「公項」について : 清朝地方行政研究のためのノオト(I)
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(2) . 第 12 巻. 昭和3 6年8月. 北海道学芸大学紀要 (第一部B). 第1 号. 「公. 項」. に. つ. い. て. 清朝地方行政研究のためのノオ ト1-. 藤. 岡. 郎. 次. 北海道学芸大学釧路分校史学研究室. ’ ‘Pub l i i J 丁 J工。KA : on ‘ c Expenditures’ rO Ft ’ -A Note on LocaI Ad1ministration in the Ching Dynasty. 目. -. 次. 裏 耕 は し が き 1 . 地丁銭糧=地丁銀. 2 ‐. 私見. の 語義 は. し. が. き. 東華録・続録を通覧すると, そこにしば しば 「公費」 「公用」 「公項」, あるいは弁公之費・弁 公銀・存公銀な どの話が眼にとまる. そのうち公費公用公項の, 東華録・続録に記載されている ものについていえば, 公費よりも公用, 公用よりも公項の語の記載が多く, より正確にいえば公 項の記載の分量が断然多い, しかも三つとも各時期に見られるが, 公費公用の語は乾隆後期以前 に多く, それ以後は少いのに比し, 公項の語は薙正年間から見えはじめて, それ以後は各時期に 万遍なく現われ, 公費公用等の語にとってかわるように思われる, これら公費などの意味について, 『清国行政法』 で調べてみても, ごく 簡単な記事しかなく, し かも後述するようにその理解のしかたには些か混乱撞着が感ぜられる, ところが幸いにわれわれは, これら公費な どの語義や性格について解明せられたいくつかの論 ) 文を持つことができた. 岩見宏 「薙正時代の公費に関する一考察1 」 , 安部健夫 「耗羨提解の研究 ’ 2 3 ) -『確正史』 の一章としてみた- 」 , 宮崎市定 「宿代の沓吏と幕友一特に薙正期を中心として- 」 ) 鈴木中正 「清末の財政と官僚の性格4 」 がそれである. 以上のほか公費に関説 した論稿もあるか と思われるが, 私の接し得たもののうち, 公費についてかなり触れているものについてのみここ に掲げた. さて上記四論文中, 岩見氏のものが公費について, それを真正面からとりあげているのに対し, 安部・宮崎・鈴木ら三氏のものはそれぞれ異った観点に論旨をおいて, いわば側面からこの問題 に触れている, そ して四氏の論文を通じていい得ることは, 公費という問題も結局は清朝ない し は旧中国における官僚の存在形態-督撫から州県官に至る地方官僚の思考や生活の実体, さらに 沓吏をも含む地方行政上の機構全般に衝きあたる重大な問題であるということである. しかし私はいま舷 で官僚機構や地方行政万般 について述 べるわけでもなく, またそこに視点を - 36 -.
(3) . 「公 項」 に つ い て. 据えて 「公費」 を論ずるわけでもない. そのことは安部・宮崎・鈴木ら三氏の論文でかなりいい つくされているように思うからである. この小論は執れかといえば岩見氏のものと同じく, 公費 とく に 「公項」 に視点をおいて, その語義や, 語義の歴史的変化に注意したものであり, 併せて 四氏の論稿でもなお触れておられない箇所で, 私の理解のとどかないところを素朴に提示しよう とした, 従って論文といえるほどのものでなく, 「清朝における地方行政」 というつたない講義 の た め に 用 意 さ れ た 材 料 で あ り,. 研 究 ノ オ トと い う べ き も の で あ る,. 1 5の4, ) 東洋史研究1 2 )3 ) 同 上16の4. 4 ) 『近代中国研究』 第二輯所収,. 1 . 地丁銭糧=地丁銀 よく知られているように, 清朝では康無の末頃から薙正期にかけて, 丁銀の地税への灘徴によ ) 尤も この方法は全国一律に実施をみたわけでな って, いわゆる地丁銭糧=地丁銀が生れた1 . , J く, 例えば山西省では道光年間に至るもなお2 1の州県が未実施という有様であった2 . ところで この 「地丁銭糧」 はいうま でもなく, 塩課・関税・掘輸・雑税 (茶課・薦課・魚課・落地税・契 税) などと共に, 「正項」 とか 「正供」 と か 呼 ば れ る も の で あ る, 「正 規」 の ル ー ト に よ る 財 政 収入なのである. 清朝の財政収入はそのときどきによって, 就中, 道光期のマエとアトでは, 上 記款日中の額徴の多寡には, 大きな変化が見られたとはいうものの, 何といっても地丁銭糧が大 〕 宗 を 占 め て い た 点 で は 変 ら な い3 ,. この地丁銭糧のうち, 直接担税戸から徴収を行う州県に対しては, 徴収額の約二割程度の留支 ) これを該州県の官俸・役食・駅靖夫馬・祭杷・隣膳・孤貧等の項に充て を儲備 し4 , , 残余を該 省の布政使司に送附した, 布政使司では該省で支出すべき諸経費, 即ち官俸役食駅靖夫馬等々の 費用を藩庫=司庫に封儲し, また一部を他省への協解用とするのほかは, 中央戸部へ解送, 戸部 は中央経費としてそれを都庫に貯存した, つまり地丁銭糧は州県一布政使司一戸部へ解送された. このほか帝室の財政を掌る会計司・広儲司が内務府に存したが, 帝室所要の諸経費は主として帝 室所有の自己財産, 例えば荘園などから生ずる所得によって賄われ, 率ね, 地丁銭糧がその方へ ) 廻 る こ と は な か っ た ら しい5 .. では, 一目 ‐司庫や部庫へ収った地丁銀から, 再び州県や司庫へ還流されることがあったかどうか, つまり州県や省において必要な行政費 が不足した場合, 司庫一州県, 部庫→司庫にカネが支出さ れたかどうかであるが, 恐らくタテマエとしてはなかったように思う, 東華録乾隆48年8月 戊成 の上論には (なお以下年月日 のみ記したものはすべて王先議東華録および続録に拠るもの) , 朕臨御之初, 部庫紹銀止有三千万両. 見己積至七千余方両. 前因新江省海塘為民生禅衛. 是 以特発幣項. 将柴・土各塘, 一律改建石工. 今河工関繋民生者更鉱, 荷有稗益. 雑費孫金一 二千万, 亦非所断. 況修建石工数百丈. 所費亦不至一二百万. 叉何所断而不為耶. 但此事究 i見, 実不骨目以為是. 出於朕不得己之創 と見え, 孫項=正項銀 (この中には地丁銀も含むと思われる) から断江海塘の修築のために,.な にがしかの額が支出されるような口吻であるけれ ども, それが 「異例」 の処置であることもわか ) る6 .. 次に司庫からリ 一 一県へ, という場合はどうか, 噌 国行政法』(簿 灘 璽 雲 講)では州県の駅姑 費を説明して, - 37 「.
(4) . 藤. 岡. 次. 郎. 州県類編銀両ヨリ支弁スル モノニシテ … …、州 県 二 余 裕 ナ キ ニ 因 り 額 編 銀 両 ヲ 設 ク ル コ ト能ノ、 サル場合ニハ藩庫 地丁銀内ヨリ損絵シ…… とあり, また虞膳費の説明も駅姑費のそれと同様であ る. これによってみれば, 一旦藩庫に収められた 地丁銀内から州県の需費を賄うこともあるにはあ った. しかし女意から察せられるように, それはタテマ エとしてではなかった. 矢張り 『清国行. 誓灘鞭騨譲雷に 政法 ・ ( 』 額編銀両トハ州県ニ於テ特 定ノ費用ニ対シテ必要アル毎ニ仕払フノ目的ヲ以テ 貯存スル 予 定 額数ノ銀両ニシテ …… 官俸役食鋪兵工食駅姑料価祭杷ノ番燭虞生銀両歳貢坊儀孤貧口糧等ノ キス ヘ キ モ ノ ニ シ テ … … ; 諸 費用 ハ 皆 額 縞 銀 両 ヨ リ 支勃. とあり, ここで列記されている 款目の経費は, もともと州県留 儲の正項銀両から支出さる べきこ と と さ れ て い た,. 要するに, 花戸=担税戸より 徴収せられた銀両は, 州県・省の需費, 一部分の協解を残し, 余 は中央戸部へ送られ, それぞれ一旦納庫した後は, 他の需費に応 ずることはタテマエとしてはな かったのである. ところで私はいま, 州県・省の需費と書いたが, その対象にな るのは官俸役食鋪兵工食な どで あった. そしてこれらを通覧して気のつくこ とは, その殆 どが生活費ないし手当の如き個人を対 象にしたものであり, いわば 「ロヘ入れる」 べき費用と考えられる. 従って本来的意味 での行政, つまり土木とか営繕な どの公共的性格の濃い行政に関わるところ の少い性質をも つ 経 費 で あ っ た.. 1 では私のいう本来的意味での地方行政上必要な経費は何によって 賄われたか. それはタテマエ として 「公費」 によってであった. 従って公費とか公用とか公項とか呼ばれるものの, 清朝地方. 行.財政上に占める位置は重要である, 噌 国行政法』(醇 議 肥 欝 謡)の 「国家ノ経費一 環莞 明したくだりで, 、地丁銀ョリ動用スヘク若シ地丁銀不 足 ナル 其財源ニ至りテモ亦会典ニ規定アリテ例ヘハ某費ノ トキハ本省存公銀内 ヨリ機補スヘシ…… として, 恰も存公銀 - 公項 (公費・公用) が, 地丁銀=正項の補足的なものとして扱われている. しかし, 本来的意味での 地方行政上必要な経費という 観点からいえば, むしろ公費こそ 重要な意 味 を 有 して い た と さ る べ き も の で あ る.. いま岩見氏の前掲論文 に例示されてい る公費支出の費目, つまり 「公事」 とか 「公務」 とかい われたものに必要な経 費の款日は, 義学へ給与する膏火の資, 物故官僚の家族の帰郷費の補助, 逃荒鍛民 への賑済, 橋梁道路の修造, 義塚の置買, 囚人に対する衣服の給与, 城堤の修理, 営房 の楠葺, 街署修 理, 押運, 船工錫鎖への協貼, 奏摺, 戦船修理, 顔料の採弁, 上諭刊行, 緊要な 農田水利, 軍器火薬, 渡船設備, 科場塘報への津貼, 各駅の馬価, 因公差遣の員役の盤費, 兵丁 幅賞, 差操幅賞, 紙張, 役食, 部弁飯食, 各官の養廉, 遠年無著の薦空等々, であった. 以上の 「公 費目中には, 窯正年間耗羨の提解によって支給された勤務地手当とも称す べき養廉があり ( 費」 の使途として 「各官の養廉」 を挙げている張坦麟の奏摺を岩見氏は例示されてい るが, ここ でいう養廉とは単に手当ともいうべきもので, 養廉が一種の制 度として行われるようになった耗 羨提解後のそれを指 しているのでないのかもしれぬ), 書役の工食があり, ま た無著の藤空があ り, これらはいわば 「ロヘ入れる」 べきもの, 或は本来正項銀から支出す べきものな ども多く含 まれてはいるが, 他方私のいう本来的意味 での地方行政に必要な経費-土木営繕に関する 費用も - 38 -.
(5) . 「公 項」 に つ い て か な り 含ま れ て い る.. 註 1 ) 北村敬直 「清代における租税政策」 社会経済史学15の3・4参照. 希入地糧灘徴者. 除巳有八十応州県外, 尚有孟県等二十一州県末経□改, (道光 2 ) 山西省州県, 丁橋銀両り 2年1月甲子上論, なお口の箇所は東華続録の所有本の印刷不鮮明による) , 藤井宏氏によれば, 山西省では光緒年間になってもなお轍徴を完了しないか, 或は全く行わない州県が多 数あったという (平凡社 『世界歴史事典』 「地丁銀」 の項参照) . 未実施の州県が山西者のほかにもあった かどうかについては只いまのところ不明である, 3 ) 加藤繁 「清朝後期の財政に就いてJ(『支部経済史考証』 下所収) , 4 ) 「二割程度の留支」といったのは. ひとまず鈴木氏前掲論文によったが. 安部氏の論文では, 『康照会典』 5庫蔵2銭法廉熊14年題准「銭糧ヲ徴収スルニハ銀七銭三トシ, 銀ノ 戸部1 ・儀ク起解シ銭ノ ・存留ノ用二充ッ」 を引かれ, 「地丁銭糧のいわゆる銀七銭三徴支制が, 少くとも制度としては, このころ (廉無二三十年代 -藤岡) までの間に一おうの安定性を獲得していたことを看取することができよう」 といわれている, 少 くとも制度上では存留分が三割ということになる. 5 ) 『清国行政法』第一巻上第二篇第二章第七節第二款 「内務府」 参照. 但し同治5年には各省の関銀が内務 府へ交進された (『清国行政法』 第五巻第四篇第一章第三節第二款 「戸部ト内務府トノ関係」) 百齢らが 将此項銀両 (准商損輸銀四百万両一藤岡) , 除樽節弁工之外. 尚余銀一百万両, 解交内務府備賞, と奏請したのに対し, 嘉慶帝は, 南河善後工需. 椎商既懇請指輸, 通盤佑計三百万両. ……止其類外多余之数. 男解内務府. 殊可不必. 見在外省支溌款項, 部庫不敷, 毎年尚由内務府,! 発給数十万両, (嘉慶17年8月壬子) と降旨している, また同年同月戊午の上論には, 直省丁隙銭糧. 皆国家儀正之供, 毎歳量入為出. 以給俸飾諸大端, 度支所繋国有. 常経戸部具報月摺. 望無額外支鎗, 此中外共所知者. 且内務歳用所需. 不特従不取之部庫. 歴年以来. 毎将内務余款, 溌給 戸部応用, 不下数十万. 有将及百万者. と見える. これらを綜合して考えると, 内務府から部庫へ支出されたことがあり, また絹輸銀などを内務 府へ解交することも全くなかったわけではないことを推測せしめるが (上記の例では, いうまでもなく絹 輸銀解交を帝は峻拒してはいるが), 女意からして, それも原則としては行うべきことではなかったので あ る,. 6 ・司庫ニ存貯セル生息銀両ヲ以テ修 ) 『清国行政法』第三巻第一篇第七章第五節第四款第二項に 「断江海塘ノ 築スルラ原則トス然レトモ時ニ不足ヲ生スルコ トアリ殊ニ漸江ノ ・歳修費ヲ要スルコト多額ナルニ因り特二 雑税ヲ榔移シテ之ヲ補充スルコトアリ」 と見え, これが事実とすれば, 本筋は司庫存府の生息銀両, 方己 むを得ないときでも雑税の流用を許しただけであった.. 2 ,. 「公」 と 「官」 の語義. 公費の性格について 『清国行政法』 には, 詳細な説明や厳密な規定が見当らないのは, 岩見氏 が前掲論文で既に指摘された通りである. ひとまず 『清国行政法』 の 「公費」 についての説明を 転記して, そこから論を展開しよう. ・養廉銀ノ外, 京外官吏ノ ・均シク毎月若干ノ公費ヲ支給セラル公費ハソノ名 公費 恩俸叉ノ ノ指示セル力如ク公務ヲ執行スルニ要スル費用ニシテ叉之ヲ 弁公費或ハ弁公銀トモ云フ定例 ニ依 レハ宗人府宗人, 大学士, 尚書, 左都御史ノ ・五両, 侍郎, 倉場侍郎, 総管内務府大臣, 内閣大学士, 宗人府府丞ノ ・四両以下各差アリ外官ノ公費二就キテハ会典ソノ他二定額ヲ記載 セサルカ故二之ヲ知ルニ由ナシト難モ京官二比スレハ遥 か 優ナルモノアルヘキ ナリ( 薪. とあり, また同書では,「存公銀」 も 「地丁銀」 と同じく所詮 「国家経費二外ナラス」 ともいい, 「公費ハ養廉銀ノ一種トス」 ともいい, 更に 「養廉銀以外二公費及紅白事例銀ァリ」 (以上いず れも第六巻中より) ともいっているが, もちろんこれだけでは, 余りにも簡単でしかも不得要領 であるばかりでなく, 公費銀両を地丁銀両と一応区別 しながら, 他面で国家経費という概念で統 一 39 -.
(6) . 藤. 岡. 次. 郎. ・…・公費ヲ支給セラル」 と, つま りは養廉銀≠公費とい 括 して説明しており, また 「養廉銀ノ外・ 「 ・ というように いながら, 公費ノ 養廉銀ノ一種トス」 , 養廉銀コ公費と受けとれるような説 明の 仕方を加え, 全体と してかなりの混乱が目立つのである. この不統一はどうして起ったのであろ うか. それは 『清国行政法』 が一人の手によって成ったものではないという理由よりも, 該書の 編述者が当時なお, 「全天下の財政的経費は, 特殊な意味をもつ内廷の経費をのぞけば大別 して 二つに分れる. 『国家』 の公務のために用うべき経費と,『地方』あるいは本地の公務のために用う べき経費とである. 両者は概念的にはっきりと区別される. 」 と, 安部教授によって正しく指摘 さえ ているような認識に到達 し得なかった結果からくるものと思われる. そのことはさて措き, 乾隆7年11月乙丑の上諭には, 我皇考 (窯正帝-藤岡)イ 府允臣工之請. 定耗羨帰公之例. 就該省旧収火耗之数. 帰於藩司, 酌給大小官員養廉 有余則為地方公事之用. ……並非為国用計, 而為此挙也, 且以 、本地之出 産. 供本地用度, 国家並無所取利於其間. 2 前掲 ) と見える1 . 暇遥羨の提解・帰公」 の経緯については, 安部氏の精撤な研究にゆずるが) , 東華録の前段から考えられることは, 先ず提解後の耗羨からは, 第一に, 養廉と地方公事之用が 支出されること, 第二に, 「余有らば」 という話から, いずれかといえば養廉に力点が置かれて いるということである. ところが, 乾隆60年7月 丙寅の上諭では, 「伊等 (督撫-藤岡) 所得養 廉. 原資餅公之用. 」 とあって, こちらの方ではむしろ 「餅公」 の方に力点が置かれている. この ような例はほかにも, 「国家養廉之設. 係為餅公之用,」 (嘉慶16年9月丁丑上諭) というように 数例見られるが, これら乾隆7年と乾隆50年の上論にあらわれた養廉に対するニュアンスの差は, どうしたものであろうか. このことについて薮で纏説する暇はないが, 結論だけをいえば, 「公 用」 が繁多になり, それを賄う費用が次第に不足 してきた情勢, つまり養廉から公用分へより多 く支出しなければならなくなった情勢に見合う乾隆帝の見解の変化であろう, と思う, 嘉慶から 道光にかけて活溌になった, いわゆる 「和廉」 の議はその間の事情の変化を端的に物語るように ) 思 わ れ る3 .. 次に上掲乾隆7年の上論の後段の部分には, 第一に, 提解された来 E羨は, 国用のためのもので ないこと, だから 「国家は並って利を共間に取るところはない」 と強調 している, 第二に, 耗羨 ‐も の だ と い っ て い る そ こ で 前 段 ・ 後 は も と も と 本 地 の 出 産 で あ る か ら, 本 地 で 使 用 す べき , , ,. 段及び乾隆50年の上論を総括して考えらるべきことは, 〔1〕 養廉と地方公事之用とは, 観念としては一応区別されてはいるが, 実体の上でその境界 は は っ き り せ ず. 〔1 1〕. 年を経るに従って, もともと地方官の勤務地手当とも称すべき養廉の, 動 き公への支出部. 分 に 対 す る 「上」 か ら の 要 請 が 強 ま っ て き て い る こ と.. 〔m〕 前記安部氏の指摘の ごとく, 「国家」 つまりは中央の公務と, 「地方」 の公務にそれぞ れ用 ぅ べ き 経 費 は, は っ き り と 区 別 さ れ て 概 念 さ れ て い た と い う こ と で あ る,. 『清国行政法』がさきに述べているような宗人府宗人 や大 このように観てくると, 公費には,( 1 ) )東華録康際2 2 6年8月 丙午に見えるように,経羨堤解前 学士らの京官に支給した僅かの額の公費,{ リからいえば, なにがし H において戸部が裁轍を請うたような意味での公費-つまり直接収取するI 2 1提解後 からのうしろめたさを感じ, 中央からは, よくないことと思われていた耗羨そのもの,( 4 び 補 註 ) )及 養廉と区別がつきがたくなったていでの公費 , この三つが考えられる, この例と圏は実 }の意味での公費のことである. 3 体的には同じものであるが, 葱で私がとくに述べんとする公費はー - 40 -.
(7) . 「公 項」 に つ い て. ところで, さきの乾隆7年の上諭中に見られた 「以本地之出産, 供本地之用度.」 の文意をその ままうけとれば, 原地の利益を尊重した考え方としてとれるが, それを裏返していえば, 「地方 ) で必要な経費は, その地方で賄え5 」 ということであ り, しかも 「適宜」 賄え, という修飾が附 く の で あ る.. 公費の 「公」 の性質も, もともとそのようなものであった. つまり文字通り 「宜に適った」 と ころの適宜ではなく,,「便宜・随意」 的な意味での適宜さによって収取された費用 に, 「公」 費 ) はその財源をもっていたのである6 . 要するに公費の 「公」 とは, 現在われわれが観念するよう 「 な純粋な意味での オオヤケ」 ではなか った. だからこそ公費は, 定額があり正規の手続きを経 て存留せられた正項銀とは, その本質において画然と区別されていたのである. しかしまたそれが 「公」 費である限り, 地方官員の純粋な意味での私家の収入, つまり私経済 ;応費 (日用之費) = 「私」 費と対立すべき意味をもっていた, というより, 少くとも当為とし てはそう 「あるべき」 ものとされていたのである, ただ前述したように入手した経費のうち「私」 ・ 「公」 経済にどのよう に按配するかは, 原則として地方 官員に委されていたと考えられ (もち ろん該地における慣習に規制せられ, また上と下からの圧力もあったと考えられ, 更に提解後は 司庫に於て公費の使途別に款目が定められ, 従ってそれぞれの額も決っていたらしいと思われ , 時代を経るにつれてそれは司庫のみならずり ”県に於ても同様になったと思えるが-後述) いわば 適 宜 で あ っ た と い う こ と で あ る,. 既に確正帝が 「意図」 を持ち, 山西巡撫諾眼の提唱によって具体化をみた 「耗羨提解」 法は , それが全省一律に行われたものでもなく, また実施に当っての細目については 原則として督撫 , の個人的判断に委ねられたのであるか ら, 省によってさま ざまな形態がみられ6 ) 督撫の交代に , よっても方法に変化をきた したことであろうが, これが従来の順習を破ろうとする熱意と意図の 点で一応高く評価してもよいように思う. しかしこの方 法によって地方行政上のさまざまな弊涜 が取り除かれたと考えることはできない. 単なる法令や行政措置によって 長い過程の中で次第 , に慣習的に積み重 ねられて行った地方行政機構上での弊端や, 官僚機構内部での腐敗は 除去さ , るべくもなかったのである. 皇帝とひとりびとりの地方 官との結びつきが強く それをして 「君 , 主独裁制」 というなら, かなり強力であったその 「君主独裁制」 を以てしてもそうであった, 私 は何も耗羨の提解に対する反対派に組するものではないが, 薙正帝によって勇躍 (時には弱々し く見えることもあったが) 断行された耗羨の提解も実際の上では 意図に副う効果を左程あらわ , した こ と は 考 えな い の で あ る.. 「耗羨の提解」 が実施に移されてから約20年を閲した乾隆5年1月乙丑 の上諭で はやくも乾 , す・ っか や め そうし たみのくるLふ や せ ・ら 隆帝は, 「世宗憲皇帝は, ……所有一切順規を悉 り裁禁させ 以て 民困 を経げた 直省の督 , , わが きよか もとからおろ し きまったガ 珍いかっひ く さだめ も ・ころの 耗羨の一項を将て 撫の請う所を備 允し, 旧有 と 額数 に酌定, それで用って各官の 薪水 お為やけにつかう 1 れ. ひ やくだた めいもく さしおきせ これはし り度で もってに上りr こて ヒ たゾ ) ・ ど ・ やその地方の 弁 公 之 需 に 資 せた, 名 は 耗銀を提解るのだ難も 而従前の 私 派 私 収 , , もと . ) ,た‘のかろくむつた. に較べて, 固己, 軽 減 のは数倍だ. 」と, 孝心の篤いロ吻で父の 薙正帝をほめたたえ, 更に じぷん そくいーた きかせ い L ・ ごへみん くるEみ き・ せた 「膜 は 御極 の初 論旨を降して 督撫に 筋 て 重耗や浮徴を して間里に 困 を致班 :いように , , , ナカわ. y l ぜ きんのおもいとお ・ ′. かんど かるく し. たみのよぶくのぜい かんのたtか ー L 至ら ・ かね ・ レ. みん こうひを し 穴 ‘. 令せた. 凡ち, 賦多税重地には, 腰も寛減加て 民 絹 や 官 塾 の款は 悉な存公を動させ , き 含ん やくかたせ ↓ におくる こぎ { ぼく▲ り ) くら と於お ん ぎ ん し上 乾 隆3年にはまた, 解部 べき減半の平余一項を司庫に抑留いて, それで以て荒撤に応用備た」 lいひ とてもおお おおやHにつか~ i と, 自画自賛をも忘れな かったが, つ づいて 「蓋が, 各省も 公 用 が 甚繁 く , しかも耗羨 贋 ヒんど ,. か. は幾無い因ら,. じぶんが白も. 惟. はいるかわ. 下るけし ・ ひ. まかなう二とができな. うには, 所入 は 所出 を. 不. 一 41 「. 敷. し人ぽい. いことを 恐 する」 との懸念も隠し覆.
(8) . 藤. 岡. 次. 郎. ら このこと力 ’. 「遇有応餅賑務. 傷多臨時請撒」 を指す せなかった. しかも更に この上論はつづけて, 「 由此 ( ゼ ) つかうべきと二ろ つめ ぜんぷがぜんぎ し おろ ・ままでもいま どうも 実用 に 帰 ては 末 も必ずしも 尽 く, -藤岡) 類推すると, 則 司庫に所存公項は, Lよごと. じようたい. しだい. むさぼりみだりにしつっ. おお. することが滋くなった. 若し へし きっ ・ がし りゆうよう ・ し ぎまり つく ・方ときにで く いそし 、 きちんと 那移にし, 弊賛が 叢生 て致るであ 早で整頓 し, 法 を立って 開 を防がなければ, 必と出納をヂ ろう. 」 と嘆げいてい るように, もはや内実を バクロせざるを得なかった. 薙正帝及 びそのシンパ の ブ レーンたちの胸 中には, 今まで地方の官員たちが, いささかうしろめたさを感じながら, 自 いないの であろう. ……今各省の 情形 を看ると, 漸 に. 昌. 濫. 分や自分をとりまく 湛大な家族構成を破綻なく存立せしめるための日用費と, 自分の行政管轄内 での公事の用費の ために, 在地の人民からとり立てていた火耗=耗羨を, 「よくないこと」 とし て整理して, 一応司庫に出させ (出し方は省によってさま ざまであったが), あらためて養廉と公 費を地方官に支給し, 更には平余 (耗羨提解によって耗羨に附随して提解したらしいが) ・願規 な どの収取を止めさせ, また地方官の 「ヤミ」 所得 「カクシ」 所得を生み出す私派科す旅の行為を 防止せんとする意図があったのであろう (このことのほかに私見によれば, 帝は提解によって地 方行・財政の画一化を計り, 中央集権化を強めようと努力したのではないだろうかの), そしてゆ くゆくは, 堤解によって公認化・正当化された耗羨すらも廃絶せんとしたのであろう. しかしそ れは理想というより空想であった. 前記乾 隆帝の上論は, そのことを如実に物語る. そしてこの 上諭に示された傾向は, その後ますます激しさを加え, 一方, 耗羨提解による公費の正項化によ って, 一応みだりにそ こに手をつけられなくなった地方官は, 専ら人民への収奪強化の方向に力 を注 ぐことになる. 鈴木氏前掲論女は 「薦空」 に論点をおいて, 嘉慶道光期の官場の弊端を追究 されている. 乞参照. 公費・公用などの 「公」 の意味から入って, だいぶ脇道に外れた, 義でもう一度もとに戻して 「公」 に関連して屡々 史料に散見する 「官」 の意味を考えたい. さきに公費の 「公」 は, 純然た る 「オ オ ヤ ケ」 で も な く, さ り と て 純 粋 な 意 味 で の 「ワ タ ク シ」 で も な い と い っ た, 耗 羨 の 提 解. によって, 耗羨は公 「項」 となり正項化され, かなり 「オオヤケ」 的にはなったが, 決して 「オ オヤケ」 になり切ったわけ ではない. 安部氏の言によれば, それは 「中間項」 であった. ところ で安部氏は 「公」 に対する 「私」 を述 べている 中で, 史料に 「官」 とあるのは 「私」 , つまり官は 州県官個人のことであるといい, 凝羨の 「帰公」 主 い う コ ト バ を用 い て お ら れ る.. 義者に対して 「帰官」 ; 「帰私」 主義者と. こ こ で お こ と わ り し て お か ね ば な ら な い こ と は, 私 は 何 も 安 部 氏. が, 「官」 の 語 は す べ て 「私」 で あ る と 言 っ て い る と, 言 う つ も り は な い, と い う こ と て あ る,. ただ氏によれば乾隆初期の御史超青票の言 「帰官の説をなす 者は謂えらく」 の 「帰官」 を引き 合いに出して, 「官立大学と私立高校-そういった用法に慣れているわれわれ, この場合の帰官 の 『官』 にはとま どいを感ぜざるを得ないが, これは要するに 『州県官個人』 の言いにほかなら ない. 『帰官』 はけつきよく 『帰私』 と一致す べきものであったの である,」(前掲論文) といわ れ, 氏はこの女についてのみ言われたのであろうけれ ども, 葱で 「この女の帰官という語につい て言えば」 というような但し書きがないのは, 私の如き未熟 の も の に は ま ぎ ら わ し い の で あ る. と い う の は 「官」 の 語 が, 純 然 た る 「ワ タ ク シ」 を あ ら わ し て い る と 共 に, 純 然 た る 「オ オ ヤ ケ」 を も あ ら わ す か ら で あ る (こ の 際 の 「オ オ ヤ ケ」 と は 何 か, な どと い う や や こ し い 論 義 は 抜 き に し た い).. たしかに氏も言われるように, 長蔵塩商の積欠について述 べた上諭にも 「毎引加価三文, 以二 女帰官. 一女帰商.」(嘉慶14年7月丁卯」 と見え, 同じ丙寅の条にも 「入官」 の話があり, 乾隆 6年2月乙己の上諭では 「(居官者)……将房産入官.以致資生無策.」とあり, 更に経世女続編には - 42 一.
(9) . 「公 項」 に つ い て. 「民間巳説, 此官不清. 家丁書役. 蕪官之名. 必取数倍, 怨尽帰官.」 (巻21吏政6賀長齢 「整吏 ) と見え, これらにあらわれている 「官」 「入官」 「帰官」 の 「官」 はすべて 帆4 治以清政本札」 県官個人」 を指すものである. そして時に 「帰官」 は, カネを自分のフトコロに入れ る語義のみ ならず, 怨恨まで背負うコトバ として使われている. と こ ろ で 「官」 の 語 に は そ の 他 「オ オ ヤ ケ」 的 な 「公」 と 同 義, ま た 決 し て ま ぎ ら わ し く な く,. いまでいう純粋な意味での 「オオヤケ」 の 「官」 の語義があった, 「叛産入官. 即以充善後公用.」(乾隆18年11月丁卵) とあるのは, どうみても げ 県官個人」 と ワタクシ オオヤケ するのは無理で, 公事のための経費, つまり純然たる 「 私 」 でも 「 公 」で も な い と こ ろ の「公」 を指しているものでもあろう. また, 「茶規錐非正項. 而既経査充公用養廉. 即係官孫.」 (乾隆 14年10月乙卯) と見える茶規は, 茶規≠正項, 茶規=公用・義廉, 公用養廉;官格とされ, 茶規 は 正 項 で な い 官 療 な り と い う 点 か ら, こ の 「官」 は 「オ オ ヤ ケ」 的な意味での 「公」 であろう. 」 (乾隆58年3 また, 「常青, 見在病故. 所有伊名下応交未完官項. 著加恩免其賠撤. 以示乾坤. 1 ‐派民間.」 (嘉慶10年11月 甲子) とか 那動官項. 胆小者亦未免参 月甲辰) とか, 「州県中. 胆大者; にある 「官項」 は, 純然たる 「オオヤケ」 としての正項地丁銭糧・正項銀を指したものであろう, だ か ら 「官」 に も 「私」, カ ッ コ づ き の 「公」, 純 然 た る 「オ オ ヤ ケ」 と し て の 「公」 の 義 な どさ. まざまに使用された. 註. 1 ) 同年10月乙丑の条にも殆ん ど同様な上論が見られるが, その中で ‘「蓋天下之財, 為天下之用. 於国家 室無所私.」 とある. かくいう 「天下」 とは, ここでは 「国家 rと対立した概念になって居り, 国家=中 央, 天下=地方という意と受けとれる, ) の例では, 本地の 「出産」 とか, 天下の 「財」 とかいっているが, これ なお本文の例, 及び上記註 1 1 はもちろん, 嘗てはっきりと, 「木地之羨余, 止応作本地之用度,」 (薙正6年4月壬寅) といっている 「羨余」のことであるのはいうまでもない, 2 ) 「耗羨の提解」 の経緯については安部氏論女にゆずるが, ここで 「提解帰公」 前のありさまについて, 0乙丑の上論に, 要領を得た表現があるので, 次に記す, 乾隆7年1 未帰公以前. 耗羨定制. 有司之賢者, 競競守法. 不敢蹴閑, 不肖者視為応得之項, 尽入私嚢. 一過公. 事, 或強民輪納. 或按畝掴派. 濫取横収, 無所底止, 且州県以上官員. 養廉無出, 於是収受属員之規礼. ,節礼, 以資日用. 而上官下属之間. 時有交際, 州県有所籍ロ, 窓其貧萎, 上官胆絢而不敢過問. 甚至 以醜遣之多寡. 為鋤勝之等差, 吏治民生均受其弊. 3 ) 例えば, 嘉慶19年1月庚午の条に見える, 同興らの奏摺, ただしこの奏摺では, 山東省の軍需に関 して 「和養」 を述べているのだが. 4 ) 鈴木中正氏はその点を, 「中央への会計報告に於いて支出項目として中央が認めない地方的臨時的な支 出は義廉の中から加除充当されるのであるが, 公費支出が節約されれる それ丈は官の私的収入となりうる ものであったと考えられる.」 (前掲論文) と説明されている, 5 ) 地方行政上で必要な経費は, その地方で適宜賄え, という考え方は, 伝統的なものであり,その源流は, 人民の 「役」 にあると思われる. 宮崎市定「宋代州県制度の由来とその特色‐特に術前の変還について一」 0の1 1など参照, 1 5・6世紀中国における賦役労働制の改革」 史学雑誌6 6の2・山根幸夫 「 史林3 なお, 公費も岩見氏によれば, 明代の蕉役に帰著するという (前掲論女) , 6 ) 公費の財源及び来源について岩見氏論文にあらわれたところをまとめると, 1 人民から直接収取するもの 1 . 規礼 (順規) の一部から……例えば塩規の類 2 , 商人に品物を強制的に供出させる類. 2 . に 讃 撰 躍綴ョ……いわゆる私派 人民から間接に収取するもの. 2 . 鈍遺・節礼・寿礼の一部 - 43 一.
(10) . 藤. 岡. 次. 郎. なおこのうち公費の来源の本質的なものは, 火耗=耗羨であるのはいうまでもない. 私の気づいた公費の財源で, 長江一帯の網戸から, 醜魚を貢献 (内務府へか?) せしむべき分の 「折 価」 を, 地方の公用に充てた例がある. 江南長江一帯, 向有貢献鰯魚之例} 至康簾年間停止. 因而地方改為折価. 向網戸徴収.解充地方公用, (乾隆光年3日丙午) また, 犯罪により収公され, これを地方の公用に充てることは屡々あったらしい. 叛産入官, 即以充善後公用. (乾隆18年11月丁卯) . 罰出高姓銀両, 及将布匹買提羊隻余価. 倶属留存公用, 修補域署添買馬匹等項, (乾隆53年2月 壬寅) . 激罰項. 皆留為地方工程公用, (乾隆55年10月乙未). 令其罰獄養廉, 為地方公用 (同上12月己酉) 7 ) 班正年間. 独裁制の確立, 中央集権の強化策が採られたと見るべきで, かの 「書院の官立化」 も, 自由 思想への弾圧, 思想統制による思想の官製による中央集権制確立のための一施策と考えるものである (拙 稿 「清代書院官立化の意義」 史流3) . 補註) 安部健夫氏によれば (前掲論文), 州県官が使い得た一年間の金額は, 大体三千両と踏まれて居り, 1 )応絹,{ それを注輝祖の 「雑出簿」 の歌 欺こ照して,( 2 3 )応贈,( )応費, に分け, 彰鴎の所伝や劉世明の 上奏などに墓いて, その支出の比率をおおむね次のように見ている. 1 ( )応絹……ヅ 4県の費用 (公費)2 / ・ o 2 / { )応贈…‐ ‐規礼などの交際費 0 / o~7 ・ o ・ / / 3 ( )応費……私家日用の質 1 o~2 o ・ ・. 3 .. 「公項」 に対する岩見・安部両氏の見解. 1 ) を主として用いられ 「公費」 を正面 前掲岩見氏論文は, 史料的価値の高い 『薙正殊批諭旨』 , に据えて, それを種々の視点から検討を試みたものである. 即ち, 公費・公用 の語義から両者の 比較をなし, 公用は公事之用の縮めたものなり, ということからして, 「公事」 に言及し, さら に公事と公務の比較検討に進み, その主題に対するア プローチの仕方は級密周倒 である. ついで 氏は前節註6) で示したような公費の財源・来歴に及 び, それは前代の橋役に源流ありとされる. そして最後に火耗の提解によって, いままでの公費は どのような かたちをとるかという問題に焦 点を合わせ, ここではじめて 「公項」 の語義に触れ, いままで公費・公用・公項と並べて来たも ののうち, 公項はその性格において他の二者とは些か異るのだという, 氏の独自の, 且つ正しい 見解が板遜されている. さて, ここで氏の見解のうち, この小論に関係する部分を更めて記述す ることから論を展開しよう. 先ず 「公費」 には, 〔 1 〕 支出すべき多数の対象があったが (第二節に書き並べた), しかし普通 それらは 「00の公費」 とはいわず, 単に 「公費」 とだけ呼んでいた, だがその中には, 「塩項 公費銀両」 な どというように, その財源ないしは使途のはっきり決まっていると思われるような, 2 〕 また公費の語は, 地方官員の中でも, 最上級の督 限定的意味をもつ公費もなくはなかった. 〔 撫をはじめ, 布政使, 按察使, 道員な ど, 一省全体にかかりをもつ, その省の行政上の需費とし て使用されている場合が多かったが, しかしそれはまた, 更に下級の府州県の官員ないしは官街 にかかかわる地方行政上なくてはならない経費の譜としても用いられてい た. 1 次に 「公用」 について. 〔 〕 地方行政上必要な経費という点では, 公費と何ら選ぶところはな 2 〕府以下の比較的下級の官員官街にかかわる場合の用例は ごく僅少であるところか い. しかし〔 らみると (氏は府にかかわる用例一つを挙げるにとどまった) , その語は主として省全体に関わる 行政費として使われ, その点で公用は公費と些か用 法に於て異るところが見られる. た だ し, 公 費 と 公 用 と は, 全 く シ ノ ニ ム と し て 使用 さ れ て い る 例 も あ る と こ ろ か ら す れ ば, 両. 者はもともと同じ意味・性格のコトバと考えて差支えなかろう, という. 岩見氏の表現をそのま 一 44 -.
(11) . 「公 項」 に つ い て ま 借りると, 「公費または公用とは公事または公務を雛理するための費用 である, ということに. なろう, 」 1〕 これも地方の公事あるいは公務を処理するた 次に 「公項」 についての氏の見解は どうか, 〔 2 〕 ただしこれが めに支出されるものであって, 本質的に公費や公用と同じ性格のものである. 〔 公費・公用の語とその使用法に於て異る点が見られ, それはしばしば 「司庫公項」 ・ 「庫貯公項 銀」 ・ 「省属公費」 な どと呼ばれておるように, それはもっぱら上級官員ないしは上級官街にの み関わりをもつコトバとして現われ, 州県などの下級の地方官・官街に 関係したところの地方行 ・と して使用された例は全くない, また〔 政費をあらわす用語 3 〕この語が一般的に用いられたのは, 薙正5年 ごろからと, 一応推定されることからして, その用語の発生に 「歴史的・限定的」 意味 があるといえる. 以上〔 2 3〕から推量して氏は, この用語の生れたのは, 「丁度, 耗羨の提 〕と〔 解がかなり多くの省で行われるようになった時期と一致」 し, これは決 して偶然の一致ではなく, 耗羨が提解せられ, 公費に充てるために布政司庫に貯えられているものが, 主として公項と呼ば れるようになったとされ, その意味で, その 「使用目的からいえば, 公費といい公用というのと 同じであるが, 公項という語の場合は, 司庫に解貯せられた粍羨銀両を, 会計上の地位を主に し て称している趣が強い. そうだとすれば, 耗羨の提解が普及するに伴って, 公項という語が広く 用いられるようになったのは当然のことといわねばならないし, 公項が司庫にのみ関係して現わ れることも納得できるのである (傍点-藤岡), 」 と, ま こ と に 的 を 得 た 解 釈 を ほ どこ さ れ た, 以上氏の公項に関する論点を整理すると, ( 1 )公項は窯正元年における山西巡撫諾蝦の提唱にか かり実施をみ, その後同5年頃から漸次多く の省に普及したところのョ 濡羨の提解帰公に伴って発 生した語である (なお, 提解帰公のさまざまな型については, 安部氏説によると, 「全提型」「多 ) 提型」 「少提型」 の三つあった2 2 )正 「項」 とか難 「項」 などの 「項」 と同じように, ) . 従って{ 会計上の一費目の称呼としての趣が強いのである. だからこそ, 園その用語は省全体の行政上必 要な経費をあらわす語として現われ得ても, 府州県な どの下級官, 官街にかかわる地方行政費を あ ら わ す こ と が で き な か っ た, と い う こ と に な る で あ ろ う. 同 氏 の こ の 論 点 に 関 して は, 安 部 氏. も前掲論女中で全面的に賛意を表され, 更に一歩を進めて, 「ともあれ, 公項とは, 地T銭糧の 火耗, もしくは性質上これに類似する羨余的な財政収入が, 州県その他から布政司庫に提解され, 公費・養廉銀・驚空の穴うめなど, 主として地方的な用途に充てんがために貯えられていた経費 のことであった. より簡明には, 司庫に提解されて公的な性質をもたされたま 毛羨, それこそ公項 であったのである (傍点-藤岡). 」 と述べておられる. 「 以上要するに, 公項」 も亦 「オオヤケ」 的でありながら, しかも純然たる 「オオヤケ」 でも なく, さ り と て 「ワ タ ク シ」 で も な い 点 で, つ ま り は 正 項 ・ 官 項 と は 明 瞭 に 一 線 を 画 す る と い う. 点で, 公費や公用と基本的に同様な性質を有しているのであるけれども, ただ公費や公用の語が, どち らかといえば, 抽象的非歴史的概念であるのに対し (公費公用と難も或る時期には歴史的概 念を現わす語と して発生しはしたのだろうが) , 公項は粍羨提解時に発生したという歴史的限定的 な 概念 で あ っ た, と い え よ う.. かつては多少のう しろめたさを感じながら州県官によって私徴入己されていた耗羨も, やがて は第一次附加税的なものとして公然たる存在となり, さらにこの提解帰公= 「公項」 の成立によ . って, 「上」 が正当化した意味での 「オオヤケ」 的なものになり, またそうなると同時に, それ に対する 「上」 からの規制も強化された (規制が実態的にどれほどの効果をもたらしたかは別と ・・を. かつて つかし こ ・. して), そのことは 「藩司は, 養廉や公項将, 窓意に侵用んでいる. 其れは, 正項銭糧では非いと 一 45 一.
(12) . . 藤 でき. 岡. 次. 郎. め ・. どう. 3年10月乙卯) とあることによっ 謂うことが得ても, 而して之を宥すことが できよう乎」 (乾隆1 ) し か し一 方 公 項 は オ オ ヤ ケ 「的」 な の で あ っ て オ オ ヤ ケ そ の も の で は な く, も と て 言 え よ う3 .. を乱せば何といっても耗羨であった. だから提解後約90年を経ても公項 ;耗羨の名は消えうせな い. 「戸部奏, 査明各省積欠銭糧及耗羨雑税等等款銀両数目」 (嘉慶17年8月戊午) とある耗羨 はまさ しく, 司庫に提解された耗羨, つまり公項 と呼を るべきものであった. 以上いささか脇 道にそれた感がないでもないが, 上記の岩見・安部両氏の, 「公項」 に対して 示された見解に対しては私も全く同感であり, 異議をさしはさむ余地はない. しかしこの 「同感」 には少しく説明が要 るのである, そのことを次節で述べたいと思う. 註 1 ) 宮崎市定 「薙正殊批諭旨解題-その史料的価値-」 東洋史研究14の4で, 同博士は「(雅正殊批諭旨は), 地方政治の実情について甚だ価値ある史料を提供する」 といわれている. 2 ) いま安部氏の論稿中に示された 「全提型」 「多提型」 「少提型」 を以下に図式化して紹介すすと, (非 常に大雑把で氏の言わんとすることを充分表わし得ないことを恐れるのであるが), 1 全提型……一省中の州県の全耗羨の提解 (但し解費分のみは存留) 口 多提型……州県需要の養廉・公費の抑留. 残余は提解, ※福建省の例. 1%--批差解司の盤纏・雑項費 4%--知県の養廉・公用. -1%--知府の養廉. 14%. H県より直接解送. m 少提型……原則として通省の公費のみ提解. 藩司などの上級官の養廉はi ※湖南省の例. 1 存留分 i驚 ‐綱の解費 ( ) て 喜=駕翠餐躍. 二呈露一驚驚謙 { 2 - 提解分 ). □三 豊 麗備 菱=駿宝 一3o 一解司. Tコ 髭響 電解費. ‐%. 2 ) 上からの規正の強化は既に, 乾隆5年の上諭に, 「将地方必需公費, 分断款項. 立定章程. 報部霧明, 桑奏存案,」(同年正月乙丑) とあるように, 実体の上では, 殆んど正項に近い性格を有しいたのである. 4.. 「公 項」 に 対 す る 一 考 察 - 私 見. 公項は, その使用 目的からいえば, 公費・公用などと同じであるが, それは耗羨提解後, 司庫 に解貯せられた公費のみを指し, 従って 「司庫にのみ関係してあらわれる」 コトバ であった. だ 1 からこそ 「公項」 の語は〔 〕薙正年間の耗羨提解前に史料にあらわれることはできなかったし, 〔 2 〕 州県の如き下級官員・官街に関係してあらわれることもなかったのである. このような岩見 ・ 安 部 両 氏 の 見 解 は さ き に の べ た よ う に 正 し い も の で あ る.. し か し 〔2〕 の 点, つ ま り 州 県 に か か. わる地方行政上の経費として, 「公項」 の名称の用いられることが, 稀というのでもなく僅かと いうのでもなく, まさに 「全くなかった」 という点に関しては注釈が必要なの である. 前節末尾 で, 同感には説明が要る, といったのはこの謂である. もちろん, 岩見・安部両氏の研 究は, 主 として 「薙正史」 に限られてい るのであるから, 「その時期・耗羨提解の時期に限る」 と い う な ら, 両氏の見解で一向に差支えないの だが…… - 46 -.
(13) . 「公 項」 に つ い て. 以上かなりもってまわった言い方であったが, 私の言いたいことを一言で申すと, つまりこう である, 「公項」 の語は, 後には州県の行政上必要な経費についても亦, 司庫でのそれと同じ様 に, 使われていたという こと, そしてそれには相応の理由が存したと思われることである. 「公項」 が, 州県官の如き下級地方官に関係して現われている史料で, 私が拾い得たものは, ごく 僅かであ る. しかし, 私が主として使用 した東華録・続録の如きは, 上級地方官の上奏に対 して降された勅旨が 主であるから, 必然的に下級官に関わ る場合の公費に触れることが少く, 従 って公項の名も現われにくいものと思う. だから, 州県官に関して公項の語が現われることの少 いのを見て, 直ちに 「実際にもそうなのだ」 と言い切ることはできず, 少いながらも, 嘉慶以後 ではむしろ公費・公用の語より多く見られる点からすれば, 州県官やその官街に関して, その地 で必要な経費をあらわす語として 公項の語の用いられることが, 一般化したであろうことを推測 せ し め る の であ る,. そのことは措き, 州県官にかかわる地方行政費をあらわす語として 「公項」 が用いられている 例の最初に眼にとまったものは, 嘉慶7年の上諭である, 先ずその例から順次史料を並 べる. 〔史料1〕. そしゆう rそく. よぶんにとりた. かオ tらがき^も. q /かん L 1 jけ. 本 任 している倉庫に有腐れば, 漕糧を 浮 収 てて, それで かって りゆうよう きっと・ ・ を ひそ のなりゆき. 〔 蘇 属 〕 の 州 県 等は, く おをな でき. 二と. つ るい. 以 て 弥 補 う こ と が 可 る と 知 っ て い る, ま た 勢. し,. おおくのへいがい む‘がり “こる ,. こう合くにおおおな 赤 ける. 腐 空. と し て 必 公 頃 将, 私 か に 且 つ 目 に 郷 移. 百 弊 が 叢 生 のは, 皆な此に由る. (嘉慶7年5月 庚寅). を作為.. こ こ で い う 「公 項」 は 蘇 属 の 州 県 に 繁 っ た コ ト バ で あ る こ と は い う ま でも な い.. 〔史料D〕. すで あなう約. L 守夕で ,. し ー のうけんめ ん ・. そのため. しこにおくるべ. 山西の州県の倉庫は, 従前のうち巳に弥補が完全で, 地方官 が 徴 解 き銭糧も, 従 に桂 お力があい しザ メい iたた 止ぴこ どうLて(のころ かつてのへ 欠くことは無かった, (ところが) 何以近来になって 流 弊 が 復 び 滋 り, 叉 薦欠 たので たとえば. で もうーし ・. し ・ま. れい. み. くらいがさがりてんき心. 降 調 を (命 有るうか. 即 , 平魯一県を如にとれば, 見, 初彰齢の 奏 を拠ると, もはやきげん す 南方なお こくもつ かいいれ かね ぜられた) 知県の王敏樹は, 穀 を採買た価五千余両の薦欠け, 交代が己定限が途ぎている 方おあなうめ. か. たずねきいた. まえ. Lきつ. では. のに, 尚完交をし不い. 並に初彰齢が, 訪問 ところ拠, (巡撫の) 成寧が閲辺にやってき よ よう ′ とおりすぎ っかっ こうっうひ やq て, 平魯・左雲な どの県を 経過 たとき, その所用 た 車馬 が稲多かったことに因 る係である. しきっにっか. そこで. し ・ かねをうL力 ・ ーりめぐいな. 是 以 王敏機や降調の左雲県孫耀は,(嚇空はけつきよく成寧の) 湖差 ったため か二つ“て. し た こ と に よ る と 籍 口 い る. (初 彰 齢 の 上 奏 に そ ん な コ ト バ が あ る が, あちこちLきつ. ー かにもとくぺっのことではカ い せいLっ. 膜 が お も う に は). どうLて そのためのひよう. のもので係る, 何 供 億 が, くっ 那用 し, 薦欠を五千余両も至ったのであろうか. (嘉慶14年 繁多 くなり, 地方官が公項を字 10月戊戒) 本省の巡撫が間辺往来す るのは,. そん方に為お. も げんら. .・. 常有之事. 属. あ. 賠 累. じぶん. 沢のうよう. これは, 巡撫成寧の巡視にかかる平魯左雲二県の差務費, 即ち車馬費 (用銭三百三十余千. 需 1月 庚甲の条) の梢多なるため, 該二県の矢 口 用騎馬七十九匹. 駄高二十頭. 大車七両など-14年1 県らが, 何とかかんとか釈明してい ることに対する嘉慶帝の叱責の語である, ここでいう地方官 とは, 具体的には主敏樹らの知県であり, 従って, この 「公項」 は, 下級官員たる州県官にかか わ っ て用 い ら れ て い る こ と は い う ま でも な い,. 〔史料l n〕. しゆうけんかん いままでのあか おたら治. り枠う. みたり たみよりとりたて. ・ 、ん ず くぷ. 籍 に 徴 収 て, それでもって設措を為 つかいこんだ けつきよく わざわい Lわよせ ともする それは 累 は民に 帰 される. 甚しくは, 或 と るなら, 則, 官や吏が 侵蝕 ことに是り, 其 じお次のもうけ . ・ むさば ま やつら 利 を公項に 漁 る, (嘉慶19年9月葵卯) 不肖の 徒 が, 転じて復た之を 籍 にして, 若し 州 県 が 旧 驚 を誓補をすることを 因 に,. - 47 -.
(14) . 藤. 岡. 次. 郎. ここでいう 「不肖之徒」 は, はじめの け村県官」 を指し, 漁利される対象の 「公項」 は州 県官 に か か わ るも の と し て あ ら わ さ れ て い る.. 〔史料I V〕. L ・ もすべてめし ぞくしてし Pうけし. 断江省に. 各. めきうちのすいとうけんさ. I ゅうけんかん だいだいのL. まで. の倉庫は, 道光二年の 清 査 をしてから今至に, 歴 任 1 れぅようLてお方をあげ それ・かねにか‘ たてかえリ 1 )ざんすれ が正雄銭糧や漕南等の米を し, 以金艮作価 ば, (季芝・昌 呉 交 錯 の) 灘 塾. L ら パで. 属. ぜん ず. まこと じんじよう. 査明拠は, 共 で銀二百八十四万六千八百余両である, …… 実 に 事体 のことでは不成. その .と, 近年は銀価が (銭価に対して) 日増 しに貴くなり, また漕費も増 し, 致鷹処 を究べる. お方を市“たところ tら. おたうr } まかた. いろいろことから. ・・. リ博うようナ. 案 により, 掴賠を 敷 い きれ不いために, 公項を郷移致ると そのお方をお畜力 L t -うけんかん こうむにかこつけ いう雌ども, 塾 ・補 うべき厳欠は日一日に甚くなり, 而かも不肖の 州 県 で, 因公籍口て また塘工や兵差のための 各. おうりよう. ポケットにい幻. Lんぽい. 侵呑 して 入 己 る者が少くないのを 恐 する. (道光29年5月 丙午) ) はじめの歴任が州県官を指してい これも断江省における麗欠について述べたものであるが1 , { 一県」 を照らして, ここでいう 「公項」 るのは 「断江省各属倉庫」 から知られ, また末尾の 「不肖ヅ もまた明らかに州県官にかかわる地方行政上の経費をいっていることは間違いない. 〔史料V〕 さき. .・. さいし. 前に徐広精らの奏に拠ると, 南海県では, 〔因公項命案之嫌, 声言罷考〕, (そこでの) 考試を きっぱり や ” に う? 分別と停めることを請ぅてし・る. ……此の 事ま書院の公費 を 護 移 ことに由って (起っ. た). 0武豊元年5月乙末) この女の 〔因公項云々〕 の箇所を私は読みこなし得ないが, 同年3自己卯の条を参照すると, 南海県西湖書院の生徒 (生員) らが, 従来公項の費目に書院助成金 (むしろ藤生に支給する飯糧 ) ) )し ) が あ っ た の を, 知 府 が 停 止 した の で, 生 員 ら が 試 験 (歳 試3 費 の こ と か ?2 ) を ボイ コ ッ ト4 た と い う こ と を 意 味 す る も の ら しい.. と も か く, こ こ で い う 公 項 も 南 海 県 に 関 わ っ て い わ れ て い. る こ と は 明 ら か で あ ろ う.. 〔史料晒〕 わたし. 予 は経費が 既. 馨 り,. しLっナペ省かね まか方えな. 動掴. の. て今とう やりかた. は 無及 い以で, 宜 しく変通な 計 をすべきであるとする. およおくしY走る・ ・ Lら 劉候によれば, 存 留 公項を査べて, そのうちの義倉・賓興・公車・存仁・他藻・義学な ひもく. か. せんぷ. それをつかおう. たL. T .. どの 項 の ごときは, 共 で数万串ある因ら, 即提用 と欲た. 呉林も深く之に賛成 したが 予 , けわん やといへい ふ かね は輿論が不協のを 恐 した. 劉候は萄しくも資が無ければ 勇 は増やすことは可きず, 勇を で. 交ち. で. ・. いって かま す )庁い. 増やすことが可きなければ城を守ることは能きないから, 存留公項と 難 も 異為 ではないか, たし す 〉. ししつすべきもときん. ひもく. た. ぜったい LLつ. と謂う. (しかし) 予 は義倉の 存 本 は, 奏准の 款 に糸っているから, 万 に 動 して LLっ べ ‘ 争うよう り べ は可ない し,′ 旗鱗・義学は孤寡に 恵 す以きもの, 存仁は 〔以埋嬢道?〕 で, 皆な 移用 す可 た. Jたつ. な〈とかりゆる才うで. きでない, 惟 だ賓興・公車の 両 の款は, 尚借支可 きる. 乃 , 賓興の薄本三千匹h百串, 利 子れ やよいへい てあて ナ 五百余串, 公車存本一千三百串, 利一百余串を提して, 以で 勇 の 糧 に済ることを請うた. (「葵丑嘉定紀事」 中国科学院上海歴史研究所謙備委 員会編 『上海小刀会起義史料桑編』p .884 より転引) ’ だいぶ引用が長いが, これは威豊3年 ( 185 3年) のいわゆる 「嘉症農民蜂起5 」 に対してなさ れた, 該地の地主階級の 「防堵始末」 を述べた一節--即ち勇を雇募するための経費の財源に関 して書かれた部分である. 「予」 とは 『奨丑嘉定紀事』 の姓名不詳の作者である. 地主階級であ ることはいうまでもないが, その地位についても不明である. なお劉候とは委員劉郷膏のこと, さてここにいう 「存留公項」 とは勿論 「嘉定県」 にかかわる経費, つまり公費のことである, そ 一 48 -.
(15) . 「公 項」 に つ い て. してこの女でわかるように, 嘉定県では (恐らく他の県もそうであろうと思うのだが) , 公項がそ の支出対象, つまり使途別によって, 幾つかの款目にわかれ, そのうちにも, 軽重の差があった. 従って緊急のばあい以上のように, 「存留公項」 の流用の仕方について, 各人に判断の違いが見 ・ 1 2 1 樋渡・義学・ )義倉は絶対に動支しがたい. ( られたが, 「予」 の判断によれば, 上記款目中,( )賓興・公車は動支するのもやむを得ない, のであった. 「予」 彼 3 存仁も動かすのは難かしい. ( 自身は文面からして些か道学者めいていると私は思うのだが, ともあれここで興味を惹くのは, 義倉の存本が 「奏准」 の款だから, 万が一にも支出することはできないといっている点である, このことは, 州県の公費一公項の中には, その款目 (使途) によって, 「上」 からの規制が強く 働いていたものがあったことを証拠だてるものである. 上掲の例は, その数に於て甚だ僅かであるが, そこから読みとれることは, 第一に, 耗羨提解 のとき, 或はそれから暫らくは 「公項」 の語が, 司庫に解貯された耗羨についてのみ用いられ, 従って督撫藩司などの上級官員にかかわるものとしてのみ現われていたが, 少くとも嘉慶初期か ら後には, 州県などの下級官員にかかわる語と しても現われて来たこと, 第二に, 史料班の例か ら, 州県の公費=公項も使用対象の款目がはっきりしており, 司庫に提解され封貯された耗羨と 同様に, 州県官ないし幕友沓吏 (恐らく実務担当者としての膏吏と思うが) などの手によって帳 簿が作製され, 款目と収支が記入されていたことは間違いあるまい, だからこの 『葵丑嘉定紀事』 では続けて 「賓興存本三千四百串, 利五百余串……」 とか, 「義倉息銭二千四百八十串」 とか言 ) っているのであって, 恐らくこれらの経費は, 「発商生息6 」 などによって利息を生み, 存本と 利息とが並んで記帳されていたのであろう, 第三に, またこの史料からして, 州県官の公費使用 に関する上からの規制が, 強く働いていたことがわかる. このことは一見 「養廉」 の公私混靖的 な性格と矛盾するものと考えられる. つまり耗羨提解に伴う養廉の支給によって, 地方公費はこ の養廉からも支出さ るべきであったが, そのことは上記の如く, 州県に於ける公項も各款に区別 され, 且つ定額 があるやにうかがわれ, しかも 「奏准之款」 と見えるような, 上からの規制が強 い と い う こ と と 矛 盾 す る の で は な い か, と い う こ と で あ る. こ れ に 対 す る 明 確 な 解 釈 を 私 は な し. 1 )公費・公用・公項や養廉は, もともと公私混清的性質を 得ない. ただ一応次の如く推測する.( 「 もつものではあった. 例えを 鉄保久麿外任 ,養廉優厚. 以禄入所余. 還輸公用. 伊前因南河興 1月庚辰)-の一例はそれを示すであろう. 湖. 要工認級養廉銀四万両. 曽准解交河庫,」(嘉慶18年1 しかし耗羨の提 解後, 司庫封貯の耗羨が会計上かなりきちんと規制され, いわばそのような一種 ) 次第に州県に於ける公費についても規制を強め, 款目別の定額化と記帳が の正項化の現象 が? , 行われるようになると, 州県にかかわる公費も 「公項」 と次第に呼ばれるようになった, と思わ 3 ) れる. ( 2 1従ってその中には, はっきりと地方官独自の判断で手をつけ得ない款目があった. L ただしこのことがかならずしも 地方官が公項に手をつけなかったことを証明することにはな ら な い. しかし公費の支出に対する上からの締めつけが強ければ強いほ ど, 地方官は別途に入己の道 を探索する. 嘉慶期以後の官場の弊風には, いろいろの理由が考えられようが, その一つには地 方行政費の正項的性格, つまり上からの規制の強化に見合うものがあり, それを私は, 「公項」 の語の州県に関わって使用されるようになった現象の中に見ようとするのである. 註 1 ) 「層欠」 , とくに清未嘉慶道光期のそれについては, 前掲鈴木氏論文が見事に分析されている, なお薙正 期の 「民欠」 については, 岩見氏に 「薙正年間の民欠について」 (東洋史研究18の3) なる好論あり. ・……地方ニアリテハ府州県ヨリ支給スルモノトス (『清国行政 2 ) 各学震生一定ノ錬糧ヲ受ク……此鏡銀ノ. 法 ) 』 距 離ニ鯖表裏 , - 49 一.
(16) . 藤. 岡. 次. 郎. 3 ) 「歳試は之によりて生員の勤惰を試し, 成績を定め, 科談は之によりて料試に赴く生員の学力を審査検 定する. 前者が後者に比してより義務的なるはいぅ迄もない, (傍点-藤岡)」(荒木敏一 「薙正二年の罷 考事件と田女鏡」 東洋史研究15の4) の傍点の部分を参酌して, 一応歳試とした, 4 )・「罷考」については前註荒木氏諭稿参照せよ. 5 ) 拙稿 「 18 53年 『嘉定農民蜂起』 とその歴史的背景」 北海道学芸大学紀要10の2, .. 6 ) 拠搭永寧奏. 地方官有将公項銀両内, 詳明交商生息. 為書院・義学等経費者. 難事属因公. 易啓官商結 納之所.」(乾隆実録24年3月 辛己の条--南開大学歴史系編 『清実録経済資料輯要』 より転引) によって 知りうる. 7 ) 公費などの正項化は既に正項銭糧の公費への補助として支出する特例の道を開いた, 確正年間に見られ る. (このところ, 阿部氏前掲論文, 東洋史研究16の4の二二五頁, 及び岩見氏はしがき掲論文 東洋史 , 研究15の4の八十頁参照) .. 5 . 公項に関連する若干の疑問 この節では, 公項に関連したこと がらで なお残された不明の点を列記 し 大方の御教示をい , , ただきたいと思うのである. 1. 「公項」 (あるいは公費と してもよい) の名称は 中央の官街の公務を賄う経費の名とし , て も用 い ら れ た の で あ ろ う か ?. 手許の南開大学歴史系編 『清実録経済資料輯要』 の 「国庫収入」 の項を見ると, 道光2 3年3月 庚の上諭を載せ, 諭軍機大臣等. 現在銀庫麿空至九百余方之多. 各街門一切用款, 本多冗費. 若梶照旧領放. l 恐致支糸 i i . 著諭知宗人府・戸部・工部・内務府・三院三山・太常寺・歩軍統領街門・順天府 各堂官. 体察情形. 所有大小工程及支領款. 遇有可裁減者即行裁減. 可節省者即行節省. 総 期実力樽節. 積少成多. 庶於公項有禅. 将此各論令知之, とある. 銀庫はいうまでもなく綾疋庫, 顔料庫と共に, 戸部所属三庫のうちの最も主要な一 庫で ある. そ して各街門, つまり宗人府, 六部, 九寺などの各街門の用 款はこの銀庫の支給にかかる. そこでこの各街門の用費節約は, 「公項」 に歯益する, という、 . 中央戸部にも正項の外に公項が. あったのであろぅか? 『清国行政法』(鱗 灘 瓢 霧 叢) には, 庫の支出を述べて, 「戸部銀庫 ヨリ支出スルモノハ八旗武官員ノ俸飾銀, 在京王大臣外藩蒙古ノ俸項銀, 雑項恩賞, 例給盤費等 ノ款, 賑済軍需, 工部修造工程銀等ヲ以テ其主要ナルモノトス」 とあるが, べつに公費の款目は はっきりとは見えていない, 第二節で掲げた, 京官に対する恩俸・養廉銀の外に支給の公費は, どの費目から出たのであろうか? 「公項」 が存在するとすれば, その財源は何であろうか? 同じ ところで 『清国行政法』 は, 「銀庫ノ ・各省 ヨリ解送スル春秋二擬ノ番丁, 塩課, 関税, 難賦, 臓 罰銀両弁に宝泉局ヨリ解送スル制銭ヲ受領 保管シ」 と述べているが, 地丁銀に附随して解部せら れたと思われる耗羨あるいは平余など (塩課であれば加価分な ど) が, ここでのべられている臓 )などと共に 正項のほかに公項という特別会計をつくっていたのであろうか? このことに 罰銀1 , ついて, いま私の手許にない 『会典』 などに明らかに出ているのであろ うか? また前掲の上諭は 道光2 3年のものであるが, 時代によってさまざま変化をしたのであろうか? なおこれに関連して,『清稗類秒』 には 「孝感徐玉生尚書夫相 嘗誉倉場, 赴任日, 以一棺目随. ) 観者驚詫. 例有規銀数千両. 奏請帰公2 .」 とある. 廉蕪の進士, 孝感人徐天相の廉をのべたもの である. ここでいう倉場とは, 恐らく戸部所属の倉と思 、う. とすれば帰公を奏請したのだから, 康無時代既に戸部にも公費の会計上の地位が存在したと考えられ, しかも規銀の如きを帰公する のに--奏請しなければならなかったとすれば, 公費に対する上からの規制が, 当時から強く働 - 50 一.
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