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チャクマ族の山村

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Academic year: 2021

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チャクマ族の山村

著者

谷山 洋三

雑誌名

東北宗教学

14

ページ

193-202

発行年

2018-12-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00127434

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チャクマ族の山村

谷山 洋三

1.チャクマ族  私が博士後期課程の頃だが、1997年6月から98年1月まで、バングラデシュ ではマイノリティである仏教徒の調査を行った。91年のセンサスによると仏教 徒人口は約62万人で、センサスの分類上はベンガル人(その多くが「バルア Barua」を姓とする)がそのうち約四分の一を占めている。それ以外は少数民 族で、そのほとんどがチッタゴン丘陵地帯(Chittagong Hill Tracts、以下 CHT と略す)と呼ばれる、インド、ミャンマーと国境を接する地域に住んでいる。 少数民族の仏教徒の中で最大勢力は「チャクマ族 Chakma」の約25万人であり、 CHT3県──北から順に Khagrachari、 Rangamati、 Bandarban ──のうち中央 部のランガマティ県 Rangamati District が中心地である(図1)。

図1 バングラデシュ地図 想い出の場所

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 ランガマティ県中部にはカプタイ湖 Kaptai Lake というダム湖がある。元々 ここは先住少数民族の居住地域だったが、東パキスタン時代に水力発電ダム建 設のために政府が強制的に彼らを移住させてできたものである。イギリス統治 以前からずっと、先住民は外部からの支配やベンガル人(イスラーム教徒)の 入植政策に抵抗してきた。これは独立運動というよりは自治権の保障を求める 運動であり、73年には様々な迫害や虐殺に対抗するために武装組織も結成され、 内戦に発展した(CHT 問題)。そのため CHT は外国人は立ち入り禁止だった のだが、97年12月に和平協定が結ばれたため、私は内務省の許可を得て調査に 入ることができた。  チャクマ族は、「ジャパニ Japani」と呼ばれることがある。モンゴロイド系で、 容姿が日本人に似ているからだという。私も首都ダカ Dhaka 市内を歩いてい たときに、「日本人ではないか?」と思って声をかけたのに、日本語が通じな かったという経験がある。その後、ダカ市内で開催された「チャクマ祭り」に 参加したときには、民族衣装を身につけた日本人のような顔立ちの大勢の人た ちを見て驚いたことを覚えている(写真1)。 2.カプタイ湖へ  97年の大晦日、私は現地の調査協力者である N・バイ(「バイ bhai」は「兄」 写真1 チャクマの女性たち(左男性はバルア、 中央後方男性は筆者、他4名の女性はチャクマ)

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を意味するが友人間でも用いられる。以下「N 兄」とする)とともにチッタゴ ン市内にいた。チッタゴンは紀元前から歴史上に現れる古い港町であり、チッ タゴン地方5県(山側の CHT 3県と、海側平地の Chittagong、Cox s Bazar) の中心地である。翌日にはランガマティ県に入ることになっていた。N 兄は社 会学者であり、チャクマ族の調査を行った経験があるので、チャクマ語を話す ことができる。N 兄はもう1人の通訳として、ランガマティ都市部出身のチャ クマ族の青年、S 君をリクルートしてくれた。翌日から3人での旅が始まる。  大晦日 New Year s Eve なのだから、ということで、私たちはブラックマー ケットでビールと「ワイン」を手に入れた。N 兄は「ワイン」と言っていたの だが、ホテルに戻って袋を開けると、それはミャンマー製のウイスキーだった。 要するにベンガル英語 Banglish では、お酒一般をワインと呼ぶということな のだ。ちなみに、チャクマ族などの少数民族は自家製の米焼酎を作っており、 上述のチャクマ祭りでも飲んだことがあった。ミャンマー製の安いウイスキー よりは、チャクマ族の米焼酎の方が美味かったのだが。  年が明けて98年元旦、私たちはローカルバスに乗ってランガマティ中心部へ 到着した。せっかくなので、すでに観光地化しているカプタイ湖を眺め、さら に船をチャーターして湖畔の寺院を訪問した(写真2)。「正月から自分は日本 を離れて何をしているんだろうか?」という思いと、「調査中だけど、正月な 写真2 チットモロン寺(ランガマティ県カプタイ郡)

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んだから観光気分も悪くはない」という思いが交錯していた。  ただし、現地の人たちにとっては西暦 Christian Era の元旦は単なる祝日に 過ぎない。ベンガル暦 Bengal Era の正月(4月中旬)の方が大切にされている。 3.チャクマの村へ 〈1月2日〉  ベビー・タクシー(インドではオート・リキシャと呼ばれる三輪バイク)に 乗って、事前に N 兄が探してくれた村に到着した。  到着した村は、どこか日本の農村のような雰囲気も感じられる。小高い山々 に囲まれ、田畑の中に家々が点在している。小川には小舟が浮かんでいる。橋 は……橋なのか?棒なのか?……2∼3mおきにX字状に組んだ橋脚があって、 その交点の上に数本の竹棒が渡してある。歩行スペースの幅は10cm もない。 川面に長く突き出た橋脚の一端にも、歩行スペースに平行して竹棒がくくりつ けてある。手すりだろう。すべて竹で作られている。すばらしくシンプルかつ 実用的な方法だが、100kg を越える私の体重に耐えられるだろうか……。少し でも軽くするために、約20kg ある山登り用ザックは村人に運んでもらうこと にして、おそるおそる長さ10mほどある橋を渡った。  バングラデシュの人たちはもてなし好きだ。村に到着すると早速、昼食をご ちそうになった。卵、魚、野菜など数種類のカレーが出てきた。ごちそうだ。 たまたまこの日は昼食後に寺の寄り合いがあるらしい。そういえば家人以外の 数人の男性が一緒に食事をとっていた。食後の水がうまい。バングラデシュの 人たちは、必ず食後すぐに水をがばがば飲む(ビーマン・バングラデシュ航空 を利用したことがある方なら分かるだろう)。この国でこんなに冷たくておい しい水を飲んだのは初めてだ。湧き水を汲んできて陶器のポットに入れてある。 気化熱で冷やされた、本物のナチュラルミネラルウォーターだ。  ごちそうになったお宅に荷物を置き、彼らと一緒にお寺に詣でることにした。 仏教徒の調査だけに、お坊さんにも協力してもらわなければならないからだ。 この家に来る途中にお寺があったのだが、そこは無住の寺だという。なんと、

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村の僧侶たちは、山の中に小屋を作って住んでいると言うではないか。これが 経典に出てきたアランニャ・ビク(森林僧)のことなのだろうか。しばしの興 奮も、やがて細く長い山道をのぼるにつれて、息切れに変わった。こんな山道 を歩くとは思いもしなかった。  30分ほどで到着した。広さ2∼3畳ほどの小さな草庵だ(写真3)。そこで 出会った僧侶は、それまでバングラデシュで会った数十人の僧侶たちとは全く 違っていた。透きとおった、澄みきった眼をしている。神々しいほどだ。どれ ほど長い修行を重ねたのだろうかと、尋ねてみた。なんとたったの3年である。 この村に来る前は、国境近くの虎の出る山中で修行をしていたそうである。傍 らに座っているだけで敬虔な気持ちになれる、これこそが上座仏教の王道を行 く者の姿だ。  この村には何の縁故も知人もないが、N 兄が村の中学の校長先生に交渉して くれて、6日間この家に滞在させてもらった。先生の家は、土を20cm ほど重 ねた土台の上に、木の柱と竹で編んだ壁が立ち、トタンの屋根がのせてある。 この村では立派な方だ。敷地も広い。手動ポンプのついた井戸もある。炊事や 水浴びには井戸の水、トイレにはそばを流れる小川の水、飲み水はあの天然水 だ。 写真3 山林の中の草庵(中央に座るのが僧侶)

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 その家の近くで、以前滞在していたチッタゴン市近郊の村で出会ったバルア の青年に邂逅した。お互いに眼を丸くして一瞬立ち止まってしまった。日雇い 労働者である彼は、こんな所までも働きに来るのか。  その夜、信じられないような話を校長先生から聞いた。なんと、半年前まで はこの村は誰も住んでいなかったという。戦闘を避けるため、村人たちは全員 ジャングルに住んでいたのだ。なるほど、そういえばこの村に来る途中で何人 もの政府軍の兵隊を見た。まだ、軍の監視下にあるのか? いや、今は安全な はずだ。だから村人もここに住んでいるし、私たちもここに来ることができた んだ。 4.調査開始 〈1月3日〉  朝靄、朝露、真っ白だ。寒い。マフラーをほっかむりにして外に出る。でも 寒いのは朝晩だけで、昼間は温かい。  N 兄と手分けをして村人の家を訪問し、アンケートに答えてもらうのだが、 何せ、言葉が違う。通訳の S 君と、もう一人誰かに手伝ってもらわなければ ならない。校長先生がガイド兼通訳として協力してくれるという。学校は…… ちょうどラマダン月で休みなのだ。校長先生は村の顔役、しかもお寺の役員を している。このうえない協力者だ。ありがたい。  朝食後、聞き取りを開始。伝統的なチャクマの家屋は竹で作られている(写 真4)。竹を組み合わせた壁とテラスが、特に目を引く。床の高さは50∼150 cm。屋内の床は、いくつかの割れ目を入れて平らにした竹が敷き詰められて いるが、テラスは丸い竹をそのまま組んだだけで、地面が見える。はたして私 の体重を支え切れるだろうか。案の定、最初に訪れた老婆の家は、竹が朽ちか けていて、テラスの一部を踏み抜いてしまった。大変申し訳ないことをしてし まった。竹の家は長持ちせず、数年で修繕・建て替えていくものだという が……。

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〈1月4日〉  朝靄の晴れぬ中、山中に庵を結ぶ5人の僧が托鉢を終えて山に戻って行った。 上座仏教の僧は、早朝から家々を回って托鉢し、それを正午までに食べ終える と、以後は飲み物とタバコ以外は口に入れることはできない。バングラデシュ では、様々な理由によって平地で托鉢僧を見ることは稀であり、檀家が当番制 でお寺に弁当を届けている。しかし、この村には上座仏教の習慣が保持されて いた。  村の長老に会うことができた。御年とって94歳。興味深い話が聞けた。イギ リス統治時代までこの村には、ラウリ Rauli と呼ばれる聖職者がいたという。 19世紀半ばに上座仏教に集団改宗した後も、この地には改宗しなかった旧来の 仏教僧がいたのだ。ラウリは妻帯した聖職者で、密教的な儀式をしていたそう だが、現在はもう存在しないという。奥地に行くといるかもしれないが、命が けの調査になるかもしれない。ゲリラもいるし、虎もいる、なんといってもマ ラリア蚊が恐い。  私たちがいる集落は、世襲の村長が住む中心的な地域だ。マーケットもある。 しかしそこで商いを営んでいるのはチャクマではない、平地から移住してきた ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒のベンガル人だ。これこそが CHT 問題の原 因の一つである。先住民である少数民族にとっては、先祖伝来の土地を奪われ 写真4 チャクマの伝統的な家屋

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たことになる。これ以外にも、ダム建設に伴う強制移住、1971年の独立前後の 政治的背景など、様々な原因があるが、バングラデシュ政府の少数民族への無 配慮が、チャクマの青年を中心に“シャンティ・バヒニ(平和軍)”を結成させ、 内戦に発展したのである。  日本においてこの CHT 問題は、あたかも宗教戦争であるかのような報道が されていた。つまり、“仏教徒のチャクマ族”vs“イスラーム教徒のベンガル 人”という図式である。これは、チャクマ族の一部の人たちによってなされた プロパガンダであり、それをメディアは無批判に鵜呑みにした。私はアンケー トの中で「あなたは非仏教徒から被害を受けたことがありますか?」という質 問をした。彼らの85%が「いいえ」と答えた。しかしそのうちの3分の1の人 が「ベンガル人、政府、国軍から」被害を受けたと答えてきた。「イスラーム 教徒から」という回答は15%だった。  つまり、この村に関する限り、長期間ジャングルで暮らさざるを得ない状況 に置かれたにもかかわらず、過半数の人々は周囲の状況を把握しておらず、状 況を知る人の中では、“政府からの被害”と考える人が、“イスラーム教徒から の被害”と考える人の約2倍いるということになる。CHT 問題は政治的失策 によって生じた民族闘争であって、宗教戦争だと断じることはできない。 〈1月5日〉  この村には6つの集落がある。昨日までにマーケットに近い2つの集落を 回ったが、他の集落が視界に入ってこない。どこだ? 見えるのは小高い山ば かり。もしや、この山の向こうなのか?  隣の集落が山の向こうというのも、一驚かつ一興である。バングラデシュの 国土の大半は、ベンガル・デルタの一大低平地に位置する。98年の大洪水でそ の3分の2が水没したほどである。その平地生まれの N 兄は、かつて他のチャ クマの村でフィールドワークの経験がある。ところが、CHT 生まれのチャク マの青年 S 君は、都会育ちで、実は田舎も山も初めてだという。ケモノ道の ような傾斜のきつい坂を登り、降りる。校長先生にとっては庭のようなもの、

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私たちはすぐにグロッキー。いくつもの分岐点があり、まるで山中の迷路。そ の途中で、村人たちが小屋を作っていた(写真5)。  なるほど、こうやって作るのか。ナタを器用に使って、次々と竹を割り、割 れ目を入れて平らにしていく、その平らにした竹を編んで大きな板状のものを 作る。木を柱にして、編んだ竹や藁のようなものを屋根に葺いている。女性も いる。子供もいる。寺の代わりに集会所を建てているのだという。そのリーダー が校長先生だ。一昨日の寄り合いはこの作業の割り当てを決めるためだったの だ。その時は、僧侶の庵の前の広場に集まっていた。確かに雨期には屋根が欲 しいところだが、雨期にもこの細くて急な山道を行き来するのだろうか……。 〈1月6日〉  今日も山歩き。舟でも行けるらしいが、あいにく見つからない。でも道は煉 瓦で舗装されている。遠足のような気分だ。昨日訪れた集落は、山のふもとに 家があったが、今日は……山の傾斜の途中に立っている。歩けば崩れるような 坂の上に建ててある。周りには野生のバナナの木が生えている。  次の家は舗装路のてっぺんにあった。庭は広く、豚の親子が遊んでいる。チャ クマは豚肉が大好きだ。祝い事には必ずポークカレーが出る。どういう訳かバ ングラデシュの仏教徒は牛肉を食べない。平地のバルアもそうだが、ヒンドゥー 写真5 山林の中に集会場を建設する村人たち

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文化の影響だろうか。しかしポークカレーは油っぽくて食べづらい。油の中に 脂肪のかたまりが浮いているようなものだ。確かにごちそうなのだろうが、こ れはきつい。  今日でアンケートの収集は終わり。最後の村人はチャクマではなく、ダム建 設で強制退去にあったトンチョンギャ族 Tanchangya だという。トンチョンギャ はチャクマとはかなり近い民族だから、ここでも暮らせるのだろう。彼の向か いの家の主人は肝炎にかかっているらしい。しかも、街のキリスト教徒の医師 にかかっていて、治療費3,000タカ(約9,000円。ちなみに当時の公務員の平均 的な月給は5,000タカ=約15,000円)を払えないなら改宗してキリスト教徒にな れ、と言われている。非道い話だ。確かにこの国ではキリスト教ミッショナリー に対して批判が多いが、こんなことをする奴がいるのか。この村には小中学校 があり、マーケットがあり、バスも近くまで通っているが、医者がいないのだ。 5.お別れ 〈1月7日〉  今日でこの村ともお別れだ。校長先生には大変お世話になった。心から感謝 している。  朝食にモチが出た。異国の辺地で、ようやく正月気分を味わえた。モチとは いっても油で揚げてある。生の揚げモチのような、生モチの素揚げのような、 とにかく多くは食べられない。でも、うれしかった。食べきれないのでおみや げにしてもらった。チャクマ族独特のデザインの布と、肩掛けバッグもいただ いた。こんなにお世話になってしまって、どうしよう、十分なお礼もできない。 S君は田舎暮らしが気に入ったようだ。いや、校長先生の娘さんが気に入った のか、名残惜しそうにしている。私たちはひとまず平地のチッタゴン市に戻り、 S君とはそこで別れ、N 兄と私はつづいて CHT のマルマ族の村に向かった。  本稿は『仙台・南アジア研究会季報』18号(1999年3月)に掲載された拙稿「チャ クマの村で ──バングラデシュの仏教徒⑴──」を改編したものである。

参照

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meaningful space)がとらえら 被観察者 対象は,東京近郊在住の小学校5年. れた。さらに,詳細な分析の対象となる意思決定・