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横光利一「蠅」論 : 制度としての同化読みと人間中心主義・批判

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Academic year: 2021

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(1)Title. 横光利一「蠅」論 : 制度としての同化読みと人間中心主義・批判. Author(s). 田口, 耕平. Citation. 国語論集, 18: 149-154. Issue Date. 2021-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/11655. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 制度としての同化読みと人間中心主義・批判. 横光利一「蠅」論. ─. 田口. 耕平. むしろ、このテキストは本 来 同 化 し得 ないよう な物 語 でも、生 徒 たちが積 極 的 に同 化 を図ろう として読むことで誤読 へ導 いていく悪 質 な教 材 であり、逆 に言 えば、導 かれた誤 読 を表 現 に即 した授 業 を行うことで変容させることのできる良質な教材として存在してい るのではなかろうか。. 2 生徒の 「メタ認知」 農婦への同情と馭者への悪罵. 生徒たちは農婦へ過剰に肩入れする。それは彼女の息子が危篤で あり、す ぐさ ま彼 の住 む街 に行 きたいという思 いがよくわかるから である。それとは対照的に馭者は農婦の焦りを目の当たりにしなが ら何もしない。しないどころか将棋にうつつを抜かし、饅頭の蒸し上 がりを待ち、馬車を出したがいいが、饅頭を食べて居眠りをし、乗客 を死 に至 らしめるのだから救 いよう のないダメ人 間 だと考えるので ある。彼らの 「メタ認知」はそういった常識的な善悪の物語として成 立 す る。表 層 的 には確 かにそう 言 えないわけではない。けれど、そ れだと極めて一面的にしか、このテキストを捉えたことにはならない のではないか。. ( 149 ). 1 「蠅」に教材価値はないのか? 難波博孝が 「『 終 わり』を消 費 さ せる 『蠅 』」(『〈新 しい作 品 論 〉へ、 〈新しい教材論〉へ2』 1999 右文書院)で 「蠅」は教材として使えない と断 じた。難波 は授 業の目的 を読 み手のメタ認知の変 容に置 いてい る。ところが、 「蠅」を読んでも 「物語世界に参入 し登場人物と共に 生 きる、つまりある程 度 の同 化 」が起 きることもなく、ただ登 場 人 物 たちは脈 絡もなく死んでしまい、そこにあるのは 「目 に見える 『終 わり』を事態の外側で消費させられる」だけだと言うのである。 なるほど、そういう教材もあるのかもしれないと授業前には感じ ていたのだが、実 際 の授 業では生 徒 たちは、難 波 論 とは全 く違 う 読 みに向かうことが明らかになった。彼らは 「蠅」を不思議な話だとし ながら、登 場 人 物 の農 婦 に身 を寄 せて読 む。同 時 に農 婦 に対 し不 誠実な馭者に対して、 「ダメ人 間」「クズ人 間」という悪罵でもって批 判するのである。難波の言うように決して他人事としては読まなか ったのである。 難波論に関しては山﨑義光が 「教室のなかの 『蠅』と文学史のなか 「『教材の限界』というよ の 『蠅』」(『国文学解釈と鑑賞』 2007.2)で りは、むしろ、 『同化読み』の限界を露呈させるテクストだというべき である」と指摘す る。しかし、それでは難波の言う同化ができないか ら教材価値がないという主張と変わるところがない。. −149−.

(3) れしや」と感嘆し、 「いつ出 しておくれるのう」と再度せがむ。対して 馭者は 「 二 番 が出 るわい」と繰 り返 した後 で 「 ぽんと歩 を打 」つ。農 婦は更に 「せがれが死にかけていますのじゃ、間に合わせておくれか のう?」と、また同じセリフを繰り返す。この切迫した農婦の振る舞 いと繰り返される焦りの言葉が生徒 たちに 「可哀想な農婦像」を形 成 さ せ、一 方 で 「 不 誠 実 な馭 者 像 」も同 時 に作 り上 げるのである。 しかし、本当にそうだろうか。馭者は 「不誠実なダメ人間」なのだ ろうか。 まず 、馭 者 は農 婦が歩 き始 めたのを認め 「二 番が出 るぞ」と言う。 それがいつなのかを言 わないのは不 誠 実 かも知 れないが、二 番 馬 車 が出ることを伝え、歩くよりはましだろうと示すのは親切心からだ ろう。 また 「 間 に合 わせておくれかの? 」に対 す る 「 桂 馬 と来 たな」とい う無関係に思える発言は、桂馬という駒の動きの特徴に沿って考え ると実 に象 徴 的 なものになる。桂 馬 は他 の駒を飛び越 え、かつそれ までいたマスから一 つ左 右 いずれかにズレる性 質を持っている。 「間に 合 わせておくれかの? 」が 「 急 いでくれ」という 意 味 なら、そこに桂 馬を持ち出すのは、飛び越えて急いでも道から外れるぞという警告 とも取 れる。更 に 「 いつ出 しておくれるのう 」という 懇 願 に対 し 「二 番が出 るわい」と 「ぽんと歩 を打 」つ動 作 にも意 味 があるだろう。歩 という駒は真っ直ぐ愚直に一つ一つしか進めない。桂馬のように慌て ると道を外してしまう、だから自分は歩のように一歩一歩ゆっくり 進 むのだという 馭 者 のメッセー ジが、ここに込 められてはいまいか。 もちろん、そこまで深 読 みしていいのかという 問 題 はある。しかし、 第 四 段 落 に登 場 す る若者 と娘 の関 係 が、どう みても 「駆 け落 ち」で あり、彼らの未 来 を予 見していることを思 うと、将棋の駒にある種 の象徴性を見出すのも強ち無理筋とは言えないのではないか。 一 方 、農 婦 は 「 桂 馬 と来 たな」に対 し、聞 こえなかったのか、それ. ( 150 ). 3 空虚 この作品は 「真夏の宿場は空虚であった」と書き出される。続く第 三 段 落 の書 き出 しも「 宿 場 の空 虚 な場 庭 へ一 人 の農 婦 が駆 けつけ た」と 「 空 虚 」が繰 り返 さ れる。第 一 段 落 で 「 蠅 」、第 二 段 落 で 「馬」 「馭者」「将棋の相手」が出てくるわけだから、宿場に誰もいないわけ ではない。とす れば 「 空 虚 」が示 す のは宿 場 に馬 車 の乗 客 がいないこ とを示すのだろう。だから 「一人の農婦」が登場した途端、 「空虚」は 消えてしまう。 「 空 虚 」は当 然 充 実 を求 める。農 婦 に続 いて母 子 、田 舎 紳 士 、若 者と娘と乗客が徐々に増えていく。この宿場の馬車がいつ出るのか、 定時なのか、随時 なのかは、この時 点ではわからないが、 「空 虚」とい う 表 現 で宿 場 の場 庭 という 空 間 が乗 客 の充 実 を待 つ場 所 なのだと いう ことはわかる。つまり、 「 一 人 の農 婦 」だけでは馬 車 は発 車 す る わけがないのである。 4 農婦と馭者の対話 生 徒 が最 初 に苛 立 つのは第 三 段 落 の農 婦 と馭 者 の対 話 である。 息 子 が危 篤 の電 報 を受 け取 った農 婦 は同 じ言 葉 を三 度 繰 り返 す。 「馬車はまだかのう?」のリフレインは農婦の切迫した状 況をよく表 している。饅 頭 屋 の主 婦 の 「 先 刻 出 ましたぞ」という 返 答 に 「もう ち と早 よ来 るとよかった」と反 省 しながら「もう 出 ぬじゃろか? 」と言 って泣 き出 す 。街 へ歩 き始 めると、よう や く馭 者 が 「二 番が出 るぞ」 と答える。しかし、それは 「将棋盤を見つめたまま」であり、そこに誠 実さは感じられない。更に農婦が 「せがれが死にかけておるのじゃが、 間に合わせておくれかの?」と尋ねると、馭者は何の関係もない 「桂 馬と来たな」と声を発する。農婦は何を勘違いしたのか 「まアまアう. −150−.

(4) い蒸 し立ての饅 頭 に初 手 」をつけるのが馭 者 のルー ティンなのである。 そして、それが 「その日 その日 」に繰 り返 さ れるのは、 「二 番 」の馬 車 が、ほぼ定 時 に、饅 頭 を食 べ終わった時 に出 発す ることになっていた からであろう。だから、馭者はのんびりと将棋を指し、やって来る至 福の時を待っているのだ。 生 徒 たちが 「 息 子 の危 篤 と饅 頭 を天 秤 にかけるのは許 さ れない」 と語 るとき、馭 者のそういった日々 の営 みという 視 点が生徒 たちに はす っかり欠 けている。それを授 業 で明 らかにしなければ、彼 らは 地の文の語り手の騙りに取り込まれてしまうことになるだろう。. とも自 分 の都 合 の良 い解 釈 を加 えたのか 「 まアまアう れしや 」と感 嘆 している。つまり農 婦 には他 者 の言 葉 が聞こえていないか、あるい は聞 こう としていないのだ。馬 車 がいつ出 るのかという ルー ルもお構 いなしで、自分の置かれた立場こそが一大事であり、その他のことに は全 く考えの及 ばない独 りよがりの人 物 として農婦 は描 かれている のである。むしろ、無 駄 口 を叩 かず 、余 計 な情 報 を加えない馭 者こ そ誠実な人物なのかもしれないのだ。 5 地の文の語り手の騙り. 馭 者 は饅 頭 を食 べることで居 眠 りをし、乗 客 を死に至らしめる。 だから、馭 者 はダメ人 間 と貶 められる。しかし、彼 を居 眠 りに誘 っ たのは、別の理由がある。馭者は積 み重ねてきた日常とは違う行動 を取 ってしまったのである。そのことを説 明 す るためには、馭 者 に至 福 を与 える蒸 し上 がった饅 頭 がどう なったかを確 認 す る必 要 があ ろう。 蒸 し上 がった饅 頭 は馭 者 の口 に運 ばれたのではなかった。 「 綿のよ う に膨らんでいる饅 頭を腹 掛けの中へ押 し込むと馭者台 の上 にその 背を曲げた」とあって、 「腹掛け」に 「押し込」まれたのである。生徒の 疑 問 の中 に、こう いう ものがあった。 「 潔 癖 だという のに、なぜ饅 頭 を腹掛けの中に入れたのか。汚いのでは?」という問いだ。この問いを 突 き詰 めていくと生 徒 たちが読 んでいた世 界 と違 う 世 界 が見 えて くるだろう。 「その日 その日の、最 高の慰め」であった 「誰も手をつけない蒸し立 ての饅 頭 に初 手 」をつけ、ゆっくり味 わうことが、その日 の馭 者 には 出 来なかったのである。 「腹 掛けの饅頭を、今やことごとく胃の腑の. ( 151 ). 6 禁を 破る馭 者. 生 徒 たちが、農 婦 が可 哀 想 、馭 者 が不 誠 実 と捉 えるのに寄 与 し ているのが第七段落に現れる謎の語り手である。 「馬車は何時になったら出るのであろう。宿場に集まった人々の汗 は乾 いた。しかし、馬 車 は何 時 になったら出 るのであろう 」あたかも 農 婦 のセリフのよう に同 じ言 葉 を語 り手 は繰 り返 す 。ここで用 いら れている 「しかし」という逆 接は 「 人々 の汗 は乾 いた」という 時 間 の経 過を受け、 「それなのにしかし」馬車が出ないことを批判的に捉える ために用 いられている。つまり、語 り手は最 も焦っている農婦側に立 っているのだ。 更 に、いつ出るのかという問いに対する答えを 「これは誰も知らな い」としつつ、 「饅頭」は知っているのだと説明する。馭者は 「誰も手を つけない蒸し立ての饅 頭に初手をつける」のが 「最 高の慰め」とあって、 馬 車 の出 ないのは馭 者 が饅 頭 を食 べたいから、と問 題 を矮 小 化 して 読者に伝えるのだ。 しかし、読むべきところは、そこではない。 「それほどの潔 癖から長 い年 月 の間 、独 身 で暮 らさ ねばならなかったという 彼 のその日 その 日 の、最 高 の慰 めとなっていた」という 記 述 こそが重 要 なのである。 結婚もせずに 「潔 癖」に、長年「その日 その日」の 「誰も手をつけな. −151−.

(5) 中 へ落 とし込 んでしまった馭 者 は」「 居 眠 りだした」と居 眠 りの原 因 を 「饅頭」を食べたことだと語り手は説明する。 しかし、ここもよく読 まなければ、読 み違 いを起 こす 。 「 押 し込 ま」れた 「饅頭」は 「食 べられた」のではなく 「落とし込んでしまった」の である。 「最 高 の慰 め」であったはず の 「饅 頭 」が胃 の腑 の中 に落 ちて いく。これは何を示しているのか。 馭者は 「最 高 の慰 め」を犠 牲 にして、ルー ティンを破ってしまった。 つや つや の蒸 し立ての饅 頭 を食 べる間もなく腹 掛 けに押 し込んだの は、 「 いつ出 るのか」を繰 り返 す 農 婦 の境 遇 に同 情 してしまったから だろう。 「その日その日」と繰り返され、積み上げてきた饅頭を味わ う ルー ティンを放 棄 し、危 篤 の息子に思 いを馳せる農婦の気持ちに 馭者は、つい忖度してしまった。だから、饅頭は第三段落から流れ続 けている番 茶 とともにゆっくり楽 しみ味 わう ものではなく、馭 者 台 の上 で胃 の中 に落 とし込 まれなければならなくなったのだ。その非 日常的行為こそが居眠りを誘ったのである。 だとすれば、そこにあるのは馭者の善意である。 「乗 っとくれや ア」と言 った時 に、既 に農 婦 は馬車 に乗 り込んでい る。その無言の圧力に馭者が屈したとも言えよう。 こう読むことで生徒たちからダメ人間、クズ人間扱いを受けた馭 者 を救 う ことができただろう 。しかし、これだけで果 たして 「 蠅 」を 読んだことになるだろうか。やはり、蠅そのものに触れておくべきだ ろう。 7 蠅と男の子 馬 車 の乗客 の死 に至 る因 果 は既 に読 んだ。しかし、そこに蠅と母 子は関与しない。 彼らの役割は一体何だろうか。蠅と男の子(母親はその承認者と. して存在する)両者の特質は 「見る」ことにある。たとえば男の子は、 見 たものに素 直 に反 応 す る。馬 を見 れば 「 馬 々 」と言 い、梨 を見 る と 「 梨 々 」と言 う 。母 親 はただその言 葉 を復 唱 す るだけだ。幼 児 が ある対 象 の名 前 を知 り、それを何 度 も繰 り返 し言 う ことで、言 葉 を獲得していくプロセスが男の子の行動である。 成長過程の男の子は大人たちの事情には関わらない。ただ見る人 である。その意 味 で蠅 と変 わらない。実 際 、第 六 段 で、乗 客 全 員 が 揃った場面には、なぜか母 子の姿はない。それは男の子が、厩の前に いるからである。その時 、蠅 はまだ馬 の腰 辺りに留 まっているはずだ から、必 然 、男 の子 は蠅 と共 にいることになる。しかし両 者 は全 く 違 う結 末を迎えてしまう。男の子 は死に、蠅は 「悠々 と青空の中を 飛んでい」く。この違いはどこから生まれるのだろう。 蠅 は最 初 から「 目 の大 きな」と形 容 さ れ、終 盤 になって物 語 世 界 に呼び戻される。第九段では 「目の大きなかの一匹の蠅」、第十段で も 「 かの目 の大 きな蠅 」と呼 称 さ れる。人 々 から嫌 がられる害 虫 と して飛 び回 る蠅 ではなく、極 めて特 権的な名 指しされた蠅である。 この点 でも何 ら背 景 を持 たず 、母 親 を除 く他 者 と関 係 を結 ばない 男の子とは対照的ではある。 しかし、それだけでは男 の子 の役 割を十全 に捉えたことにはなら ない。 「ひとり車体の柱を握 って、その生き生きした目で野の中を見 続けた」男の子が、最後に見たものは何であったか。 「お母ア、梨々」 「ああ、梨々」 田舎 紳 士の饒舌の中身は一切わからないのに、この母子の会話だ けがぽつねんと記 述 さ れている訳は何 か。それは、 「 かの目 の大 きな 蠅」が、この男の子の視線を受け継がねばならないからである。人間 の視 線と蠅の視 線が 「梨」によって接続されるのだ。蠅は 「押 し黙った 数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光を受けて真っ赤に映えた赤土の. −152−. ( 152 ).

(6) 断 崖を仰ぎ、突 然に現 れた激流を見下ろし」と男の子が 「生き生き と」見ていた 「梨」を 「梨 畑」として広範 囲に 「眺 め」、 「断 崖を仰ぎ」、 「激流を見下ろ」す。縦横に視線を走らせるのである。一方、人間は 見たいものしか見ない。極めて主観的な人間の視点に対する相対化、 蠅の役割はそこにある。 一 見 無 垢 に思 われる男 の子 の視 線 だが、それは言 葉 として把 握 しているものだけに向けられている。 「馬」も 「梨」も、その言葉を知っ ているからこそ、目 を向 けるのだ。それは農 婦 の視 線 にも言 えるだ ろう。 「真っ先に車体に乗 り込むと街の方を見続けた」農婦にとって は危 篤 の息 子 のことしか見 えていない。馭 者 は 「饅 頭 屋 の主 婦 の方 へ 頭 を向 け」る。 「 最 高 の慰 め」である 「 饅 頭 」しか見 えていない。田 舎 紳 士 は懐 の八 百 円 によって 「 未 来 」をどう「 画 策 」す るか、将 来 の夢 を見ている。娘は重たい荷物を抱える若者しか見ない。それぞれが、 それぞれの思 惑 で見 たいものだけを見 ているのだ(人 間 ではないが、 馬 車 を引 く馬 は 「目 隠 し」の中 に現 れる 「 路 」の一 部 しか見 ることが 出来ないように設定されている)。 男 の子 の視 線 は、言 葉 によって世 界 を分 節 化 し、そこから様 々 な 偏った視線(物の見方)を形成していく人間の 「原初」の姿を象徴して いるのではないか。たとえば、農婦は息子からの電報をもらって早く 街 に行 きたいと思 い始 め、それに囚 われ続 けている。その電 報 には 「 ムスコ キトク ハヤク」という よう な文 字 が並 んでいたのだろう。 その 「キトク」という文字・言葉が農婦の視線を決定している。もしか すると息子は危篤ではなく、金を無心するため嘘を吐いたのかもし れないのだが、印字された 「キトク」という機械的な文字は全てを決 定 的 なものにしてしまう 。つまり言 葉 によって視 点 を定 めるのが人 、子 、か 、ら 、」来 ており、 間 なのである(実 際 に電 報 は 「 街 に勤 めている息 危篤の息子が電報を打てるはずもないゆえ、息子の騙りの可能性は ゼロではない。傍点筆者)。. 人 々 や 馬 の狭 窄 した視 野 。蠅 はそれを一 気 に相 対 化 す る。そし て、その視 線は人間にとって冷徹 ・非情なものである。蠅は墜 落した 人馬を 「圧し重なった人と馬と板片との塊」と、単なるモノとして見 る。そこにあるものはそこにあるものに過ぎない。人の死もまた、単 なる物体の停止に過ぎない。そこには人間の生の不条理もなければ、 運 命 の皮 肉 さ えない。 「 一 寸 先 は闇 」なのは極 めて常 識 的 な考 えに 過ぎない。そういった観念さえ打ち壊し、人間中心の物語を批判す るのが蠅 の視 線であり、 「蠅 」という テキストなのではないだろう か。 そして、それはまた農 婦 の視 点 に荷 担 して読 む、生 徒 たちの読 みの 姿勢をも批判するものになるだろう。. ( 153 ). 8 まとめ 制度化されたメタ認知. 生 徒 の感 想 の中 に 「あの母 子 は、何 の目 的 で馬 車 に乗 るのかわか らないから、必要のない登場人物ではないか」というものがあった。確 かに生徒たちの読 みの範疇では母子に存在価値はない。更に言えば、 題名になっている 「蠅」も必要のない登場人物であろう。 息子の死に目に間に合 わせたいと願 う農婦とそれを邪魔す る馭 者 の物 語 と読 んだ場 合 、両 者 以 外 は単 なるノイズ、不 要 な登 場 人 物になってしまうのであろう。 しかし、そのよう に考えてしまう のは、生 徒 たちが登 場 人 物 に同 化 し、感 情 移 入 す る読 みをこれまで徹 底 的 に繰 り返 してきたから だろう。どんな物語も主人 公がいて、その内面の変化を追う読みを これまで生徒たちは積み上げてきたのだ。あるいは強いられてきたの だ。だからこそ彼らは、この 「蠅」というテキストでも徹底した同化読 みを行い、自らのメタ認知を無理矢理拵え上げたのではないか。 つまり、制度としての同化読みにすっかり侵されているのだ。 それゆえ難波論の指摘はその根底から崩れる。難波は、ある程度. −153−.

(7) ( 154 ). 読 解 力の育 った大学 生に読ませてデータを取 ったために同化 しない と断 じたのだろうが、この作品 を読 む九割 の生 徒 は初読 時 に 「馭者 はクズ人 間 、ダメ人 間」と感じるのである。そう いった誤 った 「メタ認 知」に自然と導 くように出 来上がっているテキストがこの 「蠅」なので ある。しかしその 「メタ認 知 」は丁 寧 な読 解 によって打 破 し得 るもの である。つまり、 「 蠅 」は、 「 メタ認 知 」を軽 や かに変 容 さ せるのに最 も適したテキストと言える。 「 蠅 」は難 波 の言 う「 教 材 として限 界 」を示 す ものではない。同 時 に山﨑の言う「同化読みの限界」を示すものでもない。そうではなく、 制度化した国語の授業における 「過剰な同化読み」を引き起こすテ キストであり、一方 で蠅の視 線によって人 間中心 主義 を批判す るテ キストでもある。 ※使用テキスト 東京書籍『精選現代文B』 (たぐちこうへい/北海道帯広柏葉高等学校). −154−.

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