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大正~昭和初期における中川小十郎の政局観と行動-植民地統治・積極財政の視点-

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はじめに

大正中期に再生産された元老として、西園寺公望(1) 戦前期における国政の重要なアクターであった。この西 園寺が、「最後の元老」、すなわち唯一の元老として戦間 期の、特に政党内閣期を支えたということは、広く知ら れている(2)。その西園寺を公私にわたって生涯支え続け たのが、中川小十郎であった。 中川は、立命館学園の経営者であり、昭和期には学園経 営と西園寺の私設秘書という二つの仕事に奔走した。それ ゆえ、中川個人の政治的な考えや、彼が果たした役割と いうと、明確な像は未だ提示されていないという印象を 受ける。しかし中川は、西園寺のみならず、政界におけ る幅広い人脈を活用し、種々の貴重な情報を発信し、ま た、自らの政治意見を発信していた。それは、陸軍大将 から政友会総裁に転じ、後に首相にまで登りつめた、田 中義一に対して政治意見を綴った書簡が数多く残存して いることからもうかがえる(3) そこからは、中川が田中に対して並々ならぬ期待をか けていたことが看取できる。しかし、一体なぜ中川がそ れまでほぼ交流のなかった田中に接近したのかは、必ず しも明確ではない。中川が田中に接近していくのは、間 違いなく田中義一が政友会総裁に就任したことに起因し ている。西園寺が第二次護憲運動以降、国際協調路線を 標榜する幣原外交を基軸とした憲政会―民政党を支持 し、政友会からは次第に距離を取るようになっていくこ とを考えれば、西園寺と中川は対照的であった。 すなわち、中川は西園寺とは異なる独自の政見を持っ て田中に接近したと考えられるのである。それゆえ昭和 初期における中川の行動原理は、西園寺の意志に拘束さ れて展開されていたのではなく、かなり独自に活動して いた側面が強い。 中川は、樺太庁第一部長・台湾銀行頭取といった植民 地事業に深く携わり、一方では立命館学園をはじめとし た教育事業の実績も持っている。こうした経験も、中川 の政局観に大いに影響していたと考えられる。中川のよ うな、教育者・実業家(特に本稿では後者を検討する)と しての側面を持ちながら、政界とも深く関わりがあった 人物が、いかなる信念をもち、何を期待して田中義一に 接近していくのであろうか。このような視角から政友会 を十分に照射した研究はそう多くはない。政友会員では なく、論説家でもない中川が、いかなる過程を経て政友 会に接近していくのか、それは延いては、政友会という 政党に求められた一側面を解き明かすことにもつながる であろう。

1.政党内閣期以前の中川小十郎の政局観

(1)寺内内閣期―統一行政機構の希求― 寺内正毅内閣期は、第一次世界大戦の結果旧ドイツ領 を委任統治領として管轄下に置いたことや、ソヴィエト 連邦という社会主義国家の登場に伴い、朝鮮・関東州の 権益を確保することの重要性が増大したことに起因し て、新たな植民地統治のあり方が問われた時期であった。 さらには原内閣が成立すると、三・一独立運動が朝鮮で 発生した。日本の植民地統治方針が国際的非難を受ける 中、原はこれに対応する形でそれまでの武断統治から文 化統治へと切り替えた。大正中期は、植民地統治方針の 大きな転換点であったのである。このような状況下にお いて、台湾の植民地経営に対して重要な役割を担ってい た中川の植民地統治観とはどのようなものであったので あろうか。 この時期に水野錬太郎内務大臣に宛てた中川の書簡(4) には、膨大なる国内政治に対する意見とともに、植民地

大正~昭和初期における

中川小十郎の政局観と行動 

―植民地統治・積極財政の視点―

十河 和貴

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の統治方針についても多く言及している。中でも、以下 の記述は注目に値する。 植民地ニ対スル中央監督機関ニ関スル高見近日ノ当 地台湾日々新聞ニ掲載相成リ拝見致候。至極御同感 ニ有之候。此際一省ヲ設置セラレ候カ少クトモ鉄道 院格ノ一部局ヲ設置セラレ植民地行政ノ統一ヲ図ラ レ候事最モ可然 〈傍線部:十河〉 植民地行政の統一のため、一省を設置しようというよ うな中川の主張は、基本的に田中義一内閣期における拓 務省設置構想に通じるものである(5)。植民地行政の統一 機関設置に向けた主張は、この時期より特に政党勢力を 中心に唱えられていた。中川は、関東都督府と満洲鉄道 会社が錯綜している状況を打破するべく、満洲行政を朝 鮮総督府に吸収させて、関東方面における行政を統一す ること、その他、樺太庁を廃止して北海道庁の管轄に移 行させることをも主張している。これはかなり急進的な 意見であり、中川の持論であったと考えられる。  このように中川は、植民地行政の統一を目指して、内 務大臣の水野錬太郎に働きかけたのである。中川は、植 民地行政に限らず、政治全般にわたる、明治憲法体制特 有の分立した機関の統一を目指し、その期待を西園寺と 政友会にかけた。 中川は、「統一ヲ鞏固ニスルニハ其中心ヲ最モ有力者 ノ手ニ置キ各方面ノ連絡ヲ密ニセサルヘカラス」と述べ、 前内閣である大隈内閣を「此階級ニ属スル政務ノ統一十 分ニ行ハレ而モ諸事機宜ノ施設頗ル敏捷」であったとし て高く評価している。同志会(当時過半数政党)の後援を 得ていた大隈内閣による、円滑な行政運用を目の当たり にしたことが、中川の政治思想形成に影響を与えたと推 察されるのである。 さらに中川は、国家政務の進捗において閣僚間の一致 統一は重要であるが、それ以上に実際面において「次位 ニ居ル諸氏ノ一致協力」、すなわち次官クラスの間にお ける意思疎通が「非常ニ大切」であると述べている。閣僚 間の一致という面においては、挙国一致内閣でもあり得 たであろうが、次官クラスの統一を図るとなると、それ は政党の浸透力、それも単一の絶対多数政党の力に求め ざるを得ない。寺内内閣期の時点で、中川は政党内閣を 希求していたということを確認しておく必要があろう。 以上、水野宛の書簡から、大正中期の頃より中川が行 政の統一ということを念頭に置き、政治意見を主張して いたことを確認した。この点と、政友会への期待という 点において、中川はこの時期に、西園寺と政治意見を共 有していた。それは西園寺を文相時代から見てきたとい う面ももちろんあるであろうが、中川独自の経験値から も培われたものであったであろう。特に、水野に対して、 樺太庁廃止を訴える際の根拠として、「無用ノ地位ニ責 任者ヲ置クカ故ニ不要ノ事業ヲ企ツルカ如キ事ハ有リ勝 チ」であるとして、樺太時代の中川自身の上司であった 平岡定太郎を非難しているのは(6)、まさに彼自身の経験 から語られたものであったのである。 (2)中間内閣期―積極財政への期待― 寺内内閣期以降における中川は、水野に宛てたような 政治的意見をほぼ残していない。この時期中川は、台湾 銀行(以下、台銀)頭取に就任しており、特に南方進出の 経営に力を入れていたことが一つの要因ではないかと考 えられる。台銀時代の中川について少し触れておこう。 大正元(1912)年から大正14(1925)年の、大正期の大 部分を、中川は台銀で務めた。特に、大正9(1920)年に 頭取となって以降、南方への経済進出に強い関心を持つ 田健治郎が初の文官総督として台湾総督に就任していた

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こともあり、台湾事業における中川の存在感は増してい く。当該期の中川は、台銀の南方経営を財政面から支え ていた。 田は、南洋協会の会頭を務めるなど、特に南方進出に 関心の強い総督であった。田は当初より経済面における 中川の重要性を強く認識しており、中川もまた、田の政 策に積極的に協力する姿勢を示した。 一例を挙げよう。台湾事業資金融通に関する高橋是清 蔵相との交渉内容を田から中川に伝えた際、中川は次の ような希望を田に対して述べている。 一、 事業資金供給区域は、之れを南洋諸島に拡張 する事 一、 日本銀行の低利資金融通の便を借りるの外、 台湾銀行自ら進みて利益の幾分かを割き、之 れを低利流通の差換に充当する事 一、 台湾拓殖銀行を創立し、農業改善に資する事(7) 〈傍線部:十河〉 このように、中川は南洋方面への積極融資を提唱し、 かつ台銀自らも資金援助を行うことを希望した。当然な がら、田もこれを支持している。 田はその後も積極的に中川との交流を深める。マレー 半島の護謨事業・ジャワ島の製糖事業などの方面に向け て「日銀と金融上声援の協力を急要」とする旨を田は中川 に指示した(8)。中川はこれを受けて井上準之助日銀総裁 と交渉し、協力を取り付ける(9)。こうして中川は、田の 信用を得ていった。田が原首相に対して「中川台銀頭取 継任の必要事情」(10)を訴えたことや、阿部滂財務局長・ 安場台東製糖会社社長に対して「台湾銀行と交渉の意義 を指示」していることなどからも(11)、田が中川との交渉、 台銀の資金援助を非常に重視していた様子がうかがえる のである。 台銀時代の中川の経済活動については今少し考察が必 要であるが、これについては別稿を期したい。とにかく ここで重要なのは、田と中川にとってこの時期最大の目 標が南洋への経済進出であり、そのための資金援助に積 極的であったということである。このような積極融資を 行う中川にとって重要な転換点となったのが、関東大震 災および第二次山本内閣の発足であった。 第二次山本権兵衛内閣は、周知の通り関東大震災によ る影響とその対応に忙殺され、さらには内相であった後 藤新平の帝都復興案が閣内外から非難を浴び、きわめつ けには摂政宮裕仁暗殺未遂事件という未曽有の大事件・ 虎の門事件が生じたことで、わずか四か月で辞職した。 しかし、この内閣の残した爪跡は中川にとって看過し得 ないものであった。 元老・西園寺公望は、中川と同様に政党内閣を希求し つつも、次年度に予定されていた総選挙を公平に行うと いう選挙管理内閣としての目的で山本を推薦した。一方、 山本内閣擁立を念願として活動してきた薩派にとって は、政党内閣論に対抗し、挙国一致内閣の正当性を国民 に示すためにも、山本内閣が強力な政治指導を行うこと がきわめて重要な意味をもっていた。それゆえ、山本内 閣が早期に辞職をしたことで、薩派が決定的な打撃を被っ たことが、政党内閣期の到来を必然化させたのである。 このような山本内閣への認識に対して、中川は西園寺 とも薩派とも異なる点において大きな期待を寄せてい た。それは意外にも、関東大震災に基づく期待であった。 山本内閣の前内閣である加藤友三郎内閣の総辞職が予 測されはじめると、中川は、政友会の内部対立が激化し ているような状況では、「穏健なる中立内閣の出現によ りて政局の収拾」を行うことが最善と考え、斎藤実を擁 立しようとしていた。中川は加藤友三郎内閣の一番の失

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政を「対外経綸を消極的ならし」めたことであると非難 し、内には綱紀粛正により国家の金融を調整し、それに よる余剰分により産業奨励を実施し、「力を海外輸出に 加ふる事」が必要であると斎藤に訴えた(12)。これは、南 方経営に野心を抱く中川独自の主張であった。中川に とっていかに積極政策が重要なる使命であったかがうか がえよう。 しかし、その後中川は同じく斎藤に宛てて、「非常な る理由あるにあらざれば(中略)代議制の正道によりて多 数党に政権の帰するは当然の次第」であると述べている (13)。中間内閣説を唱えていた中川が、二日後には多数 党を中心とする政党内閣説を主張するようになったの は、この間政友会幹部会において、政友会が中間内閣説 を放棄し、「憲政常道」に基づく多数党政権を目指すこと で意見が一致したためであった。中川は、このことで多 数党内閣の実現を確信していたのである。なお、政友会 の領袖・小川平吉の日記によれば、この時中川から高橋 是清総裁に対して、西園寺の意中は政友会内閣であるた め、組閣の準備を進めるように促すという内容の書面が 送られたという。これは、結果的に政友会内部の混乱を 招く一因となったが(14)、恐らく中川は、高橋是清政友 会総裁に大命降下を疑わなかったであろうし、それは政 友会員も同様であった。 しかし結果は、山本権兵衛による挙国一致内閣という、 中川が思いもよらぬ結果となる。それでも中川は、この 内閣を受け入れられた。なぜならば、彼は挙国一致内閣 の正当性を「内憂外患」に求めていたからである。「何で もない時に挙国一致と云ふことは一寸受け取れない沙汰 ではなかうか」と挙国一致内閣を疑問視しつつも、大震 災により山本内閣は「大義」をもって組閣することができ たというのである。 「各政党の首領を而も其党派を離れて丸腰で入閣せし めんとするが如きこと」は山本ぐらいしか考えつかない であろうと、暗に山本首相を批判しつつも、「近来の内 閣中これほど適当なる題目を得たものは一寸見当たらな い」、「伯固有の挙国一致を以て進まれたならば頗る面白 いことになる」と、中川は組閣当初の山本内閣を肯定的に 捉えていた(15)。中川は、「今回の被害の最も甚大であつ て深刻なるものは経済組織の破壊」であると考え、ゆえ に経済復旧政策が一番に求められ、「非常財源に依て差 支へないもの」と考えていた。震災が起きる前から、第 一次大戦後の戦後不況の煽りを受けて経済は低迷状態に あった。大震災という非常事態を利用して、経済を復旧 させることが必要であると中川は考えたのである。それ ゆえ、現状を立て直すには通常国費のみでは賄えないた め、内外公債もしくは政府紙幣を発行することの二択し かないという(16)。すなわち、それ以外の傍観策はあり えないと中川は主張している。しかし中川の期待は、以 下の三点において裏切られた。 まず一点目は、大震災という非常事態にもかかわらず、 通常時のような扱いをして、「成るべく事を小さくして 取り纏め」ようとしたことであった。具体的には、中川 の期待していたような積極財政には至らず、帝都復興に のみ莫大な予算を掲げ、しかもそれが閣内外の反発によ り大減額となったことが、中川を失望させた第一の要因 であった。二点目は、臨時議会を開くことにより、国民 の代表者と協調を尽くすと予想していたのが、むしろ「全 然現時と離れた老人達」を集めた帝都復興審議会を組織 したことである。これは、国民の意向を反映した政党内 閣による統一を目指す、中川の主張の表れである。国民 の意思を反映させた政治の実現もまた、中川の希望する ところであった。そして三点目は、普通選挙即行を山本 内閣が政策として掲げたことである。もとより中川も普 選が必要であると認識しており、これは政界の共通認識

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でもあったが、震災の混乱が収まりきらない状況下で普 選の実施を遂行しようとしたことは、「人心に更に新ら しい動揺を与ふるに至つた」と中川はみたのである(17) このように、中川は山本挙国一致内閣の成立を緊急臨 時のものとみて、それにふさわしく積極財政による経済 の立て直しを期待した。台銀経営にしても、山本内閣へ の期待にしても、これは長年財界に身を置き、実業家と しての実を挙げてきた彼の経験から主張されるもので あった。中川は、台銀時代に大洪水で台北市が被害を被っ た際に、総督府との連携により台銀から積極融資を行い、 成功させた経験を語り、山本内閣が積極財政方針をとる ことの必要性を説得的に語っている(18)。山本内閣への 期待も、机上の空論ではなく、彼の経験に裏打ちされる ものであったといえよう。

2. 政党内閣期における中川小十郎の

  思想と行動

(1) 憲政会内閣期―田中義一への期待― 台銀での財源をもとに南方経営を推進していた中川に 転機が訪れたのが、大正14(1925)年の貴族院議員転任 であった。これは西園寺をはじめ、中川の大学予備門時 代の同窓であり、この時枢密院副議長を務めていた一木 喜徳郎も積極的に働きかけている。もっとも、中川自身 は貴院入りに難色を示したようであるが、一木は「中川 君を取消すことは難色あり寧ろ断」(19)っていたようであ る。政界上層部と深い縁故のあった中川は、貴族院議員 に勅選されて政界に深く関与するようになっていくので ある。 時を同じくして、政友会の領袖たちは陸軍大将・田中 義一の政友会総裁擁立を画策し、護憲三派内閣からの離 脱を図ろうとしていた。そして大正14年2月に田中が政 友会総裁に就任したことにより、政友会は三派協調路線 からの離脱へと大きく舵を切ることとなったのである。 護憲三派の協調を基調としていた第一次加藤高明内閣 は、当然ながら政友会新総裁となった田中の入閣を打診 する。この時に中川は、旧友であり当時文部大臣であっ た岡田良平に意見書を送った。 大命か加藤子に降下して現内閣の組織を見るに至り しことなれば、法理上より云へば閣員の撰任奏薦は 加藤首相の特権に属すと云ふを得べきも事実上に於 て現内閣は三党の協調を基礎とする一の政党内閣な れば其政策は政党に議を基調とせざるべからず。其 閣員候補者は政党の事情を離れて之れを定むること を容さず。故に加藤首相に於て政友会側より撰任す る閣員候補者を尊重すべきは当然の帰結なり。加藤 首相が政友会側の事情を無視して閣下の入閣を強要 せんとするは単純なる法理上の理窟に偏して現内閣 立脚の基礎を軽んずるものなり(20) 〈傍線部:十河〉 これは、まさに護憲三派内閣の二面性を鋭く突いた指 摘であった。護憲三派内閣は、憲政会が主導しつつ三政 党(憲政会・政友会・革新俱楽部)が共同で組閣した内閣 であり、政党内閣制の出発点とされている。しかしもう 一つの側面として、この内閣は中川が指摘したように、 憲政会の主導の下に各政党の領袖や貴族院からも人材を 吸収した内閣であった。すなわち、中川は、第二次山本 内閣を「各政党の首領を而も其党派を離れて丸腰で入閣 せしめんとするが如きこと」として非難したのとまさに 同様の論拠で、第一次加藤内閣を批判しているのである。 護憲三派内閣の性質に含まれている挙国一致的要素を、 中川は見抜いていた。その上で中川は、護憲三派内閣が 政党内閣となるか挙国一致内閣となるかは、「三党の協

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調を基礎とする」か否かで決まると考えていた。それゆ え、普通選挙法案の通過と貴族院制度改革という二大政 綱を達成し、三派共通の目標を失っていたこの状況下に おいて、加藤首相が田中個人での入閣を要請したことを、 「実に拙策の極なるものなり」と痛烈に非難したのである。 三派協調を見限った中川は、田中総裁に対して、「今 日の急務は党内の調査を進め積極方針に依る政策の具体 化に有之これは党内の各力を挙げて之れに従事せしめた るゝこと必要」(21)と述べている。中川が田中に第一に期 待したのは、積極方針という政策を核として政友会内を 統率させ、きたるべき政変に備えることであった。その ように考える中川にとっては、緊縮財政方針をとる憲政 会や、そこに接近する政友本党、さらには憲政会による 協調外交を支持する西園寺の姿勢は不満であったと推察 される。 ゆえに中川は、西園寺が「憲政会の天下は已に下り坂 に向ひつゝありと見て特に政友会の努力、非常なる努力 を望み居らるゝ」ように田中に伝えることや、「台湾樺太 の植民地住民は已に政府の更迭せんことを望み居」ると いった情報を伝え、田中のリーダーシップをもとに、次 期政変の際における政友会内閣の組閣を希望した。「政 府か来年度予算の編成に於て依然緊縮方針を取り候こと 是亦政情の推移を見るに於て悪歟と存候」(22)との発言は、 まさに中川の積極方針にかける意志のあらわれである。 また、第一章の部分で述べた通り、中川は植民地機関 の統一を主張していた。内閣が植民地行政に影響力を発 揮することこそが、この主眼であるといえる。台湾総督 が伊沢多喜男から上山満之進に交代した際、中川は伊沢 を、「親任官とはいへ一官吏たる者が(中略)自ら後任者 を定めて人事と方針とを其まゝ踏襲せしめんとするが如 きは僭越」と非難し、また、上山新総督が「人事も方針も 一切手を附けない」ことに対して不満を抱いていた。中 川はこれを、若槻内閣の「影がうすくなった」、すなわち 内閣の脆弱化を指摘しているのである(23)。中川にとっ ては、憲政会内閣はもはや限界であり、田中政友会内閣 による強い指導力の発揮を希求していた。 (2)田中内閣期―政治思想― 田中内閣が成立すると、中川は「財界の安定を期する ことが現内閣当然の責任」であると考えた。周知の通り 田中内閣は、若槻内閣の後始末として、支払猶予令(モ ラトリアム)を実施し、何とか場当たり的に対処したの であるが、当然ながら中川はこれをもって「財界不安の 原因を一掃」したとは考えなかった。中川は不安定な財 界の原因を、「欧州大戦後の方針を誤つた」ことに求める (24)。そこには、前章で見た関東大震災に対する山本内 閣の財政方針が一大要因であるとも述べており、震災直 後の状況からある程度財界が破綻することを予測してい たと考えられる。 これまでの話の展開であれば、中川は当然田中内閣が 積極財政方針へと転換し、財界を立て直すことを望むで あろうことは想像に難くない。しかし、中川はそうは考 えなかった。政友会派の政客が「国家政務の主義方針を 更改一新すべき時節の当然の到来」とみなしているのを、 中川は批判的にみていた。中川は、前内閣が「我党内閣 に於て総選挙を断行して議会に於ける陣容を立直すべき 機運は十分に熟しつゝあつたのではいか」と、前回憲政 会内閣を「下り坂」と表現していた自身の説を転換させ、 「前内閣の政策が行詰つて居たと認むべき国情ではなかつ た」と主張する。そして、政党や内閣が交替しても、現状 するべきことは、「財界の緊縮」であらねばならぬという。 それでも中川は、従来からの主張である「積極財政」方 針を根底から覆したわけではなかった。すなわち、「積 極進取の前提として整理が必要であり、緊縮が適切」と

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議院を通過した法案を貴族院が阻止したからと云つて、 内閣は必ずしも辞職すべきではない」と主張する。その 進退はただ「議会の形成如何」によって決定されるもので あるという主張は、「内閣の寿命は少くとも議員の任期を 併行して四年位は持続せられねばならぬ」という中川の主 張と符合する(27) すなわち、真に政友会内閣が党是である産業立国構想 を実現するためには、緊縮財政をも経た長期的スパンが 必要となり、そのためにも議会外勢力に内閣が掣肘され ることは避けねばならない。中川はそのためにも、内閣 に権限を集中させ、最も近しい存在であった元老をも無 用のものとして、多元的権力構造である明治憲法体制を 責任内閣制で乗り越える必要があったのである。このこ とから、中川が西園寺の権威に依存して自身の理想を実 現しようとしていたのではなかったことは明確である。 (3)田中内閣期―政治行動― このように、①長期的見通しによる積極財政の遂行、 ②国民の基盤に基づく責任内閣制の成立、③政党の力に よる多元的分立構造の統合(一元化)という三点の期待か ら、中川は政友会の総裁である田中に接近した。この背 景には、西園寺の政治秘書として新たに原田熊雄が台頭 していたことから、西園寺の政治秘書としての中川の立 ち位置が危うくなっていたことも一因として考えられ る。また、当該期の西園寺は、村井良太の研究によれば、 「憲政常道」に基づく首相選定と、内閣への干渉を潔しと しない、「受動的」な元老像を理想としていたという(28) これはもとより中川の主張と合致することであるが、そ れゆえに、中川は元老を通して政治活動を行うことが困 難となっていた。これらの理由から、中川は田中首相に 接近し、直接意見を述べ、間接的に独自の政治行動を行 うことにより田中を支援したと考えられる。 考えたのである。若槻内閣よりもさらに徹底した緊縮財 政を敷行することにより生じる余剰「資源」をもって、「政 友会の看板」である産業立国構想を実現させることこそ が緊要であると中川は主張するのである(25)。こうした 展望が、中川の田中内閣に求める第一条件であった。 この第一条件を達成するために必要なのは、「責任内 閣制」を尽くして、内閣が長期に存続することであった。 若槻内閣が台湾銀行救済問題をめぐる枢密院との対立に よって倒れ、田中内閣が成立すると、中川は早速以下の 内容の書簡を田中に送った。 対支対財界正々堂々の御施設勿論の義に候へども来 るべき総選挙の準備は至急御高慮御着手切望致候。 憲本の多数を前にしての御奉公に候へば、臨時議会 か又は普通議会か解散断行は必至の順序と存候。其 結果多数を制して始めて我党内閣が真個に成立を見 るものと存候。目下の現状に於ては唯暫定的のもの と存候(26) 中川が田中に期待したのは、財界への対策を前提とし て、総選挙の準備を整えることであった。解散を経て絶 対多数政党を作り出すことが、田中内閣の何よりの課題 であり、そうしてこそ、真の「我党内閣」ができるのだと 中川はいう。中川は、当該期におけるいわゆる「憲政常道」 論者であり、「責任のない元老に於て手を下すべき余地」 はないと元老の力を頼る与野党を非難した。責任を負わ ない議会外勢力を極力形骸化させようとする中川は、「枢 密院は何時でも其時の政府を支持するを以て本領とすべ き」であると考えており、議会外勢力により内閣が掣肘 されるようなことはあってはならないと主張する。また、 天皇・宮中・枢密院・貴族院と各方面から非難されてい た田中内閣であったが、この状況下においても中川は「衆

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その間接的な活動の一環として、上山満之進台湾総督 の更迭運動が挙げられる。防府市立防府図書館に所蔵さ れている「上山満之進関係資料」(29)の中の、総督更迭に 関わる電報・書簡からは、本件に関わる中川の活動を読 み取ることができる。 そもそも本問題の背景としては、第一次加藤高明内閣 にまで遡らなければならない。この時の台湾総督には、 前任者である田健治郎の推薦で内田嘉吉が就任してい た。しかし、政党内閣は植民地の長官もまた、政権担当 政党と連絡・協調の取れる人物でなければならず、それ ゆえに内閣が更迭される場合には植民地長官もまた同時 に更迭されなければならないという考え方が一定の説得 力をもって提唱されていた。 そして、実際に加藤内閣はこれを実行に移したのであ る。加藤内閣は内田を強制的に更迭し、憲政会系の官僚 である伊沢多喜男を就任させた。しかし伊沢が東京都知 事に任命されたため、その後任には、同じく憲政会系の 上山が総督に就任していたのである。その後憲政会時代 が若槻内閣の退陣により終了し、田中政友会内閣が成立 したことで、内閣の形態が大きく変更したことにより、 上山の辞任が当然ながら議論となった。しかし田中は、 いまだ非選出勢力を中心に、内閣の更迭に伴い植民地長 官を更迭することに対する反発が根強く残っていたた め、同郷で関係が深かったということもあり、上山を留 任させていたのである。 以上が上山総督排斥運動の背景である。首相が植民地 長官人事のイニシアチブを掌握することこそが、内閣の 権限統一を達成するために必要であると信じる中川は、 政友会諸氏と同様に、上山の排斥運動を開始した。事件 当時の台湾警務局長本山文平が上山に送った電報による と、中川から上山に対して電報が送られ、その謝意を伝 えるために本山が上山の意を受けて中川と会談してい る。そこで中川は、「内閣ガ替リ現内閣ガ上山総督ヲ信 任セサル以上上山氏カ辞職スルノカ当然デアル」と考え、 「上山氏ガ此ノ上ガイヲ張リ居ルハ台湾ノ為メ不利益ダ」 と本山に語った。本山は中川とは反対に、「総督ノ政変毎 ニ更迭スルコトガ台湾ノ為メ不利益」であると反論した が、本山は中川が「総督更迭策動者ノ一人」ではないかと 警戒の色を示した(30) さらにその四日後、本山は中川の策動が元老である西 園寺の意を受けて動いているのではないかと警戒し、原 田熊雄と会見して「台湾総督更迭問題ニ公爵ハ何等考ヘ 居ラレズ唯中川ハ彼レ此レト語」っていたとの情報を得 ている(31)。上山もかなり中川を警戒していたようであ り、中川と面会するよう本山に依頼した。再度中川と会 見した本山は、中川が「同氏一流の言調にて閣下(上山) を罵倒し閣下に対し寸毫も好意を有し〈括弧内:十河〉」 ておらず、「中川氏は総督更迭を希望し居るは事実と存 じ候」と上山に書き送っている(32) 中川が、上山の台湾総督辞職を画策していることは注 目に値する。なぜならば、植民地長官を更迭する慣例が 作られつつあった当該期において、田中が上山を更迭し、 後任人事の主導権を握ることは、首相権限を強化し、「総 督ノ政変毎ニ更迭スルコト」を定着させることにつなが る。寺内内閣期より中川が主張してきた、内閣による行 政機構の統一への希求を、制度面ではなく人事面から実 現していこうという意志の表れであった(33)。西園寺の 意図とは何ら関係のない独自の行動を行っていることか らも、この時期において中川が西園寺から独立して活動 していることがうかがえよう。 また、水野錬太郎の優諚問題が生じた際に、中川は自 身の意見を『京都日出新聞』に連載し、田中にも書状で紹 介した(34)。そこでは、当時問題になっていた植民地長 官人事(35)についての反発も、野党の「敵愾心発露」であ

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がわかる。これは何も、中川が個人的影響力を行使でき る首相の存在を無くしたからというだけの理由ではな く、積極財政主義と政党内閣による統一行政の確立とい う二本を主軸として活動する中川の、政治目標の挫折を 意味していた。田中内閣がわずか二年(戦前期の内閣の 中では決して短いとは言えないが)で倒壊したことは、 政党の本来の政策遂行能力を発揮するには最低でも四年 は必要であると考える中川にとって、かなり不本意で あったであろう。中川の政治的挫折は、政友会の政治的 地位の低下と無関係ではなかったのである。本格的政党 政治の時代の始まりとされる田中内閣は、大正期より右 肩上がりに醸成された政党の求心力が、早くも破綻を余 儀なくされたことを意味していたといえる。実際、田中 内閣崩壊以降、政友会は下降線を辿っていった。 1 西園寺に関する先行研究を挙げると、枚挙にいとまがないため、省 略するが、特筆すべき研究としては、村井良太『政党内閣制の成立 ―1918~27-』(有斐閣、2005年)が挙げられる。村井によれば、 第二次護憲運動以前における西園寺は、「政友会中心主義」と呼べる ものであり、政友会の党勢拡張が主たる目標であったという。 2 例えば升味準之輔は、政党内閣期における西園寺を、「人格化した ルール」と表現し、高く評価した(升味準之輔『日本政党史論』第5巻、 東京大学出版会、1979年)。 3 国立国会図書館憲政資料室所蔵、「田中義一関係文書」資料番号69 ~77、計9通。 4 大正6(1917)年1月25日付水野錬太郎宛中川小十郎書簡、「中川家 史料」10103(立命館史資料センター所蔵)。 5 田中内閣期における拓務省設置構想については、加藤聖文「政党内 閣確立期における植民地支配体制の模索―拓務省設置問題の考察 ―」(『東アジア近代史』第1号、1998年)が詳細である。 6 同註(4)。 7 『田健治郎日記』(第5巻、季武嘉也・尚友俱楽部編、芙蓉書房出版、 2015年)大正10年2月19日条。 8 同上、大正10年3月31日条。 9 同上、大正10年4月12日条。 10同上、大正10年9月12日条。 11同上、大正10年11月15日条。 るとして寄せ付けていない。中川の主張は一貫していた。 中川は、「総理大臣たる者が内閣の首班として大命を 拝し重大なる責任を負ふて国家の政治を担任するに於て は配下の人事は当然の権限として法の範囲に於て自由裁 量を容されて居るのである」(36)という意見で田中を擁護 している。首相権限の拡大とその田中への接触を通じて、 自身の信念である積極財政による経済進出を達成しよう としたのが、台銀辞職以降の中川の特徴であった。しか し中川の期待は、田中内閣の倒壊とともに挫折し、徐々 に中川が政治的に活動する機会は制限されていく。田中 内閣崩壊以後は、専ら西園寺の私的秘書、および立命館 学園の教育に力を注ぐことになっていくのである。

おわりに

大正期から昭和初期における中川小十郎は、実業家と しての側面が強く、台湾銀行経営で実務を担いつつ、独 自の政治的意見を構築していった。それゆえ、彼の政治 意識の根幹には、経済(特に積極財政)政策への確固たる 信念があり、その期待を政友会にかけていたのである。 そしてもう一つの柱としては、行政機構の統一による 円滑な政策実行であり、これもまた政党を支持する一翼 となった。中川は、西園寺政友会総裁とのつながり以外 には何ら政友会とは関係のない経歴を積み上げたが、独 自の政治思想から、それを実現するために政友会に接近 した。特に西園寺が政友会と一定の距離を取りはじめ、 憲政会(のち民政党)に接近する政党内閣期には、中川は 西園寺から自立して独自の活動を行うことが多くなって いったのである。しかし田中内閣の崩壊とともに、中川 は政界から一歩退いた存在となった。 そう考えれば、中川という視点から見たときに田中内 閣が一つの終焉のターニングポイントとなっていること

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12大正12年8月24日付斎藤実宛中川小十郎書簡、「斎藤実関係文書」 1123/1(書簡の部二、国立国会図書館憲政資料室所蔵)。 13大正12年8月26日付斎藤実宛中川小十郎書簡、「斎藤実関係文書」 1123/2。 14小川の日記によれば、中川の書面を受けた小川は「予曰く、金を獲 る場合之を懐中に収むる迄は安心す可らず。衆皆一笑して然りとな す」というほどに余裕を見せていたが、山本内閣に大命降下という 事実を知り「衆皆唖然」としたという(小川平吉文書研究会編『小川平 吉関係文書』第1巻、みすず書房、1973年、大正12年8月2□欠日条、 244頁)。 15中川小十郎「大震雑感(第四・完)」(『立命館学誌』第70号、1924年3 月15日発行、1~5頁)。 16以上、中川小十郎「大震雑感(第三)」(『立命館学誌』第69号、1924 年2月15日発行、3~7頁)。 17前掲「大震雑感(第四・完)」4頁。 18同上、2頁。 19年月日不詳、河井弥八宛伊沢多喜男書簡、『伊沢多喜男関係文書』(伊 沢多喜男文書研究会編、芙蓉書房、2000年)、47頁。 20大正14年4月14日付田中義一宛中川小十郎書簡、「田中義一関係文 書」70(憲政資料室所蔵)。 21大正14年6月28日付田中義一宛中川小十郎書簡、「田中義一関係文書」 71。 22大正14年11月9日付田中義一宛中川小十郎書簡、「田中義一関係文 書」73 23中川小十郎「現下の政情」、「大正十五年八月中某新聞の記者に話し たるものゝ筆記」、「中川家史料」11086。 24中川小十郎「政情の動き」、「昭和二年九月中某新聞の記者に話した るものゝ筆記」、「中川家史料」11156。 25同上。 26昭和2年4月22日付田中義一宛中川小十郎書簡、「田中義一関係文書」 76。 27中川小十郎「憲政常道より見たる政情の推移」、「昭和二年九月中の 記者に話したるものの筆記」、「中川家史料」11150。 28村井良太「元老西園寺公望と日本政党政治」(『日本政治学会年報』第 10巻、2008年、118~120頁)。 29防府市立防府図書館所蔵「上山満之進関係資料」17「総督更迭問題に 関する電報及び書翰」(台湾歴史史料研究会編『台湾近代史史料研究』 第3巻翻刻文掲載)。 30昭和2年10月2日付上山満之進宛本山文平電報、「上山満之進関係資 料」17 ‐ ⑴。 31昭和2年10月6日付上山満之進宛本山文平電報、「上山満之進関係資 料」17 ‐ ⑶。 32同上、17 ‐ ⑷。 33なお、これを制度的担保したのが、昭和4年6月に設置された拓務省で あった。 34昭和3年6月18日付田中義一宛中川小十郎書翰、「田中義一関係文書」 77。 35田中内閣期において、朝鮮総督は斎藤実から山梨半造へ、関東長官 は児玉秀雄から木下謙二郎へ、満鉄総裁は安広伴一郎から山本条太 郎へ、台湾総督は上山満之進から川村竹治へとそれぞれ更迭されて いた。 36中川小十郎「世間を噪がした内閣改造」、日出新聞掲載、「中川家史料」 11154。

参照

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