 に 窺 え る。 そ の 営 為 は、 『 宇 治 拾 遺 』 に つ い て の 解 釈 的 理 解 を 追 認するものとして、また、その受容的解釈を再現するものとして興 味深いが、さらに第三話では日本の天皇による叡感と厚遇、第四話 では日本武士の朝鮮への帰化、国王の寵臣としての家門繁栄・子孫 安穏までも潤色するところには、もはや享受的再編のレベルを超え
た『虎物語』の再創造的な改作への意志が認められる。 そうした改作意志は、より強く中国を意識したところに始まるよ うだ。何より巻頭第一話に中国をメッカとする「龍虎の争い」を描 い た こ と が 大 き い。 逆 に 第 二 話 で「 新 羅 」 を 消 去 し た よ う に、 『 宇 治 拾 遺 』 の 虎 関 係 説 話 に 見 出 せ た 中 国 と 朝 鮮 の 一 体 的 な 捉 え 方 は、 もはや服属関係を内実とするようなものに変容している。その第二 話 の「 慶 州 」 に お け る 虎 と 鰐 の 格 闘 を、 「 筑 紫 」 で は な く「 明 州 」 の商人が目撃するという設定に改めることで、中国に朝鮮猛虎の脅 威を実感させるかたちをとり、それによって、第三話の遣唐使によ る虎退治だけでなく、第四話の長門から朝鮮に逃れた兵の虎退治に 誇示される日本的武勇をも、中国に認知させるという構成的展開を 企てたのが、 『虎物語』であったと考えられる。 かくして『宇治拾遺』の「虎」をめぐる主題的世界を、中国に照 準を合わせて語り直した『虎物語』だが、 そこに横たわる中国観は、 奈良絵本としての制作時期とも関わって、第四話にひそむ秀吉の朝 鮮侵略との関連が鍵になってくるだろう。秀吉のそれは「唐入」と 称されたように、朝鮮を通路として大明国を制覇せんとする無謀な 企 て に 係 る 中 国 観 で あ っ た。 『 虎 物 語 』 が は た し て 秀 吉 の 二 の 舞 を 演じているのかどうか、さらなる検証を期したい。 【注】 (1) 山口眞琴「 〈からくにの虎〉をめぐる朝鮮・中国観について」 (『 東 ア ジ ア の 今 昔 物 語 集 ― 翻 訳・ 変 成・ 予 言 』 勉 誠 出 版、 二〇一二 ・ 七) 。 (2) 同目録の「解題」には、併せて冒頭第一紙と計五枚の絵が関 連 す る 解 説・ 翻 字 を 附 し て 載 せ ら れ て い る。 当 該 絵 巻 は、 そ の ほか 『明治古典会七夕古書入札会目録 平成 22年』 (明治古典会、 二〇一〇 ・ 七)の「古典籍」項に、 1838 「虎物語 奈良絵本 寛 文・ 延 宝 頃 写 33 × 1090 一 巻 」 と し て、 冒 頭 第 一 紙 と 最 初 の 絵が掲載されている。 (3) 主たる理由は、 『宇治拾遺物語』原話に対して、 『虎物語』の 加 筆 に よ る 本 文 異 同 の 度 合 い が 大 き く、 ま た 重 要 な 人 名・ 地 名 等の意図的改変による相違が改作レベルにあることである。 (4) 小峯和明『宇治拾遺物語の表現時空』 (若草書房、一九九九) 12「 宇 治 拾 遺 物 語 絵 巻 を め ぐ っ て 」( 初 出 一 九 九 三 )、 同「 宇 治 拾 遺 物 語 絵 巻 を め ぐ っ て 」( 『 陽 明 文 庫 蔵 重 要 美 術 品 宇 治 拾 遺物語絵巻』勉誠出版、二〇〇八) 。 (5) 『宇治拾遺』の虎関係説話のうち一五五は、 国会図書館蔵『今 昔 物 語 絵 巻 』 絵 本 一 冊( 近 世 後 期。 白 描、 一 部 に 淡 彩 ) に、 絵 のみ全十一例ある一つとして収められる。 ( 6) 石 川 透『 奈 良 絵 本・ 絵 巻 の 展 開 』( 三 弥 井 書 店、 二 〇 〇 九 ) 第 三 編・ 第 二 章「 奈 良 絵 本・ 絵 巻 の 筆 跡 と 制 作 時 期 」( 初 出 二〇〇五) 。 (7) 新釈漢文大系の訓読文に拠る。 『謡曲叢書』第三巻(博文館、 一 九 一 五 ) や『 謡 曲 大 観 』 第 五 巻( 明 治 書 院、 一 九 三 一 ) の 頭 注指摘。前者は 『文選』 巻四十七・王褒 「聖主得 二賢臣 一頌」 の 「故 世 必 有 二聖 智 之 君 一、 而 後 有 二賢 明 之 臣 一。 虎 嘯 而 谷 風 冽、 龍 興 而 致 二雲 氣 一 」( 新 釈 漢 文 大 系 )、 後 者 は『 周 易 正 義 』 巻 一 の「 龍 吟
則景雲出……虎嘯則谷風生」 (欽定四庫全書)の例も挙げる。 ( 8) 信 多 純 一「 『 国 性 爺 合 戦 』 の 龍 虎 」( 大 阪 大 学『 語 文 』 49、 一九八七・九) 。 ( 9) 『 下 学 集 三 種 東 京 大 学 国 語 研 究 室 資 料 叢 書 14』( 汲 古 書 院、 一九八八) 。 ( 10) 「 虎 骨 」 そ の も の は、 唐・ 高 宗 時 代 の 最 古 の 勅 撰 本 草 で 知 ら れる『新修本草』 (六五九年、蘇敬撰)に登載されるが、その注 記に虎眼の故実伝承は見えない。 ( 11) 『 陳 蔵 器 本 草 拾 遺 不 分 巻 』 国 会 図 書 館 蔵「 特 1 -481」 ⑵、 江 戸期写本(デジタルコレクション)に拠る。 ( 12) 『 虎 物 語 』 で は 明 州 を「 み や う し う 」 と 表 記 す る。 著 名 な 阿 部 仲 麻 呂 の「 あ ま の 原 」 歌 を 入 れ る『 古 今 和 歌 集 』 羇 旅 歌・ 四 〇 六 の 左 注 に あ る よ う に、 古 く は「 め い し う 」 だ が、 そ れ が 謡曲『唐船』の「 明 ミヤウ 州 ジウ 」(刊本)などと一致するのも、 『虎物語』 の制作時期との関係で注意されてよい。 ( 13) 保 立 道 久『 物 語 の 中 世 ― 神 話・ 説 話・ 民 話 の 歴 史 学 』( 東 京 大学出版会、 一九九八) 第六章 「虎・鬼ヶ島と日本海海域史」 (初 出一九九三) 。 ( 14) 村 井 章 介 『 ア ジ ア の な か の 中 世 日 本 』( 校 倉 書 房 、 一九八八) 、 関 周 一『 中 世 日 朝 海 域 史 の 研 究 』( 吉 川 弘 文 館、 二 〇 〇 二 )、 榎 本渉 『東アジア海域と日中交流 ― 九〜一四世紀 ― 』(吉川弘文館、 二〇〇七) 、高橋公明「テキストのなかの明州」 (『江南文化と日 本 ― 資 料・ 人 的 交 流 の 再 発 掘 ― 』 国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー、 二〇一二・三)など参照。 ( 15) 注( 14)の榎本著書第一部・第一章「明州市舶司と東シナ海 海域」 (初出二〇〇一) 。 ( 16) 古瀬奈津子 『遣唐使の見た中国』 (吉川弘文館、 二〇〇三) 「揚 州にて」 。 ( 17) 李成市「慶州と日本列島の交通」 (『アジ研ワールド・トレン ド』 236、二〇一五 ・ 六) 。 ( 18) 山 内 晋 次『 奈 良 平 安 期 の 日 本 と ア ジ ア 』( 吉 川 弘 文 館、 二 〇 〇 三 ) 第 二 部・ 第 三 章「 東 ア ジ ア・ 東 南 ア ジ ア 海 域 に お け る海商と国家」 (初出一九九六、 一九九八)参照。 ( 19) 国立故宮博物院蔵上巻古鈔本(池田利夫編『蒙求古註集成 上巻』汲古書院、一九八八)に拠る(訓点等は略) 。古註蒙求に ついては、新釈漢文大系『蒙求 上』 (明治書院、一九七三)所 収 の 早 川 光 三 郎「 序 説 」 参 照。 な お、 李 広 復 讐 譚 に つ い て は、 つとに村上美登志 「『曽我物語』 と傍系故事説話 ― 「李将軍」 「許 臼・ 程 嬰 」「 玄 宗・ 楊 貴 妃 」 説 話 を め ぐ る ― 」( 『 立 命 館 文 学 』 552、一九九八 ・ 一)に詳しい考察がある。 ( 20) 曾我兄弟の武名については、 真名本 『曾我物語』 巻第十に 「天 竺・ 震 旦 よ り 日 本 秋 津 嶋 に 至 て、 合 戦 は そ の 数 多 け れ ど も、 武 芸 を 天 下 に 施 し て 名 誉 を 後 代 に 留 む る 事 は、 曾 我 十 郎 助 成、 弟 の五郎時宗にて留めたり。 」とあり、仮名本『曾我物語』巻第十 に は、 頼 朝 の 涙 な が ら の 言 葉 と し て「 餘 の 侍、 千 万 人 よ り も、 か や う の 者 を こ そ、 一 人 な り と も め し つ か ひ た け れ。 無 慙 の 者 の心やな。おしき武士かな」とある。 ( 21) 関係記事は、 『玉葉』文治二年(一一八六)二月二十四日条、
『吾妻鏡』元暦二年(一一八五)三月十三日条、 五月二十三日条、 六月十四日条(対馬守親光の郎従による虎退治譚を含む) 、文治 二 年 五 月 二 日 条。 こ の う ち、 九 条 兼 実『 玉 葉 』 に 記 載 が あ る こ と か ら、 虎 退 治 や 高 麗 国 王 に よ る 厚 遇 は と も か く も、 親 光 の 高 麗逃亡の事実はあったものとされる。 ( 22) 柳 原 敏 昭 『 中 世 日 本 の 周 縁 と 東 ア ジ ア 』( 吉 川 弘 文 館 、 二 〇 一 一 ) 第 四 部 ・ 第 一 章 「 中 世 日 本 の 北 と 南 」( 初 出 二 〇 〇 四 )。 そ の ほ か、 関 周 一「 中 世 の 日 朝 交 流 と 境 界 意 識 」( 『 交 通 史 研 究 』 67、 二 〇 〇 八 ・ 一 二 )、 柳 原 敏 昭「 境 界 へ の 逃 亡 」( 『 古 代 中 世 の 境 界 意識と文化交流』勉誠出版、二〇一一 ・ 五)参照。 ( 23) 注( 18)の山内著書第一部・第三章「朝鮮半島漂流民の送還 をめぐって」 (初出一九九〇) 。 ( 24) 近藤剛「嘉禄・安貞期(高麗高宗代)の日本・高麗交渉につ いて」 (『朝鮮学報』 207、二〇〇八 ・ 四) 。 ( 25) 島津家を対象とした虎狩伝承の問題については、 山口眞琴 「島 津家朝鮮虎狩伝承の光と影 ― 〈虎退治〉 から 〈虎狩〉 へ ― 」( 『兵 庫教育大学研究紀要』 49、二〇一六 ・ 九)に考察した。 ( 26) 村 井 章 介『 日 本 中 世 の 異 文 化 接 触 』( 東 京 大 学 出 版 会、 二〇一三)Ⅲ・3「 「倭城」をめぐる交流と葛藤 ― 朝鮮史料から 見る」 (初出二〇〇七、 二〇〇九) 。ちなみに、香川正矩著『陰徳 記』 巻之第七十八 「高麗城番之事 付 秀元朝臣 并 金吾殿事」 には、 「去 程 ニ 日 本 ノ 諸 将 釜 山 海 近 辺 ノ 所 々 ニ 城 ヲ 築 キ 被 二籠 置 一、 釜 山 海 ノ 東 ノ 方 セ ツ ガ イ ノ 城 ニ ハ 加 藤 主 計 頭、 占 城 茶 碗 之 城 ニ ハ 黒 田 甲 斐 守、 ト 東 萊 、 イ 策 ク ネ ン ギ ノ 城 ニ ハ 吉 川 侍 従 、 カ ド カ イ ノ 城 ニ ハ 立 花 左 近、 釜 山 海 ノ 城 ニ ハ 毛 利 太 夫 秀 元 、 竹 嶋 ノ 城 ニ ハ 龍 造 寺、 南 高麗カラ嶋之城ニハ福嶋左衛門太夫、順天ノ城ニハ嶋津兵庫頭、 其次ノ城ニハ小西摂津守等也。 」とある。 ( 27) 同じく十六世紀後半、石見国美濃郡の馬ノ谷(高嶽)城主で あ っ た 杉 森 氏 久 は、 毛 利 氏 に 反 旗 を 示 し て 徹 底 抗 戦 し た が、 追 い込まれて戦死、 杉森氏の滅亡を招いたという。 『石陽軍見聞記』 (安政四年〔一八五七〕 )に詳しい由だが、未見。 『益田市誌(上 巻) 』(益田市誌編纂委員会、一九七五)参照。 ( 28) 高橋公明「東アジアと中世文学」 (『岩波講座日本文学史第5 巻 一 三 ・ 一 四 世 紀 の 文 学 』 岩 波 書 店、 一 九 九 五 ・ 一 一 )、 注 ( 22) の 関 論 文。 高 橋 論 文 は、 『 嘉 吉 物 語 』 に つ い て「 自 分 の 持 つ 能 力 を 活 か し て「 清 水 の 将 軍 」 に な る こ と が で き る、 と い う 隣 国 観 」 に 言 及 し、 関 論 文 は「 逃 避 す る 場 所 」、 「 戦 争 の 際 の 逃 亡先」としての高麗・朝鮮観を重視する。 ( 29) 秦 野 裕 介「 「 倭 寇 」 と 海 洋 史 観 ― 「 倭 寇 」 は「 日 本 人 」 だ っ た の か ― 」( 『 立 命 館 大 学 人 文 科 学 研 究 所 紀 要 』 81、 二 〇 〇 二・ 一二)参照。 ( 30) 原漢文・片仮名表記。北川鐡三校注『第二期戦国史料叢書6 島 津 史 料 集 』( 人 物 往 来 社、 一 九 六 六 ) の 訓 読 文 に 拠 る。 『 薩 藩旧記雑録後編二』所収 779 「高麗国御出張之文書」と同一。 ※成稿に際し、 石川透氏より種々ご助言を賜った。 深謝申し上げる。 (やまぐち まこと・兵庫教育大学)