フッサール現象学における価値の問題
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(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第62巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.62,No.1. 平成23年8月 August,2011. フッサール現象学における価値の問題. 千 葉 胤 久 北海道教育大学旭川枚倫理学研究室. DasProblemdesWertesinderPhanomenologieHusserls CHIBA Tanehisa. DepartmentofEthics,AsahikawaCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 本稿は,フッサール現象学において価値がいかなる存在として捉えられているかを考察するものである。 フッサール現象学においては,主観的な体験である価値づける作用に対して,価値づける作用に対する志向 的相関者としての価値の客観性が強調される。価値が客観的なものであることを強調し,価値と価値づける 作用とを峻別することによって,フッサールは倫理学における快楽主義・主観主義を批判し,それらが懐疑 主義・相対主義に陥る理由を明らかにしようとする。また,価値の客観性に関するフッサールの議論は価値 構成のあり方に関する議論も含んでいる。その議論のうちには,価値もまた構成され現出するものであり, 価値の構成に関しても,事物の構成と同様,多様な現出を介して同一の現出者が現出するという現出構造を 見出すことができるという指摘を見て取ることができる。. 1.はじめに−−−−−−−−一現象学における「実在」の意味 フッサールは,自らの超越論的現象学を「超越論的現象学的観念論」と呼称することがある。しかし,こ の現象学的観念論は,実在的世界を仮象として,その現実存在を否定するものではない。むしろ,「現象学 的観念論の唯一の課題と仕事は,この世界の意味を解明することにある。詳しく言うならば,この世界が万 人にとって現実的に存在するものとして安当しかつ現実的な権利をもって安当していると言える,まさにそ の意味を,解明することにあるのである」(V152)1。 現象学においても,実在的世界は「存在するもの」なのであるが,現象学において実在的世界は「超越論 的主観性へと本質的に関係づけられた相対性を持つ」ものであり,「超越論的主観性の志向的意味形成体と してのみ,その存在するものとしてのおのれの意味を持ちうる」(V153)ものである。超越論的主観性, より正確に言えば,超越論的相互主観性において,実在的世界は「客観的なもの」として,万人にとって存 在するものとして,構成されてくるものなのである(Vgl.,V153)。このように現象学は,実在的なものを 否定するのではなく,むしろ実在的なものが「実在的なもの」として超越論的主観性においていかに構成さ. 63.
(3) 千 乗 胤 久. れているかを問うものであるということができる。. 自然的態度において経験され意識される世界も,超越論的主観性において構成されたものと見なされるわ けであるが,フッサールによれば,そのように構成される世界は,「私にとって,ひとつの単なる事象世界 として現にそこに存在している」のではなく,「同じ直接性において,価値世界,財貨世界,実践的世界 (Wertewelt,Gtlterwelt,praktischeWelt)として,現にそこに存在している」(III/158)ものなのである。 そして,こうした世界の諸事物は「事象としての諸性状(SachbeschafEenheiten)を具えているのと同様に, 価値の諸性格(Wertcharaktere)をも具え,つまり,美しいとか醜いとか,気に入るとか気に入らないとか, 快適なとか不快なとか等々といった価値の諸性格をも具えている」(ⅠⅠⅠ/158)とされる。. 超越論的幸観性において構成される仲界,そしてその仲界内部の諸事物がこうした価値の諸性格を具えて いるということは,構成という観点から見るならば,「こうした価値の諸性格や実践的諸性格もまた,「現存. する」諸客観そのものにそれらを構成するものとして属している(AuchdieseWertcharaktereundprak− tischenCharakteregeh6renkonstitutivzuden“vorhandenen’’ObjektenalssoIchen)」(III/158)という ことを意味する。このようにフッサールにおいては,価値は客観に構成的に属するものとして,それ自身客 観的なものと考えられているのである。 ここで指摘されている「価値世界,財貨世界,実践的世界」は,『イデーンⅢ』等で論じられる「精神世界」. を先取りしているものであるということができ,後期の「生活世界(Lebenswelt)」の議論を踏まえるなら ば,自然的態度において世界は,まず精神世界として与えられるのであり,「単なる事象世界」としての物 理的世界は自然的態度においては派生的に与えられるものである,ということができる。 日常的な自然的態度における経験においては,精神世界が根源的であり,物理的世界はそこから派生的に 経験可能になるものであると位置づけられるわけであり,その意味では物理的世界は精神世界に基づけられ ているということができる。しかし,他方では物理的世界なしに精神世界は考えることができないというこ ともでき,その意味では精神世界は物理的世界に基づけられているということもできる。フッサールにおい ては,主にこの後者の基づけ関係に対応するかたちで,「単なる事象世界」に関わる表象作用や「価値世界」 に関わる価値作用などの諸作用における基づけ関係も考えられている。あらかじめ言うならば,価値作用は, 非自立的作用として,表象作用に基づけられた作用であると考えられているのである。次節では,こうした,. 価値作用とその他の諸作用との基づけ関係をもう少し詳しく確認することによって,価値構成に関するフッ サールの議論を整理する手がかりを得ることにしたい。. 2.「基づけられる作用」としての価値作用 諸作用の基づけ関係に関して,フッサールは『イデーンⅠ』第95節において以下のようなことを述べてい る。. 「知覚することや想像することや判断すること等々が,それらを完全に覆う価値づけること(Werten) という層を基づけている場合,この基づけの全体は,最上層に応じて価値づけ体験(Wertungserlebnis) と言い表されるが,われわれはその基づけ全体のうちで,様々な異なったノエマないしは意味をもつ。. 知覚されたものそのものは,意味として,特に知覚することに属するが,しかしそれは,具体的な価値 づけることの意味のなかに入り込み,その価値づけることの意味を基づけている。このことに応じて,. われわれは以下の区別をたてなければならない。すなわち,一方には,価値づけることにおいて価値あ るものとして存している対象,事物,性状,事態がある。ないしは,価値意識を基づける表象,判断等々. 64.
(4) フッサール現象学における価値の問題. に具わるそれぞれなりのノエマがある。他方には,価値対象それ自体(Wertgegenstandeselbst),価 値態それ自体(Wertverhalteselbst)がある。ないしは,それらに対応したノエマ的な変様がある。そ して,それからそもそも,具体的な価値意識に属する完全なノエマがある。こうした区別をたてなけれ ばならないのである。」(ⅠⅠⅠ/1220). 大きく分けて,フッサールにおいて作用は,表象作用,情緒作用,意志作用に大別される。上記の引用か らもうかがえるように,価値作用などを含む情緒作用は,知覚や判断などの表象作用に基づけられる。そし て,意志作用はさらにこれら二つの作用に基づけられる(Vgl.,ⅠⅠⅠ/1221)。フッサールにおいては,諸作用. の基づけ関係にこうした層構造関係が見て取られているわけであるが,ここでは,先の引用箇所において作 用層の相違に対応してたてられている「区別」に着目したい。その区別においては,「価値あるものとして 存する対象,事態」と「価値対象それ自体,価値態それ自体」とが区別されていた。「価値あるものとして 存する対象」と区別されるべき「価値対象それ自体」とはどのようなものなのだろうか。「価値あるものと して存する事態」と区別されるべき「価値態それ自体」とはどのようなものだろうか。. 先の引用箇所の直後で,フッサールはこれらの区別を,「価値ある対象と価値対象,価値ある事態と価値 事態,価値ある特質と価値特質」との区別と言い換えている。そして,この表現で述べられているものの一 方は,「単なる事象」(ここでの「事象」と「対象」は同義と見なしうる)であり,「この単なる事象が,価 値ある事象であり,価値性格,価値性をもつ」(ⅠⅠⅠ/1221)。そして,「他方で述べられているのは,具体的. な価値それ自体(Werteselbst)あるいは価値客観態(Wertobjektitat)である」(III/1221),とフッサー ルは言う。ここでは,一方では,「価値あるものとして存する対象」が「価値ある対象」と言い換えられ, さらにそれが「単なる事象(対象)」とされていることから,この「価値ある対象」という表現は「価値あ る対象」全体のことを指すというよりは,「価値ある対象」に属する「単なる対象」のことを指していると 考えられているということが確認できる。他方では,「価値対象それ自体」とは「価値それ自体」を指すも のと見なされていることが確認できる。. ただし,「価値ある対象」と「価値それ自体・価値という対象」とを区別する上記のフッサールの記述な いしは用語法には混乱が見られる。箇所によって,「価値ある対象」が二義的に使用されているという問題 がここに指摘できるのである。先の引用箇所では「価値ある対象」と「価値それ自体・価値対象」とが区別. されて使用されているが,『イデーンⅠ』第37節では,以下のように「価値ある事象・対象」と「価値」と が並列的に扱われている。. 「単なる事象ではなく,価値ある事象あるいは価値が…価値づける作用の志向的相関者なのである。」 (ⅠⅠⅠ/176). ここでは,「単なる事象・対象」と「価値ある事象・対象」とが区別されている。したがって,「価値ある. 対象」は基本的に「価値それ自体・価値対象」と同列におかれるものと理解し,上記の第95節からの引用に おいて「価値対象」と区別されて使用されていた「価値ある対象」という表現は,本来は,そこにその一部 として基礎的に含まれる「単なる対象」のことを指すものと読むのが妥当な解釈であろう。このような理解. は,第95節の他の箇所「価値態は,価値態の一部をなす(zugeh6rig)単なる事態を自らのうちに内蔵して いる」(ⅠⅠⅠ/1221)という記述ともよく合致するということができる。 以上の理解にしたがえば,本節冒頭で引用した箇所でたてられた区別は,「単なる対象」と「価値それ自体」・. 「価値対象」・「価値ある対象」との区別を意味していると理解することができるが,この区別を,具体例. 65.
(5) 千 乗 胤 久. にそくして整理すれば,以下のように言うことができるであろう。「この花は美しい」という価値評価を例 にして考えれば,この価値作用においては,一方では「この美しい花」という「価値ある対象」とされる当 の「この花」という「単なる対象」へと向かう志向を見出すことができるとともに,それを基礎にしつつ「美 しさ」という価値そのものへ向かう志向も同時に見出すことができる。本節の初めで引用したフッサールの. 主張のなかのいくつかの術語を,この例にあてはめて考えるならば,「価値づけることにおいて価値あるも のとして存している対象,事物」である「単なる対象」は,この例においては「この花」に相当し,「価値 それ自体」は「美しさ」に,「価値対象それ自体」としての「価値ある対象」は「この美しい花」に相当す ると整理することができるであろう。. 以上の考察によって,「単なる対象・事象」と「価値それ自体・価値対象」とが区別されていることが確 認されてきたわけであるが,この区別に応じたかたちで,価値作用における「二重の志向(doppelteintentio)」 が同時に見出されてもいる。つまり,価値作用としての「価値づけること」においては,「単なる対象」と「価. 値対象・価値それ自体」への二重の志向を見出すことができる。価値作用においては,「価値ある対象」の 一部をなす「単なる対象」を注意しつつ把握する(erfassen)志向と,「価値それ自体」・「価値対象」を 注意しつつ把握するわけではないがそれへと対向する(zuwenden)志向という二重の志向を見出すことが できるのである(Vgl.,ⅠⅠⅠ/176)。 価値作用においては,ただちに「価値それ自体」や「価値対象」が把握された対象になるわけではないが, 価値作用などの「このような基づけられた諸作用の本質には,変様の可能性が属している」(ⅠⅠⅠ/177)とい. うこともフッサールは指摘している。そして,この変様によって価値作用などの基づけられた作用の全き志 向的客観である「価値」や「価値対象」は,注意された対象,表象された対象になり,解明,関係づけ,概 念的把捉,述走の基体として用いることができるようになるとされる(ⅠⅡ/177)。再び,「この花は美しい」. という価値づける働きを例にして考えるならば,この価値作用において表象されている対象は「この花」で あるが,この価値作用の変様によって「価値」や「価値対象」が「表象された対象」となり,「この美しい花」. が「把握された対象」として客観化され,この「客観化」(Objektivation)の働きによって,「この美しい 花は,…である」という述走が可能になる,ということがここでは指摘されているということができる。. 次に,これまで確認してきた価値作用の特徴を,ノエシス・ノエマ構造にそくして,整理しておくことに しよう。先述したように,価値作用は知覚などの表象作用に基づけられる高次の作用であり,表象作用には 見られない新しいノエシス的契機を有しており,それと相関的に価値作用においては新しいノエマ的契機が 現われ,新しい意味が構成されてくる。. 「この新しい意味は,全く新しい意味次元を導入してくるのである。その新しい意味とともに構成され てくるのは,単なる「事象」の新しい規定要素ではなくて,むしろ事象の諸価値,諸価値性,ないしは 諸価値客観態である。すなわち,美と醜,優良と劣悪,ないしは,使用物,芸術作品,機械,本,行為, 所業,等々である。」(ⅠⅠⅠ/1267). こうした価値や価値客観態の構成における「高次段階のノエマ」に関して,さらに以下のようなことが述 べられている。. 「高次段階のノエマにおいては,例えば価値づけられたものそのものが意味の核であり,この意味の核 は新しい定立的性格によって取り囲まれている。「価値ある」,「気に入る」,「喜ばしい」などの諸性格は, 「可能的」,「推測的」,あるいは場合によっては,「無にも等しい」,「それどころかむしろ現実的」とい(. 66.
(6) フッサール現象学における価値の問題. た性格と似たように機能するのである。…その際,この新しい〔価値的〕性格に関する意識は,これま た重ねて,設定立的な意識である。「価値ある」という性格は,価値的に存在することとして臆見的に 措定可能である。「価値ある」ということに,その性格づけとして属する「存在する」ということは,. あらゆる「存在する」や「確実な」と同様に,さらにまた様相化されて考えられうるのである。そのと き,その意識は可能的な価値についての意識であったり,その「事象」は価値あるものと思われるにす ぎなかったりする。あるいはまた,その事象は推測的に価値あるものとして意識されたり,価値のない ものとして意識されたりする。」(ⅠⅠⅠ/1267.〔〕内は引用者による補足。). 「価値ある」という価値性格は,「現実的な」,「可能的な」などの,ノエマにおける様々な存在性格と類. 似の性格として,価値作用のノエシスに相関するノエマの中に,ノエマ的な意味として含まれるのである。 ただし,「可能的な価値」ということができることからわかるように,「現実的な」,「可能的な」などの存在 性格と全く同列の性格であるわけではない。こうした価値性格をまとったノエマが「価値ノエマ. (Wertnoema)」(III/1301)と呼ばれる。価値づけることという価値作用は,表象作用的な事象意識に基 づけられているものであるがゆえに,非自立的な作用ではあるが,それもまた,対象の構成に寄与している のであり,対象的な価値層,つまり価値性の層を構成する(Vgl.,ⅠⅠⅠ/1275)。こうした価値づけ作用を含む. 情緒作用,それからまた意志作用も含めて,すべての作用は客観化的な作用であり,対象を構成するもので あり,「価値づける意識は単なる事象世界に対して新種の「価値論的」対象性,すなわち新しい領域の「存 在者」を構成する」(ⅠⅠⅠ/1272)のである。. さて,こうした議論からするならば,価値づけることとしての価値作用においては,「価値ある対象」に 内属する「単なる対象」が構成され,現出するばかりではなく,「価値対象」・「価値それ自体」も構成され,. 現出すると考えられるわけである。では,価値そのものが構成され,現出するとはどのようなことなのであ ろうか。この,価値ないしは価値客観態の現出ということを次節では検討していきたい。. 3.価値の現出 まずはじめに,フッサール現象学における,実在的な事象・対象の構成の基本構図を確認しておくことに しよう。総じて,対象・事象は志向的な統一であって,多様な現出・射映の流動変転のうちで同一のものと して統一的に意識されるものであり,多様な現出を媒介にして現出してくるものである。この多様な現出・ 射映は「感覚与件」として意識に実的に属しているものであり,実的な成素としての感覚与件が統握され, 生化されることによって,感覚与件は事象・対象を呈示する機能を果たし,この機能のもと,事象・対象が 現出し,自らを構成することになる,というのが,フッサールにおける対象構成論の基本的構図である。「第 二性質」とも言われる「(同一の)色」の構成に関しても,事情は同じであるとフッサールは考えている。. 「同一の色は,色の射映の連続的な多様において,現出する」(ⅠⅠⅠ/185)。. フッサールにおいて「色」は,「実在的な事象・対象」であり,決して「単なる主観的なもの」ではない。. 「単なる主観的なもの」と言えるのは,感覚与件としての「色現出」ないしは「色射映」であって,多様な 「色射映」を介して構成される同一の「色」は,単に主観的なものではなく,「実在的な事象・対象」とし て構成された客観的なもの(志向的客観)であるということになる。. ここで色に関して確認された基本的構図は,価値に関しても同様に妥当するものとフッサールは考えてい. 67.
(7) 千 乗 胤 久. る。『イデーンⅠ』の執筆時期に近い1908/09年に行われた講義『倫理学の根本問題』においてフッサールは,. 価値客観の現出に言及している。「基づける作用(fundierenderAkt)」である表象作用だけではなく,情緒 作用(Gemtitsakt)のような「基づけられる作用(fundierterAkt)」にも現出は含まれており,それゆえ 情緒作用に属する「価値作用(Wertakt)」においても,現出が含まれるのであり,基づけられた作用もま たそれ固有の種類の志向性を有しており,対象性への関係を有しているとフッサールは考えている(Vgl., ⅩⅩⅤⅠⅠⅠ322f.)。価値作用においても,多様な諸現出を見出すことができるのであり,この多様な諸現出を. 通して同一の対象・客観としての価値という現出者が現出することになる。. 「価値作用においても何ものかが現出する。価値作用においては,まさに価値客観が現出する。しかも,. 価値を有する客観だけが現出するのではなく,むしろ価値そのもの(WertealssoIche)が現出するの である。」(ⅩⅩⅤⅠⅠⅠ323). 表象作用において,事物的な対象が現出するのであるが,価値作用においては,その対象が「価値ある対 象・客観」として現出してくるとともに,「価値そのもの」が現出してくると考えられている。このように 価値を有する客観および価値そのものが現出するということを,「願望すること」という作用を例にして, 以下のようにフッサールは説明している。. 「われわれが,「陽光あふれる春が来てほしい」と願望するならば,まさにこのことが現出する。私が 願望すること。願望することは作用であり,その願望する作用のうちでわれわれは生きる。しかし,願 望する作用のうちで生きながら,われわれには何ものかが意識される。その意識の何(Was)は,「陽 光あふれる春が来てほしい!」という願望文で表現されている。それは,いわば願望することのうちで 願望として現出する。…われわれは願望のうちで,より明確に言えば,願望することのうちで生きる, と私は言った。〔願望することとしての〕願望を遂行しながら,われわれは〔願望することとしての〕 願望に限を向けているわけではない。〔願望することとしての〕願望は現出しない。それは単なる体験. である。その表象の基礎にわれわれは現象学的な意味でのある現出,ある表象をもつ。われわれが願望 のうちに生きるとき,この現出は多様に転化し,弱まり,絶えず変化しうる。しかし,願望は同じもの のままである」(ⅩⅩⅤⅠⅡ323.〔〕内は引用者による補足。). ここでは,様々に変転し変化する多様な願望諸現出を通じて,同一の価値対象としての願望が現出してく る,ということが語られている。価値もまた,諸現出を通して現出する現出者として理解されているわけで ある。. こうしたフッサールの主張からは,価値そのものを主観的なものではなく,客観的なものとして理解しよ うとする姿勢を見て取ることができる。だが,作用は何らかの意味で主観的な側面をもつものでもあるので はないか。価値作用における主観的な側面と客観的な側面の区別に関して,フッサールはどのように考えて いるのか,この点をより詳しく検討をしていくことにしたい。. 4.価値づけることと価値との区別 価値づけることと価値との区別に関して,フッサールはその区別の観点として,大別すると二つの観点を 指摘している。ひとつは,価値づけることは主観的であるのに対して,価値は客観的なものであるというこ. 68.
(8) フッサール現象学における価値の問題. とである。もう一点は,価値と価値づけることの時間的性質の相違である。. 4.1.価値の客観性 まず,価値の客観性に関するフッサール自身の主張を『イデーンⅠ』から,いくつか引用することにしよ う。. 「私はまた,価値づけることは主観が体験することとして主観に属しているが,価値は,価値をもつと いうことがそれについて言われるところの,そのつどの客観に属するものである,と言った。」(ⅠⅠⅠ/1 73f.). 「したがって,価値は自我一体験ではなく,感情ではない。むしろそれは客観において感取されるもの である。」(ⅠⅠⅠ/174). 『イデーンⅠ』において明示されたノエシス・ノエマの相関関係に照らして記述するならば,価値づける ことはノエシスとして意識の実的な契機であるのに対して,価値は,価値づけることというノエシスに対す る志向的な相関者としてノエマ的な契機のひとつであるということができる. 。したがって,価値づけること. と価値とを混同することは,ノエシス・ノエマの相関関係を正しく理解しないことによる誤りとして,フッ サールにおいては厳しく批判されることになるのである。. さらに,価値づけることと価値との区別に関して,フッサールは1920/24年の講義『倫理学入門』におい て以下のようなことを述べている。. 「すべての形式における価値づけること,そして価値覚(Wertnehmen)(知覚の類比態をそうわれわ れは名づけるのであるが)は,感じる主観の作用である。しかし,価値は客観に固有である。」 (ⅩⅩⅩⅤⅠⅠ72). 「快は,感じる主観のそのつどの状態あるいは作用である。しかし,価値は客観に固有である。価値は 感じる振る舞いにおいて,価値を有するといわれる事象に付帯する(an)契機として意識される。そ れゆえ,その事象は価値を有するのである。・・・感じること(Ftlhlen)は主観的であり,価値は客観的 である。」(ⅩⅩⅩⅤⅠⅠ68f.). この講義においても,価値づけることは主観的なことであるのに対して,価値は客観的なものであること が強調されているわけであるが,ここでは「快」が価値づけることとともに主観的なものであると指摘され ていることに注目したい。価値づけることと価値とを混同することは,フッサール現象学において,単にノ エシス・ノエマの相関関係への無理解として批判されるばかりではない。価値づけることと価値とを混同す. ることは,倫理学における快楽主義的な思想や主観主義的な思想が誤りであることの根拠としても語られて いる。ここに,フッサールの倫理学的な立場を垣間見ることができる。 フッサールは快楽主義を「快楽が努力の唯一の可能な最終目的である」(ⅩⅩⅩⅤⅠⅠ79)と考える思想と規. 定する。確かに,快楽主義的な功利主義者であるJ・ベンサムは次のように述べている。. 「自然は人類を苦痛(pain)と快楽(pleasure)という,二人の主権者の支配のもとにおいてきた。わ れわれが何をしなければならないかということを指示し,またわれわれが何をするであろうかというこ とを決定するのは,ただ苦痛と快楽だけである。一方においては善悪の基準が,他方においては原因と. 69.
(9) 千 乗 胤 久. 結果の連鎖が,この二つの玉座につながれている。苦痛と快楽とは,われわれのするすべてのこと,わ れわれの言うすべてのこと,われわれの考えるすべてのことについて,われわれを支配しているのであっ. て,このような従属をはらいのけようとどんなに努力しても,その努力はこのような従属を証明し,確 認するのに役立つだけであろう。ある人は,ことばのうえではこのような帝国を放棄したように見せか けるかもしれないが,実際上は依然としてその帝国に従属し続けている。功利性の原理はそのような従. 属を承認して,そのような従属をその思想体系の基準と考えるのである。」2 「快楽とそして苦痛の回避ということは,立法者が考慮しなければならない目的である。したがって, 立法者はその価値を理解しなければならない。」3. ベンサムにおいては,快楽が善(という価値)であり,幸福である。そして,この意味での幸福に関する 「最大多数の最大幸福」を目的として目指すのが,ベンサムの功利主義である。フッサールによれば,こう. したベンサムの主張は,快という主観的なものと価値という客観的なものとを混同するという誤りを犯して いるものであることになる。総じて,快楽主義や主観主義は,快楽という主観的なものを,価値という客観 的なものと混同する誤りを犯しており,それゆえに快楽主義・主観主義は,懐疑主義・相対主義に陥る,と いうのがフッサールによる快楽主義批判である。. フッサールの快楽主義批判の趣旨を,R・ノージックが功利主義への批判として碇出した「経験機械」の. 思考実験4を参考にしつつ考えていくことにしよう。ノージックは,ある特殊な機械を想定する。脳に電極 を取り付け,その機械と接続されることによって,その機械と接続された人が自分の望むどんな経験でも得 られるようになる,そうした機械があったと想定してみよう,と彼は言う。もし,「人生が内側からどのよ うに感じられるか」だけが問題であり,自分にとって望ましい経験をし,「一生の至福」を経験することだ けが重要であるとしたならば,われわれはこの機械につながれることを望むことになるだろうが,はたして われわれはこの機械につながれて一生を暮らすことを望むだろうか。ノージックは,われわれはこの機械に つながれることはしないだろう,と言う。その理由(のひとつ)として彼が指摘するのは,「我々は,あれ これの事柄を行いたいと思うのであって,それらをしているという経験だけが欲しいのではない」というこ とである。 快楽主義によれば,快を感じることが善であり,快という善を感じることがわれわれの人生の目的である。. したがって,快を感じて生きる人生を送るべきであるということになる。もしそうであるならば,ノージッ クの想定する「経験機械」は,一生の快の経験を約束してくれるものであるので,快楽主義はこの機械につ ながれることを善とみなし,この機械につながれて生きることを善く生きることと見なさざるをえない。快 楽主義の考え方においては,快さえ感じることができ,経験することができるのであるならば何をするかは どうでもよい,ということになってしまうわけである。これに対して,快を感じることができるかどうかが 問題なのではなく,現実に何をするかが問題なのであり,現実に行なわれることが「機械につながれて生き ること」であるとするならば,それを積極的に価値あることとして望む者はいないだろうというのが,ノー ジックの批判であると言える。. フッサールの快楽主義批判も同様の批判を展開しようとしているものと考えることができる。価値づける ことという主観的な体験それ自体が価値づける作用において志向されているのではなく,価値作用において 志向されているのは,客観的な契機である価値それ自体であり,目的は「価値それ自体」にあるというのが,. 価値づけることの主観性と価値それ自体の客観性との峻別においてフッサールが主張しようとしていたこと であるからである。そして,両者を混同するならば,快さえ経験できるのであるならば,何であってもよい. 70.
(10) フッサール現象学における価値の問題. ということになり,これが道徳・倫理に対する懐疑主義的な考え方や相対的な考え方を誘発する,というの が,フッサールの快楽主義批判の趣旨であるということができるであろう。. 4.2.価値の時間性 前節において,フッサールにおける価値の客観性の主張は,倫理学における快楽主義・主観主義に対する 批判という意味をもつものであるということを確認したが,価値の客観性と価値づけることの主観性との区 別の,いまひとつの観点である,時間的な性格に関する両者の相違について,次に検討していくことにした い。. 時間的な性格の違いに言及するにあたって,フッサールは「実存的な価値」と「イデアールな価値」の違 いに言及している。これら二つの価値の違いについて,彼は以下のような例を挙げて説明している。. 「価値づけることと同様に一時的である価値も存在する。タバコが燃え尽き灰になる。その間,私は,. 喫煙することで,喫煙することにおいて自らを出し尽くし消え去る価値を享受し,経験する。すべての 実在的な価値がこれと関連する。コンサートは実在的な価値である。コンサートは,コンサートが楽し まれる間に,自らを出し尽くす。他方に,イデアールな価値がある。コンサートにおいて演奏されるソ ナタ,交響曲は,それがどれほどしばしば演奏され,どれほど多くのコンサートで演奏されようと,同 一のものである。ソナタの価値は,ソナタのコンサート演奏の価値ではない。」(ⅩⅩⅩⅤⅠⅠ69). 価値づけることという主観的な体験は,ある一定の時間のうちに位置づけられ,ある一定の時間を占有す る。それと同時に,ある一定の時間のうちに位置づけられ,ある一定の時間を占有する価値も構成される。 ある一定の時間のうちに位置づけられることが,フッサールにおける「実在」の基本的な意味であるが,そ の意味で実在的な価値が価値づける作用によって同時的に構成される。実在的な価値は,時間的な存在者で ある。しかし,価値は必ずしも時間的なものであるとは限らない。コンサート演奏の価値のように,個別的 な一回的なその時その時の価値がある一方で,多数のコンサートにおいて何度も演奏される音楽作品そのも のの価値は,その時その時の多様に異なるコンサート演奏を通じて同一のままにとどまるイデアールな価値 をもつのである。このことをフッサールは,ベートーヴェンの交響曲「エロイカ」を例にして説明する。「エ. ロイカ」という作品と「エロイカ」の演奏とは異なるのであり,ベートーヴェン以来,「エロイカ」の演奏 は数多く行なわれてきたのであるが,そのように演奏されてきた「エロイカ」それ自体は,ひとつの同じも のである。「エロイカ」の演奏は経験的な対象であるが,「エロイカ」それ自体は経験的なものではなく,美. 的な対象として,理念(Idee)であり,価値理念(Wertidee)である(Ⅴgl.,ⅩⅩⅩVII72)。実在的な価値と イデアールな価値との違いに着目することによって,価値づけることと価値それ自体との区別も明らかにな る。. 「価値を価値づけつつ感取すること(Erftlhlen)と価値それ自身との間には,根本本質的な違いがある ということ。これはイデアールな価値づけの際に特に明らかである。価値づけることは時間的に到来し 過ぎ去る何ものかであるのに対して,価値は永遠の,すなわち超時間的な存在性の価値(Werteiner ewigen,d.i.tiberzeitlichenWesenheit)として,それ自体永遠ななにものかである。」(ⅩⅩⅩVII69). 価値づけることと価値とが峻別されるべきであるのは,価値づけることが,価値を感じる体験として,「時 間的な出来事」であるのに対して,価値(イデアールな価値)は超時間的なものであるからである。確かに,. 71.
(11) 千 乗 胤 久. 実在的な価値は,価値づける体験・価値覚のうちで生起するものであり,価値づける体験とともに過ぎ去っ ていく一時的な時間的な価値である。しかし,価値は時間的なものであるとは限らない。「イデアールな価値,. すなわち超時間的な価値もあるのである。あらゆる芸術作品は,それ自身の意味にしたがって,本来的にイ デアールな価値なのである」(ⅩⅩⅩⅤⅠⅠ72)。. では,価値づけることと実在的な価値はともに時間的なものであるがゆえに,実在的な価値は価値づける ことと同様に主観的なものである,ということになるのであろうか。もちろんそうではない。実在的な価値 と価値づけることとは,同じ時間的なものであるにしても,やはり区別されなければならないのである。実 在的な価値は,ただ意識され,享受されるのみであり,感じること(Ftlhlen)において現実に与えられて いるからである。つまり,感じることなどの諸作用はつねに新たな多様なものであるのに対して,実存的な 価値は,そうしたつねに新たな諸々の作用のうちにおいて,「ひとつの同じ時間的なもの」として意識され, 現出してくるものであるからである(Vgl.,ⅩⅩⅩⅤⅠⅠ73)。したがって,価値づけることという作用と価値と. の時間性格の違いは,両者の区別の本質的契機ではなく,両者の区別を際立たせるのに役立つという副次的 な意味をもつものにすぎないと考えられる。価値づけることと価値との区別の本質的な契機は,あくまでも 前者が主観的なものであるのに対して,後者は主観的な意識において志向的に構成される志向的客観という 性質を持つものであるという点にあると言えるであろう。. 実在的な価値とイデアールな価値には,前者が時間的なものであるのに対して,後者は超時間的なもので あるという違いが認められるのであるが,では,この両者の間にはどのような関係を見出すことができるの であろうか。この点に関する示唆をフッサールの以下の言葉は与えてくれる。. 「たとえ,芸術作品が経験的に現出にいたるにしても,芸術作品はイデアールな価値なのであり,また,. それをもつことによってまさに現出するのであり,それなしには現出することのできない,いわば経験 的な実在的身体を芸術作品は有しているにしても,芸術作品はイデアールな価値なのである。」 (ⅩⅩⅩⅤⅠⅠ72). 芸術作品,例えばベートーヴェンの「エロイカ」がコンサートにおいて演奏され経験されるとき,その「エ ロイカ」は,ある一定の音響という「経験的実在的身体」を有している。時々刻々変化する多様な音響射映 の連鎖を通じて,ひとつの「エロイカ」の演奏が現出し,そのひとつの演奏の実在的価値が現出する。さら に,「エロイカ」はこれまで何度も多様なかたちで演奏されてきたし,いまでも世界の各地で演奏されている。 こうした様々に異なる諸々の演奏という個々の時間的諸存在者とそれら演奏の実在的諸価値を通じて,ひと つの同一の交響曲「エロイカ」そのものが構成され,「エロイカ」そのものの価値がイデアールな価値とし て構成され,現出する。このように,実在的価値とイデアールな価値との間にも,多様な異なる諸現出とひ とつの同じ現出者という相関関係を見出すことができるのである。 『経験と判断』に収められている草稿においてフッサールは,このことに関連する議論をゲーテの『ファ. ウスト』,ラファエロの「聖母像」を例に展開している(Vgl.,EU319−324)5。何冊もの多くの実在的な本と しての『ファウスト』を貫いて存するひとつの同一の意味(dieeineidentischeBedeutung),これがイデアー ルにひとつの『ファウスト』(derideal−eineFaust)なのであり,多くの複製を貫いて存する同一の意味, これがただひとつのイデアールな対象としての「聖母像」なのである(Vgl.,EU323)。つまり,イデアール な対象は,「それに関係する多様な思念の同一的な極(identischerPol)」(EU323f.)なのである。逆に言え ば,同一のイデアールなもの,すなわちイデアールなものであるがゆえに非実在的とも名づけられる同一の イデアールなものは,様々に異なった物体によって物体化されうるのである(Vgl.,EU320),ということも. 72.
(12) フッサール現象学における価値の問題. できる。. こうしたイデアールなものの時間的特性は,『倫理学入門』講義においては「超時間的」と呼ばれていた のであるが,『経験と判断』においては,この超時間性(Uberzeitlichkeit)が「遍時間性(Allzeitlichkeit)」 と捉えなおされている。. 「つまり,時間的な多様性のうちに存する超時間的な統一が,時間的な多様性を貫いている。この超時 間性は遍時間性を意味する。あらゆる時間的に多様なもののうちに同じ統一的なものが存しており,こ うしてそれは時間のうちに本質的に存しているのである。…個物が「自らの」時間位置と時間的持続を もち,ある時点にはじまり,ある時点で過ぎ去り,消え去っていくのに対して,そうした非実存的なも のは,それも時間性のひとつの様相である,超時間性,遍時間性という時間的存在をもつのである。」 (EU313). 実在するものは,ある特定の時間位置を占め,ある特定の時間位置に持続的に存在するものである(Vgl., EU308)。これに対して非実在的なイデアールなものは,一定の時間位置に拘束されるものではなく,時間 のうちに持続するものではない(Vgl.,EU311)。イデアールなものは,原理的に,あらゆる時間において同 一のものとして「反復可能(wiederholbar)」(EU320)なものなのであり,いわば「いたるところにあっ てどこにもない(tibera11undnirgends)」ものなのである(Ⅴgl.,EU311,313)。あらゆる時間において同一 のものとして反復可能である6ということ,このことがイデアールなものの時間特性としての遍時間性とい うことの意味である。. おわりに 本稿では,「基づけられる作用としての価値作用」,「価値の現出」,「価値と価値づけることとの区別」な. どの諸観点から,価値の客観性に関するフッサールの議論を検討し,価値の構成においても多様な価値諸現 出を通じて同一の価値が現出するという構造が見て取られうることを確認した。だが,価値構成が具体的に どのようになされるのかに関する議論にまで踏み込んで確認するには至らなかった。そのためには,動機づ け(能動的動機づけと受動的動機づけ)に関するフッサールの主張,あるいは受動的総合としての連合に関 する議論を参照することが必要となるが,こうした価値構成の具体相に関する詳細な考察は今後の課題とし たい。. また,現象学的な価値構成理論,価値を志向的相関者として客観的なものとして位置づける議論が,メタ 倫理学における道徳的実在論をめぐる論争にいかに関わりうるのか,ということも今後検討すべき重要な課 題であると言える。価値が客観的ものであることを強調するフッサールのメタ倫理学的な立場は,道徳的実 在論的なものとなると予想することができるが,フッサール倫理学はいかなるタイプの道徳的実在論である のか。また,フッサールの志向性理論は反実在論的な主張,例えば「価値の投影説」に対していかなる批判 を展開しうるのか。こうしたメタ倫理学的問題に関してフッサール現象学の立場から検討を加えていくこと も,今後の重要な課題であると言えよう。. 73.
(13) 千 乗 胤 久. 註 1 フッサール著作集(Husserliana,EdmundHusserlGesammelteWerke)からの引用箇所・参照箇所の指示は,慣例にし たがい,巻数をローマ数字,頁数をアラビア数字で示し,本文中に記す。なお,邦訳のあるものについては邦訳も参照し たが,訳語続一等の都合もあり,必ずしも邦訳にしたがっているわけではない。訳者の方々のご寛恕を請いたい。 2 ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』,81頁以下。 3 ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』,113頁。 4 ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』,67−72頁参照。 5 『経験と判断』からの引用箇所・参照箇所の指示は,“EU”という略記号の後にアラビア数字で頁数を示す仕方で行い, 本文中に記す。なお,邦訳も参照したが,訳語続一等の都合もあり,必ずしも邦訳にしたがっているわけではない。訳者. のご寛恕を請いたい。 6 しかし,ここで疑問が生ずるかもしれない。確かに,「エロイカ」や『ファウスト』に認められるイデアールな価値は遍 時間的なものであると言い得るにしても,数学的な真理とまったく同様の適時間性をそれに認めることができるのであろ うか。数学的な真理は,いつでもどこでも通用する,ある意味で「絶対的」な性格を有するはずのものである。しかし,ベー トーヴェン作曲の「エロイカ」(の価値)はどうであろうか。「いつでも」通用すると言い得るのだろうか。ベートーヴェ ンが作曲する以前にも反復可能である「エロイカ」のイデアールな価値とは,一体何を意味するのであろうか。それは意. 味を成さないのではないだろうか。このような疑問が生ずる。このことを意識してか,フッサールは「自由な理念性 (freieIdealitat)」と「拘束された理念性(gebundeneIdealitat)」との区別(Vgl.,EU321)をたてている。芸術作品のイ デアールな価値は,それが現出するためには「経験的な実在的身体」を必要とするという意味で,その存在意味に実在性 が関与しているのであり,ある一定の空間時間位置に存する実在的なものに拘束され,実在世界に拘束されたイデアール. なものと言わねばならないであろう。. 参考文献 Husserl,E.,1deenzueinerreinenPhanomenologieundphL2nomenologischenPhilospphie.ErstesBuch.HusserlianaIII/1,. hrsg.vonK.Schumann,MartinusNijhoff,1976.(渡辺二郎訳『イデーンI』全2冊,みすず書房,1979/84年)〔ⅠⅠⅠ/1〕 1deenzueinerYt7inenPhanomeno10gieundphanomenologischenPhilos呼hie.DritiesBuch.HusserlianaV,hrsg.. vonM.Biemel,MartinusNijhofE,1952.(渡辺二郎訳『イデーンI−1』,みすず書房,1979.渡辺二郎・千田義光訳『イデー ンⅢ』,みすず書房,2010年)〔Ⅴ〕 lわrlesungeniiberEthikund Wertlehre1908−1914.HusserlianaXXVIII,hrsg.vonU.Melle,Kluwer. AcademicPublishers,1988.〔ⅩⅩVIII〕 EinleitungindieEthik:T句rlesungtmSommersemester1920und1924.HusserlianaXXXVII,hrsg.vonH.. Peucker,KluwerAcademicPublishers,2004.〔ⅩⅩⅩⅤⅠⅠ〕 E7jおhrungundthleil,hrsg.vonL.Landgrebe,FelixMeiner,1985.(長谷川宏訳『経験と判断』,河出書房新社. 1980年)〔EU〕. A・ロート『ェドムント・フッサール倫理学研究一講義草稿に基づく叙述』藤本正久・桑野排三訳,北樹出版,1983年.. J・ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』山下重一訳(世界の名著49『ベンサム・J.S.ミル』所収),中央公論新社, 1979年. R・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』嶋津格訳,木鐸社,2004年. 稲垣諭『衝動の現象学−フッサール現象学における衝動および感情の位置づけ』,知泉書館,2007年. 谷徹『意識の自然一現象学の新しい可能性を拓く』,勤草書房,1998年. −『これが現象学だ』,講談社(講談社現代新書1635),2002年. 貫成人『経験の構造−フッサール現象学の新しい全体像』,勤草書房,2003年. 山口一郎『人を生かす倫理−フッサール発生的倫理学の構築』,知泉書館,2008年.. (旭川校准教授). 74.
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