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〈資料〉B・M・セレクマン「シニシズムと経営者倫理」「経営者は階級社会を創りつつあるか」

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紹 介

  B・M・セレクマン

介 ﹁シニシズムと経営者倫理﹂

   ﹁経営者は階級社会を創りつつあるか﹂

       進 藤 勝 美

媚〃脇㎜繍㎜㎜

 わたくしは前に二項関係の主体たる経営と労仇組合の性格を構造        的側面からとらえようと試みた。もろちん現実の労物関係の態様を 規定しているのは、構造的要因のみではない。根源的には、労仇関 係に対する主体の態度そのものが問題である。すなわち労伽関係に おける主体の行動を正しくとらえるためには、主体が寄託関係をど のように理解し、どのような方向において問題を解決しようとして いるかという、いわば主体の行動の底に横たわる態度そのものにま で湖って考察することが必要であると考える。  夙に労加関係のすぐれた研究者として知られているハーバード経 営大学院のB・M・セレクマン教授は、最近のHBRに標題の如き           二つの論文を発表し、労彷関係における経営者の基本的態度につい て深い洞察を示している。すなわち前者においては、経営者の労仇 者・労物組合に対する態度が極めてシニカル ︵身巳。巴︶であると 断じ、経営者がこのような態度を持ち続ける限り、民、王主義とキリ 三八 スト教倫理の志向する社会的価値は、その意義を失い、社会は倫理 的危機に逢着するに至るであろうと警告している。そして後者で は、経営者が理念乃至目標として掲げている社会的・道徳的責任と、 現実の行動とば著るしく背離しており、そのため、理念として述べ られている社会的統合が、現実には階級社会の創出という思わざる 方向を辿る結果を招きつつある点を指摘している。すなわち経営者 の現実の行動を方向づけているのは、実は掲げられている理念では なくて、まさにシニシズム︵O罵昌一9Q。日︶そのものでみるというに 他ならない。したがってこれら二つの論文は、労彷関係における経 営者の態度を対象とする一連のものと解することができる。 ①拙稿労働関係の基本構造、彦根論叢、陵水三十五年記念論  文集、昭和三三・一〇・参照 ②セレクマンは今年の且BRに関連する三つの論文を発表して  いる。すなわち︵じ.繭ω]<[き勉σqΦ白⑦三〇目Φ帥江BσQ餌。冨器ω09①1  ¢”、、冨票⇔q売①訂器q”︵図︶.甫鑓匙Φq巳。〒カ。日窓8鋤藍  図①二一q.、一ζ醸二二昌P︵。。︶.6団巳。凶。。ヨ睾匹竃磐鋤αqΦユ巴竃。で  鎮答団、、”ωΦ窟①日び①で020びΦ唇 ここで取りあげたのはωと㈲  で、順序は、両者の内容的関連を考えて発表の順とは逆にし  た。なおωの組合論は、浪漫主義的組合観を批判し、実態に  即した組合観の確立をもとめるもので、労働関係における組合  の態度を直接問題としたものではない。氏の主な著書としては  い㊤げoh菊。一象一〇長虫コ餌=¢日pこ⇒胃Φ一霞一〇諺一〇ミ一℃o零霞堕昌鮎  90同⇔=信言餌切二コ口窃。・ω09Φ崎‘おαひがある。

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9 二  セレクマンのいうシニシズムは、所謂キニク主義とは異なる。 ﹁シニシズムは不信、恐怖。敵意の諸要素をもっている。確かにそ れは俗世から邉れ、人間のはかなさを嘲笑する穏かな皮肉屋の属性 ではない。そ,れは寧ろ疑わしい行動に導く、広く浸み透っている疑 惑の念 ︵餌 眉①目く国oo一ぐΦ qゆ口Qo℃一〇一〇昌︶ である。﹂ ﹁シニシズムは否定 である︵o団参①冨目冨ロ①αq帥江。⇒︶﹂と、セレクマンはいう。そして それは、 時にマキアヴェリズムの近代型 ︵鋤﹃#①7ユ亀qo①o︷ ζ曽。霞碧巴冨ヨ︶となって現われると解する。  ところで経営者がこのような否定的態度をとるに至った理由は何 に求むべきであろうか。第一に、経営が長期に亘って組合の強い圧 迫を受けてきたという歴史的事情と、組合を出し抜いてやりたいと いう強い誘惑が、つねに経営責任者の意識を支配している点があげ られる。すなわち経営者は組合の攻撃をそらすために、組合のもつ 真の意義・機能を無視して、取引、馴れ合い、裏面協定などを当然 とするに至る。また今日の経営者は、高い経濱的地位と事業経営に ついてのすぐれた知識技能と経験をもっており、それらを利用して 組合の裏をかいてやりたいとの願望は、殆んど抑え難い程強力なも のであると解せられる。 ﹁かくしてシニシズムはこのような交渉環 境の中に、それが存続し繁茂する肥沃な土管を見出すことになる﹂。  第二に、政治家の行動にみられる公私二重の倫理基準が、経営者 のシニシズムを促進している事情があげられる。政治に対してシニ 紹 介 カルな態度を持している経営者は馬報復を恐れて、疑がわしい政治 家の申し出を甘受し祥ら、 ﹁政治は政治家に委せてある。われわれ は実践的でなければならぬ﹂を遁辞とするのが一般的風潮である。 そしてこの態度は当然経営者の組合に対する態度にも現われる。け だし人間は﹁品性や道徳に係わる事項において、一方でシニカルで あり乍ら、同時に他方で倫理的であるということはできないもので ある﹂からである。  以上がセレクマンのいう経営者にみられるシニシズムの意義と生 成の基盤に関する論述の大要である。続いてセレクマンは具体的な 労彷関係において経営のシニシズムがどのような形をとって現れる かを問題にしている。  ︵一︶労働関係の基本方針と経営者のシニシズム 労彷関係にお﹁ ける経営のシニシズムの主たる基本要因の一つは組合に対する恐れ である。周知の如く組合組織化の段階では、労使の対立が特に烈し く、いかがわしい幾多の戦略が採用される。そしてシニシズムはこ の種の戦略を正当化するための当然の態度となる。しかもこのよう な態度は、組合を承認し、労彷関係が確立された後でも容易に払拭 せられ得るものではない。現状はまさにそれを物語っているといえ よう。セレクマンはシニシズムの具体的な表示を②マキアヴェリズ ム、㈲bd。門島p。器一ω戸◎〇三・・箆Φ﹁冥Φ騒の利用、㈹組合幹部の 登用︵buξ言σqd昆。口O窪9巴。・︶の四つに分けて考察する。  ㈲ マキアヅェリズム 労仇関係における経営者の﹁マキアヴェリ ズムは開らかに労彷関係生成の経緯に根ざすものである。すなわち 三九

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紹 介 組合に対する憤りと、組合は罰せらるべきであるという潜在的な意 識が未だ拭い去られていないところに、マキアヴェリ化の危険が存 するのである。それは組合指導者との取引、組合及組合指導の弱体 化と分裂の促進などの戦略となって現われる。セレクマンは今次大 戦后のゼネラル・モーター社における手写関係の経過を例として挙 げている。概.要は次の如くである。  G皿杜は一九四五から翌年にかけての長期に亘るストライキでW ・P・ルーサーの率いるUAWの烈しい攻撃に悩まされていた。他 方GM社には小数勢力ではあったがJ・マソトルスの率いる共産主 .義受配の独.立組合UEがあった。この争議で、後者が会社側にきわ めて協力的でその要求もUAWより控え目であったため、会社はU AWをしりぞけ後者と協約を結ぶに至った。かくしてアメリカ資本 主義の指導的地位にあるG二二は、ルーサーを抑えるために、共産 党政略の推進者と手を携えてゆくことになったのである。そして一 九四七年のGM社とUEの協定はアメリカ産業におけるパターンと みなきれ、ここに両者は、短期間とはいえ、産業におけるもっとも 有力な娼簿8導日葬臼となったのである。  周知の如くアメリカの組合運動はび島営①ωω仁三〇巳ω目なる名称 で知られ、その特質は仕事中心的︵︸078霧90蕊︶である点に求 められる。しかるにUEは、共産覚の方針を堅持する独立組合.のな かでのアメリカ最大のものであり、その意図するところは前者とは 全く異っている。それ故にGM社のこのようなやり方は、アメリカ 杜会の支持する組重運動の方向に背馳するものであった。それはま 四〇 さしくマキヴェリ的な溶く箆①碧画毎朝①の方.式に則るものであり 経営者のシニシズムの現れといえる。それ故にこのような方針が早 晩廃棄せらるべきζとは明らかであった。すなわちGM社は一九四 八年に再びUAWと交渉を始め、生産性の増大と生計費の上昇に見 合う自動的賃上げ方式一所謂パソケージ案1を打ち出して、労.        ① 仇関係に新しい途を開いたのである。  このケースに対しセレクマンは次のように見解を述べている。. ﹁GM社のような第一級の会社がシニカルな戦略に頼るならば、そ れは国民の信頼を裏切るものであるといわなければならない。⋮⋮ その会社が大であればある程、また有力なものであればある程、一 層強く同胞の保強者たるの責任を認識すべきである。国にとって善 であることは、大会社にとっても善でなければならぬ。﹂  ㈲ゆ。巳≦震①δヨこれはぜネネル・エレクトリック社の副社 長いΦ日巳①雲切。巳藍碧Φの名から来た一つの経営戦略︵ヨ餌差αQ甲 ユ巴。。財象。σq団︶をいうのである。その基本原則は次のようなもので ある。  1、経営者は従業員のために何がなさるべきであるかを最もよく 知っている。  2、それ故に、経営者はどのような交渉でもそれを行う前に譲歩 すべき最大限をはっきり決めて置くべきである。  3、経営者は実質的にこの線から後退したり、もしくはそれを変 更したりすることは拒否すべきである。  4、必要とあればストライキをも辞すべきではなく、組合が屈服

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㌦ するまで.自らの線を堅持すべきである。  右の原則から明らかなように、しdo巳≦胃皿ω日は経営の優位を常 に保持しようとするものである。それは裏からいえば組合の弱体化 を志向するものに他ならない。氏が、組合加入の任意主義︵︿o一午 三玉野目︶を麦持し、鼠σQ巨み㌣≦o昂冨毒を持つ.べきであると主張 する所以である。われわれは、NPA産業平和要因調査委員会の結 論にみる如き、 ﹁強力な組合こそ経営にとっての盗産である﹂とい う考え方こそ、産業平和を志向する経営者のもつべき組合観でなけ          ② ればならぬと考える。 しかるにbご。巳≦母Φ冨日は真向からこれと 対立する。もちろん﹁経験の積んでいない新らしい組合や、コミュ ニスト麦配の組合、無責任な指導者をもつ組合などとの交渉に見ら れる如き、組合の要求が会祉の存続を脅かす程過大な、ある種の情 況の下では、ゆp三≦霞Φ冨ヨのような抑圧策も止むを得ないかもし ない。しかしその目的が組合の弱体化、組合指導者の打倒にあると, すれば、その戦略は、.組合の信用を墜させ、出来うれば組合を壊滅 させようとする権力のマキアヴェリ的用法に他ならない。それは労 仇者が適切にして正当な代表制度をもつことを否定するものであ る。まさしく切。巳署鉾①富日の重要な倫理上の欠陥は、一の人問制 度︵Pゲ仁日Oロ 一口Q自け帥仲億幹一〇昌︶が、成熟し、責任を果しうるものにま で成長する機会を奪いとるという点に存する。﹂すなわちそれは組 合の健全な成長に不可欠な.要.件である団体交渉や協約の管理の機会 を組合に与えない。しかしこのような戦略は組合を急進的・非現実 訥・戦斗的な指導者の手に委ねる結果を招くのみであろう。 紹 介 、Ud。巳毛霞虫ω巨は従業員の福祉に関する施策に関しても経営の優 越性を主張している。しかし乍らこの見地を強力に推し進めてゆく ならば、必然的に組合は存在の理由を失うことになろう。われわれ は経営と組合が、それぞれ成果の分配という対立利益と、生産性の 増大という共通利益を.媒介として結びついているものであることを 正しく認識しなければならぬ。それ故に、両者の交渉は能率と祉会 正義という二つの基本原則に沿うて、可能な最姜の一致点を見出す ことでなければならぬ。もちろんこれは容易なことではない。その 理由の一つに、組合代表者の山雲にあってその行動を制約している 複雑な政治機構︵喝。讐ざ巴8碧げ貯Φ︶ の存在があげられよう。こ の点に関する十分な認識をもたぬ経営者は、ややもすると組合に対 しシニカルになり、ゆ。三零p話置目のコースを辿り勝ちである。し かし﹁このような方向をとることは、民主主義と、民主主義が有し ている責任ある真の指導者を発展させる能力に対するシニカルな態 度を意味する。このような人間の問題に関しても経営は進んでその 危険を引受けるべきである。﹂  ⑥ 09魚住①閃冥①屋の利用 経営者が労仙関係の.諸問題の処理 に外部の法律家やコンサルタントの援助を求めるこどは薩々見ら.れ るところである。しかし乍らそれはあくまでも技術的な面に隈定せ らるべきものである。しかるにこの限界は必ずしも守られていな い。特に、従来うまく組合の攻勢をそらしてきた転貸が、もはや対 等の交渉を避けることが出来な.いという破目に直面して、○痺ω嵐Φ 国×Φ話を利用する際は注意を要する。すなわちこの.よう場.合は、 四一

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紹 介 ややもすると経営者は、労枕関係の基本方針に係わる倫理基準・戦 略・戦術の決定までも彼らに委ねて自らは関与しないことが多い。 明らかにこのような基本的な職能の放棄は、組合活動そのものに対 する恐れか、さらには否定を示すものといえよう。  ㈹ 組合幹部の登用 最後に組合幹部として有能且攻撃的な人物 を経営側にひき入れようとする方策が指摘される。 ﹁何故この人物 を味方につけないのか。組合にとって役立つ入物であれば、われわ れにとっても役立つ筈ではないか﹂という経営者の態度は大いに反 省を要する。第一にこのような方策は、組合から有能な指導者を奪 い去ることになり、経営者自らが適切な従業員代表の欠如によって 困却する結果となろう。第二に、人は事実上その立場をかえること になる他の任務に移る場合、もとの仲間からの誤解や疑惑を免れ得 ないだろう。それはまさに健全な労仇関係の発展を阻害する組合否 定の態度の現れである。  このことは地方的な名士や政治家を、人事ないし労”切関係の重役 として雇い入れる湯合にもあてはまる。初代フォードによる缶p。目昌 ゆ⑦言卑の登用はその顕著な例である。このような方策は、経営の 組合操縦の意図を示すものとして、工場内のみならず、広く一般社 会の不信を招くであろう。  ︵二︶現場における労働関係と経営者のシニシズム いうまでも なく経営のシニシズムは、全般的な労伽関係においてだけでなく、 工場現場で生ずる諸種の苦情の処理過程においても現われる。特に 本部でなされた労使間の臨きめが、現場で受け容れられないような 四二 場合は、経営側に組合不信の念を起させ、シニカルな態度を強める 結果を招き易い。しかし乍ら現場で生ずる諸種の苦情は、きわめて 複雑微妙な内容をもっており、単純に処理し得ない場合の多いこと が注意されねぼならぬ。 セレクマンが⑧脱腸の人聞情況︵プロ営。。ロ ω同義二〇昌︶と㈲機械化の進展に伴う古参労彷者の問題に注目するの は主としてこの観点からと解せられる。他方経営者のシニシズムが 職場の苦情処理においてどのような形で現われるかが明らかにされ なければならない。セレクマンのあげている㈲処罰の弁明︵甘ω→ 嵐ざpに。口ho門貼冨。活躍昌①︶㈲極端な規則尊重︵o<①ユ①σq下等ωユ。プ餌コら− 一冒σq︶がそれである。  ② 職場の人間情況 団体協約が存在し、苦情処理機構が確立し ている場合でも、これらを以ては解決のつかない複雑な人間情況が 職場において発生しよう。このような場合には必然的に基本的な取 りきめが職場では受け入れられないことになる。かくして人聞情.況 に関する正しい理解をもたない経営者は、いきおい組合不信へと傾 くことになる。この問題に関連してセレクマンは次のような一つの 具体例をあげている。  それは︾⇒身という名の老熟練熔接工がリベット方式の採用に よって不利な情況におかれたケースである。すなわち熔接工にも職 階欄を適用する労使の協定によって、彼は工場の外での重量建築物 の熔接作業につかなければ、従来の賃率を維持することができなく なつ忙。したがって工場内にとどまった彼は、結局げ諺鎚団暴きなる 職階に格付けされひどい賃率切下げをうける破目に至ったのであ

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8 る。彼の苦情は工場長とそれに対応する地位の組合役員との話し合 いにまで持ち込ま.れ、若干の一時金をだすことでまとまった。しかし 乍らこの処置は同じ職場の人々を納得せしめるものではなかった。 彼らは、︾誰畠がひどい取扱いを受けている、彼は最高賃率を以て 遇せられる資格があるし、そうすべきである、目口号土壁の職階 を︾昌身のように長年会社に尽してきた人に与えるのは恥ずべき ことだと烈しく非難抗議した。経営者はこのケースによって組合信 ずべからずの念を抱く.に至り、組合幹部は叉第一線監督者の悪意あ る計らいの結果であるといってその責任を回避した。 ﹁かくしてシ ニシズムは倫理性を強めるための自然の基盤を破壊してしまった。 ︾ゴ珍と仲間の熔接工をとり囲んでいた人心的な価値にもとづい て、より豊かな.関係をきづきあげ、かくして高い倫理性をもった仲 聞︵σQ色伍︶的結合を創り出すことが可能であったにも拘らず、逆 に、癖恨とフラストレイションとを以てこのエピソードは終りをつ げたのである。﹂  ㈲ 古参労仇者の問題 熟練を不要とする機械化の進展は、古参 の熟練労仇者の問題をどのように処理すべきかという、ぎわめて困 難な問題を工場の管理責任者に課している。彼らは大盗本の投下に 伴う上からの生産性増大の要請と、古参労導者に関する人間問題と のジレンマに悩まされている。そして﹁このような情況から生ずる 管理責任者の焦慮の念︵一目忘江。コ。Φ︶はきわめて容易にシニシズ ムに転化する。﹂彼に恩きせがましい態度で︵≦一跨8包窃。魯。。一8︶ 古参労彷者を次々により牧入の少ない低い地位に移してゆくという 紹 介 方法をとるようになる。しかし乍らこのようなやり方は、少なくと もキリスト教倫理に根ぎす人間尊重の精神に合うものとはいい得な いであろう。  ◎ 処罰の弁明 シニシズムに根ざす態度は時に甚だしく苛酷な 処罰となって現われる。そしてそれは屡々虚血論と道徳論の見せ掛 けの混合︵簿ωε翫。憂目食言話。︷叶。。﹃巳。巴き匹巨霞巴碧αq亘ー ヨ①葺。。︶によって正当なりと主張される。  ある工場で.きわめて仕事に妬心な第一級の労導者が、機械の故障 で生産のロスをもたちした時、職長.への報告を怠ったという理由で 三段階格下げされたケースがあった。これが調停に持ち込まれた 際、経営者によって提示された降絡の理由が、故障や生産のロスと いう純粋に技術上の問題に、安全規則の無視・仲間との協力心の欠 如という倫理上の欠陥が大きなウエイトを以て附加されていたので ある。しかし倫理上の理由は、彼が仕事に対する熱心さの余り時に 犯すことがあったとしても、望ましい人間行為の規範を故意に守ら なかったとは認め得なかった。つまり純粋に物的な問題を馬道徳論 によって糊塗しようとしたものであった。  ㈹ 極端な規則尊重 シニシズムは個別的衡平性 ︵冒象≦費巴 ①ρ島眞︶を無視した過度の規則尊重主義︵︼①σQ農。。白︶となって現わ れる。もちろん規則尊重の重要性はいうまでもない。しかし同時に われわれは識別力︵象ωoユ日ぎ讐δづ︶を行使する必要がある。すな わち衡平性が重視せらるべき情況の下で、理非の考慮をも封ずるま でに規則の優位を押し通すのは、それぞれの情況を規制している倫 四三

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紹 介 理的価値を無視するに等しい。職場で発生する諸種の人間問題は、 まさに衡.平性への配慮を大いに必要とする問題に属する。  ︵三︶権威の承認︵ω碧。江。⇒。・o州>o臣母一戸団︶ 以上によって明 らかなように、シニシズムは否定である。それは、﹁人間は本来即 答不断に私利的.自己誇張的︵。・。罵−曽σqαq屋口象Nぎσq︶であり、且他 人を利己的に利用するものである﹂との見地から生れる。それは指 導者のもっとも重要な基本的属性たる真の権威の創出を阻むもので ある。セレクマンが経営者のシニシズムに関する考察を、最戸に権 威の承認の問題との関連においてとり上げたのは蓋し当然のことと いわなければならない。  ところで最近になって、経営指導者の権威は上からではなく下か ら来るものであるとの見解をとるものが漸次多くなってきている。 民主的・キリスト教的社会においては、所有権の適法Q①σq⇔一一曙︶ は、同意︵OO口q。①昌櫛︶ へと途を譲るべきであるとの認識が一般化し つつある証左といえよう。ところで同意は、力︵娼。鶏㊦同︶は倫理的 目標によって規棚され、方向づけられるものである、との確信を基 調としてのみ得られるものである。この種の確信はいはば一の倫理 的気構え︵日。﹃巴℃o。。ε﹁Φ︶であり、それを正しく伝えるものは態 度と行動を措いて他に求めることはできない。それ故に社長や経営 者グループの創り出す倫理的環境が、権威の最も有力な要因となる。 この意味では﹁権威は下からくるのではなく、寧ろ倫理的価値を包 有する人間制度としての事業全体の誠実性︵冒8﹃q二畠。臨チ①の守 ユ器ぴ億ω言①ωω︶に由来するものである。﹂ 四四  経営者のシ一一カルな態度は、あらゆるこれらの方向と矛盾対立す る。まさしくそれは人聞動機についての不信を意味し、疑惑の念を 醸し出すものである。それ故にシニシズムの浸透は人間協力に不可 欠な内在的道徳心︵冒昌2ω詳①ロαq島︶の侵蝕をもたらす。それは権 威の正しい承認を不可能にするであろう。他.を信頼することなしに 自らの信頼を得ることはできない。権威の基礎ばまさにこの相互信 頼︵bP口け自㊤一 叶Hqω峠︶に求めなければならない。今日の産業社会にお いて、労仇関係ほど相互信頼に欠けるものはない。それは一面組合 の未成熟に起因するとしても、他面経営のシニシズムが大きく作用 していることを否定することができない。 ①米国における共産主義支配の労働組合に関しては、P・タフ  ト﹁労働組合﹂大河内・川田訳・第一章参照。 ②O磐ω①。。o︷H風押口芭勺。餌8一巴曲学ξρω.Ω葺け8窒匹  く■∪■℃pDN犀①さ一〇呂℃。ミ 三  ﹁経営者は階級社会を創りつつあるか﹂という第二の論文の標題 は、一見奇異の如く見えるが、論者がこのような極端な形で問題を 提起する所以は、慰書に対する今日の経営者の態度を憂慮し、強く 反省を求める趣意にもとつくものである。すなわち今日㍉経営者が 経済的・政治的見地から述べ且実行していることは、彼らが公言し ている道徳哲掌と甚だしく矛盾しており、このことが健全な労仇関 係の樹立を阻害し、ひいては思わざる階級社会の創出という事態を 顧

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招く危険を胚んでいるというのがその主張の眼目なのである。  たしかに、経営者は階級斗争を排して自由と正義に基づく民主的 祉会の発展を図るのが、自らに課せられている重要な使命であると 公言し、そのためには経営者の社会的責任の認識、労彷組合の成 熟、﹁労使の協力こそまさに当面の課題であると熱心に唱えている。 しかし実情は必ずしもそのような方向に向っているとはいえない。 寧ろ逆であるとさえ考えられる。その理由如何。  第一に、産業の社会構造の基調をなしている階層構造︵7冨冨〒 。げざ巴ω#琴巳器︶が、つねに階級分裂へと転化する危険を含んで いるという事実が指摘される。いうまでもなく階層構造は一般祉会 に通有のものである。それは悪用されぎる限り右益なものである。 けだし階層は、個々人が物的報酬と威光を伴う地位に昇進すること を可能とする、承認された階梯に他ならないからである。また組織 活動においても、われわれは権限を規定し処罰を課するのに階層に たよる。すなわち日常の仕事は、上位者の地位の正当さが承認され ているために殆んど抵抗なしに進められているのである。それ故こ の種の社会構造は自然的且有機的なものであって特に問題とするに は当らない。問題となるのは、マルクス・エンゲルスが共産党宣言 で描いた階級社会、乃至は、経営者が律管者を見下して自らをエリ ート︵①一牌①︶と看徹す所謂ゴ。訂葭9窪跨。ロ的アブpーチによっ て創出される階級社会である。  第二に権力と倫理の背離があげられる。,﹁今日われわれは権力に 関する複雑な問題から生ずる倫理的ジレンマに直面している。経営 紹 介 権は強力な組合と批判的な行政府によって挑戦を受けている。﹂こ こに権力の共右︵の匿同言αq。︷℃。≦2︶という困難な問題が生ずる。 ﹁法を施行したり恩恵を施したりすることは権力を分担するより遙 かに容易である。しかし乍ら権力の共有はキリスト教的伝統と民主 主義の信条の核心をなすものであり﹂否定することはゆるされな い。周知の如くこの倫理の基調をなしているのは、人受の尊厳性・ 平等性・同胞性である。そして経営者も.このような倫理的・社会的 価値は堅持せらるべきであると公言している。しかし乍ら現実に権 力の共有の問題に当面すると、彼らは無意識のうちに自ら公言した 信念を踏みにちり、伽oqび一①冨貯の誤りを犯すに至る。ここに、労 仇に対する経営者の態度について、より徹底した反省を必要とする 所以が存する。  経営者の態度を、その根源をなす意識の態様にまで潮って、考察 を試みたのが第一の論文であった。そこでは経営者の倫理的気構 えとも称すべき基本的な態度が問題の中心であった。これに対し で、第二の論文では、・労祖に対する具体的な施策の実践を通して看 取される経営者の態度が問題とされている。すなわち生産性,イン フレイション・コスト・政府の役割・組合指導者の五つの問題がと りあげられ、これらに対する実践上の態度の究明を通して、階級社 会の創出という社会的な問題が提起されている。  ㈲ 生産性の向上 経営者は生産性の向上において労働者が演じ ている重要な役割を認めようとしない。彼らは生産性向上を理由と する組合の賃上げ要求に対し、生産性の向上は、資本の調達、設備 四五 肉

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紹 介 の更新、マーチャンダイジング、市場開拓などすべて経営者の努力 によるもので、労彷者は何ら寄与するところがない。労寸意は以前 よりもより少ししか潜いていない。直接仕事をしているのは機械で あり、労癖者はその番をしているだけだ、といってこれに反対す る。しかし乍らこれは極めて皮相的な見解というべきである。けだ し生産性の向上は全員の組織的協同なくして達成せらるべきもので はなく、殊に近代化された複雑な組織の下では、誰がどれ程、生産 性向上に寄与しているかを判定することは不可能に近いからであ る。それ故に、経営者は﹁組織内の各種集団に対し差別的な地位の 刻印をおさぬよう注意しなければならぬ。﹂さもなければ自由企業 制度も単なる口頭寒けのこととなり、 ﹁社会の結合やコミュニオン の鼓吹に貢献することはできない。﹂  ㈲ インフレイション インフレイションに対する今日の経営者 の態度は一.冨び。㎏一巳。8ぴ左目①、、の語に尽されている。すなわち組 合の力は強大である。経営者は彼らの要求に屈する以外に途はな い。しかも彼らはつねに過大な要求を持ち出す。かくして雇用費イ ンフレイションと費用補償価格インフレイション︵8。。→oo<臼言σq ℃ほ8一鼠聾ご口︶の間に、必然の因果的連鎖関係が成立する。加う るに労仇協約におけるエスカレーター原則の普及は、事態をさらに 悪化せしめつつある。以上がその一般的見解である。  しかし乍らこのような態度は次の諸点からみて妥当を欠くもので ある。第一に、経営者は労盛者を弁官一般として抽象化している。 彼らは組合が生活主体としての労枕皮の隻団であることを理解して 四六 ’ いない。労仇者が彼らの賃金の引上げを、インフレイションに享え るインパクトという観点に立って受けとっているものでないという ことは、経営者の自らの牧入に対する場合についてもそのまま当て はまろう。それ故に組含が個々の石蚤者の熟練の販売代理機衡︵ヨ㌣ 昂①けぎαq餌αQ窪畠︶として、かち得る最高の価格を要求してくること は、当然のことといわねばならない。第二にインフレイションによ る生計費の上昇は、多く賃上げに先行して生ずるということが考慮 せられねばらない。概括的にいって、物価水準を引上げているのは、 経営者の過度の設備拡張や消費者信用の増進を含む市場拡大活動で あると解せられる。インフレイションの最大の被害者は賃金労仇者 である。それ故に組含は好況時に寧ろ控え目であり、末組織労彷者        ② の上昇率がより大であることが多い。  第三に遺憾の平等性︵①上巴芽。眠臣。ミ8①︶があげられる﹂す なわち賃上げの抑制はすぐれて、.経済的社会的地位の高い経営者が 率先して行う倫理的な運動の成果︵騨ΦH①。。ロ即。州論意。層巴〇三ω螢亀⑦︶ たるべきである。最近の多くの団体交渉では、USスチールの例に 見られる如く、経営者は賃上げと値上げの引替えを提案してい﹂る。 しかしこのような提案は労仇者の犠牲を求めるにとどまり、経営者 個人の牧入にはひびかないだろう。けだし後者は牧益力の如何によ ってきまり、価格の引上げを行うか否かは直接問題とならないから である。さらに注意を要するのは、経営者は、旧来の所有者の地位 に伴う儀牲を払うことなしに、それに附随する象徴や利益ぽそのま ま引継いでいるということである。その上彼らは労仇組合や政府か

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らの攻撃に対しては、専門経営者としての新しい枠組を利用するこ とも忘れていない。彼らは株主・顧客・仕入先・従業員など各種集 団の利益の調和を図るのが任務であると主張し、その攻撃をかわそ うとする。まさしくインフレイシヨンは差迫った危険ではある。し かしその責を経営者以上に組合に帰せしめる理由は存在しない。す べてが自発的に儀牲を払うか、政府が財政・金融面から犠牲の均等 化を図る以外に途はなかろう。  ⑥ コストの問題 労仇のコストの中に占める地位に対し、経営 者の態度に反省を要する二つの問題が看取される。第一は..乞。 芝。目ぎ乞。勺趣、、の語で示される旧態依然たるコスト観である。労 務費は単なる遠歩力コストではなく、人間コスト︵ず口自Pゆ昌 OOq陰け︶ でなければならない。換言すれば、労達者をアメリカ社会の一員と して正当に取扱うためには、労務費は固定費として考慮せられねば ならない。第二に労仇の移動性︵Boげ一=¢︶に関する誤れる見解で ある。労伽の移動可能を前提とする限り、それを阻む要因となる杜 会保障計画の如きは否定されざるを得まい。移動性の概念は経出置 上の技術用語であり、労仇市場という限られた面での抽象化された 人間を前提としている。しかるに、実情は、労尋者がきわめて定著 性の強いものであることを示している。  ⑥ 政府の役割 経営者は原則として政府不干渉主義に組する。 しかし実際には、政府が事業に有利な施策を行うのを望まぬものは あるまい。彼らは自らの求める施策は正当なものであり、民主主義 の利益になると称し乍ら、労仇者の求める社会立法の実施に対して 紹 介 は、政府が福祉国家ないし祉会主義化を目指していると反対する。 周知の如く﹁同胞の福祉に対する関心は、.キリスト教教義における 基礎的なものである。それは愛,の徳から生ずるものである。﹂,にも 拘らずそれが政府の施策として具体化される段になると、隷従への 途︵汁げ① 村O土左 けO q口Φ吋戸山O附P︶に通ずると経営者は反対する。もろ もろの社会立法、労彷立法に対して執拗に繰返されてきた反対は、 歴史にみる如くである。もちろん経営者が国費の浪費や、経済・社 会生活の官僚化に反対するのは当然である。しかしそれは問題の一 面をみているにとどまる。今日政府は産業の危急を救い、人間福祉 を増進するのに大きな役割を果している。経営者は保守主義の限界 を超えた反動の態度をとらぬよう注意すべきである。政府の福祉活 動は、今日の一般社会において人間の尊厳性と機会の平等を保持す るために不可欠である。けだし三陸生活が甚だしく複雑且不安定に なっているため、個々人が独力で不慮の変事を乗り切ることができ ない場合は、共同社会が最少限の保謹を与えるのが当然のことと考 えられるからである。  ⑥ 組合指導者の政治家的行動 経営者はつねに組合指導者の政 治家的態度を非難する。明らかに組合の組織は経営組織と異なる政 治的枠組をもっている。すなわち経営者は選挙のための政治活動を 行う必要はないのである。しかし乍ら他方広い意味での政治.的な活 動は、人間杜会を特徴づけている不断の、且正常な活動であるとい う意味では、経営者も組合指導者と異なるものではない。広告活動 ・販売活動・マーチャンダイジングなどにおいて、彼らは自らの商 四七

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紹 介 品やサービスに代って消費者の投票に訴える。それは明らかに売上 において記録される票に他ならない。もちぢうんわれわれは、デマゴ ギイ・歪曲・主情主義︵oヨ。臨。昌巴冨ヨ︶などの政治活動の悪い面 については批判的でなければならぬ。しかし組合にしろ経営にし ろ、未だこのような面を完全に克服するまでに成長していないとい うのが現状であるといえよう。しかもある意味ではデマゴギイ.歪 曲・主情主義は、民主主義の副産物とも考えられる。それ故にこの ような面の克服には、今後長期にわたる、たゆまぬ努力が必要であ る。醗ってより通俗的な意味での政治活動に限定して考えてみて も、経営者が政治的な活動を行っていることは否定し得ない事実で ある。彼らは自らにとって最善と考える線に沿うて与論を創り出し、 国政に影響を与えようとしている。経営者団体の活動は明らかにこ のことを示している。それはAFLiC10が労仇者のために行っ ている政治活動と、果して幾許の違いがあろうか。もちろん両者の 政治活動を支えている根本の考えは異なっている。しかし具体的な 活動の方式に関する限り両者の間に甚だしい逞庭は存在しないであ ろう。それ故に、経営者のみが政治的な活動に随伴する悪を犯して いないと抗弁するのは、正鵠を欠くものといわざるを得ない。  労仇乃至労三組含に対する経営者の行動は、一般社会の価値基準 に背馳するものであってはなるまい。否、寧ろ積極的に社会的価値 の実現に寄与すべきである。それが経営者の社会的・倫理的責任で あるといえよう。しかし乍ら上述に見る如く、彼らの実践における 態度は甚だしくこれと距りをもっている。かくして極めて自然的且 四八 有機的な社会構造として発展してきた階層構造は、二つの層に分極 化し、ひいては思わざる階級社会へと転化する危険を胚んでいると いうのがセレクマンの見解である。 ④ 組織労働者と未組織労働者の賃金格差について桜林氏は、米  国の﹁産業間格差は組織率よりも寧ろ労働の生産力と市場条件  の変化を一層よく反映しているように思われた﹂と述べてい  る。桜林三三、労働経済学序説、四九頁。 四  労彷関係は独立主体たる経営と組合の自主的関係として生成発展 せしめらるべきものである。そしてそのためには、 ﹁強力にして責 任ある、民主的な組合こそ経営にとっての資産である﹂ということ が、経営者によって正しく理解され、意識せられねばならぬ。この ことは、正常なる労彷関係の樹立を、自らの社会的責任に係わる重 要な任務であるとする彼らの主張の基本的前提要件でなければなら ぬ。しかるに彼らの現実の行動は、甚だしくこれと距りをもってい る。それは正常な労協関係樹立の方向とは逆に、思わざる階級社会 創出の危機をもたらしつつあるかに見える。そしてこのような行動 は、彼らの公言する社会的責任の主張とは全く逆に、シニシズムが 彼らの組合に対する態度の基調をなしていることを示している。以 上がセレクマンの見解である。  たしかに、現実の労彷関係はセレクマンの主張を裏書きするかに みえる。しかし乍ら注意すべきは、セレクマンの考察が、専ら倫理

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的な社会的価値を基調として行われておるため、あたかも労仇関係 は社会的価値という外在的な基準によって一義的に規定せられ得る かの如く解せられる点である。  いうまでもなく、経営にとっては労伽関係も経営活動の一部であ る。それ故に経済的含理性の問題は、つねに意識せられねばなら ぬ。それは経営者の行動を規制する重要な指標である。したがって 倫理的な要請は、合理化の実現を阻むものであってはならない。と ころで、乾乳的合理性に関しては、労彷組合の態度と行動に批判せ らるべきより多くの問題があるといえよう。それはいわば組合の、 経営に対するシニシズムの現れとも称せらるべきものであり、そし てそれは当然経営者の態度にも影響を与える。しかるにセレクマン の上述の論・文では、組合の正常ならざる行動は、すべて経営のシニカ ルな態度によってのみ誘発きれるかの如く看倣されている。労仇関 係はつねに経営と組合両主体の相関において発現するものである。 われわれは、経営者のシニシズムが正常なる労彷関係の発達を阻害 している事実を否定することは出来ない。しかしそれと同時に、組 合のシニシズムもまた決して無視し得ないことを注意しなければな らぬ。

判例研究

︹判例研究︺

旅客手荷物の喪失と旅店主人の責任

昭和二七年一

一月二一日東京高等裁判所判決

︵羅鞭塵朝露舞認峯蝶確二八覆し

︹判示事項︺  一、客が旅館に預けた物品の喪失と旅館従業.員の 過失の有無。二、右物晶の喪失についての被害者たる客の過失 の有無。 ︹主文︺ 原判決を左のとおり変更する。被控訴人は控訴人に対 し金十万円及び之に対する昭和二五年=一月一日以降右完済に 至る迄年五分の割合による金員を支払え。控訴人の其の余の請 求を棄却する。 ︵以下略︶ ︹事実︺ 控訴代、理人の主張によると、控訴人︵藤田房司︶は昭 和二五年九月二八日浜松市板屋町で東海ホテル︵旅人宿程度の 旅館︶を経営している被控訴人︵徐志軒︶方に投宿し、訴外浮 海清八郎と面談した。そして翌二九日午後一時頃右浮海と同道 して外出するに際し、控訴.人は所持の金九十九万八千円在中の 鞄を、被控訴人方の従業員︵女中︶木川ちゑ子に対し、多額の 金員が在中している旨を告げて交付してその保管を託し、同女 四九

参照

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