IV. 調査結果の分析: 「障害」を主題とした意識調査の積極的意義と課題
11
0
0
全文
(2) 「障害の社会モデル」とは?. ―人権を求める闘いからうまれた思想-. 障害者権利条約が成立するまでの歴史は、障害者自身が自ら置かれている状況に疑問をもち、声をあ げるなかで、「障害」という言葉の意味じたいを問うてきた歴史でもあった。そのルーツは日本でも欧 米でも概ね 1970 年頃である。 なぜ自分たちは、近所の小学校に通うことができなかったのか。なぜ電車やバスに乗ることを拒否さ れるのか。なぜ施設に住むことを強いられるのか。なぜ労働の場から排除されているのか。なぜ人間と しての価値を貶めた扱いを受けるのか・・・。障害者どうしが語り合う中で、共通の経験に気づき、 「社会」 に向かって声を出しはじめた。この 1970 年代という時代は、世界的に公民権運動や女性解放運動が 高揚した後であり、障害者自身もその影響を受け、人権意識にめざめるなかで、従来からの「障害」観 とは違う価値観をうみだしてきたのである。 「障害の社会モデル」という言葉そのものはまだ無かったが、たとえばこんな主張がなされた。「欠 損のある身体ではなく、そういう身体をもった人のことを全く、またはほとんど考慮しないで排除して きた社会組織こそが、われわれに不利益や制約を与えている」(イギリス)。「障害からの解放ではなく 差別からの解放を!」 (日本)――いずれも 1970 年代に障害者運動のなかで叫ばれた言葉である。歩 けない、見えないことが悪いのではない、この社会が構造的に、健常者だけを基準にして成り立ってい ることが問題なのではないか。障害者を劣った存在と決め付ける価値観、障害者を排除する社会のあり 方そのものを問わなくてはならないと主張された。この主張であり思想が、「障害の社会モデル」の源 流である。 障害者が生きていく中で困難にぶちあたるのは、身体の欠損のためではなく、「社会」に不備がある からだという「障害の社会モデル」の考え方は、1981 年に誕生した初の障害種別をこえる国際 NGO である DPI(障害者インターナショナル)によって採用され、広がっていった。 「障害の社会モデル」 の見方をとることによって、施設収容や交通機関の利用拒否など、障害者がこれまで経験してきた困難 (だが障害があるから仕方ないとされてきたもの)を、「差別」や「社会的障壁」として捉えられるよ うになり、改善のための法律や政策を求める根拠になったのである。 「障害の医学モデル」 (個人モデル)とは? この「障害の社会モデル」の反対概念が、「障害の医学モデル」(=障害者が困難にぶちあたるのは、 身体の欠損そのものが原因であり、できるだけ治療や訓練に励んで障害を軽減すべき)というものであ る。これは従来から常識とされてきた「障害」観を、「モデル」で説明したものである。問題の改善の ために、障害者個人の努力が求められることから、 「障害の個人モデル」とも呼ばれる。 (言うまでもな く、障害の社会モデルでは、問題の改善のためには社会全体が努力すべきと考える。) 障害の医学モデルは、医療・リハビリーション等の専門職の仕事の根拠となっているとともに、一般 の人たちの間にある素朴な「障害者は、歩けなかったり見えなかったりするから何かと大変で、不幸で ある」という感覚や、障害者へのスティグマ、そして優生思想とつながっているものといえる 1 。 国際的なルールになった「障害の社会モデル」 「障害の社会モデル」は 1990 年代以降、国際的に合意を得ていき、WHO(世界保健機構)の障害 の定義にも影響を及ぼした。そして 2001 年末から始まった障害者権利条約を策定する過程で、 「社会. - 45 -.
(3) モデル」はついに国際基準になった。別の言い方をすれば、「社会モデル」の考え方が確立されたから こそ、障害者権利条約を策定することが可能になったのである。 障害のある人が障害のない人と平等な権利を享受することを阻んできたのは、社会的障壁(物理的障 壁、法や制度の不備、人々の偏見や態度などすべて)であり、社会的障壁は国家の責任によって撤廃し ていかなければならない――この「社会モデル」が、障害者権利条約の基底にある精神となっている。 条約に書かれているのは、 「平等な人権」を享受するための原則と具体的な権利、 「どのような社会的障 壁をなくさなければならないか」の一覧表といえる。 繰り返しになるが、「障害の社会モデル」の視点が共有されなければ、障害者権利条約を策定するこ とも不可能だった。人間=健常者という前提を問わない「医学モデル」の考え方に立っている限り、障 害者はありのままの姿で生きることを否定されて、個人の努力が求められ続け、一般社会の側がどのよ うな努力を行うべきかは不問にされてしまうのである。 どちらの「モデル」で現実を見るかによって、見え方(捉え方)も変わる さて、意識調査の話に戻ろう。本調査の大きな意義の一つは、調査対象者の「障害」観がどちらのモ デルに近いのかを測る問いを含みつつ(【問3】の一部)、(完全に二分されるわけではない複雑な現実 を反映しつつ)どちらかというと含め、「社会モデル」的な認識をもつ人、あるいは「医学モデル」的 な認識をもつ人が、現実にある諸課題(【問2~問5】)をどのように捉えているか、その相関を明らか にしたことである。 熊本論文に詳しいため、最低限の言及にとどめるが、たとえば問3で「医学モデル」的な認識を示し た者ほど、問2で「障害者の雇用制限」に賛成した(つまり、制限されても仕方がないとした)という ことや、同じように問3で「社会モデル」的な認識を示した者ほど、問2で「職場における合理的配慮」 に賛成した(有意な差があった)というように、明らかな相関が認められた。これは、一般に知られて いる「障害者の中で、就労している人は少ない」という実態に対して、その理由を「個人の能力が劣る のだから、社会的不利は仕方がない」 (医学モデル)として見るか、 「そもそも社会の側に障壁があるの に、それを解消しようとしていないからだ」(社会モデル)と考えるのかの違いである。 もっとも、「社会モデル」寄りの回答を選んだ者が、そこまで明確に社会的障壁を捉えた上でそう回 答しているとは限らない。しかし「進学や就職は能力によって判断されるのが当然」という常識があり、 大学生自身がその価値観から容易に離れられないことを考えるならば、一定は「社会モデル」寄りの回 答があったことに何らかの積極的な意味が見いだせるのではないか。 このように、「障害の社会モデル」的な認識をもつことと、現実の課題を「障害者の権利条約」の理 念(つまり「社会モデル」)に沿ったかたちでの解決を求めることとの間に一定の相関があることが示 されたことは、注目すべきである。ただしインクルーシブ教育に関して微妙な結果が出たという点は、 これまた興味深い。このことは後に述べる。. 2.. 意義その2:「社会モデル」的な認識の形成をめぐる仮説を提供したこと. 人権教育の目標に置かれるべき「社会モデル」認識 「障害」問題に関わる人権教育の目標とは何か。それは、障害者が日々直面している生きづらさ、ま. - 46 -.
(4) た障害者の人生における諸々の機会を大きく制限している社会的障壁(関わりたくないという忌避的態 度なども含め)を理解し、どのような解決策をとりうるかを考えられるようになること、すなわち「社 会モデル」的な認識 2 をもてることであろう。 社会モデル的認識をどれぐらい有しているか、その度合いは、障害者の人権に関わる現実の課題への 態度(向き合い方)を規定する座標になると考える。ある人が「社会モデル的認識をもって現実に応用 しうる」ということは、その人のどのような接触経験(【問6】)や学習経験(【問1】および【問8】 【問 10~問 11】など)と関係があるのだろうか。 見えてきた相関 熊本論文が示すように、小学校・中学校・高校・大学のいずれの段階においても、なんらかの障害者 問題の学習経験を有する者のほうが「社会モデル」の考えを肯定している。接触経験についていうと、 特に「高校までの友人」がいると回答した者のほうが「社会モデル」的認識をもっていることもわかっ た。学習内容については(熊本も述べる通り)精査する必要があるし、接触経験にしても今回の結果だ けで言えることは限られている。しかし少なくとも、「社会モデル的な認識はどのように身につけるこ とができるのか」がこれからの人権教育の目標と考えた時、今回の結果は重要な仮説を提供してくれた といえる。 推測であるが、「障害の社会モデル」という概念じたいを学習したのではなくても、身近に障害のあ る同年代の人がおり、「友人」としての関係を結んでき経験が、障害者の存在を否定するような言説に 抵抗する力をつけさせ、また、「友人」もまた自分と同等の社会参加ができて当然だという感覚を育ん だとはいえないだろうか。「友人」というからには、「助ける」「思いやり」だけの関係ではありえない だろう。 「自分は難なくできることが、障害のある友人は社会的障壁に直面する」 (例:受験、旅行への 参加)といった経験があったとすれば、「社会のあり方」を批判的に問う契機になりうる。実際にその ような経験があるかどうかは、未知の障害者がおかれた状況への想像力にも影響してくるのではないだ ろうか。 もう一点付け加えれば、従来、障害のある子どもとない子どもが「共に学ぶ」教育(インクルーシブ 教育)の、障害のない子どもの側のメリットとして、「思いやりや優しさ、助け合いの心を学ぶ」など 情緒的なことが強調されてきた――その内実はともかく――が、それだけではない社会的な意義を、こ の結果は示唆しているのではないか。つまり、障害のある子が共にいる空間を経験することが、社会的 障壁が存在することや、それを超える(障害児本人の努力ではなく、学級や学校等のとりくみで)出来 事を身近で経験した子どもは、障害の社会モデル的認識のベースになるような体験をしたと言えるかも しれないのだ。 いずれも仮説に過ぎないが、一定の相関を示しているこの調査結果は、これからの「障害者の人権」 の学習(障害者問題を学ぶ人権教育)を展望するうえでも一つの足がかりとなると思う。. 3.. 意義その3:「合理的配慮」概念を理解するための課題を示したこと. 「合理的配慮」とは、障害者権利条約のキーワードの一つであり、これから障害者差別解消法の施行 (2016 年)を控えて、日本社会で具体的に改革を行っていくために、最重要な概念である。しかし、. - 47 -.
(5) わかりにくく、後で述べるように誤解もされやすい。よって、「合理的配慮」をめぐる人々の認識のあ りようを明らかにし、理解のための課題を示したこともこの調査の功績と言えよう。 「合理的配慮」とは何か. ~よくある誤解~. 障害者権利条約の中ではこう書かれている――「障害のある人が他の者との平等を基礎と して、すべての人権および基本的自由を共有し、又は行使することを確保するための、必要 かつ適切な変更および調整であって、特定の場合に必要とされるものであり、かつ、不釣り 合 い ま た は 過 重 な 負 担 を 課 さ な い も の 」( 第 2 条 )。 そ し て 、 こ の 合 理 的 配 慮 を 「 し な い 」 こ とが「差別にあたる」としているのが特徴だ。 これをシンプルに説明すれば、 「合理的配慮」とは、ある障害者(たとえば視覚障害者のAさん)が何 らかの社会的障壁にぶつかった時(たとえば大学受験)、 「障害のある人とない人との実質的な平等 を 実 現 す る 」た め に 行 う 、「 個 に 応 じ た 配 慮( 変 更・調 整・工 夫 )」 (たとえば点字の試験問題 の 作 成 、時 間 延 長 を 認 め る 、別 室 受 験 )で あ る 。こ こ で の ポ イ ン ト は 、 「社会環境の一部を変 え る 」 こ と だ 。 も し こ こ で 、 個 ( Aさ ん ) に 応 じ た 「 合 理 的 配 慮 」 を 行 う こ と を 拒 否 す る な ら ば 、 Aさ ん は 事 実 上 、 受 験 で き な い 。 合 理 的 配 慮 に つ い て よ く あ る 誤 解 は 、「 配 慮 」 と い う 日 本 語 が 、「 思 い や り 」 に 近 い ニ ュ ア ン ス を も つ 言 葉 で あ る こ と か ら 、「 Aさ ん に 思 い や り の 気 持 ち を も っ て 、特 別 に 何 か し て あ げ ること」を、合理的配慮と捉えてしまうものである。ここでは「障害者には手をさしのべる べ き 」 と い う 従 来 の 道 徳 の 延 長 線 上 で の 誤 解 で あ る 3。 「合理的配慮の拒否」は対話・調整する努力の拒否(だから、差別) 合理的配慮という言葉を理解するために大切なのは、「健常者中心の社会のなかで、障害 者はさまざまな社会的障壁によって社会参加が阻まれ、不平等・不公正な状態にある」とい う 基 本 的 認 識 を ベ ー ス に 持 つ こ と だ と 思 う 。 こ の 現 状 認 識 が 乏 し い ま ま で は 、「 合 理 的 配 慮 」 の意味を理解することは難しいと筆者は感じている。 上記の基本的認識にたった上で、いきなりすべてを変えることはできないから、個々具体 的 な 場 面 に お い て「 あ る 人( A さ ん )が 社 会 的 障 壁 に よ っ て 不 平 等 を 強 い ら れ て い る 」 (先ほ どの例でいえば大学入試を事実上受けられない)と認められたら、A さんと相手方とで話し 合って、社会の側を(社会全体の責任において)変更・調整していきましょう、という方向 性 を と る こ と が「 合 理 的 配 慮 」で あ る 。そ の 場 合 の 受 益 者 は A さ ん だ け に と ど ま ら な い こ と が あ る 。( 当 該 大 学 が 障 害 の あ る 受 験 生 へ の 対 応 の ノ ウ ハ ウ を 蓄 積 す る 、 等 ) も ち ろ ん 、さ ま ざ ま な 理 由 で 、障 害 者 の 側 の 要 望 が 100% は 叶 え ら れ ず 、折 り 合 い を つ け なければならないことはある。それは求められた側(A さんのケースでは大学)が環境を整 えるのに「過度な負担」がかかると認められる場合だ。しかし、平等を確保するために話し 合 い 、調 整 を し よ う と す る こ と は 不 可 欠 な 姿 勢 で あ る 。と こ ろ が 、そ う し た 姿 勢 を も た ず に 、 話 し 合 い す ら 拒 否 す る よ う な こ と が あ れ ば 、そ れ は「 合 理 的 配 慮 の 拒 否 」と な り 、 「 差 別 」に あたる――というのが障害者権利条約の、そして障害者差別解消法の規定である。 (先の事例でいうと、A さん側の申し入れや話し合いを拒否し、他の受験生と全く同じ条件. - 48 -.
(6) でしか受験を認めないことが、それにあたる。印刷された紙を配られ、解答も点字で打つこ と が 許 さ れ な い の で あ れ ば 、事 実 上 の 受 験 拒 否 で あ る 。) 合 理 的 配 慮 を し な い こ と が「 差 別 」 というのはかなり強い規定に思えるが、これがなければ、社会環境を少しずつでも変えてい くことは難しくなり、障害者は権利を侵害されても、裁判でも起こさない限り、改善を求め ることができなくなる。こうなれば、障害者権利条約じたいが「絵に描いた餅」になってし まう。 調 査 結 果 に あ ら わ れ た 、「 合 理 的 配 慮 」 を 理 解 す る 難 し さ 今回の調査でいえば、 【 問 2 】の( 5 )、 「障害のある人とない人が同じ職場で働くために必 要 と さ れ る 配 慮 や 工 夫 を 行 う こ と が 企 業 に 求 め ら れ る の は 当 た り 前 で あ る 」で は 、 「そう思う」 「 ど ち ら か と い え ば そ う 思 う 」の 合 計 で 7 割 を こ え 、 「 合 理 的 配 慮 」に 肯 定 的 な 回 答 が あ っ た 。 ま た 【 問 11】 の 障 害 学 生 支 援 に お い て も 、「 施 設 ・ 設 備 等 の ス ロ ー プ 等 の バ リ ア フ リ ー 化 」 は 8 割 近 く の 回 答 で あ る 。(「 講 義 で の ノ ー ト テ イ ク な ど の 特 別 措 置 や 配 慮 」 の 低 さ は 、 講 義 保障の重要性がわかっていないという以上に、 「 間 近 で 見 た こ と が な い た め 知 ら な い 、想 像 が つ か な い 」 こ と が 原 因 で は な い か と 思 わ れ る 。) だ が 一 方 、最 後 の【 問 13】で は 、 (配慮や工夫を行わないことが) 「差別にあたる場合があ る と 思 う 」「 ど ち ら か と い え ば 差 別 に あ た る 場 合 が あ る と 思 う 」 と 回 答 し た 者 が 29.4% と 、 三割を切る低い数字であった。 「 ・・・は 差 別 に あ た る 」と い う 設 問 で は な く 、 「 と 思 う 」を つ け て婉曲的にしても、ここまで低かったことは気がかりである。最も多いのは「一概に言えな い」であった。 この調査は、 「 合 理 的 配 慮 」の 考 え 方 や 実 際 に つ い て 説 明 し た 上 で 問 い か け た も の で は な い ため、回答者が「いろんなケースがあるだろうから、一概に言えない」と考えるのは無理も な い 。こ の 結 果 を も っ て 、 「 回 答 者 の 7 割 が 合 理 的 配 慮 に 賛 成 で な い 」と 言 う こ と は で き な い よ う に 思 う 。し か し 、 「 差 別 」と い う 言 葉 が 出 て き た 途 端 、警 戒 的 な 姿 勢 が 出 て き た こ と に 注 意を払う必要があるのではないか。 筆者の授業や企業研修の経験でも、 「 合 理 的 配 慮 」一 般 に つ い て は「 良 い こ と だ 、進 め る べ き ( 企 業 で も 進 め て い き た い )」 と 考 え る 人 は 多 い が 、「 合 理 的 配 慮 を 行 わ な い こ と は 差 別 」 という言葉が出たとたんに反発し、 「 極 端 だ 、厳 し す ぎ る 」な ど の 抵 抗 感 を 示 す 人 は 多 い 。こ れは「差別」という言葉に、個人の内面に介入するような重たい響きを感じ取って、防衛的 に な っ て し ま う 人 が 少 な く な い 4 こ と と も 関 係 し て い る だ ろ う 。 だ か ら こ そ 、「 合 理 的 配 慮 」 の考え方や実際の例を、慎重に、ていねいに伝えていかなければならないと思う。 「 困 っ て い る 人 を 見 か け た ら 、 助 け る 」 と い っ た 道 徳 と は 違 い 、 こ の 40 年 間 の 障 害 者 運 動 の 結 果 も た ら さ れ た 概 念 で あ る「 合 理 的 配 慮 」 (社会モデルをもとに社会を変えていくため の「 道 具 」と も い え る )を 理 解 す る こ と は 、そ う 簡 単 で は な く て 当 然 な の だ と 思 う 。 「合理的 配 慮 」は 、 「 障 害 の 社 会 モ デ ル 」的 な 認 識 を 欠 い た ま ま で あ れ ば 誤 解 さ れ て し ま う 概 念 で あ る からこそ、障害者の人権をめぐる各種の実情や「社会モデル」概念の学習とセットで、とく に大学教育や社会人への研修等において理解を進めていくべき概念だと筆者は考える。. - 49 -.
(7) 4.. その他、本調査からの重要な所見. ここからは、調査結果を概観して気づいたこと、これからの人権教育や障害学生支援を考えるう えで参考になると思われることを、アトランダムに述べておきたい。 ① 「地域で共生」とは. ~葛藤の場としての地域は意識されているか?~. 【問2】の(1)、「障害のある人が地域で障害のない人とともに生活しているのは当たり前である」 に対して「そう思う」「どちらかといえばそう思う」の合計が9割近くにのぼった。この結果はちょっ と慎重に考えてみたい。というのは、障害者権利条約でいうところの「地域」と、一般的にいう「地域」 とでは意味内容が異なり、いずれにせよ大学生にとっては身近でない可能性があるからだ。 障害者権利条約が(あるいは長年の障害者運動が)求めてきたのは、障害のある人が疾患や障害を理 由に(あるいは介護や訓練の必要性を理由に)、住み慣れた場所から排除・隔離されて、施設や病院に 収容され、社会参加を阻まれ、さまざまな点で人権侵害されることがないようにしてほしいということ だった。つまり、誰もが「地域」でさまざまな人と関わりながら自分らしい生活が送れるようになって ほしい――というメッセージが「地域」という語には含まれている。そこでいう「地域」は、これまで 障害者と共に暮らしてこなかった地域住民の偏見の目があるかもしれず、物理的バリアがある場所かも しれない。つまり「地域」とは葛藤がある場所である。それでも「地域で暮らす」ことを権利として求 めてきた。これまで隔離されてきた障害者が、新たに地域で暮らし始めたら(あるいは暮らそうとした ら)、近くで関わった経験のない住民との間に葛藤が起こるのは、ある意味当然なのだ。トラブルがあ れば話し合い、調整をし、共に長い時間を過ごすことで乗り越え、共に地域の一員として共生していく ことが、障害者権利条約でも目指されている方向である。 だが、今回の調査に回答した学生たちにとって、「地域」とはあまり自分とは縁がない場所と感じら れたのではないか。大学生ぐらいの年代では、一人暮らしであるか否かにかかわらず、「地域」とは、 激烈な競争がある企業社会などと違って、おばちゃんや高齢者が暮らしている場所というソフトなイメ ージがあるのではないか。また、先述したような障害者運動の文脈でいう「地域」の意味が知られてい るわけでもない。そうなると、自分と直接の関係が感じられないから、「優しい人が弱い人の面倒をみ てくれたらよい」といったイメージで回答されたのではないかと推測する。これに対して、同じ【問2】 でも、雇用・労働に関してはもう少し厳しい回答が多く、インクルーシブ教育と特別支援教育への意見 など、学校に関するものでさらに相関が不明確な結果となっている。これは、 「自分が想像できる領域」 であればあるほど葛藤があり、そうでない場所については寛容になれるということであるかもしれない。. 障害者の存在が「見えにくい」ことをめぐって 【問9】は、日本の人口のうち障害者手帳を保持している人がどれぐらいの率を占めるのかを問 うものであった 5 。日本における障害者手帳の保持者は現在、約「22 人に1人」とされており、 【問 9】の選択肢の中では「20 人に1人ぐらい」が最も近い。ところが回答で最も多かったのは「100 人に1人」であり、次いで「50 人に1人」、 「30 人に1人」であった。正答といえる「20 人に1 人」を選んだのは全体の 16.5%に過ぎない。このことは何を表しているだろうか。もちろん、 「22 人に1人」はあらゆる年代を通しての数字であるから、相対的に高齢者の年代のほうがその比率は. - 50 -.
(8) 高いとしても、若年層でも「100 人に1人」ということはありえないはずだ。 (若年で死に至る疾 患もあり、青少年の有病率が特に低いとはいえない。) この「100 人に1人」と考える人が多い ことは何を表しているのだろうか。 これと【問6】 (あなたの身近に、何らかの障害のある人がいますか)と併せて見よう。 「高校ま での友人」にいると答えた者が3割を超える。「友人」ではなく、単なる同級生であれば、もう少 し数字は上がったであろう。しかし、いずれにせよ多くの大学生がイメージするのは、学年(少な い場合は学校)に1人~数人のみ障害児がいる、ということではないだろうか。「身近にいたこと がない」も 27.3%である。出身地域や学校によっては、全く障害をもつ子どもと出会ったことが ない場合もあろうし、仮に同じ学校にいたとしても認識したことがない学生もいるであろう。 筆者はしばしば「小学校の時はクラスに障害のある子がいたけれど、中学でいなくなった」「高 校以降は身近にいない」という大学生の声に接する。進級・進学するとともに障害のある同級生が 「いなくなる」ということを不思議にも思わなかったことに、授業を受けて気づいたという学生も いる。このようにして、 「身近にあまりいない」実感、あるいは「電車の駅などでたまに見かける」 といった経験の範囲から、 「100 人に1人ぐらいだろう」という回答が導き出されることは当然と もいえる。 このことから推測されることをいくつか挙げておこう。まず、障害のある子どもとない子どもが 共に学ぶ「インクルーシブ教育」がいまだ十分に浸透していない実態があり、特別支援学校で学ぶ 同年代の子どもの存在が認識されていないこと。また、同年代ではないものの、施設や病院に隔離 されたまま、地域で暮らせていない人がたくさんおり、かつその事実が知られていないこと。また、 介護サービスの不備などで外出が困難な人もいる。あるいは、外見からわかる「障害」をもつ人(車 いす使用者など)はイメージしやすくとも、聴覚障害者、内臓器官の疾患をもつ内部障害者、(軽 度)知的障害者、精神疾患を抱えた人など、外から「わかりにくい」障害をもつ人が多種多様に存 在することをほとんど知らないか、意識していないこと。さらに言えば、「自分の障害や病気をカ ミングアウトしにくい社会であること(明かせば差別されたり就職等で不利になることを恐れるた め) 」も関わってくるだろう 6 。 このように回答者が「障害者の数」を過小にしか認識できていないことにはさまざまな社会的要 因がある。このことを教育や研修でとりあげ、私たちの社会のあり方―一部の人が隔離されて見え なくされていたり、名乗りにくい空気があったり―に思いをめぐらせることもできるだろう。 インクルーシブ教育、特別支援教育への態度から見えるもの 続いて興味深いのは、熊本論文にあるとおり、【問2】の(2)(4)、つまり教育に関わって、アン ビバレントな態度が見られたことである。 「社会モデル」的な認識をもつ者が、 「共に学ぶ」ことを支持 するとは必ずしも言えなかった。どちらも、とりわけ(4)に「どちらともいえない」が多かったこと は、回答者の迷い・葛藤をあらわすものとして注目したい。 教育に対する回答者の態度には、おそらく自分が小・中学校でどのような学校・教室環境を体験して きたか(共に学ぶ教育の実践が行われていた学校だったか、同じクラスに障害児がいたか、どのような 関係を結んだか結べなかったか、等)と関わりがあるのではないかと思われる。おそらく、多くの回答 者が「障害のある子もない子も同じ学校、同じクラスで学ぶほうがよい」を「正論」と考えているよう. - 51 -.
(9) だが、それでも「どちらともいえない」が4割にのぼる。 「特別支援学校で学ぶ」に一定の支持があり、 かつ「どちらともいえない」が半数を超えるのは、「正論」を知っているがゆえの葛藤(うまくやって いける子ばかりじゃない、しかし積極的に特別支援学校を支持できない)が見て取れるように思う。 「共に学ぶ」教育(インクルーシブ教育)をめぐっては、一般に、教室で障害のある子とない子が日 常的に接触経験をもつことが、障害のない子の肯定的な障害者観や共生意識を育むことが期待されてい る。確かに、とりたててエピソードはなくとも「障害のある子がいて当たり前」の学級生活を体験した ことを肯定的に捉えている学生は少なくない。 「(障害のあるクラスメートがいたおかげで)このような ことを知れた」と具体的に書いてくる者もいる。だが一方、否定的な経験(その子に対するいじめ、教 師が放置していた、自分自身うまく関われなかった等)も聞かれる。実際は、教師の態度や学校の受入 体制が不十分であるなど、解決していくべき問題があったにしても、「そもそもあの子に普通学級は無 理だった。別の学校に行くべきだった」という意見―周囲の大人がそう話していた場合もある―に影響 されていることも考えられる。建前として「共に学ぶのは良いことだ」という言説が一定ある中で、否 定的な経験をどう消化してよいかわからないという者もいるはずで、それが本調査の回答に表れている と見ることもできるかもしれない。 地域で共に学ぶ「インクルーシブ教育」は権利であるという障害者権利条約のメッセージがまだ浸透 していない中で、学校における「合理的配慮」もまだ手探りである。これから教職課程をとる者も多い 大学生に、インクルーシブ教育の目的や実際についてどのように教えていくのかも、課題であろう 7 。 出生前診断をめぐって 【問4】の出生前診断については、熊本論文で分析があるため、その補足のみ記しておきたい。出 生前診断は大学生の年代(とくに女子)にとって切実に関心をもたれるテーマである。これはもちろ ん優生思想に関わる問いであるが、同時に(とくに女子には)「障害児を産むかどうかで自分の人生 が左右される」という意識をもたされていることと関係してはいないだろうか。ただでさえ「妊娠、 出産、育児」について女性に多大な責任がのしかかっている社会の中で、自分の思い描く将来をいか にして「リスク」の少ないものにするか、若いうちから女性は考えざるをえない。そのなかで、「も し子どもに障害があったら」と想定すると、想像がつかないほどのマイナスの要素と感じられるので はないか。また経済的なことを含めた「育てる大変さ」が予想されるだけでなく、「障害児を産む、 障害児の親になる」ということ自体が、周囲から祝福されない、責任を問われる、スティグマを帯び てしまうような社会の空気がある。 (もちろんこれ自体、優生思想だとも言えるが。) しかし「だから診断を受けて、障害児を産むことを避けたい」と考える人が多い中で、それに抵抗 する要素もいくつかあると思う。大きく二点挙げるならば、やはり直接、障害のある人の生活にふれ ているか否かということが大きいのではないかと予測される。名指しされているダウン症の人をはじ め、実際にどれぐらい障害児者の日常を知っているか、固有の名前と個性をもった人としてイメージ できるかといったことだ。(もちろん実際に接触があり、実際に「親の大変さ」などを知って、それ が「避ける」判断へと影響する場合もあろう。 ) 次に、妊娠中絶じたいに対する抵抗感は小さくないと考える。「検査を受けて、その結果しだいで 子どもをあきらめる」ことをしたくない、検査じたいを受けたくないと考える人も少なくないのでは ないか。全体で 36.3%にのぼる「どちらともいえない」には、 「障害児の出生を避けたい」気持ちと、. - 52 -.
(10) しかしそれで中絶を選ぶことへの後ろめたさ、抵抗感との葛藤が反映されているように思う。もちろ ん、多数派の「賛成である」と回答した者の中にも、揺らぎや葛藤はあるはずだ。 出生前診断は、非常にデリケートで難しい主題である。どの選択肢を選ぶのが「正しい」のか、ど れを選べば「共生意識」が高いなどと想定することには、慎重であるべきだとも思う。だが、「診断 を受ける・受けない」を含めて、本当の意味でカップル(とくに女子)が「決断し、選択する」ため には、あまりにも情報や、それを下支えする経験をもっていない若者が多いのが現状である。出生前 診断でわかりうる障害・疾患はごく一部であることも知られていないが、そうした障害・疾患をもっ て現に生きている人たちの姿や意見や生き方にふれないまま、漠然とした恐れから診断を受ける人が ほとんどであろう。そして診断の結果によっては中絶を選ぶということは、多大な精神的肉体的負担 がかかることである。十分な情報を得て、相談をすることができ、葛藤した結果、最終的にどのよう な選択をしてもそれが尊重される社会、そして障害者の生を否定しないかたちでその選択が行われる ような社会、かつ必要な支援が受けられる社会をめざしていかなければならない。 学生の中には性的少数者もおり、子どもをもつことを選ばない(であろう)人も当然いる。それを 考慮したとしても、出生前診断は若者が「障害」という問題に向き合う、大きな契機だといえる。大 学教育においても、さまざまな角度からこの問題について学び、考える機会が提供される必要がある と思う。. まとめ まとめる余裕もないまま、紙数が尽きてしまった。繰り返すが、この画期的な調査の結果からは、障 害者およびそれをとりまく社会に対する、現在の若者の意識のありようが確かに見えてくる。今後の大 学教育や職員への研修はもちろんのこと、学校における障害者問題学習、研修や啓発へのヒントとして 活用されることを願っている。. 1. このように「障害の医学モデル」は、 「障害の社会モデル」の立場から批判される概念である。だがそうす. ると「医学も大切ではないか」 「医療を受けることを否定するのか?」という疑問を寄せられることがあるが、 これには誤解がある。 「社会モデル」の立場は(障害者権利条約もそうであるが)決して医療を受けることに 否定的なわけではない。だが事実として、多くの障害者は幼い頃から、 「障害を軽減すること」があたかも人 生の最優先事項のように考える(ある研究者は「道徳的責務であるかのように」と表現する)社会の中で、 療育やリハビリテーションに多大な時間とエネルギーを使わされ、勉強や遊びや人間関係をも犠牲にしてき た。 (そしてそれだけのコストに見合う「効果」は乏しかった。 )何よりも、 「障害の軽減」こそ重要という価 値観は、障害のある身体に否定的なまなざしを向け、 「障害を克服できていない人」というレッテルを障害者 に貼りつける。そして社会の責任は問われないままだ。これこそが「障害の医学モデル」が批判される理由 である。医療を受ける権利は、障害のない人と同様に(必要な時に必要なだけ良質な医療を受ける権利とい う意味では)とうぜん大切である。 2. 「社会モデル」的認識という表現がわかりにくいという人には、 「障害者の人権を尊重するための考え方」、. 「障害者の人権問題を社会全体で解決していく方向で物事を捉える態度」などと説明してもよいだろう。従. - 53 -.
(11) 来は「障害者の人権を尊重する」というと、優しく接する、手助けするというイメージで捉えられてきたが、 道徳一般ではない捉え方を育てることが、今後ひじょうに大切である。 3. 2013 年 6 月 に 「 障 害 者 差 別 解 消 法 」 が 国 会 で 成 立 し た 時 の 「 誤 解 」 例 の を 挙 げ て お き た い 。. この法律でも障害者権利条約に沿ったかたちで「合理的配慮」が規定されているのだが、テレビ や新聞の報道で、 「 こ れ か ら は 障 害 者 に 合 理 的 配 慮 を し な く て は な ら な い 」と い う 表 現 が な さ れ た 。 こ れ に 対 す る イ ン タ ー ネ ッ ト 上 の 反 応 で は 、 あ た か も 障 害 者 に 対 し て ( だ け )、( 無 限 に ) 配 慮 し なければならないのか、 「 特 権 」を 振 り か ざ す の か と い っ た 誤 解( な い し 曲 解 )の コ メ ン ト が 多 く 見 ら れ た 。実 際 に 、企 業 や 行 政 職 員 対 象 の 研 修 の 席 で 筆 者 が よ く 耳 に す る の も 、 「合理的配慮とい うが、相手が障害者であればとにかく配慮しなければならないのか」といった不安の声である。 「 過 度 の 負 担 」( 合 理 的 配 慮 の 除 外 規 定 ) を ど こ で 線 引 き す る の か を 気 に す る 企 業 関 係 者 も 多 い 。 もっともこれは、 「 合 理 的 配 慮 」へ の 誤 解 と い う よ り は 、障 害 者 と の 接 触 経 験 が 少 な い が ゆ え の 忌 避感とも考えられる。 4. この「差別」という言葉への警戒感には、従来の人権教育のあり方とも関係があることが推測されるので、. 機を改めて考えてみたい。. 5. 実のところ、現行の障害認定の制度には、疾患名によって切り捨てられる人がいるなど、問題をはらむも. のであるが、今回は問わないこととする。. 6. 授業後のコミュニケーションペーパーで「実は自分はこういう障害(精神疾患、内部障害など)をもって. いるが、大学の友人は誰も知らない」と書いてくる学生は毎年いる。. 7. なお、インクルーシブ教育については、柔軟な考え方をもっておくことも必要だ。発達特性などによって、. 大人数の教室では落ち着かず、学び続けることが困難な子どもはいる(障害のない子にもいる)。医療的ケア を優先せざるをえないケースもある。また、ろう学校(聴覚支援学校)で手話による教育を望む聴覚障害児 (家族)もいる。障害者権利条約は、将来の完全なインクルージョンという目標にかなったものであれば、 一時的に場を分けた支援も認められることが書かれている。 「全面的なインクルーシブ教育こそが最善」とい う考え方を絶対視する人によって、支援学校を選んだ当該障害児や家族が傷つけられる面もあるという。イ ンクルーシブ教育の理念は重要だが複雑な実態があること、個人の選択が尊重されるべきことを、教える際 には留意したい。. - 54 -.
(12)
関連したドキュメント
子どもたちが自由に遊ぶことのでき るエリア。UNOICHIを通して、大人 だけでなく子どもにも宇野港の魅力
筆記試験は与えられた課題に対して、時間 内に回答 しなければなりません。時間内に答 え を出すことは働 くことと 同様です。 だから分からな い問題は後回しでもいいので
自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので
では恥ずかしいよね ︒﹂と伝えました ︒そうする と彼も ﹁恥ずかしいです ︒﹂と言うのです
現を教えても らい活用 したところ 、その子は すぐ動いた 。そういっ たことで非常 に役に立 っ た と い う 声 も いた だ い てい ま す 。 1 回の 派 遣 でも 十 分 だ っ た、 そ