• 検索結果がありません。

旅人・憶良についての一考察(I)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "旅人・憶良についての一考察(I)"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. 旅人・憶良についての一考察(I). Author(s). 土田, 知雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 20(2): 46-60. Issue Date. 1970-01. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3969. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 20 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和45年1月. 旅人◎憶 良 につい て の 一 考 察 (一) 田. 土. 雄. 知. 北海道教育大学旭川分校国文学研究室. ChikaO Tst 丁GI .エDA: A Study 。n Tabito al ld okur a .(1). )武田佑吉先生, 2 )高木市之 万葉集における 大伴旅人と山上憶良との関係については, すでに 1. 助氏に卓説があり, ことに高木氏は両者の対応関係を重視 し, 相互の反機によって両者の歌人と しての個性も形成されたと明快に説 いておられる. しかし, 両者の文学の展開については, 彼等 の対応関係にのみ執することなく, 視野をより広くして, もっと 巨視的な考察も必要としないで あ ろ う か.. すなわち, 彼等が宰府の地における出会い以前に 歌人としていかなる素 質を有して いたか, ま た彼等が別離以後, その作品はどのように展開 して いっ たかについて, 考察の余地があるかと思 う. よ っ て, 以 下 こ れ ら に つ い て, い さ さ か 考 察 を試 み よ う, E i) 武田ネ モ 有吉 大伴旅人 (万葉集講座一) 66~279頁 2) 高木市之肋 吉野の鮎 40 1~41 6頁, 古文芸の論 2. i f r宮に幸しし まず, 旅人の筑紫下向に先立って作られた詩歌は, 万葉集に 「暮春 の月, 芳野の肉 時, 中納言大伴 職1の, 勅を奉りて作れる歌一首 短歌井せたり. 雄 誓 議 」 と題する, 次 メド の み で あ る, み. 見吉野の さや. 芳野の宮は. 情けかるらし. と. 天地与. 山からし. 貴かるらし. 長く久しく. 方代に. 反. 水からし. かわらず. ・ 不改あらむ (3・315). いで ま し の宮 きさ. かは. 歌. きや. (3,3 16) 昔見し象の小河を今見ればいよよ清けくなりにけるかも ば 代の吉野行幸は続日本紀によれ 「暮 の月 題詞には 春 」 とのみあるが, 彼が中納言時 , 養老七. 0 725) 五月の作 (82 1 ) 三月の二回あり, 集中には神亀二年 ( 年 (西暦723) 五月と神亀元年 (72 ‘ べ ~922 ) を収めているが, 「暮春の月」 とあるによれば, 神亀元年三月の行幸の折とす きであろ う,. さて, 中納言というような高官に長歌形式の宮 廷讃歌の献上を命ぜられることは, 古来余り例 のな いことで あるが, 当時は長屋の王を中心として漢詩隆盛の時代で, 120余首中, 芳野詩は15 一 46 -.

(3) . 土. 田・. 知. 雄. 首も懐風藻に残っていることからみて, この時も従駕の官人に詩歌の献上を命ぜられ たものであ. ろう, 彼が六十歳にいたるまで, 集中に一作もと どめていないのは, おそらく和歌の制作に当時 は余り巧みでなかったためと考えられる. また, 懐風藻にも 「初春侍 宴 」(懐4 4) の一作を残す きほ のみである, 彼と親交あったと考えられている長 屋の王の作宝の詩苑にも招かれなか ったらしい. ことは, 後に考察する機会をも つつもりである, その彼が長・短歌形式による芳野讃歌の制作 を試みたのは, 漢詩の制作より, 和歌の制作を易 しとみたためか, あるいは, 漢学に相当詳しい旅人に, 漢詩賦の発想, 技巧を活用した, 新しい. 芳野讃歌を求められたものか, この時代の風尚からして, 後者の可能性も少なしとしない, また 彼 の 作 品 に つ い て み る に, さ ら に こ の 感 が 深 い,. )清水克彦氏は, 歌中の 「長く久しく」 は 漢語 「長久」 を訳したもの 「方 代に不 す で に, 1 , ,. 改あらむ」 も, 漢詩文またはそれに準ずるものに出典をもち, 「カハ」 に 「水」 の字をあ てた点 は, 論語の 「知者 楽 水, 仁者 楽 山」 の意であると, 漢詩文との関係を示唆され, さらに 2 )小. 島憲之氏は, 山を 「貴し」 とするのは, 中国的表現であり, 「天地と長く久しく」 という祝讃辞 は漢籍に多く, 「万代に不改あらむ」 とともに, 宣命に見える常套語句であり’ それは中国的表 ふひと 現であり, 反歌の 「昔」 と 「今」 の対比の方法も, 中国の詩文に多くの例をみ, 「藤原史の詩に も 「昔者聞二粉后-,. 今之見二吉賓-,」 (懐風藻 「遊二吉野-」 )(32) とみえ, 右の歌も詩の句法を ま ね た も の で あ ら う,」 と 説 か れ て い る.. .する慶雲四年 ( 両氏の指摘の ごとく, 旅人の歌に先行 707) 七月の元明天皇即位の宣 命 (3) に 、 モニトホ〃方ハルマシジキツネノノリ1 ・ 1 ・ ・ アメツチトトモニナガクヒ ツキt. は, 「与天地共長与日 月 共 遠 不 改 常 典 止」 と見え, 神亀元年二月の聖武天皇即位の宣 命(5) にも, 「万世隼不改常典』 」 と見え, 「長く久しく」 の語は集中他に見当らない, ; 次に, 山岳信仰はわが国にも古くから存し, い やひこ こさめ ふ , あ 伊夜彦おのれ神さび青雲の棚引く日らに霧そば零る 差建売さび. ( ・6.3883). の ごと き は, 伊 夜 彦 の 山 そ の も の を 直 ち に 神と み て い る 庶民 の 心 情 が う か が わ れ る, しか し, 山. に対して, 「貴し」 と感ずるようになるのは, 後期に属する。 比較的大陸文芸の影響が少ないと 称せられる赤人も, 「不尽の山を望める歌」(317) に 「神さびて 高く貴き」 と詠 じ, 「不尽の 19) の作者 (虫麻呂作という説もある) も 「日の本の 山を詠める歌」(3. 大和の国の 鎮めとも 坐す神かも」 と歌い, 旅人と同様に中国的表現の影響を感じ, 時代の風尚を認めることができる, また, 旅人の知ガ(仁山思想による対句的讃美は, 風藻詩に15例もあるのの影響を受けているこ とは疑いない. 彼は琴歌譜の 「そらみつ 倭の国は 神からか 在りか欲しき 国からか 住み. が欲しき」(12) , 人麻呂の挽歌に 「玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れど飽かぬ 神からか 0) 22 ここだ貴き」 ( , 金村の 「三芳野の 鯖蛤の宮は 神からか 貴かるらむ 国からか 見が. 07) の伝統を転じて, 素材は山水に代え, 表現は 「か」「らむ」 を排して,「し(間 9 欲しからむ」( 役助詞)……らし」 を据えて, 上下照応させ, 語調を強めるとともに, 4句にわたる 「シ」 の服 却 韻によ って音調を整えている, また, 金村の芳野讃歌の末尾の 「ぅべし神代ゆ 定めけらしも」 (907) 等の伝統に従わず, 「変らずあらむ いでましの宮」 と予祝方式をと って, 清新味を出そ う と し て い る,. )沢? 葛久孝氏が, 旅人の歌を人麻呂の芳野讃歌 ( それゆえ, 筆者は 3 36・38) を簡潔にしたもの であると説かれたのには反対である, この批評は赤人の芳野讃歌 (9 23) に当たるものである. 旅人は養老七年の吉野行幸の折の金村の歌を粉本にして, その即境的国ぼめに代え るに知オ 仁山. による讃美を試みたものである, それゆえ, この歌力 観念的となり, 出典語によ って辛うじて歌 - 47 -.

(4) . 旅人・憶良についての一考察 (一). 詞を続けて いっ た感は, 確かに免 れな い.. )中西進氏の指摘の ごとく, 「三吉野」 「三芳野」 しかし, まず初句の 「見吉野之」 の字面は,4 6) とともに, 「見吉き吉野」 の意が に対して, 用例 (74・313・353のみ) 少なく, 「見芳野」(92 あるかもしれない, 果して然らば, これによ っ て, 景物の描写に代え, これを枕詞的に 「芳野乃. 宮者」 と続けた技法は, 集中この1例のみであること は注意す べきで, 前述の 「し……らし」 の 語の美に心を砕い ていることがわかる. 重用の技法とともに, 彼は詠言. )吉田金彦氏が, 「万葉の 『らし』 の上文中に 「し」 音が多いのに気 づく,」 これに関連して,5 とし, その中でも間投助詞 「し」 の33例が圧倒的に多く, 形容詞語尾の 「し」13例, 回想の 「し」 9 例 を, は る か に 抜 い て い る こ と を 指 摘 し, 「こ の 強 め の 『し』 が あ た か も 陳 述 副 詞 の ごと く 『ら. し』 に呼応して 『らし』 という推量の性格を特色づけているように思われる,」と説かれ, かよう な慣用的用法は, 主観性をもたぬ 「らし」 の推量的陳述の 一種の補助作業であるとされたのは賛 )筆者もかっ て述 べたように, 個性の強い 黒人のごとき, 推量の助動詞10例中, 意を表したい, 6. 「けらし」 がわずかに1例に止まるのも,「らし」 の主観性の 稀薄によるものであろう, かかる用 1中, 実に30%弱に達する. しかも, 例を短歌だけに限っ てみると, 28例あり, 「らし」 の用例9 7 ) 松尾捨治郎氏の (甲) の用 法で, 二段構造の場 ほとん ど, 「らし」 のオーソ ドッ クスな用 法, 合が超群である, これに対して, 「けらし」 は, 18%弱と低率を示しているのは, これがより形. 容詞形の性格が濃厚であって, そこには, 主観の添加の余地があるからである. かくて, 筆者は, (甲) の用法において, 二段または二段以上の構造による意味の分裂を避ける用 意から, 間役助 詞の多用となっ たことを付加したい. 長歌に (乙) の用 例 「し」 の使用の多いのも, 意味の分裂. を避けたためと思われる.. た だ, こ こ に 注 意 す べ き は, 「ら し」 の 集 中 に お け る 分 布 で あ る, 今, 短 歌 の 「ら し」 に つ い て み よ う. I 2. 亘. 皿. W. V. WI\須. WI. 1 1 1 ¥. G v1 ▲ I ハ .1U1 r o1 ふ. 以. q lX\m XIX × × X コ XII 棚 X 皿 xハアX V X、江 ×\. n XRU U. デ I I T I. Q UI 1. リ ムに V n 了ハ ムh U R v 91 I ェ A T ー ←n 乙 28 n ! ” 1 ー. ← 13. ー ▲I l. c )は (甲) 以外の用法 )は巻中の総計,( ( a b )はそのうち, 「し (助詞) …… ら ,し」 形式のもの,( ( 1・342・338・ c )は旅人の歌 340・34 )の形式は比較的後期のもの,( のものである. そうすると①. 574) に 多 く, 家 持 の 4 例 (1037・3984・4021・4288) は, 旅 人 の 模 倣 で あ ろ う, あ と は, 旅 人 ・. )武田ネ 有吉先生の説によれば, 巻→ 家 持 周 囲 の 人 々 の 歌 に 多 い の が 目 に つ く, さ ら に, 8. 巻七の. 作者未詳の歌には, 旅人周囲の人々の歌の混入があると 説かれた. そうすると, 巻十・巻七の数 字は無視できない. 「月を詠める」 と題する 「靭 懸くる伴の雄広き大伴に国栄えむと月は照るら し」(1086) などもこの間の事情を示唆していよう. 長歌では, 前掲金村の言質歌に (乙) の用法が 見られるので, すでに (甲) の用 法に不満を感 じていたらしい旅人は抵抗なく, これの用法に従 い, 「変 らずあらむ」 の理由を説く部分に移し, 「し……らし」 の重用によ って, 声調の美をも求 めたといえよう, 彼は 「らし」 の (甲) の用法の短所をすでに見極めて, (乙) 以下の用法に転 じて い っ た も の と い う べ く, そ れ と と も に, 声 調 の 美 を も 意 図 し た よ う で あ る. か か る 意 味 で, ノ. リ. ノ. ナリ. )杉本行夫氏説のご 彼は史の芳野詩 「夏身夏 色古,秋津秋 気新.」(懐32) が六朝の技法に従い,9 とく, 「『夏身』 とか 『秋洋』 とか吉野の由緒深い土地を強ひて詠み込んで和風を漢詩中に生かさ ‐ 48 岬.

(5) . 土. 田. 知. 雄. んとしたとも思はれ」 るが, 必ずしも成功しなかったことに反機 も感じ, 刺激も受けたであろう , さらに, 注意すべきは, 彼が風藻の芳野詩に通有する仙境化意識, 神仙的色彩を排して, 知水仁 山の儒雅を活か すことを基調にしていることである, 旅人はさらにl o )写実力さえあ る 「清けし」. をもっ て生彩を添え 反歌においても, 神仙思想はいうまでもなく, 儒数的思想よりも脱して , 「昔」 「今」 を自己の体験に即して活用し, 主観の呈示を試みたのは, たしかに成功であった , 1 )松田好夫氏が, このわずか十一句に過ぎない長歌に対して 「長大な人麻呂作品に それゆえ,1 , 対する反橋も考えられ」 と説かれたのは, やや当を失している, 古代天皇制のピークを過ぎた奈 良前期においては, もはや昔日のごとき皇室に対する讃美の情は薄れ, 彼は出典語によっ て辛う じて, こ の 作 を な し た と 言 う べ き で あ る, 反 撤 し て 十 一 句 に 止 め た ので は な く し て 十 一 句 に 止 ,. め ざるを得なかっ たのである. そして, 「未だ奏上を経ざる歌」 となったのは, 彼が奏上する自 信を得るに至らなかったか, これは草案であっ て奏上歌は別にあっ たものかは不明である , ただ, 松田氏のいわゆる 「出典をふまえた旅人的創作法」 の発足は, たしかに認められる こ , れは 「らし」 の分布からみても, 彼の周囲の和歌的環境に接して, 漢学に相当の造 詣ある旅人と. しては当然の宿命とも言えよう. 次に短歌における清淡な歌風と流麗な声調の芽ばえ が 見 ら れ る. これも, 彼の人となりばかりでなく, 漢詩の遊 戯的修辞法に対する反椴とみることができ う, この時 ;点で彼がいわゆる反綾を感じたとすれば, 人麻呂のごとき献呈歌人の讃歌ではなくて , むしろ 当代の詩苑に 集っ た藤原史, およびその子の宇合, 万里らの芳野詩における神仙趣味であ っ たとすべきである, 彼の讃歌において, 吉野の仙境化, 美稲伝説を排しているのは看過すべき で は な い,. 台閣に列していた当時の旅人に, かかる傾向のみられるのは, 後年宰府の地において神仙の境 地に逃避せざるを得なかっ た彼に思い合わ せて, すこぶる興 味がある 彼はかかる漢詩的発想を , 和歌に活かそうとすることによっ て和歌の道に入り, これを期待されての献歌の命も下っ たもの. かもしれない, そこには, 前掲の史の芳野 詩の失敗が対照 的に考えられる , ちなみに, 史の第三子宇合は, 神亀三年 ( 726) 十月, 知造難波宮事となっ ているが, 彼に むかし いまはみやこ 昔者こそ難波田舎 と言はれけめ今者京引き都びにけり (3,312) の句法をみることは, 宇合にも旅 人の作品に対する反応が示されてお り 旅人を意識しているこ , とは疑いがない. そこに, 藤原氏の旅人への一種の反機がみられる, かくて, 彼が筑紫赴任以前の作は, わずかに一首に過ぎな いが, 1 ) 和歌に漢詩賦の技 法・発想を活用 しようとする意図がみられること. (. } 彼が流麗の声調を愛していること, これは, 古来の謡い物 (例えば琴歌譜12) の影響もあ 2 ( るが, 漢詩の語戯的技法 への反機をも考えられる, 圏 当時の詩苑を飾っ た史・宇合らを中心とする神仙 的芳野詩に対する反橋が認め られ 宇合 , も旅人に対する反応がみられる. 鞘. 「らし」 の (甲) 以外の用法に魅力を感じ, これを表現上にも修辞上にも利用 している , 彼周囲の本格的用例に対して, かかる用法に進んだのは, (甲) の欠陥をすでに認めていた. も の で あ ろ う. 注 1) 2) 3 ) 4) 5). 清水克彦 小島憲之 沢潟久孝 中西 進 吉田金彦. 旅人の宮廷儀礼歌 (万葉3 7号) 上代日本文学と中国文学中 922~93 0頁 万葉集注釈巻三 23 0頁 万葉集の比較文学的研究 3 01頁 松村明編 「助詞助動詞の研究」1 94頁 「らし」 の項. - 49 -.

(6) . 旅人・憶良についての一考察 (一) 6) 7) 8) 9) 1 0) 11). 拙稿 高市黒人の多用語-推量の助動詞を中心にして- (本学紀要一A, 18巻2号) 松尾捨治郎 助動詞の研究 97頁, 71~72頁 9頁, 同書八 12頁 武田祐吉 増訂万葉集全註釈六 24 杉本行夫 懐風藻 93~94頁 拙稿 柿本人麻呂の吉野讃宮歌について (本学紀要一A, 8巻i号) 松田好夫 大伴旅人 (和歌文学講座5) . 葵を 一にする. 先ず, 次に筑前に赴任す る以前にお ける憶良も, その作に乏しいことは旅 人とョ 「山上の歌 一首」 と題する としはへぬらむ. (9・1776) 白浪の浜 松の木の手向草幾代までにか年薄経濫 」 作りませる歌 . とある. さらに巻 の歌があり, 左注に 「右の 一首は, 或るは云ふ, 川 島の皇子の. を異にして, 「紀伊の国に幸しし時, 川島の皇子の作りませる御歌 聖壷 髭 舞 湛 」 と題して, 者経 5 ) ( ・.3 白浪の浜松が枝の手向草 掛ヒまでにか琴汚繕美貴試 函養護. )朱鳥四年 庚寅の秋九月, 天皇紀伊の国に幸したまひきと とあり, 左注に, 「日 本紀に日はく, 1 いへり.」 とある. また, 歌経標式にも, 「如角沙弥紀浜 寄日」 として rと し の へ に け む 白浪の浜松 が枝の手向草幾代までにか等旨能 倍爾計牟 と あ っ て, そ れ ぞ れ 作者 と 歌 詞 とを 異 に し て い る, こ れ は, 伝 詞 歌 の 然 ら し め る とこ ろ で, い ま こ こ に 作者 を 断 定 す る こ と は で き な い, し か し, こ れ らの 結 句 に, 「年 は へ ぬ らむ」 「年 の へ ぬ. 別伝のあるのは看過することができな らむ」 , および 「年はへにけむ」 「年のへにけ む」 の4種の し・.. 川島の皇子 が, この伝話歌に耳を傾けられた のは, 過去において親友の大津の 皇子を 「塗炭」 の悲運に陥れた体験もあっ て, 同じく若くして悲運にたおれた 有間の皇子の事件に関心をもたれ たためで あろう, そして, この時 (朱鳥4年) に随従していた憶良に記録を命ぜられたものであ ろうか. 川島の皇子は, 懐風藻に 「山斎」 (懐3) 一詩を残しており, 「柿本人麻呂の泊瀬部の 194・195) の左注に, 「右は或る本に日はく, 河島の 皇子を越智 皇女忍坂部の皇子に献れる歌」(. 野に葬りし時, 泊瀬部の皇女に献 れる歌なりとい へり.」 云々とあっ て, 皇子と人麻呂との交渉も )忍 681 考えられる, よっ て皇子が和歌に関心があっ たことは疑い ない. また, 皇子は天武九年 (. 壁の親王とともに帝紀および上古諸事の 記定の事業にも参与されているので, 憶良の皇子への接 近は, 彼の漢文学の研錯に大 いに役立ち, さらにわが国の古書への接触の機会をも多く し, やが くの編集 へと彼を導いていったのである. それで, あるいは歌林編集の折の記録とも考 て類栗歌キ ー え ら れ な い で も な い. い ず れ に し て も, こ れ ら の 歌 の 定 着, こ と に 結 句 に 「ら む」 の用 例 の あ る. ものは憶良の改修の 手が加わっている可能性が少なくない, もし, 前者とすれば, 彼の手を経た 1歳没説をとると, 朱鳥四年 733) 七十匹 ものとしては, もっとも古いものと 言えよう. 天平五年 (. のこの歌は, 彼の三十歳の時の歌である, 10~12 ) が類票歌林に収められ 一方, 「中皇命の紀の温泉に往 しし時の御歌」 と題する三首 ( づ て松が枝を結べる歌 「 から傷み ていたことは, その左注によ って明かであり, 有聞の皇子のみ ) も, 歌林所収 3・144 1~142) 二首」(14 , 「長忌 寸意吉麻呂の結 び松を見て哀咽せる歌二首」(14 歌 か, ま た は そ の 資 料 と して, 憶 良 の 手 も と に あ っ た も の で, こ れ ら に よ っ て, 「山 上 臣 憶 良 の. 追ひて和再 る歌 一首」 とする. 0- -5.

(7) . 土. 田. 知. 堆. 鳥湖なすあ り通ひつつ見らめ ども人こそ知らね松は知るらむ (2・145 ) の作となったものである. 前述の意吉麻 呂の歌 (143) には 一首中 「けむ」 の用 法2例あ り , , 「大宝元年辛丑, 紀伊の国に 幸しし時 結松を見る歌一首」 と題する人麻歌集所出歌にも , , うれ 後見むと君が結べる磐代の子松が末をまた見けむかも (2・146) とあって, 意吉麻呂と同時の作なるべく, 「けむ」 の語法をともに存して いることが注意せられ る. これに対して, 憶良の 手を経たとおぼしき前掲二首の歌に 「らむ」 があり 彼の作とあ る前 , 掲一首に 「らむ」 の使用2例あるは, わずかながら 彼の特色を示すものである , さらに, 後者の作におし ・ては, 彼が老年の作に おいて, 陶詩の影響を受けてお り, 播安仁の詩 賦に関心を示 しているところから考えて, 文選 才 , 番安仁の 寡婦賦の 「孤島嘆製号悲鳴. 長松養護 ゾ タル リテ ヘルニ ノ ズル メ ラ ニ リ ハ 号振し河,」 か, 陶詩の飲酒 二十首中の其 四の 「去来何依依 因 値 孤松生 . 二 - , 鰍 湖 遥 来 帰,」 あたりの示 唆を得てはいないだろうか もっとも 死者の霊を鳥とみることは 古来例のあるこ , , , とで, 集中にも 「ー書に己はく, 近江の天皇聖体不予み給ひ 御病急にましま しし時 に大后の , , 奉献オ る御歌一首」 と題する 青 旗 の 木 旗 の 上 を 通 ふ と は 目 に は 見 れ ども 直 に 逢 は ぬ か も. (2,148). のごときは, やや類 似の発想と言えよう しかし 憶良は 河島の皇子の 「風月 澄 遊席 . , , 二 「 松桂 期二交情- 而陥 其塗炭 ,」(懐3) を思い浮かべ, 風藻撰者の 「但未 尽二 争友之益- 者 二 . - , 余亦 疑し之,」 に 同 感 し た ら しく, 彼 の 歌 の モ チ ー フ と な た の で は な か ろ う か っ , 憶 良 の 歌 は, 大 后 の. 歌のように単純ではなく, そこには早くも憶良文学 の調諌 生の 萌芽を認められるのではな かろう か. そうすると, 漢詩との交渉を考えることもあながち無理とは言えない , また, 前者が 歌林に関係ありとせば, 彼の渡唐は 大宝二年 (長安二年 702 ) から慶雲四年 , , (景竜元年, 70 7) と推定され, 万葉集に引用 されて いるうち もっとも年次の新しいものは 大 , , 宝元年十月, 天皇・上皇の紀伊行幸の時の歌 (1 667~7 9) 中, 意古麻呂の応 詔歌 ( 1 673) である. から, その定着ないし制作は, 彼の帰朝後ということになろう すると 「山上臣憶良在 大唐 , , 二 - 時“億=本郷-歌」 と題する い ざこどもはやくやまへ. らむ. 去来子等 早日本辺大伴の御津の浜松待ち恋ひぬ良武. (1・63) が前掲の歌に先行す の歌に先行する )中西進氏は, 憶良とともに ることに ことにな なろう ろう, 2 億 第7次の遣唐使に随行した釈 リテ ニ フ ラ リテ ニ ハ 弁正の 「在し 唐 億二本郷-」(懐2 7) と釈道慈の 「在 唐 奉二本国 皇太子-」(懐103) と題する絶 句との題詩, 発想方法, 技巧, 感情の内容の類似を指摘されたのは傾 聴すべきである ことに弁 , 正詩の o. ル0. ヲ. 0. ム0. ヲ. 0. シテ. 日辺謄二日本二 , 雲裏望二雲端- , 遠遊 およ び, 道慈の. ス0. 二. 0. ム0. 二. 労二 ラ 遠国「 長恨苦二長安→. 三宝〕幸聖徳- , 百霊扶≧仙 #, 寿 集 日月二長ご , 葱 雫 天地-久,. において, 前者は各句に 「日」「雲」「遠」「長」 の同字を重用 し 後者は第一句末の 「徳」 を第四 , 句頭で, 第二句末の 「寿」 を第三句頭で, それぞれ承ける技巧がこらされ これらは憶良の 「浜 , 松」 のマッ, 「待ち」 のマチの同音反 復の技巧と関 係があるとし さらに初句の 「去来」 も彼の , 地における俗語に由来し, さらに陶詩の 「帰去来」 にも関係があろうと説いておられる , しかし, 同音反復 の技巧は, 必ずしも漢詩の 影響を待つ必要はなく すでに集中 にも 種々の , , 技 法 が み ら れ, こ と に, さきなみ. 楽浪の志賀の辛碕幸くあれど大宮人の船待ちかねつ 1 ‐‐ ‐5. 柿本人麻呂. (1,3 0).

(8) . 旅人・憶良についての一考察 (一). ) ( 1・73 吾妹子を早み浜風大和なる吾待つ 椿吹かざるなゆめ 長の皇子 ) 一句の範囲内で同 3 特に 氏が , のごときは, 憶良と同種の技巧といえよう, それゆえ, 鈴木修二 新風の影響を受けた 弁正らはこの れているから ことを説か 一字を重出した例が, 初唐詩に多い , ことは明かである. しかし, 憶良はむ しろ反機を感 じて, 伝統的技法の一種を使用したとみるべ )杉本氏 が弁正詩に対して, 「この詩, 望郷の意切なるものもあるが, 語 蕨に堕し きであろう. 4 た結果, 譜諺的な情緒 が, 読者をして 微笑せしめる逆効果をなしてゐないか.」 と説かれたのは看 過 で き な い,. まず, 初句の 「い ざ子ども」 も, すでに記紀歌謡に, い ざ こ ど も のびるつ 伊邪古秤母 野隷摘みに 蕪摘みに…… の類句があり, 集中には, い ざこどもゃまとへ. ) (記44 0. (3・28 ) 高市黒人 去来児等 倭部早く白菅の真野の榛原手 折りて行かむ こと の ごと く 初 二 句 に わ た っ て 類 似 して い る が, これが憶良よりも先 行しているとも断定する , も で き な い,. いざこども. 長歌に を 「……率児等 あへて 梼ぎ出む にはも 静けし」 このほかにも, 「珊旅の歌」 と題する長歌 し ・ ざ こども 「白露を取らば消ぬべし去来子等露に 競ひて萩の遊びせ ( 388) , 「露を詠める」 と題するものに, 73) の類句 を見出す. これらも, 憶良の歌との先後関係を 知りがたい, しかし, 前者が む」 (21 があ 若宮年魚麻呂によ って話せられたものであるとい う左注によれ ば, 伝詞歌とこの句が 関 係 」 ることがわかる. さらに, そ の反歌は, 「島伝ひ敏馬の埼を梯ぎ廻れ ば大和恋しく醸さに鳴く た 73) と発想上の類 (389) は, 黒人の「磯の埼梯ぎ廻み行け ば近江の海 八十の楼に鵠多に 鳴く」 (2 2173番 似があり, おそらく, いずれも口話歌 を粉本として, これに改修を加えたものであろう, は, 漢詩との交 感も察 知され, その発想からみて, 憶良の作より後であろう. 次の 「冬十一月, べて 大宰の官人等, 香椎の廟を拝み奉り詑へて退り帰りし時 , 馬を香椎の浦に駐めて, 各懐を述 い ざ こども ー の袖さへぬれて朝菜摘みてむ」 ろ 「去来児等 一 首」 とた 大 伴 の 脚 の 歌 一首 」 と題する ノU 香椎の潟に白細 - 作 れ る 歌, 大伴の脚の歌 作れる歌 「天平宝字元年十一月十八日, (957) は, 親愛の雰囲気に満ちている点で類似がある. しかし, い ざこども とよのあかり 内裏にて 球 宴 きこしめせる歌 二首」 とある内相藤原仲麻呂の 「伊射子等毛たはわざなせ そ天地 87) は, かなり異色のもので, 万葉特有の善意にさえ欠けている. の固めし国 ぞ大和島根は」 (44 が そ 旅 人, 仲麻呂の歌 が, 憶良の歌より後のものであることは明かであるが, 上司たる旅人 , , これ れも女人をもっ て任じている彼が, 気軽に 憶良と同 じ句を用いていることは注意す べきで い ざのまな は憶良独特のものと称すべきでないからであろう, また, この字面も, 神 代 紀 に 「去来之真名 い ざ ほわけ ほわか いざ い ざ さわけ い ざ さわげ ; 」 「去来紗別の尊」 「去来の真椎の皇子」 , 履中紀には, 「去来穂別 升 」 , 応神紀に 「去 来紗別の神 び い ざむす てな いざ l o ) 「去来結 手名」とあり, 美夫君志 の天皇」 の注に 「去来比云ご伊受- ,」 とあり, 中皇命の歌 にも べ に天台三 台部補注巻八に 「今此地 相召 多 云二去来-」 とあるを引用 し, 「こは唐人の俗語なる し」 とある, そうすると, 必ずしも憶良の独特の表記法ともいえない,ざ「こども」 が 若 い も の, い また部下に親しみいう語であるか ら, それに合うように 俗語的な 「去来」 をもっ て誘いかけもの で, その軽快な声調 がが記紀歌謡以来, 愛されたものであろう, ここに, 憶良の歌で注意すべきは, 「日本」 を土母 国 を さ す こ と は 明 かで あ る が, そ の ヤ マ トな る訓法は, さらに 「児ども」 たちの故郷なる 「大和」 をも併わせ意味し, 「浜松」 も歌の背景を 具体化して, 望郷の念を深くしていること, 「らむ」 の使用によ っ て一段の生彩を添えている点 ) には, 895 などである, ことに, 「御津の浜松待ち恋ひぬらむ」 は, 「好去好来の歌」 の反歌 ( 一 52 -.

(9) . 土. 田. 知. 雄. 「大伴の御津の松原かき掃きて」 とあり, 彼得意の表現であっ たのでだろう かかる 表 現 を み , ると, 彼は在唐詩に対して, その技巧に走 った表現法を避けて, 和歌独特の微妙な興趣を示そう. としたものであると言える. 中西 氏の説のごとく, これらの在唐詩歌 の技法が 望郷の念をテー , マとする宴席の歌の性格に基づくことは動かしがたいが, 彼は弁正らの在唐詩の遊 戯的技巧に反 擬して, 日本宴席歌とも 称すべきものを示したと言えよう この意味で 5 , , )村山出氏が, 「い ざ こ ど も … … む」 の発想を重視して, 「少録であった憶良は遺唐執節便 の意を代弁的に詠じた もの ではなかろうか」 と説かれたのは, この歌に関する限りその可能性はある, すると 彼は上長の , 代作にも任ず るようにすでになっ ており, これは旅人との出会いにおいて さらに別種の形で展 , 開することに なったと言えよう,. 以上, 145・171 6の歌においては, 歌謡の改修者として, 若干の特色を示したに過ぎなかっ た憶 良は, 63番に いたって, かなり特色を示し出したと言えよう 三首を通じてみれば , , 1 ( ) 14 5番において, 早くも彼の漢文学的な発想がみられ, 63番においては, 在唐詩の語 戯的修 辞に対する反機もみられる, 2 1 推量の助動詞 「らむ」 の多用である, これは彼の素材に対する主観的姿勢を保ちながら ( ,. 過去から現在への強い関心 を示す, すなわち, 素材に対する史的関心を示す とともに, 重厚. 圏. な歌 風 と な っ て い る,. 前掲三首の素材は, いずれも松であるが, その叙景的方面には関心はなく, その由来 背 , 景に興味を感じてい る, これは, 前項とともに, その物語性, 散女性の素地をうかが わせる , 樽 280番 の 松 に 託 した 母 国 の 肉 親 へ の 配 慮 に, ヒ ュ ー マ ンな も の の 芽を えが認められる , 5 ( } 伝詞歌の記録, 改修者として発足した彼は, しだいに即興歌 の作者に進んで いる. これは , 歌林を通 じて, 意吉麻呂の作に注意していることからも推察できる. さて, 以上考察するところによれば, 資料がきわめて乏しいので推測も困難ではあるが 旅人 , と憶良とにさほど反撤す るものをこの時点にお いては見出しがたいと言えよう, むしろ 漢詩賦 , の発想を和歌に活かそうとしている点, 六朝初唐詩の語戯的修辞に反繊している点では 榛を一 , に し て い る の で あ る. 注 1) 2 ) 3 ) 4 ) 5 ). 今の日本書紀では, 無年号の四年 ( 0 69 ) 中西 進 万葉史の研究 54 0~54 4頁 鈴木修二 日本中国学会報 第14号 杉本行夫 懐風藻 78頁 村山 出 筑紫下向以前の憶良 (国語国交研究35号) IV. 憶良の渡唐は, 漢文学の発生した地盤において, その影響を親しく・ 体得させたこと であろうし, 激動期における長期の長安 滞在は, 彼に社会を見る目を開かせたであろう, かくて 将来におけ , る彼の作品のスケールの拡大に資すること少 なくなかったことと思われる, さて, 彼の帰朝後の歌としては, 七夕の歌,. 天の河相向き立ちてわが恋ひし君来ますなり紐解き議けな 話さ喬 茨. ・ ) ( 8.・ 5 8. 右は, 養老八年七月七日に, 令に応ふる とあるのが挙げられる, しかし, 養老八年 ( 724 ) 二月に皇太子は位に即いて聖武天皇となられ, 年号も神亀と改元になっ ており, この次に彼の神亀元年七月の作があるので, 代匠記に 「八 ハ六. ノ 字ノ 上ノ 二 画 ヲ 失 ナ ヘ ル ニ ャ」 と い い, 考 に は 七 年 と改 め る , ま た 「応 令」 と は, 皇 太 子 の 令 - 53 -.

(10) . 旅人・憶良についての一考察 (一). 旨に答える意であるから, 養老八年七月では, 誤と言う べきである, 彼は続紀によ れば, 養老五 年正月に勅によっ て, 退朝の後, 東宮侍講となっ ているから, 右の歌は, 養老五年か ら七年のう ちの七夕の歌とす べきであろう.. この歌には,巻十にr天の河川門に立ちて吾が恋ひし君来ますなり紐解き待たむ 諦 乏高さ 器 」. ( 204 8) という異伝とも称す べき頬歌がある, 両者を比較す るに, 巻十の歌も異伝を伴なっ てお り,かなり流 動性をもっ ていたものの ごとくである. 彼は, この歌かまたはその口 謡歌を粉本とし て, 改 修を加えたもの であろう, すると, 歌人としては, 波唐前より, いく ばくも進歩していな 1 ) いことになる, ここに注意す べ きは, 二句の 「相向立而」 の 「相」 の使用であ る, 小鳥憲之氏 は, これについて, 「動詞の上に接 して二音の複合 語を作り, 下の動詞に対して意味のない軽い助 字である, (中略)遊仙窟の 会話や詠詩の中 にもこの肋字が多いのは, 語調音調を整へるために 無 意味の 『相』 を加へたのである, 俗語の用法を学んだわが神代紀の会話 文にもこの例は少なくな 歌 い, 万 葉 集 に 於 て も, 一 般 の 『相』 の 用 法 の ほ か に, こ の 種 の 『相』 の 例 が あ る」 と して, こ の 『 き な く 向 の で は も , を あ げ, 2048番 と 比 較 し て, 「は っ き り し た 『共 に』 『互 に』 の 意 味 を も っ た. 立ち』と云ふ動詞に添はっ てそれに余 裕を与へる助字であ る,」と説かれたのは注意す べきである. 初旬の 「天の河」 を受けて, 「河に向ひて」「川門に立ち て」「川に向き立ち」 の別伝は, い ずれ も生彩があるとはいえないので, 憶良の改修となっ たものであろう, 彼はこの用法を, 当時編修 に従事していた類票歌林の資 料たる古典から得た ものか, または彼 が将来したともいわれてい る 遊仙窟等から影響を受けたか, いずれに しても, 彼の漢学の知識が歌に活かされたものといえよ う, また, 結句の 「紐解きまけな」 は, 「紐解き持たむ」 の改修であろう. 次も七夕の歌で, わがり ひさかの天の河瀬に船浮けて今夜か君が我許来まさむ 右は, 神亀元年七月七日の夜, 左大臣の宅.. (8・1519). 憶良は長 屋の王の知遇を得ていたは ずであるが, 王の詩苑にお いて漢詩は一首も残していない, 作宝の詩苑にこの一首だけ残している. しかし, さほどの名 作とも思われない, ただ, 両者とも 織女の気持になっ て詠んでいるのは, 憶良だけに限られたものでは ないが, 後年彼が他人の悲し みや悩み を代っ て詠む態度につながるものかもしれない. また, 彼に七夕の歌十二首 (1518~29) もあるのは, 彼がかかる伝 説に対する興味を示すものと言えよう. ちなみに, 制作年代は不 明で あるが, 「山上臣憶良の秋の野の花 を詠めるる二首」 は 秋 の 野 に 咲 き た ろ 花 を 指 折り て か き 数 ふ れ ば七 種 の花. 芽チの花尾花 酎 躍 麦の花. 女郎花装 藤袴朝顔の花. そ の一. (8.1537). そのニ. (8・1538). その偶 数歌体からみても, 伝説歌を記録したものと思われるが, その配列に語感を活かした彼 の才気 がうかがわれ, 小島氏は 「叉」 に注意し, 「サラニ, 再 ビマタ」 な どとはちがっ て, 事物 を並列付加する肋字で, 漢訳仙興, 記紀の文章に多くの用 例があり, 散文を歌の中に試みた 新し い手法であるとされ, 「其 一」「其二」 の注記も文選, 玉台新款集な どを始め例が多く, 彼が詩の 形式を学んだ結果であ ると説かれる. もっ とも, これは 必らずしも憶良に始まるものではなく,. 1) にそれぞ れ 「其一」「其二」「其三」 の注記があり, 客明紀の斉明天皇の御製三首 (紀119~12 7に 「其一」「其二」 の注記があり, ことに, 竹取の翁に 「娘子 786,378 集中にも巻十六にはは, 3 802) には, 「一」「九」 の注記があるのは彼と無 縁ではあるまい, 794~3 等の和ふる歌 九首」 (3. また, 題詞における 「山上臣億良詠秋野花歌二首」 とある 款物題も, 彼の漢学との関係を考え ざ る を 得 な い. - 54 一.

(11) . 土. 田. 知. 雄. 次には, 「山上憶良の臣の宴を罷る歌一首」 は, すでに漢詩文の影響が指摘されている . それその ぞ 憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其 彼母も吾を待つらむ曽 (3.337) )井手至氏は, 口語的な漢文に用いられる肋字 「其」 にヒントを得て 「それ」 という強 まず, 2 , 調の語を加えたのではないかと説かれた, 強調語としての助字 「其」 は 日本書紀の変体 漢文に , )小島憲之氏によっ て数例挙げられ 必らずしも彼の創始と も 「それ」 と訓まれているこ とは, 3 , は言えないが, 「其””・ ・殿」(または, 其……尖・薦・乎・也) の用 法を転じて, 「其,…, ・曽」 と歌 語に活かしたのは注目す べきで, 小島氏も, これが 「一般 の歌には用ゐない表現で歌 たところ っ にその場にお ける効果的な表現となり, 一方では自分の妻を 子の立場から 『彼母』 と云 て酒 , っ 宴の一座の興 として人々を笑わせもする,」その表現力を高く評価しておられるのは従う べきであ. る, この助字の使用 は, おそらく頚票歌林編集中, 日本書紀等の変体漢文との接触 に よ っ て, リテ 示唆を受けたものと考えられる. また, 4 )中西進氏は 文選, 謝玄陣の 「晩餐 三山 還 望京 , 二 一 二 ラ リテ ニ ヒテ ス ラ 1 シテ ノ ゾ ・ リテ シ ノ 邑-詩」の「去 奏方 滞淫, 懐 哉罷二歓宴-・佳期帳 何 許, 涙下 如二流震「」 を挙げて, この 歌 の モ チ ー フ と し, 望 郷 の 念 に 基 づ く も の と 説 か れ て い る . 同 氏 の 説 の ご とく, こ の 詩 の示 唆 は. 受けているかも しれないが, この 歌が筑紫 にあっ て, 望郷の念よ り制作されたかどうかは明かで. はない, なるほど, この歌に先行して, 「大宰小弐小野老の朝臣の歌」( 328) , 「防人司の佑大伴 「 四綱の歌」(329・330) 帥大伴の脚の歌 1 ~ 3 3 」(3 ) は, いずれも望郷の歌であ り, 次の 「沙 35 ,. 弥満誓の綿を詠める歌」( 33 6) も, 孜証によれば, 恋の誓脈歌としているので, これに従えば, )沢潟久孝氏は, 「思ふにこれは憶良壮年の日の作で 望郷の念も若干あるかもしれない, しかし, 5 あっ て, 太宰府で宴飲が屡催され るにつけて, 『また山上長官の罷宴歌を謡はうぢやないか』 とい ふやぅな事になっ たとするのは臆測にすぎるのであらぅか.」と 説かれた, 筆者も沢鳩氏の後段の. 説はともかく, 憶良壮年の日の作とするのは賛成であっ て, おそらく彼帰朝後, 伯替守転出以前 の作であると思う, それゆえ, 帥旅人の主催した梅花の宴に反機 したものなどとは考えがたい , 元来, この梅花の宴は, 献歌している者だけでも, 大宰府の官人, 筑前, 筑後, 豊後の三国の 国司はもとより, 遠くは大隅・薩摩・壱岐・対馬の国司まで31名に及んで いて, 献歌し得なかっ )藤原芳男氏の 「養老このかた盛んになった詩宴流行の風 に た者もあるはずである, それゆえ, 6. 乗じて管下の文雅官人を擢でて催した大伴旅人の詩宴のための詩宴であったとみるならば, 恐ら く当を得ないであらう,」 とし, 「かくて私はこの梅花の宴は多端な政務の間 に催された一日の 清 遊であり, 梅花の宴はこの集ひにあっ ては必¥然的にその座興に於て生じたものであったと見る 」 , と説かれているのに賛成である, 前年の天平元 年 ( 729) 二月には長屋の王の変があり, 八カ月 後には諸国の防人を停止しなければならぬ時点で, かかる広範囲の人々を集めて, 単なる風流韻. 事が行なわれるということは考えられない, 果して然らば, 筑前守 たる憶良が雅会とはいえ 彼 , 一人中座するということは許されないし, 彼もそれほど官人としての知恵を欠いていたと も思わ. れない. それゆえ, この歌は, 非公式で私的な, ごく親しい グルー プの会合で それらの人々を , 対象に即興的に詠み上げられたものであろう, それで, 沢鱒氏は 前に続けて 「かうして誰かに ,. 書きとめられたればこそ題詞の条で述べたやうに, 7 ) 『憶良臣』 といふ書式にもな. った云へないで あらうか,」 と説かれた. 彼壮年の日の作であるから, この歌は生彩があるので 「子泣くらむ」 , の 「子」 が孫であ ったり, 「その母」 が 「嫁」 であったのでは 歌の興 味は消失してしまう い , , か に憶良 が 虚 構 を 用 い て い る と い っ て も, こ の 場 合 は そ う と る の は 当 を 得 な い そ し て 一 首 , , ,. に漂うュ‐モ ア, その口語的発想からく るな ごやかさ, 流麗な声調からして とても上司の貴族 , 趣味に対する反綴を感ずることはできない, また, 遡って長屋の主の宴飲を辞する歌ともとれな - 55 一.

(12) . 旅人・憶良についての一考察 (一) . . い, 東宮侍講に選 抜してくれた王の招 宴に対して, 道慈の ごとく, 「僧 既 方外 士. 何 煩 入 ニ ランヤ ) として, これを辞退するほ どの 「骨硬」 さは彼にはないだろう. 彼青年の日 二 宴富-.」(懐104 には糟湯酒を飲んだ経験が貧窮問 答歌中の貧者に反映して いるし, 彼の組んだ陶詩, 飲酒二十首 ゼ ムコ1 ・ヲ リ 中の其三にある 「有 酒不 肯し飲, 但顧二世間 名-」 ような徒には 反機を感 じても, 彼が酒宴が きらいであ っ たという証 拠はどこにもない. 憶良の罷宴歌と道 慈の詩には, かなりの懸隔が感ぜ )旅 人 の 讃 酒 歌, あ る い は 梅 花 の 宴 の 歌 の モ チ ー フ とな っ た と も, と て ら れ る, ま た, こ の 歌 が 8. も考えられない. かりに一歩を譲 っ て, 罷宴歌に反機の意ありとすれ ば, 旅人の讃酒歌よりも先 シテ ニ ニ フ レ ヘリ ノ ニ 行するとお ぼしき万里の 「対 酒 当 歌 是 諸二 私 願- ,」 と序する 「暮春於二弟 園池-置酒」(懐 94) に向う べきであろう. この歌の発 想に漢詩賦の影響が以上のように考えられるが, 彼が好んで用い る 「らむ」(上のく ・音・ハ行音の多用, らむ 〉は別であるが, 声調上はほ ぼ同様の効果があったろう) の多用, ラ行 句切りを多く しているなど, 即興的に口 議する効果を十分に考えていることを 重視したい.. ただここに疑う べきは, 憶良が長屋の王の 詩苑において, 漢詩は 一首も残 していないことであ ) に, 王邸で七 夕の歌一首を残してい るだけである, そこで, 724 る, 彼はわずかに, 神亀元年 ( これは単なる臆測に 過ぎないが, 彼が東宮侍講の任にあっ たころは, 類票歌林編修の時 期 (養老 四年<720>~神 亀二年<726>) にもあたり, この書が単なる私 撰と認めがたい点もあり, 書紀・ 風土記・書紀以 前の一書等による考証, 編 修の多忙から, 王の宴会にも欠席または中座すること を大目に見 られていたものかとも考え られる. ともかくも, この歌が 前節において指摘した即興 歌の系譜に 生じたことは明かであ る, それゆえ, この歌に貴族に対する反抗とか反機の態度は認 め ら れ な い の で あ る, 注 1) 2) 3) 4 ) 5 ) 6 ) 7) 8 ). 62~964頁 小島憲之 上代日本文学と中国文学中 9 6) 手 至 憶良の用語 『それ』 と 『また』 一助字の修辞的利用- (万葉2 井. 65頁 小島憲之 上代日本文学と中国文学中 964~9 中西 進 万葉集の比較文学的研究 398頁 8頁 97~29 沢潟久孝 万葉集注釈三 2 8号) 藤原芳男 梅花の歌 (国語研究2 土岐善麿 旅人の讃酒歌について (国文学研究 29年3月号) この書式は四位の人に対するもので, 五位の憶良には敬称として用い られたものである, V. さて, 前節において, 憶良の罷宴歌が彼壮年の作であると認む べきことを述 べた. そうすると, その時点においては, 旅人と彼は未 だ直接の交渉はなく, したがっ て, 相反機す べきものはもた なかったとみるべきである. 集中の題詞にも, 旅人の讃酒歌には 「大宰帥大伴脚」 とあるのに, 憶良のほうは 「山上憶良臣」 とあって, 官名がないのは, その制作の時 所が未詳のためと思われ る. かく て, 旅人が憶良の罷宴歌を直接のモチーフとして, 讃酒歌を作ることは考えられない, それに旅人も老境に入っ て, 年少の家持・書特をかかえており, 晩婚 の憶良も同様の境地にあっ たらしいので, この点からも, あえて憶良の父性愛に不快を感 じる理由がない. 1 )土岐善 麿氏は, 憶良がそこに残 して去った罷宴歌 一首に対して, この讃酒歌十三首を成し,. おそらくはそれを憶良にも示したであろうとし, 「しかも, それは決し て憶良の態度を非難した わけのもので はなく, むしろ老長官と老国司との交情を一種ュ‐モアのうちに新たに 「かつ相互 に顧みて苦笑一番したかもしれない」 と推定されているが, 讃酒歌のテーマはその程度のもであ. )佐佐木信綱先生も 「以上の十三首は, 讃酒歌とはあるが, その中には, 儒仏思想など ろうか,2 -5 6-.

(13) . 土. 田. 知. 雄. に対する反抗の意識も窺はれる, 恐らく, 当時横行して ゐた偽善者どもに強い反感を持 てゐた っ のであらぅ. 単に酔人酔余の座興とは思はれない.」 と説かれた 先生の指摘されたように 讃 , , 酒歌には, 確かにだれ かに対する強い反機が感じられる しかし それが下僚たる 憶良に 向け , , られたとは考えが たい. 彼の反機のほこ先は, むしろライ バ ルたる藤原氏を中心とする勢力 にあ っ たのではなかろうか, これは, 彼の集中における処女作と もいうべき芳野讃歌においても, 別 種の反機が認められたことは, 前節において論証した通りである それがここにも 形を変 えて , , 引継がれていることは, 容易に考えられることである. 旅人のいわゆる 「験なき物念ひ」 とは , 何をさすで あらうか, 老妻を失なった悲しみも さることながら 藤原氏の拾頭の前に もろくも , , 衰退を余儀なくされ, 追いつめられてゆく大伴一族の末路に対する憂慮ではなか たか っ , 彼はかつて台閤にともに列した房前には810・811番の歌を 付した書簡を贈り 房前も812番の歌 , を付した返書を与えているから, まず考えられるのは, 天平元年長屋の王の変以来 三月には先 , 輩たる旅人を越して大納言に昇進して, 政界の主動者に 躍り出た武智麻呂が挙げられよう 六弐 . 多治比県守, 旅人の弟道足らを権参議に任ずるという非常手段をとっ て 彼の手足をもぎとり , , 豪族の壷動を押えて, それら に懐柔の手をいち 早く打った ごとき 完全に無視された筑紫の旅 人 , の不満・失意・焦慮のほど, まさに思うべきである 「大宰の帥大伴の脚の 大弐丹比県 守の卿 , , の民部の脚に遷任するに贈れる歌一首」 と題する か. 君 が た め 醸 み し待 酒 安 の 野 に 独 や 飲 ま む 友 無 しに し て. (4,555). は, 彼の部下であっ た県守が民部卿, 兼権参議と して台閣に迎えられた時の歌で これが讃酒歌 , の制作動機の要因 の一つにはなったであろう. そうすれば 3 , )次田真幸氏説のようにたしかにそ の反機の対象は武智麻呂と言えよう , しかし, 筆者は 彼のいわゆる 「賢しら人」 の主たる対 象と称すべきは 武智麻呂のみならず , , むしろ宇合であったと思う, それは, その制作動機の 遠因 それはかなり強く かつ長きにわた , , る反機を誘っ たものとして, 宇合文学を考えざるを得ないからである , 4 )小島憲之氏によ れば 長屋の王でさえ 女人としてよ りは 政治 家として立ち 文学に対す , , , , るパ トロン的存在に重みをかけて考えるべきであろうとされておるのに従えば 王の作宝派のサ , すげ ロンに対して, 武智麻呂は習宜派のパ トロンとみることができよう これに対して 宇合は趣を . , 異にする, 長屋の王邸を包囲した時, 六術の兵を率いて その先頭を承った宇合は 第8次の遣 , , 便として渡唐し, 神竜 ( 唐副・ 70 5~) 以後の新詩風 に接し, 藻風藻には, 豊富な題材を駆使し 新 , リテ ニ 体の七言詩, 長い詩序 を付した作二首まで残している ことに 長女の序を 「 伴なう 在 常陸 . , = - ル. ノ. ノ リテ ルニ ニ. 贈二倭 判官 留. 在。 京」(懐89) の七言詩,「暮春曲二宴 南池-」(同88)の五言詩のごとき 宰府の地 , にあってわずかに文学に憂悶を晴らしていた旅人に相当の衝撃 むしろ 敗北感をさえ与 えたにち , がいな い, しかも, 宇合は彼のいわゆる 「不遇」 時代にあっ ても 詩序に 「然 而歳寒 後 験 , ジテ チ ル ラ キモ 松竹之貞 風生 解 廼 芝蘭之誠 「 大器之晩, 終 作二宝質- = → 二 一 , ,」 ,」 と述べ, 「為 期 不 ノ ハルコ1 ・ ラ. ンコ1 ・ ラ. ノ. ノ キニ. 猶似= 巌心 松柏 堅「」(同89) と吟じ得る自 信と意欲と若さとをたたえてい ”』風霜 触→ たのである, これに対して, かつて敢然として排した神仙 の世界に みずから逃避して わずか , , に憂悶を遣っ ていた旅人は, 必ずや強い反機を誘われた にちがいがない 旅人がかつて拠り所と , した儒教的境地に宇合は不遇にあっ ても以上の如く踏み止まり 旅人の如く 老荘を慕わず 伝 , , , ゾ テ メン 奇に遊ばず, 「大隠何 用 寛二 仙境- 0 ,」(同9 ) とうそぶき, 「遊二吉野川-」 (同92) においてさ え, 七賢を語っ ても, 彼の足は地上を離れていないのである, 旅人たるもの これに 「賢しら」 , - 57 -.

(14) . 旅人・憶良についての一考察 (一). を感じないとすれば, むしろ不可 思議という べきである. ミするしまさりたろ らし 賢しみと物いふよりは 酒飲みて酔う あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をょく見れ ば猿に もも似る 00 000 もだ 黙然居りて賢 しらするは酒飲みて酔泣するになほ若かず けり. (3・341). (3.344) (3・350). のごとく, 十三首中 「賢しら」「賢しみ」 あわせて3例, 「酔 泣」 も3 例も用いているのは注意さ れる, 「さかし」 は賢明である意であるが, 「さかしら」 は, かしこぶる意で,「さかし」 よりも価 )武田先生の説のように, 記紀歌 値的に品が下り, 軽ん じあな どる場合にいうのである, また, 5 謡を始め, 集中の歌も酒を詠んだものは, 愉快な内容の歌であるのに, 旅人の歌は沈痛な気の 潜 ん で い る の も 無 視 し が い, こ れ は, と て も軽 い ュ ← モ ア に 富 ん だ 歌 な ど と は 言 っ て お ら れ な い.. 6 )中西進氏によれば, 讃酒歌十三首こと ごとく漢籍に出典があり, またその発想を 彼に仰いでお り, なかには仏典の 影響をも併せてお る, その中でも有力なのは, 文選, 劉伶の酒徳頒であろう ンゾ ランヤ ノ ラ 「貴介公 が 「唯酒 是 務 , 鴇 知二 其 余- .」 とする 「大人先生」 をみずからに擬し, い っゆる 子,播紳処士」 に 「賢しら人」 をあてているこ とは確実であり, それは当路の藤原氏らを指すこと ) をもっ て自任した万里が, も疑いない, 不満,失意の旅人と, 不遇のゆえに 「聖代の狂生「(懐94 ともに有徳の土を醐笑し,「礼法の土」 を無視して,酒を愛した鷲康,伯倫を 追慕しているのは,儒教 キハ ノ ラ ン ニ リ ニ リ 乎 主義の政府当局者に対する反援からであろう, 「上 有二聖主- , 下 有二賢臣. 如し 僕 何 為 , リ ラ ムルハ ラ 尚事二 琴酒-耳.「(本朝遊史) と述 べ, 「貧し名 狛し 利. 未 適二神襟- ,」 と序し, 「寄 言礼法 士, ク ) と詠 じた万里の存在は, げたし旅人の傍証とするに足りるであろ モ 1E我 有二 鴎疎-」(同94 う. 「琴樽何 日 断, 酔裏不 忘 帰.」(同88) と詠じた宇合と, 「酔奨」 にあこがれた旅人との 間には, 大きな差違が感じられ, 彼はたしかに宇合に反機を感じていたことであろう, そして, 天平の異常な社会不安の病根を礼明せずして, いたずらに禍福 の説を禁じようとする当局者, ま たは安易に禍福の説に赴く者を蜘笑し, 竹林の七賢を追慕しているのである. この意味で, 旅人 は台関に列していたころ, 誠緯説を奉ずる長 屋の王とはしっ くりいか ず, 王の飲宴にもあまり招 かれなかっ たのではなかろうか, この間隙を利用 して, 彼の辛府への追い落しを成功させ, やが て, 「私 学二左 道-.欲 傾二 国家- .」 という密告をい とも簡単 に取り上げて, 王打倒へと事を運ん. だのは藤原氏 一派であっ て, この期に及んで, 旅人はこの肝計をはじめて知ったとみるのは, ぅ ヲ シ ラシ ラ リ ラ チ ‐ ヒ ラ ゲ ラ , かち過ぎてい るであろうか, 酒徳頃にいわゆ る 「乃 奮 秒 穣 衿, 怒 目 切 歯, 陳二説 礼法-. 是非鋒起,」 とある「貴介公子. 福紳処士.」 は, 「猿」 にたとえられる 「賢しらをすと酒飲まぬ人」 を思わせ, 世 の偽善者への強い逆説的表現とはとられない だろうか. 宇合の ごときは風 藻詩にお いては, わが 「不遇」 を訴えても, 儒教道徳を守っ て節を守ろうとし, 長屋の王の 詩苑にもし ば しば出席していながら, 長王打倒にあたっ ては, 武智麻呂の一翼となっ て活躍しているではない . )小島氏によれ ば, 「長屋の王をF同心とする詩苑の 詩特に詩序の述作に及んでは, 初唐 しかも, 7 詩の詩序の利用が著しくなり, この中 心ともいう べきが宇合だっ たのである. 事実彼は風藻に, 花々しい <詩序十詩>の形式を提示していることは, 前述の通りである,. 旅人は当時にあっ ては, 詩の実作においても, 宇合の敵ではなかっ たろう. 劣者の優者への 反 擬, ひげめも認めざるを得ない, かような 敗北感からの脱出の 一方法として讃酒歌も作られ, 窮 余 の一策として巻五に新に旅人によ っ て提示されたく歌序十和歌>の形式も 生み出されたもので あ る. - 58 -.

(15) . 土. 田. 知. 雄. なお, 讃酒歌はいわゆる 「賢しら」 人に対する反機, 反抗に急であっ て 詩としての燃焼不足 , )古沢未知男氏が憶良 と対抗関係にあると称せ は免れない, そして, 漢文学の影響についても, 8 られる作品にお ,いて, 憶良の漢籍の使用が手当り次第に網羅的であるのに対し, 旅人が集中的で あるという傾向からはずれて, 旅人の讃酒歌に用いた漢籍・仏典の数は十指に余っ ている この ,. 点からも, この歌 は憶良を意識していない作であり, またその時点にいたらぬ作であると言 える , しかし, 子に対する愛を否定したり, これを酒におきかえようとするものは見当らない. また , )これを用語の上から見ても 「らし」 の用 法5例に上り しかもその用法はむしろ変則 的 で あ 9 , , る. かかる用例は, 他にも一例 ( 574 ) あり, いずれも漢詩文の翻案に急である場合に, 主観の添 加によっ て感動の乏しさを避ける時にみられる. 彼の老荘思想も, いまだ知識の段階に止まり, 反 機 の た め に用 い られ た も の か と 思 う.. 次に, 筑紫 における旅人文学の伝奇性・神仙性, 憶良文学の虚構性のごときも, 仮設の人物に 託して己が意を述べようとする漢詩文の影響を受けたものと言えるが, これも宇合の風藻詩 (89) 中の 「倭判官」 を直接の影響とみたい, 「倭判官」 はだれを指しているか不明であるが おそら , く仮託の人物であろう, 宇合は表面上は 「倭判官」 の不遇を慰めているが, 真意はこれに託して 彼自身の中央政界からの離脱に対して, 不遇を訴えているのである, また,「悲=不遇-」(懐9 1) ド ー モ ニ メリ の 「二毛難二 己 富- 万巻徒然 貧 も クシ 」 フ ンであろうが 表現効果は十分である ョ , , , ィ , , かくのごとく, 異国の詩をもっ て, 自由に自分の心情を表現し得て, 詩壇に新風を示したのも宇 合である, 旅人が宇合の提示した く序十詩>の形式に従わず, <序十和歌 >の形式を示したのは. 宇合を意識した, 一種の消極的な反抗である, 旅人は宇合の華麗な新形式に魅せられても これ , を駆使する実力も自信もなく, <序十和歌>の形式によっ て, 伝奇, 神仙の世界に逃避したので ある, 憶良が旅人 の提示したく歌序十和歌 >の形式に追随したのは, 旅人の示唆によるものか , )土屋文明氏が 「各首に漢文の序を付 官人としての上司へのエチケ ッ トであろうか. それゆえ l o , したのは, 文章と歌詞とによ っ て効果を強めようした. 」 ことは事実であろうが それが 「憶良 , の発明で, 勿論漢文の法の輸入である,」 という説はどうであろうか. もちろん, 憶良は旅人の提示した新形式を展開させ, 内容的にもたしかに彼独自の創意が認め. られる. そして, 旅人に対しても, ある種の対抗意 識がみられる. しかし そこにはおのずか ら , 限界があるのである. それとともに, 憶良も宇合に対する関心を怠っ ていなかっ たごとくである, 彼が宇合への注視 は, すでに九州下向以前に始まると言っ てよかろう. 憶良が筑前守となっ て九州に下っ た時期は記録にはないが, 旅人が天平二年 ( 730) 大納言に昇 進して帰京する時, 府の書殿で銭別の宴を催し, 憶良が 「敢へて私懐を布ぶる歌」 を 作 っ た が , その一首に, みやこ てぶり. 天 ざ か る郡 に 五 年 住 ひ つ つ 京 の風 俗忘 らえ に け り. (5・880). とある 「五年」 を文字通り解すれば, 彼の任官は神亀三年である ことが逆算できる すると , , し つ たまき. 倭文手 澱 数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと念コまゆるかも 薦 髭 議 貰え轟に 樹 . (5.903). は, もちろん九州下向以前の作であ る, 彼はすでに伯替守 (霊亀2年<716>~養老4年<720>) としての任をおえ, 当代一流の学者とともに東宮侍講の一人として重んぜられ 彼としては平穏 , にして幸福な時}代であっ たのに, この詠あるは女日何. 思うに, 彼が従来かなり関心 をもち 反応 , を示していた宇合の知造難波宮事の任命, それに伴う宇合の前掲3 12 番の歌 に対する 卑姓出身の - 59 -.

(16) . 旅人・憶良についての一考察 (一). 憶良の反撒といおうか. 一方, 彼はすでに宿病のおかす所となり, 「夫 百姓或 染二沈 痛病-,経レ ハ ラ ス テ グ エ 思い 年来し愈 , 或 亦得二重病- . 昼夜辛苦,」 (続紀6月14日の詔) の実情を目撃 して, わが身に 5日) を及したものか, あるいは内裏に玉英が生じたというので, 勅により朝野の道俗等 (9月1 や女人一百十二人(同27日)に玉英の詩賦を上らせるという 外面的な花やかさに対して, 正丁の逃 亡は総数の二割に達するというが ごとき地方の実状 (山背国愛宕郡 計帳) を国司巡行中に目 撃し. て来た彼は, 災異説を盲信する長屋の王, これを利用する藤原氏に反撒を感じなかっ たであろう か. かくて, 文芸の何たるかに開眼していた彼は, 儀礼的な詩賦に抗して, 実作をもっ て答えた といえよう. かかる環境にあっ て, なおかつ人生に望みを捨てていないのは, 単に子等に対する 愛ばかりでなく, 彼の人生に対する積極的な態 度のいたすところである, ここに 至っ て, 彼が下 向して, 宰府文学に真の 玉英を開花させる培養土は 十分にととのえたといえよう, さらに彼の病床に藤原八束 (総前の子) の使者, 河辺東人の見 舞を受けた時, 彼は, 士やも空しかるべき方代に語りつぐべき名は立てずして. (9.978). と歌っ ている. この制作動機に宇合の西海道節度使任命が関係ありとせを , 彼は最期まで宇合の 行動と作品に注視を怠らなかっ た一証となろう, そこにはたしかに, 卑姓出身の憶良の顕門宇合. の 「奉二西海道節度使-之作」 (懐93) の作に対する反応と反鍛を認め てもよいであろう, かくの ごとく, 旅人と憶良との対応関係のみ を注視して, その棚動, 反鞭をのみ見ていくなら ば, おそらく・ 偏向に堕するおそれなしとしない, それゆえ, 筆者は少しく視 野を広くして, い さ さか考察を進めてみたのであ る, すると, 藻風藻後期の新 詩風を代表する宇合に対する旅人, 憶 良の反応, 反援が認められ, 宇合もまた旅人に対して決して無関心ではなかっ たことがわかる. 注 1 ) 2) 3) 4 ) 5) G) 7). 土岐善麿 旅人の讃酒歌について (国文学研究29年3月号) 佐佐木信綱 評釈万葉集 次田真幸 山上憶良論 (万葉集大成9) 7頁 6~127 7 小島憲之 上代日本文学と中国文学下 12 武田祐吉 増訂万葉集全註釈四 225頁 中西 進 万葉集の比較文学的研究 334~342頁 小島憲之 前掲書下 1322頁. 8 ) 古沢未知男 讐 雛 碧 万葉集の研究. 4 7~5O頁. 9 ) 拙稿 高市黒人の多用語-推量の助動詞を中心にして- 1 0) 土屋文明 旅人と憶良. - 60 一. 1 4・ 9・30) ( ‘.

(17)

参照

関連したドキュメント

以上の基準を仮に想定し得るが︑おそらくこの基準によっても︑小売市場事件は合憲と考えることができよう︒

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

【フリーア】 CIPFA の役割の一つは、地方自治体が従うべきガイダンスをつくるというもの になっております。それもあって、我々、

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので