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地域国際化と親族ネットワーク: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Author(s)

組原, 洋

Citation

沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL

OF LAW & ECONOMICS(20): 19-45

Issue Date

2013-09-30

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/11261

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まえがき  筆者は、2008年にハワイ及び南米・ロサンジェルスを旅行し、海外在住の沖縄県系人(ウチナー ンチュ)と会った(文献(1)参照)。  南米に行ったのは、ブラジルのサンパウロとアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれた沖縄 移民100年記念集会に出席するのが主目的だった。その際に、サンパウロでたまたまクリチバ沖 縄県人会の人たちと宿泊が一緒になったことがきっかけで、翌2009年、クリチバを訪問した(文 献(2)参照)。  こうして、海外の沖縄県系人を訪ねるようになってから、その活動を筆者が担当している地 域国際化論Ⅰの講義の中でも紹介するようになったのだが、訪問が度重なるにつれ、沖縄県系人 の活動が門中と呼ばれる沖縄の親族制度と密接な関連を有することにだんだん気づくようになっ た。  そこで本稿では、地域国際化が進む中で親族制度が果たしている役割について、現場で見聞し ながら考えたことから出発して、それが今後の地域国際化にどのような意味を持つかについて、 筆者の考えをできるだけ簡潔にまとめてみた。詳細は、いずれ別の場で報告したいと考えている。  訪問した際にご協力いただいた方々にここで謝意を表したい。 [1]「広く浅い」親戚関係  筆者は、2010年12月19日から31日まで、クリチバにまた行った。  この時は、筆者の娘の慎子は筆者より先にクリチバに行って、主に沖縄県人会の調査をしてい た。娘は知人宅をはしごして泊まって、ホテルにはまだ1回も泊まっていなかった。  筆者も、最初の2晩は娘と一緒にマツダノブテルさん・ルジーアさん夫妻宅に泊めてもらい、 その後は、WiFiでインターネットを使用する必要があって日系のホテルに泊まった。  ちょうどクリスマスシーズンで、ルジーアさんとファベーラに行って、そこにある、クリチバ 市長直属の社会福祉財団(FAS)が関係している施設で行われたクリスマスパーティに出たり 【研究ノート】 専 門 分 野:地域国際化論 キーワード:沖縄県系人(ウチナーンチュ) 親族ネットワーク 公と私の結合 Kinship Networks in Globalized Community

組 原   洋*

Hiroshi KUMIHARA

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した。  滞在中、ウチナーンチュの話をきいたのだが、本稿との関係では23日から26日まで、当時クリ チバの沖縄県人会長を務めていたマツオマリアさんの実家があるマリンガを訪問したときのこと が特に記憶に残っているので、この時のことに絞って具体的に述べる。  マリンガは、クリチバから432キロで、車で5~6時間ぐらいである。人口30万人余りで、兵 庫県加古川市と姉妹都市になっている。  マリアさんの長兄(弁護士)によると、彼はブラジルに来て最初の何年かコーヒーや綿の農場 で働いたあと、サンパウロ州のプレジデンチ・プルデンチで30エーカーの土地を買った。主に綿、 ハッカをつくったそうである。その後50エーカー新たに購入した。1953年パラー州に移動して、 コーヒー農園を経営し、1958年に2世と結婚。1977年から南マットグロッソで牧場を経営。1990 年にマリンガに住み始めた。マリンガに住んでいるのは、町なので便利だからとのことだ。  マリンガの日系人会をアセーマ(ACEMA Associacao Cultural e Esportiva de Maringa)と 言っているが、設備はおそらくブラジル1だろうといわれている。マリンガは、沖縄県系人は30 家族前後で多くない。だから沖縄県系人だけで何かやるということはできない。  24日のクリスマスイブは、夜8時半頃マリアさん夫妻とシャカラ(別荘)に行く。別荘と いっても町中にあり、マリンガの中心部から車で15分ぐらいで行ける。入り口にはCHACARA GUINOZAと書かれていた。ギノザ(宜野座)というのがマリアさんの旧姓である。シャカラは 敷地が広く、建物も大きく、奥の方には管理人が住んでいる建物も別に建っていた。  このシャカラは、マリアさんのお父さんが亡くなったあと、10年前にお母さんが亡くなった時 に、きょうだいみんなで買って、みんなが集まる場所として使ってきたという。  われわれがシャカラに着いたときにはもうたくさんの人が来ていた。全部で60人ぐらい集まっ た。  着いてしばらくして、マリアさんの4番目のお兄さんが司会する形でクリスマスイブのパー ティが始まった。マリアさんの長兄が短い挨拶をして、それからわれわれも紹介された。あとは、 持ち寄りの食べ物をみんなで食べた。日本料理とブラジル料理のチャンポンであるが、刺身が最 初になくなった。マリンガは内陸だから、解凍したものだろうが、非常においしかった。それか ら、やっぱり皆さん肉をたくさん食べるという点が日本とは非常に違う。女性でも、ものすごい 量の肉を食べている。3種類ぐらいの肉を焼いていて、どれもおいしかった。  料理を食べ終わってからデザートになった。果物とババロア風のお菓子。われわれのところに、 マリアさんの上のお姉さんがお餅を持ってきてくれた。沖縄式に作ったお餅なのだそうである。 これもおいしかった。上のお姉さんは、マリンガの近くのロンドリーナに住んでいて、夫のトウ ヤマさんと一緒に来ていた。トウヤマさんは、娘の研究テーマに興味を持った様子で、カナダの 沖縄県人会をみたらいいよ、という話をしていた。  12時になるとともに、みんなでクリスマスの歌を歌ってハグし合った。ちょうど日本の年明け の感じで、気持ちがこもっていた。  それからサンタがやってきて、舞台で子どもたちに順にプレゼントを渡していった。渡す前に サンタは子どもを1人ずつ隣のいすに座らせて、話しかけるのである。子どもたちは茶目っ気たっ ぷりで、サンタのズボンを引きずりおろそうとしたりみんな大騒ぎだった。最後の方で、自分の

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子どもが怖がるので、サンタがお面を取って、お父さんだよ、と言ったのにはみんな爆笑だった。 サンタはマリアさんの長兄の娘の婿で、日系人ではない。翌日、本人からきいたところではウク ライナ系のユダヤ人だそうで、仕事は弁護士だそうだ。別にはずされているというのではないが、 食べているときも1人でぽつんと座っていて、でもまあ、マイペースで、こんなものなんでしょ うね。  マリアさんの長兄の長男も日系ではない人と結婚していて、奥さんと2人でやって来ていた。 3世になるともうみんな日系でない人を選ぶようになるんだなあということを感じさせた。午前 2時頃お開きになった。  25日(土曜日)は、12時過ぎにマリアさん夫妻とシャカラに行った。前夜は暗くてよく見えなかっ たのだが、シャカラには大きなサッカー場まであって、まったく立派なものだった。以前は隣の 区画もあわせて持っていたそうで、今は半分になったのだそうだが、それでも本当に大きかった。  食事が終わる頃に、ギノザ兄弟たちがつくっているサッカーチームを紹介したテレビ番組の録 画ビデオをみた。  マリアさんの甥の1人にシャカラの所有関係についてきいてみたら、正確には男の兄弟5人で 共同ということらしい。10人きょうだいのうち、男5人、女5人で、男は1人、女は2人すでに 亡くなっていて、男兄弟は4人しか残っていないのだが、すでに亡くなった1人は相続人の男子 が加わって5人ということではなかろうかと推測した。  昼食後、シャカラの近くにある和順会の老人福祉施設見学に行った。浄土宗の佐々木陽明氏(淑 徳大学客員教授)が会長で、寄付で成り立っている。案内してくれた若い人は2世だが、日本語 は上手だった。日本に8年間行っていたそうだ。両親は1世で、お父さんは福井県出身の坊さん だったが、亡くなって、息子の彼が坊さんになる修行中である。お母さんは老人福祉施設の受付 にいた。  入所者は現在30人ぐらい。入所は無料である。基本的に、身寄りがなくお金もない人が入って いる。家族がいなくなったというより、もともと結婚しないで独身の人とかが多いようである。 しかし、例えばキャン(喜屋武)という沖縄の姓の男性1人と女性2人が入所していて、3人は きょうだいだそうだった。デカセギに行く間みる人がいなくて入所するというケースもあったそ うだが、最近は日本が不景気でデカセギもブラジルに帰ってきていることから、入所者も減って、 そういう意味ではよかった、という。今の倍ぐらいの収容能力があるとのことだった。  25日夜は、シャカラからマリアさんたちが泊めてもらっている下のお姉さん宅に行って、12時 まで雑談した。心理学を専攻した人で、その関係の仕事をしていたらしいが、相手がみんな心を 病んだ人なわけで、それがいやだからというので今はマリンガで子どもの服の店を経営している。 しかし、商売している人には全然見えなかった。ずっと独身で、結婚には興味がないらしい。日 本の踊りが趣味で、日本語もよくしゃべれたし、1年間東京でも働いたらしい。男の兄弟たちと は全然タイプが違っていた。  ロンドリーナに住んでいるマリアさんの上のお姉さん夫妻もここに泊まっていたそうで、姉妹 の交流もしっかり続いているようである。  家族が一緒になるという意味での家族主義の強さは非常に感じさせられた。そして、シャカラ というのが、沖縄の位牌のあるところやお墓と同じような機能を果たしているのも感じられた。

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その中で、沖縄の家族主義というのは、ある意味で、案外ブラジルと適合的かなとも思ったりした。  エマニュエル=トッドの分類(文献(3)参照)によれば、ラテン系家族は「平等主義核家族」 という分類になり、親子関係は自由主義的で成人後は同居しないが、兄弟間は平等主義的である。  その後、マリアさんたちきょうだいは2012年の11月下旬に10人ぐらいで日本を訪問し、そのと き沖縄にもやってきて、沖縄の金武町に住んでいる親戚訪問を果たした。  2012年3月に、筆者はメキシコ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラを 旅行した。  このうち、3月9日から14日までメキシコに滞在した時は、やはり娘と一緒だった。  出発前からコンタクトを取っていたのは、ウチナー民間大使の大城悟さんである。インターネッ トでメールアドレスが分かったので、娘がコンタクトをとったところ、返事がもらえた。大城さ んからは、メキシコ沖縄県人会のことに詳しい人として古波蔵久美子さんという女性を紹介して もらっていた。  大城さんがメキシコ観光という旅行社の社長であることは、メキシコに来てから分かった。そ して、仕事が大変忙しい人らしく、日程調整した結果、3月13日の昼に会った。  大城さんから紹介してもらった古波蔵さんとは、着いた翌日の10日が土曜日で、琉球國祭り太 鼓の練習があるとのことで、同日午後、メキシコシティ中心部からちょっと南方のビジャ・デ・ コルテスというメトロの駅で会った。古波蔵さんの車でちょっと走って、まずペレス=ナカンダ カラ=エリアス沖縄県人会長が待っているところまで連れていかれた。  その後、会長の奥さんと娘さん2人と一緒に車で琉球國祭り太鼓の練習場所に向かった。練習 は、かなり郊外の方にある古波蔵さんの会社であるタイヤ販売会社の裏庭で行われていた。  我々が着いたとき、すでに20人ぐらい若い人が集まって太鼓の練習を始めていた。それをしば らく見学していたら、雨が降り出し、やがて雹が降ってきた。本当に氷の固まりが降ってきたの にはビックリした。気温が急に下がった。  太鼓は上手だった。指導していた女性は太極拳の先生だそうだ。  練習をだいぶん見学してから、タイヤ販売会社の事務所内でエリアスさんと話すうち、山入端 民子さんというおばさんが来て話してくれた。山入端さんの長男の文博氏が前の沖縄県人会長で ある。われわれは、琉球新報社編「世界のウチナーンチュ 2」(文献4)に収録されているメ キシコ関係の部分の部分(屋良朝男記者取材)をコピーして持ってきていて、それを見ながら、 その後の30年近くの推移を色々きいた。  通訳としてだと思うが、この場に、佐久本義生さんという人も来ていて、彼はメキシコシティ の大学院で人類学を専攻していて、日本語の先生もしているらしいが、娘と小・中学校は同じで、 自宅も筆者宅のすぐそばというので、これにはまったくまったくビックリしてしまった。世界は 狭い。  練習の後、和食店に集まって食事した。20名ぐらい集まって盛会だった。  その後、エリアス氏が非常に親切で、会計事務所の仕事の合間に自分でメキシコシティを案内 したいということなので、当初オアハカに行く予定にしていたのを取りやめて、メキシコシティ 周辺をあちこち案内してもらった。これは全く予想外で、会ったばかりなのに、筆者の娘がウチ

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ナーンチュというだけでこんなに親切にしてくれるものなのかとビックリした。  エリアスさんは、お母さんや末の妹さんにも会わせてくれて、いろいろ話をきくことができた。 面白い内容だったので、ちゃんと記録に残したらどうですか、と言ったら、佐久本さんがお母さ んから聞き取りした記録がすでにあるらしい。  13日(火曜日)に、予定通り大城さんを訪ねた。約束のちょうど正午に会社に着いて、階段を のぼっていたら後ろから来た人が大城さんだった。濃い眉をみて、あっ、沖縄の顔だなと思った。  久米島出身で1968年生まれだそうである。琉球大学が首里にあった頃に夜間部を出た。法経学 部だそうで、以前琉球大学にそういう学部があったとは知らなかった。最初はJICAで働いていて、 アルゼンチンにいたとのことだ。その後メキシコに来た。  冊子をくれた。メキシコでは2004年に移民100年だったが、その後2009年に日墨交流400年の記 念の年に開かれた行事にあわせて作られたもので、大城さんが編集し、沖縄県庁勤務のお兄さん とも協力し合ってできた冊子のようである。  大城さんはビジネスマン風の人ではないかと予想していたのだが、会って話をし始めたら、最 初から本音で話してくれているのが分かった。形だけのウチナー民間大使というのでもない。  大城さんは、若い人が教育を受ける機会を作り、無理してでも人材を絶やさないことが必要と いう。日本メキシコ学院という完全に文科省基準に沿った学校があるそうだ。これは、筆者がか つて南アフリカで見た日本人学校と同じようなものと思われる。  これと比較すると、エリアス会長などは、気持ちの上ではウチナーンチュ精神継承の意欲が非 常に旺盛であるが、奥さんは日系の人ではないし、日本語はほとんどしゃべれない。佐久本さん から日本語を教えてもらっているようだが、家庭では日本語を使っていないのでちゃんとものに するのはなかなか難しいだろう。  大城さんは観光業ということもあり、中立の立場を守りたい気持ちがある、とのことだったが、 それだけでなく、県人会で何をやるのが意味があることかについて、エリアスさんなどとはかな り意見の違いがあるようだ。  メキシコにも、ラテンアメリカ全体に共通する家族主義があり、家族の団結が強固である。こ の団結は大城さんに言わせれば他人を信用できないことから生まれている。とすれば、家族の団 結を基調に県人会活動を展開すればネットワークは閉じていく方向になりはしないだろうか。そ うなれば、家族の団結ということはソーシャルキャピタル(社会関係資本)という見地からはむ しろマイナスの意味を持つ可能性もある。  これはラテンアメリカの国々が今に至るまで安定的な社会基盤をつくりきれないことともつな がる。この点、ブラジルは下層階級の教育も保障し、国民国家的な基盤を整備する方向に動いて いる。メキシコはそういう点では後れをとっている感じがする。  メキシコにおける政治的なごたごたは今に至るまで続いている。この年7月の選挙で制度的革 命党が再び勝ちそうな情勢といわれていた。  また、経済的な話題として、自動車メーカーのマツダがこれからメキシコに工場をつくるとい うニュースは筆者も出発前にNHKテレビのニュースで知った。帰国してから、朝日新聞に「日 本車工場 メキシコ志向」という記事が載った(文献(5))。この記事では、ホンダが「フィッ ト」生産のために新工場をグアナファト州に建設するとあるが、マツダについても、同州サラマ

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ンカ市に新工場をつくる予定だとのことある。  14日(水曜日)の朝の3時半にエリアス会長が来て、空港まで送ってくれた。全く信じられな いぐらいに親切である。空港に着いたら、最後に何かお願いするのでもなく、握手してさっと行っ てしまった。鮮やかである。  ところで、このエリアス氏が、筆者の友人である野里寿子さんと親戚になることが、最後の段 階になって分かった。娘がエリアス氏にブラジルでウチナーンチュの調査をしているという話を したところ、彼もブラジルに移り住んだ弟に会いに行くといい、弟の奥さんの実家の苗字や、最 近、彼らが沖縄料理屋を出したことを教えてくれた。その内容が、以前野里さんから教えてもらっ た沖縄の新聞に記事と一致していたため、エリアス氏が野里さんの親戚と親戚であることが判明 したわけである。エリアス氏もこのことを知って非常に驚いていた。  血縁関係だけでなく、友人関係なども、つなげられれば積極的につなげてネットワークを広げ ていこうとしていることを実感した。  筆者はメキシコに行く前に與那覇潤「中国化する日本」(文献(6))を読んだ。  同氏のいわゆる「中国化」とは、1000年前の宋朝に始まった「中国独自の近代化」のことである。  宋朝で起きたのは、政治の集権化と経済の自由化の同時進行だとされる。  政治面では科挙による官僚登用の全面化で貴族制度を全廃し、皇帝が権力を独占し、皇帝は王 権を儒教思想で正当化し、権力と権威を一致させた。  経済面では、自給自足的な農村共同体をモデルとした秩序が解体に向かい、農民にまで貨幣使 用を行き渡らせ、市場で自由競争させる。  人間関係は、近くて深いコミュニティよりも宗族という父系血縁集団に代表される広くて浅い 個人的なコネクションが重視された。  このような特徴を裏返しにすると、日本文明の形になると与那覇氏は言う。  政治的にはまず、日本の歴史上の政権は、権威者と権力者は別の人物だった。名目上のトップ と実権が分かれているのは今でもよくある。政治とは有力者間での利益分配であり、統治体制の 外部にまで訴えかけるような高邁な理念やイデオロギーの出番はあまりない。そして、能力があ るからといって権力や富が得られるとは限らない。  経済的には、前近代には世襲の農業世帯が支える地域社会の結束力が非常に強かった。今でも 規制緩和や自由競争による社会の流動化は地方の疲弊として批判される。  人間関係は、ある時点で同じ「イエ」に所属していることが他地域に残してきた実家や親戚よ りも優先され、同様に、ある会社の会社員であるという意識が、他者における同業者とのつなが りよりも優先する。  以上のような説明の中で、人間関係の面で、中国の宗族という父系血縁集団が「広くて浅い個 人的なコネクション」の1つとされているところが筆者にはとりわけ興味深かった。というのは、 華僑のネットワークが世界中に広がっていることからしても宗族というのが「広い」ことはよく 知られているが、それが同時に「浅い」という認識はなかった。改めて考えてみれば、日本の「イ エ」と比較して「浅い」ことは明瞭である。  このような宗族と沖縄の父系血縁集団である門中とは類似した面が多い。韓国にも同名の門中

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があり、やはり類似した面が多い。韓国や沖縄の門中は中国の影響のもとにできた制度なので、 類似面が多いのは当然であるが、それぞれの社会の実情に応じて変容してきたと考えられよう。  トッドの分類では、中国の宗族は「共同体家族」と分類され、親子関係は権威主義的で子ども の成人後の親子同居もあるとともに兄弟間は平等主義的である。条件が許せば非常に大きな親族 集団が見える形で同居することもある。  これに対して日本の同族は「直系家族」と分類され、親子関係は権威主義的であり、兄弟関係 は不平等である。韓国の家族も直系家族に分類されているが、韓国の門中制度をみてみると、分 家してしまったら切れてしまうのが通常である日本の同族と比較すると親族関係の広がりが大き い。  では沖縄はどうであろうか。制度のタテマエと運用の実態とが必ずしも一致していないことを、 筆者はこれまで見聞してきているので、比較の中で沖縄の親族制度を位置づけるには慎重さが必 要であるが、少なくとも日本本土と比較して「広く浅い」親族関係であることは明瞭に認められる。  この点に関して頭に浮かぶのは、筆者がポルトガル語を教えてもらった宜保マウロ先生のこと である。  マウロ先生の曾祖父母とその長男(マウロ先生の祖父)の3人は大正6年(1917年)に豊見城 からブラジルに移民した。土地、財産はたくさんある家だったのに、なぜ移民したのだろうかと 不思議がられている。曾祖父は、ブラジルに行って3年後、結核で亡くなった。曾祖母も亡くなっ た。マウロ先生の祖父は、ポルトガル系の女性と結婚したが、サントス港で積みおろしの仕事を やっているうち、箱が背中に落ちて、脊髄を折って亡くなった。マウロ先生の父親が生まれたば かりであった。沖縄との関係は途絶えた。マウロ先生の父親もイタリア系ブラジル人と結婚して、 11人の子どもが生まれた。ブラジルでは人並みの生活をしていたそうである。そこへ、ある日、 沖縄の親戚やってきて、 「本家の長男だからトートーメー(位牌)の番をしなければならない」  トートーメーの意味が分からなかったが、とにかく行って拝みをしなければいけないよー、と。 親族が土地を売って運賃を作ってくれて、船で沖縄に来た。マウロ先生が15歳の頃(1966年頃)だっ た。マウロ先生のお母さんも後から来た。  マウロ先生たちは仏壇のある12畳のカミヤー(神屋)で暮らしたが、収入は少なかった。親族 が拝みに来るときの餅が多く、カビを取り除いて油で炒めて食べた。パパイアをおかずにして食 べた。こういう生活だったので、家族は3、4年でブラジルに帰っていった。マウロ先生は本家 の長男として1人豊見城に残った(文献(7)参照)。  沖縄の位牌祭祀に関する慣習は民法の規定と矛盾を来すことがあり、いわゆる「トートーメー 問題」を引き起こしてきた(文献(8)第6章参照)。  長男に男子がいなくて、次男の次男とか、さらには門中内のもっと遠い男系血縁の者が位牌 の継承とともに財産まで相続するということがある。それも、実子の女子と均分ではなく大部分 もしくは全部を相続するということになると、慣習と民法規定との乖離が大きくなって女子でも トートーメーを継承できるはずだとして問題となったわけである  しかし、沖縄でも少子化は進んできていて、門中の制度的なルールに従うことが困難な状況が 増えていっているし、門中同士のつきあいがだんだん希薄になって行きつつあり、小さな世帯単

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位での生活がメインになって、祭祀承継のために養子適任者とされた者が実際に養子となること を承諾しないという話も耳にする。  今後そういう方向性は加速していくと考えられるが、それでも門中を枠組みとする「広く浅い」 親族関係は現在でも広範に残っている。  今後、小さな世帯単位に分解していく親族関係をつなぎ止める装置として、「広く浅い」親族 制度の意義は再評価される可能性があるのではないか。  例えば、1990年以降、およそ5年に1度沖縄県の主催で「世界のウチナーンチュ大会」が開催 されているが、2011年10月に実施された第5回大会は参加者7363人という過去最大規模になった (文献(9)参照)。この大会は当初、海外移民の里帰りという意味が最重要で、まさに「広く浅 い」親族ネットワークの存在を基盤として展開されてきた。最近では、このような親族ネットワー クの存在が沖縄の独自性やウチナーンチュの豊かさとつなげて理解されるようになり、海外より むしろ県民に向けたメッセージが発信されるようになっている。また、今後、若い世代にどうつ ないでいくかも重要な課題となっていて、第5回大会に先立って「世界若者ウチナーンチュ連合 会」が設立され、大会期間中に「若者国際会議」が開かれた。このようにして、次世代への継承 が実質化し始めている。  また、何をもってウチナーンチュというのか?ということについては、沖縄アイデンティティ は、自然的に継承されるものから意識的に獲得されるものへと変化していっている。ハワイから の参加者では「先祖のルーツ」が最上位であるが、これも、仏壇の先祖とは違って、高度に象徴 的なものではないかと考えられる。  2013年度の講義で外国人介護労働者の受け入れ問題を取りあげている時、朝日新聞に「台湾  住み込み介護19万人」と題する記事が載った(文献(10))。 台湾では、外国人の介護労働者が20万7000人働いている。そのうち19万3000人が家庭に住み込 み、高齢者のケアをする。インドネシア人が圧倒的に多く、15万8000人。ついでフィリピン人 2万1000人、ベトナム人1万3000人。  背景に台湾で急速に進む少子高齢化がある。出生率は85年に2.0を切った。そして、2010年に は一時0.9に落ち込んだ。同様の動きは香港、韓国、シンガポールでも見られ、家族主義が強い といわれる東アジア地域で、もはや持続不能なほどの「極低出生率」にまで落ち込むというパラ ドックスが生まれたのである(文献(11)参照)。  同時に台湾は、1993年、人口の7%超が65歳の「高齢化社会」に突入した。2017年には14%を 超える「高齢社会」に入る見込みという。  台湾では1992年から介護労働のための雇用許可を発給するようになった。女子労働推進と子ど もの保育のためだった。雇用許可制度は労働市場テストを前提としていて、台湾労働者ではまか なえないことと、要介護者が「重度」であることが必要である(そのため虚偽の診断書がまかり 通っているという)。2011年で重度要介護者31.6万人、外国人家事労働者数19.8万人で63%が外 国人家事労働者を雇用している。  1995年に家事労働者と介護労働者とにカテゴリー細分化が行われ、前者への雇用税は高額化し、 現在は金持ちだけが雇用するようになって2000人に過ぎない。

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 外国人労働者に対して台湾労働者は3倍の報酬である。台湾人介護労働者は通常は病院や施設 で働いているので、労働の場所はダブっていない。  高等教育を受けた女性の比率は男性を上回り、企業や官庁で経営者・管理職の女性が占める割 合は日本の2倍以上になる。外国人を雇えば給料や健康保険料などで月2万台湾ドル(約7万円) と、大卒初任給に近いが、施設に預ければ5万台湾ドルもかかるため、中流以上の共働き家庭で は外国人を雇うことが現実的な選択肢になっている。これに、高齢者の世話は家でという価値観 も根強いことが加わって、親孝行のアウトソーシングが行われることとなっている。  かくして東アジアには70万人以上もの外国人家事労働者が存在している。  介護のあり方は国の福祉政策と密接につながっている。沖縄を含め日本では介護保険制度が導 入されたことが、台湾などの現状との違いの一番大きな理由ではないかと考えられる。 [2]中間的なネットワークの意義  だいぶん前に見田宗介「社会学入門-人間と社会の未来」(文献(12))を読んだ。社会学の入 門でなぜ「未来」なのかと気にかかった。その最後に収録されている「補 交響圏とルール圏」 は非常に面白かった。社会の理想的なあり方を構想する仕方には2つの異なった発想の様式があ るというのである。  1つは、歓びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実のうちに実現すること を目指すものである。  もう1つは、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を最小のも のに止めるルールを明確化していこうとするものである。  このように2つに分けられるのは、他者は生きるということの意味の感覚とあらゆる歓びと感 動の源泉である(例えば1人きり生き残ったとしてもほとんど死と等しいとさえ言われる)のと 同時に、他者はまた生きるということの不幸と制約のほとんどの形態の源泉であり、他者は地獄 である、とさえ言われるからである。  そして、古典的な理論では「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」という言い方で、近代 化とは前者から後者へ移行することだと理解されていた。法学では、ヘンリー=メーンの「身分 から契約へ」という標語がこれをあらわしていた。  ところが、見田の意見では、人間のこれまでのすべての社会は、このどちらか一方で成り立っ ているのではなく複層的な構造をもっていた。  例えば、原始の狩猟・採集生活のバンドのような「共同体」も、他のバンドや部族との関係で は相互に外的な「集列体」であり、ゲゼルシャフトの関係であった。部族間関係というのは血で 血を洗う闘争の歴史だったのである。  一方、近代社会がゲゼルシャフトであるというのはフィクションであって、実態は、核家族を 基本形とする様々なゲマインシャフトの相互関係としてのゲゼルシャフトであった。つまり、近 代社会の基礎単位は個人ではなく共同体であった。  このように、交歓する他者たちとの関係間の関係は相互にその生き方を尊重し、自由を侵さな いことを保証するために最小限度に必要な相互制約のルールを明確化することとなり、「交歓す る他者」と「尊重する他者」という2種類のパターンが存在する。

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 そうすると社会の中で起こってきたことは、このような複層構造を一本化することではなく、 ゲマインシャフト的なもの(共同体的なもの)とゲゼルシャフト的なもの(集列体的なもの)と の双方における自由化の貫徹という方向でとらえられるべきだと見田は言い、共同体の自由化さ れたものを「交響体」、集列体の自由化されたものを「連合体」と名づけているので、今後の社 会は交響体と連合体の複層的な構造を持つものになるであろうと考えられるわけである。  交響体というのは少ない人数で成り立ちうるのである。むしろ、必要以上に拡大しようとした ことが多くの集団のつまずきとなった。宗教的、イデオロギー的な信仰や信念によって結合され ている集団の場合、拡大が集団の外部に対しても内部に対しても危険な結果を招いたという実例 はたくさんある。  このような拡大志向の極限の形式として、このタイプの結合が社会全域を覆うと幻想するイデ オロギーもある。日本の戦前の家族国家観などこのようなものであろう。  最小の極限を考えてみるとそれは対の愛である。  では、単独者はどうか。様々な規模の交響体と並んで単独者もまた交響圏を構成するユニット であると前提すべきであると見田は主張する。生きている現実の人間たちのうちに交響する他者 をもたない理由は必ずしも不幸な事情によるだけでなく、積極的な、あるいは移行的な理由から 社会は常に単独者というユニットを含んでいる。  世界的な規模で考えるなら、アジアやアフリカ、ラテン・アメリカの人口からして、今後少な くとも半分を越える人々にとって家族は交響体であり続けるであろう。  しかし、交響体は家族ではない形態であってもよい、と考える点で、原理的にラディカルな地 平に立つ。家族は脱絶対化された上で、それらが自由で幸福なものであるならば交響体として祝 福されるであろう。しかし、家族だけが交響体の唯一の形態ではなく、例えば、地球の反対側に 住む1人の友人がどの家族よりも魂において近しい存在であるということもあり得るとされる。  このような把握は1人の人間が様々なコミュニティに多元的に帰属しすることを可能にし、そ の結果交響体も幾重にも重なったものとなる。  以上のように交響圏というものを自在に重合し、散開するものととらえたあとにもなお、交響 圏とルール圏との間には分厚い中間の領域が存在するように見える。  例えば、ヨーロッパに見られた古典的な社交界というものは、異なった共同体の人々が出会う 場として、尊重し配慮する他人たちの間のルールの遵守ということを第一義として存立しながら、 そこで人々が適切に薄められた交響性を楽しむ場でもあった。  現在の雰囲気のよい職場の同僚関係も同じように両面性をもっているであろう(現実には地獄 のような同僚関係が多いようであるが)。ゼミやサークルなども同類であるとされるし、都市コ ミュニティも両面性をもつことが望ましいと考えられよう。  しかし、これら両面性をもつ関係をまとめて中間的な圏域として設定するよりは、交響圏の極 限に純化された関係からルール圏の極限のような関係まで順に並べてみればどの関係もそれぞれ の割合で両面性をもっていると考えることができる。  見田宗介・大澤真幸対談集「二千年紀の社会と思想」(文献(13))の第2章「名づけられない 革命をめぐって」は、「交響圏とルール圏」を下敷きにして議論が展開されている。  議論は、主に経済的な面でのグローバル化が進む中でそれに即した精神ができていないという

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ところから出発している。要するに、経済は国境をこえて展開しているのに、頭の方が国の枠か ら抜け出られないといったようなことである。そのため、国というのはゲゼルシャフト的に構成 されているのに、国際社会の中では国は共同体的なものとしてあらわれる。  そして、大澤は、競争しても闘争しても最後には信頼関係に至れるようなルール圏であるた めにはルール圏にも共同性のタネみたいなものが仕組まれていないといけないんじゃないかと言 う。  この問題提起に対して、見田は次のようなコメントする。  第1に、国家の共同体性が出てくるのは国際関係がゲゼルシャフト的なルール圏なので、「X 間ゲゼルシャフト」という関係ではXは遡行的に共同体ということにならざるを得ないためそう いう面が表に出てくるのではないかということである。  第2に、ゲゼルシャフト的な関係を下支えするのに共同体的なものが必要ではないか、という 議論については、見田はそういう必要性を想定していなかったと言う。  例えば米国の市民社会を機能させる下支えとしてキリスト教というものがあるとしても、もっ とユニバーサルな水準になった際には、それが逆に障害になることがあり得るかもしれない。イ スラームを含めて考えたらどうか、あるいはさらに仏教圏、儒教圏も含めていったらどうなるか と考えてみればすぐに分かることである。キリスト教みたいな共通の価値観がなくても、万人が 納得できるような合理性に基づいたルール圏が想定できるのではないかということである。  第3に、従って国際関係間での相克性を下支えするものがあるとすれば、「われわれは太陽系 の一部である」とか「地球生命の一部分である」とかいった類の方向のものとなるのではないと 言われる。  以上の見田のコメントのあと、大澤は、例えばヨーロッパの国民国家を機能させていた「西洋」 に対応するようなグローバル化のサイズにあった共同性が現在は見いだせないとし、さらに、現 在では国内においてさえも、例えば税金が貧困層のために使われることについて違和感を感じる ような自己責任と呼ばれる考えが出てきていて、道徳的共同性が成り立ちにくくなってきている と言う。それは、われわれが多様化していっているからそうなるのかというと、実はそうではな く、例えば世代間ギャップはどんどん小さくなっていることが調査によって明らかにされている そうである。つまり、最近では親と子どもは大同小異のことを考えているのだそうで、価値観が 多様化して話が通じなくなったという説明は成り立たないのである。  同じことは横の関係でも言えて、例えばダライ・ラマは仏教の論理ではなく、普通に人権の論 理で中国政府を非難する。国際社会の中で自己主張する際にみんな大同小異の論理を使う。にも かかわらず世代間であろうと他文化間であろうと、ますますお互いの連帯は困難だという感覚が 出てきている。  今日普遍的な共同性を阻んでいるものなのは何かという問いに対して、見田は次のように言う。  民主的な社会が実際にモデルとして成立したのはギリシャのアテネである。都市社会ができる までは部族間関係は無法状態で血の復讐(ヴェンデッタ)がキーワードだった。ソロンのような 人が立ち上がって都市社会、市民社会のルールができた。  9・11以降復讐の連鎖であるが、古代ギリシャにできたことが現代の国際社会でできないはず がない。集列体から連合体にもっていくのは平和の問題なのである。だから平和の問題とデモク

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ラシーの問題とは集列体から連合体へという同型性がある。従って、共同性の下支えということ とは別次元の問題である。  これに対しては、大澤は、ソロンの改革は一時はうまくいきかけたが結局失敗し、挫折し、だ からこそソクラテスも死刑になった。プラトンやアリストテレスになると、民主主義への期待は 薄れてしまっている、と。  これに続いて、大澤は、交響圏は大規模にしようとすると悲劇的な結果に終わるということ を認めたうえでユニバーサルな共同性や連帯をどう確保するかについて、ダンカン=ワッツとス ティーヴン=ストロガッツの「小さな世界」理論を紹介する。これは要するに「世界は狭い」と いう話である。  例えば、たまたま飛行機で乗り合わせたまったく知らぬ人と話したら共通の友人がいることに 気がついてびっくりすることがある。一見とてつもない偶然のように思われるが、実際には結構 そういうことが起きる確率があるということを理論的に示したものである。  彼ら以前に社会心理学的な実験で「6次の隔たり」という現象が知られていた。当時の米国は 人口2億人ぐらいだったが、そこから無作為に2人選んで、友だちの友だちとたどっていくと平 均6人の友だちを介してその2人はつながっていたということである。  どのようにしてこのようなことが起きるのか。2億人の人間が自分以外の他の人と親密な友人 だというモデルを仮に考えると平均の隔たりは1次になる。しかし現実には友だちが2億人とい うことはあり得ない。逆に、すべての人がそれぞれ自分の身近な人とだけ親密だというモデルを 考えてみると、平均の隔たりの次数はものすごく高くなってしまう。けれども実際には6次程度 なのであるから、このモデルともかけ離れている。ここに、ごく少数でよいのだが、ランダムに 友人関係のつながりを導入する。つまり、誰もが主として身近な人と親密なのであるが、しか し、ときどき非常にかけ離れたところに友人を持っている者が何人か混入しているという状況を つくってみると、平均の隔たり次数が劇的に小さくなるということをワッツとストロガッツは発 見したのである  これからすれば、小さな交響体的な共同体間には偶然的なつながりが何本かあれば全体を覆う ような大きな単一の共同体が成り立っていなくても何ステップかの、一望のもとに把握できる程 度の人間関係の列の中に全体の人間を覆うような大きな共同性を構築できるのではないか。この ことが新しい平和な民主主義というもののモデルになりうるのではないか。だから、われわれは、 小さな共同体同士をつなぐためにどういう論理があり得るのか考えることが必要ではないか。お 互いに全然違った趣味、違った価値観をもっていて、どうしても相容れないとお互い考えている 共同体の間にランダムな線に対応するような持続的な関係をどうやって構築するか。  この議論に対して見田は、「小さな世界」理論が成り立って、大いに機能するためにも共同体 の開放性ということが非常に大事だと言う。  具体的には、重複加入が可能だということが含まれ、共同体のメンバーの一人が例えばインター ネットを通じた別の共同体に入るということをお互いがポジティブに喜ぶことが大事だと言われ る。所属が排他的でなく、出入り自由であることが必須である。そのようなオープンな状態があ れば、それぞれの共同体からたくさんの触手が伸びているから結びつく確率が高くなる。  大澤も、民主主義は原理的には多様性を認めるけれども、それは差違に対して敏感になること

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ではなくて無関心になることなのだと言われる。ユニークだから受け入れましょう、ではなく、 ユニークだとかユニークじゃないとかを気にしないようにしよう、ということであるから、本来 異なっているものに対して同じだと考えましょうということである。だから、例えば女性にも参 政権を認めるといったように多様性を認める側面とともに多様性を無視して同質性を確保すると いう面もある。どちらの面がメインになるかで民主主義は多様性を受け容れるシステムにもなる し、ある限度を超えては多様性を受け容れないシステムにもなり、「民主主義の敵」としてイラ クをたたくというのは後者の面が出た典型例である。  さらに民主主義の特徴として、最終的には多数派の論理に帰着するわけだから、何が正しいか、 ではなく、何を正しいと思わせるかが重要になってしまう。そういう意味で民主主義にはリスク があるが、反民主主義がリスキーでないかというとそうでもない。  見田も、民主主義が差違に対して無関心であるというのは、それはそれでシステムとして成り 立っているからいいので、内容をつくるのはやはりカルチャーみたいなものであると言われる。 個々の人間は変わったものが好きだったり、嫌いだったりする。内心嫌いでも一応ルールに従う というのが民主主義で、システムとしてはそれでいいが、そのうえでカルチャーをどうつくって いくか、と考えた方がいいというわけである。  差違を喜ぶカルチャーということとの関連で、大澤は共同性における人間的な水準と動物的な 水準との比較を持ち出す。  例えばチンパンジーの集団はテリトリーをもっていて、その中を遊動している。集団同士が 出会うと、チンパンジーはどう猛だから必ず喧嘩になる。つまり、チンパンジーの場合、集団の 内側に向かっている共同性と外の共同体に対する排他性や相克性とは表裏一体の関係になってい る。チンパンジーよりはるかにおとなしいボノボの場合も、喧嘩にはならないが、出会った集団 が仲良くなったり統合されたりすることはない。  ところが人間社会の場合は共同性と相克性とがともに機能するような関係というのがあり得 る。分かりやすい例として持ち出されるのが女性を嫁にもらって姻戚になる場合である。チンパ ンジーの場合でもメスはほかの集団から入ってくるので、人間の目で見れば姻戚になるはずだが、 妻をもらったからあちらと仲よくしましょうとは絶対にならない。人間の場合、共同性とともに 相克的、競争的な関係性も残る。  このように、ある種の相克的な側面を保持しながら、それでもなお共同するといった複合性の ある共同性には希望が持てるであろう。  交響圏とルール圏との間にある中間層の1つとして「広く浅い」親族ネットワークを想定でき ないであろうかというのが本稿における筆者の基本的な立場である。  見田の議論では家族というものが当然交響圏に属するものとして把握されている。ところが、 実際には「広く浅い」親族ネットワークは地球上の結構広い地域において存在している。  トッドの「共同体家族」は西欧にはみられないが、人類の文明を最初に形成してきた地域では 広くみられる。そして、「広く浅い」親族ネットワークがカバーしているところは、イメージに 反して、個人個人がしっかり判断できるような地域ではないか、というのが筆者の仮説である。  筆者はずっと以前から「公と私の結合」をテーマとして考えてきた。両者がうまくつながらな

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いことが特に日本の様々な社会的な問題と深く関係しているという見通しをもっていろいろ考え ていたのである。  その際に参考にしていたのが今西錦司「人間社会の形成」(文献(14))である。この本で、人 間社会に共通の特徴が、人間以外の動物との比較で考察されている。  この本を読んでよかったと思うのは、基本的な言葉や概念を当然のものとは考えないクセがつ いたことである。たとえば、「社会」という言葉について論じるところからこの本は始まるのだが、 われわれがこの言葉で持つイメージは人が集まっているということであろう。社会=集中、とい うことは、分散し、孤立することが反社会的なことだというイメージにも直結する。この本は、 集中も分散も社会の形態の1つに過ぎないことを説得的に明らかにしてくれる。  今西の「棲みわけ」理論というのは、個体中心主義に対するもので、社会全体の立場からの理 論と言える。だから、まず人間というものが存在して、次にその人間が社会をつくったというの は間違っているという基本的な立場から出発していると思われるが、「私」抜きに「公」がある とする立場ではない。  外国におけるウチナーンチュの適応という点において興味深い事例として、2013年度の講義で、 伊波廣泰という人物を紹介した。沖縄における「広くて浅い」親族ネットワークの感覚がみられ ると筆者は考えるが、どうであろうか。  彼はいわゆる未帰還兵である。戦後日本兵が1万人単位現地に残留した。残留日本兵の代名詞 として語られるようになった横井庄一、小野田寛郎らは、彼らが現地の住民と敵対的または無関 係であったという意味で例外的な存在である(文献(15))。  以下、文献(16)をまとめる形で伊波という人物について述べてみる。  伊波は1920年(大正9年)に沖縄県国頭郡今帰仁村に5人兄弟の3男として生まれた。伊波が 3歳の時に父親は大阪に移住した。伊波の父は二男であったが、長兄家族に男の子がおらず、娘 だけだったので、伊波が養子として出され、沖縄に残された。伊波というのは、沖縄では「イハ」 と読むが、大阪に出た時に、大和式に「イナミ」と読むようになったのだそうである。父母は大 阪城近くで床屋を営んでいた。  伊波が8歳になった時に従兄弟の家に男の子が生まれ、伊波が跡継ぎにならなくてもよくなっ たため、大阪に移った。小学校では沖縄の言葉がまったく通じず、学校の成績もどん尻になり、 1人で工作ばかりやっていた。  1933年ごろ伊波一家の店に上海から中国人の床屋職人が家族連れでやって来た。彼らは皆言葉 が不自由で、少年の伊波は職人の娘に日本語を教え、彼女から中国語を教えてもらった。  伊波は小学校卒業とともに大阪の町工場で職工をやった。この時の経験が後の人生に役に立っ た。ものをつくることの喜びも身についた。19歳の時に、作業中、過って高いところから落ちて しまい、背骨にひびが入った。座って作業をすると腰が痛くなるということで、徴兵検査は第2 乙種だった。  1943年に工兵として徴兵され、広島の宇品に集められ、台湾を経由してシンガポールに着いた。 命令でタイから鉄道でバンコクに行く途中、イポーで敗戦を知った。  バンコクに着いて、そこで日本軍を待つことにした。だが、待てど暮らせど日本軍はやってこ

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ない。ドンムアン駅の構内で寝ていたところ、中国人ですかと声をかけられた。建設業を営む潮 州人の華僑だった。中国人のふりをして中国語で答えると、潮州人の中国語と伊波の中国語とが レベルが同じだったことからばれなかった。とっさに「ここでなら生き延びられる」と思い、そ して、軍を出ようと決めたのだという。職工や工兵で培った技術が身を助けるだろうという漠然 とした自信があった。経営者から設計図などが読めるかときかれ、はいと答えると材料の計算を させられた。  それから半年後、米軍のエンジンが出てきたが、それが動かないというのでバンコクに隣接し ているナコーンパトム県プタモントン郡のその場所に行って見てみると、エンジンは簡単に動い た。伊波は村長からすすめられてプタモントン郡に移住した。村のたばこ屋の前で修理屋をやっ た。若い頃の伊波は伊達男で、いつの間にか女性の人気者になった。村の名士たちもやってきた。 朝は忙しかったが、昼は何もすることがなく、川釣りをしていた。貧しかったが、気持ちは日本 軍にいた時よりラクだったという。旋盤をもつようにすすめられ、いろいろなものを修理した。  中国人のふりをした日本人がいると密告され、戦後処理をしていた日本人の将校と米国の憲兵 に取り調べられた。ところが日本人将校は日本人だと気がついていないふりをした。そして米国 の憲兵にはウソの事情を説明したようで、憲兵からは何も聞かれずバンコク・サートーンの移民 局に送られた。そこで中国人の入国証を発行してもらい、それをもって警察署に行き、居住証明 書を作ってもらった。こうして伊波は張廣泰という名の中国人となった。そして、村に帰って、 村長のすすめで中華系タイ人と結婚した。  戦後8年目に伊波は在タイ日本大使館に出頭し、日本国籍を再取得した。ちょうどその頃タイ に来ていた大分県臼杵の鉄工場社長に手紙を託したら日本の家族と連絡が取れた。そして、1953 年大阪の実家に帰った。  伊波は日本で見た水揚げポンプを模倣して新しくポンプを作り、それをタイに広めた。伊波は タイにおける農業用水揚げポンプの創始者であり、5000本近くを作ったが、大量生産はしなかっ た。1つ1つが手づくりで、実際、今でもタイ中部のエビ養殖場や農場で使われているポンプに は「イナミポンプ」の商標が入っているという。  経済的にゆとりが出てきてから伊波は3度沖縄に帰った。 「今帰仁は土地が非常に狭いのです。親からの遺産すべてが長男に譲られます。他の者は行くと ころがないから、外に出る。外地に出ることをなんとも思わない。だから、沖縄が私の故郷です。 職工で働いた大阪には思い入れはありません」  伊波は2度結婚している。最初の妻との離婚の原因は、伊波が日本国籍であるため妻がやって いた不動産売買の仕事がうまくいかなくなったためだという。タイでは外国人は原則としてタイ の土地を購入できない。会社の法人登記はタイ人と日本人の夫婦となっていて妻にとっていろい ろ不利な状況が生まれた。だからいさかいを起こして別れたわけではないという。  仕事は50代で引退して息子にまかせていた。そんなところへ沖縄の人がチェンマイ県の山奥で 事業を興すという話が入り、手伝いに行ったところでそこの大工の棟梁の娘と再婚した。伊波は その時58歳、妻は18歳であった。戦後どうしてタイに残ったのかという質問に、伊波は次のよう に答えている。 「大阪の町で職工をしていて、そのころから日本社会とあまりあわなかったかもしれないです。

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沖縄の生まれ故郷は移住者が多いですし、大阪では、沖縄出身者は、自分自身を卑下している感 じがしました。そして、腰が悪かったので、温かいこちらの気候が腰によかったのです」 [3]補遺:企業経営における公と私の結合  筆者はこれからブラジルとボリビアに行く直前である。それとの関連で最近、リカルド=セム ラー「奇跡の経営 一週間毎日が週末発想のススメ」(文献(17))を読んだ。  この本の内容は「私」から出発するような企業のあり方を提示していて、現存するグローバル 企業の陰画のようになっている。  今後の地域国際化のあり方を考えていく上で、経済的な組織の組み方は避けて通れない課題で ある。そこで、公と私の結合という点で、「広く浅い」親族ネットワークとの共通性が認められ るセムコ社の経営について補遺の形で紹介したい。  セムラーは「ブラジルで最も急成長し、学生から最も人気のある企業セムコのCEO」である(訳 者まえがき)。セムコ社は、父親が1954年に創業した会社で、その会社をセムラーは21歳で父親 から受け継いだ。父親がオイルの遠心分離機の特許を取得して小さな機械工場をはじめたのが出 発点だった。その後セムコ社は船舶用のポンプ製造会社として歩んできた。セムラーは会社を引 き継いだときにロックバンドに夢中になるような青年で、何がいやだといって、人を監視するよ うな仕事が一番きらいだったのである。だから、監視が必要ないような経営を実行しようとした。 そのためにまず、父親から経営を引き継いだあと数日もしないうちに父親の下で働いていた経営 幹部の3分の2を解雇した。  これから明らかなように、志を同じくする者、つまり同志が集まって仕事をするのが会社とい うところなんだという考えが基本になっている。同志なんだから、監視なんか必要ないのは当然 なのである。ということは、社員はそれぞれが自発的に、やりたいことをやるという形で行動し、 そのような行動を社員は相互に信頼する。管理する・される関係じゃなく、平等な仲間の関係で ある。  このような関係は、既存の会社でも、経営幹部間の関係に限るならたくさん存在するだろうが、 それを全社的に広げたところがセムコ社の特徴と言えよう。  だから、実は、セムコ社には決まったCEO(最高経営責任者)が不在ということもよくあるし、 CIO(最高情報責任者)やCOO(最高運営責任者)はいないのだという。  人事部がなく、雇用契約書等がなく、レポートや経費の承認をする人はいなく、作業員を監視・ 監督していない。  こういう状態でやっていくのに向いている分野は大量生産タイプの製造業ではなく最先端の、 まだマネする者もいないような事業ということになるだろう。  実際セムコ社が新規事業に進出する際の条件の第1は、複雑で、高度な技術を要するものであ ることとされる。裏を返せば、誰でも容易に参入できるようなものではないということである。  第2に、参入する市場で質の高い企業となることで、それは、製品が高額であるということも である。付加価値が高いわけである。  第3に、その結果としてその市場でユニークな存在となることで、つまり普通いうオンリーワ

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ンの存在となることでしょう。  ある意味これはいいとこ取りかもしれない。  例えば、セムコ社のグループ企業はウォルマートと、その商品の棚卸し、冷却装置の管理、建 物や倉庫の施工、環境調査と汚染除去といった業務を請け負っているそうであるが、ウォルマー トといえばいい意味でも悪い意味でも代表的なグローバル企業である。セムラーはグローバル企 業を批判しているというより、その対極にある経営のあり方を考えた結果がこの本になったので ある。グローバル企業は民主的な経営を行っていないというのである。少数の大株主の独裁制だ というのである。  セムラーは20世紀型の組織、特に共産主義や軍隊方式の管理手法はすでに役割を終えた、と言 い、21世紀型の安定した職場をつくるためにはコントロールを放棄するという発想を持つことが 必要だというのである。コントロールを放棄した会社というのがどういうものかについての説明 がこの本の内容である。  時間的には、「自由な時間」を持つことの大切さがまず強調されている。自由な時間というのは、 いわゆる「余暇」とは違う。余暇の内容をみると、多くは雑用や個人的な用事であり、これらも ある意味「仕事」である。そして現状では、仕事は「自由な時間」の対極的なものとしてイメー ジされている。自由な時間というのは内容的には、何もしないでのんびりと過ごす時間なのだそ うである。  セムラーが提唱するのは、仕事、余暇、のんびりとした時間を各自が各自なりに設定するとい うことである。必然的にフレックスタイム制になる。その結果、仕事、個人の生活、精神面でバ ランスがとれ、仕事の本来の目的が理解できるようになる。  場所的には、特定のオフィスや工場で働くというルールを廃止することである。セムコ社では、 今ではサテライトオフィス、移動式オフィスの導入によって本社オフィスさえなくなりつつある という。  非常にビックリしたのは、セムコ社では社員の席は決まっていないのだそうである。毎日、年 齢や経験の異なる人と隣り合わせに座ることになるのだという。以前、本田技術研究所で大部屋 の役員室制度を発足させて経営戦略を議論したというのを読んだことを思い浮かべた。  時間が社員各自で設定でき、仕事の場所も決まっていないというのが「一週間毎日が週末」と いうことであるが、「毎日が週末」というより、いわゆる週末がなくなり、いつもマイペースで 行動することが可能になるといったほうが適切であろう。  セムコ社が社員に自由な時間設計をさせ、仕事の場所も選ばせるというやり方でやれたのはな ぜか。工場で働く人が同じ時間帯に働くなれば工程の流れが止まってしまうに決まっているでは ないか。  これに対してセムラーは言う。 「でも働いているのは、立派なおとなです。そのおとなである作業員が、どうして業務に支障を きたし、自分達の仕事を危うくするような行為をするというのでしょうか?」  セムラーは、組み立て工程で働く作業員自身が、スムーズに作業ができる形でフレックスタイ ム制を導入していくと信じた。実際、結果的には混乱は起こらなかった。フレックスタイム制を 導入する前日、作業員は翌朝何時に来るのかと自主的にきいて確認していたのである。

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 一人前の大人の行動を信頼すれば、各自に都合のいい形で決めることができるというのがセム ラーの結論である。こういう決め方をすれば、確かに、各自が納得のいくように決めた時間なの だからやる気が起きて当然であろう。  仕事の時間や場所を社員が各自で決めるというだけでなく、どんな仕事をしたいのかも各自で 探求してほしいというのがセムラーの意見である。  人は眠っている才能を持っている。それをセムラーは「天職」と言っているが、その眠ってい る才能を活用することが真に仕事への満足をおぼえるベストな方法だという。人は生活を維持す るとか生計を立てるためだけに働くのではない。社員は眠っている才能を活用して仕事をするこ とで真に仕事への満足感を持つことができる。それによって、「生活」と「生計を立てること」 とが一致するのである。  実際にはほとんどの人は天職意識など持っていないことをセムラーも認めている。しかしセム ラーは、ゆっくりと時間をかけて才能を伸ばし、その才能を発揮していくことがその人の人生を より価値のあるものにしてくれるという考えを持っている。  そして、社員が製品やプロジェクトに興味を持たないビジネスはどんなものであっても絶対に 成功しないという前提というか原則からからセムラーは出発する。自分でやりたいと思わないよ うな仕事ははじめからするべきでない。  だから、会社からすれば、社員のために「生活」と「生計を立てること」が1つのものとなる ような組織を作ることがゴールとなる。  その結果、社員自らが仕事の内容を自由に決めるということになるのである。これはつまり、 社員が自己管理するということである。  それができるようにするためにも社員がいろいろな仕事に挑戦できるようにすることが必要で ある。セムコ社では社員が企業内で自由に活動できるようにすることで彼らの興味の幅を広げる ことを助ける。これが結局、会社が新しい事業機会へと進出していくことを可能にする。  このような機会を与えることは特に若い人たちには重要である。そのためにセムコ社では新入 社員に社内の業務を好きなだけ経験してもらうというプログラムを持っている。彼らはやりたい ことをやり、職を変えたいときはいつでも自由に変えられ、興味のあることにいろいろトライで きる。ラッシュアワー時を利用した自由な勉強会のプログラムもある。  さらに、まとまった休暇が取れるならば非常に有効であろう。それがセムコ社の「ワーク・ア ンド・ストップ・プログラム」というもので、社員が最長3年間休職して自分の好きなことをし てもよいというプログラムだという。  ここまで自由でできるなら、やめる人はいないであろう。かくしてセムコ社の離職率は実質ゼ ロということになる。  社員の業績がよくなかったときには、それは会社側が社員が成功するための機会を与えていな いからだというふうに考えるのだそうである。パフォーマンスが悪いからということでできの悪 い社員を解雇すると、残った社員は、次は自分の番ではないかと不安を感じ、その恐怖によって 彼らの持っている創造性や冷静な判断が失われる。そういうやり方は恐怖をベースにした経営手 法である。そうではなく、社員を育成することこそが業績アップにつながるとセムラーは考える。  このような考え方をセムラーは「バランス感覚を保つ」と表現し、それは生態系の原則に合致

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「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

それで、最後、これはちょっと希望的観念というか、私の意見なんですけども、女性

Q7 

これからはしっかりかもうと 思います。かむことは、そこ まで大事じゃないと思って いたけど、毒消し効果があ