窃視する読者──『堤中納言物語』と読者の欲望─
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著者
奥村 英司
雑誌名
鶴見大学紀要. 第1部, 日本語・日本文学編
号
57
ページ
1-9
発行年
2020-03
URL
http://doi.org/10.24791/00000883
Creative Commons : 表示 http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja窃視する読者 一
窃視する読者
──
『堤中納言物語』と読者の欲望
──
奥
村
英
司
序
平安物語文学の嚆矢『竹取物語』の冒頭、竹取の翁が「元光る竹」を覗き込んだ時から、読者は作品中の異世界を 覗 き 続 け て い る。 い わ ゆ る「 垣 間 見 」、 登 場 人 物 が 垣 根 越 し に 誰 か を 覗 き 見 る と い う 手 法 は そ の 典 型 だ が、 現 実 に 近 づくことの出来ない異世界や高貴な人物の生活を読者に見せてくれるのが物語であり、更には他者には知りようもな い人物の内面までも教えてくれる。読者の好奇心をかき立て、窃視の欲望を増幅する装置としての文学。肥大した読 者の欲望は、時には新たな物語を生み出す原動力となる。 窃視する者は、相手に気付かれることなく、その秘事を知ることが出来るのが理想だろう。できうるなら透明人間 になって誰かの生活を覗いてみたい。現実には、しかし、覗いている事を知られてしまえば傍観者でいられくなって二 しまう。一方、読者は決定的に作品世界から疎外されているのだから、覗いている事を知られる心配はない。作品内 では観察者が行為者に転ずることはあっても、読者が行為者になることはありえない。 だが、読者の肥大した欲望は、たんなる観察者で終わることを許さないだろう。かくして、読者の欲望を体現した 人物が、物語中に登場することになる。平安末の物語である『堤中納言物語』はそのような位置にある。 『源氏物語』 を頂点とした平安物語文学の終着点として、それまでの物語をふまえた読者による作品といえる。収録されている作 品群には直接的な関連性はないが、窃視のモチーフが頻繁に登場する。その分析から、前述のような作品の性格を検 証しつつ、文学における読者の位置を考察してみたい。
一
花桜折る少将
「花桜折る少将」は、垣間見が全編のモチーフとなった作品で、 「月にはかられて」夜遅く女の家を出た少将が、あ る家で垣間見した女主人に心惹かれるまで、翌日の昼の様子、夜になって女を盗み出す行動に出るまでの三つの場面 から構成されている。 偶然通りかかった屋敷が、かつて関わりのあった女の住まいであることを知った主人公は、その女が既に何らかの 事 情 で 居 を 移 し た 事 を 知 る。 尼 に で も な っ た か と し み じ み と し て い る と こ ろ に、 妻 戸 を 開 け る 音 が し た と こ ろ か ら、 主人公の垣間見が始まる。 垣 間 見 が 恋 の 始 発 と な る 物 語 は、 『 伊 勢 物 語 』 以 来 の 伝 統 と い え る が、 こ の 物 語 で は、 宿 直 姿 の 女 の 童 の 描 写 が 中 心 と な り、 肝 心 の 女 主 人 に つ い て は 簡 単 に 触 れ る の み で あ る。 『 堤 中 納 言 物 語 』 の 他 の 作 品 で も 女 の 童 が 話 の 中 心 に 据えられた物があり、さきの「没落する女」の話と相まって作品集全体の雰囲気を作り上げている。窃視する読者 三 垣間見の場面において、覗くのは男であり覗かれるのは女になる。覗くという行為が読者の欲望のあらわれだとし て、平安物語の読者主体は女ではないのかという疑問が生ずる。更に、覗かれる側の欲望という問題もあろう。垣間 見 が 成 り 立 つ の は、 開 放 的 な 日 本 家 屋 の 構 造 が 前 提 と な る わ け で、 女 の 側 は 生 活 の 中 で 常 に、 「 フ ァ ル マ コ ン 」 よ ろ しく、いつ誰に覗かれているともわからない状況にある。覗かれないためには戸を閉ざして屋敷の奥に閉じ籠もるほ かはない。 『源氏物語』 「紅葉賀」巻で、藤壺方を垣間見しようとした光源氏が、その徹底した警戒ぶりに諦めて、右 大臣の娘たちの部屋に赴くと、対照的に開放的な暮らしぶりで、そこで初めて朧月夜と出会うという場面がある。平 安貴族の生活実態は分からないが、垣間見が成り立たなければ恋の物語も始まらない。そして、女達は誰かの視線を 意識しながら、覗かれることを欲望するからこそ、蔀を上げ、端近に出るのである。垣間見する男の視線が、同時代 的 な 女 性 読 者 の 欲 望 を 投 影 し て い る と は、 常 に 見 ら れ る 事 を 欲 望 す る 自 身 を、 自 ら 窃 視 す る と い う こ と に 他 な ら な い。 も っ と も 物 語 の 登 場 人 物 が、 そ の よ う な 欲 望 を あ ら わ に す る こ と は な い。 覗 か れ る 側 か ら 物 語 が 叙 述 さ れ る の は、 「 虫 め づ る 姫 君 」 だ が、 こ の 作 品 に つ い て は 後 に 触 れ る。 こ こ で は、 作 中 人 物 に 投 影 さ れ る 読 者 の 欲 望 が、 屈 折 した様相を持つのではないかという予測だけを述べておく。 当該作品においては、観察者たる主人公が、いかに主体的な行動者に転じていくかという機微を確認しておく必要 がある。先述の女の童と、女房の会話から、深夜に起き出したのは物詣での準備であることが知られる。視覚だけで は得られない具体的な情報を得るのは、盗み聞きからであり、あらかじめ言語化されているという点では、物語叙述 との親和性も高い。 「このついで」も、窃視と盗聴の両面から他者の秘めた事情をあぶり出す。 翌朝、後朝の文をしたため、友人とともに参内し、帰路父親宅に寄るまでの描写で、主人公の美質が強調され、恋 の物語の行動者として次の夜を迎える。この昼間の描写を挟むことで、主人公もまた誰かから見られ、評価される側
四 に 転 じ て い く と と も に、 そ の 好 色 性 と 好 対 照 の「 を こ 」 な 失 敗 と し て の、 女 を 盗 む と い う 行 動 に 突 き 進 ん で い く。 『伊勢物語』 「芥河」に代表される、男が女を盗み出す古典的な物語の、これがパロディであることは言うまでもない が、観察者から行為者へと踏み出した事によって、窃視という秘めた欲望が、女を手に入れるという直接的な欲望の 発露へと後退し、読者の共感から嘲笑へ、という転倒が起きていることに注目しておきたい。もっとも、高貴な人物 の失敗を嘲笑する、というのも窃視とは別種の、読者の欲望の投影とみることもできる。主人公はこの失敗を世間に 明らかにされ、恥辱を蒙るが、読者は常に無傷なのである。 さて、事件の顛末を語る最後の部分をここで検討してみよう。 中将の乳母「聞き給ひて、おば上のうしろめたがりたまひて、臥したまへるになむ。もとより小さくおはしけ るを、老いたまひて、法師にさへなりたまへば、頭寒くて、御衣を引きかけかづきて臥したまひつるなむ、それ とおぼえけるもことわりなり」 (本文は小学館『新編日本古典文学全集』による) 「中将の乳母」なる人物が唐突に現れ、主人公が盗み出したのが実は姫君の祖母であると語られる場面である。 「中 将 」 は、 主 人 公( タ イ ト ル の「 少 将 」 は 誤 写 と 考 え る ) の 事 と も 考 え ら れ る が、 盗 ま れ た 側 の 事 情 に 詳 し い こ と や、 「 お ほ 上 」 と い う 呼 称( そ の 前 に 前 述 の 女 の 童 が、 手 引 役 と し て、 主 人 公 の 家 臣 と 語 る 場 面 で「 お ほ 上 」 と 呼 ん で い る)ことを考えると、姫君の乳母と考えるのが妥当か。主人公の視点からではなく、第三者的な視点を導入して、姫 君ではなく老女を盗み出すという滑稽性を際立たせる手法といえる。もはや主人公は、読者の視点の代替としての観 察者ではなく、読者から批評され嘲弄される対象となってしまった。 見 る 側 に と ど ま っ て い ら れ ず に、 一 歩 行 為 す る 側 に 踏 み 込 ん で し ま っ た が ゆ え の 悲 劇 と い え る。 こ れ は 単 に「 を こ」の失敗譚であるにとどまらず、安全地帯にとどまっている読者さえ、現実にはいつ落ち込むかも知れぬ陥穽であ
窃視する読者 五 り、じつは笑えない笑い話なのではないか。
二
このついで
「 こ の つ い で 」 は、 後 宮 に お け る あ る 一 日、 女 主 人 の 前 に 集 ま っ た 人 々 が、 「 こ( 籠 )」 か ら 連 想 さ れ る 話 を し て 聞 かせる、という短編で、その中で中納言の君という女房が、清水寺参籠の時の経験談を語る。 去 年 の 秋 の 頃 ば か り に、 清 水 に 籠 も り て は べ り し に、 か た は ら に、 屏 風 ば か り を、 も の は か な げ に 立 て た る 局 の、にほひいとをかしう、人少ななるけはひして、をりをりうち泣くけはひなどしつつ行ふを、誰ならむと聞き 侍りしに この話は、積極的な窃視ではなく、あくまで偶然耳にした聴覚の記憶を述べるのみであり、中納言の君が積極的に 関わりを持つことはない。ただ、いわくありげな女主人の存在が暗示され、耳にした和歌が紹介されるだけの、抑制 の き い た 話 で あ る。 中 納 言 の 君 は、 「 さ す が に、 ふ と 答 へ に く く、 つ つ ま し く て こ そ や み 侍 り し か 」 と、 返 歌 を 詠 み かけることをためらったがために、相手の正体を知るということもなかった。当然、聞き手には「さても、まことな らば口惜しき御ものづつみなりや」と、その消極性を非難されることになる。物語の聞き手は、話の深層を知りたが る。作中で明確な非難を記すことで、物語は読者の欲望をそらし、抑制的で余韻を残した話を作り上げる。すべてを 言語化しないという中世的な「余情」とか「幽玄」の入り口だと言っても良かろう。 た だ し、 窃 視 の 欲 望 は、 次 の 少 将 の 君 の 話 に 引 き 継 が れ る。 こ ち ら は、 「 を ば な る 人 」 が 東 山 で 勤 行 中 に 起 き た 出 来事であり、語り手の直接的な体験でないがゆえに、その行動もより積極的だ。 あるじの尼君の方に、いたう口惜しからぬ人々のけはひ、あまたはべりしを、まぎらはして、人に忍ぶにやと見六 えはべりしも、隔ててのけはひの、いと気高う、ただ人とはおぼえはべらざりしに、ゆかしうて、ものはかなき 障子の紙の穴かまへて 従者も多く高貴と思われる女主人が、その存在を隠すように参籠している。ついに立ち聞きだけに終わった中納言 の君と対照的に、この「をばなる人」は、ついには障子に穴を開けて覗き見するという、踏み込んだ行為に及ぶ。几 帳の合わせ目から覗くと言うのではなく、自ら穴を穿っての窃視は、見られる側だった女の、秘めたる欲望の発露で あ り、 あ く ま で 他 者 の 行 為 と い う 建 前 に よ っ て 語 る こ と が で き る も の で あ る。 そ の 女 主 人 の 出 家 の 様 を 感 じ 入 っ た 「 を ば な る 人 」 は、 扇 に 歌 を 書 い て 渡 す と い う 行 為 者 に 転 じ て い く。 そ れ は、 単 な る 興 味 の 対 象 を 窃 視 す る と い う 受 動 性 を 超 え て、 対 象 に 対 す る 圧 倒 的 な 共 感 を 覚 え た と い う 事 で あ ろ う。 男 の 窃 視 が 女 に 向 け る 欲 望 の 視 線 で は な く、 高貴な見ながら出家せざるをえない女主人の悲劇を、我がこととして感じ入っているのであり、 「花桜折る少将」で、 かつて通っていた女の顛落を、どこか他人事として捉えていた主人公が、行為者になった途端「をこ」の者に成り下 がったのと好対照の話になっている。事情ありげな人物が抱えている秘密を覗き見るという欲望のありようが、両話 で一対の物語として響き合っているのである。
三
虫めづる姫君
異 形 の も の、 現 実 離 れ し た も の を 見 た い と い う 読 者 の 欲 望 を 形 に し た の が「 虫 め づ る 姫 君 」 だ と い え る。 た だ し、 主 人 公 の 姫 君 は、 「 本 地 た づ ね た る こ そ、 心 ば へ を か し け れ 」 と い う 理 論 武 装 の 元 に、 毛 虫 や 芋 虫 の 類 い に 名 前 を 付 けて愛玩する、という一見現実離れした登場人物なのだが、そこには、女である事を拒否するという一貫した姿勢を 見て取ることができる。虫を恐れて近づかない女房や女の童に代わって、彼女の周囲には男の童ばかりが集まり、眉窃視する読者 七 を抜いたり歯黒めすることを拒否する、仏教的な理屈をふりかざす、そうした女性性の拒絶は、しかし一人の男によ ってあっさりと崩されてしまう。右馬佐という好色者こそが、この話において真に異形の存在なのではないか。 姫 君 に 興 味 を 惹 か れ た 右 馬 佐 は、 歌 と と も に 作 り 物 の 蛇 を 送 り つ け る。 「 生 前 の 親 な ら む。 な 騒 ぎ そ 」 と、 仏 教 的 な理屈によって動揺を抑えようとするが、 うちつぶやきて、近く引きよせたまふも、さすがに、恐ろしくおぼえたまひければ、立ちどころ居どころ、蝶の ごとく、こゑせみ声に、のたまふ声の、いみじうをかしければ、人々逃げ去りきて、笑ひいれば 「蝶」は正統的な姫君が好む物として女性性を、 「せみ」は、毛虫や芋虫の愛玩が幼児性・大人になることの拒絶だ とすれば、いずれ成虫とならざるをえない宿命を、それぞれ象徴しているとみることができ、姫君はここで大人の女 と し て 成 熟 せ ず に は お れ な い 宿 命 を 現 実 的 に は 突 き つ け ら れ て い る。 更 に、 「 蛇 」 に 男 性 性 を 象 徴 す る 性 的 な 含 意 が あるとすれば、姫君は、なおさら偽装した男性性に隠れた女性としての本質を自覚せずにはいられないだろう。かく して、机上の論理によって偽装された姫君の特異性はその化けの皮を引き剥がされることになる。女であることの現 実に覚醒することで、物語上姫君は窃視の対象たりうるのである。本来そこには、凡庸な恋の物語が語られることに なるはずなのだ。 姫君の奇妙な返歌に、かえって興味を惹かれた右馬佐は、友人の中将とともに垣間見に向かうのだが、ここで注意 したいのは二人が 「 あやしき女の姿 」 をしてきたという点である。そこで垣間見られた姫君は、真っ当な身繕いさえ していれば、 かくまでやつしたれど、見にくくなどはあらで、いとさまことに、あざやかに気高く、はれやかなるさま という美質をもっていた。芋虫が蝶に羽化するように変貌する可能性が示されているのであり、そうなれば異形の姫
八 君 の 主 人 公 性 は 失 わ れ て し ま う。 右 馬 佐 の 視 線 は、 奇 行 の 陰 に 隠 さ れ た 姫 君 の 美 質、 た だ し こ の 物 語 で は 非 主 人 公 性、 を あ ら わ に し て し ま う。 代 わ っ て 物 語 の 関 心 は、 わ ざ わ ざ 女 装 を し て 覗 き に 来 て い る 二 人 の 貴 公 子 に 向 け ら れ る。 「 かの立蔀のもとに添ひて、清げなる男の、さすがに姿つきあやしげなるこそ、のぞき立てれ 」 と、男の男の童にあっさり男である事を看破されるばかりか、それが女装であることすら認識されていないという 「 をこ 」 ぶりである。除く側である男が覗かれる側の女の姿をしているというねじれもさることながら、本来垣間見す る 側 は 覗 い て る こ と を 知 ら れ て は な ら な い は ず で、 つ ま り は 物 語 に お い て も や 観 察 者 の 立 場 に な い と い う こ と で あ る。 静 的 な 覗 き 覗 か れ る と い う 安 定 的 な 関 係 は 揺 ら ぎ、 男・ 女 と い う 確 固 た る ジ ェ ン ダ ー も ま た 不 安 定 さ を 露 呈 す る。姫君の被る男性性の皮もはがされかけ、貴公子たちの意味不明な女装も見極められたとしても、ここには既成の 美意識や価値観が不安定な世界が暗示されている。窃視という読者の欲望の彼方にあるもは何か、異形のものたちを 嘲笑する読者の足下もまた、不安定に揺らいでいる。
四
まとめ
平安物語の垣間見の場面は、覗く者=観察者/覗かれる者=行為者であり、なおかつ、覗く者=男/覗かれる者= 女、という静的な構造を持っている。これを更に立ち聞きや偶然の遭遇と言った場面に拡張すれば、必ずしも男/女 という構図ではないが、こうした静的な状況が、人物が行為者に転ずることで流動化するのが、基本的な物語の構成 である。その時、観察者は一転観察され、批評される対象となる。 物 語 に お い て、 読 者 を 導 く 立 場 に あ る 語 り 手 は、 基 本 的 に 観 察 者 の 位 置 に あ る。 「 こ の つ い で 」 の よ う に、 登 場 人窃視する読者 九 物が語り手の位置に置かれる場合もあり、その場合物語全体の語り手はよりニュートラルな、客観的事実を述べるだ けの存在になる。もっとも、作中人物が誰かに話をする、というのも作品世界における行為であり、他の人物から批 評されるという点において、行為者としての一面を捨てきることはできない。更にニュートラルな立場にある匿名の 語り手も、読者から批評される対象たることから逃れえない。 作 品 世 界 の 外 側 に 疎 外 さ れ て い る は ず の 読 者 が、 書 か れ た も の を 読 む と い う 受 動 的 行 為 を 通 し て、 作 中 世 界 に 共 感・感動したり批判したり、解釈という創造や本文から離れた夢想までに至る。読者は作品によって欲望をかきたれ られ、未知のこと、秘されたことをもっと知りたいと思う。肥大した読者の欲望は、世紀末的、またはマニエリスム と も い い う る 異 形 の 物 語 を 生 み 出 し た。 『 堤 中 納 言 物 語 』 の 物 語 史 的 な 位 置 づ け は、 そ ん な と こ ろ に あ る の で は な い か。 もっとも、ルネ=ジラール言うところの「欲望の三角形」によれば、人間の欲望とは他者のそれの模倣だというこ とになる。読者はあらかじめ欲望を持って作品に接するわけではなく、作品との触れ合いからそれまで自覚していな かった欲望を目覚めさせる。現代ならさしずめ犯罪行為とされかねない覗き行為も、おおらかな古典の世界では罪悪 感 な く 体 験 で き る。 容 易 に は 見 る こ と / 知 る こ と の で き な い 人 間 の 心 の 奥 底 を 見 せ て く れ る の が 文 学 作 品 な の で あ る。現代人からしてみれば、はるか昔の時代を体感する機会など他にはない。かくして文学は時代を超えて読者の欲 望をかき立て、満たしている。