後白河院と今様
著者
廣野 はるか
二〇〇九年 度 卒業論文
後白河院と今様
東北大学 文学 部日本思想史専修四年 A6LB1171 廣野はる か卒業論文
後白河院
と今様
― 今 様伝承による自 己 実 現 と政治的 環境との関係性 【目次】 頁 序 論 ―先 行研 究と本 論 文の目的 ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 1 第一 章 後白 河院の 語 る 今 様人 生とその実 態 はじめ に ・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 3 第一 節 後白 河院の 生 涯 ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・ 3 第二 節 今様 を 通 し て 形 成 した 人間 関係・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・ 8 ま と め・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・ 10 第二 章 今様 の 時 代 的 意義 はじめ に ・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 11 第一節 今 様 のイ メー ジの変遷・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 11 第二節 今 様 と声 明・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 13 第三節 後白河院の生 き た時 代 に お ける 今様・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 15 まとめ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 17 第三 章 後白河院 が今様 の 場から得 たもの はじめ に ・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 18 第一節 政治的不 遇・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 18 第二節 今 様によ る感 情表現・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 20 第三節 後白河院の今 様伝承の意 義・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 22 まとめ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 27 終章・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 28 註・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・ 30 【 凡 例 】 一 、 引 用 資 料 中 の 送 り 仮 名 は 原 文 通 り と す る 。 二 、 引 用 資 料 中 の ( … ) は 筆 者 の 中 略 を 示 す 。 三 、 本 文 中 の カ ギ 括 弧 ( 「 」 ) は 引 用 資 料 中 に 使 わ れ た も の 、 論 文 名 、 概 念 、 語 句 以 上 の 意 味 を 有 す る 語 、 を 示 し て い る 。 四 、 本 文 中 の 二 重 カ ギ 括 弧 ( 『 』 ) は 書 物 、 雑 誌 で あ る こ と を 示 す 。 五 、 暦 数 は 、 す べ て 西 暦 で 表 示 し た 。 六 、 註 は 総 て 、 本 論 の 最 後 に 一 括 し て 載 せ た 。後 白 河院に関す る 先行 研究は 、 い く つか の視点からな さ れて いる。 ま ず挙 げ ら れる のは 、 政 治 的 側 面か らの 研究 で あ る 。 後白河院 政 研 究史は、下 郡 剛『後白河 院 政の 研究 』 ( 吉川弘文 館、一 九九九年 。 ) や 古代学協会 『後白河院― 動 乱期 の 天皇― 』(吉川弘文館、 一九 九 三 年。 ) に 詳 しい。 が、 こ れ ら の 研究は後白河 院政 の制 度 を 解明する こ と に重点を置いたも のが 多く 、 後 白河 院個人 がどのよ うに 政治に関 わろうとした のか 、 その政治に 対する意 識 の 部分への 考察 はほとん どなさ れ て いない。 政 治 家とし て の後 白河院個人への評 価も 、 後 白河 院の 残した文字資 料がほとんど無 いこ と か ら 、 後 白 河院は若 い頃 か ら 今様を 非 常に 好み 、 今 様の主な 歌い 手 で ある 遊 女 や傀 儡子と い った社会 的 身分の 低い人 間とも 積極 的 に 接触 を図 り、 彼女 た ち を 師 とし て今 様の練習 に打 ち込んだ 。 そ の 傾倒 ぶり は 後 白河院 自 身 が 書 い た 『 梁 塵 秘抄口 伝 集 』 巻 十 (以 下 『 口 伝 集』十 と 略 す。 ) から知 る こ とが出来 る。 しか し先 行研究に おい て は 後白 河院 の 政治的 な側面と文化 的な 側面が別 々の も の と し て 論じ られる こ とが 多く、 後 白河 院の思想 を、 政治的 活 動 を含めた 後 白 河 院の 生 涯 と 今 様 と の 関 係 から総体 的に論 じ た研究は少ない。 …後白河院は 武門 興 隆 の時勢にあっ て 、 政権担当 者とし て の公家の立場 を 守 り抜く度 量 の あ る 人 物で あった。 …頼朝を以て して も 懐 柔 さ れる こ と のな い 帝 王学 ・ 政 治哲学を 院は 備えて いたの であ る 。 1 本論文 で 取り上げる今 様及び『梁塵 秘抄』に関する研究は小西 甚 一 『梁塵秘抄 考 』 ( 三省 堂、 一九四一年 。)や新間進 一 『歌 謡史の 研 究 その一 今 様考』 ( 至文 堂、一九四 七 年。 )を始めと し …後白河院その人 はむしろ 政治的資 質を 欠い て お り、 …眼前 の 難を いか に逃れるかという こ とで 行 動 して い る に す ぎない の で ある 。 2 序章 先行研究と本論 文 の目的 次に、 院 の趣 味嗜好の 面か ら の 研究 があ る。 特に後白 河院は 『 梁塵 秘抄』 を 編纂 した こ と で 知 ら れ て お り、 それに付随し て 書 かれた 『 梁塵秘 抄 口伝集』 の巻 十に は、 後白河院の半生が自らの 手 で 記さ れ て いる。 ま た、 後白河院 は他にも 『年 中行事絵巻』 等 の 絵 巻を 描かせ る など、 文 化的 活動を積極的 に行っ て いた 。 本論 文の 目的 は、 後白河院の、 当時 流行し て い た 歌謡 で ある今様 の 受容 ・ 継 承 の 過程と、 そ こ にみら れ る人 間関係が 、 後 白河院に とっ て ど のよ うな意味を持 っ て いたのか を 考 察し、 そ こ か ら 後白河院 の人 間像 を再 構成 する こと で あ る。 といった よう に政治に関心のない暗 愚な人物の二通り に分かれ て い る。 という謎 めいた策略家 、あ るいは、
荘園 ・ 公 領 制 =経済システム の 心臓 部を 握る交 通 ・ 情 報ネ ッ ト ワ ー ク の サブセン ター、 そ し て そ れを担う社会集団=零細な 手工 業者、 交 通 業 者、 陰 陽 師 ・ 呪術 者 ・ 遊女 ・ 舞 人 ・ 白拍 子 ・ 傀儡子 集 団の 掌握 、 か れ ら との 太い パイ プの 敷設 こ そ 、 帝 王後 白河 の 政治課 題 で なけれ ば な らなか っ た 。 3 て 多 く あ り 、 そこ に 収 めら れて い る 個 々 の 今 様 に 関 す る 解 釈 が 主で あ る 。 後白河院 が今 様に傾倒した こ とと、 彼 の 政策との 間に 何ら かの 関係 を 見 出そ うとした研究 とし ては、棚橋 光 男『後白河 法 皇』 (講 談社 学術文 庫 、 二 〇〇六年。原 本は講談社 選 書 メ チ エ 、一九 九五年。 )が 挙 げ ら れ る。 こ の 研究では、後白河院 が 今様を 通し て 形成した幅 広 い 人 間関係が彼 の政 治体制にど の ように 影 響 し て い たのかに つい て 、次 の ように 考 察 さ れて いる。 三 つ 目には、後 白 河 院 が今様を 通して 形 成し た 人 間関係に 関す る研究 が ある。 『口伝 集 』 十で 挙げ ら れ て い る、 後白河 院 の今様に おけ る弟子た ち の 、 社 会的地位 や その生涯に関する研 究に は、 菅野 扶美「 後 白河院 派 今 様の 後継 者 」 ( 『 東 横 国文 学 』、東 横学園 女 子短 期大学 国 文 学会、一 九 九 一年。 ) 等がある。 こ れ ら の先行研究 は 、後白河院 が 今様を 通 し て 形成した人 間 関係 を 把 握する 上 で 重要なものだが、 こ の 人間関係 が、 後白河院 個人 の政治的 活動 を 含 めた 実生 活や彼 の 思想 に どのよ う な影 響 を 与 えたの か に つ い て の 考察 が不 十分 であ る。 一方 、 『 梁塵 秘抄 』の 成 立 の 経緯 や、 後 白河院 が そ れ に関し て 触 れ ている『梁 塵 秘抄口 伝 集』 に関する研 究 は、三つの 方 面からなさ れ て いる。ま ず 一 つ は 、 そ の 成 立年代 の 特定 で あ る 。 『梁 塵秘 抄』 及び 『梁塵秘抄口 伝集』 の 成立年に関し て は 、 先に挙げた 小西 の著書 で の検討、 飯島一 彦「 『梁 塵秘抄口伝集巻第 十』の史実 性 と虚構性 ― 疑 念への反駁 と 問題点の整理―」 (『 梁塵 研 究と資料 』第 八号 、中世歌 謡研究会、 一 九九〇年 。 ) 、 馬 場光子「 『 梁塵秘抄口 伝 集』巻第十成立 試論 」 (『梁塵 研究と 資 料 』 第八号、中 世 歌謡研究会、一九九〇年 。 )等の 研究から、 ほぼ 一一 六九年の 成立 と考えられ て いる。 二 つ 目は、 『 口伝集』 十の 内容に関 する研究 で あ る。 主な研究とし て は 、 松 本宏 司 「 『 梁塵秘抄 口伝集』と『 俊頼髄脳 』 」( 『 成城国文学 』、成城国文 学 会、一九八 九 年。 )、伊藤 高 広 「 『梁 塵 秘抄 口 伝 集』 巻十 に於 ける 後白 河院の流 派意 識」 (『 梁 塵 研究と 資 料』 第八号、 中世歌謡研究会、 一 九九〇年 。 ) 、植木朝子「消 え ゆく声への 焦 燥―『梁 塵 秘 抄口伝集 』か ら ― 」( 『 日 本文学』 、日本 文学 協会、 二 〇〇 六年。 ) 等がある。 こ れら の研 究に 共通するの は 、『 口伝集 』 十には 、 後白 河院 が、 自らが乙前から 習 得 し た今様を受け継ぐ後 継 者が いない事 への 焦りが述 べられ て いる とい う 解釈 で あ る。 しかし、 なぜ後白河院 にとって 今様がこんなにも重要なも のだっ た のか、 と いう考 察は 見られない。 かつ、 政 治的 側面か ら 後白 河院の人 間関係 を 把握 しよ うとした 研究 も、 角田文 衞 「後白河院の 近臣」 ( 古代 学協会 『 後白 河院―動 乱期の天皇― 』 吉 川弘文館 、 一 九九三年 。 ) のように いくつか あるが、 政治 的 な 人の つ な がりと、 今様 を媒 体に した 人のつ な が り を 関連づ け て総体的 に 後 白 河 院周辺の 人間 関係 を整理しようとした先 行研究はみられなかった。
棚橋 氏の 研究 は、 摂関 政治 か ら 院 政 、 そ し て 武家 社会 という中 世に おける政 治的 な転換点 に活 躍した 後 白 河 院 を、 今 様 の 持 つ社会的関 係 に注目 し て論じた もの であるが、 政治 的権力 者 とし て の後白河 院と いう、 固 定 さ れた視点 か ら の考察 で ある とも捉え ら れ る。 つまり、 後白河院 が権力 者になる以前 に出会い 、 生 涯にわ た っ て 好んだ今 様とそれがもた らした人間 関係 が、 後白 河院 に とって ど れ ほ ど重要で、 ど れだけ彼の内面に 影響 を 与 えて い た のかという 視 点か ら の考察 は さ れ てい な い 。 第一 章 後白河院の語る今様 人生とその実態 以上のよ うに 後白河院 に関 する様々 な方 面か ら の 先行 研究があ る中 で 、 本論文の ねらいと し て は、 政治的側面か らは良く も悪くも不可 解な人物 と描 かれ、 今 様の 収集に代 表さ れる文化 的活動 の面か ら は彼の思想への 具 体的な考 察が少なく、 明確 にされ て いな い後白河 院像 を、 彼の 政治の 場に お け る 立 ち 位 置 ・ 態度だ けで なく 、 後 白 河 院が 関わ っ た 文化 的活 動 、 と り わけ 今 様 に傾 倒し た こ との 意 義 を考察し なが ら再 構成 した い 。 ここで 論 じ られるの は 、 後 白河院自 身が 、 今様を介した身分の 違う 者 た ちとの文 化的交流 を 中 世王権の 権力 と権威を保つ ための手 段と 捉え て い ると いう、 政 治的 野心 を持 った 人物とし て の 後 白河院像 で あ る。 そのため に、 本論文 では以 下の構成 で 考 察を 進め て い く。 まず第一章 で は実 際に後白河院 が記 した 『梁 塵秘抄口伝集 』 の 記述を 中 心に 、 後 白河 院の 生涯にお ける 今様との 関わり方 や、 それ に 伴っ て 形 成さ れた人間 関係 を概観する。 そし て 第 二章 で は 後白 河院 が歌った 今様 がその時 代に お い て どんな 性 質の もの だ っ たのか を 確 認 する。そ こか ら第 三章 では 、第 一章 と第 二章 を踏ま え、 そ ういった 後 白河院 を 取り 巻い ていた 環 境か ら、 後白 河院 が今 様 を 愛好した 意義 や後白河 院の 人 間像につ い て 考察し ていく 。 後白河院 の人 物像 につ い て 考察 する 前に 、 ま ずは 彼の 生涯 を概 観し 、 特にそ の 政 治的境遇 と今 様受 容の 過程 につ い て 確認 する。 後 白河 院が政治 史上 で活躍した時 代は、 摂 関政 治か ら 院 政に 転 換した時 期 で あり、 そ の 政 治体制が著し く変化し て い た時代 で あった。 その中 で 後白河院 は、 自 身の 政治 目的 を達成 す るた め に 活動 した と 言 える 。 一 方 で 、 こ の時 期は今様 が芸能とし て 文化的 価値を高 く認 め ら れた 時期 で も あった 。 後白河院 は 『 口伝集』 十に おい て 、 自伝的に自身の今 様 伝承につ い て 書 き 残し て い る。 しか し今 様に熱中 する後白河院の姿 は彼 の一 側面 で し かなく、 政 治 的 な彼の立場や 行 動 を 含 め て その人物像に迫る必要がある。 またその後 で 後白河院が 今 様伝承を 通 し て 形成した 人 間関係につ い て も、その 実 体を把握し、 後白河院 が今 様に傾倒した 背景 を 考 察するための 手掛かりとしたい 。 ここで は 、 『口伝集』 十の 記 述 に 沿 いながら 、 後 白河院が 語ら なかっ た 時代 背景 や 政 治体 制を はじめ に 第一 節 後白河院の 生 涯
(一)誕生から 天 皇 に 即位するま で か く のごと く 好 みし かど 、 さ し た る 師 な か りし かど 、 資 賢 や かね な ど が 歌 を聞き 取 り、 少々 習ひて う たふも あ り。 …何と な く 歌数 うたか ず 知りた ち ては、 足柄 あし がら など 、 今 様 で も 秘蔵 ひ さ う の 歌 を知らむ 一一四五年に待賢門院 が亡 くなると 、 後 白河院は 崇徳上皇 ( こ の時の天皇は美福門院の子 で あ る近衛天 皇) の命を 受 け て 崇徳 上皇の御 所に 同居 し た 。 同 居 し ている崇徳 上 皇に遠慮 しながらも、 後白河院 はま すます今 様に 打ち込むよう になる。 こ の 頃 になる と、 こ れ ま で 歌 を 習っ て い た待 賢 門院の 側 近た ちだけ でなく 、 自 分と 親し い貴族か ら今 様に詳し い芸人の 情報 を集め 、 実際 に会 っ て 今様を習うようにな った 。その様子 を『口 伝集 』十 で 確 認 す ると 、例えば後白 河院は、 後白河院 自身 も、 一一 三九 年に美福 門院 に皇子が生まれた こ と 、 さ らに兄の 崇徳天皇にも 一一 四〇年に皇子 が生まれた こ とで 、 皇 位継 承 の 可能 性がほとんど無くなって お り、 政治 の場 とは無 縁な 状 態 にあっ た 。 そ のせいも あって か 、 今 様を 知っ て か ら と いうも の、 『口伝集』 十 で 「 昼は 歌 は ぬ時 もあ りしかど、 夜 は歌 を 歌 ひ明 かさぬ夜 はな か り き 。 」( 二 三〇頁) と 述 べ られ ているほ どに、今様 を自身の生活の 中心的活動 と し て いた 。 『 口伝集』十 に ある次のエ ピ ソードは その事 を端的 に 表し てい る 。 後白河院 は一 一二七年 に鳥 羽上皇の 第四 皇子とし て 生 まれ、 一 一四 五年に生 母待 賢門院が亡く なるま で 母親の元 で 暮 ら し た。 先行研究に よ ると、 鳥 羽上皇は待賢門院より も美福門院という女 性を 寵愛し て い た ため、 待 賢 門 院は様々 な芸能者を側に置い て 寂しさ を 紛らわ せ て い た 4。後白 河院が今 様を知ったの も、 彼らとの 交流 がき っか け で あった 。 『口 伝集』十 を 見 ると、 補足し て 、今 様に明け 暮れた後白河 院の 生涯の全 体 を明 らかにし ておく。 こ の よう に後白河院は、 今 様に対し 異常とも言える執 着を 示し て 青 年期を過 ごしたと推察され る。 とあり 、 今様 を知った 時の 様子 が描 かれ ているわ け で はないが 、 幼 少の 頃か ら今 様に親し ん でい た こ と、そし て 今 様を通じた人間関係があった こ とを論じ て い る。 昔 その かみ 、十余歳 より 今にいた るま で 、 今様 を好 み て 怠る こ と なし。 5 (二 二九 頁 ) 資賢 すけ か た ・ 季兼 すえか ね など語らひ寄せ て も聞き、鏡 の 山のあ こ 丸 まろ 、 主 との 殿 司 も り づかさ にて あ りし か ば 、 常に呼 び て聞 き、 … ( 二三〇 ~二三一 頁 ) … 神崎 かん ざき のかね、 女 院 にょ うい ん に 侍 さぶ ら ひしか ば 、 参 りた るに は申 し て うた はせ て聞 きし を、 「 あ ま り に ては 。時 々は こ れ に ても、 いか で聞か で はあ ら む ずる ぞ」 と て、夜 まぜ に 賜 た ばむと て 賜 たま ひ し か ば、 あの御方へ参る夜 は 、 人 を 付け て 暁 帰るを呼び、我賜はる夜は、い まだ 明 あか きよ り 取り 籠 こ め て うた はせ て、 聞 き 習 ひ てう た ふ 歌 も あり き。 (二三一頁 )
と思 ひ て 、… (二 三 二 頁) と述べ、自身の今様への探 求心 を満足さ せる ため に積極的に活動し 、あるい は、 かくの ご とく聞かぬ 者 もなく聞 き集めた るに 、 初声 はつ こゑ を資 賢 も め で た き 由 申 す 。 人 々 上 手 と の み言ひあ ひ た りしかば、 い か で 聞か むと思 ひ しか ど、 ゆかりも 知ら で あ りし に、 二条院の御 めのと 坊門 ばうも ん 殿、 具し て 来 むと 契 ちぎ りたりしに、 新院に一 つ 所 を 憚 はばか る由を聞 きて、 押小 路 お う こ う ぢ 京 極 きょ うごく の堂へ坊門殿 具し て 来 た り しかば、 終 夜 よもす が ら うた はせ て聞 き 、 我 も うた ひ 、 歌の ことど も 互ひ に問ひなどし て 、 夜明けしほどに、 家成の 中御門 な か み か ど にあり し か ば 、 返しに き。 (二三三頁) 後白河院 の 父 親 で ある鳥羽 院 に さ え 「イ タクサタ ヾシ ク御ア ソ ビナ ドア リトテ 、 即位 ノ御 器 量 ニハア ラ ズ 7」と思われ て いた後白河院が天皇とし て 即位した影には、信西(藤原 道 憲) の存在 が あ る。 その 経 緯はここでは 詳 しく述べな い が、 後 白 河院 の息子で ある守 仁 親 王 が 即 位する ま で の中 継ぎの天皇という形 で 、 一 一 五 五 年 に 後 白河院は天皇と し て 即 位す ることとなっ た。 信 西 は 後 白 河院の王権を 強 化 し そ の政 治体制を固 める た めに、 記 録所の設置や 大 内 裏 の復興 等 様々な取 組を した 。 そ の活躍ぶりは『今鏡』 や 『 平治物語 』 の 記述から読み とる こ と が出 来る。 と論じるよう に崇徳上 皇を憚りつつ も、 自身の 興 味の ために率 先し て 今 様を学ぼ うとし ていた こ とが分か る。 あるいは、 天皇になる可 能 性もほとん ど 無いまま 、 今様に明け 暮れる生活をし て いた後白 河 院 で ある が、 近衛天皇 が亡 くなると 、政治の舞台 に引 っ張り出 され る こ とと なる 。 こ の 頃後白河 院が今様 を 収 集したり習得したりす るの を手 助け し て いた 貴 族 た ち は、 後白 河院 の近 習と して 後 白 河 院 の政権を 支え たとされる 6が、 その事につい ては後の項 で 述 べる こ とにし たい。 (二)天 皇に即位し て か ら『口伝集 』十 を 執 筆するま で 少納言通則といひ しが、 法師 ほ う し になりた りし が、 … こ の 御 時 に は、 ひ と へ に 世中 をと り 行 をこ な ひ て、 古 ふる きあと を もお こし 、 新 あた ら しき ま つり事を も 、すみや かに 計 はか らひ 行 をこ な ひけるとぞ 聞 き ゝ侍 し。 8 その 比 (こ ろ ) 、 少納言 せ う な ご ん 入道 にうだう 信西 しん せい といふ 人 あり。 ( 中 略 ) 後白河 ご し ら か わ の 院 ゐん の御 乳母 め の と 紀 きの 二 位 ゐ の 夫 おっ と たる に よッ て、 保 ほう 元元 年 げん ぐ わ ん ね ん よりこ の かた、 天 下 の大小 事を 心 の ま ゝ に 執 行 しゅぎ ゃ う して 、 た え た るあ とを つぎ、 廃 (す た ) れた る 道 みち をお こし 、 延 久の 例 れい にまかせ て 記録 所 き ろ く じ ょ を 置 ゝ き、 訴訟 そ せ う を 評 定 ひょ う ぢ ゃ う し、 理非 り ひ を 勘 かん 決 けつ す。 9
北面の武士 は 、 院 の 身 辺 や 行 幸 の 際 の 警 護、 あるいは 院と 外 部 とのや り 取りにおいて その取り 次ぎ 役とな る な ど雑用 も こなした 。北 面 の 武 士 とし て選出された 武 士 は衛門 府 や 兵 衛府の中の 、 院の気に入った武士だっ た ようだが 、 武 士だけ で なく 、 僧 侶や 芸能 者も伺候 し ていた こと は注 目 すべ き 事 で あ る 10 。 ここ か ら 推察 される こ とは、 後 白河院の場合、 お そ ら く 北 面の武士と し て伺候して い た 者 の 多 くが、 今 様 の 歌い手とし て 後白河院 に接触し て い た可 能性があ ると いう こ と で あ る。 芸能 者も 伺 候 で き る の で あれば、 昼夜 を問わず 今様の練習に明け 暮れ て い た後白河院が 今様の歌い手 を側に そし て 『 口 伝 集』 十 に よ れ ば、 そ れ か ら 乙前が死去 す るま で の 十 年 余りの 間 、 後 白河院 は 乙前 を今様の 師 匠 とし て側 に置 き、 また 自身 も乙前か ら学 んだ 「正 統」 の 今 様 を 、 身 近 で 今様 を共 に 歌う 貴族や 遊 女 ・ 傀 儡子等に伝え よ う として い た 。 こ の 今様 伝承に対す る 後白河院 の 熱 意 は 後 の 節で 述 べ る の で こ こ で は 割 愛 す る 。 と論じ ら れるように、 当時の記録に おい て 既に、 信西の政治的 方向 が、 院政によ る政治体制か ら の 転 換と し て 理解され て い る こ とが 分か る。 その 一方 で 、 後白 河院 自身は政治よ りも今様 を 収 集 し、 その 歌い方 を 極め る こ とに力 を注い で い た こ とが 『口伝集 』 十 に記され て い る。 つまり、 後 白河院の 意思 とは別の と こ ろで 政治的転換がなさ れ て いたとい う こ と で ある 。 信西は、 保元の乱後の 政務 におい て主導的な役割 を 果たした が、 そ の 権力の 背景 は、 自身の 妻 が後白河 院の 乳母 で あ ると いう擬似的な血縁関係 で あ った。 そ う で ある以上 、 信 西にとっ て 後 白 河院と の 関 係 は、 政 治的実権を 握るための関 係 で あると言って よい。 し かし、 こ の関 係は、 図 ら ずも後白 河院 に大きな 転換 をも た ら すことになる 。 『 口伝集』十の 記述 を 見 ると 、 その の ち 、 鳥羽 と ば の 院亡 ゐんか く れさせ た ま ひ て 、 物騒 ものさ わ がし き事 あり て、 あ さ まし き事 出 い でて 、 今様 沙汰 ざ た も無かり しに 、 保元 ほうげ ん 二年の 年 、 乙前 おと ま へ が歌 を 年来 としご ろ いか で聞か む と思 ひしもの がたり を し出 で た りしに 、 信 しん 西 せい 入道 こ れ を 聞 きて、 「 尋ね 候 さうら はむ。 そ れ が 子、 わが 許 もと に候」 と て 、 木工 も く の 允清 仲 じょ うき よ な か を呼び て、か の 五 条に 言ひ やる。 (二 三 四 頁) しかし後白河 院は触れ て い ないが、 こ の 間彼は 安 定し て 天 皇の 地位 を保っ て いた わけ で は なか っ た 。 一 一五八年に後白河院は守仁 親 王へ譲位し上皇 と なる。 そ の 直 後、 天皇時 代 の後白河院の 政権 を支 え た 信西は一 一五 九年の平 治の 乱 で 自殺 に追 い込まれ 、 さ らに こ の 事件 で 勢力 を 強め た 平 氏 や後 白河 院の 後に 即位 した 二条 天皇 (先に触れ た 守仁 親王) の 親政に対 抗し て、 後白河 院 は 自 力 で 政権を保 つ 必要に 迫 ら れ た。その後 白 河 院 政を支え たものの 一 つ が 北 面 の 武士だ っ た。 とあり、 信西 を仲介と し て乙前との 接触 が可能に なった 。 こ の 翌年 についに後白 河院は乙前と面 会 を 果た す。 思いがけ ず天 皇位 に就 く ことになった 後 白河院 は 、 そ の 政 権 を 支 え る人 物す なわ ち 信西によ っ て、 さ らに偶 然 にも青墓の地から伝え ら れ た 「 正統」 と 後白河院 が 認 め て いた 今様 を 乙前か ら 受容 する こ と が可 能となった 。 こ れ によ り、 後白河院 が こ れま で の 今様の歌い方 を 全 て 乙前の歌 い方 に改 めた こ と か ら 、 後 白河 院の今様人生 にとっ て 乙前 との出会いはと て も重 要な事 件だっ た と言 える。
乙 前 の 死 は 一 一 六 八 年 と さ れて い る 。 後 白 河 院 四二 歳 のこ とで ある 。 『 口伝 集』 十 の 奥 書 を 信 頼に足る もの とする馬場氏の説 を採 っ て 『口 伝 集 』 十 の成立 を 一一六九年と する 11 と、 後白河院 は 師 匠の 死か らわずか 一年 で 『梁塵 秘抄 』 及 び 『 梁塵 秘抄口伝 集』 の全二十巻を書 き 上げた こと となる。おそ らく乙前の 死 によっ て 、 乙 前流の今様 が 失われ て し ま う こ とを 恐れた後白河 院が、 急 いで そ の記憶 を 書 き 残 そう と し たと 推 察 さ れ る 。 そして 『 口 伝 集』 十 を 書き 終え た と 同じ 一一 六九年、後白河院は 出 家する。 信 西 の協 力も あ り 、 後 白河 院は 乙前 か ら 「 正統」 とされる 今様を 受 容 し た。 また上皇 として 自 ら 作 り 上げ た 政 治体 制 に おいて 、 身近に仕え る 北面の武士 の 中からも、 今 様 を 通じ て 付 き合いの 深 い 者 を 自ら の弟 子 と して 、 今 様 の 継承を 行 って い た 。 そ して 乙 前 の死 に よ り 、 後 白 河 院 は 今 様 伝承への 思い を さ らに 強め て い った 。 置い て お きた いと考えるの は当然の こと で あ る。 そ れ に、 『口 伝集 』十に記さ れ て いる、十九人 いる後白河院の今様 の 弟子 には、 衛 門府に属し て い た と 分 か る者 だ けで 六 人 ( 源 仲 頼 ・ 平 康頼・ 藤原親盛・藤 原為保・藤原 能盛・平 知 康 )いる 。 『口 伝集』十 におい て 、 能盛 よし も り 、 わ ざ と な か り し か ど 、 明 け 暮 れ あ り て う た ひ 集 め た る 。 … こ れ ら も 異人 こと じ ん に歌 は習 はず。 (二五一頁) あるいは、 知康 とも や す 、 昨日今 日の者に て あ れども、 声悪 しか ら ぬ うへ に、 おも なく うた ふほ どに 、 習 ひ た る ほどより は上手めかし き所あり て 、 悪し くもなし 。 (同 頁 ) 後 白 河院は政 治 の表舞 台に 引っ 張り 出されて も、 常に 今 様 と切っ て も 切 れ な い関 係 を 保ってき た。 前述 した ように 『 口伝 集』 十の 成立 を一一六 九年 、 後 白河 院四 三歳の時 とすると、 後 年の 加 筆と思われる 箇所がい くつ か見 ら れ る。 その箇所か ら 晩年の後白河 院の今様 に対 する意識 を 考 察 した い。 北面の武 士に選ばれた 人間 が 必 ずし も今 様を 嗜ん で い た こ と で 選出されたと は限 らないが 、 北 面の武士 と後白河院 を 結びつける要 因 の 一つに今 様があった は ず で ある。 職 務遂 行 の上 で の付 き 合いだけ で な く、 同じ 芸能 を好み、 共に 今様を 歌 い親密な時間 を過 ごすこ と が出 来る人間 が身近 に仕えてい た のは、 自 力 で 政 権 を 保 つ必 要があった後白河院にとっ て 心強いも の で あ っ た と考 え られ る 。 と述べられるように、 数多 くの人と 今様 を 通じ て 交流 した後白 河院 が弟子と認め るほど で あった から、 彼 らが後白河院 と親密な時間 を過 ごした こ とは確実なことだと言える。 こ れま で 政 治と は 異なる世界に おい て な され て い た 今 様が 、 こ の時 期に おい て 、 後白 河院 を 介 し て 政治と積極的 な 関わ りを持 っ て い たと考えら れる の で ある。 (三)出 家後 、晩年の 後白 河院 7
実際、後白河院は 寺社への参詣が非 常に多かっ た 。『 口伝集』十にも 熊 野・ 賀茂・厳島・八幡 社へ行幸 した 時の 記述 があ る。 そし て 、 それぞれ の行幸 で 今様を 通 し た 神仏と の 交 流 が あ っ た こ とが記され て いる。その 記 述や、また 今 様を 歌っ て 病 が癒 え た り往 生したりする ことが出来た 人々の例 を 『 口伝集』 十 で 挙げ て い る こ とか らも 、 後 白河院が 、 今 様を 歌う こ と は往生極 楽に通 じ て いる と信じ て いる こ と がうかが える 。 今様によっ て 宗 教的 救済 がなされ ると いう構造 は、 救 済自体が必ず 今様を 媒 介とし て なさ れる とされ て いた の で はな く 、 今様とい う芸 能の 一つ の 側 面 とし て 救 済が あると考 えられ て いた 、 と 理解するの が 自然 で あ ろう 。 こ こで 注 目 すべ きは、 後 白 河院にと っ て今様は 人 生の 最期ま で なく て は ならない もの で あ った という こと で ある。 こ の 今様 を た しな み習 ひて 、 秘 蔵の 心ふかし。 定 め て 輪廻業 り ん ゑ ご ふ た らむ か 。 わが身五 十 余 年 を 過 し、 夢 の ごとし 幻 まぼろ し のごとし。 既 に半ばは過ぎに たり 。 今 は よ ろ づ を 抛 な げ棄 てて 、 往 生極楽 を望 ま む と思 ふ 。 (二 六 七 頁) 第二節 今様を 通 し て 形成した人間関係 第一節 では後白河院の 生涯 を、 『口伝 集』十の 記 述 を 中心に、 政治的な背景 を踏まえながら概 観し てきた 。 ここ か ら 言える こ とは 、 今 様は後白 河院 の 生涯の 中 で 重要な部 分 を 占め てきた と い う点 で あ る。 政治の 表 舞台 に出る以 前の 青年期だ け でなく、 そ れ以 後の 政治 的 な 場面 で の 北面 の 武士との 関係 、 そ し て 神仏 に接近するた めの参籠 にお い て 今様 は用 いら れ、 後白 河院に大 きな影 響を 与 え てきた。 本節 で は 、 さ らにその 今様によ っ て 形成された人 間関係の 性質 につい て 詳し く 考察し てい きたい。 まず後白河院が今様 を 受 容 す る 過程か ら 確 認 する。 今 様を 収 集 し始 めた頃は 「 上達部 か ん だ ち め ・ 殿上 人 てん じ ょ う び と は言はず、京の 男 女、所々の 端 者 はし た も の 、 雑仕 ざ ふ し 、江口 ・ 神崎の 遊女 あ そ び 、国々の 傀儡子 く ぐ つ 、上手 は 言 は ず、 今様をうた ふ 者」 (二三三 頁)なら誰 と で も 接触 を図 った後白河 院 で あ るが、最 終 的には乙前か ら 学 んだ今様を 「 正統」 な 今様 と し て 受 容 し た。 そもそも 後 白 河 院 が乙 前を 師とし た のは、 彼 女 が美濃国青墓出身 で あ った 事と関係 があ る。 青墓 は当時畿内と東国 を結ぶ交通の 要衝 で 、 東山 道 の 宿 駅の 一つ であ った 。 こ こに集ま った 様々 な 地 方の 歌 曲 が 、 今 様 の 中 で も 由 緒 あ る歌 ( 大 曲 ) 晩年の 後 白河院が 置 か れ て い た 政治的状況 を 見 る と、 一 一 七九 年に 平清 盛 の クー デ タ ーに よっ て 院 政を一時 期停止させ られ、一一八 五 年に平氏が滅 びると源頼 朝 が政治に干 渉 し て くる など、 武士 の存在がもはや 看 過 でき ないもの、 政 権を 直接奪 お うとする脅 威 になっ て いた。 そ の上、 一 一七九年の 平 清盛に よるクーデターの 結 果、こ れ まで 院 の 側 に 仕えて い た 、( 二 ) で 挙 げ た 藤 原 為保 ・ 藤 原能 盛が解官され る 12 など、 こ れ ま で 北面の武 士 や 院近 臣 によっ て 支 え られ てき た 後 白 河 院 の政 治体制を 崩 さ れた状 況下に あった。今様を 通 じて 極楽 への往生を 求 め る と い う行 為は 、 こ う した 政治的危機に対する後白河院の 諦念 を表し て いるとも考 え ら れ る。 文面か ら 素直 に こ れ を 後白 河院 が五 十歳 を過ぎた 頃に 書いた と みる な ら ば、 こ の 頃も後白 河院 は未だ今 様に 愛着があ ると同時に 、 「往 生極楽」 とい う宗教的 な意 識を付加 し始め て いる 。
(二 三七 ~ 二 三八 頁) 傀 儡 子の他に今様 の歌い手には 遊女、 白 拍 子 がいるが、 そ れぞれの実体はほぼ同じで 、 定 住せ ず、 今様 を 歌 うだけ でなく 売春行為 等 を し て 生計 を立 てて いた 。 各 地に存在 した 歌い手達 は次第 に都に進 出し 、 こ うし て今 様は一般 民衆 か ら 、貴 族へ も伝播 す る 事 に なった 。 と さ れ 、 さら に 今 様 の歌 い 手 と し て 生 計を 立て る傀 儡子を 生 んだ 13 。 そこ で 話 を乙 前に 戻す。乙 前は 元は青墓 に い た の だが 、 『 口伝 集』 十 に よると、 師匠 の傀 儡 子 目井 と 共 に、 たま たま 青墓に 宿 を 取 った源清 経 と いう人物 に そ の歌唱 力 を 見 込まれて 上京 し た、 とある。 京 では清経は目井 を愛人と し て 、 目 井と乙前 を自分と同じ 家に住ま わせた と いう。 そ し て そ こで目井の知る今 様をすべ て 教 わったと乙前 は後白河院に語った。 乙 前 の他 にも 後 白 河院が接 触 し た青 墓出身 の 傀儡 子は い る のだ が、 彼 女 た ち は そ れ ぞ れの 歌い 方の流儀 を持 ち、 時に 対立 を 起 こす。 後 白河院は 『口 伝集』 十 で 乙 前か ら聞いた 彼女た ちの師 弟 関係 や自 分の 眼前 で 起 き た そういった対 立を記し て い るが、 そ の 対 立 の中 で後白 河院は積極的 に その歌い方 の 違いを 指 摘し 、 「 正統」の 今様を知ろう とし て いる 。その例とし て 後白河院の 発 問 をいくつ か 挙 げ て おく 。例 えば、 「 こ の 古 柳 、 常の に は 変りた る 所あ り と 聞く に 、 これ はさ もな きはいか に。 四 三 が説 に 、『 こ の古柳、 こ の 説に 違 たが ひて うた はむは、用ゐ るべか ら ず』 と こ そ申 し伝へたるに」 と伝えられ た も の と異なる歌い 方には疑問を 呈し 、また、 「乙前が 様 やう にはいづれも 違 たが はぬ に 、 旧 川 こそ 変り た れ 。 い か に 」 (二 四 一 頁) と言い、自身が「正統」と 信じる乙前の 歌い方と 異なる歌い方 を聞くと、 そ れを指摘し て い る。 こ う した 問い を 繰 り返しながら、 後 白河院は自身 で 「 正統 」 な 今様 を 見極め 、 そ し て それ を 後 世に遺す べく 、今様そ の も の を 集め た『 梁塵秘抄 』と 今様の奥 義 を まとめた 『梁 塵秘抄口 伝集 』 を書 いた の で あ る 。 後 白 河 院 は 、 当 時 の 今 様 伝承 の 頂 点 に 自覚 的 に 立つ 人 物 であ った 。 さ ら に 後 白河院は自身 が乙前か ら 受 け継いだ今様の歌い方の流 儀を 完全に受 け継い で くれ る人 を 欲 し て いた 。そ の こ と は次の 記述 にも表れ てい る。 年来 としご ろ かば かり 嗜 たし な み習 ひた る 事 を、 誰 たれ に て も伝へ て 、その 流 れなども、の ちには言はれ ば や と思へ ど も、習 ふ 輩 とも が ら あれど、こ れ を 継 ぎ次ぐべき 弟 子のなきこ そ 遺恨 の事に て あれ。 殿上 人 てん じ ゃ う び と ・ 下﨟 げ ら ふ にいた る ま で 、 相 具し てうた ふ 輩 とも が ら は多か れ ど、 こ れ を同じ心に習ふ 者は 一人 ひ と り なし。 (二 四 七 頁) 後 白 河院 は 『 梁塵秘 抄 』 に よって 今 様を体 系 化するだけで なく、 自 分が 『梁塵秘抄』 において 確立させた「正統 」と信ずる今様を、後 世 にも しっかりと 受け継がせる 事ま で 考 えて い た 。 9
後 白 河院は、 生 涯 を 通 し て 今 様 とい う芸 能に 親し ん で い た。 青年期 から 晩年に至る ま で 、 今様 の受容を通じ て 形 成した人 間関係の 中 で 生 き たと 言っ て も過言 で は ない。 政 治の 舞台に立 っ て も、 その人間 関 係 は 後白河 院 に 大 きな影 響 を与 えて いた。 後 白 河 院 がい つ頃 から弟子を 取 って 今様 の指導をし て い た のかは定かで は ないが 、 『 口伝 集 』 十に見 ら れ る その弟子達 の 内訳は、男 性 が十七人( 『 口伝集』十 末 尾 で 言 及 さ れ る二人の弟子 を 含めると十 九 人 ) 、女 性は 一人 で 、男 性 の身分は 未詳の者もいるがほとんどが院の北面の武士や 近臣 の者 で 、 女性は 延 寿という 女芸人が一 首 だけ習ったと され て い る。 こ の 構成 は 、 今様を 受 容 する際の 、様 々な身分の人 間との 接 触に 比べると少し 偏りがあ る。 確実に今様を 後世 に残したいと 考 え るなら ば 、 そ れ こ そ身 分に とら わ れ ずに 多く の弟 子 を 求め れば 良い と考 えら れる が、 後白河院の弟子は狭い 範囲 に限ら れ て い る。 もち ろ ん 後白河院の立場 を 考 え れ ば、 市井 の人 間に 積極的に関わる こ とは難し い で あろう。 だがそう する と考えられるの は、 後白 河院 が 「 正 統 」 を 伝承させたい と考 える人間 を恣意的 に選 択した と いう こ と で あ る。 馬 場氏は今 様が後白河院 によ っ て 『梁 塵秘抄』とし て ま とめ ら れ た事 につい て、 こう述べ て い る。 … 青 墓か ら続 いた 傀儡 女の 名 が 、 乙 前か ら後 白河 院 へ の 名 で留 ま る の を 代表 とし て、 すべ て の系譜が貴紳の名にとって 換わら れ たと き 、 幻 の 古代より連なっ た 青墓 から都 へ と旅する歌 女の 道 は 終 わ ったの だ と 考 える。 こ れ が 都の 今様流 行 の 姿 であり 、 『梁塵 秘 抄 』 成 立 の姿 で あった。 すっかり地方 歌謡 を 収 集しつくした今様文化 には、 も う新たな発展の道 はなかった という ことに なるのだ ろう 。 14 確かに、 これま で 見 て きたように 今 様の生まれた背 景 をみれ ば 、 地 方から中央へ、 社 会的 身分 の低い人々か ら政治的権力 者へと今様 が 広まり、 『梁 塵秘抄』とし て まとめ られた事 で 、 今様は 一 つ の芸能とし て の地位 を 獲得した と言っ て も 良 いか もしれない。 だが注目 すべ きは、 先 にも 論じたよ うに 、 後 白河 院自 身が、 自 分 を今様 の 「正統」 な継承 者 で あるとい う 認 識を持っ て い た こ と で ある 。 後 白河院 と 『梁塵秘 抄』 を今様文化の 到 達 点と する見 方は、 今 様と いう芸能の側か ら それ を捉 え た も の だと考えら れ る。 そし て 後 白河 院が自己の今 様 の体得 に 止ま ら ず 、 新 たな後 継者にそれ を 継承 しようとす る 過程で 生 ま れ た 、 彼を 中 心 とす る人 間関係が存在 したとい う事 実は、 後 白河 院 を 論ず る上 で 重 要な 要素 で あ る ことを ここで は 確認 し てお きた い 。 つ まり 、 地方 か ら 発生 した 芸能 で あ る今 様が、 中 央の 権力 者 で ある 後白河院 がわざ わ ざ 傀 儡子 に教えを請うほどに地域、 社会 的身分を問わず広まった事、 そ し て 後 白 河院 に よ って 音 声 芸 術 で ある今様 が 『 梁塵秘抄 』 と 『梁塵秘抄口 伝集』 に おい て 文 字化 された事 で 、 今様文化は そ の完成 を見 た と い う の であ る 。 まとめ その後 で 、 特 に今様を歌う こ と で 生 ま れた人間関係につい て も、 そ の 実体を確認 し た。 後白 河
院が今様 を 受 容する立 場に あると き は、 身分 を問 わず 接触 を図 り今 様を 極め よ う とし て い た 。 し かし後白 河院 が今様を伝授 する立場 にな っ たとき、 そ こ に見 られる人間関係 と い う の は 、 自分の すぐ身近 で 、 限ら れた 範囲のも の で あった。 後白河 院 は純粋に 今様 を 極 めるため に、 今様 の 祖 で ある傀儡子 、 とりわけ乙前のような青 墓出身の傀儡 子に 接 触 し、 「 正 統 」 な 今 様を 継 承 し た と 信 じて い た 。 そして そ れ を 継承 す る に あ た って は 、 その 「正統」 性を正確に伝 えるために、 身近 で いつ も共 に歌 う近臣の 者た ち を恣意 的 に 弟子 に選 んだ 。 こ の人 間関係に見 ら れるの は 、 い わば後 白河院 を 中心 とした場 の存 在 で ある 。 さ ら に、 後白 河院にと っ て 今様とはどの ような意 味を持っ て い たの かという点 を考察し ていく ため に、次章 におい て今様の 持っ ていた 時 代的意 義 につい て 考 察 す る。 第二 章 今様 の時代的意義 はじめ に 後白河院 の今 様伝承につい て 、 その意 義 を 考 える前提 とし て 、 今 様 その もの が、 後白河院 の生 き た 時代 にどのように人々 に認 識さ れ て いたのか 、 ま たそうした今 様に後白 河院 が傾倒した こと の意義に つ い て まとめ てお き た い。後白 河院が「昼 は 終日 ひねもす うた ひ暮し 、夜 は 終 夜 よもす が ら 歌ひ 明 か さ ぬ 夜は な か 」 ( 二 三 〇 頁 )った今様 と は何かを まず 確認しな け れば、それを 歌う こ と の 意義も 見 え てこない 。 そ こ でこ こでは、 まず後白 河院以前 と以 後の文学 作品から今様に関 する記述 を取り上げ、 今様 に対する人々の認識 の 変化 を 確 認 す る。 次に仏教 にお ける声明 と今 様 の 関係 から、 今様流 行 の 背 景に つい て 考 えて み た い。 そして 最 後に、 後 白河院 が 生き た時 代 の 今様に 焦 点を当てて 、 今様の 持つ時代的意 義や後白 河院 が『梁塵 秘抄 』をまとめた こ と の意 味につい て 考 察したい。 第一節 今様 のイ メージの変遷 今様に 対 す る 人々の 認 識 が 平安時 代 を通し て ど う変化したの か を考察する に あたり、 ま ずは 今 様を 非常に好んだ後 白 河院 が今様をどう捉えて いたの か確認したい。 後白河院 が記した 『口 伝集 』 は、 巻 一の 断片と巻 十し か現存し ないの で 断定 は出 来ないが 、 後 白河院が 今様の魅力やすば ら しさについ て 言 及 した箇 所 は ほ とんど な い。 わずか に 見 ら れ る の は 、 古 いに しへ より今にい た るま で、 習ひ伝へた る 歌あり 。 これを 神楽 か ぐ ら ・ 催馬楽 さ い ば ら ・ 風俗 ふ ぞ く とい ふ。 … (神 楽 ・ 催 馬 楽 は ) み な こ れ 天地 あめつ ち を動かし、 荒 あら ぶる 神 を 和 なご め、 国を治 め 、 民 を恵 む よ た マ た マ てと す 。 (巻一 二二 五頁 括弧 内は 筆者 による) この 今 様 、 今日 け ふ ある、 一つにあらず。 心 を 致し て 神 社 ・ 仏寺に参り て う た ふに 、 示 現 を 被 かう ぶ り、 望 む こと 叶 は ず と い ふ こと なし 。 司 つか さ を望 み 、 命 を 延 べ 、 病 やま ひ をた ち ど こ ろ に 止 や めずといふ こ となし。 (巻 十 二六六頁) 11
といった 記述 で あ る。 が、 前者は今 様 の 元となった歌 謡に関するもの で あるし、 後者は今 様を歌 うこ とで 得ら れる 効能のすばら し さ を 強調して い て 、 今様 その も の の魅力とするには 少し難があ る。 では他に 、当時の人々の 今様に対す るイ メージ を 考 え る手 掛か り となる資料 は ないだろ う か。 以下に、 いくつか今様に関 す る記述のあ る 資料か ら そ の 部分を抜 き出し、 今 様 が貴族社会 で 歌 わ れ始めた 頃か ら 流 行するま で の 人々の今 様に対する 認 識 の移り 変わり を 見 て いく こ と にする。 八月 廿日 あ ま りの ほど よ り は、 上達部 か ん だ ち め 殿上 人 てん じ ゃ う び と ども、 さ るべ きはみな との ゐがちに て 、 橋の 上、對 の 簀子 す の こ などに、みなうたた寝 を しつつ、はかなうあそびあかす。 琴 こと 笛の音などには たど たどしき若 人たちの、 と ね あ ら そ ひ 今様 いまや う 歌 ど も も 、 所につ け ては をか し か り け り 。( 中 略) わ ざ との御あ そび は、 殿おぼすやう やあらむ 、 せ させ給はず。 年ごろ里 居したる人々の、 中絶えを思 ひ お こ しつ つ、 まゐりつ どふけはひ さ わがしう て 、 その 頃はしめ やか なる こ と な し。 15 それか ら 約 一 三〇年 後 の 一一七四 年 、後白河院 に よ り 初 め て宮中 で 今様合 が 開 催 された 。 次 に 東宮 権大 夫 藤 原資 房の日 記で あ る『 春記 』から、 一 〇 四〇 年十 一 月 の記 事 を 挙 げ る。 まず一つ目 の 引用 は、 『 紫 式部日記』の 記述 で あ る 。 こ の 記述 は 一 〇〇八年の 「 八月廿日あま り 」 の出来事と 記 さ れ て いる から 、 後 白河 院 の 生ま れる 百 年 ほど 前と い う こ と にな る 。 こ れ を 見 ると、今様の 歌い手 は 楽器の 演奏が未熟 な 若者た ち であった 。「 所 に つけ て は 」 お もし ろ か った とあるか ら、 管 弦 の遊 びの 中 で は中 心と なるもの では なく、 今 様 は 興を添 え る程 度の もの だ、 と いう こと だと 推察され る。 こ の 時 は 大げ さ な 管 弦 の 会 ではなか った らしく、 また そ う いう場 で は 楽器の名手 が 演奏を披露した で あ ろう か ら 、 「 た ど た ど し き 若人 た ち 」の出番 も な かった と 考 え ら れ る 。 とすれば 、こ の頃の今 様は若 者 が 戯 れに歌う歌謡 だ っ たと言え る 。 ここでは関白 藤原頼道 を始め 、 身分の高 い貴族が 出席 する宴 で今様 が和歌と 共に歌 わ れた こと が述べられ て おり、 特 に大 納言 の藤 原重 尹が今様 を 歌 うと、 宴 席は非常に盛り上 がったと書い て ある。 こ れは 『紫式部日記』 が 書か れ て から 約三〇年 後の記述 だが 、 こ の時 点 で 既に今様 は貴 族 社会に広く 受 け 入れられるようになってい た 可能 性が高い。 し かし 「 太 以軽々也」 と ある よ う に、 身分の高い人 間が今様を 歌 う こ とには未 だ軽率 で みっ ともないとい う意識があった こ とが読 み 取れる。 廿五 日、丙 子 、 ( 中 略 )入 夜関白直 衣 、 東宮 大夫 直 衣 、皇 宮大夫 束 帯、長家 、師 房、通 房 、 信家 卿以 上皆 直衣 、已 下参 候宮 御方 、着 饗饌 、盃 酌無算 、 有詠 歌之 興、 又有 今様歌之 戯、 重尹卿依 有其譴発今様歌、 満座解頥 、 大 納言已下 発此 曲太以軽々也 、 惣 人 心 之追従尤甚也 。 16
こ の よ う に、 今様に対する 人々 のイメージは 時 代を経るに つ れ て 変 化 し て いる。 始 めは若者の 戯れとし て の 歌謡だった今 様は、 兼 好法師の時代 には昔の人の 言葉 を伝える もの とし て 芸 術的 な 価値を 認めら れ る まで に な って い っ た。 し か し 今様 は ど う や っ て 芸 能 と して の地 位を 築い て いっ たのだろうか 。次の章 で は その点につい て 考察する。 第二節 今様と声明 九月 一日 。 於 太 上 法皇 御 所 。 法 住寺 殿 。 有 今 様合 事 。 撰 定 堪能 輩卅人 。 十五 箇夜 間 。 毎夜 一 番。 被決雌雄。 師 長資賢 卿 等為判 官 。 十 三日。 仙 洞今様合 之次有 御 遊。 上皇 令歌 今様 給。 希 代之 美 談 也 。 17 最後に取 り上げる の は 『徒然草』第十四段 の 一部である。 声明とい うの は仏教用 語 で 、 「 儀式に用いる讃詠 。…経文のう ちの偈頌(詩 句 ) を 昇 降、屈曲 まず第一節 で取り上げた 『 紫式部日記 』 の 記 述 を 再 度 見 て みると 、 「若人た ちの 、とねあら そ ひ 今様 歌ども 」 と、今様歌と 同列に読 経 の 上手さ を 競う 遊びが行わ れ て い た こ とが書かれ て い る。 こ の 頃、 ただ念仏 を 唱 えるのと は別 に、 声明と い うも のが 日本 に伝来し、 広 まりつつ あった。 今様がい かに し て 芸能 の 地 位 を 築 い て い ったかと いう ことに関 し、 ここでは 仏教 との 関係 を中 心 に考 え た い。 『紫式部日記』 の 引用か ら は三百年ほど後の時代の記述 で あ る。 兼好法師は、 現代 の和歌より も昔の人 の詠 んだ和歌 の方 がわかり やすく趣深い と述 べ、 さ ら に昔の人々の 言葉 とし て 和 歌 で は なく特に『 梁 塵秘抄』に収 め ら れた歌 謡 を 心 にしみ る ものとし て挙げ て いる。 注 目したい の は、 紫式部や清少 納言 の 頃 には 若者の歌 う流 行歌と思 われ て い た 今 様が 、 三 百年 経っ て 古人の 言葉 を 伝え るものとし て 認知され て い ることである。 右の 『百 錬抄 』 の 記述 を 見 ると、 今 様合 は十日以 上 に 渡 っ て 開 催さ れ 、 規 模 の 大 きい行事 で あ った と考 えられ る 。「希 代 之 美 談也 」 と は、 『 百 錬抄 』 が 書か れた 時点 で の 評価 なの で 、 後白 河院 が生 きていた 当時の人 々の 今様に対 する認 識とは 言えないが、 今様 合が公の 行事 とし て 開 催さ れ るよ うに なっ た と いう こと は、 少 な くと も誰 が歌 っても 肯定的 に 見 ら れ るものになって い たと推 察される 。 こ の ごろの歌 は、 一 ふ し をかしく言 ひ か なへたり と見 ゆるはあれど 、 古 き歌どもの や うに 、 いか にぞ や、 こと ばの ほか に、 あはれに けし き 覚 ゆる はな し。…歌 の道 の み 、い にし へに 変ら ぬなどいふ 事 もあれど、 い さ や 。 今 も 詠 よ みあへ る お な じ 詞 こと ば ・歌枕も、 む かし の人の詠 め る は、さ ら にお なじ もの にあ らず 、や すく すな ほ に し て 、姿 も き よげ に、 あ は れ も 深く 見ゆ。 梁 塵 りや う じ ん 秘抄 ひ せ う の 郢 曲 えい きょく の 言 葉こ そ、また 、 あ は れ なる事は多 か めれ。 昔 の人 は、た だ い かに言ひ捨 て たる こ と ぐさ も、みな いみじく聞ゆ るに や。 18
網 野 善彦氏や 沖 本 幸子氏に よると、 日本で は 古く か ら 大き な声を出すこ とは 禁忌と さ れ て き た という 21 。 し かし、 仏 教 で は声 を 出 す こ と 、 特に 大き な声 で 念 仏 を 唱 え るこ と は 極 楽往生を果た す た めに必要なこ とと考えら れ て い た。 例え ば 『 今 昔 物語集』 巻 第 十三 「摂津国菟 原 僧 慶 日 語第 五」 では 、 慶 日という 僧 が 「西ニ向 テ 音 ヲ高クシ テ 法 花経 ヲ読 誦」 し て 往生 した ことが書 かれ て いる 22 。 の節を つ け て 仏前 で 朗 詠 す る こ と。わが 国 で は 平安 時 代 ごろに真 言宗と天台宗 が こ れ を 伝 来 し、 中期 以降大いに行われ」 19 て い た も の で あ る。 後 白河院 も 声明 を好ん で いたよ う で、 阿部泰郎氏 によると 、 後 白河院は家寛 という僧 に天台系の声 明 を 集めた 『 声明 集』 を作 ら せ 、 さ らに声明 に すぐれた 人 物 で あ る 「 能読 」 の 一人 とし て 能 譽の 『読 経口 伝明 鏡集 』 に 名 を連 ね て い るとの指 摘 がある 20 。 そ し て そ の経 典 の 読み 方に 声 明 と呼 ば れ る 形 態が 生ま れ 、 日 本 にも たら され たとき 、 経 典 を そ のまま詠 ずる声明とは 別に 、 和語 で 詠ず る和讃が 浄土 教 で 発展し、 民衆 に仏教が 広まる一 因と な った 。例 えば 、 極楽 浄土のめ で た さは 一 つ もあだな るこ とぞなき 吹く風 立つ波 鳥もみな 妙 たへ なる 法 のり をぞ 唱 とな ふなる (一 七 七 番歌 八三頁 ) 周防 ムロツ ミ ノ中 ナル ミ タ ラヰ ニ 風ハ吹 ネ ト モ サ ヽ ラ浪タ ツ ト さ て 、 こ の 様 な仏教的な歌 を 歌 うようになっ た 遊 女 や傀儡子 は 、 寺 社に参詣する貴族 の 前 で そ の歌声 を 披露 する機会 が増 え、 そ こ か ら 貴族社会 にも 今様が広まっ て いった わけ だが、 そ れ だ け で な く、 次第 に彼女た ち自 身が宗教 性、 聖なるものとし て の属 性を帯びるよ うに なる。 その 例 を 次に二 つ 挙 げ る。 といった 、 和 讃に近い もの が 『 梁塵 秘抄 』 の 中に も法文歌とし て 収 め ら れ て いるの で ある 。 今 様 の主な歌 い手 で あ る遊 女 や 傀儡子た ちは 、 各 地 の 民謡 だけ で な く こ のように和讃 をも吸収 し、 自 分の もの とし て 歌 った 。 そ れは単に歌の レパート リー を 増 やすため だけ で な く、 その歌詞 に彼女 たち の共感を呼ぶ も の が あ っ た からだ と も 考 え ら れる 23 。 書 写 性空 聖人 、 生 身ノ 普賢 ヲ 見 奉ヘ キヨ シ、 寤寐ニ祈請シ給ケルニ 、 … 夢ニ 、 生 身ノ普賢 ヲ 見奉ラ ム ト 思 ハヽ、 神 崎ノ遊女ノ 長 者ヲ 見ヘキ由ミテ 、 …長者カ 家 ニオ ハシ着タレ ハ 、 只 今 京ヨ リ上日ノ輩下テ遊 宴乱舞ノ程也。長者ヨ コシ キニ 居テ 、鼓 ヲ打テ 乱 拍子 ノ次第 ヲ トル 。 其詞 ニ云 、 上人 閑所ニ居テ信仰恭敬シテ、 ヨ コ メモ ツカハス 守ヰ給ヘリ。 此時 ニ忽ニ普 賢菩薩ノ形ニ 現 シ、 六牙ノ白 象ニ乗テ 、 眉 間ノ光 ヲ 放テ 道俗 ・ 貴 賤男女 ヲ 照ス 。 即 微妙ノ音声 ヲ 出テ、 実 相 無漏 ノ大海ニ 五塵 ・ 六 欲 ノ 風ハ吹 ネ トモ 、 随縁真 如ノ波ノタヽ ヌ時 ナシト。 感涙 ヲ サヘカタ クシ テ、 眼ヲ 開テ見レハ、 又 本ノコト ク女人ノ 姿ト 成テ、 周 防ムロツ ミノ詞 ヲ 出ス。 眼 ヲ閉 トキハ 又 菩薩 ノ形 ト現 シテ 、法門 ヲ演給フ 。… 24
第三節 後白河院の生 き た時代における今様 一つ目の 引用 では、 神 崎の 遊女 に普 賢菩 薩 が 乗り 移 っ て い る。 菩薩 が無作為 に遊 女の姿 を借り て現れた の で はなく、 遊女 が仏教の 教 え を 歌 っ ていた か ら こ そ 乗り 移った と する ならば、 こ の 遊 女は シ ャ ー マ ン に 近い役 割 を 果 たし て い る と も言え る 。 神崎 君トネ ク ロ、 男ニ ト モナヒテ 筑紫 ヘ 行キ ケル カ 、 海賊 ニアヒテ 、ア マタ 所手 オヒテ シ ナントシケル 時、 我等何シ ニオヒヌラン 、 思 ヘハ イトコ ソ 哀ナ レ。 今ハ西方極楽ノ、弥 陀 ノ誓ヲ念ス ヘ シ。 トタ ヒ ウ タ ヒ テヒキ 入 ニ ケリ 。 其 時 西 方ニ 楽ノ 声 聞 ヘ テ 、 ア ヤ シ キ雲 タナ ヒ キ ケリ トナ ン。 心ニ シミ ケルワサ ナレハ、 今様 ヲウタヒテ往 生 ヲ トケテケ リ。 解脱ハナニ ヲ ワカス、 只 心ノヒク カタニ付テ、 信ヲヽコ スニ ヨル ヘキニ ヤ 。 25 また 二つ 目の 引用 では 、 これも神崎 の遊 女 で ある とね く ろ とい う女 性が、 今 様 を 歌 っ た こ と で 往生を遂げた こ とが書 かれ て いる。 こ れ は 『 口伝 集』 巻十にも紹介され て い る伝説 で ある が、 仏 教 の 正しい経典 で はなく今様を 歌っ て も 往生 で き るという伝 説 は、 今様 その も の に 宗教 的 な 価 値 を与 えた に違 い な い 。 今様は、 以上 のよ うな宗教的な価値 を付加した 今 様を歌う遊女た ち によっ て 、 単 なる流行歌と し てで は なく 、 仏 教信仰の 証、 往生の手 段とし て 広く人々に受 け入 れ ら れるよう になった と言 え る。 すな わち 、 今 様が 芸能 とし て の 地位 を得る ことが 出来たの は、 仏教にお ける声明 や和 讃、 そ して 浄 土 信 仰 の広 ま り に よ る 影 響が大き かっ たと考えら れる。 もちろん 『 梁 塵秘 抄 』 に収め ら れた歌の中には、 宗 教的 で な い歌 も混ざっ て い て 、 兼好法師の 言 う ように、易 し い言葉 で 情 趣 が 感 じられるも の も あ る。 例えば 、 遊び を せ んとや 生 う まれけ む 戯 たは ぶ れせんと や 生 む まれけ ん 恋し とよ 君恋し と よ ゆかし と よ 逢 あ はばや 見 ばや 見ば や 見 え ば や (四八五 番歌 一九六 頁 ) といった 歌の ように、 素朴 なわかり やすい表現も 、 今 様流行の 背景 にあった の で はないか と思 う が、その 点に は今回 は 触れ ずにお き たい 。 以 上 、 今 様 に 対 す る 認 識 の 変 化 と そ の 要 因 を 、 今 様 が 芸 能 と し て 広 ま っ た 背 景 を ま と め な が ら 考察し てき た 。 こ れ らを 踏 ま え、 後白河 院 が 『 梁塵秘抄』 及 び 『 口 伝 集』 をまとめた こ との時 代 遊ぶ 子ども の 声き けば わ が 身さへ こ そ ゆるがるれ (三 五 九 番歌 一五一頁 )
的意義につい て 考 察 を加え て お き た い。 後白河院 が生 き た時代 は、 紫式部や清少 納言と兼好法師 が 生 き た 時代のほぼ中間 の 時代で あ る。 第一 章 で 述べたように、 馬 場氏は、 今様の流行は後 白 河 院によ る 受 容 によ っ て その 絶頂に達 した と指摘し て い る 26 。 しかし 、 後 白河院 自 身 は どうい う 意 図で 『 梁 塵 秘 抄』 及 び 『 口 伝 集 』を ま と め た のだろ う か 。 『口 伝集 』 巻 十の 冒 頭 では、 後白 河 院 が 『口 伝 集 』 を 記した 理 由 を 「 詠 よ む歌 に は 、 髄脳 ずい な う ・ 打聞 うち ぎ き などいひ て 、 多 くあり げ なり。 今 様 には 、 いまださる こ と無ければ 、 俊頼 としより が髄脳 を ま ね び て 、 こ れ を 撰ぶ」 ( 二二九頁 ) の だと述べ 、 和 歌には歌 集だ け で なくその 奥義書も 数多 く存在するの に、 今様には 未だそういう もの がない こ とを指摘し て いる 。 こ れは 言い換 え れば 、 今 様がまだ 芸能 と して 和 歌 や 漢 詩 ほ ど の 地 位 を 得 て い な い こ と を 示 して い る と も 言 え る 。 だ か らこ そ 「 正統 」 な 今 様の継承 者だ という自覚 を 持つ後白 河院 は、 自 ら の手 で 今様を体系 化し て 、 一時 の流行 で終わ ら せる こ と なく 公に 認め ら れ る芸能にした い、と考 えていたと推察 で き る。 (二六八頁 ) 例え ば、 後白河院が自ら の 体験 した今様 示現譚を その日付 ま で 細かく記 し て いるこ と につい て 、 史実との 矛盾 に関わらず話の 信 憑 性 を高め る ため に行 ったの だ とい う指摘 27 は 複数ある。 今様 の 霊験を 後 白河院が 自分の直接 的 な体験とし て 語っ た結果、 今様 に宗 教的な価 値付 けが加わった 可 能性は 否 定 で き な い。 た だ 、 こ こ か ら後白河院の 今様への傾倒 を、 仏教信仰から来るも の だと す る研究 28 もある が 、それ に は 即 座に賛 同 す る ことは出来 ない。 もちろ ん 、 後 白河院が極楽 往生を 望 み、 寺社参詣 を繰り返し て いた こ と は既 に第 一章 で 述 べ て き た 通り で あ る。 で は ある が、 それ は後白河院が 「わ が身五十 余 年 を 過し」 た 後の、 晩 年 に お い ての こ と であ り 、『 口 伝 集 』 十 の 記 述 で 今 様 と 仏 教 が 強 く 関 連 づ け ら れ てい る 印 象 を 受 け る の は 、 まさしくそれ が記されたの が後白河 院の 晩年だったか らだと推 察さ れる。 そ れに 、 た だ仏 教 を 信 仰する 心 から、という理由 で は 、 『 口伝集』 巻十 で 、 と述べる 後白 河院の 、 後世へ自身の 今様 を 受 け継 がせ よ うとす る意 志 を 説明 する には不十 分 で あ る。 こ れ は、 漢詩 や和歌は文字 で 残 せば永久に保存さ れるも の なの に、 今様が 音 声芸術なの で そ の術 を持たな いという 記述 で あるが、 さ ら に踏み 込 ん で 、 誰 も そ れ を 書 き 留めよ う としな い、 書 き 留 める だけの価値を見出 し て いな いと いう嘆 き や 不 満とも捉 えられる。 あるいはまた 、 『梁塵 秘抄 』 及 び『口 伝 集』は後白 河 院の存在証明のため、自 身 の学んだ 今様 を 記 録する ために 編 まれ た と す る 研究 29 もいくつか あ る 。 だが これ らの研究に も、 先 に述べた 今 様を後白 河院 が後世に受け継 ご うとし て いたとい う理 由か ら 賛 成し かねる。 今様 が漢詩 や 和歌 と 同 様に後世 に 語り継がれ る べ き もの だ と 信じる後白 河 院が、 『 梁塵 秘抄 』に今 様 の歌 を 収 集し、 『口伝集 』 で その起源 や 歌 い方 をま とめ たの は、 後白 河院 個人 の 今 様収 集へ の欲 求 を満た すた め 16 おほ か た 、 詩 を作 り 、 和 歌 を 詠 よ み、 手 を 書く 輩 とも が ら は、 書 き とめ つれば 、 末の世ま で も 朽つ るこ となし。声わざの悲し きこ とは、 わ が 身 亡 かく れぬるの ち、 留 とど まるこ と の無 き なり。 そ の 故に、 亡 な か ら む あ と に 人 見 よ、 とて 、 い まだ 世 に なき 今様 の 口 伝を 作 り お く とこ ろ な り 。
本章 では、 今 様に対 するイ メージ の 変 遷 とその 背 景 を 探りながら、 今様がど のように流行 し て いったの か考 察し、 最 後にそれに則し て 後白河院 が 『 梁塵秘抄 』 及 び 『 口伝 集』 をまとめ た こと の時代的 意義 に つ い て も検 討した。 まとめ さ ら に 、今 様が持っ て いた 性質と し て、馬場 氏 は 次 のよ うな 考察 を し て い る 。 今様 は集 団に根ざ し て あるが、 集団 性を基底 に据 えながらも、 その 「 場 」 だ け の個を獲得し なけれ ば 歌 謡 とし て の 生命 を保 てな かった 。 仏教観、 和歌漢詩 文化 によ る季 節感 等の 〈場 に おける集団 性 〉、 また 、 そ れ ら か ら 生 ま れ、今様内 部 に定着した 〈 表現とし て の 集団性 〉 を 媒介と しつつ 、 今 様に 歌われ た始源 を 再 生し、 今 様 の 歌わ れる 「今日 」 の 「 場」 に 重 ね表現 する こ と によ っ て 個を際だたせると いう 二重構造 を持つ こ とによっ て 、 その 「場 」 を 一回的 に表出し てきた。 今 様 を 〈 う た〉 と し て 生かし続 け た 「折に 合ふ」 とは、 今 様 の こ の 表現構 造による もの で あ った 。 30 本章 で 見 てきたように、後白河院の時 代 における今 様 は、一時の 流 行、単なる娯 楽 で はな く、 宗教的な価値 を 付 加さ れながら、 公 に 認 め ら れる芸能へ変貌しつつ あっ た。 そし て 後 白河院が編 纂した 『 梁塵 秘抄 』 や 『 口 伝集』 も それ に資 する 部分 があった と考 えられる 。 た だ、 これは今 様 という芸 能の 側か らの 考察 で あり 、 後 白 河院の思 想 を 完全 に反 映し た も の で はな い。 また 、 後 白 河院が今 様を通じ て 自 身を中心とした人 間関係 を 形成 した こ と は、 今様の持つ、 集団性を基盤 と したその 「場 」 に 応じ た 個 の 表 出と いう 性質と無 関係 ではない と考 えられる 。 第 三章 では 、 こ の こ と を 踏 まえ て 後 白河 院に とっ て の 今様の価値を考察 したい。 馬場氏の 論 では、 今様 は、 その歌が歌われる 「場 」 に いる人間 に共通する価 値観 、 あ るい は共 有される暗喩 という二つの 集団性を基盤 と し、 さ ら にそれ を 用 い た 歌 い換 えによ っ て 、 その 「場」 を 一 回限り の も のと し て 表 出す るこ とを 可能に し 、 歌 謡 と して の地位を 築い て き たと いう。 というよ りも 、 今様が まず 、 同 時代的に 伝統ある 芸能 とみなさ れるための事 業だ ったと考 える方 が妥当 で ある 。 ま た、 「 折に合ふ 」 は 、『 口伝 集』 十 の 中で 後 白 河 院 も 「 折に 合ひて め で た か り き 」(二 六一頁) と使っ て いる が、 その 「場 」 の 状況 ・ 時 宜に適っ て い るという意味の 表現 で ある 。 今様の 歌われ る 「 場」 ごとに 、 その 「場」 の 個を 強 調 す る も の と し て 今 様 が用いら れ て い たとす れ ば、 後 白河 院が自身 を中心とする 今様の 「 場」 を作り続けた こ と に よっ て、 後白河院 は 、 彼 と他者が同じ 空 間や 価値 観を共有し ている と 実感出 来る時間を、 繰 り 返し体験 す る こ とが出 来 た こ とにな る 。 す なわち、 後白 河院は今 様を歌う こ と で 一 時的に他者と意思 を 疎 通さ せ、 一体感 を 得 て いた。 今 様 が持 つ こ の性質は、 後 白河 院が今様の 「 場」 を 形 成した意図を考察 する上 で 、 非 常に重要な要素 だと考 え ら れ る。
こ こ ま で は、 ま ず 第一 章 で 後 白 河院がそ の 人 生に おいて 、 どれだけ 今 様 に傾 倒して い たかを当 時の 政治的背 景 を 含め て 確 認した 。 そ し て 第 二章 では 、 今 様とい う 芸能その もの が、 後白河 院 の 生 き た時 代に どう認 識 され て い たの か を 考察した。 こ こで は 最 後に 、 それ らを踏 まえて 、 後 白 河 院がなぜ こ れ ほどま で に今 様を 好ん だの か、 今様の場 が後白河 院の 思想にどのよ うな影響 を 与 え ていた の か に つ い て考 える 。 第一 章 で 後白河院の 生 涯と今様 の 関 係 に ついて 述 べたが、 後白河院は 三 十歳を目前に し て 即位 するま で 、 政 治とはほ ぼ無 縁 で あった 。 その後白 河院 が政治の 表舞台に引っ 張り 出され、 な お か つ そ の 直後 に、 立て 続 けに保 元 ・ 平治の乱 と い う政 治的混 乱 に巻き 込 ま れ た時、 彼 は 一 体ど んな 反応を 示 した で あ ろうか。 内裏 ニハ義朝ガ 申 アゲヽ ル ハ、 「 イ カ ニ 、カクイ ツトモナクテサヽヘタル 。御ハカラ イハ候 ニカ、 イ クサ ノ道ハカクハ 候ハズ。 …」 トカシ ラ ヲカ キテ申ケルニ 、 十月一日ニ コトキレ ズ、 ミチノリ 法シ 、 ニ ハニ候テ 、 「 イカニ/\」ト申ケルニ、 法性 寺 ほっ し や う じ 殿御マ ヘ ニ ヒ シト候テ 、 目 ヲ シ バ タ ヽキテ、 ウ チ ミ ア ゲ/\ミテ物モ イ ハレザリケ ル ヲ 、 實能 さねよし ・ 公能 きみ よし 以下コ レ ヲマボ リ テア リケル ホ ドニ 、 十 一日 ノ暁 、「サ ラ バ、 トク ヲ イ チ ラ シ候 ヘ」 トイ ヽダ サレ タ リ ケル ニ 、 … 31 まずは保元の乱に関 す る『愚 管 抄 』 の 記 述を 引用する。 第一 章 で 確認し た よ う に、 後白河院は前半生 では ほ と んど政治に関わる 事 は なく、 ひ た すら今 様 を 習 得 する ことに執 着し ていた 。 そ し て二十九 歳 で即位し て か ら も、 保元 ・ 平 治の 乱 を 始め 多 く の 政 争 に巻 き 込 まれたにも か かわ ら ず 、 今 様に対する情熱は決し て 冷 める事はなかっ た 。 こ れ は一体な ぜだ ろうか。 ま ず は、 後白河 院 の 政 治の 場面 における 言動 と、 今様伝 承 の場面に おけ る 言動 をい くつ か 取 り上 げ て 、 後白河 院 に とっ て今 様を歌うとい う行為はどの よう な意味を持っ て いたの か 述 べ てい き た い。 第三 章 後白河院 が今様の場か ら得た も の こ れ は、 保元の乱の開 戦時 に、 源義 朝に 追討 の宣 旨を下す場面 で あ る。 法性寺殿 、 す なわ ち関 白忠 通は義朝に 決 断を迫られながらも、 後 白河院の様子を う か が っ て な か なか返事を し よ う とし ない。 後 白 河 院の 様子 は描 写 さ れ て いな いが、 忠 通 が すぐに返 事 を 出来ない でいたの だか ら、 後 白河院 も 同じ よ う に黙 っ て いたの だ と推 察される 。 こ れま で 今 様三 昧の 日々 を過 ごし、 政 治に明 るくない 後白 河院 が、 京中 で 戦 乱が 起 き そ う だと いう こ の 緊迫 した 状況 で 即 座に決断 を下 す こと が出来なか っ たの は当然 で ある。最 終的 に『 愚管抄 』 では忠通 が 命 令 を出し 、 『 保 元物語』 では はじめ に 第一 節 政治的不 遇