南アジア研究 第28号 001杉江 あい「バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容」
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(2) 南アジア研究第28号( 2016年). ドにおけるコミュナル暴動の発生と広まりにより、コミュナル対立に抗 する糸口として焦点が当てられるようになった[Varshney 2002 ; Williams 2007] 。なかでも、聖者信仰は異宗教徒間の分断や対立を接合する宗教. (的)空間として注目されている[関根 2008 ; 三尾 2015 等 ; cf. van der Veer. 1994 ; 外川 2009] 。. しかし、これまでのバングラデシュ村落研究では、宗教によって社会 1. を分ける枠組みが維持され、 マジョリティであるムスリム のみが対象地 域から抽出されて研究対象とされてきた [Bertocci 1970; Islam 1974; Arens. and van Beurden 1977; Thorp 1978; Jahangir 1979; Hartman and Boyce 1983;. Arefeen 1986 ; Karim 1990 等] 。なかにはマイノリティであるヒンドゥー. も対象に含めた研究も見られるが、ヒンドゥーとムスリムは異なる原理 の社会を持つという前提から、あくまで両者を個別に扱い、両者の社 会構造や生活様式の類似性・相違性を検討するにとどまり[Zaidi 1970 ;. Chowdhury 1978 ; Aziz 1979 : cf. Zene 2002] 、ヒンドゥーとムスリムを1つの 村落社会空間を構成・共有する主体として捉える視点や、両者が共同す 2. る空間に関心を向けた研究は現れなかった 。これは、バングラデシュ ではインドに比べて大規模なコミュナル暴動が少なく、異宗教徒間の関 係に関心が寄せられなかったことにもよっていると考えられる。しかし、 継続的なヒンドゥー人口の国外流出は(表1) 、水面下でマイノリティに 対する抑圧や葛藤が存在することを表しており[外川 2004] 、コミュナ ル暴動の有無のみでバングラデシュのヒンドゥーが置かれた状況を判 断するわけにはいかない[佐藤 2004 : 115 -116] 。 本稿は、 「ヒンドゥー社会」 、 「ムスリム社会」というように、宗教に よって社会を所与に分断した見方を取るのではなく、バングラデシュの 1つの村でヒンドゥーとムスリムがいかに物理的・社会的な距離を取り ながら暮らしてきたのか、また社会的な活動をどのように共同してきた のかを明らかにする。従来のバングラデシュ村落研究において、社会生 活を営む上で重要な紛争解決や宗教施設・行事の運営を共同する社会 3. 組織として着目されてきたのは、ショマージ(samāj) である[Bertocci 1970; Thorp 1978; Aziz 1979; Jahangir 1979; Hartman and Boyce 1983; Karim 4. 1990 ; Khan 1999 ; 向井 2003 等 ; cf. 安藤ほか 1995] 。筆者が別稿で扱った. 8.
(3) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. タンガイル県の B 村では(図1) 、ヒンドゥーのショマージにおいて紛争 解決が自立的に行われず、近隣のムスリムによる一方向的な介入がなさ 5. れており 、このことはヒンドゥー・ムスリム間の不平等な権力関係に 由来していた[杉江 2014] 。本稿では、ショマージにおける紛争解決や 宗教的活動がどのような主体によって、いかに担われてきたのかを明ら かにすることから、ヒンドゥー・ムスリム間の関係を検討するだけでな 1. 図 1 対象地域と青年組合が設立されている村. 注 本稿では住民のプライバシー保護のため村名は明かさず、対象地域図は村が特定されないスケールのもの にした。図中の地域ではモウザと村の境界はおおむね一致する。筆者が青年組合の有無を確認したのは図中に 名前を示した村のみであり、その他の村では未確認である。B村には青年組合はなく、青年組合のあるP村は ムスリムのみから成り、青年組合のあるその他の二重枠のある村はヒンドゥーとムスリムから成る。 出所 [BBS 1986b]、Global Administrative Areas database, version 2.0、現地調査に基づき、筆者作成。. 表 1 バングラデシュおよび対象地域における宗教別人口の推移 表 1 バングラデシュおよび対象地域における宗教別人口の推移. 1941 1951 1961 1974 年 宗教 ムスリム ヒンドゥー ムスリム ヒンドゥー ムスリム ヒンドゥー ムスリム ヒンドゥー 11,747 32,227 9,239 40,890 9,380 61,039 9,373 バングラデシュ 29,509 BBS 1986b Global Administrative Areas database, version 2.0 NA NA 988 143 1,258 134 1,819 154 タンガイル県 Village G NA NA NA NA NA NA NA NA 1981 1991 2001 2011 年 宗教 ムスリム ヒンドゥー ムスリム ヒンドゥー ムスリム ヒンドゥー ムスリム ヒンドゥー 10,570 93,881 11,179 111,393 11,608 130,205 12,300 バングラデシュ 75,487 2,206 220 2,748 236 3,043 234 3,343 246 タンガイル県 Village G 1,016 101 1,043 84 983 76 1,099 83 注 バングラデシュとタンガイル県は 1000 人単位である。 出所 [Nomani 1955]、[Rashid n. d.]、[Ghulam 1977]、[BBS 1977, 1984, 1986a, 1994, 1996, 2007a, 2007b, n.d.]により筆者作成。. 9.
(4) 南アジア研究第28号( 2016年). く、村を基盤として形成される青年組合に焦点を当てる。特定の目的の もと、村や集落等のコミュニティや女性、土地なし層等の特定の集団に よって形成される住民組織は、主に開発研究において取り上げられてき た[Siddiqui 2000 : 95 -161 ; 村山 2004] 。そのなかで関心が向けられてき たのは、共同貯蓄や小規模金融プログラム、資源管理プロジェクト等に 伴い、住民ないしは NGO 等の公的機関によって組織化されたものであり. [Thompson 2003 ; 七五三 2009 ; 鈴木 2010 等] 、スポーツや文化行事等、開. 発とは直接的に結びつかない地域の社会的活動を担う草の根の組織に ついては、 ほとんど取り上げられてこなかった[cf. Siddiqui 2000 : 14] 。こ うした社会的活動を行う青年組合(youth club/ village club)の存在そのも のは各地で報告されているものの、その詳細については記述されていな い [Zaidi 1971 : 27 ; Khan 1999 : 133 ; 藤田 2005 : 251] 。杉江[2014]で扱っ たB 村では、ヒンドゥーとムスリムから成る青年組合の設立が試みられ ていたが、金銭的なトラブルや活動を牽引するリーダーの不在によって 頓挫していた。しかし、B 村周辺の村々では青年組合が設立されており、 ヒンドゥーとムスリムが居住する村ではいずれも両者ともがその成員で 6. あった(図1) 。本稿では、そのなかでも青年組合の活動が長年継続さ れてきたG 村の事例を取り上げ、当村において青年組合が成立した素地 を考察するともに、青年組合がヒンドゥー・ムスリム間の良好な関係維 持や両者の社会生活においてどのような役割を果たしており、またいか なる問題や限界が見られるのかを考察する。なお、本稿はG 村の事例を バングラデシュにおけるヒンドゥー・ムスリム間関係の典型として一般 化するのではなく、村落レベルのインフォーマル・ガバナンスにおける 両者の共生のあり方の1つとして提示する。両者間の分断や対立、ある いはそうした側面を相対化するような関係や取り組みが、いかなる条件 の村でどのように展開されているのかを明らかにすることは、分断や対 立を解消・緩和するための理論構築を目指す社会科学的な関心からも意 義深いと考えられる。 本稿の構成は以下のとおりである。第 2 節では、バングラデシュの村 落構成および G 村の概要、調査方法等について述べる。第 3 節では、住 民のインタビューや資料によって遡ることができる20 世紀初頭以降か. 10.
(5) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. ら、G 村の人口構成とヒンドゥー・ムスリム間の物理的・社会的な距離 がいかに変化していったのかを明らかにする。そのなかで、青年組合の 形成の経緯と組織形態について述べる。第 4 節では、筆者の調査時にお いて、ショマージおよび青年組合における社会的な活動がいかなる主体 によってどのように行われていたのかを、ヒンドゥーとムスリムの位置 関係に着目して詳述する。. 2 バングラデシュの村落構成と対象地域 バングラデシュの地方行政単位は、ディストリクト(県) 、ウポジラ (郡) 、ユニオン(行政村)であり、ユニオンは地租行政単位のモウザから. 成る。ユニオンには、末端の行政機関であるユニオン議会が設置されて おり、議長 1名と議員12 名が各選挙区から直接選挙で選ばれる。人口統 計に使用される単位の villageは、人が居住しているモウザあるいはその 一部である。これらの行政単位は英領時代に導入されたものであり、自 然村の境界とは必ずしも重ならない。住民が帰属意識を持つ自然的な村 落単位は、グラム、パラ、バリである。バリは単数あるいは複数のグシュ 7. ティ(父系親族集団)に属する世帯 が家屋を構える屋敷地であり、パラ は単数あるいは複数の屋敷地から成る集落である。グラムは集落とその 周辺の土地を合わせた領域で、通例、村と訳される。本稿では、グラム、 パラをそれぞれ村、集落と記す。ショマージは明確な地理的境界を持つ わけではないが、特定の村や集落を基盤として形成され、住民間の対立 や人口増加等によってしばしば分裂する。ショマージは基本的に宗教別 に形成されるが[cf. Arens and van Beurden 1977 : 147] 、本稿の対象地域 において村のショマージ(grām er samāj)という場合は、宗教の違いに かかわらず、特定の村を基盤として形成された複数のショマージを包摂 するものを指す[cf. 安藤ほか 1995 : 43 -44] 。単独でショマージという言 葉が使用される場合も村のショマージを指す場合があるが、本稿では宗 教別に形成されるショマージと区別するため、村のショマージとして記 述する。これらの自然的な村落社会単位は行政機関とフォーマルなつな がりを持たず、ショマージに複数名存在するマトッボルと呼ばれるイン フォーマルなリーダーが行政との橋渡し役をするのが一般的である。マ. 11.
(6) 南アジア研究第28号( 2016年). 図 2 1918 年時の G 村における諸施設とバリの分布. 図 2 1918 年時の G 村における諸施設とバリの分布. 出所 Cadastral Survey Map、現地調査に基づき筆者作成。. トッボルは選挙等によって選出されるわけではなく、経済・教育水準や 地域外の有力者とのつながり等により、住民からマトッボルとして認知 されることに基づく地位である。バングラデシュでは、紛争解決にはマ トッボルが集まって村裁判(sālis)を行うのが一般的であり、 その判決の 効力は法的に認められている。住民は紛争解決において、ユニオン議会 や警察等の公的機関の介入を可能な限り避けようとするが、村裁判での 解決が不可能だった場合、ユニオン議会等の法廷に持ち込まれる。 本稿の対象地域であるG 村が位置するタンガイル県南部は、17 世紀 初頭からムスリムの大ザミンダールが存在した地域として知られてお. 12.
(7) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. 図 3 2012 年時の G 村における諸施設とバリの分布. 図 3 2012 年時の G 村における諸施設とバリの分布. 出所 現地調査に基づき筆者作成。. り、18 世紀末に分割されたその地所を所有したザミンダールの多くもま た、ムスリムであった[Sato 1985 : 102] 。その一方で、有力なヒンドゥー のザミンダールや商人組合も存在し、東ベンガル一般の傾向と同様に、 パキスタン建国までこの地域のヒンドゥーの経済・教育水準はムスリム のものよりも高かった[Sato 1985 : 103] 。この地域では現在も比較的ヒン. ドゥー人口が多いが、G 村では、1918 年のCadastral Surveyによる地籍図. に示されたバリの数と、 「ムスリムは村の北部に、ヒンドゥーは南部に 集住していた」という住民の話から推測する限り、少なくとも20 世紀初 頭にはムスリム人口がヒンドゥー人口と同程度、あるいはそれ以上居住. 13.
(8) 南アジア研究第28号( 2016年). していた(図2) 。近年のG 村の宗教別人口構成の推移は表1 のとおりで ある。2012 年時、ヒンドゥーは 20 世帯で1つのショマージ、ムスリムは 305 世帯で1つのショマージを形成していた。ヒンドゥーのカースト構成 は、バラモン1世帯、マラカル 2 世帯、シル14 世帯、ノモシュードロ3 世 8. 帯であった 。紙幅の関係からデータは割愛するが、G 村はジョムナ河の. 氾濫原に位置し、アモンおよび IRRI 稲、ジュート、からし菜を主要作物. とする。中農層が最も多いが農業従事者よりも賃金雇用労働者(chākri) や海外出稼ぎ者の割合が高く、 国や県全体の統計データに比べて高学歴 者が多い村である。ヒンドゥー・ムスリム間の経済・教育水準の格差は、 年齢別に比較しても明確には見られなかった。なお、G 村の属するN ユ ニオンは[杉江 2014]で扱ったB 村を含む 24 村から成る。G 村は個別の 集落に分かれておらず、村の領域は一部隣接するモウザを含むが、おお むねモウザと村の境界は一致している。 9. 調査方法は参与観察および住民へのインタビューである 。筆者は全 戸調査のため各世帯を2回訪問した際に、世帯員のうちの1人~複数人 に村の歴史、ショマージや青年組合の活動に関する話を聞いたほか、年 長者やマトッボル、青年組合の構成員に対しては改めてインテンシブな インタビューを行った。第 3、4 節の記述は基本的に住民からのインタ ビューに基づく。そのなかで筆者が観察した事項については「調査時に おいて」というように断りを入れ、文書等の資料による情報はその出典 を明記する。インタビュー内容を引用する際には、話者の属性を(年齢・ 10. 性別・宗教または/およびカースト)と示し 、ムスリムはM、ヒンドゥー. は H、それぞれのカーストはバラモンをB、マラカルをM、シルをS、ノ モシュードロをNとする。主な調査期間は 2011年 3 月~ 2012 年 2 月であ り、2012 年 6 月・8 ~ 9 月、2013 年 3 月・6 ~ 7 月、2013 年12 月~ 2014 年 3 月、8 ~ 10 月、2015 年 9 月に追加調査を行った。本稿で調査時と述 べたときはこれらの期間を指す。. 3 ヒンドゥー・ムスリム間の物理的・社会的な距離の変化 3-1 ヒンドゥーの流出とムスリムの居住空間の拡大 上述のように、1918 年時、G 村では宗教別にすみわけがなされていた. 14.
(9) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して― 11. (図2) 。ヒンドゥーのカースト別のバリ分布は不明な部分が多いが、 カ 12. ヨスト のグシュティが複数住んでいたことが聞かれた。ムスリムの草 分けのグシュティはボロ・バリに定住し、少なくとも200 年以上前にモ スクが建設されたという。住民からは、英領時代末のヒンドゥーとムス リムの関係を暗示する次のような話が聞かれた。 「第 2 次世界大戦の頃、 G 村の(ムスリムの)マトッボルはショルカル・バリ(図 3)の A・ショル 13. カルという名前の人物だった 。P・カーン(話者の父、故人) 、I・ミヤ (2011 年時に115 歳で健在であった男性)は5 歳ほど年齢が違ったが仲が良. く、いっしょに(G 村の)ヒンドゥーの土地の竹を切りに行った。当時は ヒンドゥーが権力を握っていた。 (2人が)竹をこっそり切っていると、 ヒ ンドゥーが怒って『お前たちは誰だ』と尋ねてきた。2 人は名乗ったもの の、竹をたくさん切って持って行ってしまった。ヒンドゥーは A・ショル カルに対し、この2 人に制裁を下すように言った。しかし、A・ショルカ ルは知恵をめぐらせ、 『その2 人に関しては、私の手にも負えない』と嘘 をついたので、ヒンドゥーも2 人のことを恐れて何もせずに帰って行っ たらしい」 (60 代男性 M) 。この話からは、 英領時代末はヒンドゥーの権力 が強かったがムスリムの間にも有力なマトッボルがいたこと、また、同 じ村でもヒンドゥーとムスリムの間で互いに見知った関係にある者が限 られており、両者間で問題が起こっても村裁判は合同で開かれなかった ことがうかがえる。このことから、当時のヒンドゥーとムスリムの社会 的な距離は、その居住空間の距離が示すように、調査時のものと比べて 14. 大きなものであったことが推測される 。 調査時に60 代後半から90 代であった住民の話をまとめると、G 村の 高カースト・ヒンドゥーはカースト差別を実践していたが、政治経済的 な地位はそれほど卓越したものではなく、マラカルやシルの間にも大土 15. 地所有者や教育を受けた者が見られた 。ショマージはカーストの違い に関わらず、G 村のヒンドゥー全員で1つとされていた。当時のG 村には カーリー寺院があり(図2) 、ショマージ・ベースでカーリー・プジャが行 われていた。1960 年頃には村医者であったシルの自己資金によってドゥ ルガ寺院が建設され(図 3のシルとムスリムがともに住んでいるバリ) 、 建設 者とその親族によってドゥルガ・プジャが行われるようになった。なお、. 15.
(10) 南アジア研究第28号( 2016年). G 村のヒンドゥーは村内の寺院だけでなく、隣村のラダ・ゴヴィンド寺院 (図2)の管理やシヴ(シヴァ) ・プジャ等も近隣村のヒンドゥーとともに 16. 行ってきた 。他方で、ムスリムの間でもショマージは1つであり、数人 のマトッボルがモスクの運営を主導していた。 G 村のヒンドゥーがインドへ流出したのは、パキスタン建国やバング ラデシュ独立戦争(以下、独立戦争とする)後に多く、特に富裕層や学歴 の高いヒンドゥーが、将来ムスリムの国で暮らす中で名誉や権威を失う ことを恐れて流出していったことが聞かれた。最後まで住んでいたカヨ ストが流出し、G 村からカヨストがいなくなったのは1976 年であった。G 村では近隣のムスリムがヒンドゥーに対して襲撃や脅迫を行ったという 話は聞かれなかったが、他の地域の事例と同様に[Adnan 1990 : 59 -60] 、 流出したヒンドゥーの土地をムスリムや他のヒンドゥーが違法に自らの 所有地にしてしまったことが聞かれた。流出したヒンドゥーのバリへの ムスリムの流入は、 早くはパキスタン建国直後から見られた。ヒンドゥー の所有していたG 村内の土地に1980 年代半ばまでに流入してきた世帯 はすべて、もともとG 村に住んでいたムスリムであった。1960 年代以降 には、G 村にもともと住んでいたムスリム世帯が隣接する村々において も新しいバリを形成して居住するようになった(図 3) 。これらの世帯の ほとんどは、調査時にもG 村のムスリムのショマージに所属し続けてい た。このように、パキスタン建国以降、G 村ではヒンドゥーが流出し、そ の居住空間が縮小していく一方で、ムスリムの居住空間とショマージは 村を越えて拡大していった。 3-2 ヒンドゥーとムスリムの交流の空間 上述と同様に年長者らに話を聞くと、パキスタン時代には次第に地 域におけるヒンドゥーの政治的な影響力が衰えていき、それまではムス リムの間の問題解決のためにカヨストが村裁判に呼ばれたこともあった のに対し、ムスリムがヒンドゥーの間で起こった問題の村裁判に協力す ることが増え、プジャにもムスリムが自ら出向くだけでなく、招待され て行くようになった。パキスタン時代末には、N ユニオン議長を決める 際にG 村だけなく近隣村のヒンドゥーもみなG 村のムスリムを支持した. 16.
(11) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. という話も聞かれた。ヒンドゥーがムスリムに対して政治的に従属的に なっていく傾向は、独立戦争以降にいっそう強まったという。 1918 年時に比べ、パキスタン建国以降にはヒンドゥーとムスリムの居 住空間は近くなっていたが、調査時と比べれば、両者の社会的・心理的 な距離はなお遠かったと考えられる。30 代から80 代までの様々な世代 の男女両方の住民から、 調査時とは異なり、 昔はムスリムがヒンドゥーの バリに来ても家の中には入らず、またヒンドゥーも家の中には入れたが らなかったという話が聞かれた。たとえば、 「昔はムスリムを家の中に入 れてはいけなかった。家の入口の土間に座って話すことはできた。私の 父親は民間治療師(kabirāj)だった。治療用の小屋がバリ内にあり、 (そ こで治療をするので)ムスリムを家に入れる必要はなかった」 (50 代男性 HS)という話から、ヒンドゥーがムスリムに治療を施したり、家の外で. 話をしたりすることはあっても、家の中という私的な空間は互いに閉じ られていたことがわかる。また、 「入れてはいけなかった」 、 「話すことは できた」という住民の口調は、話者が自らムスリムを家の中に入れよう としなかったというよりは、ムスリムを家に入れることがタブー視され る社会的な規制があったことを示している。 このような規制が緩まり、両者の家の中への行き来が次第になされる ようになったのは、独立戦争時の出来事がきっかけであったと考えられ る。独立戦争時に農村地域において西パキスタン軍や西パキスタンを支 持した民兵による襲撃の標的となったのは、高位カーストを主とする豊 かなヒンドゥーであった。当時、 G 村のヒンドゥーは西パキスタン軍によ る襲撃を恐れ、ダッカ・タンガイル県都間の幹線道路から続く道(図 3の 舗装道路)の付近にあったカーリー寺院(図2)を自ら壊し、息をひそめ. ていた。実際に、その道には西パキスタン軍がやってきたという。この 危機に際し、G 村のムスリムは同じ村に住むヒンドゥーを守るため、西パ キスタン軍に対して「このあたりにはヒンドゥーはいない」と言い、ヒ ンドゥーの家でいっしょに暮らして警護をしたという。これは、宗教に よる違いよりも、隣人としての共同的なつながりが強く発揮された出来 17. 事であったと言える 。ヒンドゥーとムスリムの間の家の中の行き来に関 する規制が緩んだのは、戦争という非常事態に際して家の中という閉じ. 17.
(12) 南アジア研究第28号( 2016年). られた空間が開放され、同じ家の中で暮らすという経験を経たことによ ると考えられる。 18. 他方で、学校の校庭 という公共空間においては、宗教に関わらず男 性の間でスポーツや文化行事等を通じた交流がなされていた。調査時 においてG 村の男性の多くは年齢に関わらず、G 村の常設市(図 3)の 茶店で過ごす者が多く見られたが、調査時に健在であった住民に聞くか ぎりでは、1996 年に常設市ができるまで男性の主要な余暇の場は学校 の校庭であったという。そこでは宗教に関係なく青年がともにスポーツ 19. に興じたり、背景画等を作成して演劇を行ったりしていた 。このよう なレクリエーションを組織的に運営するようになったのが、通称「クラ ブ」と呼ばれる青年組合である。青年組合の正式名称は、G開発青年組 合(G palli unnayan jubak samiti)であり、1948 年に設立され、1976 年に社 20. 会福祉省に登録された 。青年組合では、活動を主導する委員会が設置 され、組合長を筆頭に、総事務長や会計等、16の役員が定められてお り、原則的に1年任期で毎年 6 月に役員選出がなされていた。G 村のショ マージの男性であれば誰でも役員に立候補することができるが、顧問委 21. 員会 が立候補者の中から16の役員を選出する決まりとなっていた。本 稿の問題関心から16の役員の中で注目されるのは、イスラーム教事務長 (Islam dharma sampādak)とヒンドゥー教事務長(Hindu dharma sampādak). である。ヒンドゥー教事務長のみは顧問委員会が選ぶのではなく、ヒン ドゥーの間で相談して決められるようになっていた。ヒンドゥー教事務 長にはカーストに関係なく、そのときどきにおける有力者が選ばれてい たというが、具体的に挙げられた過去の事務長や役員はカヨストであっ た。これらの役員以外の青年組合のメンバーも、G 村のショマージの男 性であれば誰もがなることができるが、当時はメンバーの名簿は作成さ れておらず、何らかの活動のたびに不特定多数の男性が集まる形となっ ていた。青年組合の活動資金には地域の富裕層からの寄付だけでなく、 村裁判で支払われた罰金や謝金等も充てられた。これらの中には、G 村 のムスリムのマトッボルが、独立戦争後、近隣村のヒンドゥーが脅迫や 嫌がらせを受け、内密に土地をすべて売却してインドに流出していく際 に護衛としてインド国境付近まで送ったり、違法に乗っ取られた近隣村. 18.
(13) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. のヒンドゥーの土地を取り返すための村裁判を起こしたりした際に受け 取った謝金も含まれていた。 また、G 村では諸行事や施設の運営等に関する合意形成を行う際に は、各ショマージごとにそれぞれの宗教施設等で総会が開かれ、所属世 帯に参加が呼びかけられていたが、青年組合や G 村全体に関することが らについては学校の校庭で総会が開かれ、宗教に関わらず村のショマー ジに所属する住民全員が一堂に集まる場所となっていた。これらの総会 では議事録が作成され、参加者 1人 1人が署名をすることによって、総 会においてなされた決定を承認するしくみとなっていた。以上のような 青年組合の組織形態と総会の実施は、調査時に60 代だったマトッボル の1世代前の時代から取られているという。. 4 調査時におけるショマージと青年組合の活動 調査時にはヒンドゥーとムスリムが同居するバリも見られ(図 3) 、両 者が互いの家を行き来したり、結婚式等に招待して食事の招待をし合っ 22. たりする様子が見られた 。また、特にヒンドゥーとムスリムが隣り合っ て暮らしているところでは、宗教の違いに関わらず互助がなされてい た。ショマージはヒンドゥーとムスリムで別々とされており、 「村はGだ がヒンドゥーのショマージとムスリムのショマージがあり、社会的な活 動は別々である。村裁判はいっしょにする」 (60 代男性 M) 、 「ショマージ はヒンドゥーの間で1つ」 (60 代男性 HS)といった話が聞かれたが、上述 のように、 「村のショマージ」という場合には、両者は1つのショマージ とされていた。以下では、まず各ショマージにおける紛争解決や宗教的 活動について述べ、次に、青年組合の活動がどのような主体によって担 われており、住民の社会生活および各ショマージにおける活動において どのような役割を果たしていたのかを述べる。 4-1 各ショマージにおける紛争解決と宗教的活動 調査時においてムスリムのマトッボルは16 人見られ、そのうち13 人 が村を居住の拠点としていた。50 歳以上の者が多く、20 ~ 40 代の者は 4 人のみである。職業は公務員、農場/商店経営等様々であるが、13 人. 19.
(14) 南アジア研究第28号( 2016年). が Higher Secondary Certificate 取得あるいは大卒であった。それに対し てヒンドゥーの間でマトッボルとされる人物は3 人であり、そのうち2 人 は都市部を居住の拠点としていた。いずれも50 歳以上のシルで、 職業と 学歴は元公務員・大卒、商店経営者・大卒、会社員・Secondary School Certificate 取得であった。. G 村の各ショマージが分裂する事態に至ったことは、調査時まで一度. もないことが聞かれた。2007 ~ 2013 年にN ユニオン議会の法廷に提訴 23. された訴訟の記録簿 によると、G 村は N ユニオンのなかで比較的人口 24. が多いにも関わらず 、G 村の住民が原告/被告の裁判が法廷に持ち込 まれたケースは極めて少なく、ほとんどの紛争は村裁判によって解決 されていた。これにはムスリムのマトッボルによる秩序維持や公益の実 現における貢献が功を奏していた。紙幅の制限から具体的な事例は省 略するが、G 村では、村の名誉を守るためにできる限り警察沙汰になる 25. ことが避けられており、個人的な利益のために公共的な資源 を利用し たり占領したりすることは、ムスリムのマトッボルによる村裁判や総会 等の手続きを経て防がれていた。しかし、ヒンドゥーの間では自立的に 紛争解決が行われていたわけではなかった。G 村のヒンドゥーは人口も 少なく(表 1) 、村裁判が開かれるほど大きな紛争や問題が起こること自 体が少なかった。調査時に起こった問題でヒンドゥーが関わったものに は、ムスリムの若者との喧嘩が 1 件あり、ムスリムとヒンドゥーのマトッ ボルの合議によって解決がなされていた。ヒンドゥーのみで紛争や問題 が起こった場合、どのように解決するのかをヒンドゥーのマトッボルに 尋ねると、その場合もG 村のムスリムと合議で村裁判を行うという。逆 に、ムスリム内で起こった紛争の村裁判にヒンドゥーが判決者として呼 ばれることはなく、ムスリムの間ではG 村にヒンドゥーのマトッボルは いないと言われていた。ヒンドゥーがムスリムに紛争解決を頼る理由に は、上述のようにカヨスト等の有力なヒンドゥーが国外へ流出したこと や、マトッボル 2 人を含む男性の 4 割以上が海外や都市で就業ないしは 就学しており、村には限られた機会のみに帰省していたことが挙げられ る。 このように、ヒンドゥーは紛争解決をムスリムに頼る傾向にあったが、. 20.
(15) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. 調査時において、宗教的活動は都市に居住の拠点を置く住民も実務や財 政の面で協力して行われていた。独立戦争時に壊したカーリー寺院は再 建されておらず、それに代わって、シルの有力者とその親族が行ってい たドゥルガ・プジャが 1988 年からショマージ・ベースのプジャとして行 われるようになった。このプジャを主導するのは、 G 村のヒンドゥーから 26. 成るユニバーサル・プジャ祭礼委員会 (sarbajanīn pūja udyāpan committee、 以下、プジャ委員会とする)である。バラモンもこのプジャをともに行っ. ていたが、1999 年に独自にドゥルガ寺院をバリ内に建設し(図 3) 、2001 年から親族内でドゥルガ・プジャを行うようになった。しかし、バラモ ンによる個別のプジャ実施はショマージの分裂を意味するわけではなく、 バラモンのグシュティのみでプジャを実施できる財力を持つようになっ 27. たためであるという 。また、 G 村のヒンドゥーは 2001年から近隣の村々 のヒンドゥーとともに、隣村のラダ・ゴヴィンド寺院においてクリシュ ノ賛歌会(kīrtan)を行っていた。 他方で、ムスリムのショマージでは、上述のモスクに加えて1995 年 28. に別のモスクが建設されており、2001年にはハフェズ・マドラサ (以下、 マドラサとする)も設立された(図 3) 。これらの宗教施設はマトッボルを. 中心に形成される各委員会によって運営されていた。マドラサでは毎年 29. イスラーム演説会(sabhā) が開催され、マドラサ運営のための寄付を 招待客や聴衆から集める機会となっていた。このように、地域の政治家 等を招いて寄付を受ける場合もあるが、G 村の各ショマージにおけるこ れらの宗教施設・行事の建設費や運営費は、基本的に各ショマージの成 30. 員から累進的に集められる割当(cān̐ da)によっていた 。. 4-2 青年組合の活動と役割 調査時において、青年組合の役員は10 ~ 20 代の学生を中心とする青 年層によって構成されていたが、そのなかで組合長と総事務長、また 31. 顧問委員会委員はムスリムのマトッボルが担っていた 。青年組合にお いて最も重視され、多大な出費と労力が費やされていたのは、スポーツ 32. 関連の活動であった 。なかでも重要なのは、毎年学校の校庭で各村青 年組合対抗のサッカーのトーナメントを開催し、また他の村の青年組合. 21.
(16) 南アジア研究第28号( 2016年). や政府によって開かれるトーナメントにG 村のチームを出場させること である。特にトーナメントの開催は青年組合だけではなく、G 村のムス リムのマトッボルもほぼ全員が携わり、G 村の威信をかけて行われてい た。それゆえ、組合長や会計といった主要なものを除いて重視されてい た役員はスポーツ事務長であり、ヒンドゥー教事務長を含むその他の多 数の役員には、特定の仕事が与えられているわけではなかった。それで も、青年組合の役員になることは一種のステータスになるため、例年1 つの役員に対して立候補者が 2 ~ 3 人おり、10 ~ 20 代の男性は青年組 合の活動に積極的に参加していた。青年組合は公共的な目的や活動にお いて必要となる人員の供給源となっており、またそうした活動を積極的 に推進し、指揮する人材を育成する場ともなっていた。しかし、2010 ~ 2015 年の青年組合の役員や顧問委員会には、 ヒンドゥー教事務長を除い てヒンドゥーは見られなかった。調査時に筆者が見聞きした限り、実際 にメンバーとして活動に参加している男性はムスリムのみであり、ヒン ドゥーの子供や青年が学校の校庭に来ることは少なく、毎日昼過ぎから 夕方にかけて興じられるサッカーの試合にも参加していなかった。 レクリエーションに関するもの以外の青年組合の活動には、学校の校 庭の維持管理、各世帯の家屋建設、結婚式における装飾作りや配膳係 の手伝いに加え、モスクおよびマドラサの改修・増築基金やイスラーム 演説会運営費の割当の徴収、ムスリムの共同墓地の掃除や葬儀進行、ラ マダーン中に各バリや世帯で行われる食事の振舞いの手伝い等が挙げ られる。これらの内容から明らかなように、青年組合の活動にはムスリ ムの宗教施設・行事の運営に関わるものも多く含まれていた。これに対 して、ヒンドゥーの宗教施設・行事の運営、葬儀進行は青年組合の活動 とはされておらず、ヒンドゥーの家屋建設や結婚式の手伝いも個人的に なされていた。このように、青年組合の活動が主にムスリムによってな されていることは、上述のように調査時にヒンドゥー男性の約半数が海 外や都市に居住していたためとも考えられるが、在村の男性も活動に参 加しておらず、青年組合におけるヒンドゥーのプレゼンスはごく限られ たものであった。 しかし、代々青年組合の役員や顧問委員会委員を担ってきたムスリム. 22.
(17) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. のマトッボルは、彼らがヒンドゥーの宗教行事に招かれたときや筆者に よるインタビューの際に、ヒンドゥーが「村のショマージ」をともに形 成している「村の一部」であることを強調していた(60 代男性 M、50 代 男性 M 等) 。また、あるマトッボルは、青年組合の役員やメンバーが筆者. に対し、青年組合はヒンドゥーの家屋建設や結婚式には協力しないと述 べても、頑なに青年組合はヒンドゥーの行事にも協力すると述べた。ヒ ンドゥーの側もまた、村裁判やスポーツ行事をムスリムといっしょに行 うことや、ムスリムがプジャを含む冠婚葬祭に参加しに来ることを述べ て、両者が良好な関係にあることを筆者に示そうとしていた。なかでも、 「 (ムスリムと)経済的にも互いに助け合う。助けられなくても何か助言を する。何かあれば青年組合にも頼る」 (40 代女性 HS)というように、 青年 組合はムスリムとの互助の文脈において言及されていた。このように、 実態とは別に、形式的には青年組合の活動主体や対象がムスリムに限ら れていないことや、社会的な活動をともに行うことが言明されることに よって、 ヒンドゥーとムスリムはともに同じ村のショマージにいることが 強調されていた。 そうしたなかで、G 村のヒンドゥーがムスリムを宗教行事に招待し、ム スリムもまた参加しに行くことは重要な意味を持っていた。2011年に ショマージ・ベースで行われたドゥルガ・プジャには100 人以上のムス リムが招待され、そのうち5 ~ 6 割程度が実際に訪れたという。プジャ 委員会は委員の友人や他の村のムスリムにも招待状を渡していたが、G 村のムスリムを招待する際には、青年組合の組合長や総事務長等の重 要な役員や顧問委員会委員に招待状を送ることを欠かさなかった。これ は、バラモンが主催するドゥルガ・プジャやラダ・ゴヴィンド寺院のク 33. リシュノ賛歌会においても同様になされていた 。ムスリムをプジャに 招待することについて、ヒンドゥーのマトッボルは「以前から招待状を 配る形でムスリムも招待してきた。ムスリムを招待するのは、安全にプ ジャを行うためである」 (60 代男性 HS)と述べた。一方で、ムスリムのマ トッボルは、プジャに招かれることについて、 「プジャの時に青年組合の 役員がきちんと(プジャが)健全に行われているかどうか毎回確認する ため、またヒンドゥーもショマージの一部であることを示すために行く。. 23.
(18) 南アジア研究第28号( 2016年). ヒンドゥーも役員に敬意を払って、おさがりを渡す」 (30 代男性 M)と話 した。すなわち、ヒンドゥーはムスリムによる保護のもとプジャを安全 に遂行し、青年組合の役員を招くことによって村のショマージの一員と して承認されていたと言える。招待された青年組合の役員や顧問委員会 委員は、他の村のプジャには行かなくとも、G 村のヒンドゥーのプジャに はできる限り参加し、ヒンドゥーが村の一部であることを示し、関係を 良好に保とうと努めていた。その一方で、このようなマトッボルの姿勢 に対する批判はムスリムの間で少なからず見られた。たとえば、あるマ トッボルはG 村の2 つのドゥルガ・プジャだけでなく、近隣村のドゥルガ・ プジャにも行っていた。彼のところには毎年 7 ~ 8 枚のプジャの招待状 34. が届き、彼は招待状を持ってきたヒンドゥーに「200 ~ 300タカ をこっ そりと渡す」 (50 代男性 M)と話した。 「こっそり」というのは、イマーム や他のムスリムが見たら怒るかもしれないからだという。イスラームで は貧しい異宗教徒に対する施しは推奨されるが、その宗教的活動のため に寄付をすることは禁じられているためである。また、一部のムスリム からは、このマトッボルがヒンドゥーから提供された豚肉さえ食べたと いう話が聞かれた。これはおそらく、彼はヒンドゥーと仲良くするため ならイスラームにおける禁忌も気にとめないといったような批判から生 じた噂話であろう。ムスリムのマトッボルは、イスラームの教義や他の ムスリムからの批判との兼ね合いを考慮しながら、ヒンドゥーとの良好 な関係を維持していた。 しかし、青年組合の役員や顧問委員会委員が G 村のヒンドゥーの宗教 行事に招待されるということは、ヒンドゥーの宗教行事運営が青年組合 の活動の枠外にあることを裏付けてもいた。G 村のイスラーム演説会に おいて、青年組合の役員や顧問委員会委員、メンバーはその運営のため の資金や資材の徴収や設営、その他の雑用を担っており、招待される立 場にはなかった。また、G 村のヒンドゥーが個人的にイスラーム演説会 に聴衆として参加しに来ることは見られたが、招待客として招かれるこ とはなかった。すなわち、ムスリムによるヒンドゥーの宗教行事への参 加は、マジョリティであるムスリムとマイノリティであるヒンドゥーとい う関係を反映したものであり、マジョリティがマイノリティを保護し、そ. 24.
(19) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. のプレゼンスを承認する意味合いを持っていたと言える。. 5 おわりに 本稿では、タンガイル県のG 村を事例として、20 世紀初頭以降、ヒン ドゥー・ムスリム間の物理的・社会的な距離や両者が共同する社会的な 活動がどのように変化してきたのかを述べてきた。1918 年時、G 村では 宗教別にすみわけがなされており、ヒンドゥー・ムスリム間の物理的・ 社会的な距離は大きなものであった。パキスタン建国以降、ヒンドゥー が流出した跡地にG 村にもとより住んでいたムスリムが流入したことに より、両者の居住空間は近くなったものの、互いの家には入らないとい う社会的な規制は保たれていた。しかし、学校の校庭という公共空間に おいては、宗教の違いにかかわらず青年がスポーツや文化行事に興じて おり、このレクリエーションの活動が組織化されて青年組合が形成され た。お互いにとって閉じられていた家の中という空間もまた、独立戦争 という非常事態にムスリムがヒンドゥーを警護する中で開かれたものに なっていった。その一方で、ヒンドゥーのショマージの村裁判や宗教行 事におけるムスリムのプレゼンスもまた増していった。このように、物 理的・社会的な距離が縮小していった一方で、特に独立戦争以降、ヒン ドゥーがムスリムに対する政治的な従属性を強め、ムスリム=マジョリ ティ、ヒンドゥー=マイノリティという構図が明確化していったことは、 杉江[2014]で検討したB 村の事例と同様である。その一方で、G 村で は B 村や他の地域の事例とは異なり、独立戦争以降に近隣のムスリムが ヒンドゥーを襲撃することは見られなかった。そして、はじめに述べた ように、G 村では1948 年にヒンドゥーとムスリムがともに青年組合を形 成し、レクリエーションを中心とする活動を行ってきたことが大きな違 いとして挙げられる。これらの違いが生じた理由としては、B 村はかつ て典型的なカヨスト支配の村であり、印パ分離独立や独立戦争を経て村 の宗教・カースト別人口構成や権力関係が大きく変化したのに対し、G 村では第1に、支配カーストと呼べるような卓越したヒンドゥーが不在 であり、宗教およびカースト間の社会経済的な格差がそれほど大きくな かったこと、第 2に、G 村出身ではないムスリムがほとんど流入せず、地. 25.
(20) 南アジア研究第28号( 2016年). 縁に基づく紐帯が村を中心とする一定の領域内で保持されたこと、第 3 に、宗教に関わらず男性が集まることができる村の共有地があったこと が挙げられる。B 村にもロト・コラ(ロトの場所)と呼ばれる公有地(khās jaẏgā)があり、一度は B 村で設立が試みられた青年組合の活動拠点とさ. れたものの、調査時には寺院が建設される等、ヒンドゥーの共有地とし ての性格を強めており、村のあらゆる住民が利用したり、共同したりす る場所とはされていなかった。両村の事例は、共同的な活動が生まれる 場所の重要性を示している。 調査時において、G 村のムスリムのマトッボルは彼らのショマージの みならず、ヒンドゥーを含む村のショマージの調和の維持を心がけてい た。ヒンドゥーは村外に居住の拠点を置く者が多く、宗教行事はこれら の者も含めて共同的に行っていたが、その実施における安全の保障や紛 争解決をムスリムに頼っていた。青年組合の活動主体と対象もまた、実 質的にムスリムに限られていた。しかし、ヒンドゥーによる青年組合へ の参加が形式的・言説的なものであっても、村のショマージの一部とし てのヒンドゥーのプレゼンスはムスリムのマトッボルによって強調され ており、青年組合はヒンドゥーとムスリムのショマージをつなぐかすが いのような役割を持っていた。青年組合はそれぞれの宗教に関する役員 が設置されているだけでなく、ムスリムの宗教施設や行事の運営にも携 わっていることから、どの宗教的活動にも関与しないという意味で「世 俗」的な性格を持つものではなく、むしろ、村のすべての宗教を取り込 もうとする点で、あらゆる宗教的活動に(どのような比重や形態であれ) 関与することが求められていた。青年組合は「宗教」を排除した「世 俗」的領域を定め、その領域に限って活動を共同するのではなく、宗教 による差異とマジョリティ/マイノリティという立場の違いを維持した まま、組織運営と活動を主導するムスリムがヒンドゥーを村のショマー ジの一部として認めるという形で機能していた。すなわち、青年組合は ヒンドゥーとムスリムが対等に社会的な活動を行うというよりは、ムス リムにとってはヒンドゥーを村のショマージの一部として包摂するため、 ヒンドゥーにとってはムスリムが多数派である村のショマージにおいて、 その存在を承認されるための機関となっていたと言える。. 26.
(21) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. 他方でこのことは、青年組合を通して見た村のショマージが、宗教 的な差異が考慮されない地縁的な紐帯に基づくショマージというより も、宗教別のショマージの集合体という性格を持つことを意味する。青 年組合の実質的な活動は各宗教ごとのショマージ別に分裂しやすく、マ イノリティであるヒンドゥーのショマージの宗教施設・行事の運営が青 年組合の活動の枠外とされ、本来宗教色を持たないスポーツの活動もム スリムによって主導されており、ヒンドゥーによる積極的な参加は見ら れなかった。青年組合や学校の校庭におけるレクリエーションへのヒン ドゥーの参加が見られなくなっていったのは、人口流出とムスリムに対 する政治的従属性の強まりというヒンドゥーのマイノリティ化のプロセ スと並行したものであったと考えられる。また、調査時に健在であった ムスリムのマトッボルはヒンドゥーとともに青年組合の活動を担ってき た経験を持ち、ヒンドゥーを青年組合および村のショマージの一員とし て、良好な関係を保つことに腐心していた。しかし、ヒンドゥーと共同 した経験を持たない若年層のムスリムが青年組合や村のショマージを 牽引するマトッボルとなったとき、これらにおけるヒンドゥーのプレゼ ンスはさらに限定的なものになっていく可能性がある。 本稿はショマージや青年組合に焦点を当て、ヒンドゥーとムスリムが 同一の村においてどのように社会的な活動を共同してきたのかを検討 した。はじめに述べたように、本稿のような視点からバングラデシュの ヒンドゥーとムスリムによる社会的な活動の実態を明らかにした研究は ほとんどなく、今後、様々な地域における事例の積み重ねが求められる。 また、ショマージや青年組合の活動は住民の社会生活の一側面に過ぎ ない。ヒンドゥー・ムスリム間の関係については、これらのような集団 的な活動だけでなく、個人間の相互行為のレベルから検討する必要があ る。これについては、本稿では紙幅の関係から扱うことができなかった ため、稿を改めて論じたい。 付記・本稿は、2016 年に名古屋大学環境学研究科に提出した博士論文の一部を修正・加筆した. ものである。本稿の調査には、平成 25 ~ 27 年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費、課. 題番号 25・4115)の一部を使用した。調査にご協力してくださったフィールドの皆様に心より. お礼申し上げます。. 27.
(22) 南アジア研究第28号( 2016年). 註. 1 2011年時のバングラデシュの宗教別人口構成は、 ムスリム90.39%、 ヒンドゥー8.54%、仏教. 徒0.6%、 キリスト教徒0.37%、 その他0.14%である[Bangladesh Bureau of Statistics 2014: xiii]. (以下、 BBS とする) 。. 2 高田[2006: 511-513] はバングラデシュをヒンドゥー中心のベンガルの亜種とする考え方を. 批判し、 バングラデシュをイスラーム社会として認め、 その社会に生きる人々をムスリムと. して把握し理解するべきだと述べている。 しかし、 筆者は国家や地域等の特定の領域や社会 を一義的に宗教によって規定する枠組みを相対化する必要があると考える。 3 本稿では、 固有名詞を除き、ベンガル語のローマ字表記法は ALA-LC Romanization Tables. (ttps://www.loc.gov/catdir/cpso/romanization/bengali.pdf) に従った。 4 ショマージの簡潔な研究史については、 杉江[2014] 参照。 5 これと同様な状況は、 他の地域の事例においても断片的に述べられている[西川 1995: 19; 藤. 田 2005: 235-236]. 6 これらの青年組合には、 Voluntary Social Welfare Agencies (Registration and Control) Ordinance,. 1961 のもと、 正式に社会福祉省に登録しているものと未登録のものがある。. 7 本稿において、 世帯は同じかまどから食事を取るカナを指す。 8 花輪作りを職能とするマラカルと床屋を職能とするシルは、 ベンガルの代表的な9 つの. ジャーティ(ノボ・シャーク) の1 つとされることが多い。 ノモシュードロは特定の職能を持 たず、 「チョンダル(チャンダール) 」 という蔑称のもと「低い生まれ」 に位置付けられてきた。 G 村のバラモン、 マラカルはいずれも司祭や花輪作りの仕事に従事しておらず、 シルは2世. 帯のみが床屋をしていた。. 9 調査には安全確保とコミュニケーション補助のため、 他村出身のムスリム男性1名が筆者に. 同行した。 10 本稿が引用するインタビュー内容はすべてG 村のショマージの住民のものである。 11 1918年を記述の起点とするのは、 住民からの情報以外で印パ分離独立以前のG 村の状況を. 示す資料が他に手に入らなかったためである。 なお、 筆者はG 村の住民が所有していた地籍 図の複写を入手した。 12 カヨストは書記を職能とし、 バラモンとともにベンガルの郷紳階級、 ザミンダール層を形成. した有力なカーストである。. 13 A・ショルカルは商人で、 現在のインドにあたる地域にも家を持っていたという。彼は教育. を受けていたことからショルカルと呼ばれ、 彼のバリもショルカル・バリと呼ばれるように なった。. 14 高田[2006: 284-285] もまた、 1904年末にビクロンプール県で起こった事件を分析した研究を. 参照し、 同様のことを指摘している。. 15 また、 これらの住民によれば、 G 村では高カースト・ヒンドゥーとその他のカーストの間には. 直接的なパトロン・クライアント関係がなかった。. 16 この寺院は1857年に建設され、 シヴ・プジャは建設以来行われているという。 17 このことについては、 臼田[1993] 参照。 18 学校の校庭は1956年にムスリムのマトッボルが隣村の小学校をG 村に移設する際に、 ショ. 28.
(23) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. マージの所属世帯から寄付を集めて購入したり、 住民から寄進されたりした土地である。 こ れ以前には、 マドラサ(本文後述、 註28参照) の校庭 (図3) でスポーツ等が行われていた。 なお、 マドラサの校庭はもともと公有地(khās jaẏgā) であったが、 小学校移設時に学校の校庭とと もに学校の土地として登記された。. 19 ヒンドゥーとムスリムがともに演劇を行っていた事例は、 西川[1995: 22] においても見られ. る。. 20 もともとはG ダイヤモンド・クラブという名前だったが、 後に改称された。 社会福祉省への登. 録については註6参照。 21 顧問委員会委員はあらかじめマトッボルの間で選出され、 総会(本文後述) によって承認を. 得る形になっていた。 22 また、 ムスリム男性とヒンドゥー女性が婚姻した例も2件見られた(そのうち1件のヒン. ドゥー女性は他村出身である) 。 23 筆者はN ユニオン・ポリショド所蔵の原簿 (名称はgrām ādālat registry) の複写物を入手した。 24 Village G の人口は1182人、 N ユニオンの各village の平均人口は975人である。. 25 具体的には、 学校の校庭やマドラサ(本文後述、 註28参照) の校庭の土地や池等である(図3) 。 26 ここでいうsārbajanīn はコミュニティという訳語がふさわしいが、 住民から「プジャにはユ. ニバーサル・プジャとファミリー・プジャの2種類がある」 (30代女性HB) という話が聞かれた ため、 これに従ってユニバーサルという訳語をあてた。 27 実際に、 バラモンはドゥルガ・プジャの際にG 村のヒンドゥーすべてのバリを回って自らの. プジャへの招待状を渡すだけでなく、 ショマージ・ベースのプジャにも訪れて祈りを捧げ、 自発的に寄付も渡していた。 28 クルアーンを全章暗誦することが卒業条件となる宗教学校。 29 招致されたイスラームの知識人によって、 イスラームの教義や善行の実践等に関する演説. が行われる会。 30 ただし、 プジャ委員会はヒンドゥー福祉基金(Hindu Kalyan Trust、 各地のヒンドゥー寺院の. 補修や再建、 プジャ振興のための補助金の交付を主要な役割とする公的機関) から補助金を 受け取っていた。 また、 このドゥルガ寺院は2009 ~2011年にレンガ製に改修されていたが、 その費用はショマージの外部から集めた寄付によっていた。 31 これらの定められた役員以外のメンバーについては本文中で述べたように名簿が作成さ. れていたが、 筆者は直接確認することができなかった。 32 青年組合は例年、 2月21日の言語運動記念日に合わせて演劇を開催してきたが、 近年は運営. 資金を確保できず開催しなくなっているという。 33 なお、 クリシュノ賛歌会の運営を担う顧問委員会には、 ムスリムである元、 現N ユニオン議. 長の2人も含まれていた。 34 バングラデシュの通貨で、 調査時には1 タカ=約1.3円であった。. 参照文献 文献. 安藤和雄、 内田晴夫、 ラーマン・ハビブール、 ホセイン・アルタフ、 1995、 「マタボールたちと在地の. 29.
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(27) バングラデシュ村落社会におけるヒンドゥー・ムスリム間関係の変容―ショマージと青年組合の活動に着目して―. リムがヒンドゥーのショマージの紛争解決や宗教行事に介入することが増えていっ た。青年組合では、60年以上ヒンドゥーとムスリムが共同してレクリエーション等を 実施してきたが、活動の主体や対象は実質的にムスリムに限られるようになり、ヒン ドゥーによる参加は形式的なものになっていた。しかし、青年組合はヒンドゥーが村 のショマージの一部であることを示す役割を持っていた。. Summary Changes in Relations between Hindus and Muslims in a Bangladeshi Village: A Focus on Activities of the Samaj and Youth Club Ai SUGIE Most previous studies on Bangladeshi villages treated Hindus and Muslims separately based on the research framework that divides society by religion and analyzes individual social structures. Contrary to such previous studies, this study examines Hindus and Muslims in Bangladesh as constituents of a village society. In addition, the construction of their relations since the early 20th century is explored based on a case study of a village in the Tangail district. Therefore, the focus is on social activities in the samaj (i.e., an informal social organization that is formed based on a locality and religious distinction) and youth club. The people and ways in which activities are conducted are scrutinized as well. Along with the emigration of Hindus to India and expansion of Muslims’ residential space—resulting from political and social changes linked to the foundation of Pakistan and the liberation war of Bangladesh-physical and social distance between the two religious groups has lessened. However, the characterization of Hindus as minorities has strengthened, and Muslims have increasingly intervened in settling disputes and recognizing religious ceremonies in the Hindu samaj. Although Hindus and Muslims have participated together in mainly recreational social activities (e.g., sports activities and drama performances) through the village’s youth club for more than 60 years, such initiatives were directed only toward Muslims of late. Hindus were merely formally included in the club. However, the youth club had a role in emphasizing that Hindus belonged to the village’s samaj.. 33.
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