寛政期の森島中良
ー戯号「築地善交」
安永から天明にかけての戯作者森島中良については、風来山人 平賀涼内の門人として、狂歌師竹杖為軽として、また黄表紙作者 万象亨.洒落本作者天竺老人としてその活躍の広範だったことか らも言及されろことが多い。 一方、瀾学者森島中良についても、代々の奥医師桂川家第四代 甫因の弟という立場から、またr紅毛雑話」r類棄紅毛語訳」な ど数々の学術也を著した啓蒙家として、語られることが少なくな ヽ 本稿では、一度捨てたかに兄えた戯作の策を、中良が再び執ろ ことになる寃政期に視点をおき、特にこの時期の黄表紙三作とそ こに記された戯号「築地陪交(善好)」を中心に考察を加えたい。 そ してこの、言わば戯作から学術への過渡期の考察を通して、従 来個々の営為についてのみ云々されがらであった中良を、全人格 的に把え直す試みへの―つの足掛りとしたい。 天明七年中に 、何らかの理由ー南畝・春町・喜三二ら武士階 (江1) 級の戯作者達と同様、その直接原因が所謂究政の改革にあっただ ろう印は想像に雖くないーで戯作の策を絶った中良は、七年後 (注2) の寃政六年、黄表紙r竹斎老宝山吹色」を出して戯作界に復活す るかのように見えたが、翌七年にr相州小田原相談」八年にr中 (注3) 邪手本阻人蔵」と、三年迎統一作ずつの黄表紙を世に問うたのみ で沈黙し、三たび黄表紙の箪を執ることはなかった。 (注4) それ以前に、一、二の習作的黄表紙はあったものの、天明四年 刊のr万象亭戯作濫態」またr従夫以来記」で、言わば阻物入り (注5 ) の黄表紙界登場を為した万象亭は、以後「新義経細見蝦夷」(天 明五刊)、「好吐R鉄砲桃灯具羅」(固)、r大笑止運の鐘入」 (天明六刊)‘r匹”致消塔之瞑」(同)、「 七 福神伊達船遊」 (同)、r四天王荊棘鬼噺」(同)、『祖tmも?んじい」(同) 、 r色男其所此処」(天明七刊)、r祖伍御年玉」(固) と、天明についてーー_
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(注6) 六年を碩点と した四年間に、現在見得る限り十 ー作 の黄表紙を版 行した。そして、こ れらの黄表紙に記された戯号は、竹杖為軽を 除き、万象亭・万象・万ぞう・万そうと、すべて「万象亭」に関 わるものであった。 とこ ろが 寛政期に世かれた 「竹斎老宝山吹色」 r相州小田原相 談」 「中華手本店人蔵」 ( 以下各々をr竹斎」「相州」r因人蔵」 と略称する)には、それぞれ 「築地 善交」(15丁ゥ)、「築地善好」 (序・15丁ウ)、「善交」(叙・15丁ウ)と、黄表紙は勿論、他 .のどの作品にも未だかつて記されたこと のない戯号が 使われるの である。中良がこの戯号を 記した寛政五年は、また芝全交の没し た年でもあり、この甲が後年「晩年、(中略)芝全交の門に入っ て築地善好と梱した 。」(r日本文学大辞典」 )という誤りを触発 したのでもあった 。これに ついて水谷不倒氏はr草双紙と読本の 研究」で、 「増補冑本年表」 の例を指摘されたが、この誤解はさ らに古く、享和二年刊の式亭三馬作r虹踪稗史億説年代記」にも (注07) ・「芝全交が社中万象亭、雙紙を作る」(loTオ)と見える 中良の戯号については、既に「森島中良 晩年探索ー'ある いは 一文人の言語宇宙ー」(r日本文学」第32巻第1号)で岡田袈 裟男氏、「 万象卒の戯作」( 「語文研究」第52.53号)で園田豊 氏が、それぞれ「この人のさま ざまな顔がいろいろな叩名によっ て使い分けられ、それぞれの為 事の質に深いかかわりがあること がわかっている。」「その点中良になにがしか使い分けの意識があ ったのかもし れない?」とされ ているよう に 、困実、一応の使い分 (118) けがなされている。そうであるならばそれ以前に「築地善交」と 記した黄表紙 がある筈なのにそのような 例はなく、そう でなくと もこの 戯号は彼の他の戯号と比べて余りにも印象が異なるのであ る。さ て、この点については水谷氏の前掲困が示唆 に世んでいる 天明期にあっては、萬象亭又は竹杖為親 の名を用ひてゐたが、 寛政になってからは、築地善好の名を用ひた。此善好の名は、 従来芝全交と登音が同じで ある所から、な 雙紙には用ひ なか (119) ったのである。然るに全交は究政五年に歿し、支阻がなくな った の で用ひることになった。こんな甲情から菜象亭を芝全 交の弟子といふ説もある(r頃補育本年表」 )。 併し之は誤 りでなくてはならぬ。築地菩 好の名は、早く用ひてゐた。其 證は、天明二年刊r菊壽草」芝全交作のr大退賓船」の註の 内に「是はつき地にあらぬ芝の先生」とあるに由って知れる。 又賓際淡象亭が全交から學ぷ何物があらう。 実際、戯作者として登場する以前の安永期に、表記こそ述えこ の戯号は中良によって 用いられていたのであった。森銑 三氏 「恋川春町作二小経の発見」(r森銑三若作集第一巻」 所収)に
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見える、都立図宙館東京誌料所蔵の滑稽本「営世杜選商」祓文の 例が それである。 本文は前記の「灸すへ」で終つて、「丁酉の顔見せ、筑知 前公題」とした祓文 がある。筑知前公は築地善好であり、桂川中良その人 であ ること が直ぐに知られ る。次に「安永七戊 戌正月、咎邸鱗形屋孫兵衛蔵板」の刊記がある。 安永七年といえば、黄表紙の祖と目される「金々先生栄花拶」 (安永四刊)以来、 r化物大江山」r其返報怪鼓」r高慢斎行脚 日記」(以上同五年刊)、 r三升増鱗祖」(同六年刊)と、 ま さ に油の乗った春町が、喜三二と共に不動の名声また黄表紙界の屋 ·40骨を確立しつつあった時期である。もし、 r 吟 3世杜選商」が、 但しこの本には也帥で持へた也物の持つ商品臭といふぺきも のがない。.鱗形屋で版にし たのにもせよ、賣は春町が註文し て持へさせて、初春の配り本にでもし たのではあるまいか。 (森銑三氏前掲昏) といった性質のも のであったにしろ、春町の作中で「頻見せ」 を するとは、戯作 者を志す 中良にとって大変なお墜付きであっただ ろう 。 もし中良が、この まま「筑知前公」の戯号ですんなりと戯作を 苔き始めていたな らば、あるいは「芝全交」の登場はなかったか も知 れない。と言うより、おそらく狂言師山本藤十郎は別の戯号 を用いて黄表紙を掛いただろ う。 さらには「万象亨」の名もつい に見えず、「筑知前公」が r従夫以来記」や「田舎芝居」を苔い ていたか も知れない。 しかし実際には、lJJはそう迎びはしなかった。春町の作中で顔 見せをした筑知前公であったが、こ の年すぐに戯作の策を執りは しなかったよ うである。この年即ら安永七年、中良は源内作の浄 瑠璃r蘇aC荒御国新田神芭(安永 八年二月二日初屈)に 補助と して加わり、 「鎌倉御所の段」及び「矢口神前の段」を甚き、こ れと相前後して同じく源内作「翌験宮戸川」(安永 九年三月三日 初演)の「若宮御所の段」を告 く。 さらに今度は自らが主となり
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山比汲塚」(安永八年七月七日初碩)の「中之巻三 場」「大島村の段初」を執筆する(r蜀山人判取帳」による)。 即ら、安永七年から八年にか けて、おそらく中良は浄瑠璃本の執 知に没頭していたものと思われる。このことはまた、中良にとっ て源内との一体感を強めるという、極めて阻大な意味を持っても (注D)、
.)0 9t そして安永 八年十一月から十二月にかけて、敬愛する瀕内は刃 侶沙汰の果て、牢死する。この事件によって中良は、翌九年の源 内追文集と言うぺきr風来六部集」に「下界囮士天竺老人」の名 で序を寄せ、同じ戯号で追文「金の生木」(安永八年二月成)に 序を由く等、思わぬ一人立ちを余儀 なく されると共に、戯号「筑 (注u) 知前公」から はますます迫ざかって行った。 このように、中良が「筑知前公」あるいはこの戯牙を以て登場 すぺく目論んでいたであろう 戯作界から離れていた間に、もう一 人のゼンコウ即ら芝全交が、安永九年刊の黄 表紙二作r 時花分孤 茶曾我」r氾袋豊物語」をもって登場する。翌十年(天明元年) 刊の全交作 黄表紙は、七作中六作 がr匹叩5菊寿草」さらに天明二年の二作が「
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虹岡目八目」に採られるなど、全交は没年寃政五 .年まで の十四年閻、常にヒットメーカーで あり続け、戯作界 には 「筑知前公」のつけ入る隙はなかった。一方 中良にし たところで、 天明元年のr真女意題」 以降翌年まで は「天竺老人」の戯号で数 絹の洒落本を困き、天明三年からは「竹杖為軽」翌四年から「万 象亭」と、次々と新しい分野に進出して、戯作者としての名も上 がり、 「筑知前公」に拘泥す る必要もなかった。 このように、少な くとも安 永九年以後は、表向きには使われな かっ た筈の「筑知前公 」であったが、「芝」と「築地」の詑乱が あ っ たこと は、先に引用した「菊寿在」の例がこれを示している。 「菊寿草」の絹者である大田南畝と中良とは、源内を迎じての古 くからの知己同士であり、そ の交流が中良の晩年まで続いたこ と (注12) は南畝の「一話一言」によって知れるから、この例は信用して良 い。さらに r菊寿草」から四年 後、「杜選廂」か ら数えれば七年 後の黄表紙「茶歌刃妓茶目傘」(天明七刊 )で、全交自身次のよ うな進上を述ぺている(10丁ゥ、和田泣吉氏校訂、「新型名著文 印、赤本・胃本・照本」前編、昭3.l.20、宮山房刊 による)。 しばいにあ らぬ 芝ぜんこううそをつきぢにまらがへどもつき ぢハまんざう…… つまり「芝全交を築地(善交•前公)にfUI述えるが、築地G西交 ••前公)は万象であって芝(全交)ではない。」という ことであろ スノ 天明六、七年といえ ば、万象亭の戯作者とし ての地位も固まり、 これ以後には本樅の主眼である党政期の三作しか見えないのにも 拘らず「稗史低説年代記」で「名人戯作者六家撰.一の一人に致え (庄B) られ るなど、同時代の評価は高かった。従って、その万象亭への 一応の挨拶の形であったかも知れぬが、全交の口から出た例だけ に、この時期にな っ ても芝と築地のゼンコウをとり違える者がい たと考えてよいだろう。 つまり、安永七、天明三、七年の例に、鉗政六年の「築地善交」 を重ね合わせる時、決して それが店突に現れ たのではない串が明 らかになる 。中良自封、公にこの戯号を記す ことはなくとも安永 ・天明・立政を通じて「築地のゼンコウ」であった のだし、ある いは 「芝の全交」 に対して「築地の善交」と並び称されていた甲 実があったのかも知れぬ 。前掲『色男其所此処』の一丁表には「 芝の兄ぶんのいたされま した るもん もうづゐの」と口上が見える。 また 、ゼンコウが.「前公」でも 「沼交」「普好」でも構わなか ったということは、この戯号が表記で はなく音声に拠ったことを 汲わしてい る。とすれば、中良 が「築地のゼン公」と呼び習わさ れていたということ にはならないか。笠者の管見は未だ中良の幼 名が記された例を見ぬが、今日箸名な他の どの戯号にも先立って 中良が用いたこの戯号から、彼の幼名が「ゼン」の音をその頭に 持っていたと想像するのは、穿ら過ぎであろうか。さて、それでは何故十数年もの間使うことのなかった戯号を、 中良は再び記したのであろうか。 天明七年に洒落本「田舎芝居」、黄汲紙r面向不背御年玉」r色 .男其所此処」、名所絵本r絵本あつま裟」を、それぞれ「風来山 人門生無名子/万象卒」「万象」「万象平/月地図士」の名で刊 して、万象亨の戯作は途絶え る。 この年中且は、彼に とって初の啓改学術也であろr紅毛雑話」 を苔し、立政元年に●万国新話」、同二年にr疏球談」と、同様 のも作を矢継早に執印すろ。また、究政四年に紐本の用ー作 r猛凩草紙」を森紐子の仔で出す。以後r月下消談」(究政十 fu)、r告玉之技」(享和二刊)‘r泉設衡物語」(文化六刊) と、その数は少ないながらも晩年に至るまで中良によって紐本は 苔かれ、その内容も 彼の広範な知識を反映した質の高いものであ ろ。 窪政の中頃といえば、七年刊の南柚笑楚滋人作r敵討義女英J に象徴されるように 、黄表紙の変質が目立って進んだ時期である が 、中良の内部でもこれと軌を一にした変化が進行していたらし い。寃西g期の彼の貸表紙は、天明期の それとは明らかに泌った趣 を示し ており、それは特にr相州」IC若しい。その戯作や狂歌を 閾すろに、元々根は真面目な中良であり、天明期の戯作にはお祭 り騒ぎの印象が強い。また長艇の物語を苔き上げるだけの叩カ・ 索迩を兼ね佃えてもいた。もとより奇談・珍話の知盟も渓学の素 投も豊宮であった彼が、黄表紙に飽き足りなくな っていにことは 十分考えられ ろ。既に戯作者巡中とも疎遠になり、門人達はそれ ぞれ一本立らし、また戯作界にも冷い風が吹き渡っていた時期で あろ。中良にしても、再び往年の「万象字」として、一旗上げろ 気概は更々なかっただろう。.只でさえ自らの境過に不瀾を泡いて いた節のあるこ の時期の中良によってむかれ た一ーー作の黄表紙には、 どこか租めた空気が感じら れるのであろ. にも拘らず、中艮が再び黄表紙の箪を執った事実については、 いくつかの迎由が考えられろ。 その中でも、最大の要因となったの は、世眸の弛要に近い要諮 (注14) ではなかっただろうか。全交と殆ど専属のOO係にあった仙珀謡珀 径也右衛門にしてみれば、稼ぎ頭である全交を失ったことは大き ・な打撃であったに迎いない。春町・喜三二を経ぐ第二世代の一方 の雄京伝作品の版行は、ほぼ耕由堂店筏阻三郎と半々の割合だっ たが、応匝は究政三年の「g上半減の脱所」にも拘らず盛り返し の気迎を見せてい る。珀喜としては、何とかして全交の穴を埋め ろ必淡がある。そこで白羽の矢が立ったの がか つての万象亭、森 島中良であったと考えられないか。r竹斎」r相州」r阻人政」 の三作は、すぺて紐喜の版である。さらIcr相州」の序・15丁ウ には「築地湛好」の下に記を図案化した「⑱〉」「公〉」とのむき判
が見え、 これが鶴喜の商探を意識した もので あることは明瞭であ る。 「相州」以外にこの掛き判を記した例が見えず 、 ま た双方が かなり屎っていることからも、 これは一回限りのものであったと 思われる。 これを記した中
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の心惜として、 自らの意志ではなく 氾喜の要請によっての執箪であっ て、 自分はた だ屈われていろに 過ぎないという開き直りの気分が続 み取れはしないか。さ らには、 全交の穴を埋めるという意味に おいて、 これも苔帥の意向が強く 働いて「築地菩交」の 戯号が選ばれたのではあるま いか。中良自 gにとって、 こ の戯号に拘泥る必然性は何もなかったと思われる し、 それより中良が自ら進んでこの戯号を用い、 全交が没した翌 年に黄表紙 を出す こと自体、 考えにくいことである。 もし再び黄表紙界に打って出ろつも りであったな ら ば、 たとえ 公務があったにしろ、 年一作ずつというのはいかにも少なすぎる し、 この戯号が「築地善交」「築地善好」「善交」と統一を欠く ことも、 中良の淡白な性格を考えに入れたとしても、 戯号さらに はこれらの作品に対すろ思い入れの弱さを示したものと考えてい いだろう。 紐#としては、 質的には勿綸恨的に も、 中良の黄表紙 に関待したのであろうが、 結局中良の意欲がそれに追いつかなか (庄5) ったものと見える。 このような目で見ると、 これら三作には、 中良を見込んで臼帥 が用意したと思われる趣向がやたらと目につく。 例えば「竹斎」 においては、 先ず竹斎物というその趣向仕立てであり、 エレキテ ルを茶化したヘレキテルであり、 腹を覗く望遠鋲であり、 この年 の絵題筏を囲んだ「ドドニウス」「イロハニホヘ」といったロー 0字でさ え、 中良懃辿用ではなかったか。 またr唐人蔵」の物産 会・望遠競・拡芦器・蝙馬・面萄酒・人体解剖図・ラッパ ・万国 (注ら) 地図・エレキテル・洋面等 もこの類であろ 。中良も手恨れたもの で、 これらを彼な りに料理はしていろが、 彼自身が描きたかった 内容とは言い難い。 ともあれ、 中良の愛用した 「未f」の困き判は、 これら三作のどこにも見えず、 r竹斎」で口上を述ぺる竹斎の若 物にも r相州」で同じく口上を述ぺろ中良らしき人物 の枠・扇に も、 天明期の彼なら ば間違いなく記したであろう卍の紋は描かれ ない 。 これに加え、 確かに定但は究政五年に失脚し、 翌年白河に入封 されたが、彼の臣下の立場で貨表紙を柑くことは仰られもしただ ろう 。そ のような意味で、 この耳慣れない戯号は総晦の手段でも あったに違いない。ただし、 火の手と噂は矢よりも速い江戸の町 のこと、 中良自身も完全に姿を眩ませられ るとは思ってい なかっ ただろうし、 「築地蕃交」がその何よりの証拠であろ 。 さらに穿 った見方をすれば、 黄表紙を公刊しながら中良は、 藩側の出方を 窯っていたのではなかろうか。 r竹斎」では、 表玄関と営うぺき ●口上」は「薮内竹斎」によってなされ、 「築地善交」は最終丁 に記される。 これに対してr相州」r店人蔵」では、ともに「序」 ・「叙」から「築地善好」「善交」が記されるのである。中良の白河癌召抱について、 今田洋三氏は「江戸の出版資本」 (r江戸町人の研究第三巻 J 昭49:l.10、 吉川弘文館)で、 この年(引用者註ー窃政四年)、 かつて須原屋市兵衛方か らさかんにその著世を発行した森烏中良は石井庄助とともに 松平定信の家臣に登用され、 蘭学研究方を申し付け られた。 定信の容赦ない思想統制の展開であった。 とされるが、 確かにこのような意味合いが強かったであろう。究 政元年刊のr万国新話」、 翌二年刊のr琉球談」巻末で予告され たr朝鮮絞」r紅毛智恵洋」r西洋奇部」r万象雑姐」r殷エカ ぐるま」等の出版企画は頓挫した し、 結果的に究政四年から九年 までの 出仕期聞 に、 中良の学 術害は一冊も刊行さ れなかった。 寃政九年に中良が白河藩を辞し たこと 、 それ 以後のr類架紅毛 語訳」(究政+成)‘ r桂林漫録」(寛政十二刊)を はじめとす る、 中良の研究への打ち込みぶり等を見るに、 この五年間は中良 の意にそぐわなかったであろう事が察せられ る。 蘭学者達とのか な り自由な交流があり、 黄表紙や読本執班が可能 であった として も、 彼の気持ちは築地、 即ち桂川家に向いていたのでは なか ろう か。 こう考えれば、 「築地善交」は自由な学究生活への渇仰、 衷 返せば現状への不満が聞めら れるとも見て 取れよう。 薮医者の 「竹斎」にも 、 自嘲の意味があ るいは含まれていたのであろうか。 ともあれ、 究政四
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九の五年間、 閾学者として沈黙していた中 良は、 再び桂林舎で の学究生活に入る と、 次々と著宙を 刊行しは四
じめる。 中良から辞退を申し出たか、 また は乗り気でない中良を 紐喜が見限ったか、 突政六、 七、 八年と、 三作の黄表紙を刊した 中良は、 二度と黄表紙、 また酒落本・見立絵本等の戯作を困くこ とは なかっ た。 この五年間に中 良の 中で、 何がどう変化した か、 元より詳かで はない。 ただ、 栢神的 自由への希求がいやが上にも昂まったであ ろうこの時期に、 中良 は自らが本当に望むも のを選びとることが 出来たのではないだろうか。 自分の心が戯作の方を向いているか 学術に向いているか、 あるいはまた別の方向を指しているのであ るか。 そして選んだのが読本をも その箱団に含む広い意味での学術、 具体的には蘭語・露語中心の洋学 と、 白話文学中心の漢学であっ t しか し、 中良がかつて使い恨れた戯 号を、 寛政期の黄表紙に記 さなかった最大の理由は、 記さなかったのでは なく記せ なかった という事実にある。 ここ で詳説する余裕はないが 、 既 に天明の時 (注17) 点で、 中良 は重立った戯号を門人に譲ってしまっていたのである。 「天竺老人」は千珀万組(花江戸住)に、 「森羅亭」は一粒万倍、 のちに七珍万宝に、 「竹杖為軽」はおそらく柄江万治に、 といっl
た具合に。 また 「 風来山人門人(生)無名子」は、 源内譲り の ヂ>ワ名 ・「憤激と自棄」を文章にして叩き つけるためにr田舎芝居」(天 明七刊)で用いて おり、 言わば彼にとって の「伝家の宝n
」であ ろと言ってよい。 そして「万象亭」については‘ r紅毛雑話」巻 之四「男子身体図」に 「 万象亭主人」、 また窃政六年OO+]月+ 一日に玄沢宅で開かれた、 第一回新元会の樅様を描いたr芝淵堂 新元会図」に「万象」名で校を入れるなど、 既に戯号というより、 閾学者中良を表わす雅号と言ってよい使われ方をして いた。 つまり実際のところ、 戯作者中良を表象する戯号といえば、 い まや 「 笑地のゼン公」が残っている位だったのである。 芝全交の死と街帥鉛屋の思惑、 中良の境遇と思惑、 それらの均 衡の上に浮び出たのが 「 築地善交」であり、 全交との師弟関係を 表わすものなどではなかった。 そ れはr相州」序文の「故人全交か
世を去て」「彼人の趣向に使り」、 12丁オ「なるほどおれがかく もぜんこうあたりのものだ」という口濶を見ても明らかであ ろう。 またここで 「 善交」ではなく 「 善好 .J としたの は、思うに「善交」 に、 全交の門人あるいは拙者からクレームがついた からで はない か。 前年「善交」を用いているのに、 二年目で全交の名を持ち出 し、 一習断わっていろ事 も、 こう考えれば頷ける。 「西好」なら 往JB) ば全交門の「晋交」 「 光交」 「 甘交」らと紛れる事はない。 ただし翌年の、 中良にとって最後の黄表紙となろr店人蔵」に は、 「築地」も掛き判もなく、 ただ「普交」とのみ彼は記す。 い (注) まやゼン公は自分一人であり、 その戯号は全交以前から用いてい たという自負もあっただろうし、 正直な所既に黄表紙の戯号とと きといった気分に近か ったのだろう。 そこには、 かつて今にも動 き出しそ うな「ポi」印を、 喜々として苔き記していた戯作者万 象亭の姿は、 既になかった。 以上、 窃政期に中良によって出かれた黄表紙と、 戯号について 考察してきたが、 推測・臆断が多く、 非常に乱暴な論になった感 は否めない。 逍湖も多いことと思うが、 大方の教示を仰ぎたく、 また今後の課題とさせて戟きたい。 〈付記〉 山東京伝に澁表紙r通気智之銭光記」(享和一一刊)がある。 こ れはr岩崎文旧貨重本殴刊(近世届)第六巻」(昭49.7.l、 床洋文庫・日本古典文学会糾)解説で鈴木田三氏が指摘されるよ うに、 函名を築地善交にかけたものだが、 内容については、 京伝苓わつS
が t 凡例」で「此さうしを銭光記となづくるハあミだのひかりぢ とくのさた、しなせにがすろなれパぜにの光ほどありがたきハなし といふこヽろなり」とするよ うに、 中良とは伺のOOわりもないも のであることを一― h 。しておく。 「 黄表紙における天明五年前後」(r国文学論集」第20巻、 山梨大学)において、 和田関通氏は、 中野三敗氏の口頭発表7 6 5 を受け、外的圧力に対する戯作者内部の 問因について考察さ れた。 中良の湯合については、創作恋欲の戚退はなかったと 指摘しておきたい。 2 後 述すろように、中 良にはこれ以前に読本の作(究政四年 刊r翡凩互紙」)があるが、中良もまた5士本を、草双紙・ 洒落本等とは一綿を画して、言わば第一文芸として 把えてい たと思われるので、本稿では抽本を「戯作 」に含めない。 3 山崎麓氏絹「日本小説苔目年表」では、究政六年刊r5暉 親々道成寺」を天明六年刊r大笑止忽の鐘入」の改題再摺 本 である とする が、これについて は問題が残る。ここでは、r親 々}生成寺』が究政年圃に世かれたものではないことだけをひ とまず記しておく。 4 ま たこれも刊年に問題の残るrさ うは虎巻」が、これに含 ま れ るか。 水谷不倒氏r草双紙と読本の研究」、森銑三氏r黄表紙解 題」、園田股氏「万象亭の戯作」を参照。 これらの刊年については、問頌のある作 が多く、訂正を有 するものがかなりあろと思われるが、ここでは中良の作でな いことが明らかにな ったr阿房者衷待」(天明六刊)を除い た他は、従来の説に従った。「森島中良著作年表の整迎」と して `別に発表の機会を持らたい。 全交には、その号を迅言で譲られるほど接近していた三馬 であり、またきわめて近い時代の記述である のだが、信じ難 い。あるいは私収し ていたから こそ、この記述がなされたか。 また 、その近言に より三馬が全交を製名していれば、あるい は「築地善交」の登場はなかったか も知れない。 8 使 い分けと言うより、広範なジャンルヘの進出と次 々 と戯 号を改める性向が、相冊っ て使い分けに兄せているとした方 が正しいであろう。 このことについては他の機会に詳しく諭 じたい。 9 水谷氏は「草双紙 には用いなかった」とされるが、他にこ の戯号を用いた例を見ない。「草双紙 には」と限定する必要 はないと思われる。 10 本 脇では詳説する余裕はなかったが、源内と中良の閲係は 従来言われてきたよ うな単なる師弟の関係にはなかったと叩 者は見る。 11 安永八年から天明七年ま での九年閥で、中良の作が見えな いのは安永九年だけであ る。 ここからも 中良の心情は知れよ "? o 12 原 巻二十五(文化四年丁卯六月十四日 より十一月廿一日に 至る)に、 「桂林斎蔵由/桂林斎嗜虹所蔵に写本あり/新刻祈舒全 集 天 /ば應二十八年桂月鋭/銭塘同学弟圧紐撰の序あり /満墜事類巣要品 地/右は涼殴堂よりかり得て/写し
皿れしよし也」 とあろ。 13 同 苔の「名作習本略記」所謂「名作二十三部」は、 従来そ こに掲げられた笞名のみ を論じることが多かった が、 ー森 銑三氏は「黄表紙雑考」中 の「黄表紙 といふもの」(「森銑 三著作渠第十巻」所収)で、 「芦表紙を味はふといふ人は、 さう した既成概念に捉はれずに、 自分の眼で呉の名作の判定 を試むぺきである。」と喝破しておられる。 !ここに「別面、 万象、 通笑の部は大全にゆづる」とある ことを見落してはな らない。 この書きぶりから見て、 三馬は万象、 通笑、 そして おそらく三和についても、 春町・喜三二·全交と同様数編を 掲げるつもりであ ったろうと思われ る。 つまりこの「略記」 は言わば「前編」ではなかったか。 そのような意味で、 この 時点での万象・通笑・三和についての評価は、 さらに検討す る必座があるだろう。 14 八 木三呑氏「黄表紙の画文閑係」(r青山語文」第十二号、 昭52.3 ) 所収の表A参照。 15 r 相州」の序に「彼人の趣向に便り、 外郎賣のせりふ付、 廻らぬ筆の似せ看板ハ、 彼小田原の灰俵のさん俵の類なるペ し」、 r店人蔵」の「叙」に「いや{―二 冊きこしめせど、 汐子押取もる印し つかり」 と記すな ど、 気乗りの苅さを感じ させる 部分が見える。 16 「 海外知識で趣向を立てた黄表紙」(「森銑三著作梨第十 巻 」 )に、梗概を載 せ る 。 r竹斎」の絵因箔についても、 「古 く道成寺の所作事にも取入れてゐたr黍の餅も いやいや、 の餅もい やいや。 藷麦切そうめん武ひたいな」の文句」等と ある。 ただしここで刊行を天明四 年と するのは誤りである。 17 「 「田舎芝居」をめぐってー万象亭の弟子達」として発 表の予定。 18 桜 川慈悲成の門下にも、 「全好」「善孝」 の名が見えるが、 全交や善交 からはや や降った時代に属 する 。 彼ら にしろ、 交の門人逹 にしろ 、 現在も使うよ うな卑称の「00公」 とい った印象で、 これ らの 戯号を用いていたのだろう。 〈追記〉 初校刷の段階で気付いたことなのだが、 「中良」を訓読みにす ると「なかよし」(「日本国語大辞典』には「枕草子 」 等の例あ り。)となる。 これを淡語で密くと「善交」になるのである。ま さに戯作的思考なのだが、 言策にはきわめて敏感な中良であった だけに却って真実味があり、 付言しておくこ とと する。 また、 全交の「直読見台萩」(寛政三刊)にも、 「傍に築地の 善好を見るやうな人、 これもどうか、 Jlt人と一緒のや う なり」( 森三氏著「続黄表紙解図」による)と、 「築地のゼンコウ」の 名が見える。 芝全交にとって、 もう一人のゼンコウは、 余程気に かかる存在であったらしい。 (岡山大学大学院文学研究科研究生)