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中国古代における祭祀権

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Academic year: 2021

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(1)Title. 中国古代における祭祀権. Author(s). 渡邉, 義浩. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 43(2): *1-16. Issue Date. 1993-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4527. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 中国古代における祭肥権. 中国古代 におけ る祭肥権 1 111後漢 時 代 の孔 子 廟 祭 肥 を 中 心 に 1 11- 渡. 遷. 義. 浩. 儒教 は、国家 祭 鵡 に如 何な る反映を見 せ、 儒教的 祭鵡 は い つ完 成 し. は じめ に. 国 家 の支配 は、最 終的 には物 理的 な 強制 力 に依 存す るとし ても、. た のか。 第 三 に、国家 の支配 を支え た豪 族層 は、 か かる儀礼 と如 何. 犯 を中 心 とし た民間 の社会的権 威 に対 し て、如 何な る対応 を 見 せ た のか。 第 二 に、中国 の正統思 想 とし て支配 の正当 性 の理論 とな った. 恒常 的 な支配 の確 立 のた めには、被 支配者 側 から の服従 の意欲 や同. 教 と祭肥 を中 核 としな がら、中国 古代 におけ る国 家 の正当 性 と儒教. 戦国 時 代 の醜 におけ る水利 事業 と係 わ る史料 とし て、従 来 か ら 注 目 され てき た 「 西門豹故事L により、 既存 の民間祭 犯 と国 家権 力 と の関 係 を 検討 しよう 。 西門豹 が仕え た魂 の文侯 は、 戦国初 期 に お い. く のかと いう 問題 から検討 し て いく こと にしよう 。. 国 家 は自 己 の権 威 の確 立 のため、国 家的 な祭犯を形 成 し て いく 。 そ の際、国 家権 力 は、 既存 の民間祭 鵡 と如 何な る関係 を取り結 ん で い. ( 3). 間 に生起 し たも のであ る。や が て、民間 の祭 肥 を 母体 としな がらも 、. 祭 犯を 中心 とし た儀礼 は、原初 的な形態 とし ては自然 発生 的 に民. -、 民間 祭記 と国家. と の関 係、 そ れ に対す る豪族層 の受容を考 究 し て いくも のであ る。. な る関 係 を取 り結 ん だ のか。 以上 の三点 の検討 によ り、本 稿 は、儒. 意 を必要 とす る。 か かる意 欲 を調達す るも のとし て、国 家 は 「 支配 の正当性」 を主 張す る こと とな り、 それ は、権 力 とし て ではなく、 権威 とし て顕在 化す る。 そし て、 支 配的 な地位 や集 団 が、 自己 の権. ( 1). 威を顕 示し、被 支配者 を自発的 服従 へと誘 導す るも のとし て、権威 の根 源 た ろ 「正当性」 理念 を 強調す るととも に、 こ の理念 を可視化. ( 2). す る行為形態 が 「 儀礼」 であ る。 か かる儀礼 の理解 から文化 人類学 にお いて、有 力な王権 論 とし て提出 され て いるも のに、 「 劇場国家」 論 があ る。 祭犯を媒 介 とし て、被 支配者 が支配者 を積極 的 に支持し て いく ことを説く 「 劇 場国 家」 論 は、 近年 の中国 史研究 にも 大 きな 影響 を与 え て いる。. か かる文化 人類学的 観 点 からも 、中国 の古代 国家 が、 自己 の支配 を 正当化す る た め に儀 礼 の 一環 と し て の祭 記 を いか に利 用 し た の か、 と いう 問題 の間 明 は重要 であ る。 そ こで本 稿 では、中国 古代 に おけ る儀礼 と正当性 の関 係 を次 の三点 から検討 し て いき た い。 す な わち、第 一に、 戦国 時 代 より中 央集権 化 が進 む中国 古代国 家 は、祭.

(3) . . 渡. 避 義 浩. 幸 いにも来 り て之を告語 せよ。吾も亦 た往 き て女を 送 ら ん、と。. 二 て政 治改 革 を完 成 し て、 挽 を 当 時 最 強 の国 家 とし た と評 され て い. 河 上、 皆 日く、諾、と。そ の時 に到 り、西門 豹往 き て之 に曾 す 。〔. ( 4). 西門豹 即愛 民饗 十 二渠 た河伯 の鴬 に婦 を要 る ことを言 わず 。 〔. の如し ::1。 郷 の吏 民大 いに驚 恐し、 これより以 後、 敢 え て復 、. と欲す 。皆 叩頭 し、 叩頭し て且 つ破 れ、 額 血地 に流 れ、 色 死灰. れを奈 何 せ ん。 復 た廷稼 と豪 長者 一人を し て之 に入趣 せし め ん. 三老来 還 せず。 こ 吏傍 観者皆 驚 恐。〕 西門豹顧 みて日く、 聾 姫 ・. 姻 の弟 子 これ女 子な り。事 を白す る能 わず 。 三老を 煩 わし て鴬 長老 ・ め に入り て之を 白 さ ん、と。復 た三老 を河中 に投ず :::〔. 共 に大 慶躯 を抱 え、 之を 河中 に投 ぜし む :::。 西門豹 日く、 墾. 更 に好 き女 を求 め得 て、後 日之を 送 ら ん、 と。 即ち吏 卒 をし て. こ の女 子好 からず 。大 盛 幅を 煩 わし篇 め に入り て河伯 に報 ぜ ん。. 父老〕 を 顧 みて 日く、 に至 らし む。 豹之 を視 て、 三老 ・聾祝 ・〔. 好醜 を視 ん、 と。 即ち 女を終 いて椎 中 より出 だし、来 たり て前. 二千 人 ::1。 西門豹 日く、 河伯 の婦 を呼 びて束 たらし め、 そ の. 官罵 ・ 三老 ・ 豪 長者、 里 父老皆曾 、 以人民往〕 之 を 観 るも の三 ・. 楽 羊 ・屈侯 る 。 そ の改革 と は、 樫蹟 を中 心 とし て、 西 門豹 ・李 克 ・ 鮒 ・呉起 ら が文侯 の 「臣僚 集 団」 を形成 し て官僚制 の萌芽 とな り、 5} ( 中央集権国 家 の形成 に努 め た ことを指す。 西門豹 は、 覆瑠 の抜擢を 。 う け て鄭 令 とな り、 水利 田を造 成 し て王権 の強大 化を試 みた そ の 際、水 利事業 の前 提 とし て、 西門 豹 は河伯 の祭 記を禁 圧 し た。 そ れ を 説くも のが 「西門豹 故事 であ る。 」 「西門豹 故事 は 『 史記』 史記 の猪 少孫補筆 の部分 に のみ見 え、 『 』 」 呂 巻 二九 河渠書 には、西門 豹 の水利事 業 は伝 わらな い。 し かも 『 氏春 秋』 巻 一六 楽 成 には、 西門豹 の水利 事業 は、 史起 の事業 とし 漢書 』巻 二九 溝 漁志 はそれを 踏襲 し て いる。す な わ て伝 え られ、 『 ち 「 西門 豹故事 」 およ びそ れ に続 く 水利事 業 には、 史料 の信悪 性 に 春 秋後 語』 を利 用 疑義 が存す る。 近 年、藤 田勝久 は、敦 腹発 見 の 『 し て史料 批 判 を行 い、 猪少孫補筆 の部 分 は、楚漢 の際 以降 に伝 承さ ハ 6). 、 .合ロ しか も漢 する る語 に適 れて の利 であ あり り、 し 禦代 に いた た戦 用で 玉故事 の てい 融国 兼用 力も …句 を 水. 〕 引河水濯 民 田、 田皆 概 ::1。 とあ る。 「 三老Lと 「父老」と いう ほ ぼ同義 の語 が、 同 一文中 に、 し かも 〔 〕の部 分 だけ に 「父老」が現 れ る こと は、藤 田説 の如 く 〔 〕 ( 7} の部 分 は、 漢 代 に猪 少孫 が補筆 し た部 分 であ ると考え ら れ る。 逆 に. 利 事業 と呼 応す るよう に追 加 し たも のであ るとし て いる。 春 秋後語 』と猪 少孫補 筆 と が重複 す る部分 そ こで藤 田説 に従 い、 『 だけ を書 き 下し、 緒少孫補 筆 に のみ見 ら れ る部 分 は、 〔 〕内 に原文. 「 春 秋後語』な ど の戦国 期 の史 料 を伝 承 し 西門 豹故事 」の部分 は、 『. 猪 少孫補 に、. 醜 の文侯 の時、 西門豹郷 令 と鋳 る。 豹往 き て鄭 に到 り、 長老を. た部 分 であ ると言 え よう 。 ゆえ に、 「西 門豹故事」に現 れ た西門 豹 の. 滑稽列億. 曾 し て之 に民 の疾苦す ると ころを 問う 。 長老 日く、 河伯 の鴬 に. 行 為 は、戦国 時 代 の魂 におけ る国 家 の民間 祭鵡 への対 応 の事例 とし. 史記』巻 一二六 のま ま表記 す る。 『. 婦 を要 る に苦 し み、 以 て故 に貧な り、 と。 豹 そ の故 を 問う 。 封. 間 祭鵡 に対 し て如 何 な る対応を 示し た のであ ろう か。 西門豹 が郷 に赴任す る以前、鄭 の民 は 「三老 ・廷捧」 が 「祝堅」. て検討 しう る。 王権 の伸 張 に努 め る官 僚 であ る西門豹 は、 既存 の民. え て 日く、郷 の三老 ・廷橡、常 歳 百姓 を賦蝕 し、 そ の鍵を 収取 三十禽 を 用 いて河伯 の篇 に婦を婆 り、 し て数 百寓 を得、 そ の二 ・ 祝 座 と共 にそ の徐鏡 を分け て持 し鯖 るー ー、 と。 西門豹 日く、 〕 父老 送 女 河上。 願 三老 ・ 慶祝 ・ 河伯 の鴬 に婦 を要 る時 に至 ら ば、〔.

(4) . 中国古代における祭肥権. ( 8). と結 託 し て、 「 常 歳 百姓を賦微 」し、 「 河伯 の鴬 に婦 を婆L る こ と に 苦 し ん で いた。 「 三老 ・ 廷様 」 は、漢代 の事 例 より類推 し て、在 地 の. いる。 西門豹 が 「 河伯」 の祭犯 の禁 圧 の際 に、 下級官吏 の 「廷撚」. や在地社 会 の有 力者 であ る 「 豪 長者 L を許 し た こと は、 か かる政治 方 針 に基 づ いて いる のであ る。す な わち、 西 門豹 が 「 河伯 」 の祭 記 の禁 圧 により 目指 し た ことは、祭鵡 によ る民間 の権 威 の消滅 であ り、. 勢力 が自 己 の手 により国 家 と は別 の権 威 を保有 す る ことは抑制 す る が、 在地勢 力 そ のも のは弾圧 しな いと いう 態度 であ る。 西門豹 が目 指 し た支配 は、在 地勢力 を国家 の官吏 とす る こと により、国 家 の権 威 を分配 し て、 在地 の有 力者層 を国 家 の権威 のも と に収徴 し て いく こと であ ったと言えよう 。 つまり、 戦国 時代 の国 家権 力 は、権 力 に. 在 地 の有 力者 を根 こそぎ 弾圧す る こと ではな い。 換 言す れ ば、 在地. 国 家 の中 央集権 化 政策 が施 行 され る以前 の郷 にお いては、 祭 肥権 は. よ る中 央集権 化 ととも に、祭 犯を槌 子 にし た民間 の権 威を打倒 し、. 中央集 権化 を 進 め る戦国 時 代 の国 家 は、 自 己 の権 威 を顕 示し 、被. を奪 い取 る性 格 を有 し て いた 「 躯」 であ ると理解 でき よう 。 鄭 の有 力者 が在地社会を 支配す る際、 「 盛」 を媒介 とし て 「 河伯 」 の祭 顧 と いう権 威 を利 用し て いた ことは、注目 に値す る。す な わ ち、. ( 9}. 在 地勢 力 に掌握 され ており、 そ の儀礼 の権 威 によ って、 在 地勢力 は. 祭肥 によ る権 威 の国家 への 一元化を 試 み て いる のであ る。. 有 力者 が任 用され て いた郷官 と下級官吏 であ ると考え てよ い。 そ れ が、 「 祝盛」と結 託 し て毎年 「 数 百禽」 の銭 を 民 より 「 賦数 」し て い た のであ る。 「 躯」は女性 で、 女性 の弟 子を有 し て いたが、増 淵龍 夫 の説 く よう な、 民 のため に堅 術を行 い、 そ の代償 とし て多 く の民財. 共 同体 成 員 への支配 を貫徹 さ せて いた のであ る。 これ に対 し て西門豹 は、王権 の伸 張 に努 め る官僚 とし て、 「 河伯」. 支配者 を 自発的 服従 へと誘導す る祭 肥を、 何 の制 約 も なく 民間 に放 置す る ことを容 認し な か った。 か かる国 家 の政策 は、他 の戦国 国 家. 外儲 説 右 下 に、. ち皆 な 里 に牛を買 い王 のため に藤 る、 と。 王、 人をし て之 を 問 わし む。 果 たし て之有 り。 王 日く、之を醤す る こと人 ごと に二 甲。 それ令 に非ず し て檀 に蒔 るは、 これ寡 人を 愛す るな り。 そ. 秦 の昭王病あ り。百姓、里 に牛を買 いて、家 に王 のた め に蒔 る。 公孫述 、出 でて之を見 る。 入り て王 に賀 し て日く、百姓す な わ. を検討し て いこう。 『 韓非 子』巻 一四. 。 そ こで、 ここではさら に、 戦国 時 代 の国 家権 力 の 張 通』) 伸 にお い て、最も有 力 な思想 であ った法家思 想 におけ る民間祭詑 の位 置 づけ. は、濁 の都 江堰 の水利 事業 で著名 な秦 の官僚 であ る李 泳が、河 伯 と 『 戦 った故 事 が伝 え ら れ て いる ( 水 鰹 注』巻 三三 江 水 注 引 『 風俗. や秦、 漢 にも看 取しう る のであ ろう か。 西門豹 と同様 な事 例 とし て. の祭 蔵 を通 じ て 「百姓 を賦敏」 し て いた 「郷 の三老 ・廷稼」 から、 祭肥権 を剥奪 す る ことにより、魂 の支配 の確 立を目指 し た のであ る。 そ の際 「大盛 姻」 と女 の 「 弟 子」 そし て 「 三老」 を河 にたたき込 ん だ西門豹 が、 「廷橡」 と 「 豪 長者」 を許 し て いる こと に注 目し た い。 『 説苑 』巻 七 政 理 には、 魂 の文侯 、西門豹をし て往き て郷 を治 めし む。之 に告げ て日く、 必ず や功 を全う し名 を成 し義 を布 か ん ことを、 と。豹 日く、敢 え て 問 う :. :. 之 が 爵 に奈 何 せ ん、 と。 文 侯 日 く 、 ・ ::・ 往 き て必. ず 豪 賢者 に問 い、因り て是 に親し み、其 の欝博 な る者 には、 因 \ と。 り て 之 を 師 と せ よ ::・. と、 政治 の基本 的な方 針 に関す る文侯 と西門豹 と の対話 を伝 え る。 同様 の対 話 は、 『 戦画策』巻 二二 醜策 にも伝 え られ て いる。 こ こで 文侯 は、 「 豪賢者 」に親 し む政治 により、功名 を全う でき ると説 いて. 三.

(5) . . 渡 避 義 浩. 2) (. 1 史記 』 巻 二八 の祭 肥 は、秦 の方式 を踏襲 し た。 『. 封 輝書 に、. 四. 後 ち四歳、 天下己 に定 ま る。 御 史 に詔し て、 豊を し て謹 みて粉. れ寡 人を愛 さば、 寡 人ま た且 に法 を改 め、心 之 と相 い循 がわ ん とす。 これ法 立 たず 。 法 立 たざ るは胤 亡 の道 な り。 人 ごと に二. 檎社を治 めし め、常 に四時 ・春を 以 て羊 ・蝕 を 以 て之を 嗣 らし む。 祝官 を し て蚤尤 の詞 を長安 に立 てし む。 長安 に詞祝官 ・女. 恵 帝 に至 り て高帝 廟 を尊 びて大 祖 廟 と鴬 し、 景帝 も孝 文廟 を尊. こう し た国家 によ る祭蔵 の 一元化指 向 の現 れ の 一つとし て郡圃廟 漢書 』 巻 七三 章 賢偉 附牽 玄成 偉 に、 の設 置も考 えう る。 『 。 初 め、高 祖 の時 、諸侯王 を し て都 に皆な大 上皇 廟 を 立 てさし む. 。 へと 収 蝕 し 、 天 下 を 「一家 」 と な す こ と を は か った の で あ る. 4V ( 1. 座」 的 な祭 犯 のす べてを国家 とあ るよう に、高 祖 は、 中 国 古来 の 「. す る な り。. 鴬し、 其 の長 久、 世 世 に宗 廟 を奉 じ て絶 ゆ るな からし め んと欲. 漢書 』巻 一下 高 帝 紀 下 に、 とい 。 『 う 、 今、 吾 れ、 天 の霊 ・賢 士大 夫を 以 て天下を定有 し 以 て 一家 と. 3)- ( 1. 象 的な 天上 界 ・神 の奉 仕者 ・霊 域 ・生 活 方法 への崇拝 ま でをも 含 む. 各 々時 日有 り。 七躯 L を自 己 の掌 握 下 に置 いて、 そ れぞれ とあ るよう に、高 祖 は 「 祭犯を主 宰 さ せた。 ここにも前 漢国家 によ る祭 肥 の 一元化 への指向 、 を読 み取 りう る。 志 田不 動麿 によ れば、 「七躯 」 の掌 った祭犯 には 、 ア ニミズ ム的 段階 から、 漸次高度 な霊魂 崇拝 ・祖先 崇 拝 さら に抽. 、 を嗣 る。 皆 な 歳時 を 以 て宮中 に嗣 る。 其 の河鹿 は 河 を臨替 に 秦中 を嗣 る。 秦中 と は、 二世皇帝 な り。 嗣 り、 南 山座 は、 南 山 ・. 、 荊 班 は、 堂 下 ・躯先 ・司命 ・施 療 の扇 を嗣 り、 九 天璽 は 九 天. 、 人 ・先炊 の罵 を嗣 り、秦 駆 は、 社主 ・躯保 ・族 繋 の罵 を嗣 り. 座を 置く。其 の梁服 は、 天 ・地 ・天社 ・天水 ・房中 ・堂 上 の罵 を 嗣 り、 昔型 は、 五帝 ・東 君 ・雲 中 君 ・司命 ・鹿社 ・聾嗣 ・族. 甲を 罰し てま たとも に治 を なす にし かず 、 と。 、 韓非 子』の思想 では、 王を愛す る故 であ ろう が 民間 にお とあ る。 『 令 に非」 ざ る祭記 を行う こと は容 認 されな い。 動機 の如何 に いて 「 檀 に蔵Lるも のとし て禁 圧 令 に非」ざ る民間 の祭 記 は、 「 関 わらず 「 、 され る べきも のな のであ る。 民間 固有 の祭 犯を禁 圧し て 祭 肥 によ mv (. 、 る権 威を国家 のも と に 一元化 し て いこう とす る 国家 の強力な支配 意 志 を ここに見 る こと が でき る のであ る。. 韓非 と同門 の李 斯を中 核 とす る法家思 想 により、 中国 最 初 の統 一 韓非 子』と同様 な祭 記 に対す る思 想 国 家 を形成 し た秦 にお いては、 『 史記』巻 二八 封 輝書 に、 を窺う こと ができ る。 す なわち、 『 始皇帝 )、帝 位 に即く こと三年、東 のかた郡懸 を巡ぐ る:11泰 ( 、其 の 山 の陽よ り上 り順 に至 り、 石を立 て秦 始皇帝 の徳 を 頒し. 封 を得 る ことを 明ら か にす。 陰道 よ り下 り梁 父 に輝ず ー :行 き て名 山 ・大 川及 び八神 を蔭 嗣 し、 倦 人 ・羨 門 の厩 を求 む:::五 帝 よ り以 て秦 に至 る。 鉄 に興 り殊 に衰う 。・名 山 ・大 川或 いは諸 侯 にあ り、 或 いは天子 にあり。 そ の譜 損益 し て世 に殊 な る こと 、 勝 げ て記す べからず。 秦 天下を井 せる に及 び 詞官 を し て常 奉 。 、 せし め ると ころ の天地 ・名 山 ・大 川 ・鬼 神 得 て序す べきな り 、 諸侯 」 とあ るよう に、 始皇 帝 は、 泰 山 に封輝 を行う だけ ではなく 「 、 や 「天子」 に属 し て定 ま る こと の無 か った種 々の祭記 を 皇帝 権 力 1) ( 1 のも と に 一元 化 し て い った。 秦 の始 皇 帝 は中 国 を 統 一す る と と も 、 に、 民間 の祭犯 のみならず 、 諸侯 の祭 記を も国家権 力 に 一元化 し 祭鵡 によ る権 威 を国家 に収蝕 し た のであ る。 、 前 漢 の高 祖劉邦 は秦 の打倒後、新 た に漢 の社 穫を 作 った が 山 川.

(6) . 中国古代における祭犯権. び て太宗 廟 と鴬 し、 行 き て嘗 て幸 せし所 の郡園 に各 々太 祖 ・太. 臣等愚、 以焦 らく 、 :1・ 帝 三王 の共 にす る所、 不 易 の道 な り。 ・. 各 々そ の職を以 て東 り て祭 を助く る は、尊親 の大義 にし て、 五. 宗 廟 の郡固 に在 るも のは、 宜しく修 めず 、 臣請う らく は復 た修. 宗 廟を 立 てさし む。 とあ るよう に、窓帝 の時 高 祖 の太 祖廟 を、 景帝 の時 文帝 の太宗 廟 を. む る こと 勿 れ 、 と。 奏 、 可 と せ ら る。. . 自 己 の権 威を武帝 期 の呪術的 ・超 人的 な権威 から、 儒教的 な 人道 に. とを物語 ろう 。 民間 の祭犯を淫嗣 とし て弾圧 し続 け た前 漢国 家 は、. 8) ( 1. 前 漢前半 期 に比 べて、 国 家 によ る祭犯権 の 一元化 が 一層 進 展 し た こ. 的 な方術 的な祭 犯 によ り皇帝 が超 人間的 な存在 とな る必要 があ った. 規制 され るよう にな ったと評 し て いる。 儒教 的 な祭 犯 の成 立 は、 堅. ″) (. とあ るよう に、 儒教 的官僚 の批 判 によ り遂 に廃 止さ れ た。 そ の理由 卑 賎」 の地方官 が天子 の霊 を肥 る郡圃廟 は、 儒教 的 な蔭 は、 「 疏遠 ・ に反す る こと に求 めら れ た。 注 圃所 掲板 野論 文 は、 郡園廟廃 止 の運 孝 継』の精神 に依 った改 革 であ るとし、金 子修 一は、 こ の事 動 は、 『 件 を、儒教 の礼楽 と ほと んど無関 係 に始 めら れ た漢家 の宗廟 の祭 鵡 が、 儒家官僚 の進出 に伴 って次第 に儒教 の礼 説 によ って批 判 さ れ、. 御幸 し た郡圃 に設置し た。 前漢 の国家 祭鵡 であ る皇帝崇 拝 を郡因 に 分与す る こと により、前 漢国家 の権威 を 天下 に示し た のであ る。 以上 のよう に、 自然発生 的 に民間 に形成 さ れ た祭肥 は、国家 の中 央集権 化 政策 と とも に禁 圧 され て い った。 ここには、国 家 が自 己 の も と に権威 を 一元化 しよう とし た、国 家 の支 配意 志 が如実 に反 映 さ れ て いると言 え よう 。秦 、前漢時 代 にお いて、皇帝権 力 は祭肥権 を 一元的 に掌 握 し た のであ る。. 二、儒教的祭犯の形成 秦、前 漢時 代 におけ る国 家 の祭 犯 によ る権 威 の確 立政策 の頂点 を. 王 葬は、 二度 にわ た る郊 犯制度 の改革 により、 長安 の南北郊を復 活. かく て、王 葬が出現す る、と同時 に儒教的 祭 犯 は成 立期を迎 え る。. 於け る最高権 威者 へと転換し え た のであ る。. れ と同じ く方 術的 な神 秘色 のき わ めて強 いも のであ り、未 だ自 己 の. し、郊蔵制度 の内 容を詳 細 に定 め て、 後漢 以降 の郊 犯制度 の基礎 を. なす も のが武帝 の封 騨 であ る。 し かし、 武帝 の封 輝 は、 始皇帝 のそ 幸福 追 求 と いう 側面を残存 さ せ て いた。 か かる前漢前半期 の型的 あ. 築 いた。 ま た、 今 文撃 ・古 文挙 の間 で論争 が繰 り返 され た宗 廟 の問. ::・ 郡圃廟 は、 古謹 に感 ぜ 元帝 の時 に至 り、 貢鴇奏 し て日く、 ・. 造 物 であ る明堂 ・辞薙 ・露墓も 、 元始 四年 に王 弄 の上奏 で長安 に建. 七廟制」 が確 立 し 題も、 古 文拳 の王舜 ・劉 款 の主 張 が認 められ て 「 0) ( 2 た。 さら に、 儒教 の礼制 にお いて、 君主 の徳 治 を象 徴す る重要 な建. 節) (. る いは方 術的 な 祭犯 に対 し て、 元帝 ・成帝 期 から台頭す る儒教 的官. ::・( 元帝 、 郡固廟 を罷 めんとし ず 。 宜 しく 正定す べし、 と。 ・. 立 され た。 こう し て王 非 のも と、 儒教 的 祭鵡 が次 々と形成 され て い. 博) (. 僚 が、 礼 教 理論 に基 づ いて批判 を加 え て いく。 な かでも 郡圃廟 は、. て日く)疏 遠 ・卑 賎 をし て共 に尊 犯 を承け さし むるは、 殆 ど皇. く のであ る。 し かも、 儒教的 祭肥 に関 す る改革者 とし てたち現 れ た. 章賢僻 附章玄成 俸 に、. ー ・( 天祖宗 の意 に非ず。 朕甚 だ催 る る。 ・ 丞相 章玄成等 七十 人. 王 非 は、前漢 の皇帝 が所有 し て いた祭 犯権 をも掌握 し、国 家 祭 犯 の. 『 漢書 』 巻 七三. 皆 日く) 廟 を京 師 の居 に立 て、疑 ら親 しく事 を承け、 四海 の内、. 五.

(7) . . 渡 選 義 浩. 六. さ れ て いるた め であり、 君主 権 力 の強 力 さをし めす 、 と評価 し て い る。 行 論 で問題 とし て いる祭 肥権 と の関 連 で言え ば、災 異 が皇 帝 の. 中 心人物 とし て、 国 家 の祭記権 を 自己 に収蝕 し て いく。 そし て禅 譲革 命 が行 わ れ た。 王 葬 の革 命 は、 符命 革 命 と称され る. 帝 がそ の責 任を と る こと は、 至極当 然 の こと とな ろう 。 章帝 期 ま で. 天 への祭 記 に対す る天 の反応 であ る以上、 祭肥権 を掌 握 し て いる皇. ほ ど、神 秘 化 し た 儒 教 思 想 であ る識 緯 思 想 が重 要 な 役 割 を 果 たし た。 そ れを踏 まえ たう え で、 な お付 言す る のであ れば、 王葬 は、前 漢国家 の祭 肥権 の収敏 者 とし て、国 家 祭 肥を 自 己 の手中 に収 め て、 前 漢 を纂奪 し た のであ る。 王 非 が前 漢 の国家 祭 記を 一元的 に掌 握し て いた こと が、識緯 思 想を あ れ ほど大 規模 に利 用し え た理由 の 一端 とな ろう 。 かか る考 え方 に立 つとき、国家 祭犯 を中 心 とす る儀 礼 の. あ る。光 武帝 の封 輝 は、 武帝 のそれ に比し て、き わ め て公開的 であ. 儒教的 祭犯を根底 から改 める こと は行 わな か った。 後漢時 代 にお い て、 王斧 期 と明確 に異な る国 家祭 肥 は、 光 武帝 の行 った封 騨 だけ で. の思想 を次 々と献 策 し た。 し かし光武帝 は、 王 非時 代 に形成 さ れ た. 張奮 ら は、緯書 思 想 に基 づ いて、 後漢 の受命 を 正当化 す る制蔭作柴. 園 誠 を 天下 に宣 布 し た。 国家 祭 肥 にお いても 、 張純 ・曹充 ・曹変 ・. 挙 を廃 し、 今文肇 を 正当 な儒 教 とし て、自 己 の正当 性 を裏 打 ちす る. 王葬を打倒 し て漢 を 再興 し た光武帝 劉秀 は、 王 葬 に対抗 し て古文. 命 づけ て孔 里 と日う 。 魯、 世世相 偉 え、 歳時 を 以 て孔 子 の家 を. 弟 子 及 び魯 人、往 き て家 に従 いて家す る者、 百有 徐室。 因 り て. 瞭 とな る魯 の孔 子廟 を取 り上げ る こと にし た い。 魯 の孔 子廟 の創設 に関し ては、 『 史記』 巻 四七 孔 子世家 に、 孔 子、魯 の城北 の梱上 に葬 ら る。弟 子皆 な服す る こと三年。::i. や特 殊 ではあ るが、 後漢時 代 の地方祭 鵡 の形 態 が 石刻 史料 によ り 明. 在状態 を検 討す る こと によ り、 在地社 会 におけ る 「 儒教 国家」 の祭 肥、 およ び在 地勢力 の儒教 の受 容を考 究す る。 そ の事 例 とし て、 や. 祭鵡全般に関する論究は金子論文に委ね、本稿では、地方祭顧の存. の後漢国家 に、皇帝 自 ら が天を 肥 り、 ま た天 から の返礼 に対し て皇 帝 自 ら が責 任 を 取 った時代 であ ると いう意 味 にお いて、 「 儒教国 家」 の祭 肥 の完 成 を 見 る こと が でき る のであ る。 後漢時代 の章 帝期 に成 立し た 「儒教国 家」の国家 祭 肥 に関し ては、 注 ◎ 所 掲金 子論 文 に詳細 な研究 がな され て いる。 し たが って、国 家. り、 個 人 の幸福 を祈 るそれ ではな く、 儒教 的 な礼 説 に基 づ いたも の. 奉 伺す 。 而し て諸 儒も 亦 た孔 子 の家 に蔭 を講 じ 郷飲 し大射 す。. 権 威 の大き さ が理解 でき る のであ る。. であ った。 光武帝 は、ま さ に儒教 的国家 の最高 の祭 記者 とし て立ち. 孔 子 の家 は、大 き さ 一頃 な り。 故 と居 る所 の堂、 弟 子 の内 は、. な ど の災 異 によ って三公を 罷免す る ことはな く、 詔を発 し て災 異 の. 意 を 払 って いた。 影 山輝 国 によれ ば、光武帝 ・明帝 ・章 帝 は、 日食. 帝 ・明帝 ・章帝 の三代 は、 鋭意 親 祭 に努 め、儀 礼 の掌握 に細 心 の注. 前 漢 の祭 犯権 を 掌 握 し て纂 奪 を 行 った王 非 に 鑑 み、後 漢 の光 武. 有 さず に、そ の祭 肥 は続 け ら れ て いた のであ る。前 漢 の高 祖 劉邦 が、. とあ る。 孔 子 の死後 まも な く廟 が作 ら れ、 漢初 ま で国 家 と は関 係を. 嗣 る。 諸 侯 ・ 卿相 の至 るや、常 に先 ず 謁 し、 然 る後 に政 に従う 。. るま で二百鉄 年絶 えず 。 高皇帝 、魯 を 過ぎ る とき、太 牢 を 以 て. 後 世困 り て廟 とし、 孔 子 の衣 ・冠 ・琴 ・車 ・書 を 蔵す。 漢 に至. 4) ( 2. 3) ( 2. 現 れ た のであ った。. 筈 を専ら自 己 の不徳 に帰 因 さ せ て いると いう 。 これを影 山 は、 政治. 孔 子廟を 訪 れ た のは、高 祖 の十 二年、 そ の死 の 一年前 のこと であ る. . の実権 が皇帝 と いう 本来 そ れを保 有す べき 人間 の手 に安定 し て掌 握.

(8) . 中国古代における祭肥権. 『 掴漢 書』 巻 四 に挙 行 し た封 輝 にも 褒成 侯 を参 加 さ せ た のであ る ( 蔭 儀志 上 に、. 蔭 儀 志上)。 ま た明帝 は、 『 綴漢書 』 巻 四. 明帝 の永平 二年 三月、 上、始 めて翠臣を帥 いて躯ず から三 老 ・. 。 楠 山春 樹 「 『 街聖 公家 の発端ー ー褒 成 漢書 』巻 一下 高帝 紀 下) ( 『 侯 と般紹嘉 侯」 ( 斯文』 一〇 0、 一九九 一年) は、 この記 事 が史記 に見当らな いことから、 班固 の作 文 であ ろう とし て いる。 いず れ に. 五更 を群薙 に養 い、大射 の薩 を行う 。 郡 ・懸 を し て郷飲 酒 を学. 『 諸王 に経を 説 かせ て いる ( 後 子を 肥 り、親 し 講 堂 に臨 ん で皇 太 子 ・ く 。 こう し て、 史料 に疑 問も残 る劉 邦 以 漢書 』 本 紀 二 頭宗 孝 明帝 紀) 来 ひさかた ぶり に、 儒教的 祭詑 の完 成 形態 を 見 せた明帝 によ って、. 七郊 ・魁 挙 ・三薙 の義 、 備 わ 周 公 ・孔 子を 郡懸 の肇校 で記 ら せ て、 「 れり」 と評 され る が如 き、 儒教的 祭 犯 の完 成 形態 を 示 し た。 さ ら に 明帝 は、永 平 十五年 には自 ら孔 子宅 を訪問し、孔 子 と七十 二人 の弟. を 以 てす 。 是 に於 いて七郊 ・蔭挙 ・三薙 の義 、 備 われ り。 三老 ・ 五更 を 辞薙 に養」 い、 とあ るよう に、郊 犯制度 の整備 を行 い 「. 校 に道 行 せし め、皆 な聖 師周 公 ・孔子を 肥 らし むる に、 牲 は大. し ても、以後前 漢時 代 には、皇帝 が自ら孔 子廟 を訪 れ た記録 はな い。 前 湊時代 には 「 儒教国 家 」が未成 立 であ った こと の 一証 左 とな ろう 。 『 漢書 巻 八 一 孔光 億 に、 』 食 邑八 孔)覇 を徴し て、師 な るを以 て爵 閣内侯 ・ 元帝 即位 し、 ( ::・ 覇 、 初元 元年を以 て閣内 侯 と 百戸を賜 い、 褒成 君と競す。 ・ 篇 り邑を食 む。覇 、 上書 し て孔 子 の祭 鵡を奉 ぜん ことを求 む。 元帝 、 詔 を下 し て 日く、 そ れ師 の変成 君関内 侯覇 を し て食す る 所 の邑 八百 戸を以 て孔 子を肥らし めん、 と。 故 に、覇、長 子 の 福 の名 数 を魯 に還 らし め、夫 子 の能を奉 ぜし む。 馨成 君」 に封 ぜられ た の とあ るよう に、 孔 子 の子孫 であ る孔覇 が 「 は、 元帝 の初 元 元年 であ る。 そ の際、 孔 子廟 の祭犯 が元帝 により 公 認 され ては いる が、そ の費 用 は孔覇 の食 邑 から負 担す るも のとされ、. 皇帝 によ る孔 子廟 の親 祭 が行 わ れ た のであ る。 白虎 観会議 を開催 し て、 「 儒教国 家」を完 成 さ せた章帝 に至 る と、 後 漢書 』 孔 子廟 の祭犯 はさら に盛大 に挙行 され た。 そ の有 り様 は、 『. 後漢 王朝 を創始 し た光武帝 は、建 武 五年 には魯 に御幸 し、 大 司空 。 それ ととも 『 後漢書 』本紀 一上 光 武帝 紀上) に孔 子を肥 ら せ た (. がれ て いく、 孔 子廟 祭犯 が確 立され る のであ る。. 「 儒教国 家」 の形 成 され る後漢時 代 にお いては、皇帝 親祭 によ る孔 子廟 の祭犯 が開始 され、 以後 「樺奥」 と称 され て歴代 王朝 に受け 継. 明王 ・聖主 は師 を尊 び道 を 貴 ばざ るはな し。 今、 陛下、 親 し く. 今 日 の曾 、寧 ろ卿 の宗 に光柴有 るか、と。教え て日く、臣聞 く、. す。 大 いに孔氏 の男子 二十 以上 の者 六十 三 人を曾 し、 儒者 に命 じ て論語 を講 ぜし む。 ( 孔)嬉、 因 り て自 ら謝 を 陳 ぶ。帝 日く、. に幸す 。 太牢を 以 て孔 子及 び七十 二弟 子を嗣 り、 六代 の楽 を作. 元和 二年春、 ( 章) 帝東 のか た巡 狩 し、 還 り て魯 を 過ぎり、 闘 里. 国 家 が、 孔 子廟 の祭費 を拠 出す る こと はな か った。 これ に対し て、. 後漢書 』 列傷 六九上 儒林 孔 偶像 に、 に光 武帝 は、 『 初 め平帝 の時、 王非 政を乗 り、 乃ち孔 子 の後 の孔均を封じ て変. 禽 乗 を屈 し て、辱 くも敵 里 に臨 めり。此 れ 乃ち先 師を崇魅 し て、. 孔 偉偉 に、. 成侯 と鴬 し、孔 子を追 註 し て変成宣 尼 とす。 葬敗 るる に及 び圃. 輝 きを聖徳 に増 せり。 光栄 に至 り ては、 敢 え て承け ると ころ に. 儒林. を失う 。建 武十 三 年、世祖復 た均 の子志 を封じ て変成侯 と鴬す。. 非ず 、 と。帝 大 いに笑 いて日く、 聖者 の子孫 に非 ざれ ば、 烏 ん. 列億 六九上. とあ るよう に、 王 葬と とも に滅 ん だ変成侯 を復 興し、建武 三十 二年. 七.

(9) . . 渡 遷 義 浩. ^ %). 八. 「乙瑛碑 は、 後漢 桓帝 の永興 元年 (一五 三年) の建碑 であ り、 大 」 き さ は 二六 0 × : 一 九 皿。 碑 文は 一八行 、 行 ごと に四〇字 を載 せ る. が碑 陰 は無 字 の碑 であ る。 著名 な碑 文 であ る ため原 文 は載 せず 、 し. 以上 のよう に、秦 、前 漢 にお いて、皇帝 に収数 され た祭 肥権 は、. よ り、 「輝きを聖徳 に増」す 行為 が挙 行 され た のであ る。 つまり、章 帝 は、 「 儒教 国家 」 とし て完 成 さ れ た後漢国家 の祭 記 の 一環 とし て、 孔 子廟 の親祭 を挙 行し、 これを 天下 に示し た のであ る。. 春 秋 に饗諺す る に、 財 は王家 の銭 を出 だし、 大 酒 の直 を 給 せ ん. 嗣 るも 、事 己 わ れ ば即ち去 る。 廟 に麓 器有 るも 、常 人 の掌領す. 孝 耀を制す 。 ・ :1・ 故 に特 に廟 を 立 て、 変成侯 は四時 に来 たり て. かも 紙幅 の都合 上、 重要 な部分 だけを書 き 下し で掲げ た い。. 王 非 が儒 教 的 祭 滴 への諸 改 革 を 遂 行 す る中 でそ れ を 掌 握 し て い っ た。 王 葬 の纂奪 は、 かか る祭犯権 の掌 握を も踏ま え る こと により遂. ことを、 と。 須らく報ず べし。 謹 みて太常 に問う に、 詞 曹橡 の. ぞ斯 の言有 ら んや、 と。 とあ るよう に、章帝 自ら が 「 太牢 」 を以 て孔 子を肥 る のみな らず 、 孔 子 の未碕 の男 子 六十 三 人を会 し て、孔 子 の宗族 を 顕彰す るも ので あ った。 天 子 が 「 親 しく禽乗 を屈 」 し て孔 子を 「 崇蔭 」 す る こと に. 行 され た。 ゆえ に、 王 非を 打倒 し た後漢 の光武帝 ・明帝 ・章帝 の三. う ら く は、 魯 相 は孔 子廟 の鴬 に百 石卒 史 一人を 置き、磁 器を掌. 領 し、 王家 の銭 を出 だし、 大 酒 の直 を 給 し、他 に故 事 の如く せ. 傷 牟 ・史 の郭 玄 、 辞 封 す ら く 、 ・ ::・ 瑛 の言 の如 し 、 と 。 ・ :1壷胡. る無 し。請う らく は、百 石卒 史 一人を 置き、守廟 を典 主 せし め、. 言 わく、詔書 に聖 道 を崇 め、挙 嚢 に勉 め、 孔 子 は春 秋 を作 り、. 司徒 の臣雄 ・司空 の臣戒 、 稽首し て言す。 魯 の前 相 の瑛 が書 に. 代 の皇帝 は、 親 祭 によ って天を肥 り、 天 が示す災 異 に対 し ても 自 ら 責任 を負 った。 か か る後漢時 代 の初期 に、 「 儒教国家」の祭 記 の完 成 期を措定す る こと が でき る。 地方 祭肥 の代表 的存 在 であ った孔 子廟 の祭 肥も、 章帝 期 には皇帝 によ る親祭 が盛 大 に行 わ れた のであ る。. ん ことを。 臣雄 ・臣戒、 愚懲 誠憧 誠 恐、頓首 頓 首、 死 罪 死 罪。 臣、 稽 首し て以 て聞す。制 し て日く、 可な り、 と。 元嘉 三年 三. 月 二十 七 日壬寅、 雛陽宮 に奏す 。 司徒 公 ・河南 原武 の呉雄 、 字 は季高、 司空 公 ・濁 郡成 都 の越戒 、 字 は意 伯。. 「 儒教国 家」 の祭 肥を完 成 さ せた章帝 は、 孔 子廟 の親 祭を盛 大 に. 上、 経 は 一婆 に通ず るを 選 び、 利 に通 じ能 く先聖 の磯 を奉 じ 弘 め、 宗 の蹄す る所 と鴬 る者 を雑 試す る こと、 詔書 の如 く せよ。. す 。 書 を承け事 に従 い、 常 に用う べき者 に下 せ。其 の年 四十 以. 三、孔子廟祭記と在地勢力. 挙 行 し た。 し かし、 後漢 の皇帝 によ る孔 子廟 の親祭 は、 安帝 の延光 『 三年 の親祭 ( 後漢書 』本 紀 五 孝 安帝 紀 )を最 後 に、 途 絶え てし ま. 書 到 ら ば言 せ。永 興元年 六月 甲辰 朔 十 八 日辛 酉。魯 相 の平 :::. 元嘉 三 年三月 丙 子朔 二十 七 日壬寅。 司徒 雄 ・司空戒、 魯相 に下. う 。 こう し た後 漢後半 期 の孔 子廟 の祭 詑 の状況 を知 るため には、孔. 謹 みて文書 を案じ、守文撃 橡 ・魯 の孔 隷を :11除す 。 補名 の状. 讃 に日く、 魂 醜 たり大聖、 赫赫 とし て踊 々章 ら かな り。相 の乙. は牒 の如 し。 平、 憧恐 叩頭、 死罪 死 罪、 司空府 に上す 。. 子断 に現存す る 「乙瑛碑」・「 史最前 碑 ・後碑」 を手 掛 か 蔭 器碑」・「 りとしなけ れ ばなら な い。 こ のう ち、 年 代 の最 も 早 い 「乙瑛碑」よ り検討す る こと にし た い。.

(10) . 中国古代における祭犯権. 瑛、 字 は少 卿、 平 原高唐 の人。 令 の飽 畳、 字 は文 公、 上蕪屯留 の人。 政教 は古を 槽え、 規矩を重 んず るが ごとし。 乙君 は察 挙 し、 宅 を守 り て吏 を 除す。 孔 子十九世孫 の麟、 百 石卒 史 一人を. 書 』 列偉 三六. 郭展 偉 )。 一方、 司空 の越戒 は、 子 の越典 が 「党 人L. に垂 れ、 是 に於 いて始□。 「乙瑛碑」 は、 三段落 から な る。第 一段落 は、魯 相 の乙瑛 が上 奏 し た孔 子廟を守 護す る 「百 石卒 史L 設 置 の要 望 に対 し て、 司徒 呉雄. 言 い切れな い。 そ れ は、 魯園 の孔 子廟 祭 犯 は、 孔 子 の子孫 の中 でも. を 見 る こと が で き る の であ る 。. 的 な 儒教 的 官僚 であ る ので、 家学 の隆盛 よ り 考え て、 とさ れ た血納土 『 後 漢書 』 列億 二七 越典 偶)。 儒 教 的 儒教 的官僚 と考 え ら れよう ( 官僚 であ ろう 越戒 はも とよ り、法 家的 官僚 であ る呉雄 ま でも が、 孔. と 司空 越戒 が太常 の返答 をう け、 桓帝 の制 可をう け た ことを伝 え る。 第 二段落 は、 司徒 呉雄 と司空適戒 が魯 相 に 「百 石卒 史」を 選任 さ せ、 乙瑛 の後 任 の□ 平 が孔 鎌を選 び上奏 し た こと が記 さ れ、第 三段落 は. 変成侯 が掌 ど ろも のだから であ る。それ は乙瑛 の上奏中 にも、「変成. 置 かん ことを廉 請す。 飽 君 は百石 の吏 の舎 を造 作す。 功 は充窮. 魯相 の乙瑛、 魯 懸令 の飽 畳、 「百 石卒 史」の設 置を廉 請し た孔 子十 九. 孔氏 一族 で掌 握す る こと によ り、魯 圃 におけ る孔氏 一族 の儒教 の体. 欲求を読 み取 りう る。す なわ ち、孔 子廟 祭犯を 馨成 侯 に独占 さ せず 、. こに在地勢力 の儒教的祭肥を桃子とした在地社会 への支配権確立の. 廟 祭犯 のさらな る整備 を求 める孔麟 及 びそ の 一族 の狙 いは何 か。 こ. れ て いる こと であ る。 孔 子 の子孫 であ るから当然 の行為 であ る と は. 第三は、孔子廟祭肥の再建要請が、孔子十九世孫 の孔麟から出さ. 子廟 祭鵡 の存続 に強 い意 欲を 見 せ て いる こと に、 「 儒教国家」にと っ て の祭鵡 の重 要 性 と 「 儒教国 家 L の官僚 の儒教 に対す る強 い責 任感. 世孫 の孔 麟 への讃 が記 され て いる。. 侯 は四時 に来 たり て嗣 るも、 事 己 われ ば即 ち去 る」 と述 べら れ て い る。 一族 中 の馨成侯 が定時 の祭 肥 を行 って いる にも 拘 わらず 、 孔 子. かかる内容 を有す る 「乙瑛碑」より考察す べき こと は三点 であ る。 第 一は、孔 子廟 の祭 犯 が、 桓帝 の元嘉 三年 には、国 家 から の祭費 の拠 出も なく、 荒廃 し始 め て いた こと であ る。 換 言す れば、後漢 初 儒教国 家」 は、 桓帝 期 に 期 の如 く儒教 的 祭肥 を 一元的 に掌 握す る 「 儒教国 家」た ろ後 は衰 退 し つ つあ った のであ る。 孔子廟 の祭記 は、 「 漢 にお いて、 地 方祭 記 の中 でも重 要 な位 置を占 める祭犯 であ った。. 現者 とし て地位を、 孔 子廟 祭犯 によ る権威 によ って確 立し よう とす る意 志を看取 しう る のであ る。 つま り、 「 儒教国 家L自体 の祭 肥 は衰 退 し つつあ るが、儒教 的官僚 やそ の淵源 た る在 地勢 力 は、 儒教 的 祭. そ れ が これ ほど の衰 退 を 見 せる以上、他 の祭犯 も推 し て知 る べき で あ ろう 。 後漢国 家 は、 桓帝 期 には 「 儒教国家」 とし て掌 握 し て いた. 顧 の主 体 とな る こと により、 在 地社 会 におけ る規制 力を確 立し よう と し て いる の であ る。. 祭犯権 を、次第 に喪 失 し つ つあ る のであ る。 第 二は、後漢 国家 の官僚 が、 かかる状況 下 にお いても 孔 子廟祭 肥. 乙瑛 の上奏 により、 百 石卒 史 とし て孔 鰍が選 ばれ、ま た孔 子廟 の 祭 記 に 「王家 の銭」が出費 され る ことも桓帝 の承認を得 た。 し かし、 百 石卒 史 が置 かれ た こと は確 認しう る が、 そ の後も、皇 帝 の出 資 に. の存続 に強 い意 欲を 示 し て いる ことであ る。祭 記 に関 わ る国家機能 問 ののち、 孔 子廟祭犯 の復 興を桓帝 に上奏 し て いる のであ る。 司徒. より孔 子廟 の祭 犯 が再建 さ れ る こと はな か った のであ る。 そ の間 の. は未 だ作 動し、 魯相 乙瑛 の上奏 を受け た司徒 ・司空 は、太 常 への諮 『 の呉雄 は、 後漢 の官 僚 とし ては例外 的 に法家的 な官僚 であ る ( 後漢. 九.

(11) . . 渡 選 義 浩. 一○ 事情 を 「 磁 器碑 」 によ って考察 し て いく こと にし よう 。 「 蔭 器碑」 は、後漢 桓帝 の永鱒 二年 (一五 六年) の建 碑 であ り、 孔 子廟 に現存す る。 大 き さ は 一六五 ×七 四 mの四面碑 であ る。 碑 陽. よ り孔 子廟 の復 興をし て いる頃、 桓帝 は、 夢 で老 子を見 た ことを契. 同質 のも のと考 え る こと は でき な い。 魯 相 の韓 勅 が個 人的 な支出 に. 書』列偉 三 一 鍾離 意 偉)。 し かし、 明帝 の親 祭 が行 われ て いた時 期. は 一六行へ 行 ごと に三 六字 で序 ・銘 ・韓 勅 ら九 人 の題名 を載 せる。. 碑 文な ので原文 は載 せず 、重要 な部 分 だけ を書 き下 し 文 で掲げ た い。. り儒教的官 僚 に移行 し て いる ことを 表す 事 例 とし て、 理解 しなけ れ. 鍾離意 の行 為 が、 あ くま で明帝 の補完 であ った こと に対 し て、 韓勅 の行 為 は 「 儒教国 家」 の護持者 とし て の孔 子廟 の祭 肥権 が、皇 帝 よ. の鍾離意 の行為と皇帝 の親祭が途絶えている桓帝期の韓勅 の行為を. 碑 陰 は三 段、各 段 ごと に 一七行。 碑側 左 は三段、各 段 ごと に四行。. 老 機 に、陳相 の選 詔 に老 子 の祭記を挙行 さ せ、さら に老 子を讃 え る「 『 隷 輝』 巻 三 老 子銘 )。す な わち 子銘」 を造 ら せ て いる のであ る (. 惟 れ永憲 二年、 ・ ー・ 魯 相 ・河南京 の韓 君 ::1是 に於 いて謎 器を. ばな らな いのであ る。う ま り、 「 儒教国 家」の祭肥権 は- 皇帝 の手 中. 碑 側右 は四段、各 段 ごと に四行 で、 いず れも 碑 の建 立 に際 し て出 資 ”} { 麓 器碑Lも 著名 な し た人士 の本 貫 ・官 職 ・醸金額 を掲げ て いる。 「. 造 立し、 梁 に之 れ音 は符 さし め、 鍾 ・磐 ・憂 ・鼓 ・雷 ・洗 ・鯵 ・. 移行 し て いる のであ る。. から、自 己を 儒教 的 理念 の体 現者 とし て位 置 づけ る儒教的官僚 へと. 瓢 ・爵 ・鹿 ・祖 ・極 ・選 ・碇 ・禁 ・壷 ・宅 ・廟を情 飾 し、 更 め 人〕、 君 の風燭 を 是 に於 いて、 四方 の土仁 〔 ::・ て二奥を作 る。 ・. 磁 器碑」に現 れ た さら に議 論を進 めよう 。 こ こま で の理解 では、 「. 行 為 を韓勅 一人 の行為 とし て考 え てき た。 し かし、 碑 の建立 の主 体. 聞き、其 の徳 を敬嚇 し、大 人 の意、 連 狸 の思 を尊 埼す 。 乃ち 共 に表 石を 立 て、 億載 に紀偉 す。 其 の文 に日く11:. であ る碑陰 の人士 の検討 によ り、 これ に対す る孔氏 一族 の関 与 が 明. 二百。 故. を讃 え た碑 文 に相応 し い。そ の内、魯 懸 出身 の人士 が三十名を 占 め、. 七十名 の人士 の内 、 四十名 が稼州魯 園 の出身 であり、 魯相 の善 政. 検討 結 果 だけ を 援 用す る ことにし た い。. 十名 の人士を ま と めた表を作 成 し たが、 紙幅 の都合 上省 略 に従 い、. 確 とな る のであ る。 碑 陰 ・碑 側 に掲 げ ら れ た、 碑 の建 立 に係 わ る七. 韓 明府、名 は勅 、字 は叔節 。 二百。 故曾 稽太 守 ・魯 の億 世起. 故 琢郡太 守 ・魯 の塵次公 頴 川長社 の王玄 君真. 三百。 河東 大陽 の西門倹元節. 五千。 故従 事 ・魯 の張嵩妙高 五百。 千。 相. 主簿 ・魯 の藤 陶 元方. 千。相 史 ・魯 の周 乾伯 徳. 他懸 出身 の人士 に 一姓 で複 数 を輩出 し て いる姓 が無 いので、 魯 園 魯. 三百。 ・ :1・. 楽 安相 ・魯 の際 季 公. 魯 相 の韓 勅 が、孔 子廟 なら び に孔 子廟 の祭 器を修 造 し、 礼楽 を整. 姓 で複 数 の人士 を輩 出 し て いる のは孔 姓 十 四名 ・劉姓 三名 ・康姓 二. 。 〔 以 下、 碑 陰 ・碑 側左右 に六十 二名 が続 く〕 繕 器碑」よ り 理解 す べき こと は次 の二点 であ る。 え た ことを讃 え る 「 第 一は、 孔 子廟 の祭 記 が、 乙瑛 の上奏 の裁 可 にも関 わらず 、 依然. 憲 の如 く 百銭 し か拠出 できな いも のから、 守廟 百 石 の孔恢聖 文 に、. る孔氏 は、 一族 中 最高 の醸金 額 を持 つ尚書 侍郎 の孔 彪を筆 頭 に、 孔. 名 ・周姓 二名 の四姓 であ る。 七十名 中 十 四名 と圧倒的 な多 数を 占 め. 際 に のみ対象 を 絞 って考 察を進 め た い。 魯懸 出身者 三十名 の内 、 一. とし て国家 の支 出 ではなく、魯 相韓 勅 の個 人的 な努 力 により 維持 さ れ て いる こと であ る。 かか る韓 勅 の行為 は、 「私鋳」により 「夫 子 の 『 後漢 車」を修 治 し た明帝 期 の鍾離意 の行為を 範 とす るも のであ る (.

(12) . 中国古代における祭簾権. 変成侯 の孔健毒 と、 一族 を挙 げ て碑 陰 に名 を連 ね て いる。 「乙瑛碑L も 孔 麟を 代表 とす る孔氏 の懇 願 から始 ま ったよう に、 韓 勅 の行為を 艦 器碑」の建 立主 体 とな った のも、 孔彪 を筆 頭 とす る孔氏 一 支 え、 「. ( 繋). 懸、 ひ いては魯 図 に自 己 の権 威 を確 立しよう とし た のであ る。. 銭 に及 ん で いる。 孔氏 は、孔 子廟 祭肥 の主体 とな る こと により、 魯. ・ ::・ 褒成 の世 々享く る の封有 り、 四時 に来 たり て祭 ると難 も 、. 上ぐ る食 醍 の具 を情 め、以 て小節を 叙し、敢 え て空 しく謁 せず 。. 臣は建寧 元年 を以 て官 に到 り、 秋饗を 行う。 ・ ・ :ー・ 而し て公 ー・. 「 史最前 碑 」 建 寧 二年、 三月 発卵 朔、 七 日己 酉。 魯相 ・ 臣農 ー :尚書 に上 る。. 史最 前 碑」、 碑 陰を 「 に、 碑 陽 を 「 史最後 碑」と称す る。 これも 著名 な碑 文 であ るた め原 文 は載 せず、 「 史最前 碑」 「 史最後碑」 の順 に、 重要 な部分 だけ を書 き 下し で掲げ る こと にし た い。. す な わ ち、 「 繕 器碑」に関 わ る第 二 の論点 は、 韓勅 を し て孔 子廟 の 修 復 や孔 子廟 の磁 器を修 治 さ せた背 後 には、 「乙瑛碑」同様 、.孔氏 の 力 があ ったと考 えら れる こと であ る。す わな ち、孔氏 は、 孔 子廟 の. 畢 われば即ち園 に蹄 る。 ・ 而 る に、本 国 の葡居 は、譜 を 復 す ::・. 族 であ ると考 え てよ い。 孔氏 が全 体 とし て拠 出 し た額 は、 一万 千百. 祭 肥権 を掌 握す る こと により、魯園 を代 表す る儒教 の体現者 とし て. る の日も、 闘 き て肥 らず 。 誠 に朝 廷 の聖 恩 の、 宜 しく特 に加う. に酒肺を 出 だす の詞無 け れ ば、 臣 は即ち自 ら奉銭 を 以 て、 案 に. 地位 を確 立す る ことを目指 し た のであ る。. べき所 な り。 臣 は寝 息す るも 歌 敢 たり。情 は思 惟す る所 な り。. 臣 は軸 ち社 楼 に依り て、 王家 の穀 を出 だし、春 秋 に蔭 を 行 い、. 以 て煙 犯 に共 し、 徐酢 は先 生 と執事 と に賜 わらん。 ‐ ::・. 後 には、魯 際あ る いは魯園 と いう 在 地社 会 にお いて、孔 子廟祭犯 を. 後漢書 』列偉 六〇 孔 融億 に名を徴す る こと 士」 孔融 の父とし て 『 が でき る のであ る。 こう し た後漢 末 期 におけ る孔氏 一族 の活躍 の背. あ る いは、「 臓 器碑」碑 陰 に名 を 連 ねる孔宙 は、後漢末 を代 表す る「 名. ち に大 尉 とな る儒教的官僚 の博 陵 の荏 烈 が故 吏 とし て名 を連 ね てお り、 孔 彪 の儒教 的官僚 とし て の活躍 を窺 う こと が でき る のであ る。. り、壁薙 社 機 の品制 に述倍す 。 即ち尚書 に上り、参す る に荷 験. 而も 公 の出 だす 享獣 の薦無 し。 欽 ん で、春饗 、薬 物 の嘉曾 に困. ろ憶 宅 は、神 の安 んず る所 なり。春 秋 に復蔭 し、玄霊 を稽度 す 。. を 展 め、 秤 手 し厳粛 し、暦 優勢 髭 とし て在す がごとし。 依 々た. 闘 観を望見 し、 路 に式 し て度 しく 眠く。 既 に至 り、 堂 に升 り 気. 寧 元年 四月十 一日戊 子宮 に到 る。乃ち令 日を以 て孔 子 に拝 謁 し、. 「 史最後 碑」 相 たる河 南 の史 君、 誰 は最 、 字 は伯 時、 越騎校 尉 より拝 し 、 建. 槌 子 に確 立し た権 威 が存在 し た のであ ろう 。 かかる理解 を さら に深. 時 の長史 ・底 江野 の李 謙敬譲 、 五官 橡 ・魯 の孔暢、 功 曹史 ・魯. 孔彪 は、 『 後漢書 』 には記 載 はな いが、 『 隷 輝』巻 八 に著録 され孔 子廟 に現存す る 「孔彪碑」 に依 れ ば、 尚書 侍郎 のあ と、 治書 御史 な ど の官 職を歴任 し て博陵太守 とな り、 そ ののち 下郷相 ・河東 太守 に 遷 って、 四十九 歳 で卒 し て いる。 そし て 「 孔彪 碑」 の碑陰 には、 の. 史最前碑 ・後 碑」 の検討を続け て いき た い。 める ため に、 「 「 史最碑」 は、 後漢霊帝 の建寧 二年 (一六九 年) の建碑 であ り、 孔 子廟 に現存す る。 大 きさ は 二三 一 × 一 一二 m。 碑陽 は 一七行、 行. の孔准、 戸曹稼 ・蒔 の束 門柴 、 史 ・文陽 の馬珠、守廟 百 石 の孔. し、井 びに本 奏 に列す。 大漢、 期を延 ばし、 億寓 に爾歴 せ ん。. を 以 てし、 乃ち敢 え て承肥 し、 鉄 群 は賦賜す 。 石 に刊 し銘 に勤. ごと に三 六字 であ り、 碑陰 は 一四行、行 ごと に三 六字 であ る。 一般. :.

(13) . . 渡 避 義 浩. 識、副橡 の孔綱、 故尚書 の孔 立元世、 河東 太守 の孔彪 元上、庭. 一二. 史 と は考 え難 い。 当 然、 後 に掲げ ら れ る人士 の協 力、 具体 的 には 「 時 の長 史 ・瞳江 腎 の李謙 敬 最 碑」 を 建 立し て史 展 の行為を 讃 え た 「 譲 、 五官 縁 ・魯 の孔暢 、 功 曹史 ・魯 の孔 准、 戸曹橡 ・藤 の束 門柴 、. 九 百 七 人 が集 ま ると いう き わ め て大規模 な も のであ っ 親 して 「 」 」 奉 鍍」 だけ で成 し得 た た。 か かる大規模 な祭 犯 を、史最 が自ら の 「. 六律 に考う る に、 八音 克く譜 い邪を 蕩 き 正 に反 り、爵 を奉 じ て. 史・ 文陽 の馬 珠、 守 廟 百 石 の孔讃、 副橡 の孔 綱、 故 尚書 の孔 立元 世、. 士 の孔 褒 文謎、皆 な廟 堂 に曾 し、国 際 の員 冗、吏 の大小 と無 く、. 憲 を構 え、相 い楽 し む こと終 日な り。あ あ穆 とし て粛 み薙 らぎ、. 河東 太守 の孔 彪元上、庭 士 の孔褒 文謎」 ら が、祭費 の大き な部 分を. 府 を空 にし寺 を渇 く し て、威 な来 観 せし め、井 せて畔宮 の文学 ・. ::・ 上下福 を蒙 り、 長く利 貞を 享け 、 天と極 まり無 から ん。 ・. 先 生 ・執 事 ・諸弟 子合 わ せて九 百七 人、 雅歌 し 隼を 吹 く。 之を. 史最前 碑」は、 建寧 二年 (一六 碑 文 の内 容 は次 のとおり であ る。 「. 史農 が魯 相 に任命 され た のは、建 寧 元年 の四月 であ る。建寧 元年 は、. る孔 氏 一族 が、 祭犯権 の掌握 によ り、魯 園 におけ る儒教 的権 威 を 、 後漢 「 儒教国家」 に代 わ って体 現 し つつあ る のであ る。 第 二 は、か かる国家 の祭 蔵権 の崩 壊 が放 置 され た政治 状況 であ る。. と とも に孔 子廟 の祭 記 を挙行 し た のであ る。 つまり、 在 地勢 力 であ. た こと は言を侯 たな い。す な わち、 孔氏 は、 国 家 に代 わ って、 史最. 鰹器 負 担 し て いたと考 え る べき であ ろう。 とり わけ、 十 三年前 に 「 河東 太守 の孔 彪 元上」 を中 碑」 を 立 て る際 にも 三 千銭 を醸金 し た 「 心 とし て、 碑 陰 の人士 十名中 、 七名 を占 め る孔 氏 一族 の協力 があ っ. 九年)三月 に尚書 に奏請 し た、 史長 の上奏 文を 原文 のまま掲載し て 秋饗 」 いる。建寧 元年 に魯相 とな った史展 は、 自 ら費 用を拠 出し て「 を行 った。 そし て、 孔 子廟 の祭 犯 が国 家 によ り行 われな いことを傷 み、 「乙瑛碑 」以来要 求 され続 け て いる、国 家 によ る孔 子廟 祭 詑 への 支出 を求 め て上奏 し た のであ る。 かか る史展 の行為 を讃 え るも のが 「 史最 後碑 であ る。 前半 では史最 が行 った 「秋饗」 に、多 く の人 」 相 い楽 し む こと終 日」であ っ 士 が参 加 し、盛 大な 「秋饗」に魯 図 が 「 秋饗 」後、 史展 が た様 子を 伝え る。省 略 し た部 分 であ る後 半 では、 「. 第 一次党 鋼 の禁 を起 こし た桓帝 が崩 じ、霞帝 の即位 ととも に、 外 戚. 党 人」 の指導者 陳審 が、 政治を 掌 握 し て いた時 期 で の賓憲 およ び 「 ( 姓) あ る。 こう し た時 期 に越騎 校 尉 から魯相 に栄転 し た のであ る から、 『 党 後 漢書 』 には史最 に関す る記 述 は 一切な いが、 史 農 は陳審 ら 「. 部 下 の仇 誠 に孔 子故宅内 の各 所 を補修 さ せた ことな ど の史 最 の善 政 史 最 碑」 より 理解す べき こと は二点 であ る。 かか る内容 を持 つ 「 第 一は、霊帝 期 には、 桓帝 期 以上 に後 漢国家 の祭顧 への権限 が失. 人 L 系 の人士 であ ったと考 え てよ い。 それ は、史最 を 讃え た孔 氏 の. が讃え られ て いる のであ る。. われ、 孔 子廟祭 犯 が、 地方官 や孔 氏 一族 のも と で行 われ続 け た こと. 。そ れ が、史農を 讃 え て いる ことは、史最 が 7 蕪 鋼 張倫億 ) 列億 5 「 党 人」系 の人士 であ る こと の傍証 とな ろう 。 注 ⑩所 掲 渡避 論 文 で. 党 人」 の張倹 が亡命 し て孔 愛 孔 変 は、 第 二次党 鋼 の際、 代表的 な 「 『 後 漢書 』 党 人」系 の人士 であ る ( の元 に逃 れた こと が伝 え られ る 「. 七名中 に 「 庭 士 の孔 馨 文薩 」が入 って いる こと からも 明ら か であ る。. であ る。 後漢国 家 が祭費 を 拠出 しな いた め、 魯相 の史最 は、 ついに 秋饗 を挙行 し た。 あ くま でも国 家 によ る孔 子廟 祭 蔵 の復活 自ら 「 」 磁 を願 った 「乙瑛碑 や、 孔 子廟 や孔 子廟 の祭 器 の修 復 を行 った 「 」 秋饗 」 は、 器碑」 と の決定 的な差 異 は こ こにあ る。 し かも、 そ の 「 「 圃懸 の員 冗、吏 の大 小 と無 く、 府 を空 にし寺 を渇く し て、威 な東.

(14) . 中国古代における祭肥権. 持 つかか る理念 の顕在 化 であ ると考 え てよ い。 つまり、 史展 およ び. に掌 握 し てま で、 孔 子廟 の祭犯を 継続 しよう とし た のは、 「党 人」の. た者 たち であ った。史 最 や孔 氏 一族 が、国 家 の祭肥権を 自 己 のも と. の自律 的 秩序 を 形成 し、 自 己を儒教 的 理念 の体 現者 とし て位 置 づけ. 述 べたよう に、 「 党 人」は富官 によ って私物化 され た後漢国 家 と は別. 論証は省略するが、孔子廟と同様に後漢国家から祭鷲権が在地勢力. て孔 子廟 が持 ちえ た象 徴性 に着 目す るため であ る。 紙幅 の都合 上、. た理由 は、 孔 子廟 に関す る史料 の残存 の多 さと、 「儒教 国 家」にお い. が生 じな い憾 みが残 る。 それ にも拘わらず 敢 え て孔 子廟 を取り 上 げ. す る儒 教 的官 僚 のも と に収敏 され て い った のであ る。 こう し た状況. 廟の祭肥権は完全に国家 の掌中を離れ、孔氏 一族およびそれが援助. にわ たる党 鋼 の禁 が勃 発 し た桓帝 の末 期 から霊帝 の初期 には、 孔 子. は儒教 的 官僚 や孔氏 一族 に次第 に掌 握 さ れ て い った のであ る。 二度. し て、 後 漢国 家 は祭犯 を挙行 しな くな り、 孔 子廟祭犯 は、 桓帝 期 に. し、 外 戚 ・南 官 の専横 により国 家 が私物 化 され ると、安帝 を最 後 と. 儒教 国 以上 のよう に、孔 子廟祭 犯 の変遷 を 検討す る こと により、「 家」 たろ後 漢国 家 の地方祭 犯 への対 応を 理解す る ことが でき た。 す な わち、 「 儒教 国家 」の確 立期 であ る章帝 ま で の三代 は、皇 帝 自ら が 孔 子廟 を 訪 れ親 祭 を行 って、 祭肥権 を国家 に 一元化 し て いた。 し か. 川犯をも 含 み、 き わ め て広 い対象 に及 ぶも のであ る。 本稿 では、 そ. の中 でも 以後 の中国 に大きな影響を与 え るも のは、 後漢時 代 に成 立 した 「 儒教国 家 」 の儒教 的祭犯 であ ろう 。 儒教的 祭 鵡 の範 囲 は、 山. の護持 のため、 かなり有 効な手 段 とな った のであ る。 こう し た祭 肥. 会 にお いては、 祭犯を中心 とし た儀礼 の持 つ権 威 は、 支配 の正当 性. われ る。 中国 の如 く支配 が生身 の権 力 とし て現 れ る こと の少な い社. し た。 そ こに見 られ た こと は、 祭肥権 の掌 握 の重要 性 であ った と思. ら、 後漢国家 の崩 壊 の契 機 とな る党鋼事件 ま でを時 間 軸 とし て備 敵. る の であ る。. へと移行 し た事 例 は、成 陽 懸 におけ る帝 莞 への祭 犯を槌 子 とす る仲 『 氏 一族 の台頭 ( 隷 輝』巻 一 成 陽霊墓 碑)な ど にも見 る こと が でき. 孔氏 一族 は、 富 官 によ って私物 化 され た後漢国家 に代 わ って、 魯 園 儒教国 家」 を 顕 にお いて自己 の理想 とす る儒教 的 理念 に基 づ いた 「 在化す る ため に、 祭 犯権 を国家 に代 わ って掌 握し て、孔 子廟 の祭 記. 党 下 にお いて、 後湊国家 の有 し て いた 「 儒教国家」とし て の権威も 「. 記の形成過程と地方祭犯の代表的事例としての孔子廟祭鵡を取り上. を 行 った の で あ る 。. 人」層 へと移行 し て いき、 や がて魂 昔南 北朝時 代 の貴族制 の淵 源 と 0) ( 3 なる 「 名 士」層 の自律 的 な秩序 が、 後漢国 家 に代わ る権 威 とし て在. げ た。. おけ る孔 子廟 に のみ見ら れ る事例 ではな い。 孔 子廟祭肥 によ る孔 氏. こう し た地方 祭 肥 におけ る後漢国 家 と在地勢 力 の関係 は、魯 懸 に. の祭 犯 は、国 家 の中 央集権 化 政策 の進展 ととも に禁 圧 され て いく。. 期 に求 める こと が でき た。す な わち、 自然 発生的 に形成 さ れ た民間. 国家 祭鵡 に関 し ては、 「 儒 教国家」の祭蔵 の完 成 を、 後漢時 代 の初. のす べてに論 及す る ことを断 念す る代 わり に、 「 儒教国家」の国 家 祭. 中 国古 代 に おけ る祭犯 権 の問題 を 中 央 集 権 化 の進 む戦 国 時 代 か. おわ り に. 地社会 に顕 在化 し てく る のであ る。. 一族 の台 頭 と いう 事例 は、孔氏 一族 の特 殊性 により、議 論 に 一般 性. 一三.

(15) . . 渡 遷 義 浩. それ は、 自己 のも と に権 威 を 一元化 し よう とし た国家 の支配意 志 を 如 実 に反映す る政策 であ った。 秦 、 前漢 にお いて、皇帝 に収数 され た祭 犯 は、 未 だ呪術 的 ・方 術 的な要素 を色濃 く残す も のであ った。 そう し た祭 肥を 儒教 的祭 犯 へと改 革 し た者 が王非 であ る。 し かし、 王非 は、改革を遂 行す る中 で、次第 に前 漢国家 の祭 蔵権 を掌 握し て い った。 王斧 の墓奪 はか かる祭滴権 の掌 握を僕 って、行 われ た ので あ る。 し かし、 王弗 の下 では、儒教 的 な祭 蔵 は、 そ の理念 型 の完 成 に止 ま り、十全な施 行 を見な いまま に王非政権 は滅亡 し た。ゆえ に、 王葬 を 打倒し た後漢 の光武帝 ・明帝 ・章帝 の三代 の皇帝 は、 親 祭 に よ って天を肥 り、完 全 に儒教 的 な祭 犯権を自 己 の手中 に 一元的 に掌 握し た のであ る。 かか る後漢 時 代 の初 期 に、 「儒教国 家」の祭 蔵 の完 成を求 め る こと が でき る のであ る。 儒教国 ま た、 地方 祭記 とし て の孔 子廟祭 記 の変遷 から は、 後漢 「 家 の衰 退 ととも に、 儒教 的 祭 記 の権 限 が、 後漢 から次第 に儒教的 」 儒教国 家」 官僚 や在 地勢 力 へと移行 し た ことを理解 し得 た。後 漢 「 の完 成 期 であ る章帝 ま で の三代 は、 皇帝 自ら が孔 子廟 を訪 れ、 親 祭 を行 い、 祭鵡権 を 一元的 に掌 握 し て いた。 し かし、 外 戚 ・富 官 の専 横 によ る国 政 の私物 化 ととも に、 国家 によ る孔 子廟祭犯 が衰 退す る と、 祭肥権 の掌 握 によ り在 地社 会 への権 威 の確 立指向 を本来 的 に有 す る在地勢 力 は、儒教 的 な祭 肥を 次第 に自己 のも と に掌 握 し て いく。 後 漢 末 の在地勢 力 は、 自 己 の権 威 を 在地社会 に確 立す るため の重要 な 一手段 とし て、 か か る儒教的 祭 肥権 の掌 握を 目指 し た のであ る。 名 士」層 は、 か かる儒教的 祭 醜昔 南北朝時代 の貴族 の源流 とな る 「 犯権 の掌 握をも背 景 とし な がら、 自己 を儒教 的理念 の体 現者 と位 置 づけ、後漢国家 と は異な る自律 的 秩序 を形成 し て いく のであ る。. 注 へ ” 〉. 一四. ミミミ きき飛 き Nboミミ ミミ bS きめ 誘ミ - =&- 〜 の rにn鯖コ ミ .℃ての-bの Y慧ミ へ 穣mは、 アジアのほとんど の文化 が、権力を儀礼 き 国響くma d.ャ.- ミミミ ー とし て扱 い、儀礼 への参加を許されたのは、共同体 で最も権力 のあ る人 々で あ ったとす る。そして、中国 の正当性 の基盤は、儒教 であり、そ こでは、道 徳的観点 からしか権力を語 る ことができず、現実 の権力 ・暴力 の行使 は、道 儀礼 ー ー 文 黒 田悦子編 『 徳的な形 に変容されたとし て いる。また、青木保 ・ 東京大学出版会、 一九八八年)所収 の諸論文も参照。 化 と形式的行動 ー ー’ 』( 慧 き 誉 き話 誉 逮きゐ結飛き待還ミ蔓 閃ぬ封 の □なさ Q O コ ヨ ” 嵩 さ 電 賞 「 ① ① ド 蕊 、 9世紀 バリ の劇場国家』 ( 平 ヨ8Bコd.ャ.毎の O-小泉潤二訳 『ヌガラ ・ーー・ み 1 すず書房 一九九〇年) は、 ヒ ンド ゥー化したバリ島を儀礼 による支配 のモ デ ルとし て描 いて いる。 また、大室幹雄 『 三省堂 一九八 一年) 劇場都市』 ( は、前漢武帝 の繰り広げ る祭犯を、世界 の中心 であ る王城を劇場 に皇帝を主 人として演じられる壮麗な芝居 の演出 として組 み立てられた儀礼 として描き 桃源 の夢想 ・ ーー・ 古代中国 の反劇場都市 だして いる。 そして大室幹雄 『 』 ( 三省堂 一九八四年) にお いて、後漢 の章帝期を最後とし て、漢 の皇帝儀. 劇場国家」 礼は衰退し、それととも に漢帝国 そ のも のの生命力 が衰退す ると「 論を展開し て いる。 『 浦鮮地理歴史研究報告』六 一九 上代支郡人 の宗教思想」 ( ◎ 津田左右吉 「 津 田左右吉全集』第 二八巻 岩波書店 一九六五年 所収)は、 か 二〇年、 『 かる国家 による祭肥 の収数を祭肥 の政治的秩序 への従属 であ るとし、池 田末 中国宗教史研究 ー ー 制度 と思想 ー ー』東海大学出版会 一九八 一年)は、 利『 かかる事象を祭記 の政治 におけ る重要性を裏証す るも のであり、祭犯なき政 治はありえな いとし、 これを政治 の祭肥 への従属 であるとす る。 上海人民出版社 一九五五年)。また、西門豹 の水利事業 戦国史』 ( ④ 楊寛 『 特 にそ の成 立 の基礎条件 中国古代帝国 の形成 ー ー・ に関し ては、木村 正雄 『 不昧堂 一九六五年)を参照。 ー ー』 ( 『 東洋学報』六〇ー三 ・四 一九七九 戦国醜政権 の派閥構造」 ( ◎ 好並隆司 「 。 年) 『 史記』滑稽列仰 の後 世補 記 に つ いて 西門豹 の水利事業 ー ー’ ◎ 藤 田勝 久 「 。 『 中国水利史研究』 一九 一九八九年) ー ー」 ( 三老」と 「父老」 と いう用語 の かかる史料批判 により、 渚少孫補筆部分 の 「 河 から、戦国時代 の醜 の社会構成 や共同体内 の階級対立を論ず る豊島静英 「.

(16) . 中国古代における祭犯権. 、 『 史 「 帝国成立過程 七 神 の死L ( 好 歴 学 研 究 四 三 一 九 七 隆 九 並 司 秦 漢 年 ) 』 『 歴史評論』二七九 一九七三年、 『 におけ る小農民と共同体」 ( 秦漢帝国史研 究 未来社 一九七八年 所収)などの諸説 は、再検討を余儀無くされよう。 』 『 ◎ 三老など の郷官 に関しては、鎌田重雄 「 史潮』七ー 一 一九三七 郷官L ( 秦漢政治制度 の研究』 日本学術振興会 一九六二年 所収)、守屋美都 年、 『 『 雄 「 父老」 ( 東 史 究 洋 研 一 四 ー - 二 - 一 九 五 五年、 『 中園古代 の家族 と国 』 。 また、下級官吏を在地 の有 家 東洋史 究 一九六 研 会 八 年 所 収 ) を 参 照 』 力者層 が専有したことに関しては、増淵竜夫「 所謂東洋的専制主義と共同体」 ( 三 橋論叢』 四七ー三 一九六二年)を参照。 『 ◎ 増淵龍夫 「 中国古代史 の諸問題』 }九五四年、 『 湊代 における墾と侠」 ( 中 国古代 の社会と国家 ーー 秦漢帝国成立過程 の社会史的研究 ー ー・ 』弘文堂 。 また、林富士『 一九六〇年 所収) 漢代的聾者』 ( 楢郷出版社 一九八八年) も参 。 照 『 ⑩ 好並隆司 「 中国古代祭天思想 の展開」 ( 思想』六〇八 一九七五年、『 秦湊 帝国史研究』前掲 所収)は、君主 が民間 の祭記を禁止す る理由を、本稿 と は異なり、民 の怨 みを君主 に届 かなくす ることに求 めて いる。 回 始皇帝 およ び秦 の祭肥に関しては、栗原朋信 「 始皇帝 の泰山封輝と秦 の郊 『 鵡」 ( 中国古代 の社会と文化』 一九五七年、 『 秦漢史研究』吉川弘文館 一九 六〇年 所収)を参照。 『 ⑩ 好並隆司 「 中国古代 におけ る山川神祭肥 の変貌」 ( 岡山大学法文学部学術 。 紀要 三八 一九七七年、『 秦漢帝国史研究 前 掲 所収) 』 』 『 ⑩ 志田不動麿 「 漢 の高祖 の宗教的祭記 (一) ( 二)L ( 歴史教育』九ーニ、三 。 一九三四年) 回 「 天下 一家」の意義 と構造 に関しては、尾形勇 「 湊代 におけ る 『 天下 一家』 『 に ついて」 ( 榎博士還暦記念東洋史論叢』 一九七五年、『 中国古代 の 「 家」と 国家 岩波書店 一九七九年 所収)を参照。 』 『 漢代政治思想 の 一側面」 ( ㈲ 津 田左右吉 「 痛鮮地理歴史研究報告』 一一 一 九二六年、 『 津 田左右吉全集』第 一七巻 岩波書店 一九六五年 再録) は、 楽浪郡出土 の銅鐘 の 「 孝文廟」 の銘を論拠 に、郡固 のす べてに廟を立てたと 考えてよ いとす る。 そして、郡圃廟を 一種 の帝王崇拝を民 に強 いるも のであ 漢 し り、宗教的儀礼 室 の 権 威 を 確 立 に よ で り よ す る の う も あ る と 意 義 づけ と 『 て いる。また、板野長八 「 前漢末 に於ける宗廟 ・郊記 の改革運動」 ( 中国古 代 におけ る人間観 の展開』岩波書店 一九七二年)は、郡圃廟設置 の理由を、 一種 の家産国家を作 ろうとす る君主 の意図に求 めて いる。 圃 前漢 の武帝 の封騨 に関しては、 顧韻剛『 湊代学術史略』( 上海亜細亜書局 一. 九三五年、 『 秦漢的方士与儒生』として 一九五五年 上海翠聯出版社より修訂 、 『 。吉口 ト 官書店 一九七八年) 肘 多 叫 彦 再版、小 倉 芳 彦 等 訳 国 中 古 の 学 代 術 と 政 治 大 橿 修 館 』 漢 の武帝』 ( 岩波書店 一九四九年、 『 川幸次郎 『 吉川幸次郎全集』六 筑摩 書房 一九七四年 に改定 のうえ所収)などを参 。 照 『 加 金 子修 一「 中国 ー ー 郊詑と宗廟と明堂及び封輝 ー ー・ 東アジア世界 にお L( け る日本古代史講座』第九巻 東 アジアにおける儀礼 と国家 学生社 一九 。 八二年). ◎ 漢王朝 の淫嗣 への対応 に関しては、 ルド ルフ= ヘルシャー著、福井重雅訳 「 『 淫犯および淫嗣 の考察 漢 文化』四 一九六三年)などを参照。 醜 ( 」 『 側 藤 川正数 「 郊犯制 に ついて」 ( 漢代におけ る礼学 の研究』増補版 風間書 、注靭所掲金子論文などを参照。 房 一九八五年) 『 ⑩ 藤 川正数「 前漢時代 におけ る宗廟礼説 の変遷 とそ の思想的根底」 ( 東方学』 。 これ 二八 一九六四年、 『 湊代 におけ る礼学 の研究』増補版 前掲 所収) に対す る批判とし て、伊藤徳男「 前漢 の宗廟制 ー ー・ 七廟制 の成立を中心 とし 『 ーー ( て・ 東北学院大学論 歴史 学 ・ 地 理 学 一三 一九八三年) があ る。 集 」 』 『 仰 津 田左右吉 「 儒教 の磯柴説 (: 〜 ( 七) 東洋学報』一九ー 一〜二〇1三、 」( 一九三 一〜三三年、 『 津田左右吉全集』 第 一六巻 岩波書店 一九六五年 再 『 録)、藤 川正数 「明堂制 に ついて」 ( 漢代 におけ る礼学 の研究』増補版 前掲 所収)を参照。 『 ⑩ 安居香山「 王斧と符命」 ( 漠魂文化』四 一九六三年、 『 緯書 の基礎的 研究』 。 漢醜文化研究会 一九六六年 所収) ◎ 安居香山 「 圃識 の形成 とそ の延用 ・ ーー 光武革命前後を中心 とし て ’ ーー 『 、平秀道「 東方学』二七 一九六四年、 『 ( 緯書 の基礎的研究』 前掲 所収) 後 、 日原利圃 「 『 漢光武帝 と闘識L ( 竜谷大学論集』三七九 一九六五年) 災 異と 『 識緯 ー ー 漢代思想 へのアプ ローチ ー ー. 東方学』四三 一九七二年、 『 漢 」( 、町田三郎 「 代思想 の研究』研文出版 一九八六年 所収) 後漢初期 の社会と 『 思想」 ( 集刊東洋学』 二八 一九七三年)などの諸研究を参照。 『 仰 安居香山 「 後漢 におけ る受命改制 と緯書思想」 ( 緯書 の成立とそ の展開』 国書刊行会 一九七九年)、堀池信夫 『 漢醜思想史研究』 ( 明治書院 一九八 八年)などを参照。. 筋 影山輝園 「 湊代 におけ る災異と政治 ・ ーー 宰相 の災異責任を中心に - ーー- 」 『 。 史 ( 学 誌 雑 九 ○ ー 八 一 九 八 ) 一 年 』 ㈲ 「乙瑛碑 は 額 がな 、 題 で呼ばれてきた。最も古 い著録 は 『 種 の く 称 々 別 集 」 古録版尾 巻二にみられ、獣陽修 は 「 後漢魯相置孔子廟卒史碑」と称し た。 』 洪通は、『 隷樺』巻 一に 「 孔廟置守廟百石碑」と題して全文を採録した。 そ の. 一五.

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