執筆者紹介 執筆者紹介
M・K・ガーンディー政治的
ahiṃsā
の起源
─ “
Hind Swar
ājya
”(1909
)からahi
ṃs
āvrat
(1915
)まで─間 永次郎
はざま えいじろう●一橋大学大学院社会学研究科博士課程(日本学術振興会特別研究員、 DC 1) 政治史1 はじめに
M・K・ガーンディー(Mohandās Karamcand Gāṁdhī、1869–
1948)の ahiṃsā概念に対する認識は、彼の南アフリカ滞在期(1893–
1914、以下、 南アフリカ時代)から1915年のインド帰国後の時代において、いかに変 遷していったのであろうか1。また、そのようなahiṃsā概念に対する認識 の変容は、従来のガーンディー研究における「サッティヤーグラハ2 (satyāgraha)」理解に、いかなる光を投げかけるのか。 ahiṃsāという概念は、ヒンドゥー教やジャイナ教の教義において、生 類に対する不殺生を意味する3。この概念は、しばしばガーンディーに よってnon-violenceと訳され、独立運動を支える指針の一つとして掲げ られたことでも広く知られている4。また、サッティヤーグラハとは、政 治的・社会的不正を、平和的手段を用いて抗議していく運動の一形態を 意味し、字義的には、「真理(satya)」を、徹底的に「堅持/主張する (agraha)」ことが含意される。ahiṃsā概念とサッティヤーグラハの関係 を、いかに解釈するかは、ガーンディー思想全体の理解に関わってくる。 サッティヤーグラハに関する先行研究は膨大な量を数える。それに対 して、ガーンディーのahiṃsā概念を主題として扱った研究は極めて少ない。多くの場合、ahiṃsā概念は、あくまでサッティヤーグラハやnon-violenceを説明するさいに、二次的に論じられるに止まっていた5。特に 南アフリカ時代における、ガーンディー生涯最初のサッティヤーグラハ (1906
-
14、以下、初期サッティヤーグラハ)をめぐる一連の言説におい て、ahiṃsā概念が、いかに語られていたのかを実証的に検討した研究は、 管見の限り皆無である。こうしたことは、先行研究において、初期サッ ティヤーグラハが次のように自明視されてきたことに鮮明に示されてい る。つまり、ahiṃsā概念は、初期サッティヤーグラハを支える必要不可 欠な思想的基盤の一つとして機能していたという理解である[Du Toit
1996: 650, Huttenback 1971: 48, Dalton 2000: 14, Brown 1974: 6,
長崎2006: 46]
6。 本稿では、これまで議論の中心として扱われることの少なかったガー ンディーのahiṃsā概念に注目し、その意味内容が、初期サッティヤーグ ラハからインド帰国後の時代において、いかに変遷していったのかを論 究していく。これにより、従来の研究で自明視されていた初期サッティ ヤーグラハとahiṃsā概念との関係理解を問い直したい。つまり本稿にお いて、ガーンディーが初めてahiṃsā概念を、サッティヤーグラハを支え る思想的基盤として認識するようになったのは、これまで考えられてい たように南アフリカ時代においてではなく、1915年のインド帰国後の時 期であったことを明らかにする。 本稿の構成は大きく以下の通りである。最初に第2節において、電子 データ版のSampūrṇGāṁdhīVāṅmay7(以下、SGV)とCollectedWorksof MahatmaGandhi8(以下、CWMG)を基に、ahiṃsāの語が具体的にいつの 時期に、どの程度使用されていったのかを精査していく。ahiṃsāという 語の使用時期を明らかにした先行研究は存在しない。次に、第3節では、 ahiṃsā概念が、ガーンディーが南アフリカ時代に執筆した諸文書におい て、いかに語られていたのかという点を見ていく。これにより、初期サッ ティヤーグラハとahiṃsā概念の関係を浮き彫りにしていく。第4節では、 南アフリカからロンドン経由で、1915年1月9日にインドに帰国してか ら、1915年5月25日に「サッティヤーグラハ・アーシュラム(satyāgraha āśram)」が設立されるまでの時期における、ガーンディーのahiṃsā概念 に対する認識の変容を、その時代背景の描写と並行する形で、時系列的 に論究していく。この1915年に設立されたアーシュラムにおいて、最初 にサッティヤーグラヒー(サッティヤーグラハの実践者)のための政治的含意を持つ「ahiṃsāの誓い(ahiṃsāvrat)」が制定されたのであった。
2 用語の使用時期─
SGV
と
CWMG
を参考に─
ガーンディーが独立運動(1920–
47)のスローガンの一つとして、ahiṃsā を掲げていたことは、よく知られている。しかしながら、それ以前の時 代、つまり、ロンドン留学時代(1888–
91、以下、ロンドン時代)から 南アフリカ時代、さらにインドに帰国してからローラット・サッティヤー グラハが全国的に開始されるまで期間(1915–
19)において、ガーン ディーはどの程度ahiṃsāという語を使用していたのであろうか。本節で 表1 SGV における “Ahiṃsā(Ahiṃsak)” の言及箇所(1884–1919) 掲載 番号 巻数 日付 表題 言語i 頻度 ii 173 10 1909年 11 月 22 日 Hind Swarājya グジャラーティー語 10 102 14 1914年 3 月 11 日 Patr: Chaganlāl Gāṁdhī Ko グジャラーティー語 1 267 14 1914年頃 Patr: Maganlāl Gāṁdhī Ko グジャラーティー語 1 294 14 1915年 2 月 7 日 Mathurādās Trikmjī Ko Likhe Patr Kā Aṃś グジャラーティー語 2 325 14 1915年 3 月 14 日以降Maganlāl Gāṁdhī Ko Likhe Patr Kā Aṃś グジャラーティー語 6 367 14 1915年 5 月 4 日 Patr: Nāraṇdās Gāṁdhī Ko グジャラーティー語 1 382 14 1915年 5 月 20 日以前Āśram Ke Saṃvidhān Ko Masvidā グジャラーティー語 3 88 15 1915年 12 月 9 日 Bhāṣṇ: Bhāvangar Meṁ グジャラーティー語 1 102 15 1915年 4 月 22 日 Ḍāyarī: 1915 グジャラーティー語 1 179 15 1916年 7 月 27 日 Bhāṣṇ: Dakṣiṇ Aphrīkā Ka Satyāgrah Ke Rahasya Par ヒンディー語 1 240 15 1917年 2 月 26 日 Bhāṣṇ: Sūrat Meṁ Girmiṭ-Prathā Par グジャラーティー語 2 4 16 1917年 9 月 2 日 Patr: Śaṅkarlāl Ko: Satyāgrah Kyā Haiṁ? グジャラーティー語 1 5 16 1917年 9 月 2 日頃 Niṣkriya Pratirodha Nahiṁ, Satyāgrah ヒンディー語 3 32 16 1917年 10 月 9 日頃 Bhāṣṇ: Saccī Gorkyā Par グジャラーティー語 1 34 16 1917年 10 月 15 日 Bhāṣṇ: Bihār Chātra-Sammelan Meṁ グジャラーティー語 1 41 16 1917年 10 月 21 日 Bhāṣṇ: Jīvdayā Priṣdū Meṁ グジャラーティー語 1 65 16 1917年 11 月 22 日 Patr: Candulāl Ko グジャラーティー語 2 115 16 1918年 1 月 27 日 Patr: Jamnādās Gāṁdhī Ko グジャラーティー語 3 120 16 1918年 1 月 20 日 Patr: Maganlāl Gāṁdhī Ko グジャラーティー語 2 247 16 1918年 3 月 30 日 Prācīn Samyatā ヒンディー語 8 287 16 1918年 4 月 12 日 Patr: Balvantrāy Ṭhākor Ko グジャラーティー語 1 298 16 1918年 4 月 17 日 Sandeś: Satyāgrahī Kisānoṁ Ko グジャラーティー語 1 299 16 1918年 4 月 17 日 Svayaṁsevakoṁ Ko Nideṁś グジャラーティー語 1 302 16 1918年 4 月 17 日 Bhāṣṇ: Cikhodrā Meṁ グジャラーティー語 2 303 16 1918年 4 月 18 日 Bhāṣṇ: Rās Meṁ グジャラーティー語 1 73 17 1918年 6 月 23 日 Patr: Devdās Gāṁdhī Ko グジャラーティー語 1 91 17 1918年 7 月 4 日 Saunik-Bhartī Ke Viṣya Meṁ Carcā グジャラーティー語 1 123 17 1918年 7 月 22 日 Patr: Puṁjābhāī Śāh Ko グジャラーティー語 2 129 17 1918年 7 月 25 日 Patr: Maganlāl Gāṁdhī Ko グジャラーティー語 5 135 17 1918年 7 月 28 日 Patr: Rāmdās Gāṁdhī Ko グジャラーティー語 3 142 17 1918年 7 月 29 日 Patr: Kiśorlāl Maśrūwālā Ko グジャラーティー語 3 199 17 1918年 8 月 31 日 Patr: Khuśālcand Gāṁdhī Ko グジャラーティー語 1 220 17 1918年 10 月 2 日 Patr: Devdās Gāṁdhī Ko グジャラーティー語 1i…SGV に編纂された文書の原文において使用されている言語。 ii…各文書の中で ahiṃsā/ahiṃsak が使用されている回数。
は最初に、SGVに編纂された1888年9から1919年までの史料を参考に、 ahiṃsāの語の使用時期および使用頻度を精査する(表1)。尚、SGVは全 てヒンディー語史料であり、原文がグジャラーティー語で書かれた文書 も、ヒンディー語に翻訳されている。しかしながら、ヒンディー語とグ ジャラーティー語の両言語においても、サンスクリット語のahiṃsāとい う語は共通して用いられている。つまり、このSGVの史料を調べること で、ガーンディーのヒンディー語とグジャラーティー語の両文書におけ るahiṃsāの使用に関する大まかな動向を掴むことができる。 表1によれば、最初にahiṃsāという語が、ガーンディーの執筆した文 書において使用されているのが、1909年に書かれた “HindSwarājya10”(以 下、HS)においてであるということが分かる。つまり、それ以前のSGV に編纂されたロンドン時代や南アフリカ時代の史料においては、ahiṃsā という語は使用されていない。さらに、1893年から1914年の21年間に わたる南アフリカ時代全体の史料においても、ahiṃsāという語は、HSの 中に計10回、そして、グジャラーティー語で、1914年に書かれたわずか 2通の書簡においてしか使用されていないことが分かる11。また、表1に よれば、ahiṃsāという語の使用が、インド帰国後の1915年以降に急速に 増加している点を見ることができる。 さらに、CWMGに編纂された1888年から1919年までの英語史料におけ る “ahimsa” という表記12を表2において一覧した。彼は英語で書いた文 書においても、しばしば、non-violenceという英語の言葉ではなくロー マ字の “ahimsa” という表記を用いていた。表2によれば、1915年4月 13日以降の史料において英語記事の “ahimsa” という表記が使用される ようになっていったことが窺われる。 以上のようなahiṃsāまたahimsaの使用時期および使用頻度は、ガーン ディーが、1920年代後半に出版した『真理の様々な実験、或いは、自叙 伝(SatyanāPrayogoAthvāĀtmakathā)13』(以下、『自叙伝』)の中で語られ ている内容とも一見矛盾しているようにみえる。例えば、彼は「供犠の 終わり(Pūrṇāhuti)」において次のように述べている。「真理と異なる何 らかの最高神があるようには、私は感じていない。真理に没入するため にはahiṃsāこそが唯一の道、このことがこの連載のそれぞれの頁から見 えてこなかったとしたら、私の努力は無意味であったと思う」[ガーン ディー
2000: 415, cf. G
āṁdh
ī2008: 458
]。つまり、『自叙伝』の中では、南アフリカ時代を含むインド帰国以前の時代について執筆された「それ ぞれの頁」においても、ahiṃsā概念が重要な意味を持っていたと語られ ているのである[
G
āṁdh
ī2008: 21, 24, 31, 159, 252–253, 323–326
]。こ うしたことは恐らく、多くの研究者に、ガーンディーが独立運動を開始 する以前の時代からすでにahiṃsā概念を、彼の私的また公的活動を支え る思想的基盤として認識していたかのような印象を与えてきたのでは ないかと思われる14。しかしながら、表1と表2で示してきたように、 ahiṃsā(ahimsa)という語の使用は、インド帰国以前に書かれた文書に おいてわずかにしか見られない。次節では、これら1915年以前において、 ahiṃsāが使用されているそれぞれの文書について個別に考察を進める。3
HS
と
1914
年に書かれた2通の書簡
3–1HS
とahiṃsā
3– 1– 1 執筆背景 前節において、SGVを参考に、1888年から1919年までの期間における ahiṃsāという語が使用されている史料を一覧した。表1から、インド帰 国以前の時代におけるヒンディー語とグジャラーティー語の史料におい 表2 CWMG における “Ahimsa” の言及箇所(1884–1919) 掲載 番号 巻数 日付 表題 頻度339 14 1915年 4月13日 Speech at St. Stephan’s College 1 343 14 1915年 4月20日 Speech at Gokhale Club, Madras 1 358 14 1915年 4月27日 Speech at Y. M. C. A., Madras 2 127 15 1916年 2月14日 Speech on Swadeshi at Missionary Conference, Madras 1 128 15 1916年 2月16日 Speech on ‘Ashram Vows’ At Y. M. C. A., Madras 10 140 15 1916年 2月28日 Speech at Hyderabad on Vaccination 1 153 15 1916年 3月20日 Speech at Gurukul Anniversary 5 191 15 1916年10月 On Ahimsa: Reply to Lala Lajpat Rai 22 96 16 1917年12月31日 Address at All-India Social Service Conference 1 110 16 1918年 1月16日 Letter to “The Statesman” 1 68 17 1918年 6月23日以前 Letter to C. F. Andrewsiii 3
79 17 1918年 6月26日 Speech at Ras 2 85 17 1918年 6月30日 Letter to Esther Faering 3 100 17 1918年 7月 6日 Letter to C. F. Andrews 4 110 17 1918年 7月17日 Letter to Hanumantrao 7 136 17 1918年 7月29日 Letter to C. F. Andrews 5 138 17 1918年 7月29日 Letter to S. K. Rudra 2 139 17 1918年 7月29日 Letter to V. S. Srinivasa Sastri 1 151 17 1918年 8月 2日 Letter to H. A. L. Polak 2 301 17 1919年 2月26日 Instructions to Volunteers 3
て、ahiṃsāという語の使用が、わずかであったことが示された。 本節では表1で一覧したahiṃsāという語が使用されていた文書の内、 南アフリカ時代に書かれたものを個別に検討していく。尚、これらの史 料の精読にあたっては、原語のグジャラーティー語史料を用いる。 最初に、南アフリカ時代にahiṃsāが最初に使用されている史料、つま り、1909年11月にガーンディーによって執筆されたHSを見てみたい。HS において、ahiṃsāは、どのように語られていたのであろうか15。この問い
に答えていくと同時に、1910年3月20日に、IndianHomeRule(以下、IHR)16 というタイトルで出版された、ガーンディー自身による英訳版のHSにお いて、“violence” や “force” などと訳された語が、グジャラーティー語 の原文ではどのように語られていたかも明らかにしていく。
HSの執筆背景および目的についてはすでに多くの優れた研究がある ので[
Devanesen 1969: 364–403, Hunt 1978: 105–172, Parel 1991, 1996,
2009, Gandhi 2009: 246–99, Sharma 2010: xi-xxiv
]、ここでは、本稿と の関連で、最小限の点だけを概観する。 ガーンディーは、南アフリカのインド人問題に取りくむ中、1909年7 月10日から11月30日にかけて、ロンドンに陳情に行っていた。HSはこ の陳情後、ロンドンから南アフリカに向かう帰りの汽船の中、1909年11 月13日から22日にかけて執筆された。HSが執筆された背景には、大き く二つの事柄が関係している。第一に、ガーンディーがロンドン陳情中 に、インドの「独立/自治(swarāj)」を、暴力を使った急進的手段で達 成しようとする革命運動家(krāntikārī)に出会ったことである。彼らの 急進的な思想は、当時の多くのインド人の若者の心をとらえていたので あった17。デヴァネッセンが指摘しているとおり、「これらの革命運動家 がガーンディーに、インド人の現状を知らせしめ、かつてないほどに、彼 の想像力に火をつけたのであった」[Devanesen 1969: 367
]18。第二に、 こうした不穏なインド人コミュニティーの暴力的エートスに憂慮してい た頃、ガーンディーがL・トルストイの「あるヒンドゥーへの手紙(“A LettertoaHindu”)」を読んだことである。ガーンディーは、そこで説かれ ている「無抵抗主義(non-resistance)」の教えに改めて深い感銘を受け 19、南アフリカに帰国するまでに、トルストイと書簡を交換した[CWMGX: 129–132, 501]
20。HSの執筆目的が、「サッティヤーグラハの至高性を 示すこと」[ガーンディー2005b: 74, cf. G
āṁdh
ī2007: 238
]、つまり、「憎悪に変わる愛の福音を説くこと」、「暴力を自己犠牲で置き換えること」 「獣の力に対して魂の力で対抗すること」であると述べられているのは [CWMG
XXII: 259–261
]、まさに、執筆前に上述したような背景があった からであった。 3– 1– 2 ahiṃsāとサッティヤーグラハ HSにおいては、暴力的手段に変わるサッティヤーグラハこそが、独立 達成に最善かつ唯一の方法であることを示すことが目指されている。以 下においては、HSにおいて、ahiṃsāの概念がいかに語られていたのかと いう点を、特にこのサッティヤーグラハとの関係に着目しつつ考察して いく。 HSにおいて、ahiṃsāという語や、ahiṃsāの形容詞形ahiṃsak、また、 ahiṃsāの否定形の接頭辞 “a” をとったhiṃsaや、その形容詞形のhiṃsakという語は、第9章「インドの状態(続)─鉄道─(HindustānnīDaśā
<
Cālu>:
Viśeṣa vicār)」と、第10章「インドの状態(続)─ヒンドゥー教徒、イスラーム教徒─(HindustānnīDaśā
<
Cālu>:
Hindu–
Muslamān)」において、 次のような文脈で使用されている。ちなみに、HSにおいて、ahiṃsāや ahiṃsakが語られているのは、これらの箇所のみである。 ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒は宿敵と言われている。[……] イスラーム教徒はヒンドゥー教徒を偶像崇拝者だとして軽蔑する。 ヒンドゥー教徒は偶像崇拝者で、イスラーム教徒は偶像破壊者であ る。ヒンドゥー教徒は牝牛を崇拝し、イスラーム教徒は牝牛を屠畜 (māre)する。ヒンドゥー教徒は不殺生者(ahiṃsak)、イスラーム 教徒は殺生者(hiṃsak)、このようにことごとく反対である。それ がどのように解消され、インドがどのようにして一つになるのだろ うか?[ガーンディー2005a: 58–59, cf. G
āṁdh
ī1909a
] しかしながら、ヒンドゥー教徒だけが不殺生者(ahiṃsak)なのだろ うか? [……]一般的に考えてみますと、多くのヒンドゥー教徒 は、肉食をしているから、不殺生者(ahiṃsak)ではない。[……] このようであれば、一方が殺生者(hiṃsak)で他方が不殺生者 (ahiṃsak)であるので、相容れないというのは、まったくの誤りで ある。[ガーンディー2005a: 66, cf. G
āṁdh
ī1909a
]該当箇所をIHRで調べてみると、「不殺生者(ahiṃsak)」が “believe in the doctrine of non-killing”、“believe in Ahinsa21”、 或 い は、“followers of Ahinsa” と訳されている[
Gandhi 2010: 43, 47
]。また、第9章と10章に おいては、“hiṃsā” という語が、英語では “killing” と訳されている点も 見ることができる[Gandhi 2010: 43, 47
]。このIHRにおけるhinsaや killingという語は、第9章と10章における牝牛の屠畜をめぐる一連の文 化的衝突に関する議論の文脈で用いられている。 こうした牝牛の屠畜に関する議論ではなく、サッティヤーグラハによ る政治改革における暴力的手段の使用の是非が論じられている文脈に おいては、ahiṃsāやhiṃsāなどの語はどのように使用されていたのだろ うか。サッティヤーグラハに関しては、第16章「銃火(DārūGoḷo)」、17 章「サッティヤーグラハ─魂の力─(Satyāgraha:
Ātmabaḷ)」、20章「解放 (Chuṭkāro)」で詳しく論究されている。 まず、16章「銃火(DārūGoḷo)」では次のような議論が展開されてい る。IHRの英訳語については[]内に表記した。 イギリス人たちは、1833年にmārāmārī[violence
]を行使して、選 挙の特権を獲得した。mārāmārī[brute force
]を行使して、イギリ ス人たちは、自分の義務が理解できただろうか? イギリス人たちの 考えは権利を獲得することであり、mārāmārī[physical force
]を行使 して獲得したのだった。22[ガーンディー2005a: 99–100; cf. G
āṁdh
ī1909b
] グジャラーティー語の “mārāmārī ” という語は、直訳すると「死の暴 力」である23。IHRでは、“violence”、“brute-force”、“physical force” とい う訳語が使われている。 また、17章「サッティヤーグラハ─魂の力─(Satyāgraha:
Ātmabaḷ)」 では以下のように説かれているのを見ることができる。 世界にはまだこれほど多くの人間がいることは、世界の基礎は hathiyārbaḷ[force of arms
]ではなく、真理、慈悲、つまり魂の力 であることを伝えている。14[ガーンディー2005a: 109, cf. G
āṁdh
ī1909b
]サッティヤーグラハ、または魂の力は英語で“pesivrijhisṭans25”と言わ れている。この語は、人間たちが自分の権利を獲得するために自分 で苦痛に耐える方法として使われている。その目的はlaḍāībaḷ [
arms
]に反するものである。あることが気に入らず、それをしな いときに、私はサッティヤーグラハ、または魂の力を使用する。例 えば、私に適応されるある法律を政府が通過させたとする。私には 気に入らない。そこで私が政府を攻撃して法律を廃止させるとす ると、śarīrbaḷ[violence
]の適応を行使したことになる。もしその 法律を受け入れず、そのために下される罰を受けるとすると、私は 魂の力、またはサッティヤーグラハを行使することになる。26[ガー ンディー2005a: 110–1, cf. G
āṁdh
ī1909b
]“hathiyārbaḷ” とは、直訳すれば「武器の力」であり、IHRでは “forceof arms” と訳されている27。また、“laḍāībaḷ” は「戦争の力」を意味するが、 IHRでは単に “arms” となっている。“śarīrbaḷ” は、直訳すれば「身体の
力」であるが28、IHRでは、“violence” という訳語が使用されている。 さらに、20章「解放(Chuṭkāro)」では次のように述べられている。 サッティヤーグラハこそを信じなさい。自治獲得のためにdārūgoḷo [
violence
]の必要がある、と錯覚しないようにしなさい29。[ガー ンディー2005a: 140, cf. G
āṁdh
ī1909b
] ここで使われている “dārūgoḷo” とは直訳すれば「銃弾砲撃力」を意味 する30。IHRでは、violenceと訳されている。 以上見てきたように、魂の力であるサッティヤーグラハが拒否する 「死の暴力(mārāmārī)」、「武器の力(hathiyārbaḷ)」、「戦争の力(laḍāībaḷ)」、 「身体の力(śarīrbaḷ)」には、IHR において “violence”、“brute-force”、“physical force”、“force of arms”、“arms” といった語が使われている。つ まり前述したように、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間の牝牛の屠 畜をめぐる文化衝突の問題が論じられていた9章と10章ではahiṃsā、 hiṃsā、non-killingなどの語が使用されていた。それに対して、サッティ ヤーグラハによる政治改革における諸々の暴力的手段の使用の是非が
論じられている16章、17章、20章においては、こうした言葉は一度も 用いられていない。むしろ、ahiṃsā以外の「死の暴力(mārāmārī)」、「武 器の力(hathiyārbaḷ)」、「戦争の力(laḍāībaḷ)」、「身体の力(śarīrbaḷ)」と いった表現が使われているのである。 3–2 南アフリカ時代の2通の書簡と
ahiṃsā
次に南アフリカ時代にahiṃsāが使用されている2通の書簡、チャガン ラール・ガーンディー宛の書簡と、マガンラール・ガーンディー宛の書 簡において、ahiṃsāという語がどのように用いられていたのかを見てみ たい。これら両書簡が執筆されたのは1914年、つまり、1906年から8年 間続いたサッティヤーグラハが終わる最後の年である。ガーンディーが この時期まで公的のみならず私的な文書の中においても、ahiṃsā概念に ほとんど言及していなかったことは特筆に値する。 まず、1914年3月11日のチャガンラール・ガーンディー宛の書簡であ るが、そこでは以下のようにahiṃsāという語が用いられている。 食事の方式は、可能な限り、決定されたことについて守るべきであ る。ミルクは神聖な(pavitra)ものと認められている。むしろ、そ れは神聖でない(apavitra)と認められてこそ、それの摂取がなさ れるであろう。[……]それが純粋な肉(śuddh māms)であり、 ahiṃsādharmaと反するという考えは、私の心から離れたことがない。 [GAXII: 330
] ここでガーンディーは、ミルクは「神聖でないと認められてこそ、そ れの摂取がなされる」が、彼自身はミルクを「神聖なもの」であり、「純 粋な肉」であると考えていたので、こうしたミルクの摂取は、彼にとっ て「ahiṃsādharmaと反する」ものであると述べられている。 次に1914年頃書かれたとされるマガンラール・ガーンディー宛の書簡 を見てみたい。そこでは、ahiṃsakという語が次のように使用されている。 この種の食事[欲望の赴くままの食事]は、執着(āsakti)である。 単に果実などを食べて生活することが最も望ましい食事である。し かしながら、現状では、果実食を実行することでは用が足りないだろう。それ故、我々は何か果実食に近いものを考えなければならな いだろう。このような考えに注意しながら、私は純真な種類の実験 を行うことを好む。[……]20年前にイギリスにおいても、私は同 じようにすべきであった。そして、私はある不殺生的な食事 (ahiṃsakkhorāk)に基づいて生活できた。[S.N.31
32926
] ガーンディーは、この書簡の中で、マガンラール・ガーンディーに、食 物へ固執することは、「執着」であると述べている。そのため、ガーン ディーは、果実食に近い食事に近づけるための「純真な種類の実験」を 行うことを好むようになったという。また彼は、ロンドン時代での生活 を懐古し、そこにおいても、南アフリカ時代のような食生活を実践すべ きであったと述べている。ガーンディーは、こうした果実食に近い食生 活を、“ahiṃsak” であると表現している。 以上、表1で示された南アフリカ時代に書かれたahiṃsāが使用されて いる両書簡を検討する限り、ahiṃsāという語は、専ら私生活上の菜食主 義との関連で語られていたことが窺える。4 インド帰国からアーシュラム設立まで
これまでは、表1を参考に、南アフリカ時代に書かれた各文書おいて ahiṃsā概念がいかに語られていたのかを個別に検討してきた。このよう なahiṃsā概念の語りは、1915年のインド帰国以降の時代において、いか に変化していったのであろうか。本節では、ガーンディーが1915年1月 9日にインドに帰国してから、同年5月20日に、グジャラートのアフマ ダバード郊外コチラブに「サッティヤーグラハ・アーシュラム」を建設 し、「アーシュラムの規約の草案(āśramnābandhāraṇnomusaddo)」において、「アヒンサーの誓い(ahiṃsāvrat)」が制定されるまでの期間の史料
を精査していく。このときに定められた「ahiṃsāの誓い」における指針 の内容は、独立運動時代のnon-violenceの意味が定義づけられたYoung India誌1920年8月11日号に掲載された有名な「剣の教義(The Doctrine of the Sword)」[CWMG
XXI: 133–136
]でも繰り返し述べられるようになっ ていく。その意味でも、1915年1月にインドに帰国し、5月にアーシュ ラムで「ahiṃsāの誓い」が制定されるまでの期間の史料を精査すること で、ahiṃsā概念が、いかなる背景から、サッティヤーグラハを支える思想的基盤として認識されるに至ったのか、という点を明らかにすること ができる。 ガーンディーは、南アフリカにおけるサッティヤーグラハを終えた後、 1914年7月18日にダーバンを経ち、ロンドンを経由して、1915年1月9 日に、インドに帰国した。帰国後、ガーンディーは、しばしば彼の「政 治上の師(political guru)」と呼ばれるG・K・ゴーカレーとの間において、 「沈黙の誓い(vow of silence、インド帰国後1年間は、インドの現状を視 察することに費やし、政治的言動は慎むこと)を交わした。ゴーカレー は、この誓いの期間が終わる以前の1915年2月19日に死去してしまう が、ガーンディーは誓いの期間が終わるまで、後に述べるカルカッタに おける講演を除き、誓いの実行の継続に努めたのであった。この期間中 に、ガーンディーはシンド、ラングーン、バナーラス、マドラースなどイン ドの諸地域を旅した[CWMG
1958–94 XIV: 607–612
]。 ガーンディーは、インド帰国後、最初にボンベイで約1ヶ月の時を過 ごした。だが、そこにあったのは、彼が帰国前に思い描いていた「高い 精神性を持った場所(place of spirituality)」[CWMGXIV: 360–361
]と異 なる、西洋を模倣した「目も眩むばかりの豪華絢爛」で、「飾り立てら れた」母国の姿であった[ガーンディー2000: 211–212, cf. G
āṁdh
ī2008:
344–345,
CWMGXIV: 339–341
]。ボンベイ滞在中の心境をガーンディー は次のように語っている。 今インドには、悲惨なカリ・ユガ(kaliyuga)が広がっているように思 われる。私は、この国の中を、1ヶ月前から訪ね歩いている。インド には途方もない虚偽が蔓延しているのを見ている。[GAXIII: 22
] ガーンディーは2月15日にボンベイを離れ、次なる目的地として、1915 年2月17日に、R・タゴールがベンガルに設立したシャーンティニケー タンを訪れた。ガーンディーはそこで、シャンティニケータンの人々が、 インドの様式に沿って集会を手配してくれたことに非常に高い感銘を 受けたと語っている。 私は、皆様がインドの様式に沿って歓迎式を手配してくれたことを 特に嬉しく思っています。私たちはボンベイでは遥かに豪華絢爛に迎え入れられました。しかしながら、そこにおいては、私たちを喜 ばすものは何一つありませんでした。何故なら、そこでは、ただ単 に西洋の様式が模倣されていたからです。私たちは、自分たちの目 標に、西洋を模倣するのではなく、我々独自の東洋の様式の中で、 前進していかなければなりません。[CWMG
XIV: 364–365
] この後、シャンティニケータンにおいて、2月20日にはゴーカレーの 追悼講演を行い[CWMGXIV: 366–368
]、3月5日にはタゴールとも会見 している。この期間に、ガーンディーは、インドが「西洋を模倣するの ではなく」、「独自の東洋の様式の中で前進していく」必要性を看取して いった[CWMGXIV: 399–400
32]。 そして、次なる視察先として、ガーンディーはカルカッタに向かった。 ガーンディーは、1915年3月31日に、P. C. Lyons主催の集会で講演を行っ た。この講演において語られたahiṃsā概念には、それまで用いられてい たahiṃsā概念における意味内容と大きく異なる性格を見ることができ る。ガーンディーは講演の中で、インドで見られる無政府主義者達の暴 力を用いた革命的な行動に対して、若い世代の学生達が、どのようにそ れらを捉えて対応していくべきか、ということを詳細に論じた。この時、 誓いの達成に極めて厳格な理解を持つガーンディーが、自ら深く尊敬す るゴーカレーと交わした「沈黙の誓い」を正面から破ってまで、発言を したことは注目に値する。ガーンディーは、「集会において演説をする誘 惑に抗することができなかった」のであった[CWMGXIV: 395
]。この時の講演の内容は、TheAmritaBazarPatrika誌1915年4月1日号に掲載され ている。 これらの強盗や暗殺は全くインドの外の産物であった。これらはこ の国に根づくことも恒久的な制度となることもできない。歴史は暗 殺が良いものを生み出さないことを証明している。この国の宗教で あるヒンドゥー教(Hindu religion)とはhimsaをしないことであり、 つまりそれは、動物の生命を奪わないことである。これが全ての宗 教が従うべき規則であると、彼[ガーンディー]は信じていた。ヒ ンドゥー教は悪人をも嫌うべきでないことを説いている。それは悪 人さえも殺す権利がないことを教えている。暗殺というのは、西洋
的慣例であり、講演者[ガーンディー]は、これらの西洋的方法や 西洋的悪に対して聴衆に警鐘を鳴らしたのであった。[CWMG
XIV:
396
] このカルカッタの講演において特筆すべきなのは、himsaという語が、 「ヒンドゥー教」、「西洋」、「暗殺」などといった概念と結び付けられて語 られたということである。既に見たように、1909年に執筆されたHSにお いても、独立の達成に暴力的手段の使用を認める革命運動家や無政府 主義者たちの一連に議論に対する強い反駁の精神が窺われた。だがHS が執筆された段階では、独立達成のための暴力的手段の是非が問われ ていた文脈においては、ahiṃsāやhiṃsāなどの語は使用されていなかっ た。 ガーンディーは帰国後に、「西洋の様式」を模倣しようとしているイン ド人エリートの政治世界の現状に深く憂慮し、「我々独自の東洋の様式 の中で前進してい」くべき必要性を確信していった。彼の中では、決し て単純な二項対立ではないにしても33、暴力的で物質主義的な「西洋」 に対する、「神聖なる雰囲気」[CWMGXIV: 402–404
]や「高い精神性を 持った」[CWMGXIV: 360–361
]インドの「本来の姿」を実現することが 企図されるようになった。このような中で、「ヒンドゥー教」という枠組 みの中から、「himsaをしない」ことを唱導する必要に至ったのであった。 シャンティニケータンやカルカッタを訪れた後、4月25日までの期間 に、ガーンディーは、マガンラール・ガーンディー宛に、ahiṃsāに言及 した次のような書簡を書いている。 サッティヤーグラハの土台は、ahiṃsādharmaである。私はこのこと が、カルカッタにおいてはっきりと分かった。私はそこで、我々は 別の[yama
の]誓いに、これをも加えるべきであると考えた。この 考えにより、我々は全てのyamaを遵守しなければならないというこ と、そして我々は誓いとして、これらを実行しながら、それらの深 い意義を知ることができるという結論に導かれた。[GAXIII: 36
] これは、インド帰国後に、ahiṃsāについて語った2通目の書簡である34。 上の引用において、ahiṃsā概念がサッティヤーグラハを支える思想的基盤として捉えられていることは特筆に値する。こうした点はサッティ ヤーグラハとahiṃsā概念が別々の文脈で議論されていたHSとは対照的 といえる。また、上の書簡で重要なのが、ガーンディーが、「私はこのこ とが、カルカッタにおいてはっきりと分かった」と述べていることであ る。つまり、ガーンディーは、インド帰国後に自分たち「独自の東洋の 様式の中で前進してい」くこと、さらに、カルカッタにおける無政府主 義者の暴力的手段に代替する「ヒンドゥー教」の有用性を確信していく 中、ahiṃsāを「我々の誓いの一つとして加えるべきであるという結論に 達した」のであった。 ガーンディーはこうしてインド帰国後、アーシュラムが建設されるま での期間において、政治上の問題に向き合っていくさいに、いかに「ヒ ンドゥー教」の教えであるahiṃsāを遵守することが必要不可欠であるの かということを唱導するようになっていった[GA
XIII: 36–38, 69;
CWMGXIV: 399–400, 405, 422–425
]。 こうした政治的含意を持つahiṃsā概念は、1915年5月20日に建設し た自身のアーシュラムにおける「アーシュラムの規約の草案」において 「ahiṃsāの誓い」という項目が制定されたことで、ガーンディーや弟子た ちの活動を支える確固たる指針の一つとして定着していった[S. N.6187,
6189
]。「ahiṃsāの誓い」の項目では、次のように記されている。 [ahiṃsāは]動物や他の生物を殺さないだけでは十分ではない。こ の誓いを遵守する者は、彼の理解で不正である者たちさえも殺す ことができないと知るべきである。その人は彼らに怒り(krodha) を抱かず、慈悲(dayā)を持って接するように。すなわち、両親、 政府、或いは誰かが、その他の人に圧制をしたとしても、その人の 圧制に対して反対をしても、決してその人を殺したり傷つけたりし ないように。satyaとahiṃsāを遵守する者は、圧制された時、サッ ティヤーグラヒーとなって、慈悲の力(dayābaḷ)によって圧制者に 打ち勝つであろう。その人は、圧制の支配に陥らず、圧制者に勝利 を得るまで、自ら困難に耐え、そして、死刑までも享受する準備が できているであろう。[S. N.6187
] この誓いの項目で記されたahiṃsāに対する理解は、1920年の「剣の教義」においても鮮明に反映されている[CWMG
XXI: 133–136
]。つまり、 「剣の教義」では、「non-violenceとは、圧制者の意志に対して全身全霊 を持って抗すること」であることが説かれているが[CWMGXXI: 135
]、 このような意味内容を持ったahiṃsā概念は、上に引用した「ahiṃsāの誓 い」の項目において最初に制定されたのである。そこでは、暴力ではな く「慈悲の力によって圧制者に打ち勝つ」という能動的な抵抗の思想も 示されている。 さらにガーンディーは、1916年2月16日の講演において、アーシュラ ムの「ahiṃsāの誓い」に関してより詳しい説明を加えている[CWMGXV:
165–175
]。彼は、“ahimsa” が自分たちを「無限に高い領域に連れてい く」、「無限の意味を持つ」概念であると定義し、明確に “non-killing” と しての消極的意味を否定した[CWMGXV: 168
]。このようにして、イン ド帰国後の最初の1年の間に、ガーンディーは元来政治的含意を持たな かったahiṃsā概念を、サッティヤーグラハを支える「無限の意味を持つ」 能動的な思想として認識するようになっていったのであった。5 おわりに
本稿では、HSが執筆された1909年から、サッティヤーグラハ・アー シュラムが設立された1915年までの期間において、ガーンディーの ahiṃsā概念に対する認識がどのように変遷していったのかを検討して きた。先行研究においては、ahiṃsā概念は、初期サッティヤーグラハを 支えていた必要不可欠な思想的基盤であったと解されてきた。だが、こ れまで見てきた通り、南アフリカ時代においてはまだ、ahiṃsā概念は、 サッティヤーグラハとは関連づけて論じられていなかったのである。南 アフリカ時代においてahiṃsāは、牝牛保護をめぐる問題や自身の菜食主 義を説明する概念として使用されていた。 1915年の帰国後、ガーンディーはゴーカレーと交わした「沈黙の誓い」 を果たすために、インドの諸地域を旅した。そこで彼が垣間見たのは、 西洋を模倣した「目も眩むばかりの豪華絢爛」で、「飾り立てられた」母 国の姿であった。ガーンディーは俄かに、インドが「独自の東洋的様式 で前進していかなければならない」必要性を看取していった。このよう な考えを抱懐していた最中、カルカッタにおいて、ガーンディーは、暴 力的手段を唱導するインドの革命運動家たちの問題に直面した。この経験は、ガーンディーに甚大な影響をもたらしたと考えられる。彼はそこ で、サッティヤーグラハの「土台」を「ヒンドゥー教(Hindu religion)」 の概念枠組みの中に位置づけていくことが不可欠であるとの確信を得 た。この時以降、ガーンディーは、彼のyamaの誓いの理解に、ahiṃsāを 新たに加え、この概念を政治改革の礎石として据えていくようになって いったのであった。 膨大なガーンディー研究の蓄積にも関わらず、彼のahiṃsā概念を主題 として扱った研究は極めて乏しい。彼のahiṃsā概念をいかに理解するか ということは、彼の思想全体に関わる問題である。これまで、non-violence という言葉の影に隠れて議論の俎上に上がることの少なかったahiṃsā 概念には、さらなる考察が加えられて然るべきであろう。サッティヤー グラハ・アーシュラム設立以降の時代におけるahiṃsā概念については、 また稿を改めて詳しく論じることにしたい。 付記・本稿の一部は、2010 年 10 月の日本南アジア学会の全国大会で報告したものである。グ ジャラーティー語とヒンディー語のテクストの精読については、田中敏雄先生および雪下洋一 先生に多大なお世話になった。ahiṃsā 概念に関する先行研究については、永ノ尾信悟先生にご 教示を受けた。また、2名の査読者の方からは、的確極まるコメントの数々をいただいた。こ の場をもって心からの謝意を表したい。もしも本稿に誤りがあれば、それらはすべて筆者の責 任である。 註 1 本稿では、ガーンディーのグジャラーティー語やヒンディー語で書かれた文書における “ahiṃsā”と、彼が英語記事の中で使用した“ahimsa”というローマ字表記を区別する意味で、こ れらの日本語表記を控えた。また、本稿ではahiṃsā やahimsaの表記と区別するために、英語 の “non-violence”の表記もそのまま使用する。 2 和訳については意見が統一していない。これは、極めて多様な解釈が可能なことも考慮し、 本稿ではカタカナ表記で、「サッティヤーグラハ」とする。
3 [Schmid 1968: 625, Tähtinen 1976: 1–16, Bodewitz 1999: 17, Zydenbos 1999: 187]によれば、 経典から語の意味を厳密に考慮するならば、ahiṃsā をあえて英訳する場合は、“non-injury”が 最も適切とされる。しかしながら、ahiṃsā は、ガーンディーや同時代のインド人エリートたちの 間で、しばしばnon-killing と訳されていた。また、厳密には、ヒンドゥー教やジャイナ教の経典 において、ahiṃsāという語は、必ずしも一様の意味を持たない。例えば、ahiṃsāという語は、イン ド経典上、大きくヴェーダ時代(Vedic period: 2500–600BCE 頃)に書かれた初期経典と、叙事詩 時代(Epic Period: 600BCE to 200 CE)に書かれた後期経典とで、その含意が異なる。ヴェーダ時 代においては、ahiṃsā は動物の殺生を儀礼によって正当化する意味合いもあった[Tähtinen
1976: 38, 65, Bodewitz 1999: 22, Schmithausen 2000: 257, 275]。ahiṃsāに動物殺害を忌避した 倫理的意味が含まれるようになるのは、紀元前5世紀前後の仏教やジャイナ教などのアンチ・ ヴ ェ ー ダ 思 想 の 興 隆 以 降 で あ ると い う 見 解 が 有 力 で あ る[Bodewitz 1999: 33–38, Schmithausen 2000: 253]。叙事詩時代以降の経典上においても、厳密には、その意味する内容 は文脈において異なるが[Tähtinen 1976: 10]、政治的含意を持たないという点においては研 究者の間で一致している。
4 筆者がTheCollectedWorksofMahatmaGandhi(1999, 98vols, New Delhi: Publications Division, Govern-ment of India、以下、CWMG)に編纂された史料を調べた限り、最初に英語でnon-violence が述べられて いるのは、1919年4月18日に書かれた“Telegram to G.A. Natsan”と、同日に書かれTheHindu 誌4月21日号に
掲載された “Press Statement on Suspension of Civil Disobedience”であった[CWMG XVII: 443–444]。そ れに対して、1919年4月18日から、1922年の2月4日にチャウリー・チャウラーの事件を機に運動が全面的に 停止されるまでの英語の記事の中で、non-violenceという言葉は、計440回使用されている。なお本稿で は、コンピューター検索が可能であるなどの便宜上、CD–Rom 版の[CWMG]を使用した。[CWMG]には、編 纂上の問題に批判の声も上がっていることから[Suhrud 2004: 4967–4969]、本稿で使用した史料は全 て、1958–94年 版 のTheCollectedWorksofMahatmaGandhi(1958–94, 100vols, New Delhi: Publications Division, Government of India)[以下、CWMG 1958–94]で確認をした。また、[CWMG]で抜け落ちている史 料については、随時[CWMG 1958–94]で補った。
5 例えば代表的な研究として、[Case 1923, Gregg 1934, Bondurant 1958, Sharp 1973, 1979, Dalton 2000, Ackerman 2000]などが挙げられるが、何れもサッティヤーグラハやnon-violence が主題と して扱われている。サッティヤーグラハやnon-violence の言及に比較して、ahiṃsā の言及は極めて 少ない。
6 サッティヤーグラハやnon-violence をいかに解釈するのかについては、大きく幼少時代を中 心としたインド的影響を強調する立場と[Erikson 1969, Hay 1970, Kotturan 1973, Borman 1986, Gier, 2002, 2004]、ロンドン時代や南アフリカ時代に受けた西洋的影響を強調する二 つの立場が見られる[Brown 1989, Green 1993, Chatterjee 1996, Hunt 2005, Lannoy 2006]]。 ガーンディーの思想形成における幼少時代に受けたとされるジャイナ教やヴァイシュナ ヴァ派のahiṃsā 概念や文化的影響は、近年の一部の研究において強調される傾向が見られ る。例えば、A. Raghuramaraj は、A. L.Bsham の1971年の論文[Bsham 1971]を改めて取り上げ ている[Raghuramaraj 2006: 19–44]。[Bsham 1971]は、歴史学者のR.Kumar によっても、「19 世紀終わりの数十年におけるグジャラートの中流階級の家庭に強く漂っていた宗教的雰囲 気の中で育つ中でガーンディーが吸収した一般家庭のヴァイシュナヴァ派やジャイナ教の 価値」に論究しているとして評価されたものである[Kumar 1971: 5]。こうしたガーン ディーの幼少時代の影響を主張する論者が自説を裏づけるさいに、これまで最も頻繁に使 用されてきた史料の一つとして、シャーマル・バット(Śāmal Bhaṭṭ1718–65)の六行詩が挙げ られる。この六行詩は、ガーンディー自身によっても幼少時代について語るさいにしばしば 引用されていた[Gāṁdhī 2008: 31, Doke 1909: 84]。だが、シャーマル・バットの研究者である Ś・ジェーサラプラやA・M・ラーヴァルによると、この詩は元来MadanmohanāKaḍī の第998節 から999節からの抜粋で、[Jesalapurā 1994, Rāval 1955]では、六行ではなく、十二行の詩が 引用されている。特筆すべきなのは、ガーンディーの六行詩の後に続くはずの後半の六行に おいて、自分の父を殺した敵に対する復讐の教訓が説かれていることである(“pitṛtyārele
pinḍ, verpitānunlīje”)。少なくとも、[Jesalapurā 1994, Rāval 1955]を参考にする限り、バット の詩を純粋に[Gāṁdhī 2008: 31]で言われているような「悪行(apă–kār)の報いは悪行によ らず、善によってこそ報いること」という道徳律を謳った内容と捉えることは難しいように 思われる。ちなみに、初期サッティヤーグラハにおいては、「悪[物質的力、暴力]に対して善 [魂の力、道徳的力、愛]で報いる」という表現は、しばしばL・トルストイなどの無抵抗主義と の関係から論じられていた[CWMG VII: 73, 83, 374, 429, VIII: 48, 152, 334, 194–195, 483, 487, IX: 24, 29, 115, 187, 267, 293, 459, 230, 233, 360, X: 130, 162, 180, 195, 199, 240, 243–244, 252, 270, 283, 286, 289, 293–294, 306, 380, XI: 144, 472–473, XII: 57, 293, 13: 87, 268, XIV: 217– 218, 261]。
7 本稿では、[CWMG]同様、CD–Rom 版のSampūrṇGāṁdhīVāṅmay(1999, 98bhāg, Naī Dillī: Prakāśan Vibhāg, Sucna evaṁ Prasāraṇ Mantrālaya, Bhārat Sarkār)[以下、SGV]を使用する。
8 史料の詳細については、註4参照。
9 SGV には、最初に1884年付の史料があるが[SGV I: 1]、これは1920年代に執筆されたガーン ディーの『真理の様々な実験、或いは、自叙伝(SatyanāPrayogoAthvāĀtmakathā)』[Gāṁdhī 2008]からの引用なので史料自体は1920年代のものである。
10 HS は一般的に、HindSwarāj として知られているが、最初にIndianOpinion[以下、IO]誌に論稿
が掲載されたさいには、“HindSwarājya”というタイトルであった[Gāṁdhī 1909a, 1909b]。その 後、1910年1月 にHindSwaraja と い うタ イト ル で、International Printing Press, Phones, Natal,
South Africa より1冊の本として出版された。第2版が、1914年に、International Printing Press, Phoenix, Natal South Africa より出版されたが、そこにおいてタイトルが初めて、Hind
Swarāj になった。
11 ガーンディーの言葉ではないが、GāṁdhījīnoAkṣardeh: MahātmāGāṁdhīnāṁLakhāṇo, Bhāṣaṇo,
PatroVagerenoSaṅgrah, 1967–92, 81bhāg, Amadāvād Navajīvan Prakāśan Mandir[以下、GA]に編 纂された1894年10月20日付のラージチャンドラ・ラーオージーバーイー・メヘター(1867– 1901)からの書簡には、1ヶ所だけ “ahiṃsā”という語が使われている[GA XXXII: 497]。 12 CWMG に編纂された英語記事において最初にローマ字表記で “ahimsa”という語が現れるの は、1915年4月13日のSt. Stephen’s College で行われた講演の記録においてである[CWMG 14: 399–400]。1915年から1919年4月18日までの英語記事においては、ahiṃsā は英語記事におい てnon-violence と訳されず、ローマ字表記で “ahimsa”と記されていた。 13 引用文については、[Gāṁdhī 2008]および[ガーンディー 2000]を参照する。
14 これと対照的に、『南アフリカにおけるサッティヤーグラハの歴史(DakśiṇĀphrikānāSatyāgrahano Itihās)』(1924)における「サッティヤーグラハの誕生(SatyāgrahaJanm)」の章においては、 ahiṃsā という語は使用されておらず “shānti”という語が用いられている[Gāṁdhī 2007: 104–112]。また、[Gāṁdhī 2008: 453–456]における、非協力運動決議案の草稿作成時の描写 のさいにも、“shānti”という語が使用されている。恐らくガーンディーは、哲学的記述と史的 記述において、言葉の使用を慎重に使い分けたと考えられる。S・I・ヤーグニックやM・デー サーイーによる英訳では、これらの使い分けは区別されておらず専らnon-violence という訳 語が統一的に用いられている。 15 HS は、1909年11月13日から22日の間に執筆された。その後、IO 誌のグジャラーティー語欄に、 最初の12章が1909年12月11日号に、残りの8章が12月18日号に、分割して掲載された。1冊の
本としては、1910年1月に、International Printing Press, Phoenix, Natal, South Africa より出版 された。本稿では、HS については、このIO に掲載されたものを参照する。邦訳は、[ガーン ディー 2005a]に大部分を依拠している。
16 英語版は、ガーンディーによって訳され、1910年3月20日に、International Printing Press, Phoenix, Natal, South Africa より出版された。この1910年の第1版の複製は、[Gandhi 2010: 1–102]に収録されている。本稿では、IHR に関しては、[Gandhi 2010: 1–102]を用いる。 17 ロンドンにおける革命運動家たちとガーンディーとの出会いの詳細については、[Shankar 1996]に詳しい。 18 HS は独立/自治をめぐった、「編集者(adhipati)」と「読者(vācak)」との対話形式で書かれてい るが、この「読者」は、M・L・ディーングラーを始めとした革命運動家達が、モデルとなってい るとされる[Parel 1996: 148]。 19 トルストイはこの中で、インド人革命運動家に対し次のように説いている。「もしも人が、す でに分かり切ったことであり、自身の心に対しても当然のものと知っている、無抵抗を含意 する愛の法(law of love)の調和の中に生きさえすれば、その結果として、いかなる形態の暴 力にも与ることはないのである。[……]悪に抗すなかれ。しかしながら、自分自身の内なる 悪に対してさえも与すべきではないのである。つまり、行政、法廷、徴税、いやそれ以上に重 要なのは軍隊の暴力的行為に与すべきではないのである。そうすれば、世界の誰をもあなた を隷属化することなどできない」[Mayer 1966: 166]。ガーンディーのこの書簡に対する賛 辞は、IO 誌1910年12月25日号に詳しい[CWMG X: 242–244]。 20 その後、ガーンディーとトルストイの間の交信は、トルストイが1910年11月20日に死去する まで続いた[CWMG X: 223–224, 481, 511, XI: 105, 472–474]。 21 1910年版では、“ahimsa”ではなく、“ahinsa”となっている。1921年版と1939年版において、 “ahimsa”と表記されるようになった[Gandhi 2010: 47]。 22 []内は、[Gandhi 2010: 66–67]。 23 [ガーンディー 2005a: 99–100]では、「暴力」と訳されている。 24 []内は、[Gandhi 2010: 73]。 25 「受動的抵抗(passive resistance)」のこと。 26 []内は、[Gandhi 2010: 74]。 27 [ガーンディー 2005a: 109]では、「武器」と訳されている。 28 [ガーンディー 2005a: 111]では、「腕力」と訳されている。 29 []内は、[Gandhi 2010: 92]。 30 [ガーンディー 2005a: 97–106]では「銃火」と訳されている。
31 GandhiPapers, Sabermati Ashram Preservation and Memorial Trust, Ahmedabad[以下、S. N.].
32 また、[S. N. 6120]にも同様の主旨が見られる。 33 例えば、HS において、ガーンディーは「西洋近代文明」と「イギリス人」を分けて考察してい る。彼は必要ならば、自国文化に対しても批判を怠らなかった。 34 この書簡以前にも1通、ahiṃsā が語られているマツラーダース・トリクムジー宛に送られた 書簡がある。そこでは、yama の一つとしてのahiṃsā を遵守する重要性が説かれているが、 サッティヤーグラハや政治上の問題には関連づけられていない[GA XIII: 17]。
参照文献
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要旨 本稿では、M・K・ガーンディー(1869
-
1948)の南アフリカ滞在期(1893-
1914) から、1915年にインドで最初のアーシュラムが設立されるまでの時代において、 ガーンディーのahiṃsā概念に対する認識が、いかに変遷していったのかを論究し た。従来の研究では、南アフリカ滞在期のサッティヤーグラハ(1906-
14)は、ヒ ンドゥー教のahiṃsā概念によって思想的に基礎付けられていたと考えられてき た。それに対し本稿では、サッティヤーグラハとahiṃsā概念が初めて結び付けら れて語られるのが、1915年にインドへ帰国して以降の時代であったことを明らか にした。ガーンディーはインド帰国後、西洋を模倣した「目も眩むばかりの豪華 絢爛」で、「飾り立てられた」母国の姿に直面し、「独自の東洋的様式で前進して いかなければならない」必要性を看取していった。このような中、彼は俄かに、 サッティヤーグラハの「土台」を「ヒンドゥー教」の概念枠組みを用いて語るよ うになり、ahiṃsā概念を政治改革の礎石として再定位していった。Summary
The Origin of Political Ahiṃsā:
A Study on Gandhi’s Thoughts and Experience from 1909 to 1915 Eijiro Hazama
This paper provides an analysis of the development of M.K. Gandhi’s (1893—1914) political discourse on ahiṃsā between the period beginning with his South African sojourn (1893—1914) and ending with the establishment of the Satyagraha Ashram in 1915. Many previous studies have as-sumed that the Jain and Hindu conceptions of ahiṃsā significantly influenced Gandhi’s development of the principle of satyāgraha. Contrary to this assumption, this paper clarifies that Gandhi first began to associate the ideological basis of satyāgraha with the concept of ahiṃsā after his return to India in 1915. Significantly, even in “Hind Swarāja” (1909), which he had written to meet all the objec-tions that had been raised by contemporary Indian revolutionaries, Gandhi never used the term
ahiṃsā in reference to his conception of satyāgraha.
Immediately after returning to his homeland in 1915, Gandhi began to travel throughout India to acquire firsthand knowledge of the current conditions. This period of observation led to the gradual reinforcement of his belief in the existence of a binary opposition between ‘the East’ and ‘the West’. While the former, particularly India manifested as a ‘holy atmosphere’ and ‘place of spirituality’, the latter manifested as modern civilization characterized by materialism and violence. Such an epistemic perception convinced Gandhi of the necessity to spread his belief that the only means of achieving ‘true swarāj’ for India was devoting oneself to the fundamental teachings of the ‘Hindu religion’, which firmly advocates ‘abstention from himsa’.