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小笠原の現状と沖縄: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Title

小笠原の現状と沖縄

Author(s)

組原, 洋

Citation

沖縄大学地域研究所所報(4): 1-11

Issue Date

1991-08-26

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/8722

Rights

沖縄大学地域研究所

(2)

戦後 沖縄 の法 ・交通部 門

小 笠 原 の現 状 と沖 縄

組原 洋 1 去る4月25日、いわゆる 「米軍用地小作人訴訟」の第-蕃判決が那覇地裁沖縄支部で 言い渡された。当日の沖縄 タイムス夕刊は、第-面 と社会面でこの判決のことを大 きく取 り上げているが、社会面の方の見出 しは、- 50年かけた開墾 たった3秒の判決- とな ってお り、言い得て妙である。 私が この事件のことを知 ったのは3月下旬の ことで、沖縄大学地域研究所にこの訴訟の 原告代表の方

2

人がみえて、この事件について応援 してほ しい、ということだった。一応 話を伺 ってどういう事件なのかはおぼろに分かったが、どちら側が防つであろうとか、そ ういったあた りまではとて も判断できなかった。 ともか く記鐘を読んでみてから、という ことでお引きとりねがったのである。 その後、私な りに記録 を読み、後述のように調査 もやって、この事件についての判断は 徐 々に固まっていっている段階であるが、ともか く、 この件で裁判所に行 くのは判決言い 渡 しの当日が初めてであった。 法廷傍聴 していて一番驚いたのは、原告団が原告訴訟代理人 と同じ所に座ることを裁判 所が許さなかったことである。私のような飛び入 りもあ り、記者団も多 く、そもそも原告 の数が116名にものぼるのだそ うで、とても傍聴席 では足 りない。法廷に入 り切れず廊 下にはみ出た人が何名 もいる。 じゃあ、原告訴訟代理人の席につなげて入れるだけ座 らせ ればいいではないか、と私は原告団の世話役みたいな人に言い、その人もそれを裁判所に 求めたところ拒否 されたのであったC どうしてなのか分か らないうち、裁判官が入廷 し、 あっという間に棄却判決が言い渡され、私の印象では逃げるようにして裁判官は奥の扉の 向こうに消えて しまった。 例えば治安関係の事件 なら、こうい うの も分か らないではないO しか し、この事件の原 告団は実におとなしいのである。私は沖縄の軽貨物関係の事件の代理人 をやっているが、 こちらのほうも法廷において礼儀正 しい点は同 じではあるが、公判のたびに、その後マイ クを裁判所のほうに向けて騒 々しい集会を開 き続けて きた。これに比べると、こちらのほ うは、判決後の集会 も裁判所か ら見えないところまで移動 し、マイクもなしで実に静かな ものであった。拍子抜け した くらいである。 しか し、原告団の面々は、悲痛な表情 をしていた。当然であろう。そもそも負けだ、と いう以外に何の説明 もないのである。私は、江戸時代 にでもタイムス リップしたような錯

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覚 を起 こして しまったQ問答無用 とい う感 じである。 2 ところで、このいわゆる 「米軍用地小作人訴訟」 とい うのは土地所有者が誰かによって 2つに分かれている。4月25日に判決が言い渡されたのは、土地所有者が沖粗土地住宅 株式会社の ものであ り、もう1つの、土地所有者が沖縄市であるものについては、去る

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27

日、同裁判所で判決が言い渡 された。

4

月25日に判決が言い渡 されたほ うの事件記鐘を読んでいた私にとって意外だったの は、審理中に最 も攻防が費やされた消滅時効を理由として原告 らが敗訴 したのではなかっ たとい う点である。 この事件 は、戦後、米軍嘉手納弾薬庫 として収用された御殿敷 (沖縄市)、久得 (嘉手 納町)、牧原 (読谷村 )に住み小作をしていた人やその後継者で組織する旧沖縄製糖株式 会社小作人組合 (上江洲由芳会長)が、現在の土地所有者である沖縄土地住宅株式会社を 被告 として、賃借権の確認等 を求める訴訟を提起 していたものだが、問題の土地は、もと もと不毛の ジャングルであったのを、原告 らの先代が開拓農民 として住んで開墾 し、甘煮 等の生産可能な畑 としたのである。 ここで生産された甘煮 を土地所有者である製糖会社に 売 ることが賃貸借契約の条件になってお り、かつ、いずれはこの土地の所有権 自休 も開筆 者に譲渡するという段取 りになっていた。 以上が戦前 までの成 り行 きであるが、戦争末期の1945年初め頃、空襲のため強制疎 開を命 じられた。戦後は、上記のように米軍に接収 されて現在に至っているわけである。 そ して、復帰前 までは米軍が、復帰後は日本政府が土地所有者に対 して賃料を払 ってきた のであるが、もし、原告 らの賃借権が存在するとするなら、当然、その賃料の一部は原告 らに回って くるべきものである。その分は被告の不当利得であるとして、賃借権の確認 と ともに不当利得の返還請求 を したのである。 そ うい うわけで、この訴訟の一番の争点は、原告 らがいまだ賃借権を有 しているかどう か、 とい う点にあった。 これに対 して、裁判所は、賃借権 はすでに消滅 しているとの判断を下 した。その理由と して、戦後 (正式には1959年 (昭和34年)頃)米軍がこの土地を被告から賃借 した ので、被告が この土地を原告 らに使用収益させることは 「将来に向かって確定的に履行不 能 となったといわざるをえない」 (判決の 「事実及び理 由」第三 ・一)と述べているのだ が、この ような主張は、判決を見るかぎりでは、原告側 はもちろん被告側 もしておらず、 原 ・被告双方 にとって意外な判断ではなかったか と思われる。

(4)

3 私が この事件の一件記録 をざっと読んでみて最初に感 じたのは、原告 らの、この土地に 対する並 々ならぬ執念 ともい うべきものである。米軍に接収されているため以前のように は耕作 できないにもかかわ らず、戦後、復帰の前後を問わず一貫 して自らの用益権を主張 し、寓 ・県 ・市 ・土地所有者等 に対 して要望、陳情行動を繰 り返 し続けてきた。戦前、原 告 らの先代は、豊作祈簾のため、御殿敷 ・牧原 ・久得にそれぞれ拝所を設置 し、2月2日 と9月9日の年2回、祭 りを催 し参拝 したが、戦後 もこれを継続 している。実際 もし戦争 さえなければ自分たちの土地 になっていたはずなのである。この土地に対する愛着 もむべ なるかな、と思わせるものがある。 ところが、要望、陳情先が一定 しないことか らもうかがわれるように、戦後の混乱の中 で、民法に定められているの時効の中断手続をやっていない、といって、被告側は、賃借 権は時効で消滅 したと主張 した。被告が、原告 らの訴状 に対する答弁書において、 「被告 の主張」 として真 っ先に主張 したのはこれである。そ して、その後の原 ・被告間の攻防 も この点に多くの時間 と枚数を費や している。 しか し、原告 らの これ までの行動は、どう考えても、 「権利の うえに眠るものは保護に 価 しない」とい う時効制度の適用をため らわせるに十分である。法の無知ゆえにむざむざ と権利を失 うといったようなことを、法を運用するものが許 してよいのだろうか.裁判所 もまた、消滅時効が完成 した、 という理由では弱いと考えたのであろうか、この理由によ って原告 らの請求を棄却することはあえてしなかった。 そのかわ りに出てきたのが.前記の 「履行不能」 という理由なのである。あっけに取 ら れるほかはない. 「肩すか し」とい う以上のものを感 じざるをえない.判決は、 「敗戦 と い う国家の異常事態に伴 って権利ない し地位を失い、あるいは不利益を被 り、 しかもそれ を回復することができないでいるのは、ひとり原告 ら又はその先代にとどまらない」など と述べているが、冗談ではない,と言いたい。 「一億捻俄悔」の時代 じゃあるまい し、こ ういう言い方では到底説得力を持 たない。 一件記録を読んだあと私の うちに残 った気持は、 「勝てる」とか 「勝てない」とかいう ことよ り、 「勝たせたい」 とい うものであった。 これで、 うやむやの うちに負けてしまう ようなことになれば、本当に死者の霊 も浮かばれ まい。 4 ところで、訴状において小笠原の ことが述べ られている。′ト笠原には以前か ら興味を持 っていたので、ともか く現地に行ってみることに した。 以下に、その ときの日記の・一部を掲げる。

(5)

1991年4月1日 今 日は、父島にたつ前の準備で買い物 を した。本は、有吉佐和子の、父島の ことを書い た文庫本が読みたくてさが したのだが、なかった。他 にも民俗学 を含めてみあたらず、ど うも注 目されていないらしい。 まっ、いいん じゃないの。 とにか く、行 ってみないことに は分か りようがない。他に、カメラなどを買った。娘 を沖縄に見送ってか ら全体に疲れが 出て きているようで、だるい。娘が東京にいる間、姉の長男 も一一緒に、東京都西部の五 日 市や奥 多摩を歩 き回った。特 に、五 El市か ら奥に行 くと、 これで東京都なのか、と薫かさ れるよ うな風景になる。 まだ シーズ ンに入 っていないせいで、人 もまば らだった。バスが 2時間に1本 しかないので、暗 くなって寒いなかを、 じっとして待つ よりは、 と歩いた。 道の下 は深 い谷である。 4月3日 2日の朝出航 して、今、父島に着いた。民宿バナナ正 とい うところにいる。港のすぐ近 くで、COOPの斜め向かいである。大変便利で理想的。宿のおばさんが、ヤマ トの顔を していない。 ち ょっとCOOPにいってみた感 じでも、相当変わったところだという感 じ がする.はるばるや って来 た甲斐があ ったとい うものだ。 船が着 くまぎわになって、果 た して宿 を取れるのか と、相当気をもんだ。意外にも、船 は満員状態 なのである。何 と、クジラを見るツアーの人 々が同船 しているのである。竹芝 桟橋 で初めて見かけた時は、別の船 じゃないか と思 った。そ うじゃなく、「緒 とわかった 時は しば らく信 じられなか った。 クジラを見るためにわざわざ小笠原 にまで行 くなんて、 まった く冗談 じゃない。妙 な国だよ。 これが、多分

150

人 ぐらい。若い人が多いようだ が、 ちゃん とした大 人も混 じっている。 たまげた。船内の喫煙場所で年配のおばさんにき いてみ たら、何で もテレビでや ったらしい。それをみ てたら実際にいってみた くなった、 と。 このおばさんは娘 と一緒 で、個人 で来 たのだそ うだが、前にも来たけどその時はクジ ラにあえな くて、 また来 た とい うのだか らいやはや大 したものだ。そ して民宿は、あるの かないのか船内ではわか らないが、 とにか くこんでいるのは確実 ようで、ホテルシップ. つ ま り、小笠原丸に泊 まることに したのだそ うである。最悪の場合でも泊 まるところはあ るとい うことだが、船 じゃあねえ。 船が こんでいたのは、転任 で赴任する家族連れがた くさん乗っていたためでもある。私 の隣 に も高校の先生の家族が陣取 っていて、これか ら着任 だそ うだ。専門が生物なので、 自分で希望 したのだそ うで、 4年はいたい と。立派。それはともか く、何 しろ淳返 りを打 つ ことさえで きないのだ。ち ょっとひどい。単独路線 とい うのはこうい うふ うになる。料 金 も、沖縄 ・本土間の航路 と比べて大分高いように思われ る。 バナナ蒜 は

1泊

5500

円だそ うである。 「そ うすると

、3

泊で1万

6500

円です

(6)

「消費税 もあ りますか らね

「なるほど」とはいったもののびっくりした。消費税、 なんて感 じじゃないもんね,結局1万 7000円也だそ うである。夕御飯の とき 「刺身お いしいで しょう」とおばさんが言ったが、それ よ り私は、骨付 きチキンの汁が絶妙だと思 った。 夜、同室の人 とちょっと散歩 した。街路は非常に清潔。食堂類が多い。今 日ついた郵便 物を早速配達 していたが、ワゴンの後の戸を開いて、青年が2人座 ったまま走 っている。 植物は、沖縄を思わせるものがある。 4月4日 今 日は、最初は、島を回るつ もりでいた。パ ンと弁 当を買ってから、レンタサイクル屋 をさが してい くと、 じきに/jヽ笠原村役場に出た。入 ってみると、まず、人口表が目に入っ た。4月 1日現在で、世帯数1020、人口1980である。 うち、男性が1179人、 女性が80 1人であ り、また、父島が1609人、母島が371人である。短期滞在者 と いうのが何を意味するのかよくわか らないが、これは177人である。村、村議会の役職 者一覧表を見ると、村会議員名の中にセイボレーみ き子 というのがある。 ここで、小笠原復帰関係の資料がないか聞いてみた。そ うしたら、2階の教育委員会に 行 くようにと言われた,局長が会 って くれて、沖縄での 「米軍用地小作人訴訟」事件の概 要を話すと、復帰の当時は村 はなくて、都の直轄 だったこと、村ができたのが1979年 であること等をいい、 (東京都の)支庁に行 ったらいい と言っていたのだが、その うち、 ちょっと待ってくれ と言って、若い人を連れてきた。総務課企画係のS氏である。 最初は、 「小笠原諸島の復帰に伴 う法令の適用の暫定措置等に関する法律」の13条を 示 して、この期限内に届 け出のなかったものについては認めないという方向で対処 したと いっていたのだが、やがて、現在、硫黄島で、期限後になって賃借権等の届け出をした

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名について現在 まさに問題 となっていることを教 えて くれて、それは、村有地だというこ とであるoそ して、村 としては認めたいとい う方向だが、何 しろ証拠がほとんど残ってい なくて申請 しかない状態 なのだそ うである。そ うすると、根拠がないというので問題で、 例えば裁判所で確認判決をもらうとか してくれ (村は負けるからとい う前提で)といった 話をしているのだそ うで、名目も、補償金ではなく、見舞金 ということにな りそ うだとい うことだった。 ところで、都があっせんにかかわった りしたケースの資料集みたいなものがあ り、これ をコピーできるだろうか と聞いてみたら、都か らもらった内部資料なので都に聞いてみな いと、という。そ して、一緒 にいってあげましょうといって くれて、す ぐ電話 して くれた のだが、留守だそ うで、午後1時半に もう一度来 ることになった。お礼を言 うと、わざわ ざ沖縄か らみえたのだか ら、 というOなるほどそ うい う言い方 もあるんだな。

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まだ11時だったので、バナナ蒜の横か ら奥に入 る道の先に石階段があるのでのぼって いってみた。神社があった。ず っとさらにのぼってい くとだんだん見晴 らしがよくなって きた。途中の休憩所に男の人が 1人休んでいて、聞 くと、船に泊 まっているそ うである。 何 と100人 ぐらいも泊 まっているのだそ うで、たまげた。ホエールウオ ッチングは都や 村 も企画に加わ っているのだそ うで、青少年の団体教育 も兼ねているらしいo今 日3時に その船が出るのだそ うだが、クジラが見 られなかった場合は、料金4000円全額を返却 して くれるというのだか らすごい。 この人は、沖縄にもいったそうで,沖縄の海の方がず っといいとい う。実際私 もそ う思 う。 民宿で、朝買った弁当を食べてか ら役場に行 った。す ぐにSさんと、支庁に行ったO何 とい う課だったか忘れたが、 とにか く2人が応対 して くれて、その うち偉い方の人が、小 笠原のケースは沖縄 とは違 うので意味がないみたいなことをしきりに言 う。 しか し、私の 話をさらに聞 き、また、私が持 っていった事件の記鐘に目を通す うち、これは硫黄島のケ ースがぴった りだとい うのである。沖縄の ことも詳 しいようなので聞いてみると、実際に 行 ったのだそ うだ。段 々親切になっていき、硫黄島関係の資料等をたくさんくれた。最初 は、役人の逃げではないか と思 った (実際名刺は くれなかった)が、結果的には可能な限 りの資料 をくれたと思 う。いい人に会えて、実に幸運 だった。今、空港建設が問題になっ ていて、これ も沖縄 と似ている。 民宿に帰 ると

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時だった。 自転車を借 りて、ずっと走 ってみた。コベベ海岸 までいって 戻 って くるのに 1時間半 ちょっとかかった。 夜になって沖縄か ら電話がかかった。娘 と妻が出た。明日は母島に行 くというと、妻は 「母島 もあるの?」 とい うので、兄島、婿島 と挙げてい くと、アハハ と笑いだした。民宿 のおばさんが、電話の後、私の ことをいろいろと聞 き始めた。確か、おばさんのいとこの 娘だったかが沖縄の人 と結婚 していて、沖縄市に住んでいるそ うである。この、沖縄の人 は13歳の時に父島に来て、お父さんは那覇出身の漁師だったそ うだ。バナナ荘の うしろ にセイポ リの表札がかかった家があるので、その ことをきいてみたら、なんと、 「私がセ ポ リです」 ちょっと前、テレビで、セイポ リ一族の子孫がセイポ リ一族発祥の地であるボ ス トンに、親族の集 まりに出席するため行 ったのを追 った ドキュメンタリーがあったが、 それに本当はおばさんも出席 したかったけど、もう齢なのであきらめたこと、小笠原の復 帰 は 1968年 6月 26日であるが、この日はナサ二エル ・セイポ リが父島に来て住み始 めた日であるのだとい う。親は子供が何歳になって も心配 し続けるものだ、といったよう なことをおばさんは何度 もしゃべった。そ ういう心配が現にあるように見えた。私の名刺 を渡 したのでいつか沖縄 に乗 るか もしれない。すでにグアムとサイパ ンは行 ったそうで、 サイパ ンの方が好 きだそ うだo

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4月 5日 目的を初 日でほぼ達 したので、母島にいって くることにした。7時半出航。 10名ちょ っとぐらいで、すいている。昨 日の昼に、神社の上で出会 った人もいた。船は途中、だい ぶん揺れた。 9時 5()分についた,帰 りは2時なので、そんなに時間はない し、私 として は海ではなく、集落が見たかったので、小剣先山とい う港の近 くの山にのぼった。昨日会 った人も含めて

、5

人の人 とのぽったが、ほとんどが老人で、ちょっときつかったようで ある。私はその後1人でお りて、モ ッ トレーの墓を見に行 った。墓地のどこに彼のがある のか、さがすのに時間を くった。墓は他のに比べて貧弱だった。集落は、まとまっていて 小さい。山か ら見ると、一一番 目立つ建物が都営住宅である。これからすると、む しろよそ 者の方が多いかもしれない。 1時前 までには港に戻 って しまった。他の人 も同 じ。車が使 えればかな り見ることができるのだが。 港では、観葉植物や大 きな亀を積み込むのを見た。高校生の男の子が、学校が始 まるの だろう、両親、兄弟たちと別れを告げるさまが深 く印象に残 った。4時 20分に着いた。 くたびれた。夜は早 く藻 た。 4月6日 朝食の後、父島の街を撮 ろうと、カメラをもって出た。そのうち、兄島を見てお きたく なった。ここに空港を作 る予定があ り、それに反対の運動 もあるようで、観光客の間でも 是非をめ ぐっていろいろ話 されている。三 日月山を登 っていくと、道が分かれた。墓の方 にいってみると、兄島は見えなかったが、ナサニエル ・セイポ リの墓が見つかった。こち らはなかなか立派だった。 もとに戻って、ウェザ-ステーションに出ると、鯨が見えた。 それでも兄島は十分見えないので、さらに三 日月山山頂近 くに行 くと、ようや く見えた。 ほとんど山である。こんなところに1800メー トルもの滑走路がつ くれるのだろうか。 相当削 らなければなるまい. 28時間半 というのはべ らぽ一過 ざるが、飛行横でなくても なん とかや りようがあるのではないか。香港マカオ間のモーターボー トみたいなものを、 例えば八丈島 との間に走 らせればいいのではないか。 旅行者 として感 じたのは、ここか ら国境が開けていたらなあということだ。サイパ ンは そんなに速 くない。 9時半頃に民宿に帰 って、おばさんを撮影させてもらった。そして、港に行 った。船は

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時ちょうどに出た。港では、ここの支所か ら転任 する人 々のおわかれ会が盛大に開か れていた。出帆 と同時にハイビスカスの真 っ赤な花輪が次 々に海に落 とされた。そ して、 船が出てからも、モーターボー トがい くつもくっついてきた。執念を感 じた。 船の中では次 々に ビデオが放映 されて、退屈 を感 じなかった。

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4

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日 船は、予定 より1時間早 く午後4時に竹芝桟橋についた。 こ) 父島では、強制退去のあ と、まずセイポ リファミリー ら欧米系の人 々の帰島が認められ たO これを 「在来島民」 とい うのだそ うである。復帰後 「旧島民」の帰島が認められた。 母島はち ょっと遅れて 1973年か ら帰島が認め られた。在来島民 ・旧島民間の権利関係 錯綜 などが予想 されたため、68年6

1日に 「小笠原諸島の復帰に伴 う法令の連用の暫 定措置等に関する法律」が施行 され、父島 ・母島ではこの法律にそって土地問題に対処 し てきて、やっと落ち着いてきたという状況である。 沖縄ではこの種の法律が定め られず、いまだに例えば、今述べているような訴訟をやっ ている段階である。では、上記事件の被告が主張するように小笠原はこの間題を考えるの に参考 にならないのであろうか。 この点については、まさにこの事件 と非常によく似たケースが硫黄島に存在することを 上記の とお り教えてもらったのである。 硫黄島は、周知の ように現在 自衛隊が全島借 り上げ して基地化 しようとしているところ である。 まだ、全島の借 り上げが完了 したわけではない し、米空母 ミッドウェー艦載機の 神奈川県厚木基地での夜間発着訓練

(

NLP)

の半数 を硫黄島に移転する計画について防 衛庁 と在 日米軍 との間で合意ができて、これをめ ぐって色 々問題が起 こったりしている。 一般民間人の帰島もいまだ認め られていない。 硫黄島の土地所有者は民間人 6名 と2法人 (小笠原村 ・国)の8名であるが、これらの うち賃貸 している土地についてはどうなっているのか。 この点について、私が小笠原村役 場で きいたのは次のような話である。 まず、ちゃん と賃借権の存在が土地所有者によって も認められているものについてであ るが、この場合、自衛隊は、土地所有者 との間で賃貸借契約を結ぶ。すると、二重に賃貸 したことになるのだが、賃借人はこれを承諾するという形 を取 り、自衛隊が払 う賃借料は 個 々のケースで異なるが、大

休5

5

で賃貸人 と賃借人 との間で配分 しているらしい、と い うことだった。自衛隊基地は、良かれ悪 しかれ米軍基地以上に永続的に存在 していきそ うな気配であ り、そうなると、今取 り上げている判決の論理で行けば当然 「履行不能」と な り、賃借人はなにももらえないとい うことになるはずなのである。ところが現にこのよ うに配分を受 けている。法的構成については現在考えているところだが、ともか く事実 と して このようなことが行 なわれている。 さらに、暫定措置法の定める期限を過 ぎてから賃借権の申し出をした8名 (その土地所 有者 はいずれ も小笠原村 )に関 しては、上記の とお り、′ト笠原村 としてはこれ らのものの

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権利を認めていこうとい う方向だときいた。 (今述べている沖縄の事件の代表者の 1人か ら聞いたところによると、その後正式に権利を認めたようで、配分は2割 5分 だそ うであ る)。 このケースでは契約書 す らない (敗戦間近に強制退去があったとき、そんなものを 持ち出す余裕 もなか ろう)らしいが、それで も何 とか救済 したいとい う、そ うい う話をき いて心 を打 たれた。 土地に込め られた長い歴史 を無視 して軽引に 「解決」 しても、実は紛糾 を増すだけであ ろう。原告 らは5月 1日、この判決を不服 として控訴 したU 「沖縄の特殊事情」を無視 し た判決だとい う原告側の コメ ン トが新聞に載 っているが、私 も同様に考 えている。 6 父島の喫茶店に兄島の絵葉書が売 っていたので買って きたが、これは兄島の環境破壊を 憂慮 する学者 たちで組織 された会が作 ったもので、沖縄 に帰 ってか ら、その会の清水善和 氏 (駒沢大学 )と連絡 を取 ったところ、多数の資料が送 られてきて、兄島空港建設反対運 動が もう何年か続け られて きたことを知 った。最近は、国際的にもこの間蓮は取 り上げ ら れるようになって きている。 また、先般の村議会議員選挙 では空港建設反対派の候補者が トップで当選 している。か くして、石垣 と同 じような様相 を帯びてきている。 交通 ・運輸政策研究班 で軽貨物の事件 を研究 している うち、 「交通権」 とい う概念 に達 し、軽貨物関係の訴訟の控訴審 でもその主張 を出 した (控訴審判決は、

「交通権」なる ものは (中略 )いまだ生成途上で確定 した概念 ではないのであって、政治的スローガン等 としての有益性はともか く、ある特定の運送事業の様態 を規制する法律が、右事業の利用 者の憲法上の権利 を害 するとして、 これを違憲 な らしめ るような権利性 を有するものであ るとは到底認め られない」 と述べている。詳細については、拙稿 「交通権の担い手の法的 諸形態

(「交通権」第9号・1991年4月)を参照 されたい)。その場合、交通権 と 環境権 とは別に対立 することもなか ったのだが、空港建設の問題になると両者 は一見する と対極の関係にな り、二者択一-の関係に立つかの よ うに も見えな くはない。現在 、両者の 関係調整の問題 について研究中である。 (1991・7・7 脱稿 )

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参考資料 2小 笠 原 総 第 166 9号 平 成 3年 2月 2 7 日 平 成2年 度 硫 黄 島 村 有 地 土 地 兵 貸 借 料 に 係 る 特 別 莫 倍 権 未 申 話 者 に対 す る 配 分 金 処 理 要 約 (日 的 ) 第 1条 こ の 要 解 は , 硫 来 島 に お いて 東 京 防 衛 施 設 局 に 貸 付 け を して い る村 有 地 に対 し支 払 わ れ る 土 地 宋 貸 借 料 の 、 当 富 村 有 地 に 係 る特 別 真 備 権 未 申話 者 に対 す る 配 分 に 関 し、 必 要 な 事 項 を定 め る こ と を 目的 とす る. く定 義 ) 第 2条 こ の 要 約 に お い て r土 地 莫 貸 借 料 J と は . 硫 黄 島 に所 在 す る 村 有 地 に つ い て 、 村 と東 京 防 衛 施 設 局 との 間 に 掩 捨 した土 地 隻 貸 借 契 約 に基 づ く土 地 箕 貸借 料 を い う. 2 こ の 更 新 に お い て r特 別 臭 債 権 未 申辞 者J と は . 小 笠 原 諸 島 の 復 婦 に 伴 う 法 令 の 適 用 の暫 定 措 置 等 に 防 す る法 律 (昭 和 4 3年 法 律 第 8 3号 ) 第 13集 に基 づ く特 別 賃 借 権 申 出 の 権 利 を有 して いーた 者 の う ち . 賃 借 の 申 出 を しな か っ た 音 叉 は 申 出 先 を誤 っ た た め に特 別 賃 借 権 が成 立 しな か っ た者 を い う. (両 分 対 轟 音 ) 車 3集 土 地 莫 貸 借 料 の節 分 対 象 者 Z・!, 東 京 防 衛 施 設 局 と の 土 地 貴 貸 借 契 約 の 対 会 村 有 地 に係 る 特 別 共 債 権 未 申 話 者 と し. 別 表 lの と お り と す る , (配 分 都 合 ) 第 4粂 特 別 賃 借 権 未 申話 者 に 対 す る配 分 金 の割 合 は, 土 地 莫 貸 借 料 の 金 宙 の 10分 の2. 5と す る.

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(配 分 都 合 の加 箕 ) 第 5粂 配 分 対 貴 著 の う ち、 申 出 先 を誤 っ た た め に 特 別 裳 借 梅 が 成 立 しな か っ た と明 ら か に 諌 め られ る者 に つ い て は 、 そ の 事 席 を 対 敵 しI 前 条 の 配 分 割 合 に 更 に 10分 の 2. 5の 割 合 を加 算 す る も の と す る . 2 前 項 の 親 定 に 基 づ く配 分 割 合 の 加 算 対 象 者 は 、 別 表 2の と お りと す る . (配 分 金 額 ) 第 6条 配 分 金 額 は 、 権 利 申 出 面 額 に対 応 す る 土 地 異 貸 借 料 の 金 額 に 配 分 封 合 を乗 じ て 得 た 金 額 と し、 1円 未 満 の 端 数 が 生 じ た 場 合 に は こ れ を 切 り捨 て る も の とす る . (配 分 金 額 の通 知 ) 第 7条 村 長 は, 東 京 防 衛 施 設 局 か ら土 地 袋 貸 借 料 の 決 定 を 受 け た と き は. す み や か に 配 分 金 萩 を決 定 し, 配 分 金 決 定 通 知 書 (様 式 第 1 号 ) に よ り、 各 配 分 対 象 者 に通 知 す る も の とす る . (樫 分 金 の 交 付 ) 第 8条 村 長 は、 東 京 防 衛 施 設 局 か ら土 地 貴 貸 借 料 の 支 払 い を 受 け た と き は, す み や か に 各 配 分 対 象 者 に 配 分 金 額 を支 払 う も の と す る.

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