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表現から構成へ : 個間相互作用と全の発現

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長野大学紀要 第15巻 第1号 69-93頁 1993

表現 か ら構成へ

― 個 間 相 互 作 用 と 全 の 発 現 ―

From Representati on to Construction

― I n t e r a c t i o n a m o n g I n d i v i d u a l s a n d E m e r g e n c e o f a W h o l e ―

Hiroshi Kawano

1

まえが き 本論文の 目的は芸術論 における近代主義 を批判 して、新 しい芸術論の考 え方 を提起す るところに ある。近代主義 とは 自我の認識論的装置によって 世 界をイメー ジングし、この主観的世 界イメー ジ の記号化でもって世界 を代表 させ る理想主義 ・合 理主義の哲学 である。この近代主義はヨー ロッパ において生れ育 ち、人類の歴史に秩序 と進歩 をも た らした といえるが、それが また非 ヨー ロッパ世 界に不倫 と罪悪 をお しつける結果 となったことも 歴史の証言す るところであるo政治 ・経済にか ぎ らず、芸術にあって も近代主義は非 ヨー ロッパ芸 術に対 していわれな き偏見 を漫延 させて きた とい えるであろう。 この誤れ るヨー ロッパ近代主義に とって代 り、真に人類の新 しい文化 そして芸術 を 樹立す る新 しい哲学の模索 を本論文 でこころみて みたい。 近代美学はDescartes以来の近代哲学のレール の上 で 自我の 「考 える」主観に超越論的主権 をあ たえ、それのつ くりあげる観念的統一 をもつ世界 のイメー ジを客観化す る「表現」(Representation) をもって芸術活動 を説明 しようとす る。 しか し、 人糞頁の芸術活動は知 による統一ある世界像 イメー ジングをまたずそれに先だって存在 した と考 えた い。パ フォーマ ンス芸術がそう であ り、非 ヨー ロ ッパのプ リミテ イヴ芸術がそうであるし、また反 近代主義 をかかげるPicassoやDadaがそ うであ る。そこには近代的 自我がつ くりあげたあの理想 化 された統一ある世 界のイメー ジというものはな い。ではこれ らの芸術活動は どのような精神的仕 組の うえにな りたっているのであろうか。 ここでわれわれはDescartesない し ドイツ観念 論的人間観か ら実存主義人間観-の哲学のパ ラダ イム ・シフ トをとりあげてみたい。そ してこの新 パラダイム を具体的に描写す るため情報科学の コ ンピュー タ比暁 を採用 し、並列分散処理 の様式 と 仕組 を考察す ることにする。そこでまずE.Husserl の相互主観による生活世 界の受動結合の図式 を縮 図化 して 自我の心のなかに移植 し、M.Minsky型 心社会の理論 を仮定す る。つ いでそこか ら(1)心 のなかに多数の小 さな心が並存 し、それ らは各 自 局所化 された固有の コミッ トメン トをもちなが ら 独立 自由な存在 と機能 を保有す るこ と、(

2

)それ ら小 人達の間には相互のメッセー ジ交換によって コ ミュニケ二 ションがあるこ と、(3)この相互作 用に よって全体的コンセ ンサスが 「下か ら」形成 され るとい う構図が導かれ る。 ここで問題 となるのはつ ぎのふたつ であろう。 ひ とつは小人達は心のなかで どの ように相互作用 を交すかであ り、いまひ とつ は小人達 の コ ミュニ ケー シ ョンの過程でできて くる全体 とは どの よう な姿形 をとるのであろうかである。本論文 ではこ の二点に議論の最重点 をお く。相互作用論 では黒 板モデルない し道具師パ ラダイム、そ してD.Sper -berの引用 と注釈に よる象徴解釈論 を論 じ、全体 形成論ではD.Hofstadterの 「蟻のフー ガ」をとり あげ る。これ らの哲学的考察か ら人間観 と世 界観 の新 しいパ ラダイムが うかびあが って くるであろ うが 、このアイデア をさらに確実な もの とす るた め、現代芸術の逆比境の方法、そこか らオブジェ と ブリコラージュによる全体主題の形成法 を考察する。 そ して以上の新芸術法が 「表現」で な く、全 く新 ー 69

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-70 長野大学紀要 第15巻 第1号 1993 しい ものの 「構成」 で あること、最後に、人類の 歴史の うえでこの哲学 が旧世 界を打破 して新世 界 を新 しく創造す る文化革命 となるであろうことを 結論 として示す。

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芸術 表現論検 討 芸術作品の表現はふ たつのいみで考 えられ る。 ひ とつは 自然描写であ りいまひ とつは感情表出で ある。これ らの考 え方 の基底には素朴な実在の仮 定があるように思われ る。 自然 を描写 した作品の 背後には描写 された 自然の対象が実在 し、描写は この実在対象 を範 としてその類似像 を作品の うえ にrepresentす るもの であると考 えられ るし、ま た感情 を表出す るとは 、作家の心の中には生 きた 感情が実在 し、それが 笑いや怒 りや悲 しみの表情 の ように作品の うえに叫びとしてexpressされ る ことであると考 える。表現はこの実在対象に忠実 であろうとし、また嘘 でない真情の吐露 こそが高 い芸術的価値 をもち うるとされる。 しか しこの大 衆 うけす る俗説に理論 的欠陥のあるこ とが指摘 さ れるようになった。前者のばあい、例 えばヴ ィー ナス像 でその類似表現 が仮定す る実在はモデル花 子ではあって もヴ ィーナスではない。ヴ ィーナス は仮空の存在であって実在す ることはない。そ し てこのヴ ィーナス像 は実在す る花子 をモデル とし て類似表現 されてい るわけである。後者のばあい、 例 えばある曲が演奏 され るとき、演奏者が現に悲 しんでいるわけで もな く、いわんや楽器が泣いて いるわけで もさらにない。死んだ作曲家が墓の下 で泣 き悲 しんでいるこ とに もなるまい。 では どの ように考 えた らよいであろうか。前者 のばあい実在す るモデル花子ではな く、非在のヴ ィーナスのイメー ジが一定のメデ ィア をか りて具 体化 された とい うべ きだ し、後者のばあい

、S.

Langerの い うように虚 の悲 しみの感情が音 をか りて対象化 されたとい うべ きであろう。虚の感情 とい うのはLangerの発案で、実の感情が一過 的 にす ぎきったあ と、そのエ ッセ ンスが記憶のなか に残留 したいわば感情 のイメー ジであるoそ して 音楽のばあい、作曲者 の設計になる悲 しみのイメ ー ジを演奏者は楽譜 とい う設計図か ら解読 し、こ の解読 された味曲の イ メージなるもの (それが 原 曲 どお りの ものであるとい う保証 はない)を楽器 を演奏す ることに よって具体化す るわけである。 こうして芸術表現は 自然描写であれ感情表出で あれ、その本質は実在依存のないイメー ジ表現 と い うことになる。 ところでこのイメー ジ存在の根拠 となるものは 何であろ うか。イメー ジは何 よ りも観念的な もの で認識主観の心内存在である。主観は対象 とす る 世 界 を客観 として措定 し、それ を心の内にイメー ジ として写 しとる。 しか しこのイメー ジングは単 に受動的な もの とは考 えられない。実在世 界は多 様雑 多なできごとの流れ をなすが 、心内のイメー ジは安定 した秩序の もとに構造化 されている。こ の点か ら考 えて認識主観にはある種の積極性 と創 造性があ るであろう。イメー ジング主観の実在世 界に対す る優位 と主権はDescartes以来の近代哲 学によって確立 されたが、このイメー ジング主観 の創造性 の心的仕組はつ ぎのように考 えられよう。

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)イメー ジング主観は世 界を客観 として構造 化す るため、その世 界を見 る視点 を世 界か らある 距経 をおいて設定 し、その視線 を世 界の中心にむ けて明断判明なイメー ジを結ぶ ように焦点 をしば らねばな らない。 この ような正常視によって世 界 全体の明瞭なイメー ジがえられる。 (2)イメー ジング主観が(1)にのべ た正常視 を もつ とい うことは、主観が世 界に対 して超越的位 置 をしめ、その認識装置は理性の論理 を装着 し、 それによって世 界 を観念的に合理化できるとい う こ とである。主観は実在世 界の混乱に まきこまれ ることがない ように視点設定 され、その超越性に よって主観の理性 は主体的に 自由に しか も理 にか なって世 界の合理的イメー ジングを達成す る。 (3)(2)でのべたイメージング主観の超越性はそ の認識エ ンジンを感性 な らぬ理性 たらしめ るが、 この理性の認識装置は世 界経験のなかで形成 され るのではな く、経験に先だって予め形成 されてお り、Kantのい うように、経験世界がそれ をまって は じめて可能 になるようなア ・プ リオ リ性 をもた されている。 世 界イメー ジが えられ るには以上のような性質 を有す るイメー ジング主観が要請 されるが、芸術 表現 を世 界イメー ジのrepresentationであるとす る とき、以上のイメー ジ主観がつ くりあげる世 界 - 70

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-川野 洋 表現か ら構成 一個間相互作用 と全の発現 -の イメー ジが表現 に先 だ ってつ くられていなけれ ばな らない とい うこ とになる。そ うでなければ表 現すべ き内容 がない、無 をrepresentす る とい う 自家撞着 に陥 るであろ うか らである。世 界イメー ジが表現者の心 内に表現 に先だって予め完成 され てい るとい う仮定 は 自我 中心 の近代哲学の認識論 と世 界観 を露骨 にあ らわ している といえよう。 こ の ような近代天動 説は果 して正 しい といって よい であろうか。近代思想の典 型 をなす近代科学の 申 し子 ともい うべ きVonNeumann型 コンピュー タ はプログラム内蔵 の 自律 的情報処理 の機能 をもち、 このプログラム なる ものは情報処理 の実行に先だ って予め完成 されていなければな らないが 、ここ に もわれわれは表現論のばあい と類比の理論的仕 組 をみて とるこ とがで きるであろ う。プ ログラム はプ ログラマの理性知が とらえた世 界イメー ジの 設計図で あ り、それは完全無謬の ものであって、 コン ピュー タは音楽のばあいの演奏家の よ うにこ れ を解釈実損す るこ とになる。 以上が近代 的 自我 中心の世 界観であ り、この哲 学が近代芸術の表現理論 を長 く支配 して きた とい える。 しか し自我の創造の 自由の過剰 な肥大化 に よって、近代芸術 をふ くめ近代主義 その ものが ど の ような道 をた どったかは今世 紀の歴史がす でに 示 して くれてい る といって よか ろ う。 3 天 動 説 か ら地 動 説 - 一 実 存 主義 一 天動説の軌道 を走 る近代的人間観は実存主義 に よって打破 され るこ とになる。実存主義 は 自我 を 個 として とらえる。理性 をエ ンジン とす る自我 は 論理 とい う普遍的思惟 のはた らきをもち、そのい みで抽象的本質存在 と考 えられたのに対 し、実存 的 自我は個 としてユニー クな感性主体 の存在であ る。 それ はHeidegger流にいうと世 界内存在 とし て実在世 界の中にgeworfenされている。 この 自 我の在 り方 は正常視 の ように一定の距離 をおいて 世 界 をcontemplateす ることを許 され るこ とな く、 世 界の混乱 の渦中に運命的にまきこまれている。 彼は身体感覚 的に世 界 を経験す るが 、ア ・プ リオ リな認識装 置 を欠 くため受動的に触発 され、世 界 を局所的断 片 として しか知 りえない。彼に とって 世 界は感情移 入で きる安 定 した全体 イメー ジを示 71 す こ とはない。そこで経験す るのは異化 され た世 界への怖れ と自分の関 る企ての挫折 となる。 しか し地図 も羅針盤 もな く世 界 をただよい歩 きなが ら、 それに もかかわ らず否それゆえに実存は実在世 界 を虚 構 の イ メー ジ として で は な く、 そのあ りの ままの真なる姿において とらえ うるのだ と実存主 義 は主張す る。 この実存主義 の世 界観は、 ヨー ロ ッパ近代主義 に犯 されていない未開の土 人や幼 い 子供が世界 をとらえ うるあの独特な仕方 を説明 し て くれ るであろう。E.Husserlは真理認識の方法 として判断中止 を唱えたが 、身体感覚 的直観に対 して世 界はその実在の真相 をは じめて明証樫に開 示す る。 しか しその姿は もはや近代認識論が描 い た合理 と秩序 をもったイメー ジをなす こ とな く、 いたず らに見 る者 をして困惑 させ る不 条理 と異化 の不完全な姿 を露呈す る。実存主義者達 は この地 動説的 自我 と世 界の関係 を、近代的天動 説の観点 か ら近 代 的 自我観 の崩壊 して ゆ く悲劇 として悲 しみ、そこになお近代主義の残淫 をとどめ るが、 本論 ではこの反近代主義的 自我 に前向 きの照明 を あててその掘 り下 げをこころみてみたい。

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芸 術 に お け る反近 代 主 義 4- 1 は じめ にパ フォーマ ンスあ りき 天動 説に よって世界は 自我 を中心 に表現 され る もの とすれば、表現に先だって 自我のなかには表現 され るべ き対象.のイメー ジが予定 されていなけれ ばな らない.そ して 自我の世 界イメー ジは普遍的 な認識の論理装置に よって感情移入的に合理 的構 造化 をえているこ とになる。た とえば、Michel -angeloは大理石 の 中に埋 もれ て いるマ リアのイ メー ジを探 しだす こ とが彫刻 である とい っている が 、ここでは彫像がで きるまえに彼の心 の 中にそ の イメー ジが完成 されてい るかの ようであ る。新 しくは、N.Chomskyは 、言語表現がで きるのは 表現 に先だ って生成文法の仕組がア ・プ リオ リに 党話者 にそなわっているか らである とい う。 この ようなデ カル ト主義天動 説に よれば 、音楽 では演 奏 に先行 して作曲が完成 されていなけれ ば な らな い し、劇 では上演に先だって戯曲が で きていなけ ればな らない。そ して近代芸術 では この天動説の 原則が守 られ、完成 されたイメー ジの予 定 を欠 く、 -71

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長野大学紀要 第15巻 第1号 1993 た とえ ば即 興 芸 術 は本 格 的芸 術か ら外 されて き た。近 代芸術におけ るテサ イン優位の思想がそれ である。 しか し考 えてみ る と文法が発話に先行す るとい うこ とは怪 しいO子供 の言語能力習得過程では、 文法逸脱的文 の表現がは じめにあ らわれ るこ とが 知 られている。又、植民地の原住民がた とえば植民 者の英語 を語 るばあい、 ピジン とよばれ る彼等の 英語は英文法逸脱文 となる。これ らのばあい子供 で も原住民でも英文法 をもっていなが ら、心の どこ かに未 熟さや欠陥があって、そのため合法的英語 表現が で きない と考 えるのには無理 があるように 思 う。逆 に彼等は文法 をもってはいないが、 もっ ているか ぎ りの単語 を素材 として 自分の世 界を自 己淀に語 っている とい う方が 自然であろ う。文法 はむ しろ成人になって幼時の発話習慣 を理性 で後 天的に分析整理 してつ くった ものにす ぎない。音 楽ではは じめに音の演奏があったのであろ う。楽 譜のない時代に も音の演奏は歌や楽器でなされた はずである。音の演奏には楽譜で表現 で きない も のが 多 くあ り、その方が実 は多い とい うべ きであ る。 こ う してお よそ表現 活動 の始 原 はパ フォーマ ンスで あった と考 え られ る。 そ こでは イメ二 ジ は未完 であ るに もか か わ らず 、 身体 的実践に よ って それ を動 的 に具 体 化 させ て ゆ く。 すなわち、 表現 され るイメー ジは全体 として未完であるが、 全 く表現がないのではな く、そこにはただ小 さな 部分的素材断片 としてのマ イクロ ・イメー ジが文 法逸脱的異化 と偶 然の相 をとってあ らわれ る。い まひ とつ 、パ フォーマ ンスは現場的汎律性 を もち、 観念的孤立のなか で文脈 自由に存在す るこ とはな い。近代芸術 はデザ イン優先 で、完成 されたイメ ー ジは創作全般 に主権 をふ るい、奴隷パ フォーマ ンスの結果 で きあが った作品はいわば天上か ら観 衆 に呈示 され るが 、パフ ォーマ ンス主導 の芸術 で は、イメー ジの部分的実現 に対す る観衆の現場 の 反応がパ フォーマーにフ ィー ドバ ックされてその 動 的具体化 を可能 に してゆ く。つ ま り何が で きる かはや ってみない と見えてこない。パフ ォー マ ン スは以上 まとめてみ ると、(1)身体実践性 、(

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現場汎律性 、(

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)偶 然性 -断片性 といった性質 を もつが、これ らは表現 活動 の始原 をな し、芸術表 現 の本来的な原点 をなす もの と考 え られ る。 近代芸術 は 自我主権の もとで天動 説的偏向の道 をた どったが、実存主義 にみた ように、 自我は世 界内周辺に他我 と共生す るものであ ってみれば 、 われわれは表現 の近代主義 をはなれ 、実存者の表 現 活動 としての新 しい芸術活動 をパ フォーマ ンス として とらえなお してみたい。 こうして芸術表現 は本質的にHusserlの唱 えるよ うな相互主観 (自 我 と多 くの他我 )に よる生活世 界の- プニ ング綜 合 とな る。

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近視表現 K.Fiedlerがい うように芸術の表現主体 を 「視」 (Kunstsehen)として とらえる と、古典主義芸術 は正常視 に よ り、そ して近代芸術 は遠視 によって 表現 され ると考 え られ る。正常視 は前述 した よう に世 界の全体 イメー ジを理 想の視点か ら明断判 明 に とらえる。 しか し近代 での 自我の 自由 と解放 が すすむにつ れて、古典主義 はバ ロ ック化 し正常視 は遠視- と移行す る。正常視 の明断判明な世 界イ メー ジが まだ対象の客観 的存在性 を残淫 として と どめ るのに対 して、遠視はHildebrandのい うよう に、存在形式 として よ り作用形式 として世 界イメ ー ジングにはた らき、その結果世 界イメー ジは客 観的明瞭性 を喪失 し、主観的幻影 ない し気分の表 出- と転落す る.つ ま_,)近代芸術 では 自我の創造 的主観があ ま りに強 ま り過剰 になって、対象性 は うち くだかれ、個別的オブジェは流動化 して全体 - と融合す るが、それに よ り創造 的 自我の内的生 命が強 く表 出され る。 この ような表現 では主観的 幻影 と気分が正面にあ らわれでてその全体 イメー ジをつ くりあげ、 自我の遠視 は世 界 を自由に虚構 化す るようになる。 ところが この よ うな近代芸術の視 に対 して、A. Riegl[16]は 「近視」 とい うい まひ とつの表現法 があ る とい う。近視者は対象 を とらえるのに視点 をそれに接近 させ 、手 で触 ってなぞるようにそれ をみ る。遠視が対象 をoptischに幻影化 させ たの と反対に、近視 は対 象 をtaktischに とらえる結果、 近視 的に とらえ られた対象は強い実在感 をしめす。 Rieglは古代エ ジプ ト美術に近視表現の典型 をみい だすが、近視像 はoptischな幻影 の介入 をゆ るさ ない即物 的明瞭性 を有 し、この実在性 は正常視 の

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2-川野洋 表現か ら構 成 一個 間相互 作用 と全の発現 -古典 主義芸術 にす らその痕跡 をのこしているほ ど である。 近視 的 イメー ジの特色はつ ぎの ように要約 で き るであろう。 (1)桐密 につ まって閉 じた物 として の量塊性 、(

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)連続的ひろが りをな しなが ら有界 に閉 じた面、(3)物 を外の空間か ら切 りとる強い 強郭 を示す境 界線 、(4)手 をふれなが ら物の面 を め ぐらせ る触走査 では短期記憶 での隣接関係 しか とらえないであろ うこ とか ら くる局所性 と単純 さ、 (正常視のイメー ジは比較的長期 に記憶に保 たれ る のに対 して、触覚 的 イメー ジは確実性 は強いが、 早期 に記憶か ら失 われ る) そ してその結果 、(5) 触覚 され る物が主観的観念の虚構 をゆ るさない確 固た る実在物 としての抵抗力 をイメー ジング主観 に呈示す るこ とか らして、それは感情移入 をか た くなに拒む異他性 をもつ。 G.Berkeley [1]は視覚像 の基礎 に触覚 を想定 す る。全盲 の人の 目が突然ひ らいた時、彼は対象 物 をただバ ラバ ラなアスペ ク トでみ るのみで、そ の物 の対象性 (位置 、大 きさ、名前な ど)を認識 す るこ とはで きない。 しか し彼は全盲 時に触覚 で その物の対象性 (前 に立 っている とか 、これ位 の 大 きさであ る とか 、触覚 的に同定 した名前な ど) を既得 してお り、 しか もその触覚物 イメー ジは固 定化 されていて不変 である。 ここで全盲の人は眼 前にみえるバ ラバ ラを視覚素材 を、 目や頭 を動 か し、身体 を運動 させ るこ とに よって類似や時空近 接 の関係 でそれ らを連合 しなが ら、これ ら身体運 動 の主体 であ る触覚 の既得の物 イメー ジに結びつ け る。視覚 イメー ジが対象性 をもち うるのはこの ような触覚 に よるsubsumptionがあるか らである。 以上 の ようなBerkeleyの見解 に よれば視覚 イメ ー ジ とい うものは本来触覚 イメー ジの観念的展開 相 である とい うことになろ う。そ して触覚 的に視 る近視が 、芸術観 として正常視や遠視 に くらべ て よ り根源的な ものに思 えて くる。触覚 的実在把握 は近視 に よっては じめてい きい きと再現 され るわ けである。 では対象物の 多数集合配置 された世 界の全体 イ メー ジを近視 は どの ように とらえるであろ うか。 近視 は視 点 を対象物 に接近 させ ざるをえないが 、 その結果 イメー ジは局所化 し部分的断片 となる。 正常視 -遠視が ひ とつの中心視点か ら世 界全体 を 73 とらえたのに くらべ 、近視 はつ ねに世 界の小 さな 部分断片 しか とらええない とす れば、その全体 を つかむ ためには、(1)視点移動 と(

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)断片イメー ジの連合 (関係づけ と結合 )が必要 にな ろ う。 こ うして近視 は 多視点の断片 イメー ジを、全体 をな ん ら子科 しえないままに新 しい全体へ と統合 して ゆ く。 この ようにいわば下か らの綜合 で え られ る 多視点の分散す る世 界イメー ジは、Rieglのい う 古代エ ジプ ト美術にみ られ るよ うに、芸 術表現 と しては前古典主義的なプ リミテ ィヴ ィズムの様式 を示す といえよう。プ リミテ ィヴ イズム は子供や 未開人にみ られ る芸術表現様式 であ り、古典主義 的成熟 と完成に先 だって歴 史の草創期 にあ らわれ るが、その近視 的表現主体 は独 自の創造 力 と実在 表現力 をもち、さきにのべ た地動説的実存の典型 例 をなす もの となる。 4- 3 既成晶 とコラージ ュ 近代芸術 では表現すべ き世 界のイメー ジが表現 主体 の 自我のなかに表現に先 だ って完成 されてい て、それが特定の素材に よって具体化 され る。そ こでは完成 されたイメー ジはで きるだけ忠実に 自 己を再現 させ るよう素材 を強制す るが、 そのため 素材 は不定かつ柔順 でなければ な らない。彫刻 で は粘土や石膏が 、建築 では コン クリー トや ガラス、 そ して最近 ではプラステ ィックがその よ うなイメ ー ジ表現 -具体化の素材 として えらばれ るのはそ の ような理 由に よるもの と考 え られ る。 ところが反近代主義 を唱 えるPicassoは まった く反対 の表現法 をとるO彼は まず ゴ ミ箱 をあさっ て素材 をみつけ る。た とえば、 自転車の壊れた-ン ドル をみつけては 「これは牛の角 に よい」 とひ ろいあげ、古 い皮製の座席の廃 品 をひろ っては「こ れは動物の顔みたいだ」 とい う。そ してかれはこ れ ら廃 品の- ン ドル と座席 をあ る配置につ ないで 「牛の頭」のイメー ジをつ くりだす。かれ のばあい まず表現 に先だ ってあ るのは素材であ り、 しか も その素材 はモチーフ としての既 成の意味 をもって い る とい うこ とがポイン トであ る。- ン ドル も座 席 も表現 に先だ って実生活で使用 され る 自転車部 品 として固有の意味 (機能 )を もた らされていた ものである。 しか しそれ らが ゴ ミ箱に捨 て られた とい うこ とは、実生活の用か ら切 りはな されて廃 -73

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長野大学紀要 第15巻 第1号 1993 物になったということをいみする。こうして

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は生活世 界か ら切 りとられて断片 と化 した意味の 素材か ら、それ ら素材にはなか った新 しい主題 を 創造す るのである。 ここに登場す るのは(1)既成 品 を切 りとって素材 としたオブ ジェ と(2)それ ら を、既成品が本来 もっていた国有の意味 を括孤に いれて まった く別 の次元の関係づけに配置す るコ ラー ジュである。オブ ジェをコラー ジュす るこの 独特の表現法 を

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は逆比喰 としてつ ぎの ように説明す る。「私が最近展示 した牛の頭 を おぼ えているかい。- ン ドルの柄 と自転車の座席 か ら皆が それ と分 る牛 の頭 を私 はつ くった。 ここ でひ とつの変容がなされたわけだ。 ところで私は 反対方向 をとるいまひ とつ別 の変容 とい うものに ついてみてみたいのだ。私のつ くった牛の頭が ゴ ミ箱に捨 て られていた としよう。恐 ら くある 日、 誰かがや って きてそれ をみてい うだろ う。『おや ! 私の 自転車の- ン ドルの柄にぴった りの ものがな ぜ こんな とこにあるだろ う-』 こ うしてわれわれ は双方向にはた ら く変容がお こなわれたのを知 る

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はここで旧来の比喰法に対 して新 しい逆 比喰法 を提唱 している。ふつ うの比喰法では 「牛 の角 は- ン ドルの柄 の よ うである」か ら牛の角 の 代役 としての- ン ドルの柄が表現 され る。つ ま り - ン ドルの柄は牛の角 の比喰 となる。 このばあい - ン ドルの柄はあ らか じめ存在す る牛の角 のイメ ー ジに類似 していなければな らない。 しか し逆に 「- ン ドルの柄は牛の角 である」とい うとき、そこ にある- ン ドルの柄か ら牛の角 のイメー ジが新 し くつ くりだされてい るとい うこ とがで きる

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の表現 法 は この後者の逆比境 を使 っている。 かれはオブジェ とい う引用 された素材 を道具 とし、 それ らの固有の意味 を保有 した ままそれ らを、全 体 イメー ジをあ らか じめ前提す るこ とな く、経験 的に下か ら組みあげなが ら、そこにひ とつの新 し い世 界イメー ジをつ くるのである

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の こ の方法はダダに とり入れ られ 、ポス ト近代芸術の 道 をひ ら くこ とになった。 以上の非近代芸術の表現法 では、 自我 中心 の近 代哲学的世 界観 とは異なった実在指 向の観点が素 朴 なプ リミテ ィヴ ィズム として うかが える。 自我 が世 界に超越す るのでな く世 界内的に生 きる存在 であるな らば、その世 界は客観化 され ることな く 自我の身体的実践的体験 に即 して現 出す る以外に ない。 このばあい 自我は近視 的′トさな存在 として 世 界 を局所的に とらえるこ とにな り、世 界全体 の イメー ジングにあって、小 さな 自我は 多数分散 し なが ら局所的 イメー ジをそれぞれ独立 に獲得 し、 そ してそれ らを小 さい 自我達 のあいだで取 りまと め る とい うこ とをす ると考 え られ る。小 さい 自我 達 の局所的 イメー ジはオブジェ とな り、それ らの 取 りまとめは コラー ジュであ る。 ここか らつ ぎの ふたつの興味あ る示唆が え られ る。そのひ とつ は、 自我 は よ り小 さな 自我達 のあつ ま り (多重人間) であ り、それに よって小 さいなが ら実世 界の中を 柔軟 にた くましく生 きる とい うこ とであ る。実存 を近代 的 自我の延長線上 で不安や 絶望 とい う否定 的気分の もの ととらえるいわゆ る実存主義には反 対 したい。い まひ とつは 多重 人間実存の世 界イメ ー ジであ る。それは理想の中心視 点か ら合理化 さ れた秩序 あ る姿 を示す こ とは もはや ない。小 さな 自我達 は脱中心化 されて世 界内 を中心- 周辺の差 別 な く旅す るといって よい。 そ して各地 でそれ ぞ れに固有 な独立 した局所 イメー ジがあつめ られ コ ラー ジュ され る。 これはW.Auden[14]が歌 った P.Brueghelの 「イカルスの転落」の世 界 であ り、 素 人の 日曜画がみせ る素朴派の絵 の世 界であ り、 矛盾葛藤の異化 された世 界のあの並列分散す るイ メー ジ となる。世 界はそれ を生 きる多重実存 をと お してそのあるが ままの現実 をこの よ うな姿 であ らわすのだ とい うこ とになる。

5

小 人達 の社 会 組 織 以上 の議論か らこのアイデア を具体化すべ くコ ンピュー タ論 に入 るわけであるが 、コンピュー タ の世 界では近代主義の影響の もとでvonNeumann の哲学が守 られて きた。それは外 界か ら入力す る 多量のデー タを唯一 の万能

CPU

がプ ログラムの 定め る順序 でひ とつずつ直列 的に処理す るもので ある。 しか しデー タのほ うは本来外界で随時分散 的に多発す る ものであ り、Neumann型のボ トル ネ ックを もつデー タの処理 は本質 的に非現実性 を もつ。い まひ とつNeumann型 コンピュー タはデ ー タの処理 に先だち、あ らか じめ完成 したプログ ラム を与 え られていなければな らない。 しか し与 -

(7)

74-川野洋 表現か ら構成へ 一個 間相互作用 と全の発現 -え られたプ ログラムが初期状態か ら出発 して 目標 状態に到達 し問題 を解決 しうるか否か を判定す る プ ログラム をつ くりえないこ とが数学的に証 明 さ れているO とい うこ とは コンピュー タは可能性 の 確証 のない ままプ ログラマーのプログラム をad hocに実行せ ざるをえないこ とになる。 ところが Neumann型 コンピュー タはプログラム とデー タ をカテ ゴ リ的に分 け、前者 はCPU直属 の メモ リ に常駐 し、後者 は作業 メモ リにおかれてそれ らの 身分 は外見的には峻別 されているかにみ えるが、 内部 的に両者は同質の2進記号 ス トリーム をな し て メモ リを分有 しているか らゴチ ャまぜ といって よい。それが70ログラムであ るかデー タであ るか はCPUの選択 に まかせ られ、CPUの選択は再帰 的にプ ログラムに依存す る。 この こ とは外界デー タのダイナ ミックな変動 にプログラムが柔軟に 自 分 自身 を変身 させ てゆ くこ とを一応可能 にす るが、 この 自己言及に よる自変 プ ログラ ミングが原理 的 に矛盾 をもっ ことも数学的に知 られているところ である。に もかか わ らず、Neumann型 コンピュ ー タは(1)処理速度の向上 と(

2

)プログラム-チ ー タ間の カー ス ト制 によって、強引に近代天動説 の もとスーパーマ ン的機械 としての地位 を頑 固に 守 って今 日に きている。 この聖 なるメモ リ (プロ グラム ) とボ トル ネ ックをもつ唯我独尊の古典 的 コンピュー タは、 まさに世 界の中心 にいてそのイ メー ジングを司る理性的 自我 の近代認識論的仕組 を忠実 に反映 しているように思 える。 この こ とは Neumann型 コンピュー タの処理対象 としての世 界の観念的虚構性 を物語 っている といえよう。 古典 的 コンピュー タの限界に挑戦 して新 しく登 場す るのは並列分散型 コンピュー タ (システム) である。 この新型 コンピュー タは脳 を範 とす る情 報処理 の仕組 をもつ。脳 はニ ュー ロンのネ ッ トワ ー クをなすが 、具体的にはそれ ぞれ固有のカース トをもち 自分 の コ ミッ トす る単一 の仕事 だけ を担 当す るニ ュー ロンチーム とそれ らの間の相互作用 の ためのネ ッ トワー クをなす と考 え られ る。ニ ュ ー ロンチームはそれぞれ局所 的 コ ミッ トメン トを もち、その作業の結果につ いて相互 に交信 し、最 終 的にチーム間の状態遷移 に収束が えられ るこ と に よって 目標が達せ られたとする。0.Selfridge[18] の脳 モデルPandemoniumでは、ニ ュー ロンチ-75 ムは 「デモン」 とよばれ、脳 はデモン達 の階層的 社会 をなす。最 外層の特徴デモン達 は入力デー タ か らそれぞれが各分担す る特徴 を抽 出 し、成功す れば メッセー ジを中間層の認知 デモンに送 る。認 知 デモ ンは特徴デモ ンか ら送 られ るメッセー ジの うち、 自分 に関係 あるものだけ を受信 してパ タン の認知 をこころみ、その成功 の度合 を最 内層の決 定デモ ンに伝 える。決定デモ ンは認知 デモ ン達 の 伝 える信濃度 を比較 しその最 強な認知 デモ ンを、 Pandemoniumの代表に指命 してパ タン同定が達 成 され る(図1参照 )。 ここで注意すべ きは、(1) デモンはそれ ぞれが独立 していて 自分 に与 え られ た単純 な仕事 しか しない とい うこ とと、(

2

)仕事 をした結果につ いてなん らか の メッセー ジを他の デモ ン達 に伝 えるとい うこ と、 したが って(3)デ モンは外か らのデー タ と仲 間か らの メッセー ジを 受 けて固有の仕事 をし、ネ ッ トワー クを通 じて相 互作用 をい となむ とい うこ とである。 このデモン にマ イ クロプロセ ッサ をあてがい、それに固有デ ー タと、関係す るメッセー ジだけ を処理す る単能 な小 さなプログラム を埋 め こみ、これ らのマ イ ク ロプ ロセ ッサにメ ッセー ジ交信 できるようなネ ッ トワー クを与 えることによって、脳の ようなはた らきをす るコンピュー タシステムが構想可能 とな るD このシステムでは局所的固有プログラム を内 蔵す る小 さな コンピュー タが分散 して存在 し、そ れ らが独立 自由にそれぞれの仕事 を並列 して実行 し、その結果 を相互に メッセー ジ交信す る。 この システムは分散 した小 さなCPUを多数 もち、ま たメモ リも聖域 、デ- タをふ くめ細分化 して分散 させ る とい う非Neumann型 の社会構造 を もつ こ とにな る。 M.Minsky[13] はこの よ うな新 しい コンピュ ー タのアイデア を「心社会」(theSocietyofMind) として示 した。心社会 とは非Neumann型 コンピ ュー タ比職に よる心のモデル であ り、この心 モデ ルは さ きのPandemoniumの よ うに新 しい情報処 理 システムのパ ラダイム をなす。かれは心 を説明 してつ ぎの ようにい う。「心がた くさんの小 さな部 分 を組合せ てつ くれ ることを示 そ う。-ただ し、 それ ぞれの部分には心がない もの とす る。・-心 の この ような考 え方 を 『心社会』 とよぶ こ とにす る。 そ して心 を構成す る小 さなプ ロセスのひ とつ ひ と -

(8)

75-76 長 野大学 紀要 第15巻 第1号 1993 特徴デーモ ン 認知デーモン .: 紅 海

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図 1 Selfridgeのpandemonium

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(9)

6-川野洋 表現か ら構成へ 一個 間相互作用 と全の発現 -つ を『ェー ジェン ト(agent)』とよぶ ことにす るO心 のエー ジェン ト達 は、ひ とつ ひ とつ を とってみれ ば心 とか思考 をまった く必要 としないような簡単 なこ としかで きない。 それなのにこうしたエー ジ ェン ト達 をある特別 な方法でいろいろな社会へ と 組合 わせ ると、ほん とうの知能 に まで到達す るこ とが で きるのである。- こうした小 さなエー ジェ ン トまたはプ ロセスの間には密接 な関係が ある。 -心 とい うものが もつ力は、心 を構成す るエー ジ ェン ト達 がたが いに密接 に関係 しあってい るこ と その ものか ら生 れて くるように思われ る。」(1) Minskyによれば心 とは心 な き単能 を小人 ( ェ-ジェン トまたはデモン)が数 多 く独立にはた らき なが ら、それ らの間の相互結合 に よって相互作用 しあ うとき、その結果小 さな部分の綜合 として生 じる ものであ る。例 えば 「運 び屋」 とい うシステ ムの下 には3人の小 人(1)「みつけ屋」、(2)「と らえ屋」、(3)「移 し屋」がお り、 さらに とらえ屋 はその下 に(4)「手動か し屋」 と(5)「握 り屋」 を、 また移 し屋 はその下 に 「手動か し屋」 と(6)「放 し屋」 を従が わせ ている

。X

Y

に運ぶ仕事 をす る運 び屋 は (a)運ぶ ものXをみつけ屋 に伝 え、(b) みつけ屋か らⅩの位置 メッセー ジをうけ とる とと らえ屋 に とらえ命令 を下す。そ して (C)とらえ屋 か ら成功 の メ ッセー ジをうけ とる と移 し屋 に移 し 場所Y情報 を与 えてこれに移 し命令 を下す。みつ け屋 はカメラを走査 させ てXをみいだ しその位置 を計算す るこ とだけ を分担す る。 とらえ屋は運 び 屋か らⅩの位置情報 ととらえ命令 をうけ る と (a) 手動か し屋 に命令 し、(b)その成功 をみてつ ぎに 握 り屋 をはた らかす。移 し屋 は(a)運 び屋か ら命 令 をうけ る と位 置情報Yをもってふたたび手動 か し屋に命令 し、(b)その成功 をみて放 し屋 に握 っ た手 を放 す よう命令す る。 また手動か し屋 は命令 に よって与 え られた位置に手 を動か し、握 り屋 は そこにある もの を握 り、放 し屋 は握 った もの を放 す とい うだけの仕事 をす る。以上

6

人のエー ジェ ン トの社会 はその トノブの運 び屋が

Ⅹ をYに運 ぶ」仕事 を依 頼 され ると、それぞれは単能で小 さ な 自分の仕事 にだけ専 念す るにす ぎないのだが、 独特の階層的 ネ ッ トワー クを通 じるメッセー ジ交 信 に よって、協力 して依頼 された仕事 をな しとげ る とい うわけ である(図

2

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7

7

屋 図 2 R.Brooks[2、3]はMinskyの心社 会のアイ デア をうけて 「ク リーナュア」 とよぶ独特 の昆虫 ロボ ッ ト設計に とりかか った(図3参照 )O この昆 虫 ロボ ッ トは6本の足 を使 って歩行 をす るが、そ の特色はふつ うの古典 的 ロボ ッ トの ように歩行全 般 に関す る綜合的知識 をプログラム として唯一の

CPU

に与 え、そのスーパー ヴァイザの制御 の下 で 足 をつ ぎつ ぎに動か して歩行す る とい うのでな く、 歩行 に関す る小 さな断片的知識 をい くつ か の小人 モデ ュールに分散 させ 、それ らの間に メ ッセー ジ 伝達の リンクをは るこ とに よってモテ中エール間に 交信 と協調 をおこさせ 、その結果全体 として昆虫の 歩行が可能 になる とい うものである。た とえば こ の昆虫 ロボ ッ トはつ ぎの ような

5

種類 の小 人モデ ュールか らなる。 EEI3 SSA昆虫E)ポッ ト (文献

2

より) (A)足 を前後に動かす。あ るひ とつの足 を一定角 度前度前へ だす とその信号 によって残 りの

5

本の 足 をその1/ 6の角度 だけ後に動 か す。 (B)6本の足のひ とつが上が っているの を検 出す る とその足 を自動的に下 そ うとす る。

(

C)

B

モデ ュール を

A

モデ ュー ルに結合 す る

。B

-7

(10)

7-78 長野大学紀要 第15巻第1号 1993 がある足を下げようとす るとそれを検出し、 その足を同時に前に進め るよう

A

に指令す る。 (D)発振器 をもち、 トリガー信号 をだ して 6本の 足 を順番に上 げさせ る。 (E)前にのばす足が障害物に接触す るとそれ を感 知 し、その足 をもっ と上げさせ るようDに信 号 を送 る。 これ ら

5

個の小人モデ ュールはそれぞれが固有の マ イクロプログラム と入出力 をもつ独立のプロセ スをなすが、それ らが下図 4のように拡張連結 さ れ るこ とによって、この昆虫が障害物 をの りこえ なが ら歩行す る様子が理解 され よう。 図 4

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は伝 統 的 ロボ ッ トを 「知覚モデュール を入力 とし、行動 モデュール を出力 とす る中央 シ ステム」 として とらえ、これに対 してかれの クリ ーナュア を 「システム をい くつかの活動産 出下位 システムに分割す るもの」(2)とし、そこでは 「活動 すなわち行動 を産 出す るそれぞれの下位 システム は各々が 自前でセンサーに よる知覚 を行為 につな いでいる。-(そこでは)セ ンサー ・デー タに対す る全面的に異なった種類の処理がそれぞれ独立に しか も並行 して進行 し、各々が まった く異なった 制御 回路 を通 してシステム全体の活動に影響 を与 えるのである」(2)とい うoそ して さらにつづけて 「しか しなが らわれ われは クリーナュアに知的行 動 を生 じさせ るためには、世 界に関 して もまたシ ステムの意図に関 して もその明示的表現は必要 で ない と主張す る。 このような明示的な表現がない 上 に、それが局所的に観察 されたならその相互作 用は実際混乱 していて 目的 を欠いた ものにみえる か もしれない。 しか しそこにはそれ以上の ものが あると私 はいいたい」(2)とい う。 ここにわれわれは

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的 シ ステム観 をみて とることがで きる。かれの タリー チュアはプログラム としての明示的世 界表現 をそ その中心に もっことはない。それはマイクロ ・フ ァームウェア化 して局所的に分散 し、プログラム とい うよ りはむ しろ小人モデュール固有の既得の 技能に近い ものである。そして クリーナュアは世 界の全体 イメージも行動 目標 も欠いたまま、すな わち設計図な しのパフォーマ ンス として環境駆動 的に行動す ることになる。 したがって小人モデュ ール間の相互関係 も- プニングと対立葛藤の様子 を当然呈す るが、その結果、全体 として 「それ以 上の もの」が発現 し、クリーナ ュアの外見上統一 ある行動 (歩行 )が形成 され ることになる。 以上のような並列分散す る小人達の交渉の演 じ られ る 「社会」 とい う形の コンピュー タない しシ ステムの考 えを哲学的に裏付けたのは現象学者

E.

Hus

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lの晩期の生活世 界の思想

[7、8]

であろ う。かれによれば世 界は客観 として認識主観によ って構成 され るに先だって、予め 自我に与えられ て生起 している。そ してこの世 界のなかには 自我 だけでな く、 自我 と対等に存在す る数 多 くの他我 が共存す る。他我の存在は、世 界内存在 として脱中 心化す るところか ら、自我の独尊優位が失われて 導 きだ されるもので

、Hu

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rlは感情移入によっ てこのことを裏づけ ようとす る。 こうして予め与 えられている世 界に受動的に触発 されて生 きるの は、彼によれば 「わた しに対 していわれるだけで な く、互いにいっしょに生 きているわれわれ もま た、互 いに とい う形での世界 を予め与 えられ、わ れわれに とって存在す るとみなされている世界 と して もっている」(3)のである。そ して 「め ざめた 生活においてつねにはた らきつつ あるもの として、 われわれは互 いにいっしょに とい う形で もまたさ まざまな仕方ではたらきつつ ある。た とえば、共 同の もの として予め与えられてい る対象 を互 いに いっ しょに観察す るとか、企てる、行動す るとい うようにである」(3)とい う。この他人 とともに生 き る世 界の共有において 「各人は彼な らびに彼の仲 間が現実に結びつ きあいなが ら経験 される同 じ物 に次の ような仕方でかかわ りあっていることを知 っている。すなわち各人はそれ らの物について異 なった見地 、異なった側面、異な った展望 などを もつが、 しか しこれはそれぞれ各人が同 じもの と して、つ ま り、たえず この物の可能的経験の地平 - 78

(11)

-川野洋 表現か ら構成 一個問相互作用 と全の発現 -として意識 しているところの多様性の同 じ全体系 か ら切 りとられた ものなのである

(

3

3こうして 自 我達 は世 界か らそれぞれ固有のマイクロ世 界 を切 りとって所有す るが、その共同生活の中で相互の 訂正 によるそれ らの妥当の変移がお こった り、ま た不調和が生 じるばあいそれ らは相互の談合 と批 判 によって結びあわされて、「全体 として大雑把に みれば個 々の点に関 して妥 当の相互主観的調和が <あた りまえ>のこととして成立 し、そ うす るこ とに よって多様な妥当 とそこで妥当 している事柄 の うちに相互主観的統一が成立す る」(3)のである。 つ ま り多 くの 自我達はそれぞれ独立に固有のマイ クロ世界 をもち、これ らは具体的経験内容 として 各人に担われているのだが、いまひ とつそこには 各人の相互主観による綜合 としての物その ものの 世 界があるわけである。この生活世 界の全体 につ いてHusserlは 「物その ものは本来何び とも真に 見 られた もの として有 しているものではない。 と い うの も、その物はつねに動 いているものであ り、 すべての人々に 与って、変移 しつつある自分 と他 人 との経験お よび経験物の開放的に無限な多様性 の統一 として意識 され るものだか らである。その 際 この経験の共同 (相互 )主観は、わたしと各人 に とっての、時によって出会 う人たち、さらにわ た しと現 に結合 しつつ行動 をともに している人た ちか らなる開放的に無限な地平なのである」(3)と い う。Husserlは世界 とい うものが物その もの と して本来的に 自我 と他我達の相互主観の相互作用 の中で、各 自の局所的経験の コミッ トメン トの社 会的綜合 として存在す るものであるこ とを主張 し ているように思 う。そ して彼 らはこの相互主観の 生活世界綜合 を、神 なき下か らの綜合 として 「受 動的」 とよぶ。 この生活世 界の相互主観に よる受 動綜合 とい う考 え方は、近代個 人主義哲学 を明 ら かに こえるもので、前述の

M

.Minskyの心社会の 思想 と、前者は多数の 自我の上にな りたつ社会 シ ステム を後者は 自我の心の中にある社会 システム をと、その議論の対象のレヴェル を異にはす るも のの、システムの再帰性か らみてそこに当然なが ら一 脈の共 通す る仕組が み いだせ て興味ぶかい ところで あ る。 す なわち、 そこには心の内なる 世 界は外なる世 界を映 し、逆に心の外なる世 界は 内なる世 界 を写 しているのがみ られる。 79 6 小 人 間の相互作 用 6- 1 内なるフォーラム 心のなかに多数の小人がいて固有の仕事 をしな が らそれ らが社会全体 をつ くりあげる相互作用 を 確保す るため、心社会にはどの ような仕組が もと め られ るであろうか。 まず小人はそれぞれが 自前の入力 ・出力 とプロ セ ッサ をもつ。そ して(1)外なる世 界か ら経験す る局所デー タを入力 しそれに一定の処理 をほ どこ したのち、その結果について報告 を仲間の小人達 にむか って出力す る。つ ぎに(2)(1)か ら小人達 は外界情報 とは別に、仲 間か らのメッセー ジを入 力 し、それ をある仕方で処理 してその報告 を仲間 達へ と発信 出力す る。 ここには2種類の小 人がい る。ひ とつは外か ら入力 して内側に発信す るもの、 いまひ とつは内なる仲間の情報 を入力 して内側-と発信す るものである。両者はひ とつの社会の中 で階層 をな し、前者は外界 と接 して住い、後者は もっぱ ら内側にだけ住 っている。 しか しそこには 小人達が互いの出力 を交信 し合 う場がなければな らないであろう。それがフォー ラムである。ナマ 外界か ら心社会に入って くるデー タは生 なる対 象情報であるのに対 して、フォー ラム内で交信 さ れる内なるデー タはメタ情報 となる。 とい うこと は外接小人は外なるデー タをそのままフォー ラム にもちこむことはな く、外界デー タ処理後のある桂 の関係情報だけをもちこむ とい うことである。そ の結果フォーラムで小人達は対象情報 をはなれ、も っぱ らメタ情報のみで反省的に交信す ることにな る。以上の模様はN.Chomskyの生成文法書 きか え木 をつか ってつ ぎの ように説明す るこ とができ よう(図

5

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図 5 引用 された小文字の記号はこの英語処理 の心社会 システムに外界か ら入力され る対象デー タである。 -

(12)

79-80 長野大学紀要 第15巻第1号 1993 それ らは外接′J、人 (⑦ 、㊧ 、⑦ )によって処理 され る。 これ らの外接小 人は、⑦ は HtheHを処理 して Tを、⑪ はいman…またはHball''を処理 してNを、 ⑰ はりhitMを処理 して Ⅴ を とい う工合 に して メタ 情報 をフォー ラムに出力す る。フォー ラム内には 小 人

、⑫ 、(9がいるが 、⑫ は メタ情報 T、Nをとらえてこれ らを統合処理 して、その結果 メタ情報

NP

をふたたびフォー ラムに返 し、

6

空 ) は

V

NP

を処理 して

VP

を返 し、最終的に⑤ は フォー ラム内に残 る

NP

情報 と

VP

情報 を処理 し て

S

情報 を発信す る. この小 人 (9 の情報

S

発信 に よって、この心社会は=themanhittheballH を理解 した と考 える。 ここでChomskyが表層構 造 とよぶ部分が外界の対象デー タであ り、大文字 で表記 された深部構造 とよぶ部分が対 象情報 (英 文 ) を処理 したメタ情報 をな し、これ らが交信 メ ッセー ジとなって心社会のフ ォー ラム を形づ くっ ている(図

5

参照 )0 ここで注意すべ きは、フォー ラム内で小 人達 は 反省的に動作す るが、外界か らの対象デー タの発 生 と入力は随時並列 的に多発す るとい うこ とであ る。 とい うことは入力対象記号列 は上例の ように 文法的に正 しい順序 でなければな らない とい うこ とはな く、子供の発話や ピジンの よ うに文法逸脱 の文 で もご くふつ うに入力 され るし、 また外接小 人達が入力す る対象記号 は外界の変動 と多様 を反 映す るか ら、それ ぞれが独立で、記号列全休 とし ての文法的適合性 な ど本来な く、バ ラバ ラであ り うる とい うこ とである。 このバ ラバ ラな外界の対 象情報 をもた らす無責任な外接小 人に対 して、反 省的小人はわが ままで無責任な外接小 人の言い分 をきいて何 とか まとめ をつけねばな らないわけで ある。に もかか わ らずフォー ラム内小 人はその ま とめの仕事 に際 して前述の とお り全体 的 目標 も設 計図 も所有 していない。 このフォー ラムの収束作業 をよ く説明 して くれ るのはHayes-Roth夫妻の黒板理論 [5] であろ う。かれ らは町へ 出て用 をたす 人間のプランニ ン グを実験 し、そのプロ トコル分析か らそこに 「便 宜主義」(opportunism)とい う特徴 をみいだす。 それは コンピュー タの古典 的問題解決法 ときわだ って対照的である。古典 的問題解決法の代表 とも いえる一般問題解決器

GPS

では、下位 目標間に初 期状態 と目標状態 との差 をもっ とも効果的に縮小 す るよ うな順序 をつけ られた分割 を与 え、この問 題分割 を再帰的に適用 して原始 問題の順序づけ ら れた効率 の よいプ ラン列 をえよ うとす る。このや り方 は(1)目標が与 え られ るこ とに よって初期状 態 との差 を計算 し、(

2

)差 を最大 限縮小す るキー オペ レー タを指定 して、(

3

)キー オペ レー タの適 用前 と通用後に問題 を分割す る とい う手順 を再帰 的にお こなって原始問題列 をうる とい うもので、 top-downな階層 的論理処理 を とる。 しか し人間 が その 中 で生 きる世 界は本 質 的 に開 いた 自由空 間 をな し、人間に対 して本来- プニ ングとい う性 質 をもつo Lたが って夫妻の心理実験に よれば人 間のプランニングには世 界の思いがけない-プニン グに駆動 されてadhocな動 的変 動 が お こる とい う。 トラブルにであって高 レベ ルプランをキャン セル し、低 レベ ルプランを急速編 入 してプランの 編成直 しをした り、都合 に よっては既定 プランを 凍結 して予定になか った低 プランを優先 的に実行 した り、 また実行すべ き低 プランのあいだに干渉 や矛盾が生 じたばあいで も、ダウンす るこ とな く 臨機応変 にプランの部分的組昔 をした り、調整役 の第370ランを創 出 した りす る。 こ の よ う な

top-downとbottom・upの上下双方向処理 の交叉 とプランニ ングの動 的変更 を可能 にす るような心 の知 的仕組 として 「黒板」(blackboard)とい うア イデアが夫妻に よって提案 された。 黒板 は前述のフォー ラムの仕組 をそなえ、(1) プランを列挙 して並べ る面、(

2

)プランニ ングの 政策 をか きとめ る面、(3)(1)と(2)か らプラン の優先順 をつ くりだす面 、(

4

)決定 プラン列 をつ くる面 と、(5)デー タ ・ベ ース と知識ベー スを蓄 えてお く両の5個 の面か らな り、それ らをめ ぐっ て専 門家 (Specialist)とよばれ る小人がはた ら く。 これ らの小 人はそれ ぞれ固有の条件 -ア クシ ョン 対 のプ ロダ クシ ョンをな し、黒板上の環境 を条件 としてア クシ ョンをお こ し黒板上 の環境 を変更す るこ とに よって、既成プランの修正 と新 プ ラン決 定 を生成す る。専 門家達 は(1)デー タ ・ベー スか ら用む きをもちこむ者、(

2

)用む きデー タか らプ ラン仮 説 をたて る者、(3)仮説プ ランか ら知識ベ ース を使 ってそれの拡張 をはか った り、また優先 順位 をたてて下位仮説 としての実行プ ランの演鐸 -

(13)

80-川野洋 表現か ら構 成へ 一個 間相互作用 と全の発現 -をす る者 、(4)実行 の障害がお こったばあいその フ ィー ドバ ックを担 当す る者 、(5)フ ィー ドバ ッ クをみて仮説プ ランを修正す る者な ど、それぞれ が固有の局所的黒板処理 にたず さわる。 Haye s-Roth夫妻に よれば以上の ような黒板モデルの動作 では、専 門家達 の処理動作 は非同期並列 に生起 し、 そのプランニ ングは全体が順序 よ くま とまって展 開す るの でな く、一部 の都合 の よいプ ランのひ と か たま り(「島」とよばれ る)が随時分散 してつ く られ、それ らは しか るべ き調整役のプランがで き た とき結合 され る とい うadhocでbottom-upな 島駆動方式 をとる。 こ うして黒板上に専 門家達 の 自由な集 団作業 に よるopportunisticなプ ラ ンニ ングが展開 され るこ とにな る。 6- 2 調整 心社会 のフ ォー ラム をめ ぐって小人達 はそれ ぞ れが独立並行 して 自分 の仕事 を随時実行す るが 、 それ らが全体 としての統合 をとげ るには彼等のあ いだに活発な相互作用がなければな らない。 この 下か らの綜合 としての相互作用の仕組 を具体 的に 考察す ると、そこに(1)第3着に よる調整 と(2) 小 人社会 の構造的組香 とい う2種類の メタ的はた らさがあるようにお もわれ る。 第

1

の調整 とは、独立 した小 人達 の仕事がお互 いに対立 と争 い を生 じ統合化が危ぶ まれ るときこ れ を解消す る仕組であ り、Minskyが 「パパー ト の原理」 とよぶ ところの ものである

S

.

Papert

[

1

5

]は量保存 を認識す る子供 の心社会 を例示 して、 そこで子供 がふたつの容器の水の量が同 じである こ とを認識す る過程 をつ ぎの ように説明す る。子 供 の心社会 には まず3人の小 人、(1)高 さエー ジ ェン ト、(2)広 さエー ジェン ト、(3)歴史エー ジ ェン トがい る。高 さエー ジェン トは狭 くて も水位 の高い容器の水の量の方 を多い と主張 し、広 さエ ー ジェン トは底幅 の広 い容器 の水量の方がた とえ 水位が低 くて も多い とい う。 これに対 して歴史エ ー ジェン トは、一方容器の水 を一滴 もこぼ さずに 他方容器に移 したばあい、水量は変 らず同 じであ る とい う。つ まり3人のエー ジェン トはそれ ぞれ 固有な単能 の認知 力 しか もたない。 さて、そこで い ま底幅の広 い容器(A)の水 を底幅の狭い容器 (B)に移 した とす る。そ うす る と容器Bの水位は 81 容器

A

の まえの水準 よ りも当然高 くなる。幼い子 供 はこれ をみ るときまって 「水が 多 くなった」 と い うそ うである。 これは幼 児の心社会には高 さエ ー ジェン トが早 く育 ち力 をもっているか らである。 ところがやがて子供 の心社会 に広 さエー ジェン ト が育 って 、彼が 「否 、少 くな った」 と反対 しは じめ る と、両 エ ー ジェ ン トの力が桔抗 しあい子 供 は どっ ちつか ず の混乱 に陥 る。 ましてその後 さ らに理 の あ る歴 史エ ー ジ ェ ン トが 登場 して、 「一滴 もこぼれてないんだか ら変 らない」といいだ す と、子供の心社会 は-大混乱に陥 るこ とになる。 その解決法のひ とつ は 日本社会の安定策 とされ る 談合 ロー テー シ ョンによる順位づ けがある。い ま この順位づ け を、歴史エー ジェン ト>広 さエー ジ ェン ト>高 さエー ジェン トと与 える と、は じめ最 低位の高 さエー ジェン トの声がひび くが 、最終的 には優先順位の高 い歴史エー ジェン トの 「同 じ」 とい う声が残 り、他のエー ジェン トは沈黙 させ ら れ るこ とになる。 しか しこの原理 では広 さエー ジ ェン トの声が高 さエー ジェン トの声 を沈黙 させ る 時期 が あ るはず であ るが 、実 際 に子供 が ここで 「少な くなった」 とい うこ とはお こらない。 そこで登場す る解決法が幾何エー ジェン トとよ ばれ る第 4の調整エー ジェン トを介入 させ るパパ ー トの中和化原理 であるo Lか しこの第4番 目の 幾何エー ジェン トの調整 を下位 の3人のエー ジェ ン トのいずれにほ どこすか とい うことが 問題で、 幾何エー ジェン トの中和化が3人の うえに同時に お よぶ と心社会の全体が 中和化 されて子供 は何 も いえな くなる. そこでPapertは 「高 さエ ー ジェ ン トと広 さエー ジェン トは特別 な関係 を もって も、 歴史エー ジェン トはそれにかかわ らずにおれ るよ うな構造 を3人の うえに課すな らば、中和化の原 理 も有効 になるであ ろ う」(4)といい、図

6

の ような エー ジェン ト間構造 を心社会に与 える。 高 さ エー ジェ ン

広 さ エー ジェ ン

歴史エー ジ

ン エー ジェ ン

ー 8 1 -幾何 エー ジェ ン ト 図6 量保 存 認 識 エー ジェ ン ト

(14)

82 長野大学紀要 第15巻第1号 1993 Papertに よれば 「この幾何エー ジェン トは高 さエ ー ジェン トと広 さエー ジェン トの監督者 としては た ら く。高 さエー ジェン トと広 さエー ジェン トが 同意す るば あいは 、 幾何 エー ジェ ン トは大 いに 『権威』をもってこの伝言 をったえる。だが意見が ちが うばあいには、かれの権威はそこなわれ、 自 分 の下役 たちが 中和化 された と報告す る。かれは 両者が同意す るか どうか 、す るとした らどち ら側 を支持す るか とい うこ と以外は何 もしらないので ある」(4㌔幾何エー ジェン トの中和化調整 を介入 さ せ るこ とに よって子供の心社会は、は じめ底幅の・ 狭い容器に移 された水 をみて 「多 くなった」 とい うがその うち困惑 しは じめ 、やがて 「同 じだ」 と い う量保有の認識へ と安定 的に到達す るこ とにな る。Minskyは この調 整原理 を 「心 の成長 におけ る もっ とも重要 なステ ップ として、単 に新 しい技 能 を身につけるだけでな く、す でに知 っているこ と (3人の下位エー ジェン ト)を使 うための新 し い管理方法 (幾何エー ジェン トに よる中和化 )を 身につけ るステ ップがある」(5)と統括す る。 このこ とは心社会において独立にはた ら く下位 の対象エ ー ジェン ト (前述の外接小 人)の、開いた世 界内 存在 とい うこ とか ら必然す る争 い を統合へ と調整 す る反省エー ジェン トが メタ的存在であ る とい う こ と、メタエー ジェン トが 内的調整 としてはた ら くこ とに よって心社会が知 としての構造化 を獲得 す る ものであるこ とを示 している。 この心社会の調整法 を前述のR.Brooks[2]は かれの並列分散型昆虫ロボ ッ トの設計に通用 して いる。かれはこれ を 「お さめ」(subsumption)と よぶが 、それは対立 して争 いあ うふたつ の独立小 人モデ ュールに第3の調整モデュール を介入 させ るこ とに よって、対立 モデ ュールの要求 を保有 し た まま第3の解決 口をみいだす ものである。た と えば先例 昆虫ロボ ッ トにおいて、障害物が 出現 し たばあい、足 を下 して前進 しようとす る

D-B

モ デ ュ-ル と危険 を感知す るAモデュールが並列的 にはた らく。ゆえに何 もしないでお くと昆虫ロボ ッ トはダウンす る以外にない。 そこで

E

モデ ュー ルが調整役 として介入 し、衝 突 しそ うになった足 を もっ と上 げさせ て障害物 をの りこえる「お さめ」 の危険 回避動作 をつ くりだす. ここにEに よるD -BとAの 「お さめ」 の仕組 をみ るこ とが で きる。 伝統的哲学用語 としてのsubsumption(包才封 は 種 を上位の類 の下 に統合す る意味 をもたされてい るが 、ここでは種 としての個性 的モデ ュールがそ の固有性 と独立性 を保 った まま、それ らの間の差 異や対立 を類 としての上位 モデ ュール をたて るこ とによって和解的に 「おさめ」られる意味にこれを拡 張解釈 したい。このようにみて くるとBrooksの「お さめ」の考 えはHegelの弁証法におけ る 「止揚」 (aufheben)に近 い といえる。そこでは正 と反の低 次の対立が合 において発展的に解消 させ られ、「お さめ」 られてい る とみ るこ とが で きる。地球 が太 陽の まわ りをまわ るのは、太陽系 とい う社会 シス テムの中で、太陽の引力 と地球 の等速 直進運動が 争 いあい、それが 「お さめ」 られ止揚 された結果 といえるし、 またバー ゲン市場 で売 り手が100円、 買い手が50円 を主張す るばあい、た とえば70円 で 値がつ くとい うの もおな じ 「お さめ」 と弁証法の 仕組 とみて よいであろ う。 川野[9]はChomskyの生成文法か ら、その書 きか え規則のひ とつ ひ とつに小人 を割 当て るこ と に よって、文 法逸脱文 をもbottom-upに構文解析 で きる川野心社会 モテリレKSOMを提 案 した.檎 文解析におけ る 「逆か さか え」 に よる統合 (=the manhittheball''- S)の一般 的仕組 は前述 した とお りであ る。 ところが子供 の片言や ピジンの よ うに文法的でない文が 入力 され る と、外接′ト人達 は順序 をはず され随時多発的に活性化す る。その結 果 、かれ らが フォー ラムに もちこむ語 デー タ列 は それ ぞれ独立 で連関のない不 条理 を示す であろ う。 しか しKSOMではフ ォー ラムに

、⑫ 、⑤ とい う内な る小 人がいて相互に交信 し、それに調 整がはた ら くこ とに よってそれ らの非文法的 な語 デー タ列 は巧 みに文へ と統合 され る. この統合過 程 では入力文 の文法逸脱性 は容認 され保有 された まま、最終的に文 であるこ とが承 認 され るの であ るが 、ここではた ら く内なる小人達のフォー ラム 内統合 の仕事 は外接小 人達 のそれ とは区別 されて 「調隻」とよんで よいであろ うO調 整 とは開いた外 界の変動が もた らすパ ラバ ラなデー タを、フォー ラムの内部 だけで反省的にや りくりし辻按 をあわ せ るメタ作業 であるが 、心社会に とってバ ラバ ラ に与 え られ る世 界の全体的 イメー ジングを達成す るための きわめて重要 なはたらきであ る といわね - 8

図 1 Sel f r i dge の pandemoni um

参照

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