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明治軍国主義と社会教育 : 佐渡の「社会教育家」本荘了寛の場合

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Academic year: 2021

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(1)明治軍国主義. と社会教育. -佐渡の「社会教育家+本荘了寛の場合. The. Role. of. 久. 木. Adult. Education. Case. of. Honjo^. Ryo^kan,. A. ”Leader Yukio. in the. in Mei3'i. of Militarism -The. 男*. 幸. of Adult. Formation. Era Education”. in Sado. lsland-. HISAKI*. 序 明治期の軍国主義が,日清戦争(1894-95年)を一つの実機として形成されていくこと ほよく知られているが,この間に社会教育(当時ほ通俗教育と呼ばれた)が果した役割につい. ては多くの先行研究において論及されており,とくに青年団体・婦人団体の役割が重視さ れている1'。しかし軍国主義に取り込まれたのが青年・婦人だけでなかった以上,佐々木 隆爾が, 「地方における軍国主義鼓吹老2)+としての地方有力者層の存在を指摘している 視点ほ重要である。佐々木ほ,地方有力者層が直技・間接に青年・婦人・一般成人および その団体に働きかけ民衆の間に軍国主義思想を普及せしめていく過程杏,愛知県の場合に っいて克明に分析しているが,同様の事例は愛知以外の各地にも見られる。本稿で扱う佐 渡においても,尚武会や兵事談話会などの軍事団体が日清戦争以前に成立しており3),日 清戦争勃発とともに著しく活発化したこれら軍事団体の1)-ダーシップをとったのほ,也 方有力者層や地域の社会教育指導者たちであった。明治軍国主義の形成に果した社会教育 の役割を考える場合,青年団体の練武活動,婦人団体の他兵活動だ桝こ視野を限るべきで ほあるまい。. その上,一般民衆が-青年・婦人・成人を問わず-,平坦な直線コースを辿って掛こ軍国主義思想にとらえられていったのではないという事実も,また見落されてはなら ない.日清戦争中の熱狂ほ,確かに民衆を軍国主義の一色に染め上げたかのように見える けれども,その後の事態は必ずしもそれほど単純なものでほなかったと思われるoこのこ とは,戦中,軍国主義鼓吹に狂奔した教育界の中からさえ,やがてそれへの「批判や反. 軒,+が生まれている事実からも,容易に察せられるところであるoその地域主義的孤立 性のゆえに,. 「軍部の強大な政治力と侵略主義の後見のもとでのみ,地方住民に対する威. *教育学教室(°ept.. of. Education).

(2) 38. 久. 木. 幸. 男. 信と支配力をもちえた5)+といわれる地方有力者層の場合はともかく,それ以外の一般民 衆や地域の社会教育1) -ダーにとってほ,軍国主義への没入ほしょせん一時の悪夢でしか あり得ない。日清戦争を出発点とし,. 10年後の日露戦争を大きい劃期とする明治軍国主義. の形成過程で彼らが示す軍国主義-の姿勢は,非常に屈折した形のものとならざるを待な いのである。. 実際にどのような屈折があったかを,本稿では本荘了寛のケースに即して検討したいo 本荘ほ1880年代前半を自由民権泥の小学校教師として活動し, 80年代後半以降,社会教. 育にその活躍の場を求めた佐渡の真宗大挙泥僧侶であるが, 1886年までの彼の活動につ いては前稿で論じた8).本稿ではこれをうけて,. 1887年(明治20)の『北浜雑誌』創刊に. よる啓蒙活動,日清戦争中の活発な「銃後+活動, 1896年(明治29)に始まる明治紀念 堂7)建設活動など一連の社会教育活動を,当時の佐渡の政治状況,民衆の動向などをも視 野に収めつつ考察する。佐渡出身の戦没者を紀り,後世「佐渡の靖国神社8)+と呼ばれた 明治紀念堂建設の意味ほとくに徽妙であるが,結論の一部を先取するなら,明治紀念堂ほ 「佐渡の靖国神社+と単純に割り切り得ない面をもっており,明治軍国主義形成期におけ る社会教育家としての本荘の歩みの屈折を,そこに読みとることもできるのではないかと 思われるのである。 注. 1)宮原誠一『教育史』. p・. 176.国立教育研究所編『日本近代教育百年史』. 2)佐々木隆爾「日本軍国主義の社会的基盤の形成+. 7,. (『日本史研究』68号,. 594,. p.. p.. 633.. 1963年11月,. p.. 30). 3). 「徴兵の授賞+ (『北浜雑誌』15号, 1894年5月,. 4) 5). p.. 1889年1月,. p.. 12),. 「佐渡兵事談話会+. (同誌80号,. 26).. 海原. 徹「日清戦争と教育+ (『人文学報(京都大)』 30号, 1970年3月, 佐々木隆爾「日本軍国主義の社会的基盤の形成+ (『日本史研究』68号,. p.. 105).. 1963年11月,. p.. 23).. 6). 拙稿「一地方教師柾おける自由民権運動-佐渡の「社会教育家+本荘了寛の場合-+ 浜国立大学教育紀要』 17集, 1977年11月p.. 7). 17. (『横. ff.). 「明治記念堂+と書くべきであろうが,本質はつねに「紀念堂+と書いているので,本稿でもこ れに従った.. 8)高橋宏通『佐渡の了寛』. p・. 46.. 『新潟県教育百年史』明治編,. p.. 585.井上鉄夫『新潟県の歴. 史』p.284.. 後年萩野由之が「佐渡の新聞雑誌ほ皆此源泉より出でたる淀派なり1'+と評した『北浜 雑誌』は,持主茅原鉄蔵,霜帝人生田. 裕,印刷人斉藤長三を表面に立てた形で,. 年11月創刊されたo本荘は,佐田白茅が創刊号に寄せた「北浜雑誌序+の中で, 荘,引用老注)日,顔有朋自遠方釆,我欲毎月発刊北浜雑誌,以振興佐州人文。将伯助予。. 1887. 「師(=本.

(3) 39. 明治軍国主義と社会教育. 無蔑師募同心人+と述べたのに対し,. 「篇中往々挙部名,不堪恵悦+と書いているはかは2). 全然名を出Lていない8).しかし発行所北浜社は彼の自坊中興村得勝寺におかれており, 彼が主宰者であったことはいうまでもない。ただし署名入りの文章はほとんど書いていな い。 2-4号に連載された「前浜巡回之記+と9・12号所載の「外海府巡回之記+のみで ある.無署名の論説・社説の中には,彼の手に成ったと推測されるものがあるが,主宰者 としての本荘の努力ほ,経営面のほかは,多数の読者投稿の採否決定と「弟報+欄の執筆 とに主に注がれたようであるo 『北襲雑誌』はその記事の多くを投稿に蘇っており,例え 3月号は,. ば刊行が軌道に乗り出したと思われる,創刊後5か月日の1888年(明治21) 次のような構成になっている。. ○論説(8貫)\…投稿2篇. ○弟録(4京半). ‥‥投稿2篇. ○雑報(7京半). ‥鉱山局長談話・町村聯合会議事など佐渡各地の話題9篇,中央誌紙の抜華4篇,投稿 ○文苑(1頁) ○統計(1頁) 1篇,生活常識1篇 ‥‥円山摂北の漢文1篇 移出荒物数畠中央紙抜葦1篇 ○相場(1/4貫) ‥...3月17日の米穀・砂糖・綿・ 海産物等の相場. ‥. .…. 本文22京余の過半を投稿が占めており,他の号も大同小異である。投稿雑誌と呼んで も差し支えないような構成であるが,それほ実は『北浜雑誌』の狙いとする所でもあった. 創刊以後21号まで,同誌は次のような「例言+を巻頭に掲げている。 ①. 北浜雑誌-政治上ノ所見ヲ除ク外凡テ百般ノ学術技芸二閑スル時事及諸大家ノ論読 ヲ蒐集シ専ラ本州ノ民智ヲ開発シ事業ヲ振興セシムルヲ目的トス 本誌ノ文章-極メテ平易ニナシ傍訓ヲ附シテ何人ニモ解読シ易カラシム. ② ③. 本誌ノ目的ヲ稗補シ給フ諸君-陸続高説ヲ寄セラレン事ヲ望ム. ④. 本誌ノ発免-毎月一回ニテ耗数二限アレバ寄稿一々登録スルヲ得ザル場合アルべシ. 然ドモ登録セサルモノ-悉ク浄写シテ机側二備-他日ノ参考二供ス-シ4ヲ このうち③ほ『北浜雑誌』が読者投稿を重視し,その記事の多くを投稿に依存する意図 をもっていたことをうかがわせるが, ②と関連させてみれば,同誌がいわゆる大衆路線を 貫こうとしていたことをも示している。むろん読者大衆に依拠するのは雑誌(同人雑誌で ない限り)として当然のことであろうが,読者投稿の重視は,必ずしもすべての投稿を掲 ①は投稿の採否決定の基準を示 載することではなかった。このことは④に明らかであり, したものともいえるが,それほ同時に「本誌ノ目的+,つまり『北浜雑誌』刊行の趣意で もあった。もっとも同誌刊行の趣意は,創刊に先立って,.本荘が「保証金+の寄附を募っ 「例言+に記され た際の「北摂雑誌保証金有志簿+冒頭の「緒言+にも述べられているが, た趣旨とほ,表現のみならず内容的にも,微妙な相違がある。この「緒言+は従来知られ ていない史料なので,まず全文を次に掲出しよう。 緒. 言. 此度我等雑誌発免ノ挙ヲ企ツルト錐微力如何トモナシ難キヲ以テ左二万法ヲ概陳シテ全 国知己諸君ノ賛助ヲ請フ 北浜雑誌発免ノ法.

(4) 40 (ママ). 一本誌-北浜雑誌卜名ケ一月一回発免スル者トス ー記載種目-教育衛生宗教勧業官令統計物価ニシテ之ヲ官命論説薙録雑報文苑紋計物価ノ諸欄二 分ツ ー印刷-四号活字ニテ紙数-廿ページトス. (ママ). 一定価-ー冊四銭外二-銭ノ郵税ヲ要スル者トス 但シ本州国中筋ヨリ相川市中-毎回脚夫ヲ用ヰ別二郵税及ヒ配達料ヲ要セス ー雑誌代価-前金又-即金ニテ申受クルコト、ス ー発行所ヲ中興ニオキ北浜雑誌俊事務所トス ー保証金百七十五円トス (ママ) 但シ此金額-全国ニテ身元アル有志ヨリー名二付五円ツ、ヲ依疎スル者トス 一本誌発行期限-向フ満五ケ年トス (ママ) 但シ右期限内卜雄発行ノ見込ナキトキ-之ヲ停止シテ保証金ヲ夫々返附スル者トス (ママ). -保証金出金老人-発起人ヨ])収領収証ヲ差出ス者トス. (ママ). -保証金調達ノ上-有志諸君ノ協議ヲ開ヒテ前条ヲ履行スル者トス 予. 算 雑誌五石部売却代収入. -金二十円. 但-部ニ付四銭ツ、. 内 金十円. 印刷料. 金一円五十銭. 但一部二付二銭ツ、. 配達料. 金二円. 起草委員報酬. 金二円. 諸雑誌購求費. 金四円五十銭. 事務上諸費. 発起人. 本荘了寛⑳5). 後述の如く本荘は,創刊後5年8か月日の1893年(明治26). 6月, 『北浜雑誌』から手 を引くのであるが,その原田は経営的な行き詰りにあったと従来いわれていた¢'。 「緒言+ にみえるとおり,. 1冊4銭,約500部発行という線が終始守られたので,経営的に若しか. ったことは確かであろうが,雑誌存続期間を5か年とすることが当初からの予定だったこ とが, 「緒言+によって知られる。 『北浜雑誌』の刊行が刺激になって, 5か年の間に他の 雑誌が生まれることが期待されていたのであろう。本荘ほ同誌から手を引いて畑野村の本 間慶四郎らにその経営を譲り渡すに当り,本間たちに「兎に角何乎発刊する+意向がある のでバトン・タッチする旨を述べており,また彼らが失敗した際は「再び取戻し世話仕り 度き覚悟に有之供+ともいっている7)。予定し期待していたとおりの事態になったと考え た結果が,本間-の経営移譲となったものであろう。 このはか「緒言+から新たに知られることは,政治に関する報道を一切しないという方. 針を,当初本荘が打ち出していたことである。. 「緒言+における「記載種目+には政治が含. まれていない。これに対し「例言+では「政治上ノ所見+を退けているが,報道までもシ. ャットアウトはしておらず,両者の問には微妙な相違がある。事実『北韓雑誌』が掲載し 4号で県議半数改選結果が報道されたのを. た政治報道は非常に多いとはいえないものの,.

(5) 41. 明治軍国主義と社会教育 始が,,. 1888年当時佐渡最大の政治問題であった郡役所移転問題についても・その発生か. ら収束まで逐一報道しており9',以後政治報道は漸増しているo. 「緒言+からもうかがえる. ように『北浜雑誌』は一般民衆向けの綜合雑誌的なものとして構想されているので,政治 「緒言+の方針が「例言+の線に改めら. 報道だけを切り捨てる不自然さが恐らく反省され, れたのであろう。. 「民智ヲ開発シ事業ヲ しかしながら1880年代前半に自由民権運動にかかわった本荘が, 「政治 振興セシムルヲ目的トス+と「例言+で張った『北浜雑誌』を発刊するに際して, 上ノ所見+の掲載を退けた理由や意図は必ずしも明らかでないo民智の開発や事業の振興 が政治と無関係でないことを,当然彼ほ知っていた筈だからであるo民権運動の挫折が彼 「百般ノ学術技芸+に専心させたとの推測も可能 をして「政治上ノ所見+に背を向けさせ, であるが,恐らくそうではあるまいo当時の本荘は決して政治批判の視点を失なっていな. いからであり,このことは『北浜雑誌』 2-4号に連載された「前浜巡回之記+からも読み とることができるのである。 『北浜雑誌』創刊の1887年11月は,久しく雌伏していた民 権派が気息を盛り返す「三大事件建白+運動の大きいうねりが新潟県にも波及した時掛こ 当るが10,,翌12月発行の同誌2号から連載の始まる「前浜巡回之記+において本荘は・ 「国事二殉ゼシ+指導者が椎泊村から出た「寛延二年佐渡一国強訴+一件の蘇末を,同村 故老からの聞書として詳しく紹介しているo 「前浜巡回之記+は佐渡南岸地方の視察記で ぁり,そこに-撰の記事が現われるのはやや奇異の感を懐かせるものがあるが,. -挟の記. 事に托して訴えるべきものを彼がもっていた,つまり,何らかの訊刺の意図がそこにあっ た,と考えられるのである。 いったい1747年に起ったこの-挟は,官側(佐渡奉行所および地役人)から47人とい ぅ多数の処罰老を出したことに特徴の一つがあるが11',これをわざわざ本荘が取りあげた のは,. 1883年の有田真平(相川町). 「不敬+事件12'や高田事件など佐渡・新潟における運. 動弾圧を暗に非難する意味を含蓄してのことではなかったかと思われるo彼ほ/「余之を想 ふに徳川氏の政治今-批難も多けれど一体の制度-能備-れりと見ゆ+と述べており,訊 2号の発行日付が, 「保安条 刺の意図は明白である。この文章が発表された『北浜雑誌』 例+公布・施行の12月26日の前日に当っているのほ全くの偶然であろうが,本荘は4 号においてほ「嵯,法網愈密にして罪人愈殖ゑ13'+と,明らかに「保安条例+を意識した 掛、那陀試みているo. 「政治上ノ所見+を直接の形で述べることを避けたのは,決して政. 治批判の視点を放棄することではなかったのであるo当時旧自由党系と改進党とに大きく 分裂していた佐渡の政治状況の中で,特に一方に与しないという点にその主眼があったの であろう。つまり旧自由党系・改進党系を問わず・全佐渡の支持のもとに『北浜雑誌』を 発刊し維持して行こうとする本荘の態度が, 「政治上ノ所見+の排除という形をとったの である。 そしてこのような彼の姿勢を如実に示すものほ,. 「北浜雑誌保証金有志簿14'+であろうo. 次頁第1表はこれを表化し若干の説明(備考)を付したものであるが・これによれば保証金 募集に応じた「身元アル有志+ほ合計95人,政治・経済・文化の各方面における有力者.

(6) 42. 第1蓑. 北浜雑誌保証金寄附者. 所. 保. 証. 金. 寄贈金. 備. 後藤五郎. 治 雑・国中村舟下. 5 円. 5円. 酒造,代議士(国,. 山. 本. 桂 雑・新町. 5 円. 7円. 医師. 小. 林 本. 大. A. 雑・真野村国分寺. 5 円. 門. 慶 雑・小倉村長谷寺. 5 円. 路 信 菊 池新大. 如 雑・三宮村宮浦. 5. 円. 郎 雑・小倉村小倉. 5. 円. 佐藤市之盈. 加・長畝村長畝 作 加・長畝村長畝. 5. 円. lo門. 5 円. 5円. 藤 瑞 磯 部八五. 軒 加・吉井村大和. 3. 円(5 円). 郎 雑・国中村皆川. 2. 円50銭(5円). 島. 正 加・新穂村. 2. 円(5円). 加・吉井村吉井. 5. 円. 忠 加・書井村大和. 1. 円(2円50銭). 郎 雑・金沢村中興 郎 雑・河原田町. 5 円. 山 小. 佐. 藤. 藤. 加. 田. 則. 地 長 棉. 葉 野 太. 備. 高 檎 宿. E). 又三. 5. 井. 直 雑・河原田町 雑・五十里町 児玉茂右衛門 蘇 津 推 宝 雑・二見村二見湊 育 柳 雄 造 雑・相川町 雑・相川町 秩 田藤十郎 長 谷川元 良 雑・相川町 黒 部 権 士口 雑・相川町. 慶宮寺住職 酒造. 5円. 円. 5 円 2. 円50銭(5円). 5円. 5 円. 5円. 5 円. 5円. 未収(5 円) 2 円50銭. 2円. 55.0. 雑・金沢村中興. 5 円. 5 円. 植. 田 六. 十 郎 雑・金沢村中興. 5 円. 5. 石. 壕. 秀. 円. 5 円. 市. 棉. 顔. 莱 雑・金沢村中輿 蔵 加・梅津村梅津. 5 5. 円. 5 円. 渋. 杏. 良. 節 加・加茂歌代村. 3. 円(5円). 3 円. 児. 玉. 袷. 辛 雑・金沢村新保. 2円50銭. 本. 間. 徳. %. 1円50銭(2円50銭). 柄. 釈. 中 鳴. 村. 士 FI. 上. 赤塚左浅. 井. 貞. 斉 藤 実 蘇 木紀太郎 長. 野. 児. 玉. 郎 雑・相川町. 2. 円50銭. 寛 雑・相川町. 1. 円. 吹 郎 雑・相川町. 長. 1 円. 蔵 雑・相川町 郎 羽・小木町. 2. i J3. 2 円50銭. 加・新穂村 義 加・潟上村潟上 加・夷町 頴 加・青井村横谷 内 雑・金沢村新保. #. 5 円. 樵. 五. 村長(89). 2円. 之 八. 丸 岡重. ×. 国分寺住職 長谷専任職. 田 五. 雑・河原田町. 94), ※. 円50銭. 5 円. 2 円50銭 3. 円(5円). 5 円 5. 円. 円. &&1 県議(自) ※. 村長(89) ※. ×. 医師. 新保戸長,村長(93),牧畜会社 (93). 僧侶. 2円50銭i芸警i9?'右芸芸g3' 1円. 代言人.

(7) 43. 明治軍国主義と社会教育. 節. 村. 岡. 生. 田. 金. 光. 重. 静. 保. 蔵 雑・八幡村八幡 裕 薙・五十里町. 2円50銭. 其 雑・二宮村真光寺. 2円50銭. 証. 金. l泰贈金 備. 2円50銭 2 。. 雑・二宮村石田 近藤書左衛門 平 石 塚、東 雑・二宮村石田. 2円50銭. 本. 秀 加・新穂村北方. 2円50銭. 郎 加・明治村原黒. 5円. 5円. 県議(自),代議士(国,. 善. i 【コ. 雑・金沢村千種. 5円. 5円. 牧畜会社,県議(改, (93)×. 円. 読 雑・金沢村千瞳 本 雑・金沢村千種. 5円. lo門. 5円. 3円. 山本伝十 遠 藤 日. 郎 雑・三宮村三宮. 2円50銭. 運 雑・真野村阿仏坊. 間. 明 雑・真野村竹田. 2円50銭 未収(1円). 多. 敬. 鵜飼郁次 橘 伊. 長. 藤 嶋. 宜. 河. 原. 遠 松. 本. 間. 駒. 本. 草 雑・三宮村後山 治 雑・畑野村. 雑・畑野村畑本郷 渡部主左衛門 河 原 貫 作 加・新穂村下新穂. 2円50銭. 5.銭I蓋蓋?霊宝 立蓮寺住職'. 正覚坊住職 村長(89),県議(国, 妙宜寺住職 僧侶. 1甲 1円. 酒造. 1円 3円. 1円. 県議(改),村長(89)x. 3円. 村長(89). 馬 加・河崎村川岬. 2円50銭. 医師. 舟 加・河崎村川岬 阿 加・富岡村椎泊. t円. 白 井. 章 加・富岡村雨尾. 1円. 石】家清次. 郎 羽・赤泊村. 1円. 1円. 田辺九郎 松沢雄次. 辛 羽・赤泊村. 3円. 5円. 邸 羽・赤泊村 茂 羽・真浦村新保. 1円. 1円. 節 羽・羽茂本郷村 郎 羽・小木町. 1円. 輝 羽・小木町. 1円. 袷 羽・岬村金田新田 敬 加・湊町 郎 羽・岬村宿板木. 1円. 広. 悦. 鐙 雑・金丸村四日町. 1円. 良. 三国五郎次 角 坂 有 甲 須. 田. 斐 藤. 湖. 賢. 兼. 辺. 中川勘太 風間儀大 飯 田 春 金田太.辛 浜. 松. 有田久四 三. 浦. 庵 加・明治村下久知 加・明治村城膜. 1円. 1円. 2円50銭 1円. 雑・平泉村泉. 1円(2円50銭). 最 上. 雑・相川町 雑・金沢村新陳. 未収(1円). 児玉甚右衛門 笹 井 祥 作 雑・沢板町村. 1円. 池. 1円. 田. 球. 道 加・秋津村秋津. 次頁をこつづく. i賢. 50銭(1円). 高橋磯次郎 隆.衣. 93). 医師. 5円. 国. 83)村長. 〉〈. 医師. 三. 90), ◎. 3円. 2…壱; 3円. 92) ※ 村長(89)県議(国, 90) ※ 酒造,県議(国,. x.

(8) 44. 節. 武. 痩. 書 加・加茂歌代村. 北 見 与三郎. 雑・平泉村泉. 保. 証. 金. 寄贈金 村長(89),越佐汽船支配人 (93) ※. 1円 2円50銭. 1円. 守. 庭. 泰 加・新穂村北方. 教師. 池. 野. 最. 平 雑・国中村皆川. 中. 沢. 鎮. 雅 羽・松ケ崎村松ケ崎. 村長(89㍉ 県議(自, 90)◎ ○. 佐々. 暮. 木俊歳 西. 雑・相川町 禎 羽・羽茂本郷村 禎 羽・羽茂本郷村. 周. 美濃部 富田新右衛門 佐. 藤. 栄. 1円. 教師(⊃ 医師 度津神社宮司○. 雑・相川町 八. 雑・相川町、. 50銭. 雑貨商. 西山忠梧朗. 雑・相川町. 伊藤政太郎 古 川 敬. 雑・相川町 次 雑・相川町. 越佐汽船取締役. 藤. 光 雑・相川町. 教義新. 木. 佐々. 日. 木篤蔵. 雑・相川町. 浦本金太郎. 雑・河原田町. 立. 浩 雑t二宮村石田. 敬. 水産物加工. 商業,町議(89) 50銭. 医師○. 注)氏名・住所・操証金は「北浜雑誌保証金有志簿+に,他ほ『北浜雑誌』各号による.ただし 住所ほ町村合併(1892年)後の町村名により,部名は雑(雄太),加(加茂),羽(羽茂)と 略記したo 「保証金欄+の空欄は「有志簿+軒こ金額の記入のないことを, ( )内の金額は寄 附申込額を示すo寄贈金は1888年5月以後募集された『北浜雑誌』維持費の寄附額。備考 欄+の職業・地位は1887年時のものを主とし,その前後のものは年代を( )内に付記し たo県議・代議士の所属党派は,自 伯由党および同党系),改(改進党),国(国権党)と 略記o ※は地主会員(1892年), ○ほ『北浜雑誌』 51号 ×は非地価同盟員(1891年), において「寄書又は通信に労をとった+とされる人, ◎は68号までの,それ以外の寄書 者。. をほとんど網羅している。このうち文化人および政治指導者の人数を抽出したものが第2 義,郡別・応募金額別に全体を整理したものが第3表である。これらによると文化人が総 数の40%近く,佐渡全島および地域の政治的リーダー(佐々木のいう「地方有力者層+)が約30. %を占めていること,後者を県議クラス以上についてみると,国権党系と自由・改進の民 党系とが同数であること,地域別では雑太郡が多いがむろん三郡に亘っていることなどが. 判明する。著名人で保証金募集に応じていない人としてほ,雄太郡相川町幅野長蔵・松栄 治作・浅香周次郎,沢根町村青野半五郎,加茂郡夷町若林玄益,湊町北慶太郎,外海府村 梶井五郎左衛門,羽茂郡亀之背村松本八十八などをあげることができるが,彼らが本荘の 寄附依頼を拒否したのか,それとも本荘が依療しなかったのかほ明らかでない。しかしこ の8名のうち,幅野・松栄以外の人びとは,本荘が翌1888年5月から新たに始めた「寄 贈金+ (『北浜雑誌』維持費の寄附)の募集には応じている.いずれにせよ『北浜雑誌』ほ,.

(9) 45. 明治軍国主義と社会教育 第2表. 保証金応募者中の文化人および政 治指導者 教. 師. 4. 医. 師. 14. 人. 2. 言. 代. 化. 僧. 侶神官. 小. 政 治. 指. 計. 保証金応募者の地域別・応募金額 別. 義 士 ●. 県. 読. 合 雄太. 加茂. 長・町. 5円. 19. 7. 1. 27. 37. 3円. 1. 5. 1. 7. 14. 5. 19. 1. 1. 国. 権. 党. 自. 由. 党. 1. 改. 進. 党. 6. 長. 村. 2円. 計. 1円50銭. 1. 1円. 8. I. 17. 50銭. 1. 31. 無. 者 小. 計. 羽茂. 17. 7. 導. 域. 地. 2円50銭. 代. 戸. 第3蓑. 注)政治指導者は1883-94年の就任者。 代議士・県議と戸長・町村長の双方に 就任した人は前者に数えた。国権党は, 90年以後同党に所属した人を指す.. 記. 合. 入. 計. 1. 14. t. 57. 25. 7. 21. 1. 1. 3. 18. 13. 1. 95. 注)無記入には,金額の記入があるが 「未収+とある分を含む。. 様々の立場に立つ佐渡全土の著名人・各界指導者・有力者の後援を得た綜合雑誌として発 足したのであった。彼らの間の対立を生み出し兼ねない「政治上ノ所見+を持ち込むこと 杏,本荘が避けようとしたのは当然であるoいっぽう,対立をもたらさない問題,いうな. れば彼らの要求や意見が一致しており,さらに一般民衆も支持しているような問題につい ては, 「政治上ノ所見+に踏み込むことも敢えて辞してほいない.その顕著な例ほ,佐渡一 新潟問の海底電線敷設問題であるや 佐渡と新潟の間に海底電線を通じることは,佐渡の全支配層と民衆との利害・要求が一 1883年以後たび 致する問題であり,新潟県会でも佐渡選出県議の提案による建議案が, たび可決されている15'o. 『北浜雑誌』がこの問題をとりあげたのは,. で,磯部八五郎(佐渡・改進). ・内藤久寛(刈羽郡・改進). 1888年12月の県会. ・鈴木長蔵(新潟区・中立)提出の. 「佐渡電線ヲ設クルノ建議+が満場一致で可決された16'ことを契機としている.すなわち. 翌89年3月の17号に,相川鉱山局斎藤精一(筆名産院散人)の論説17'を掲げたのを皮切 19・22号でほこの間題の従来 りに, 18号でほ経費負担についての戸長相談会の模様を, 「佐渡人民の慎発+を悠憩してい からの経緯を,それぞれかなり詳しく報じるとともに, 34号は佐渡における敷設 る18)。次いで31号は,中央における本間題のその後の推移を, 促進運動の状況を簡単に伝えているが19', 39号の無署名巻頭論説(本荘の執筆と考えられ る)でほ,強力な促進運動を展開するベきことを力説して,次のように述べている○. 開く所に拠れば,越佐問海底電線新設の事は,今回政府議案の一部として,帝国議会 に提出し,己に委員会の可決を得たりと,斯悦ぶべきの風聞なりと錐,委員会の議決未.

(10) 46. 久. 木. 幸. 男. 以て大に安心を置くに足らず,騒くは此好機を失せず,大同派にもあれ,改進党にもあ れ,尚志士たるもの,相投起して周旋の労に当り,速に委員を上京せしめて,議会に着 願するの手続を為し,以て議場の輿論を作るの後楯たらんことを要す,香らずんバ,他 日僻を噛むの悔あらんも亦知るべからざるなり,巽くは国家の為に,志士夫奮起せよ20) そして敷設案が議会を通過した後には,. 「一国の歴史上大書スべキ事+と述べ21),その後. も敷設工事の様子を詳細に報道している22)o 『北襲雑誌』がこれほど長期にわたって同一 の問題をとりあげた例は他にほはとんどなく,上引論説のような一種煉慨詞の文章も,少 なくとも本荘執筆と考えられる論説の中には,他に捻とんど見出すことができない。そこ には全佐渡の利害・要求の-一致する問題に対する本荘の姿勢が,極めて鮮明に打ち出され ているのである。. しか.しながらこのような本荘の姿勢が, 『北浜雑誌』をして結局地方有力者層による民 衆統合の手段たらしめる可能性をほらむものであることも否定できない。 『北浜雑誌』が 第4表. 一方では佐渡全有力者層の後援を 受けながら,他方地域の利害を前. 寄贈金寄附著の地域別・金額別 地. 面に押し出して彼らと民衆との一. 域 計. 致点を強調した限りでは,両者の. 雄太. 鉱山局. 加茂. 羽茂. 島外. 5円以上. 12. 7. 7. 、2. 0. 28. 2円以上. 13. 5. 6. 2. 5. 31. 1円以上. 43. 3. 17. 12. 8. 83. 50銭以上 20銭以上. 55. 0. ′21. 25. 9. 110. 動に没頭した1880年代末から90. 111. 0. 44. 35. 1. 191. 年代初頭に至る期間は,`. 20銭未満. 62. 0. 46. 27. 0. 135. 害横溢+の時代とされているが23),. 296. 15. 141. 103. 23. 計. 1. 注) 『北浜雑誌』所載の「寄贈金報告+ 24,. 26,. 30,. 38,. 39,. 41-44,. 1578. (8-19,. 47,48,. 23,. 50の各. 対立・矛盾を糊塗・隠蔽すること になりかねないからである。本荘 が『北浜雑誌』による社会教育活 「地域利. それはまた,横溢する地域利害を 挺子として,地方有力者層が民衆 の統合ー支配を進めた時期でもあ. 号)による。. った,oそしてこの統合-支配を貫 徹する過程で軍部の力が地方に呼 第5表『北国雑誌』発行部数 部. び込まれるとき,それほ軍国主義. 数 典拠. 年間発行部数1号当り平均部数. による支配に転化する24).したが って上述のような本荘の姿勢ほ,. 『北嶺雑誌』による社会教育活動. 1887. 620. 310. p.331. 1888. 6, 414. 534. p.333. 1889. 6, 840. 570. p・20. 1890. 7, 001. 583. p.359. しめる可能性をもつものであった. 1891. 6, 468. 539. p. 364. ということができよう。事実当時. 1892. 6, 822. 569. p.402. 注)各年度『新潟県統計書』によ■る。典拠はその貢。. を民衆支配の道具たらしめ,その 啓蒙活動を軍国主義への啓蒙たら. の社会教育活動の中には,軍国主 義-のレール敷設の役割を演じた.

(11) 明治軍国主義と社会教育 第6表 町村名 北. 町村別寄贈金寄附音数. 戸数寄附者鮎墓IJmT村名I戸数寄附者鮎墓[LHr村名J戸 海. 428. 11. 270. 1. 256. 2. 7. 231. 0. 304. 4. 13. 290. 0. 金. 泉. 632. 12. 相. 川. 2, 836. 96. 沢. 板. 313. 22. 二. 見. 616. 0. 377. 16. 305. 11. 541. 2. 357. 1. 二. 幡 宮. 531. 14. 平. 泉. 352. 21. 金. 沢. 9 60. 78. 中. 242. 2. 畑. 野. 489. 0. 小. 倉. 304. 7. 197. 0. 五十呈 野. 田. 河原田 八. 47. 国. 栗野江 金. 丸. 263. 1. 三. 宮. 399. 2. 真. 野. 472. 3. 新. 町. 290. 12. .2. 瀞 207. 9. 2. .7. 掛喜 241. 0. 388. 2. 438. 18. 502. 19. 364. 1. 207. 13. 721. 9. 250. 1. 208. 0. 571. 1. 214. 1. 323. 3. 231. 6. 192. 10. 52.. 302. 16. 53. 0. 148. 5. 33. 8. 264. ll. 41.7. 493. 12. 24. 3. 9.3. 141. 羽茂郡. 2.6 合. 讐太評卜o,906 28・5陪茂欝t6,848 311. .8. 1[l総. 20. 6. 376. 7. 18. 854. 22. 25. 418. 0. 285. 2. 144. 0. 183. ll. 60. 279. 23. 82. 176. 0. 0. 231. 0. 0. 220. 12. 366. 18. 54. .5 49. .2. 7. .6. .8 0. .0. 0. .1 .4. 4,299. 103. 1 24.0. 計 22,053. 555. 】 25.2. 計. 荏)戸数は1890年の数字(『北摂 雑誌』 34号, p. 29, 35/早, 36号, p・31による) p・34, 寄附音数ほ第4表と同じ。た だし鉱山局ほ相川に含めた. 寄附老輩出率ほ,戸数1,000 戸に対する寄附者の比率.. ものが少なくない。この時点での本荘の活動がこのような役割を担うものとなることを辛 うじて免れ得たのは,彼が一方で民衆を基盤としようとする強い志向をもっていたためで あった.彼は『北摂雑誌』創刊に必要な保証金については「全国ニテ身元アル有志+に療 ったが,赤字補填のための「寄贈金+に関してほ主として一般民衆に依存しようとした. 1888年5月、から90年まで続く寄贈金募集行脚となり,彼は全佐渡各町村を. その結果が,. 歴訪して,零細な寄贈金を民衆に仰ぐのである。 寄贈金応募状況(地域別・金額別)ほ第4表のとおりであるが,総額約500円に達した寄 附者の総数は,第5表に示した『北韓雑誌』発行部数に概ね見合っているo個々には例外 もあろうが,ほぼ全購読者が寄贈金に応募しており,その圧倒的多数ほ寄贈金額50銭未 満の人たちである。わずか5銭という零細な寄附老も12人いる(最高は鉱山局長渡辺渡の 15円)o寄贈金募集を始めるに当って,. 「小ヲ横テ大トナスノ目的ナリ皇5)+と本荘が述べた. とおりの結果になっているのである。また第6表は町村別寄附者数であるが,佐渡全島 55町村のうち寄附老の出ていないのほわずか11村にすぎない。一方,本荘の居村金沢村.

(12) を始め9村では,戸数1,000戸に対する寄附老の割合が50人(つまり5%)をこえている。 本荘が『北浜雑誌』による啓蒙活動を広汎な民衆の支持の上に展開しようとしていたこと 杏,これらの数字は明白に物語っている。 彼がどこまでも民衆を基盤とした社会教育活動を志向した事実ほ,.有力者層と民衆との 対立が生じたような事態における彼の態度の中に,最も鮮明に見出される.このような事 態の代表例は1890年6-7月の「相川暴動+である。釆価の急騰を直接原因としつつ,. 折柄展開されていた第1回衆議院議員選挙戦(佐渡では大同沢の俵補者鵜飼郁次郎と改進党の 輸入侯補益田蒐徳とが一騎討を演じた)のさなかに激発したこの「暴動+についてほ,当時か. ら様々の見解があった26).ここでほそれらの当否を論じるものではないが,有力な見解の 一つほ選挙戦との関連を重視するもので,例えば鵜飼郁次郎は次のように書いている。 小川久蔵ノ暴徒. (小生ノ記録也). ‥‥此暴徒ノ起ル動横-米価暴騰二起因シタルナランモ廿八日夜夷町ノ窮民集リテ-面白半分加勢スルモノモアリ時恰モ七月一日-衆議院議員選挙ナレ-鵜飼二反対ノ候 補者益田ノ運動着力鵜飼ノ得票ヲ減セン為メ暗二応援シテ各地所々二鵜飼ヲ殺七家屋破壊セヨト貼札又-風説ヲ多カラシメテー時-鵜飼二通信無数依リテ充分警戒致シ居ル モ西-中興南-畑野(藤分)辺ニテ鎮静セリ27) 小川久蔵は「暴徒+のリーダーであるが,一方にほ彼の「義侠心+を重視する見解が当 時あったことも,すでに紹介されている28)。これに対して本荘は, 「暴動+直後に書いた 『北浜雑誌』無署名巻頭論説および雑報「暴動の顕未+において,これらとは異なる見解 を述べている29).彼は上記二つの意見を全面的にほ否定していない.とくに「義侠心+読 を一応認めているが,結局それらほ副次的なものに過ぎないとし,. 「市中の細民+が「利. 慾に凝れたる+肝商の米価吊り上げのため「次第に憐むべきの境界+に陥ったことに,.激 発の主因を求めている。むろん一般民衆や相川鉱山労働者の「軽挙妄動+をたしなめては. いるけれども,彼の文章の主蔽はそこにほない。負傷者が出なかったことや, 「暴徒の運 動中やゝ規律ありと見ゑ+る点を特筆し,地方有力者層の中でも「細民+に同情的な行動 をとった人や彼らに対する「暴徒+の態度について,次のように書き加えることを忘れて いない。. 新町山本桂氏の隣家を破壊するとき山本氏が先に村中救助方を首称せしを以て彼等之 を聞き知り「お情の程ほ忘れませぬ+と其厚意を謝し同家の裏手など誤て損所等ありて -相済まずとて夫々手当なし居りたるとか沢板に於いても笹井祥作氏が予て救助米を出 したるを知りて三十余名が被り物を脱して同家に至り其厚意を謝したるなどの事ありと 聞けり. 本荘自身いう如く,・ 「貧民が当初の素志+を明らかにすることに,彼が努めていること がよくうかがわれよう。磯部欣三ほ,当時の民衆の限に映じた「相川暴動+像を故老聞書 などによって再構成しているが,そこでは「暴徒隊+の規律や,暴発にまで至らなかった このような 一般民衆と彼らとの間にあった連帯感の存在などが明らかにされている30)o 「相川暴動+像と本荘のそれとが極めて類似したものであったことは,改めていうまでも.

(13) 49. 明治軍国主義と社会教育. ないo有力者層と民衆とが対立する事態の中で,本荘がどこに自らの視座をおこうとして いたかは明白である。. 『北浜雑誌』が最初に手を着けた仕事が,コレラと大火のため「慈然至極+の状態に陥っ た-漁村への義拍金募集であったことも31),恐らく一つにほ本荘が仏教者だったためであ ろうが,同時に彼の民衆志向の所産と考えて差し支えないであろう。同誌ほその級も,漁 船遭難者遺族への義損金の「周旋+早,磐梯山噴火羅災老故地金の「取次+を行ない,普 た遭難者遺族援助を独自に呼び岳、けたこともあった82'.むろ4J 『北浜雑誌』はこのような 慈善活動のみを手がけたのではなく,本荘自身は「醗吏の圧制を凌ぎ漸民の疾苦を救-ん+ とした義民(江戸時代の-探指導者)の顕彰こそが「真正の慈善なる乎+とも述べている88'. いわゆる「慈善+の限界について適確な認識をもちながら,いわば臨時・応急の策として の救他の呼びかけや「取次+の場として,. 『北浜雑誌』の誌面を提供したものと考えられ. る。. しかし臨時・応急の策といえば,一挺もまた恐らくそのような側面をもつ.民衆の窮乏 を恒久的に克服する途-その経済的自立の確かな途として本荘が『北浜雑誌』で繰り返 同誌ほ当時も「実業雑誌+と目されていたが84', し訴えたのほ,実業の振興であるo. 『北. 浜雑誌』が鼓吹しようとした実業振興が具体的に何を意味したかは,これまで論じられる ことがなかった85).しかし本荘が書いたと思われる論説や,彼が選んで掲載した雑録・論 説などを通じてみる限り,彼が実業振興の名のもとに強調したのは,佐渡の経済構造の根 本的改革と,新しい産業技術の紹介・導入の二点ではなかったかと考えられるoまず前者 について,本荘ほ次のようにいう。. 看よ本州の地位を看よ,北海に孤立する辺土と-いひながら,信越を前にし,北海道 を左にし,京坂を右にし,而も舟梼の便を得たるにあらずや,これを以ても,実業の利 あること明かなり,苦笑業振-ざるか,国民の窮迫に陥らんこと-争ふベからず,香, 目下月日此窮迫の中に在るものなり,故をもて水陸産物に乏しからずと錐も,之を振興す るの資本に乏し--此国の資産家ともいふベきものは,唯金貸を営むを資産家の本業と 思ひ,不道理の高利を貴りて,自己を刺するの外,国利民福などの為に,活用すること あるを知らず--畢竜するに金持なる老は,自家の生計に不足なきをもて,社会-何時 までも,斯の如きものと妄信し,長足なる文明開化が,背後より追迫りて,終に自家を 滅亡せしむるあるを悟らず,いと浅ましき次第にこそ86' 「此国の資産家+の批判に多くの語が費されているけれども,ここで強調されているの は投資のすすめであり,誤解を恐れずにいえば高利貸資本の産業資本への転化である。そ してこの転化によって,実業不振-民衆の窮乏-高利貸の盛行-実業不振という悪循環を 断ちきり,佐渡の経済構造を前資本主義的なものから資本主義的なものへと転換させるベ きことを提案している。しかも「長足なる文明開化が,背後より追迫+る,と述べている ことからうかがえるように,この転換を時代の必然と見た上での提案であった○ 1889年5月来島した農商務省技手船津伝次平が農業 新技術の紹介・導入についてほ, 技術に閲し農民の質問に答えた内容を,. 『北浜雑誌』 21-29号に長期連載したのを始め37'・.

(14) 50. 久. 木. 幸. 男. 農学者横井時敬の塩水選種法,農事試験場技師の新作物栽培法などを詳しく紹介してい る38).また漁業関係でほ農商務省技師の漁獲法・水産物加工法,御料局水産技師の漁獲法 の改良提案などがある89).いずれも専門家による新技術の詳細な紹介であって,その多く ほ実施可能なものであったと思われる.そのはか, 「佐渡において振興するべき事業ほ何 か+を課題とした懸賞論文の募集40),. 『北浜雑誌』創刊5周年記念の美術品および物産の 展覧会など,実業-の関心を高める試みもなされている。展覧会ほ入場者3,000人(会 期2日)といわれ盛会であったが41),実業振興に実際どのような影響があったのかは,む ろん明らかでない。. このように彼が努力した実業振興のための試みの中にほ,単なる提案に終ったもの,あ る程度実現可能だったもの,速効を期待し難いものなどが含まれているが,その何れにも 彼は真剣に取り組んだのであった。しかしこのうちの,前記5周年記念展覧会が,本荘が 『北浜雑誌』に拠って行なった仕事の最後のものとなった。当時の佐渡にほすでにいくつ かの雑誌が発行されており42),北浜社へも森知幾などの青年が新たに加入していた43)。当 時47才の本荘が,世代交代の時期と考えたか否かは不明であるが,. 『北浜雑誌』が日ざ した民智の開発や実業振興が,これらの新雑誌や水産伝習所出身の森によって継東され得. る条件ほ熟していた。そしてそれはまた,本荘が雑誌による社会教育活動から転身し得る 条件の成熟をも意味したのである。 注. 1). 萩野由之「序文+. 2). (本荘了寛『佐渡水難実記』 p. 2). 佐田自茅「北浜雑誌序+ (『北浜雑誌』1号, 1887年11月,. 3). 本荘が『北浜雑誌』誌上で「社員+を名のるのほ5号(1888年3月,. p.. 21. f.). p.. 13)が最初であり,彼. が茅原鉄蔵に代って正式の「発行人+となるのは31号(1890年5月)からである. 4). 0内番号は引用者の付加.なお「例言+の内容は19号(1889年5月)以後,多少変更され, 22号(1889年8月)以後は「例言+そのものが掲載されなくなった.. 5. 得勝寺所蔵.. 6. 高橋宏通『佐渡の了寛』 p.. 7. 「北浜雑誌収支精算報告+ (『北浜雑誌』68号,. 33ff.. 1893年7月,巻末折込).. 8. 「県会議員の改撰+ (『北浜雑誌』4号, 1888年2月,. 9. 「郡役所移転の噂+ (『北浜雑誌』10号, 号,同年9月,. p・. p.. 1888年8月,. 14), 「郡役所移転後の影響+. 所移転諮謁の見合+ (同誌13号,同年11月,. 13). p.. 16), 「郡役所移転の請願+ (同誌11. (同誌12号,同年10月, p.. p.. 19) 「佐渡郡役. 12).その後も政治報道は散見するが,とく. に1892年以後は数多くなっている. 10). 永木千代治『新潟県政党史』. ll). 重刑に処せられたのは,官側が死刑3,遠島7に対し,民衆側は死刑2,遠島1である(『新潟. p.. 142ff.. 県農地改革史』資料篇3,農民動静資料篇, 12). 「故有田真平氏+ (『北浜雑誌』 21号,. p.. 159).. 1889年7月,. p.. 16).. 13) 本荘了寛「前浜巡回之記+ 14). (『北浜雑誌』4号, 1888年2月, p. 8). 得勝寺蔵・保証金の寄附申込簿であって,前掲「緒言+につづいて,後藤五郎治から顕立. 浩.

(15) 51. 明治軍国主義と社会教育 までの95人が,それぞれ申込金額,住所,氏名を記し捺印している.金額の下に異筆(本荘 筆)で申込額を下廻る額が追記されている場合があり,これが実際の寄附額と考えられる・ま た「未収+と追記のあるもの,申込額の記入のないものもある. 善書(佐渡・改進). 15)建議案は1883年にほ橘 改進)によって,. ・石塚秀策(佐渡・自由)・荒川太二(新潟区・ 至(西頚城郡・自由)・田辺実八(中蒲原郡・中. 善書・寺崎. 84年には橘. 立)によってそれぞれ提出され,いずれも満場一致の賛成を得ている(「新潟県第5回通常県 会議事録+. p.. 21ff.. 「新潟県第6回通常県会議事録+ 943. 「新潟県第11回通常県会議事録+. 17. 鹿陽散人「越佐間ニ電線敷設ヲ企図スルモノナキカ+. 18. 「越佐間海底電線架設ニ付テ+ (同誌19号,同年5月,. 19). 「海底電線の噂+. p.. ff・).. ff・. 16. p・. 938. p・. (『北浜雑誌』17号,. (『北常雄誌』18号,. 1889年4月,. 建言+ (同誌34号,同年8月,. 1890年5月,. p・20). 1891年1月,. 39号, 「歳首の辞+ (『北塀雑誌』. 21. 「越佐間海底電線架設ノ詳報+. 22. 46号, 「電信柱+ (『北韓雑誌』. 23. 阿部恒久「明治中期における地方政社の変質の論理と社会的背景+ 1976年8月,. 24). p.. p・. 19)・. 14), 「海底電線及び警備隊設置につき. p・. 20. 1f・)・. p1. (『北浜雑誌』42号, 1891年8月,. 13), 「越佐間海底電線+. p・. (同誌22号,同年8月,. 17), 「越佐間海底電線につき+. 31号, (『北浜雑誌』. 1889年3月)・. 1891年4月,. p・. 23).. 25).. p・. (『歴史学研究』435号,. 39). (『日本史研究』68号,. 佐々木隆爾「日本軍国主義の社会的基盤の形成+. 1963年11月,. p・. 23).. (『北摂雑誌』7号,. 25). 本荘了寛「謹テ有志諸君ニ申ス+. 26). 阿部恒久「明治二十三年米騒動の展開過程+. 27). 鵜飼文庫所蔵. 28). 田中圭一『佐渡-金山と島社会』. 29). 「相川暴徒ニッキー言ス+, 「暴動の顛末+. p.. 1888年5月,. 24).. p・. 1974年6月,. (『新潟史学』7号,. p・. 44).. p・. 1 f・ p・. 168 f・. 1890年7月,. (『北浜雑誌』33号,. 17. ff.). (『地方史研究』136号,. 30). 磯部欣三「佐渡の米騒動+. 31). 「社告+ (『北崇雑誌』1号, 1887年11月,. 32). 「難破船の韓告+ (『北浜雑誌』3号, 同年8月,. p.. p・. 23).. 1888年1月,. 18), 「猟師の瀦死+ (同誌27号,. 33). 67号, 「真正の慈善+ (『北浜雑誌』. 34). 品川弥二郎は1889年来島した際本荘に出会い,. p・. 15. f・), 「噴火の災に死す+ (同誌10号,. 1890年1月,. 1893年5月,. したといわれる(『北浜雑誌』 21号,. 1975年8月).. p.. p・. 22).. 28).. 『北済雑誌』の「実業奨励の主旨たるを称賛+. 1889年7月,. p.. 10).. 35)本荘の実業鼓吹については,前にあげた「例言+の「事業ヲ興ス+を単に引用するにとどまり, その内容を検討している例は見られない(高橋宏通『佐渡の了寛』 編『佐渡金井町史』近代編,. p・. 25,金井町史編纂委員会. 122).. 36). 15号, 「新年を迎へて感を記す+ (『北浜雑誌』. 37). 21号, 「船津農商務省技手農事質問応答筆記+ (『北浜雑誌』. 同年8月,. p.. p.22f.同誌23号,同年9月, 26号,同年12月, p.24f.同誌28号,. 1889年1月,. p.. 2).. 1899年7月,. p・19f・同誌25号,、同年11月, 1890年2月,. p・. 21. f・同誌22号, p・24f・同誌. p.21f.同誌29号,同年3月,. p・20)..

(16) 52. 久. 38)樵井時敬「塩水撰種法+. 木. 幸. (『北浜雑誌』40号,. 男. 1891年2月,. 法+ (同誌, 42号,同年4月, 同誌44号,同年6月,. 7ff.),長沼辛七「薩摩芋栽培. p.. (同誌43号,同年5月,. p.9ff.. p.12f.),同「飼草栽培法+ (同誌45号,同年7月, p・20f,),同「粟を作る法+. 39)河原盛美「佐津ニ閑シテ+. (『北浜雑誌』34号,. 1890年8月,. 8ff.).同「鮭ノ説+. (同誌40号,. p.13ff.),同「佐渡ノ置キ土産+. (同誌42号,. (同誌38号,同年12月,. p.2),鏑木余三男「海豚説+ 1891年2月, p.lo‡.同誌41号,同年3月,. p.. p.21ff.). 1ff.同誌35号,同年9月,. p.. 同年4月, 40). p.10ff・). 「懸賞広告+ (『北浜雑誌』45号, の論文7篇は,. 知幾ら. 1891年7月,巻頭).なお当選した石塚三四書・森. 『北浜雑誌』51-54号(1892年1-4月)に掲載された.. 41). 「北浜雑誌五周紀念陳列場記事+. 42). 1893年頃までに佐渡では,. (『北浜雑誌』61号附録,. 1892年11月,. p.. 4).. 『佐渡廼土皿『義気雑誌』,『青年之友』などの諸雑誌が発行されて. いたことが知られている・が(松本健一『孤島コンミューソ論』p.55),この托か『羽南之少年』 『活男児』(とも軒こ92年発刊)が出ており, 『義気雑誌』は『北斗』と改題されている.いずれ も青年会の雑誌である(「羽南之少年+,. 『北浜雑誌』55号,. 1892年5月,. p.. 18,. 「北斗に活男. 児+同誌58号,同年8月, 43)森が『北浜雑誌』. p・32). 45号(1891年7月)に寄せた社説「我豊好弁乎+には「社未. 知幾+と. 森. あり,この頃北浜社に加ったものと思われる. ⅠⅠ. 『北浜雑誌』を手放した本荘ほ,その後暫くの間「佐渡地図+. (「新訂佐渡図+)の作成に没. 頭したようである。海軍水路部の実測図に依ったというこの地図が出版されたのほ1894 年5月であって1),これもまた民衆啓蒙を目ざした本荘の仕事の一環に位置づけられるも のであろう。ところがその3か月彼の同年8月日清戦争が勃発,佐渡全島はたちまち戦時 色に塗り潰される。 『北浜雑誌』は開戦直後の佐渡の状況を次のように伝えている。 日清開戦の報に接してより以来本州人士は頓に活気を振起し或は義勇団を作り或は撃 鋤場を起し或は予備後備の兵員を招きて訣別の宴を開くなどをさをさ尚武の途に心を注. ぎ殊に本州は兼てより警備の必要ある地位とて専ら自警の策を講ずる者砂なからず2) とくに佐渡のみに限ったことではないが,いわゆる「銃後+活動として行なわれたのほ, 出征老送別会・戦勝祈願・軍用金等の寄附・出征老家族援護・戦死者葬祭・戦況報告会な どであるo『北浜雑誌』に見える限りで,それらの比較的早い例の若干を紹介すると,まず. 送別会としては8月4日夜の国中村のものが最も早い。会場ほ料亭で参加者74人,有力 者の挨拶・演説ののち「酒宴に移り各歓を尽して散会せしほ鶏鳴の頃なりき8)+といわれ ているが,他町村の場合も大同小異である.戦勝祈願は8月7日,加茂郡両津周辺の真言 宗諸寺院が挙行したのが早い例で, 「祈念の中間には参詣者に対し宣戦布告の詔勅を奉読 し国民として報国の志を厚ふすべき旨の説教などもあり4)+と報じられている。軍用金等 の寄附については,森知幾が編輯人だった『北浜雑誌』が,. 1ロ10銭以上の「遠征兵士慰. 労義傘募集+を早速開始した5)o このはか相川の豪商幅野長蔵が陸軍他兵部-. 1,000円の. 寄附を申し出たのを始め6),新町では有力者層および青年の活動が次のように伝えられて.

(17) 53. 明治軍国主義と社会教育 いる。. 同町有力家数氏は此頃軍資金として応分の金品を拠し既に七十余円となりしを以て去 八日(8月,引用者注). -先献納の手続を了し尚引続き募集する計議ある由又青年老中に は献金は老年者輩の事業として己れ等ほ各自に多少の義損をなし在韓兵慰護の為め国産 の鰭を寄贈せんとの計画にて目下奔走中なり7' また相川でほ,区裁判所判事夫人らが「婦人会を組織し市中の婦人連にて拠金し軍資に 献納せんとて目下奔走中の処中々好景気なり8'+といわれているo小学校でも教師が積極 的に指導して,生徒から募金している例が多いが,父母の承認を得ること,平素の貯金な 8月上旬「献納醸書を どからの支出であることを条件に,生徒に「献納の申出+をさせ, 其筋へ執達9,+した河原田小学校の場合は,少なくとも佐渡でほ-ばん早い事例であるo 出征老家族援護に関しては,. 11月末に相川町軍人家族救護会が幅野長蔵・中島善次郎(卑. 護士)の主唱で結成され,翌年9月までに291人の町民から251円を集めている10)。ま た,新穂・国中・大野の「三村有志者+が11月3日,小学生の体操,撃剣会員の剣術試 合を余興に,従軍兵士家族慰問の酒宴を催したような例もある11)o 戦死者葬祭ほ,以上にくらベるとかなり遅れるo遺骨の帰るのが95年に入ってからの 「陸海軍戦死者亡霊大施餓鬼流 ことになったためであるが,それに先立って94年11月, 澄頂+が,恋ケ浦村の寺院で営まれているような事例もある12'o95年7月に営まれた金沢 村出身戦病死老葬儀は,. 『北浜雑誌』が報道した比較的早いケースであるが,それによる. と僧侶50人,会葬者1,000人,葬儀所要時間5時間という盛儀で,郡長代理,同村およ び近村々長・諸団体代表が弔詞を寄せ,やろん小学生も動員されている13'o他の戦死者の 場合もはぼ同様であるが,いずれも公葬(町村葬)の形はとっていないo 以上,佐渡における「銃後+活動の若干例を『北浜雑誌』の記事から抜き出したが,こ れらの活動の多くは,日露戦争以降の諸戦争の際にもほとんどそのまま踏襲されている (ただし戦死者公葬のような例外もある).つまり戦時下「銃後+活動の基本パターンむま日清戦 争期に確立されたのであって,この点にも日清戦争が軍国主義形成過程で有した大きい意 味が認められる。ただし日清戦争時にとくに盛んで,以後はそれはど活発に行なわれなく なっていくものに戦況報告会があるが,本荘の「銃後+活動はこれを主とするも?であっ た。もちろん戦況報告会といっても,報告者の実見に基づくものではなく,新聞の戦争記 事の紹介にすぎないが,新聞の普及度が低かった当時は・すこぶる歓迎されたようであるo 本荘が行なった戦況報告会については, 『北浜滞誌』に次の記事があるo o戦争談話. 村内有志の求めにて本荘氏-開戦以来五日十五日廿五日の三日夜会とし (ママ). て談話をなせしに聴衆ほ追々増加せしも最早荒近き期節新聞も滞りがちとなりたれば来 月(-95年1月,引用者注)よりは十五日の夜一回となせり14) 月1回の開催となってからの状況は,. 千種(得勝寺)の戦争談話は去る旧拾五日の夜杯は日暮早々つめかけ凡五百人己上に 及びしといふ同夜は本荘氏の外に嶋田(高等小学校長)茅原菊池の二氏も教育や農事の ことなど噺されたり15).

(18) 54. 第7表 町村名. 称. 佐渡における戦況報告会の事例. 開催年月日. 主催者. 川 慈善日清幻灯会. 94年10月. 相川衛生会 青年有志. 五十里. 日清戦争幻灯全. 94年11月. 壮年有志. 河原田. 日清戦争現況談話会 94年8月7日 行余青年会. 相. 岡. 上 日清戦争幻灯会. 94年11月. 平. 泉 朝鮮事件談話会. 94年8月8日. 同. 上 日清交戦談話会. 94年10月. 岡. 上. 94年10月. 同. 上 日清事件幻灯会. 94年11月. 同. 上. 94年11月. 同. 上 交戦談話会. 同. 上 日清戦争幻灯会. 95年10月. 金. 釈. 94年11月. 価. 野 日清事件報告会. 同. 上 日清戦争幻灯会. 22-23日. 同. 上. 同. 上. 94年12月. 同. 上. 同. 上. 95年4. 小. 倉 日清事件幻灯会. (第2回) 同. 同. 上. 上. 同. 19 24 25. 同志研究会. 日. 同. 日. 上. 日 日. 上. 上. 17. 94年10月 6日. 17-18日. 94年11月 10. 日. 上 日清事件幻灯会. 95年2月. 三. 宮 日清戦争報告会. 94年9月. 真. 野 日清戦争幻灯会. 94年11月. 26. 日. から月3回 12. 上. 94年11月. 岡. 上. 94年10月. 同. 上. 400. 常念寺. 500. 荒貴神社 平泉小学校 毘沙門堂. 月. 94年11月 12-13日. 200 50. 平泉小学校. 400. 多聞寺. 200. 平泉小学校 多数 上. 同上. 畑野小学校. 200. 玉林青. 500. 志. 報国義会. 同. 上. 多数. 同. 上. 400. 小倉青年会 小学校教員. 200. 海湖庵. 多数. 大字金丸 青年会. 多数 同上. 阿仏坊. 500. 11日 27-28日. 50. 甲午倶楽部. 日. 同. 諏訪神社. 金沢小学校 同上. 有. 19-20日. 94年12月. 多数. 小学校教員. 94年10月. ll-12日. 旧中教院. 同. 日. 同. 同. 志. 95年4月3日 同志研究会. (第3回). 同. 13. 有. 聴衆. 説明者・ 報告者. 輿. 多数. 小学校教員. 5日. 場. 会. 相川河辺 源太郎はか. 多数. 橋本座 同. 上. 同上. 志.

(19) 55. 明治軍国主義と社会教育. 称. 町村名. 日清戦争幻灯会 港. 上. 同. 上 日清戦争幻灯会. 日清交戦談話会. 開催年月日. 14. 日. 94年10月 26. 日. 94年11月 94年12月. 釈. 徳 日清事件学街演説会 22. 同. 上 日清事件幻灯会. 秩. 津 日清戦争幻灯会. =ヒ Fl. 井 日清戦争談話会. 高. 千. 岡. 上 戦況報告会. 同. 上. 亀之背 小. 月. 95年4. 同. 同. 上. 同. 95年4月 7-8. 日. 94年11月 17. 日. 橋本座. 報国義会. 同. 志. 秋津・長江両 村長,重立. 95年4月 から月2回. 94年11月. 上. 日. 94年12月 12. 日. 94年11月 29-30日. 101号,. 小木兵 事談話会. p.28. 洗心会員. 92号,. p.24. 藤木良忠. 93号,. p.27. 日進学会員. 95号,. p.23. 新穂小学校1 1,. 101号,. p.27. 藤木良忠・ 小学校教師. 93号,. p.29. 医師・重立. 107号,. ……貢≡校 =650f. p.33. 越佐新聞社員 93号,. p.30. 97号,. p.18. 小学校教師. 95年3月 10. 輿. 報告普. l多数 戒重一郎. 目進学会 有. 説明者・. 聴衆. 上. 15-16日. 上. 場. 洗心会. 95年1月. 日清戦争幻灯会 木. 日. 会. 主催者. 同. 上. 100号,. 同. 上. 95号,. p.27. 兵事談話会員 95号,. p・25. p.33. #:;o. …≡::竿l -. 注)本荘了寛主催のものを除き,幻灯会を含むo典拠は『北浜雑誌』の号数,および頁o は不明。. と報じられている。本荘以外の報告者は,嶋田則正(金沢高等小学校長). ・茅原鉄蔵(『北. 浜雑誌』前発行人) ・菊池武雄(金沢高等小学校教員)で,村内の知識層であるo. ただし本荘. が開催した報告会を当時珍しい事例だったかのように見なす1¢'のは正しくない。第7表に 示したように,戦況報告会が開かれている事例ほ相当に多いo本荘のように月3回の割合 いで開いている例ほそれはどないが,それでも三宮村青年会ほ月3回,青井村の談話会も 月2回の頻度である。結局個人主催だったことのみが,他に見られない点であろう。第7 表から判るように戦況報告会は,村長・重立・有志などの地方有力者たち,小学校教師, 青年会・学習団体(具体的にはその幹部)によって主催されている.しかもこれら地方有力. 者層や地域の社会教育指導者(団体幹部および小学校教師)紘,前述した送別会・軍用金献 納などの「銃後+活動でもその先頭に立っており,結局彼らが「戦意高揚+,軍国主義思想 鼓吹の役割を末端において担なっていた事実が確認せられる。北浜社から無縁となったの ちの本荘は,どの社会教育団体にも属していなかったが17),他の社会教育指導者たちと同 じような役割を,個人として自ら担なったのであった18)0. 本荘の「銃後+活動でユニークなのは,戦況報告会よりも,村内出征老家族の写真を出 征老に送ったことであろう. 本荘了寛氏は-. 『北額雑誌』はこれについて次の如く報じている.. -相川より写真師斎藤某を碑し-. -一家族毎に撮影せしめ則ち之を征.

(20) 56. 久. 木. 幸. 清兵士拾七名に宛て一枚づゝ贈送したる由-. 男. -是亦兵士慰護の一方便たらんか19). 彼がこのアイデアをどこで得たかは明らかでないが,これをさらに一歩進めて,戦死 者・出征老の写真を一堂に安置することが着想されるに及んで,本荘畢生の事業となった 明治紀念堂建設が始められることになる。そして,. 『北浜雅語』が佐渡警備隊設置に反対. した事実20)に代表されるように,戦中の軍国熱が徐々に冷却しつつあった96年1月,本 荘は次の「明治紀念堂創立之趣旨+を発表する。 鼓ニ有志諸君ノ賛成ヲ求メテ明治紀念堂ナル老ヲ創立セント欲ス其主意-ー昨年以来 征清ノ軍ニ従ヒシ老当国ニテ凡ソ四百五十名内外トノコトナリ此内終ニ弾丸ニ中リ痔毒 ニ触レ死セシ者己ニ三十名ニ及-リ困テ之ヲー堂中ニ祭リ堂側ニ合併紀念碑ヲ建テ、長 ク其冥福ヲ祈リ其忠魂ヲ弔ヒ且物ヲ視テ人ヲ思フノ諺アレ-穿ニ死者ノミナラス四百余 名ノ肖像ヲ--壁上ニ掲ケ常ニ衆人ヲシテ目ニ触ル、ニ随ヒ常時従軍ノ労苦ヲ想-シム (ママ). ルニ在リ其他戟利品寄贈物--ノ集蒐法及合同ノ体裁ニテ州人ト否トヲ問-スー事一業 功績ヲ本州ニ止メタル人ノ肖像ヲモ此ニ掲クル等種々ノ考-モアレドソ-追々ノコト、. シ--余-之ヲ生涯ノ事業トシテ熱心誠意東西ヲ奔走シ地方諸君ノ懇念ヲ仰ガンノミ-ソレ人誰カ身ヲ愛セサラン誰カ家ヲ思-サラン爾ルニー度遠征ノ途ニ就キショリ家ヲ 忘レ身ヲ棄テ--能ク国家無前ノ大功ヲ奏セシト云フモノ-抑モ君ノ為ナリ国ノ為ナリ 兵役-国民最大ノ義務トアレ-佐渡軍人-則チ吾々十余万同胞ノ身代リト云-サルヲ得. ス爾ルトキ-今日之ヲ待ニ相応ノ道ヲ以テスル-固ヨリ地方人民ノー大義務ニアラスヤ 是則チ余力コノ事ヲ発願シ切ニ地方諸君ノ賛助ヲ請フ所以ナリ-明治廿九年一月. 発願者 本荘了寛21) 日清戦争の戦死者・出征老の写真を安置する施設建立のための寄附を呼びかけたこの趣 意書は,. 『北浜雑誌』に広告されたほか500部が印刷・配布されているが22),内容的にみ. ていくつかの問題点ないし検討を要する点がある.その第一ほ,明治紀念堂建設の目的が, 戦死者の「冥福ヲ祈リ其忠魂ヲ弔+う,とされていることであり,これは仏教者・真宗僧 侶らしからぬことばというほかはない。第二は,. 「戦利品寄贈物ノ集蒐+を「追々ノコト+ として,軽くふれるにとどまっていることである。ここに述べられている内容に基づいて,. 佐渡最初の博物館ともいうべき開導館が建てられるのであるが,趣意書では軽く扱いすぎ ているようである。第三ほ本荘の「発願+の出発点となった「佐渡軍人-則チ吾々十余万 同胞ノ身代リ+という思想が,当時の佐渡の状況の中でどのような位置と意味をもってい たかという問題である。これらはいずれも明治紀念堂ないしそれを推進した本荘の活動の. 本質にかかわる問題だと思われるので,次に逐次検討を加えたい。 第一の点が問題になるのほ,仏教ほ本来「霊魂+なるものの存在を認めず,真宗は「祈 る+ことを排するからである。本荘がいわゆる通俗仏教的ないし土俗信仰的な「霊魂+辛 「冥福+を容認していたのか,民衆-の呼びかけを容易にするためあえてそのような表現 を用いたのかほ確かめ難い。後者であれば,. 『北浜雑誌』時代の民衆志向の域をこえて民 衆迎合に陥っていたことになるo紀念堂内中央正面には, 1897年頃から高木庸信書の「忠 魂+の額が掲げられ,のち大山巌書と掛け換えられたという23'.本荘が土俗信仰的なもの.

(21) 57. 明治軍国主義と社会教育. に対して,極めてルースであったことは否定し難いoただ「忠魂堂+や「祈念堂+でほな く「紀念堂+の名を選んだこと,当初本尊(仏像)を安置する計画をもっていたところに, 彼の仏教者としての立場が,辛うじて保たれていたとはいえる。本尊安置の企図はむろん 趣意書には見えないが,その翌々月書かれた新潟県社寺課長井上尭宛書簡に現われているo この書簡ほ今まで知られていなかった上に,後述する開導館問題にも関連があるので,吹. に全文を引用する(〔 〕内は紫筆で書き込まれた井上の回答)o 謹啓 先般-紀念堂二付キ植田氏二托シ御伺ヒ中上侯処別二出鱗二及-サルトノ御事 二付キ其後専ラ建設ノ運ヒニ奔走罷在侯処幸二当金沢-村ノ有志金モ己二六百円二及ヒ 付テ左ノ事御伺中上侯間乍恐御報奉願上院 侯間御安慮奉顧上焼 -敷地-. (三富七十坪)民有地ヲ買受ケコレニ建設スレトキ将来-麻ヒニ由り無税地ト. ナル者ナル乎〔無税地卜為スコトヲ得サルモノト思惟ス〕 一堂-四間半二六間ニシテ此内ニ-上段二有栖川北白川両殿下ノ肖像ヲ安置致シタシ 但シ両殿下ノ肖像-中央ニテ其前面及ヒ左 コレハ何乎其筋ノ許可ヲ得-キ老ナル乎 右ノ壁上ニ-当国ノ戦死者及ヒ遠征者ノ肖像ヲ掲クル事二侯〔蓬生丈ケノ考按ニテ-別 二許可又-承諾等ヲ要セサルモノト思惟ス〕. 若シ将来都合ニヨリ之ヲ安置致シタルトキ-更二 一目下ノ処ニテ-別二本尊ヲ置カス 出駿セハ許可ナル者乎〔衰尊ヲ安置シテ併堂ノ体ヲ為ストキ-出願許可ヲ得-キハ勿論ナレ トモ到底許可セラル、モノい、思惟セラレズ〕. 亦-コレカ管理者けルニハ何乎認 -此堂成就ノ上-何乎御屈ケニテモ致ス-キ老乎 可ニチモ得ル-キ事ナルカ〔届-勿論認可等ヲ受クルニ及バサルモノト思惟ス〕 尚又植日氏ヨリキケ-其中当州-御渡海可成侯由コレ 右案ノ処心得迄二等意奉伺上侯 ハ何頃二侯乎. 何卒紀念堂ノ敷地等御実見顧上度此段凡ノ期日御為知奉顧上供先-尊台. 御自重駿上侯. 頓首拝. 四問半二六問. ○銅票丈ケー丈五尺 一体ノ様子ケ様ナル 者二有之侯. l紀念堂l. i博物室l三間二七間 発瞭老 三月廿五日 社寺課長. 本荘了寛⑳. 井上尭殿. 〔小生ノ渡海-四月若ク-五月下旬ナラン乎卜存侯若シ幸二拝眉ヲ得-重テ申陳スべシ〕雇主勢24). 敷地についての目途も立ち,やがて建築契約もなされる25)直前に出されたこの書簡でほ, 将来新潟県との間に問題が生じるかもしれないと本荘が考えた点について・社寺課長の意 見を予め尋ねているわけであるが,質問事項の中にほほとんど自明と思われるような項目.

(22) 58. 久. 木. 幸. 男. も含まれており,彼が非常に慎重な態度で事を運ぼうとしていることが知られる。それと ともに・敷地の無税化と本尊の安置が彼の強い希望であったことも明らかで,いうまでも なく前著ほ宗教施設としての公認を求めたもの・後者ほ仏教者としての立場を貫こうとし たものであるo社寺課長の拒否にあって実現しなかったものの,本荘の最初の構想ほ十分 にうかがわれるoただ本荘がこの構想をどこまでも推し通そうとしなかったため,紀念堂 の仏教色はわずかに読経などの儀礼面に限られるにとどまったのである。 この書簡でもう-点注目されるのほ・末尾に掲げた図面に「博物堂+が見えることであ るo趣意書でほ「追々ノコト+とされていたものが,. 2か月後のこの書簡でほ建設計画の 中に位置づけられているわけである.書簡にも見えるとおり募金が順調に進んだため計画 を繰り上げたものとも考えられるが・実は博物堂建設ほ本荘の強い意志であった。後年彼 はこのことに関して次のように書いている. (ママ). 回寮スレバ創立者-,明治十九年度ニ北韓雑誌トイフヲ発行シタ--当時渡辺佐渡鉱 山長ノ談話ヲ記載シタ事ガアル・其中ニ西洋ニテ-,学校ト共ニ必ズ博物館トイフ観念 アリテ,市ナリ町ナリ規模ノ大小-兎ニ角,其建物ノ無キ-ナシトイフ事ガアツタ,之 ヲ聞タ創立者-深ク感ズル処アツタノデ,其後-何晶ヲ間-ズ集蒐シテ,時機ノ到来ス ルノヲ待タノデアル26) ・また『北浜雑誌』も,前掲趣意書が発表された当時「行末ほ佐渡の博物館となさん+と いう,趣意書のニュアンスとほかなり違う意図を本荘がもっていたと伝えている27'.公表 された趣意書とほ別に,森知幾や高野問蔵(当時の編輯人)など『北浜雑誌』関係の青年た ちに・博物館早期建設の意図を洩らしていたのかもしれないo一般の受けいれ易さを考え て趣意書では紀念堂を前面に出したため,博物館構想が比較的軽く扱われることになった のであろう。. 最初博物堂あるいは寄贈品貯蔵所と呼ばれていたこの施設の建築が始まるのほ97年5. 月28'・開導館と名づけられるのほ翌98年である29).開導館という名称が『大無量寿経』 に由来することはよく知られているが80'・当時真宗大谷派では正規の学校以外の教育施設. に「開導+の名を付けている例があり31',本荘もこの例にならい,社会教育施設と性格づ けてこの名称を用いたのであろう。.いずれにせよ彼が閲導館の設立・充実に当初から力を 注いでいたことほ明白で・このことは建物建築以前の96年9月,次の願書を鉱山局(御 料局)に提出していることからも十分に傍証される. 今般御所管鉱山学校ヲ廃止之趣キニ付兼ネテ同校-御備付相成居候剥製類及ヒ植物標 本等曾テ自分設立ノ紀念堂-御下附ヲ仰度尤モ保存簿-充分ニ相立脚カ御厚志ニ背カサ (ママ). ル様ニ任侠間何卒御釆用被下度此段奉顕上侯 明治廿九年九月一日. 本荘了寛◎. 御料局支庁長渡辺渡殿82) 鉱山学校閉鎖に伴なう備品散逸を恐れ,逸早くそれを確保しようとしたわけであるが, 本荘のこの下附願いは受けいれられ,備品の多くが彼に引き渡されている33'oこのほかに も彼は開導館展示品の収集借贈依頼・購入)に努めており,第8表に明らかなように開導.

(23) 59. 明治軍国主義と社会教育 第8表. 明治紀念堂・開導館の収支額(1896年1月-1908年12月). 寛〒;冒 日. 項. 1). 2). 3562.. 1896-1902年分 1907-1908年分. 1609. 50 2072. 77. ⅠⅠ.島外寄附金 1). 1903年東京・京都・大阪分. 245.. 2). 1903-04年越後分. 468. 77. 3) 4). 1906年北海道分 1906年東京分. 544. 260. 170.. 5)山本悌二郎寄附 6)外来者寄附. 385.. ⅠⅠⅠ.雑収入 1). 85. 50. 1908年祭典時演劇利益金. 24.. 2)預金利子. 277. 717. 1)敷地購入費. 339. 058. -2)門・門衛所・堺建設費 3)庭園造成費 4)銅柱記念碑建設費 5)修 繕 費. 211. 31 274. 785 478. 831 1410. 327. 6)寄附金募集経費 7)報告書印刷費. 129. 342. 8)落成式・祭典経費 9)雑 費. 258. 478 187. 366 600. 1161. 913. ⅠⅠ.紀念堂関係経費. 980. 033. 1)紀念堂建築費. 181. 88. 2)戦死者・出征書写真代 il. 寄附金中未収分 差引合計 注). 4167. 214. Ⅰ.金棒に関する経費. 10)銀行預金 255. 50. 「創立以来支出入決算報告+ (得勝寺蔵)軒こよる。. 1. 7353.77. ⅠⅠⅠ.国辱館関係経費 60 -340. 7013. 17. 額. 円銭厘. 円銭 5171. 50. Ⅰ.島内寄附金. 金. 目. 1315. 939. 1)国導館建築費. 1070. 499. 2)展示品購入費. 245. 44. 合. 計. 6645. 068. 館関係支出ほ紀念堂のそれを上廻っている。収蔵品の相当部分はいわゆる「戦利品+の類 であるが,柴田収蔵作の地球儀,初代本間濠斎作の銅器,田中薬園・司馬凌海の画像など, 佐渡出身者関係のすぐれた収集品もあった34'(ただしその多くほ現在失なわれている)o 98年 国辱館開館に当り本荘は, 「保存費ノ幾分ヲ助ケ且取締上ノー端+とする目的で「参観料+ (2銭)を徴収しているが85',展示品についてかなりの自信をもっていたのであろうo. しかしながら,当時の地方小博物館として相当に充実していたにしても,開導館ほ紀念 『北浜雑誌』時代の本荘が目ざし 堂の附属施設である.社会教育施設としての開導館が, た「民智ノ開発+を直接継東するものであることは確かであるが,紀念堂はそれとは別の 原理に基づく存在であるoしかも紀念堂一問導館は,いわば一つのセットとして存在する ものであり,どこまでもそのようなものとして佐渡民衆に受けとめられた。貨幣価値の変 動もあり,募集期間も長かったとはいえ,紀念堂一閃導館に対する島内の寄附金総額は, 『北浜雑誌』寄贈金の10倍にも達している(第8表).単に「民智ノ開発+だけが支持さ れたのではあるまい。それどころか,本荘が最初の趣意書で開導館のことを前面に出さな かったことからもうかがえるように,支持されたのはむしろ紀念堂の方ではなかったかと 思われる。本荘が紀念堂一閃導館の寄附を島内各町村から募るに際して,金沢村役場は次 の添状を発行しているが,そこでは開導館に関しては一言も述べられていないo.

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