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プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する一試論(その二) メトーデ導入前史(続き)

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(1)Title. プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する 一試論(その二) メトーデ導入前史(続き). Author(s). 大崎, 功雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 41(1): 29-44. Issue Date. 1990-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/5134. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第4 1巻 第1号 lof Hokkaido Univers i ion(Sec jouma ty ofEducat ion IC)Vo l t ‐41 .I , No. 平成2年9月 September ,1990. プロイ セン教育改革期における ペ スタロ ッ チ教授法の. 導入過程に関する-試論. -- その (二). 大. メトー デ導入前史 (続き) --. 功. 崎. 雄. Ein Versuch aber d ie Einf可h l l rend 1ung der Pestalozzischen M[ ethode wa der Bi ldungsrefornQzei tin PreuBen‐. 2 …… ( ). i hmng vor der Reformzei 1はsetzung)--- t(Fo --一 Geschichte der Methodes=Einft. Von lsao OHSAKI. 目. ) 次. 1‐ は じめ に. 1 1 0 8年のシュタインと教育改革 -- 分析視角の形成とかかわって ‐ 18 m‐ ペスタロッチ教授法の導入過程 ( 1 ) プロイセン改革以前 1. プロイセンにおけるペスタロッチの紹介開始 (以上, 本学紀要 第40巻 第2号) 2. プロイセン政府とペスタロッチ教授法 ( 1 ) 国王によるメトーデ調査の命令 ( 2 ) 18 0 3年4月のグナイゼナウの国王宛匿名の覚書 ) 南プロイセン州におけるペスタロッチ教授法導入の試みと F ( 3 ‐W‐田世の暫定措置 ) 調査の継続と K.ヴィッテの報告 ( 4 ( 5 ) プラーマンの 「実験学校」 の成立 (以上, 本号). 2. プロイセン政府とペスタロッチ教授法 1 ( ) 国王によるメトーデ調査の命令 『新 ベ ル リ ン 月 刊 誌 (Neue Ber l ini i f t )』 に お い て ペ ス タ ロ ッ チ (教 授 法) の紹 sche Monat schr. 介が系統的に展開され始めた頃, プロイセン政府内部においても一つのう ごきが現われた それは, . 政府や高等宗務局全体の対応という より, 国王サイ ドのう ごき であっ た. 国王 F W l n世は . ‐ , 即位 ( 1 ) ペ の時期から スタロ ッチに着目していたと言われるが , その確証はない. 国王がペスタロッ チ教授 29.

(3) . 大 崎 功 雄 , 法に対して具体 的なう ごきを見せたのは, 史料に見る限り, 1803年4月 23 日 の ゲ ディ ケ (Gedike Fr ) 宛 の 勅 書 に お い て で あ る‐ そ れ は, ブ ル ク ドル フ の ペ ス タ ロ ッ チ を 訪 ね, 同 学 園 .:1754一1803. とメトー デの実際を実地に即して調 査研究するよう, ゲディ ケに命じたも のである. 国王が何故ペスタロッ チ教授法の調 査を命じたのか, その直接の契機は不明である. しかし, 国 inand:1759一1815 ) i iv i s He lui chFerd er 王が息子 (後の F. W‐IV世) に オリ ヴィ エ ー ル (0l ,Loui ( 2 } の読み方の教 授を受けさせていた事実 から推測すると, 国王はオリ ヴィ エールを個人的にも知っ ていたわけで, 彼の教授法を通じて, それと多くの類似性をもっと言われていたペスタロッチの教 授法を間接的に承知 していたと見られる‐ しかし王は, オリヴィ エールのやり方に 必ずしも満足せ 3 ( } ず,ペスタロッチの教授法を実際に調査し確かめる必要を 感じたよう である‐ゲディ ケ宛の勅書 は その間の事情を物語っ ている‐ 「目下非常に誉れ高いペスタロッチの教授法は, 余の注意も引き付けている‐ 余は, 子どもの最初の教授に際して のオリヴィエールの取り扱い方, それはペスタロッチの教授法と非常に類似していると言われているようだが, そ れによってペスタロッチの教授法に関する詳細な説明が得られるものと確信していた‐ しかし, オリヴィ エールが ベルリンで行った実験は, 少なくともこの点に関しては余を満足させなかった‐ 余がそれについて経験したあらゆ る点からみて彼自身によって過大に評価されているように思われるが, オリヴィ エールのメト…デの価値について 最終判 断を下すには, その他の点ではまだなお早計であるとしてもである. したがって余は, 新流行品の魅力に舷 惑されないために, 定評ある教育学的知識と経験を有する者にして, 同時に, 教授を改善できるあらゆるものに対 する情熱と公平無私な態度を期待できる者をして, スイスのペスタロッチの施設を訪問させ, そこに取り入れられ 4 ) ( ているメトーデを, その現場においてその人自身に徹底的に研究せしむることを, 決心したのである ‐」. オリヴィ エールの教 授法に必ずしも満足しなかっ た F ‐W.m世が, 信頼できる人物を直接 ペ スタ ロ ッチの学園に派遣し, メトーデを実地研究させようとしたの であるが, 命を受けた当の ゲディ ケ は同年5月 2 日に死去し, この計画は 実現しなかっ た. ところで, 王が斯かる企図を懐いたのは, 単に息子の教育を通 じてのオリヴィ エールヘの不満と 01年の 『ゲルトルート児童教授法』 以来, スイ いった個人的動機によるもの だっ たのだろうか. 18 802年7月 9 スは勿論, 全ヨーロ ッ パ規模で ブルク ドルフの学園とメトーデは注目を集め ていた.1 l h ) t 日付で報告され, やがて出版されたヘルヴェ チア共和国政府小評議会命によるイ ート( ,Johann 5 ( ) ペ た らによる ペスタロ ッチの学園調査公式報告書は, 客観的で詳細かつ公平な内容のものであっ . スタロ ッチのメトーデを巡る賛否両論のある中で,この報告書は ペスタロ ッチの評価を一層高めた. 新ベ ルリン誌上でビースターやフォ ン・クレ ヴィ ツらが依 拠したのもこの報告書であった‐ してみ れば, プロイセン国 内でも, 直接国王に対してメトーデ導入を求めるう ごきがあっ たと推測 できる‐ そしてそれは, プロイ センにおける民衆教育政策レベ ルのう ごきでもある‐ 斯かる側面から国王に どのような働き掛けがあっ たのか, あるいは国王がそれに どう応じたのかを知る手掛かりは現段階 では見付からない が, その周辺の事情を伝えてくれる興 味ある文書がある‐ それは, 次に挙げる グ ) の 匿名 の 覚 書 で あ る‐ そ の 覚 i thardtvon:1760一1831 ナイ ゼナウ (Gneisenau,Au圭副st ,GrafNe 書(建白書) が, 王のペスタロ ッチ教授法調査命令に 直接影響を及ぼしたもの かどうかは不明だが, 少なくともその背景を知る間接的手掛かりを提供するものである. 3年4月の グナイ ゼナウの国王宛匿名の覚書 ( 2 ) 1 80. プロ セイ ン 改革期 に シ ャ ル ン ホ ルス ト. 1755一1813 ) h D id t (Schar通lors ,Gerhardjo ann av von:. 806年以前には,「後期 と共に, シュ タインの片腕として 軍制改革に力を発揮 した グナイ ゼナウは,1 30.

(4) . プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する-試論 ( 2 ). 6 ) その彼が 「ペスタロ ッチの基礎メ 絶対主義の社会秩序」 を擁護する立場に立っていたとされる( , . トーデに 関する1 80 3年4月 のフリー ドリ ヒ・ ヴィ ルヘ ルム1 1 1世 宛の グナイ ゼナ ウの匿名 の 覚書 i f (んコnonylne Denkschr t Gneisenaus an Fr i i lhe lm l l l l 1803 t i ber d i edr ch Wi i e ‐ vom Apr E1 7 h P { i talozz ementarmet ode es )」 と し て 今 日 で は 知 ら れ て い る 一 種 の 建 白 書 を 提 出 し て い る ) s , .. 「国王陛下の忠実な僕が 人類にとって最も重要な問題に 敢えて陛下の注意を促そうとする次 , , 第であります.」と冒頭から切り出すこの建白書において, グナイ ゼナウは ‐一体何を訴えようとした のカ1 .. 「私が陛下に注意を向けていただきたいと願う事柄 他の忠実な僕によってこれが企てられていない限りですが , , それはスイス人 H‐ペスタロッチの新しい教授法 ( i d eneueLehロロethode) の こ と であ りま す‐ こ こ で問題と して いるのは, 取るに足りない改良でも お粗末なメトーデでもなく 最も重要な 基礎教授( E 1 i t t t ) emen a r ‐Un e T I ch , , , の全き改鋳のことであります. この人の新しい教授法 ( lua t ) は偏見のない公正な判断をする者なら誰に neueLe r でも非常に強く語り掛けるもので, 人類の高貴化という人を満足させる希望から逃れることができないほど強く, その人の心を掴んで離しません‐ しかも, それは非常に容易であり, 教師や生徒の能力(F i h i i i t )を殆んど前 en gke 提としませんので, 全王国内でそれを一般化するのに殆んど困難が見られないでしょう 教師はそれを使うために . hr l ben (Di eLe ) e rde s e r , 費用のかかるゼミナールや学校図書館によって長い時間をかけて養成される必要はあり 8 { 〕 ません.」 (傍点は, 原文の強調部分). グナイ ゼナウがここにおいて注目しているのは, 個々の教授法あるいは 「術」 としてのメトーデ ではなく, 「基礎教授」のことであり, それを可能とするメトーデのことである そしてこの視点は ‐ , 後に見る彼の 「国民教育」 構想にも繋がるの である‐ では, ペ スタロ ッチ教授法の効果, その働き, 目標とするものを, グナイ ゼナウはどのように 捉 えたのか. やや長く なるがメトーデの効能について述べる件を掲 げておこう‐ 「それは 生徒たちの中にあらゆる事柄を自分でやっていける力を発達させます それは 彼らの将来の職業の精 , ‐ , 神を彼らの第二の天性にします‐ それは, 私たち世代と全ての個人をその置かれている位置の全面に亙って 不都 , 合な時代の困難の真っ直中にあっても, どんなに不利な境遇の災いの下でも, 静かで平安な そして満足した生活 , が保証されるま で, 高めることを目指します. それは, 人間の最も本質的な事柄をうまく配慮することにより 彼 , i が進んで内的満足 ( i t )に到達するのを可能とします‐ それは, まずもって, 民衆の 多くの部分 nne r eZumede面e に働き掛けるのに適しています それ故 全ての国民教育(Na i l i t ‐Er )の基礎となるのに適しています‐ ona z ehung , ‐ この国民教育が可能であるかは, ひとりその教授法の一般化(AI I i証l i t )に依存していますが, ただしそれは e geme 庶民を彼の領分を超えて導いたり, 彼に役立ない何事かを教えたりはしません それは 民衆を博学にしたり 啓 , ‐ , 蒙したりすることを望みません‐ それは, 死すべき者 (人間……引用者) を彼の身分と使命から引き離すことも , まして彼の身分と使命を超えて彼自身を不幸にするように甘やかして育てることも望みません 反対にそれは 現 ‐ , に存在しそしていたずらに存在するものではない人間の諸力(Kr a賞en )に, 熟練を叶えようとするものです. それ は, 民衆に対して, 彼の職業での幸福な成功には欠くことのできない人間的な教育( h l dung UmaneBi )を保証しよ うとするものです. それは, 公民 (St bar t ) をして, 彼の運命を支配する摂理の手が描いた道を, 生涯を通 aa s r ge じて, 安んじて, 物分かり良く歩み続けることを可能とさせようとするものです それは土地には勤勉な農民を ‐ , 国家には有用で‘迫順な公民 (Bu ) を, 産業には巧みな手を, 軍隊には忠実な守り手を, 家族には良き父と母を rge r 作ろうとするものです‐ 内的な満足によって, それは道徳の基礎を作り, したがって公共の幸福を生み出そうとす るものです‐ それは, 結局, 全ての身分の中に益々蔓延してきている不満を強力に堰止めるのに役立ちます それ ‐ は, 道徳や心の平安にとても良い影響を与えます‐ もし, 私たちの感覚的自然と理性的自然との一致 及びそこか , ら帰結するところの私たちの全ての能力と諸力の秩序が, 人間におけるあらゆる人間的な, したがってまた道徳的 な完全性の基礎であるとすれば, またもし, この内的な完全性についての惑わされない 確かな自覚が全ての真 -の , 明朗性, 全ての理性的で道徳的な満足の源泉であるとするならば.」 (傍点は, 原文の強調部分). 31.

(5) . 大 崎 功 雄. 以上のようなペスタロ ッチ教授法の理解は何を意味するであろうか. 一方では, 民衆が現在の身 「内的満足」 ) という 「身分制社会秩序」 の安定という 思想と, 分と社会秩序の 中で満足して生きる ( 他方では勤勉で有能な臣民, 職業人の形成という思想が読みとれる.『プロセイン改革期における教 i i )は St nz ub g ,He 育学と政治. 国民教育とペスタロ ッチ受容に 関する研究』 の著者シュ ティ ビヒ (. 「教育の二重の機能 -- 一方では個々人の 『勤勉性 (lndustribsitat)』. の 向 上, 他 方 では 個 々 人 の. 『国 社会的適応;従属の強化 -- の点において, グナイ ゼナ ウにとっ ては, ペスタロ ッチの考えは が明らかとなっ た」 民教育』 即ち臣民多数に 対する好意ある教育政策プロ グラムの基礎であること 1 0 ) しかし 更につぶさに検 討すれば, この 二重の機能の枠に収まり 切れない構想が見 としている( , ‐ 『 ペス られるのである. それは, 既に垣間見られる国民教育の構想である. 覚書』は, その中頃で, 重さが必要である. タロ ッチのメ トーデを導入する狙いを 次のように説明する. その読み方には慎. 「ここ では 費用のかさむ施設の新たな設立が問題なのでありません‐ この確かに発見された自然の メ トーデ , i i l Er t )のこの土台を一般的に普及するためには, それ(メ ‐ ehung ) ona z (MethodederNatur , 即ち国民教育 (Na えすればよいのです トーデ…引用者) を既存の学校に導入しさ ‐ そしてそれを, 一方ではペスタロッチによっても i te ) を 更に 発展さ せ る も の と して, 他方 では, よ り cht ‐Un r r 申し立てられた早期の基礎教授 (旅紬em E1ementar i l hem Aus b dung tungzuderho ) として見なされ得るよ f t t e Vorberei s u abge 上級の教育の段階づけられた準備 ( うに, 修正しさえすればよいのです‐ 既存の学校は廃止されるのではなく, より高い目的にしたがって整理され, そして, 全体としては個々の村落学校と都市学校から成り立ちながら, 巨大な, 一切を包含するような一つの国民 l Schu i l l ) に作り変えられるでしょう. そうすれば, 生まれや言葉が分 t i ende Na ‐ e ona umfass 学校 ( negroBeal e 離させている諸民族を結合し, [一つの…編者]全体に融解することが可能となりましょう‐」 (傍点は原文の強調部 分, 圏点は引用者). ここには, メトーデを 「国民教育の土台」 とする考えが見られると共に, その国民教育の制度化 の指向性が概観されているの である. 即ち, 学校は基礎教授の段階と, その上に構 想される上級教 育の段階とに制度化されるのである. この場合, 基礎教授は, 「民衆の 多くの部分」に対する教授で ある ばかり でなく, 「より上級の教育の段階づけられた準備」としても捉えられる. したがってこの 構想は, 国民全体に共通な 基礎教授という着想を内包している. そしてメトーデは, 「基礎教授」に も, 「より上級の教育の段階づけられた準備」にも, 発展的に 適用させられる. 先に, グナイ ゼナウ は, 『覚書』 の冒頭 で, 「ここで問題としていることは, 取るに足りない改良でも, お粗末なメトー デでもなく, 最も重要な, 基礎教授の全き改鋳のことであります」 と述べていたが, この 「基礎教 授の全き改鋳」 が上に見る国民教育の 構想であっ た. 1 ks i ) と言わず国民教育と言い, 民衆学校乃 至民衆教授 r グナイ ゼナウは, 民衆教育 (VO e z ehung と言わず国民学校乃 至基礎教授と言う‐ こ ,の構想は, 身分 ごとに学校を区分し, その枠を厳 守しよ うとする守旧的身分制学校構想とは明確に異なる. 斯かる国民教育の目的とするところは, グナイ ゼナウの表現を借りれば, 諸民族 (諸身分の響きあり) の統合であり, 言わば 「国民」 の形成であ 1 1 る. ここには, シュティ ビヒのとらえるような「身分制社会秩序の固定化{ )とか, 「際立っ て特徴の 1 2 ( ) ある封建的構造を備えた後期絶対主義の社 会秩序」 の枠組みでは 捉え切れない一面が見出される 03年の時点における の である. グナイゼナウの 思想史的研究を踏まえなければ断言できないが, 18 この 「覚書」 は斯かる視点からの注目を要しよう. なお, グナイゼナウが「国民教育」の観点からペスタロッチの進む方向を捉えていることは, この時期, ペスタロッ チとオリヴィエールとを比較して述べている妻宛の私信の中にも明らかである. 32.

(6) . プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する-試論 ( 2 ) 「オリヴィ エールとペスタロッチは それにも拘わらず 幾分違った途を歩んでいます 前者のメトーデはより形 , , . 式的で, 後者のそれはより実質的です‐ 前者はどちらかと言うと, 事物と言語の認識を容易にすることを目指して 1 3 いるのに対し, 後者はむしろ国民教育を目指Lています( 1」. ところ で, グナイ ゼナウは, 民衆の 「満足」 に関心を寄せるのはその福祉の担い手 である 「権力 保持者」 の責務 であるとし, プロイセン国王に ペ スタロ ッチ教授法の保護と導入を強く求める そ ‐ の際, 国王がこの時期行うこととなる ペスタロ ッチ教授法の調査命令との関係 で興味ある提案がな さ れ て い る の であ る‐ 「スイスの改革者のこの賞賛に値するメトーデに陛下が保護を与えられているとしても それにも拘わらず それ , , は偏見の支配によって反対に遭っています. それ(メトーデ…引用者)がいよいよ広範に広まっていけばいくほど, それがいよいよ非凡なものに見えれば見えるほど, 怠惰, 妬みそして無知が一層強くそれに逆らっています 陛下 ‐ の開明的なフオン・マッソウ大臣でさえ, 陛下は彼に調査を託されるかもしれませんが, 強い妨害と闘わなければ ならないでしょう‐ しかし, 陛下の断乎たる御意志はここに良い策に目を向けることができます‐ 相互に独立した 数名の調査委員(Un t r ‐Comml ) e suchungs l s s onen , その審議の機密保持を互いに義務付けられるのですが, 彼らは 恐らく真謬至に勝利をもたらしてくれるでありましょう. そして, 陛下は人類に対する, とくに人類の内の無数の, 見棄てられた部分, つまり陛下の人民に対するこのうえなく意義深い慈善の一つを保証なさられたという満足と名 声を得られることでありましょう.」. ここに グナイ ゼナウは, ペスタロ ッチのメトーデに対する偏 見を克服すべく,「その審議の機密保 持を互いに義務付け られた」「相互に独立した数名の調査委員」の派遣を提案するのである これは , . 恐らくヘルヴェ チア共和国政府命のブルク ドルフの学園調査委員にヒントを得た提案と 思われる. も と よ り, メ トー デ 調 査 の 企 図 は 国 王 と フ ォ ン ・ マ ッ ソ ウ と の 間 に あ っ た と 見る の が 自 然 で は あ る. が, グナイ ゼナウの建白書は, それを押し進める方向で作用したと推測できる‐ 但し数名の調査委 員としてではなく, 「信頼できる」 人物, ゲディ ケヘの命令として‐. ( 3 ) 南プロイ セン州におけるペスタロ ッチ教授法導入の試みと F . W‐ m世の暫定措置 ペスタロ ッチ教授法の公的導入は, プロイセン統治下に組み入れられたポーラン ド諸州 (南 プロ イ セ ン 州) に お い て 独 自 に 開 始 さ れ た. 同 州 担 当 大 臣 フ オ ン ・ フ ォ ー ス (von VOB ) 主導の下, 公 的にペスタロ ッチの学園と接触するというものである‐ その経過は必ずしも明らか ではないが, 恐 lhe lm らく は, 当 時 の 枢 密 財 務 顧 問 官 で, フ ォ ー ス の 良 き 協 力 者 フ ォ ン ・ ク レ ヴィ ツ (K1 tz ewi , Wi Antonvon:1760一1838 ) に よ っ て 強 力 に 支 持 さ れ て 開 始 さ れ た も の と 思 わ れ る‐ フ ォ ー ス は, 国 1 4 }を iorowski 王 の 許 可 を 得 て, 南 プ ロ イ セ ン の ゼ ミ ナ ー ル の 視 学 官イ エ ツ ィ オ ロ ウ ス キ ー ( Jez )(. デッサウのオリ ヴィ エールの許で学ばさせた後ブルク ドルフのペ スタロ ッチの許に派遣した. イエ ツ ィ オ ロ ウ ス キ ー は,1803 年 7 月末から1 0月初旬までペスタロ ッチの許に滞在し,メトーデを中心 に学び取っ ている. 彼が所持したペスタロ ッチ宛の依頼状(紹介状)には, 7 月 19 日 の 日 付 と, 「王 室 総 監 理 府 南 プ ロイ セ ン 省. フ ォ ン・ク レ ヴィ ツ」 そ し て ラ イ ン ベ ッ ク (Rainbeck) の サ イ ン が 付. 1 5 ) 書簡の一部 を紹 介する と さ れ て い る( , . 「貴下の発見になる教授法は教育に対して実に重要にして有用であり したが て南プロイセン省は その教授法 っ , , が南プロイセン州の本省管轄下の学校においても適用されることを切望します . そのために, 南プロイセン省は, 貴下のメトーデを完全に知り, 貴下の懇切なる指導下でメトーデを実践的に練 33.

(7) . 大 崎 功 雄 )視学官 l l L dchu =Semi na r e r ehr 習させるべく, 本状の携帯者, 即ち, 南プロイセンの農村学校教師ゼミナール( an s た とを決定しまし 許に派遣するこ .」 に任ぜられている視学官イエツィ オロウスキー氏を貴下の 書 簡 に伺 え る 限り, イ エ ツ ィ オ ロ ウ ス キ ー の 派 遣 は, ペ ス タ ロ ッ チ の メ トー デ を 南 プ ロ イ セ ン 省. 管轄下の学校に普及させるために, それを彼に実地に習得させることを明確に目的としていた. や 「 がてフォ ースは国王に一連の学校改革提案 を行うの である が, それは 史家によれば ペスタロ ッチ とオリ ヴィ エールの 原則に基づく学校改革は, シュタインの行政改革 プラン及びシャ ルンホルス ト 1 6 { ) の軍制改革 プランの系列に 属するものである」 と評される ものである‐ フォ ースはイエツィ オロ ウスキーの調査旅行報告と数多の 所見をもとに, 南プロイセン州 内の学 03年 校に ペスタロッチ (とオリ ヴィ エール)の教授法 普及の許可を国王に願い出ている. それは18 1 “ そ の 提 言 報 告 の 詳 細 は 目 下 の と こ ろ 目 に でき な い が, ペ ス タ ロ ッ チ と オ 2月 27 日 の こ と で あ る( 1 . 1 8 ( ) リ ヴィ エールのメ トーデを「単に行なわせておくだけでなく, 推薦と援助によっ て促進する」 こと を主旨としていた. これに対する国王の返事, 即ち1803年12月31日の 勅令から伺う 限り, フォ ー スの具体的提案は次のようなものであった. 「(南プロイセンの…引用者)教師ゼミナールにおいてはゼミナールの生徒に両教授法を周知させるが, 学校(農村 促進するこ 学校と都市学校のこと…引用者) においては児童の基礎教授に際し両教授法の主要な点の適用だけを 1 9 ) と( ‐一. しかし, 国王の命令は, 上の提案のうち, 「前者については, 規制の例外として, 特に才能に恵ま れた人材の場合にのみ, 後者については, それが民衆学校における十分 で目的に 適っ た授業に対す 2 0 ) ( る上述の控え目な要求に合 致する限りにおいてのみ許可する」 というものであった.そして, 王の 前提的結論は次のようなものであっ た. 「南プロイセンのゼミナール視学官イエツィ オロウスキーが, ブルクドルフとデッサウでの研究に基づき, ペスタ ロッチとオリヴィ エールの教授法について提出したりポートに関する, 今月 27 日の貴下の報告に対して, 余の決し l iilchu ) en た見解は,例え両メトーデに学校教授の本質的改善が今後期待されようとも,政府自身が庶民学校(Trvas 1 2 )」 ( ある 尚早であるというもので すのはまだ時期 すべく一歩踏み出 にそれを導入 ‐. 2 2 ( ) ここに現われた王の民衆 教育政策については, 既に梅根 が述べているところ である が , 先の グ ナイ ゼナウの立場との相違に 着目してその概略を押さえておきたい‐ 王の政策は身分制秩序維持の 方向からの民衆 教育の徹底した抑制, 教育内容の制限というもの であっ た. 「読み 書き 計算並びに宗教と道徳の核心, それに付随して, よく選択された, 新しくない, 昔からの賛美歌か , , ら選び出された唱歌が考慮されるべきだが, これらが, 民衆が生涯現世での暮らしと真の幸福のために一般に必要 とするものに十分な, 学科の全てを構成するものである‐ この労働階層の子どもたちに, それ以上のものを接ぎ木 したり, これらのわずかな教科でさえ極く控え目な程度を超えて増やそうと望む者は, 無駄なしかもやり甲斐のな 平安, い骨折りをなす者である. 又, 斯かる者はこれらの満ち足りた人間の真の, 大きな利益に反し, 人々の心の 義に興味を覚 もし多数の者が講 職務における勤勉と努力に反し, 以て国家の安寧に反する行動をとる者でもある‐ 必要 え, 学問に対する愛着を身につけたりしたら, 彼らの手は機械的労働から, 彼らの心は国民の第一に是非とも 卑しい仕事 骨の折れる 最も単純で そして彼らは う , なものに対する注意と顧慮から引き離されてしまうであろ . , への満足を奪われるであろう. それ故, 庶民学校においては, 上述の授業の整備に際しては, 授業が広範に互り過 ぎるという欠陥が些かも生じないように, 又子どもたちが必須のことをなおざりにされないように, 賢明な配慮を もって抑制しなければならない. この賢明な抑制はこれらの庶民学校の教師を教師ゼミナールにおいて養成する際 34.

(8) . プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する一試論 ( 2 ) にも必要である……」 「労働階層の子どもたちは もの読みにも 役所の吏員にも 会計官にも 宗教の教師にもなるべきではない 彼 , , , , . らは, カテキズム, バイブルそれに賛美歌を読み, 彼らのちっぽけな制約された境遇に即して書き, 計算し, 神を 畏れ, 愛し, それにしたがってふるまい, お上を敬い, 隣人を愛さなければならない‐ これが, 彼らの将来の幸福 のために, 次いで, 彼らがそれに向けて幼い時から習慣付けられなければならない彼らの将来の職業の機械的仕事 2 3 ( ) の技能のために必要なことの全てである‐ ……」. 以上に見られる思想は, 農民や都市職人層の階層分解・階層移動を何としてでも抑え, 身分制を 維持し, プロイセン絶対王政の社会基盤を保持せんとする徹底した教育抑制政策 である グナイ ゼ . ナウが身分制秩序維持と民衆の諸能力向上とを結合させると共に, 諸身分間の結合と国 民形成を目 指し, 斯かる立場からペ スタロ ッチ教授法を肯定的に捉えたのとは, その方向を大きく異にして い る. F ‐W‐m世の斯かる立場について, ゲープハルトは 「マ ッソウ大臣の教育上の所 見を知る者は, 上述の勅令は彼の影響 を受けたか, あるいは彼によっ て起草されたことを 直ちに見て取る であろ. 2 4 } と して マ ソ ウ の 政 策 的 立 場 と 捉 え て い る う( ッ , .」 .. ) 以上のような国王の極めて明確 な拒否的立場による命令を受けたフォ ースは,翌4年1月1 3 日(25. に再び国王に提案の報告を行っ ている‐ フォ ースは王の先の勅令を受けて, メトーデ導入の立場に ついて次のように釈明している. 「(私は…引用者) ペスタロッ チの教授法によ って基礎教授の対象 を増大することでも,少なくとも庶民に学問を教えたり講義に愛着をもたせたりすることでもなく , ただ教授のメトーデを改良することのみを意図し, 提案致しました しかもそれはまさに 市民的 , ‐ 生活のための健全な人知 (Men i t ) schenve r ) と働き手 (Hande ) を準備するため s and n i l e , 分別 (S 2 6 } そ の メ ト ー デの 改 良 の 意 味 す る と こ ろ は ゲ ー プ ハ ル トに よ る と 「新 し だけ であ り ま す-」 と( . , ,. い教授法は, それが学習すべきものをまずもっ て理解させ, 教授を短縮し, より効果的なものにす ( 2 7 )と い う も の で あ っ た る 限り に お い て 適 用 さ せ る べ き も の」 .. 以上の経過から伺えることは, プロイセン政府 (国王) レベルのペスタロ ッチ教授法受容の前提 とそれに規定されたメ トーデ評価の傾向性の特 質である すなわち, 教育目的としての身分制秩序 ‐ 維持を大前提としたう えで, 授業科目と教育内容の限定のもとで, 学習の効果性・能率性のみに着 目するという傾向 である. こうした国王政府の立場を前提にすれば, メトーデ導入の側の強調点も , 教授と学習の効果性のみがクロー ズ・アッ プされる‐ したがって, この当時のプロイ センにおける ペスタロ ッチを巡る論議は教授の術 (Kuns t ) としてのメトーデの可否に集中する. それは, 『ゲル トルート児童教授法』 以降のペスタロ ッチ及びブルグドルフの協力 者の側の 謂わゆる 『基礎書』 , の普及による, 教授の技術化の局面にも原因がある プロイセン政府側の あるいはその制約のも . , とでの斯かる受容の方向は, グナイ ゼナウが意図した国民教育あるいは国民教育制度の一環として の基礎教授の改革という方向とは明確に異なる立場からの, 謂わば事態 (教育改革要求) への譲歩 であ っ た‐. さて, 国王はフォ ースの新しい報告に満足(安心) し, 1月19日付で再度フォ ー ス宛に命令を下 している. ザイファ ルトがその全文を紹介しているから, 以下に掲 げておこう ‐ 「余の親愛なる国務大臣フォ ン・フォースよ ′貴下が南プロイセンへの新しい教授法導入に関する今月13日の報告 . において別に提示した事情の下であれば,余は,貴下の意図がペスタロッチとオリヴィ エールの教授法の適用によっ て, 規則に定めるところの極く限定された教授対象を増大乃至拡張することではないのだから それ故 これもま , , た先月31日の余の命令に明示的に含まれていたように, 貴下の自由を何等拘束する意図 ではなく ただ上述のメ , トーデの導入が強制的に行われてはならないことだけを, それは貴下が今後あらゆるところで防がなければならな いことであるが, 貴下に注意を促すものである- 貴下の親愛なる国王 . 35.

(9) . 大 崎 功 雄 ベ ルリ ン. 18o4 年 1月 19 日. 2 8 { ′ フ リ 日 ドリ ヒ . ヴィノレ\ルム」. 「 斯く して, 一応の決着が図られた. 厳重に歯止め がかけられた 条件の下 で, メトーデの導入が強 制的に行われてはならない」 という 自由を保証として, 南 プロイセン州 におけるペスタロ ッチ教授 法の受容が公認されたのである. そのうごきは, 新ベ ルリン 誌上において特別に注目さ れることと 9 1 なるα ( 4 ) 調査の継続と K‐ヴィ ッテの報告 う である. ゲディ ケの死去 後, ペ スタロ ッチの許への調査委員 の派遣は 取り止みに なっ ていたよ 3 0 ) ( 根拠は その る たと見てい か , プラー . ザイフ ァ ルトも ゲープハルトも宗務局の 反対で実現しな っ ) の 1803 年 11月 29 日付の ペ スタロ ッチ宛書簡 の記述に求めら j E P1amann:1771一1834 マン ( ‐ .. れている. その書簡の該当する部分 を挙げると 次のとおり である‐ 「王は, ゲディ ケの死後, 一一 宗務局員の意見を出し抜くことはしないまでも, 宗務局顧問官の中から別の人物を 1 3 〉のところへ派遣することを直ちに要請しておりました‐ しかし, 諸氏は, ゾヨウの ( 彼(ペスタロッチ……引用者) はそれに必要なあらゆる見識をもっ 著作によって正されていたので, そのような派遣はもはや必要ない, というの いうことをその人自身の著作で事細 て少ないと 価値は極め メトーデの た一人物が既に昨年からその地におり, この 稀弘 ですが てくれたの 尚も私に話し す 人々は , ゾヨウは; 既に ポツダムで したので かに説明したからだ, と回答 . 3 2 ) ( とのことです ‐」 の帰着前に, このメトーデのやり方を詳しく説明しなければならなかった,. ) されたもう 一つの報告 が しかし, この時期には, 非公式のものではある が国王に 提出 (献呈?. l ) によ る 報 告 であ t te (Wi K ,Kar あ る‐ そ れ は, ハ レ 近 郊 の ロ ハ ウ (Lochau) の 説 教 師 ‐ ヴィ ッ テ. ペ チの学園に関する プロイセン国 る. その正 式名称は, 『ブルク ドルフ(現 ブーフゼー) の スタロ ッ tat jes i Br tan Sr ch .KbnigL Ma 王陛下宛の,ハレ近在ロハウの説教師カール・ヴィ ッテによる 報告( e. )von i tutin Burgdorfじetztin Buchsee t r das Pestalozzische1ns von Preussen ube. I Wi t te Kar ,. 3 1 l le )』 で あ る倦 Pred igerin Lochau bey Ha. ザイファ ルトによると, ヴィ ッテの この 報告文 書の成立とその性格を予め明らかに しておこう‐ 4 ( 3 } 新ベ ルリン 誌その他 調査報告は プロイセン国王からの公 式の依頼であるかに伺えるが , しかし, 行の許可に 際して, マ グデブルク の指摘によると, スイス旅行自体も個人的な企てであり, その旅 3 5 } 又 その報告も公 ある( . , の宗務局 がペ スタロ ッチの学園に 注目するよう命じたというのが経緯で 簡を付して, 若干 の献呈書 後に国王へ れ 提出さ , 式のものではなく, 最初マ グデブルクの 宗務局に 04 告は, モルフによると, 18 の補足のうえ公刊されたもの である. マ グデブ ルク宗務局への この報 i ) に 突如 と し て 発 表 さ れ た tung ineLi teraturze lgeme l l eal 年9月 25日付でハレ一般文芸 新聞 (Ha 3 7 ) ( 6 3 ) 国王宛の報告は1 805年冊子として 公刊されたものである . よう である( ‐ 二度に亙って公刊されており, 非公式で半ば私的とも言える 報告書ではあるが,ヴィッテの文 書は 3 8 ) 又当の ペスタ 介 し て い る し( , 世 間 の 注 目 す る と こ ろ と な っ た‐ ビ ー ス タ ー も 新 ベ ル リ ン 誌 上 で紹. 9 3 } ヴ ( むでも, ヴィ ッテ報告の 内容の不適切 さについて, 後に公開の文書においても , イ ッ ロ ッチの慎 らすれば, 我々は ヴィ ッ テヘの私信においても指摘するのであった. したがって, このような経緯か ペ チにとっては不 テの理解を プロイセンにおける ペスタロ ッチ教授法受容の典型の一つ ( スタロ ッ 本意な) として押さえ, ここに 分析しておく 必要があろう. 36.

(10) . プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する-試論 ( 2 ) 手許にある同報告文書は1 805年版の冊子であるが, 全文64頁(内, 最後の2頁は書店の出版案内) , 冒頭4頁が国 王宛の献呈書簡, 更に本文の冒頭4頁に亙ってペスタロッチから著者宛の書簡が載せられている‐ 報告書のほぼ前 半ば, ペスタロッチの経歴を述べ, 後半でブッフゼーの学園における教授法の実際や基礎書のメトーデについて述 べるという構成となっている‐次に挙げる国王宛献辞から見て,1 80 5年の冊子は1 4年のマグデプルク宗務局への 80 報告とほぼ同一と考えてよいであろう. 「二 三の識見豊かな人の強い勧めにより 私は謹んで以下の報告書を国王陛下に捧げるものであります それは , , , ‐ まず最初にマグデブルク大公領の王室宗務局のために起草され, 同局に送付されたものです‐ ここにあります報告 4 0 は, 若干の補足により増えておりますが, それ以外は以前の形式のままです( 1一. さて, ヴィ ッテ報告の全篇を貫く主要な傾向乃至論点 は何か. それは, ペスタロ ッチの 思想とそ の教授法の全体的性格を貧民教育の 思想と方法 であると捉えるというものであっ た‐ 彼は, ペスタ ロッチの書簡を紹介した後, 自己の ペスタロ ッチ評価の立場を明確にして次のように提示する . 「これ (ペスタロッチの書簡……引用者) を支えにして 私は敢えて自分の見解を提示致したいと思います , . 私の見解が (私の知る限り……ヴィッテ) 私の先行者たちすべてと違っております主要な点は 次のことにあり , ます‐ 即ち, これらの人々は, ペスタロッチのことを, 多少とも学問的見掛けをもった, 学問的な教授をしている 学園の校長として, 彼が立ちたいと願う場所に, そして彼の最初からの意図にしたがって立っているに違いないと 信じているのです. それ故, 彼らはブルクドルフで見たことすべてを, この尺度から好ましいものあるいは好まし からざるものと判断しているのです‐ 私の考え (それは, ペスタロッチが私に正しいとはっきり認めて下さったの ですが……ヴィッテ) では, 問題は全く違っています. この気高い人は, 民衆の, 特に最下層民衆の肉体的, 知的, 道徳的不幸を彼以前のどの人よりも正確に知り, そ してそれを取り除くことを企てたの です. 彼自身民衆同様ひどく貧しかった. 高貴の人々 -- 彼はもともとこうし た人々に属していたのです -- との結びつきは引き裂かれてしまった. それ故, 彼の手にはその目的のための一手 段, 確かに歩みは遅いがしかしそれだけ深く作用する手段:即ち最下層民衆の教授, そして可能な限り, その教育, という手段しかなかったのです- しかし彼には, 基金も, 助力者も, 書物も, 挿絵も何もその自由にはならなかっ たのです‐ したがって彼は, それによりさえすればどんなに無知な教師でもが, それさえ使えばどの父, 母でもが 自分で, 彼らの子どもたちを, 彼らが行い正しく, 快適に, 幸福に生きるために将来必要とする程度の知識にまで 4 1 1一 (傍点はヴィッテの強調部分) 導くことのできる, 教授の形式の発見に全力を注ぎ込んだのであります{ ‐. ヴィ ッテのこの評価の立場は, ペ スタロ ッチの思想と教授法は貧民のために向けられたもので , その角度から理解されなけれ ばならない, というもの であっ た 斯かる把握は ペスタロ ッチの人 . , 道主義的見地を強調す るかに見えるが, 実は貧民とその教育の方法を特殊化し ペ スタロ ッチの教 , 育理念とメトーデの普 遍的傾向性を否定乃至限局するも のであっ た ヴィ ッテは この評価の立場 . , の正当性を立証すべく, ペスタロ ッチの経歴を紹介し, 「そのことによって, 彼がそもそも望んだこ と, 否, 敢えて言えば, 彼の類いまれな心の中で望まなければならなかっ たことが そう でない場 , 2 合よりも一層明瞭に 見える」 ようにしようとするに 1 ここでは, ペ スタロ ッ チの経歴そのものが問題であるのではなく, ヴィ ッテの紹介の仕方 であり , その意図である. それは, ペスタロッ チの生活史が貧民救済と貧民教育に必然的に向かうも のとし て, したがっ て彼の思想と教授法がそのために形成されたものとして描かれていることにある 若 . き ペスタロ ッチが共和主義の影響を受けたことや青年期の諸行為が一 面的に述べられていることも 4 3 問題 であるが( も その 「史実」 は ペスタロ ッ チの貧民教育のメトーデを捉 える枠組みとして用意さ れているのである‐ やがてペスタロ ッ チが貧民教育の事業に着手するプロセス が叙述されるが そ , れは貧民教育のための教授法開発への道として説明される .. 37.

(11) . 大 崎 功 雄 「今や彼は民衆の欠陥を, それについて明瞭に把握することによってそれだけ一層早くそれに対する救済を発見す すべての欠陥のいわば焦点であ るために, 何度も繰返して述べた‐ 人間の周囲に対する注意の欠如が, 彼には他の 沢山の偏見 性の欠如 健全な人間悟 に からひとりで , 無分別, 無関心, 怠惰, , るように 思われた. 何故ならそこ , 4 4 )」 からである( 悪意も生じる 強惰 邪推 故に 欺かれるが . てしばしば 点によ , , っ , 軽率等々が, そして人はこれらの欠 ) 分 テの強調部 (傍点はヴィッ. バ など こう して直観教 授法の発見に 至る道筋, 契機が説明さ れる. そして, コメニ ウスや ゼ ドウ 「 体を と比較しつつ, 貧民の 直観の対象は 「高くつく」 絵や本ではなく, ペスタロ ッチは 人間の身 選んだ」 と続ける. 「なぜなら これ (身体……引用者) は1) どの父, どの母, どの子にも身近かにあり, 絵がなくとも極めて明瞭 , ‐…引用者) の正確な知識によってなるほど小さな世界だがただ に説明できるから, 2) 子どもたちはそれ (身体‐ 一つの対象を知ることができ, それゆえ, 虚栄心を防げるから, 3)この対象は, それが適切に汲みつくされれば, 用に出会 子どもが動物界, 植物界そればかりか鉱物界においてもほとん ど至るところ で類似の器官, 関係そして作 界 内的目我が外 よ て私たちの それに っ うことによって, その他の全自然を照らし出すから, 4) 私たちの身体は, 4 5 } ( 分 ) テの強調部 傍点はヴ ( ィッ と結合される唯一の手段であるからである .」. あ 『 これは, 『母の書』 や 『直観の ABC』 など謂わ ゆる 基礎書』 におけるメトーデ理解の下敷で 「 村落学 は る. 親や無知な教師 が身体の 各部の名前を呼び, 子どもがそれを繰り返す, そのやり方 もにと 貧民の子ど し っ ても 校の教師や無知な母親にとってはほとんど, 恐らく全く退屈でない」 , 無 全く退屈 でないと説明される. 機械的と批判された 『基礎書』 におけるメトー デが, 貧民の子, 読み, 知な親や教師の教育方法と して肯定さ れる. 事ほどさように, 身体各部の名称, 計算, 測定, 話し方, 書き方, 職業技術な どの教授が斯かる観点から 説明される. 「しかし 人々はこう言うでしょう:同じこと (ペスタロッチの方法で教えたのと同じ成果……引用者) はもっと , ‐…私はこう 答えます. こんなことを言う人は, 手っ取り早く達成できると. 学校では教師はそれを心得ていると.‐ ペスタロッチの本来の目的を考慮していない, というのは彼は最も貧困な民衆の子どもたちを彼ら自身の母たちあ 6 4 ) (傍点は ( るいはせいぜい無知な教師によってこのような巧みさと力にまで到達させようとしているのであると .」 ヴィッテの強調部分). ブッフゼーでのメトーデ適用の成功例も挙げられる が, もとよりそれは 以上の 立場から説明さ 考 れる. したがっ て, ヴィ ッテにおいては, ペスタロ ッチの教育理論における認識論的・発達論的 の教育に妥 察,メトーデの 一般的適用 性は押さえられず,直観教授法やメトーデは 無知な貧民階層 当する特殊な 教授法として限定される‐ 『 童教 斯かるペ スタロ ッチ理解は, メトーデの トータルな把握(ペ スタロ ッチは ゲルトルート児 道を閉 ざすだけでなく, 全階 授法』を基礎として理解することを強調する) , その改良と一般化の 基礎教授 層児童を対象とする基礎教授,貧民だけでなく,上層階級の子弟を対象とする 高等教育の 4 { の 規定さ という ペスタロ ッチの目標 を完全に葬り 去るもの であっ た .それは,身分制 的社会構造に も 民 れた教育構造に 些かも変更を加えるものではなかっ た.同じく身分制社会秩序を肯定しつつ , グナ た デから受容し ペ チのメトー 衆の能力の 向上を求め, 基礎教授と国民教育の構 想を スタロ ッ イ ゼナウの立場とは明 確に異なるものであった.. i f tの編 者に は どのよ う に 受 け 止め l ini schr sche Monat で は, こ の ヴィ ッ テ の 報 告 は, Neue Ber. ら れ た か.. 38.

(12) . 2 ) プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授 霜法の導入過程に関する-試論 ( 「もしここに彼の報告に関心が向けられ重視されるとすれば, それは, 彼がペスタロッチがそもそも重視した眼目, その発見者の真の価値を確定する点を, そして同時にそれに反対して出されるあらゆる非難がそれによって解決さ >」 れる要点を, 彼の先行者たちの誰よりも明確に挙げているという理由からである総 .. その 眼目, あるゆる非難に答えそれを克服でき る要点は何と捉えられたか. 「ペスタロッチは彼のメトーデを何よりもまず, 最下層民衆のために考察したということ, 彼は貧しい農民及び類 4 9 〕」 似の人々, そして彼らの無知な親や教師を考慮したのであるということ( ‐. 要するに, ヴィ ッテの意図通りに理解された. しかし, 新ベ ルリン誌の編者は, ヴイ ッテの理解 を幾分なりとも超え, 次のような展望をも示している‐ 「それにも拘わらず ペスタロッチが同時にあらゆる教授の出発点を真にそして幸運にも見い出したとしたら, それ , は教育学を良く知っている者が証明しているところであるが, 彼の発見は全教育技術にとっても実り豊かな結果を 示すであろう. 何故なら, 最も貧しい牧童たちの魂は, その本質上, 最も富める君主の息子の魂と異なっていない からである‐ 主体の多様性にしたがってメトーデを合目的に適用し,更に一層形成することにだけでも,変更と熟考 5 0 )」 (圏点は引用者) とが必要とされる( -. ( 5 ) プラー マンの 「実験学校」 の成立. 以上のようなペスタロ ッチ擁護 (受容) の仕方は, ペスタロ ッチへの批判者あるいは反対者の論 調の中でなされたものである. そのすべてを紹介できないが, 主な批判を挙げると, 教育学の分野 1802年) 180 4年) が, 『ゲル では, グーツムーツの編集する 『教育学文献叢書』 第2巻 ( , 第3巻 ( { 5 } その論点は トルート児童教授法』 及び 『基礎書』 を書評するという形式で厳しく批判している 1 , . 教授の機械化に対する批判, ペスタロ ッチの教育学的教養への疑問などである. 彼のメトーデは, コメニウスや バ ゼ ドウの命題の繰り返しであり何ら独創性がない, 彼は教育学的に無知 であるとの 5 2 ) ツェ 1803 年)) 酷 評 が 繰 り 返さ れ て い る. そ の 外 に ゾ ヨ ウ 『ペ ス タ ロ ッ チ, 彼 の 教 授 法 と 学 校』 ( , 5 3 ) スネ ト ラ ー ゲ「ペ ス タ ロ ッ ル ナ ー『特 に プ ロイ セ ン 王 国 を 考 慮 して の 国 民 教 育 の 構 想』 (1804 年)( ,. 5 4 ( }などが展開された (ペスタロ ッチへの反対者については別に チの教授法についての所見」( 1 ) 804 . 検討したい) 更に丁度この時期は, 南プロイセン省に対する国王の拒否的勅令が出された時でもあ 「 る. したがっ て C .メンツェ は 1804年頃には既に, 教育的情熱によっ て担われた基礎教授改革の最 初の衰えが確認できるのであり, 国王の同意の拒否を期待する プロイセン教育官僚の姿勢が勝利を 5 5 ) 得 る か に 見 え た」 と と ら え て い る( ‐. しかし, 同じくこの時期に, プラーマンの学校がベ ルリンに設立されているのである. それは, プロイセン改革以前におけるペスタロッチ教授法導入の恐らく最後の輝きであったろう‐ プラーマ ンの学校は, プロイセン改革期以降1 830年に自ら閉じるま で, プロイセンにおける ペスタロ ッチ運 6 5 } 我々はここに プロイセン改革前における同学院の 動の一つの重要な拠点となるものであるが( , , 設立過程のみを明らかにしておきたい‐ プ ラ ー マ ン は,1803 年 5月 か ら 11月 ま で ブ ル ク ドルフ の ペ ス タ ロ ッ チ の 許 に 滞 在 し, そ の 教 育 学. に感銘を受けた‐ モルフによれば, 彼は 「それ (ペスタロッ チの教育思想……引用者) を学校に応 用することはまだ制約されているとは言え, 彼の祖国, 即ち彼がそのために活動しようと願っ た祖 国の上流階層は大規模にそれを応用することを欲するだろう」 と考えた(町 ヴィッテと異なり, 彼 39.

(13) . 大 崎 功 雄. はペ スタロ ッチの教授法を上流階級子弟の教育に適用 しようとしたのである. 帰国後, 彼は バイ〆 と接触し, ペスタロ ッチの方法による学校 設立への助力を要請している‐ モルフによると彼は,1803 年10月末, ブルク ドルフの ペスタロ ッチの許にいる 時既に, 翌年の春にベ ルリンに 学校を設立する 3年11月17日,彼は バイ〆を通じて,国王に学校設立の請願を行っ 80 ことを決心したよう である.1 たが, それは極めて短時日のうちに裁可された. 「プロイセン国王陛下は ベルリン在住の私教師ブラーマンが同地でペスタロッチのメトーデに基づき学院を創立 , せんとする企図をそれ自体誠に有益なものと認め, 而して彼に対して, 彼の人物について何も問題がないという前 7日付けで実施方請願されていた認可をここに授けんと欲す. 同時に, 陛下はそれが為, 所要事 提のもとで, 今月1 務を国務大臣フォン・マッソウに命じしことを告知せんと欲す. ポツ ダム 1803 年 11月 21 日. 5 8 ) ( フ リ ー ドリ ヒ . ヴィノレ\ルム」. 南 プロイセンに対しては, 極めて厳重な条件 で限定的に しか認められなかったペスタロ ッチ教授 法の導入がいとも簡単に認められたのは何故だろうか‐ バイ〆という強力な後ろ盾を擁しての請願 であっ たということにもよろう. しかし, 最も異なる 点は, 南プロイセンにおいては民衆学校レベ ルでの導入であるのに対し, プラーマンの場合は 上流階級子弟を対象とする謂わば実験学校であっ たということにある‐ しかも, 政府の援助を抜きにした私的教育機関での試みであっ た‐ にも拘らず, 期待した上流階層からは, 軍事顧問官ヒムリーの助力を除いては 支援がなく, 2年 の曲折の末,1805年末にベ ルリンにその学院 が開設される運びとなっ た. その間スネトラー ゲなど 数多くの反対者との 激しい争闘があっ た. 妨害と政府からの 支援がないことについて, プラーマン はペ スタロ ッチに書簡を送り語っているが, これに対する ペ スタロ ッチの返書は, 教育 (学校) と 国家との関わりについてのこの 時期のペスタロ ッチの見解を示しており, 興味深い. 「私も又 あらゆる事業の開始の試みは国家から独立してなされるのが良いという考えです‐ このような開始に不 , l l i i dua t )は, 権力が分け与えてくれるものではありません‐ 権力というものは ugend nd v 可避的に必要な個人の徳( 常にその目的のためにはあらかじめあらゆる手段を組織化した完全な機構を望むものであり, 組織化された不良品 5 9 )」 (傍点は原文の強調部分) の方を, 組織化されていない優良品よりもどんな場合でも選び取るものなのです( ‐ こう して プ ラ ー マ ン は, ペ ス タ ロ ッ チ の メ ト ー デ を 上 層 階 層 向 け で は あ る が, ヴィ ッ テ と 異 な り,. 6 0 ( )に役立つものと捉え その実験を開 始することと 「基礎的及び学問的教授の極めて 有効な改造」 , なっ たのである. (続く). 付記:〔本稿は, 昭和63年度及び平成1, 2元年 度文部省科学研究費 (一般C) による研究成果の 一部である. なお, 本稿執筆時滞独中の学兄山内芳文氏から貴重な論文の提供があっ た. ここに付 記して謝意を表したい.〕. 註 ( 1 ) ザイファルトは, F .W.m世が即位する前からペスタロッチについて知見を有していたとして次のように推測し 「 ている. 私は, 国王が, 即位される前から, ペスタロッチの著作を知っておられたか, ある いはペスタロ ッチ の思 想につ いて知見を 有 して お ら れた と いう こ と を 強調 した いく ら い です.」(L.W‐Seyffarth:PestalOZziinPreuBen. i dr t t ) を挙げる ne so r e 8年7月 3 日の勅令 (Kab 2 t 94 79 8 ) ザイファルトはその証左として1 e z1 Emi .9 . .Aun- ,Li ,S 40.

(14) . プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する一試論 ( 2 ) のだが, 彼が本文中に引用しているものは巻末の資料文とは幾分異なっている. 「ついに 市民及び農民の児童の目的に適った教育と教授を配慮すべき時となった 教授と教育は青少年のうち , . に人間と市民を形成するものであり, 両者は少なくとも通常は滞校 叉に負託されるものであるから, 国家の繁栄に 及ぼす学校の影響は極めて大である.このことはずっ と以前から認められてきたことだが,にもかかわらず, 人々 は専らいわゆる学者学校にのみ注意を向けてきたのである‐ しかし, 人々は市民学校と農村学校に少なくとも同 等の注意を向ける義務があったのだ‐ 圧倒的多数の人々, 困窮した臣民及び彼らの貧Lい子どもたちのためには, 個別的試みは例外として, ほとんど何もなされなかったのである.」 (Ebenda 0 ‐9-1 ,S . 傍点はザイファルトの 強調部分) 因みに, この引用文は, ザイファルトがその書の末尾に付録として載せている L‐von R6nneを典拠とする資料 文 と 細部 に お い て は一 致 して い な い (Ebenda )‐ なお, 梅 根 が依 拠 した L‐C1ausn i t zerも, von R6nne ‐58一59 ,S i lksschu t: Bemerklmgen uber d l l S e PreuBi も Fr sche Vo 3 e ser ohn 1842 4 を典拠としている (L ‐ Harkor .l . , ‐. C1 i h i i t ausn ten l in 1891 t zer:Ge ≦ ※ ; f器 PreuBi ÷ igvon R6nne=Das schen Un chte d r cht sg傑 ~ e zes ‐Ber ‐40;LudW ,S Un temcht B d l in1855 1 s=WesendesPreu8i ). 更に,B‐Gebhard schenstaates tは,同勅令を Ma us ≦ p l ‐ ‐ ,Ber .89 ,S Fr tz:Di sewi e Kunnark Brandenburgim oktober1806 .v .Bas .S .372 か ら引 用 して いる が, こ れ も 前 二 者 (ザ. イファルトの本文中引用とハルコルトを典拠とするもの) と若干異なっている‐ ハルコルトを典拠とするものは, 一部梅根が訳出しているから(梅根′悟『近代国家と民衆教育』誠文堂新光社 昭和42年 1 bhar d 67頁) t , 以下に Ge の引用する勅令を訳出しておく‐ 「余の国家全体の学校制度は余の注意と配慮に値する対象であると余がみなすものであることを 汝( v s ow ‐Mas , のこと……引用者) は看過してはならぬ‐ 教授と教育は人間と市民を形成するものであり, 両者は少なくとも通 常は学校に負託されるものであるから, 国家の繁栄に及ぼす学校の影響は極めて大である このことはとうの昔 ‐ に 認め ら れ たこ と である が, そ の 後は (Gebhardtは danach と して いる が R6nne は den l loch と して いる …… 引. 用者) 人々は専らいわゆる学者学校にのみ注意を向けてきたのである. しかし人々は, はるかに一層, 市民学校 と農村学校に注意を向ける義務があったのである‐ 何故なら, その配慮を必要とする圧倒的多数の臣民がいるか らでも, 又個別の試みを例外とすれば, これまでそのために全く何もなされてこなかったからでもある それ故 , ‐ 今やついに市民と農民の子どもたちの目的に適った教育と教授を配慮すべき時となったのである その際, その - 基礎となる目的は, 彼らを将来の正直で, 砲順で勤勉な市民と農民に形成すること以外にはあり得ない (Bruno .」. Gebhardt:Di uhrung der Pes lozz i e Einf ta thodein PreuBen l i schen Me n 1896 ) ‐Ber ,S.8‐9. ザイファルトは, 「教育的教授」 の思想, 「人間教育」 の概念, 貧民とその子弟の教育への関心 ゼミナールでの , 教員養成への顧慮などの点を挙げ, 同勅令がペスタロッチの思想に通じるものとしているが, むしろそれらはF ‐大 王以来のプロイセン民衆教育政策との関係でおさえられるべき であろう‐ 同勅令が掲げる 「人間と市民」 の形成と いう目的は, プロイセン改革期に展開する 「人間教育」 の理念と同質のものとは考えられない それは身分からの . 人間解放というものではなく, 身分内での国家に有為な「人間と市民」の形成というレベルでの意味内容であろう . ゲープハルトが引用しているように, 「その基礎となる目的は」「将来の正直で, 従順で勤勉な市民と農民」 の形成 であり, それがこの 「人間と市民」 教育の内容である. クラウスニッツァーや梅根が指摘するように ヴェ ルナー , の宗教勅令下での宗教教育一本槍の民衆教育政策から, より実用的民衆教育政策への転換を意図したという意味で 「人間と市民一 の形成が強調されたと見るべきであろう これらは いずれもペスタロ チの思想を契機としなく ッ ‐ , とも説明できるものである‐ ( 2 ) B.Gebhardt:Die Einf曲rungderpes lozz i ta thodein PreuBen schen Me .a ‐a ‐0‐ .9 ‐なお, オ リ ヴィ エ ー ル ,S は,17 80年からデッサウの凡愛学院においてフランス語の教師として活動していたが 17 9 3年同学院解体後は , ,し ばらくの間私立学校を指導した後, ドイツ各地で教師として活動 その間に音読学習法(Lau i h t d t e r m e o と呼ば - れる読みの学習法を開発普及した. 若き日の F V世はこの音読学習法による教授を受けたものと思われる オ ‐W.I ‐ リヴィ エールの教授法については,vonK1ewi t z がペスタロッチのそれと比較して簡潔に述べている Ue t rpe s a ‐ ‐ be. ’ l i i電ers Le l紅an ozz ; l i i 【 sund 0l i en f t n sche M onat schr -ln , Neue Ber .11 .Bd ‐ ,M魔rz1804 - ,S161一180 ( 3 ) 1803 年 4月 23日のゲディ ケ宛の勅書は Ne B l i i h M h i f t l B d ue er nsc e onasc r tl‐ . 4でのゲディ ケ追 80 r1 , ,Janne 悼の辞に収められている. なお, ゲディ ケは同誌の前身 である Ber l in i i f sche Mo t tの共同創刊者の一人で na s ch r 1 i あ っ た‐ Vg i ike:geb edr ch Ged B l i t d ‐Fr er1754 i1803 e z e s u r n en2 Ma g ‐zu Boberow den15Jaml n . , ‐Neue ,i Ber l i [ i f ni sche M t onat schr ‐a ‐a .○. ‐3-19 ‐ ,S ( ) Ebenda 4 1 i i i nr chLewi n:Gesch chtederEntWicklungde t U Bi lk祭 l ,S.16一17 rPr . e i ig ,Vg ,He schen Vo ; chu e Pz .Le l910 S 1 6 0 1 B G 6 b h d ○ 一1 t e a r : a a ; . , . .. . .9-10 . ,S l i i l i l i ( 5 ) Ar口t r Behcht頓berd ta l = r t mldd l che ben e p巴靴a ozz sche Ans eneue Le t h,Dekan a宜 de r se rm l ,VonJoha identdesErz i l q l i undPras b H B ehungs i G 1 8 0 ra si n Bem.Be 3 ln undZt r ch e e なお n e r 報告 書の 日付 は 1802 y ‐ , ‐ , , 41.

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