第2章 コレットにおけるキリスト教的人文主義—聖書解釈を中心にして—
本章及び次章においては、キリスト教的人文主義者と言われるコレットの思想的特徴を明ら かにする。彼の思想的特質を考察するにあたっては、人文主義的側面と哲学的側面とに分けて 論じることが適当であろう。
そこで本章では、コレットがオックスフォードで行ったパウロ書簡に関する聖書解釈講義を 中心に、彼独自のキリスト教的人文主義とはいかなるものであったのかについてみていくこと とする。これまでの先行研究において聖パウロ学校とは、コレットとエラスムスが共に抱いた キリスト教的人文主義教育の理想を具現化ならしめたものと捉えられてきた。しかしながら、
共に人文主義運動の下で行われた彼らの聖書研究には、聖なる言葉に対するアプローチの仕方、
すなわち聖書解釈の方法論における相違点が認められるのである。したがって、こうした点に 留意しながら検討することによって、エラスムスとは異なったコレット独自のキリスト教的人 文主義、引いては彼が理想としたキリスト教的人文主義教育の在り方が導出されるものと期待 される。
そこで第1に、ルネサンス期にみられたギリシャ、ラテンの古典作品に対する価値的再興の 知的・文芸運動とされる人文主義について、その発祥地であるイタリアを中心に押さえる。
第2に、イタリアより以北の、いわゆる北方ヨーロッパでみられた宗教的傾向の強いキリス ト教的人文主義の特質について言及する。
第3に、イギリス人文主義ついて、オックスフォードの改革集団と呼ばれた、コレットを始 めとするテューダー初期の人文主義者らの活躍を中心にみてみる。
第4に、コレットにみられた人文主義思想の特質を明らかにする。そのために、彼がオック スフォードで行ったパウロ書簡に関する聖書研究とはいかなるものであったのかを分析し、同 時代の聖書研究者との解釈上の比較・検討を行う。
最後に、コレットがその独自の聖書解釈の上に立って導出したキリストの教えとはいかなる ものであったのかについて、彼の解釈にみるパウロの教説を取り上げながら明らかにする。
第 1 節 ルネサンス期の思想的潮流—イタリアの「市民的人文主義」umanesimo civile ; civic humanism
伊藤博明によれば、ヨーロッパにおいて「再生」を意味する「ルネサンス」Rinascimento;
Renaissanceと言われる時代は、14 世紀から16 世紀にかけてイタリアに始まったとされ、また
それは、全ヨーロッパを巻き込んだ文化的・社会的運動の総称でもある(1)。この新しい知的思 潮の起点は、イタリアで活躍したペトラルカFrancesco Petrarca(1304-1374)による、古代ギリシャ、
ラテンの古典作品の再興に求められよう。
人文主義とは、このルネサンス期の思想的傾向の一つである。そもそも「人文主義」humanism という言葉自体は、1808 年にドイツの教育学者フリードリッヒ・ニートハンマーFriedrich
Immanuel Niethammer(1766-1848)が「フマニスムス」Humanismusとして作り出したものだった。
彼は、実用主義的で、科学的訓練に重きを置く当時の高等教育の在り方と対峙させる形で、全 人格的な人間形成を目指したギリシャ、ラテンの古典教育を念頭においてこの語を用いた。
さてラテン語でhumanistaと書く「人文主義者」の方は、中世イタリアの「書簡記述者」dictators
に由来する。職業としてのこの書簡記述者たちは、そもそも古典作品を研究する学者ではなか った。原典は長い時を経て、記述者たちによって自分本位に改変されたり、原典とは無縁のあ る観点から原典の言葉を曲げて用いたり解釈されていったのである(2)。しかし、上述で示した ルネサンスと言われる時代になると、イタリアの修辞学的伝統を発展させた書簡記述者たちは 文章をより一層上手に書き、また上手に話すために、ギリシャ、ラテンの古典作品に一定の価 値を認め、それらを研究対象とし、更には模倣するようになっていった。書簡、文書、公開演 説などは、そのような作品を手本として作り上げられていったのである。このような作業は、
極めて実用的な技術として確立していき、そして教授されていくようになった。ここに古典作 品を対象として研究するという新たな一つの職業が登場したのである。したがって、人文主義 の知的運動は、哲学を生業とする者の手によって始められたのではなく、こうした書記、歴史 家、倫理学者、政治家などによって始められたものであった。
15世紀末から16世紀には、「人文主義者(ヒューマニスト)」という言葉が、「古典文学の教授、
教師もしくは学徒」の意味として用いられ(3)、その用法は18世紀に至るまで広く人々に理解さ れるようになった。彼らの扱う学問分野は、文法学、修辞学、歴史学、詩学、道徳哲学として 明確化されていき、そこにはギリシャ、ラテンの代表的な古代著述家の作品を講読し、解釈す るということも含まれていた。また人文主義者たちは、古典研究へのアプローチとして歴史学 的・言語文献学的解釈という方法を採っていくようになった。古典作品の模写、編集に加え、
原典批評及び歴史的批評といった技術的発展がみられたのである。彼等は批判的精神の下、原 典を同じくするも、中世を通じ手書きによって改変された様々な作品同士を比較検討すること により、原典本来の姿を追求していった。それは「古代学問の再興」(4)というスローガンで表 されるように、古典世界をあるがままにで受け入れ復元すること (5)、そのような古典研究によ って初めて、「ある原典の意味を、その著者の意図通りに理解し、古代の人々が理解していた通 りの意味に理解すること」(6)なのである。それまでの中世においては「古典作家たち自身が、
その語彙に与えていた本来の意味や彼等の語法を忠実に理解しようとする配慮」 (7)が欠落して いたのだった。
人文主義者の中には、そうした古典作品を模倣した典雅な文体を研究するだけでなく、その ような作品に含まれた「生き方」をも模倣する者もあった。すなわち、文学そのものが教訓的 な意味合いをもつものとして捉えられたのだった。そこには、古代ギリシャ、ラテンの文芸作 品から導出されるところの、実際的な道徳上の規範意識「黄金の叡智」auera sapientiaを汲み取 って、実生活を送る都市市民としての責務ある生き方を求める姿勢が打ち出されていったので ある。特にイタリアの自治都市で展開された「市民的人文主義」は、政治的関心と深く結びつ いて考えられ、自治都市の公益と市民の自覚を希求する姿勢がみられたのである(8)。なかでも ギリシャ作品に比してラテン作品は実学的・実践的性格が強く、キケロMarcus Tullius Cicero(B.C.106-43)などが最もよく取り上げられた。彼の修辞学的著作は、修辞上の理論を、演 説、書簡、対話などは散文文学用の実例的範例を、哲学的著作はギリシャ哲学を研究する各学 派の資料や、折衷主義的思考の範例を示すこととなった。とりわけ彼の『義務について』De officiisは、修辞学上、文体の模範として高く評価された古典研究の代表的な作品だった。また ペトラルカが、キケロの中に、雄弁家は哲学を学ばなくてはならないという「修辞学と道徳哲 学の統合」の姿勢を発見したように、キケロにみる修辞と哲学の統合は、雄弁と叡智の結合を 知らしめることとなった。この点について石坂尚武は次のように説明している。ペトラルカは
「古典作品に優れた表現を学び、自ら文章を創作する修辞学、自らの表現力と説得力をもって 弁ずる雄弁術、この学芸とともに徳と叡智の学芸たる哲学とを、キケロに倣って結びつけた」 (9) と。それは、伝えようとすることの技術的な表現と、その道徳的内容は一体としてあるべきと いう立場なのである。
先にも若干触れたことではあるが、P.O.クリステラーPaul Oskar Kristellerは、「フマニタス(人 間性)研究」」studia humanitatis或は「より人間的な学芸」とされる、「文法学」grammatica、「修 辞学」rhetorica、「詩学」poetica、「歴史学」historia、そして「道徳哲学」ethicaを学問分野とす るギリシャ、ラテンの作品を講読し、そこに解釈を加え、研究する者、或はそれらに通暁する 者を「ヒューマニスト(人文主義者)」と呼んだ(10)。特に道徳哲学との関連でみるならば、そう した人文主義者らはギリシャ、ラテン語で書かれた、人間を人間たらしめる人文学研究を通じ て、「良き学問(学芸)」bonae literaeと「良き生活」bona vitaとの密接な関係性に気づき、知と徳 との結合を強調し、人々を賢慮に満ちた有徳な生活へと導き勧めるような学問・有徳なる生活 を目指す実際的学問を追求したと言える(11)。またそこでの教育は、人格の陶冶、教養を意味す る「パイデイア」paideia、或は「フマニタス」humanitasの形成を目指して、こうした学問に基 づき行われた。
このような人文主義の知的運動は、哲学とは分けて捉えるべきであるが、ルネサンス・人文 主義がルネサンス哲学に与えた影響として、例えば次のような点が挙げられている。一つには、
人間、人間の尊厳、宇宙における人間の特権的地位が強調されたこと。二つには、個人の感情、
意見、経験および環境について一層具体的に表現され、或は表現されうるに値すると考えられ るようになったこと等である。このような人文主義の影響の下で哲学的思惟においては、人間 自身に対してその持てる本性の新しい可能性を切り開く事となったのである。それは人間性の 尊厳・卓越さとして認められるところとなり、人間が自らの意志によって自らの人生を決定し、
また社会をも改革していけるであろうとの期待を抱かせるものとなった。この点については、
コレットの思想とも関連があるため、次章以降において詳述することとする。
やがて「人間と古典文学の価値に対する確信、及び古代学問の復興に対する確信」(12)と言い 表される、イタリアで起こった広範な文化的・文芸的思想上の潮流は、15世紀の中頃からイタ リアよりアルプスを越えて北方ヨーロッパへと広がっていくにしたがい、宗教的視野の中で新 しく意味付けされていくこととなった。しかしながらこのことは、イタリア人文主義が、キリ スト教を否定していたということを意味するものではない。先にもふれたように、世俗に生き る共和国市民、都市市民の生き方には、それ以前にキリスト教徒であるという事実が前提とし てあり、その前提の上に立って、とりわけ社会的・政治的な面から捉えた生き方が模索された のである。更には、キリスト者でありながらも、世俗の共和国、都市市民としていかに都市的 共和体の中で生きるかということを道徳哲学の問題としても取り上げていたのだった。こうし てイタリアにおいては、ギリシャ、ラテンといった言わばキリスト教の側からみれば異教的古 典作品そのものを主軸とする研究が行われたのである。
他方、北方ヨーロッパでは、一市民でありながらも、キリスト者としていかにキリスト教的 共同体の中で生きるかということに力点が置かれた。したがって、イタリア人文主義と北方の それとの相違は、人間の生き方における世俗的側面と宗教的側面の強調の違いとも解釈するこ とが可能であり、どちらかを否定するというものではないことに注意しなければならない。そ のためアルプス以北のヨーロッパでは、古典研究は広く聖書研究にまで及び、かえってギリシ
ャ、ラテンの古典作品などは、キリストの教えとはいかなるものであるかを、人間の生と共に 探求するための補完的・副次的な役割をもって研究されることとなったのである。そこで次に、
北方ヨーロッパでみられた「キリスト教的人文主義」Christian Humanism についてみていきた い。
第2節 北方ヨーロッパのキリスト教的人文主義
ルネサンス期における人文主義者の関心の対象は、古典作品全般を指す。しかしながら、先 にも述べたように、北方ヨーロッパではギリシャ、ラテンの古典作品のみならず、アウグステ ィヌスや他の教父の著作、そして聖書そのものの価値が再評価された。
量義治(1999)が論じているように、広い意味でルネサンス期に起こった文芸再興を定義する ならば、それは聖書をも含めた古典一般の再生を意味する(13)。そのため北方ヨーロッパの人文 主義は一般に「キリスト教的人文主義」と言われているのである。根占献一によれば、「キリス ト教信仰が異教古典思想との間に調和を保っている場合、ルネサンス思想にはキリスト教的人 文主義の名称が積極的に付与され、これを成し遂げた者」(14)を、またP.O.クリステラーによれ ば「宗教的・神学的問題を自分たちの著述の全体または一部の中ではっきりと議論した、人文 主義的・古典的・修辞学的訓練のある学者」を「キリスト教的人文主義者」humanista Christiana と呼ぶ(15)。
キリスト教的人文主義者の代表たるエラスムスは、ギリシャ、ラテンの古典、及び聖書の原 典批判を行いながら、キリストの教えと異教的古典作品との融合を図り、福音書を中心とした キリストの教えが、そうした古典的諸作品にも等しく語られていることを知った。キリスト教 的人文主義者の多くが、「聖書や教父たちを補うものとして、古典作家のもつ倫理的価値」(16)を 認めたのである。そこでは、古典的作品の中に通底する正義、思慮、堅忍などの実践的な道徳、
或いは日常の倫理的価値といったものを補助的に使用しながら、聖書の中で語られる「信仰、
希望、愛」といったキリストの中心的教えが、キリスト者としての生きた指針、「キリスト教(的)
哲学」 (17)Philosophia Christianaとして捉え直されたのだった。
ここにはまた、ルネサンス期特有の新しい思考方法が認められる。それは、人は直に人間を 見、直に神を見、直に世界を見るようになったということである。16世紀という時代は、事象 の捉え方という哲学的思考の方法に関して「人間中心主義ないし主観主義」(18)とも言われる。
なおまたクリステラーによれば、キリスト教的人文主義者が、「宗教や神学を取り扱う際のも っとも重要な要素は、スコラ的方法への攻撃と古典への復帰の強調で、古典とはこの場合キリ スト教の古典、すなわち聖書と教父の著作を意味した」とされる(19)。よって宗教的・神学的関 心を強くもった北方ヨーロッパの人文主義者に共通する批判的精神は、「カトリック教会による 福音の『歪曲化』に向けられ、聖書原典への回帰を志向させた」(20)のである。
ルネサンス期のキリスト教的人文主義者が研究の対象とした「聖なる学芸」は、中世の大学 の神学部に伝統をもつ学問領域だった。中世の大学ではカリキュラムが固定化されていたため、
神学部においても自由なテキストを選択することなく、まず聖書、次にペトルス・ロンバルド ゥスPetrus Lombardus(1100-1160)の『命題集』Sentencesの注解書が学ばれた。また授業では、教 師がこうした権威あるテキストを用いながら「講義」lectura, lectioを行っていたのである。そこ では「聖書から恣意的に切り取られた引用のかたちで、それも勝手に定立された命題の論証の
ために、文脈と関係なく聖書を用いる」(21)という方法論が採られていた。それは、ある「命題」
quaestioに対して、是と否sic et nonの論拠をそれぞれに提示し、そのどちらが正当なのか「討議」
disputatioを重ね、合理的な根拠を示して神を弁証しようとするものである(22)。中世末期になる
とこうしたスコラ神学は、極端なアリストテレス主義的弁証学に陥って「討議」そのものが重 要視され、本来平易であるはずのキリストの教えが、そうした難解な解釈によって、原典の文 脈からはかけ離れたものになってしまった。
これに対して人文主義的方法による新たな聖書研究においては、「聖書をキリストの教えを記 した書物として文脈に即して精読する姿勢」(23)がみられるようになる。言わば、討論によって 神とは何かを突き詰めていくことから、原典に即してキリストの教えとは何かを導き出してい くことが目指されたのである。かくして聖書に書かれたキリストの教えというものは、教会に よって聖書から遠ざけられていた平信徒さえも理解できる、平易で簡潔なキリストの教えとし て再生され、「学識ある敬虔(信仰)」(24)として求められていくこととなったのである。このよう な新しい聖書研究は、次章において扱うように、神理解や人間の捉え方、神と人間との関係性 といったキリスト教そのものに内在する様々な変化を引き起こす一つの要因となった(25)。
さて北方ヨーロッパでは同時に、宗教の内面化を求める精神的運動が起こっていた。 ルネサ ンス期に特有の聖書解釈方法によって導き出されたイエスの教えは、この個人の内的信仰を唱 える「新しい敬虔」Devotio Moderna運動と相まって実践的倫理規範となったのである(26)。 この「新しい敬虔」運動とは、もともとは14世紀のオランダの説教師ヘーラルト・ホロート
Gerard Groote(1340-1384)が提唱したものだった。彼は、平信徒向けの説教活動を行い、瞑想を
中心とする内面的な信仰と禁欲的で敬虔な実践生活を勧め、それに共鳴する人々が「新しい敬 虔」として運動を起こしたのである。彼はまた、後にエラスムスが入ることとなった「共同生 活兄弟」Fratres Communis Vitae; The Brethren of the Common Lifeをも設立している。ホロートは、
その波乱に満ちたその生涯の内に、中世オランダ語方言で多くの霊的書き物を残したが、それ らを編纂しラテン語訳したのが、トマス・ア・ケンピスThomas a Kempis(1380?-1471)による『キ リストに倣いて』(27)De imitatione Christiだった。ケンピスのそれは、やがてヨーロッパ全土に広 く普及したのである。
この著書の一般的特徴として、神秘性、広い平信徒性、詩的美の3つが挙げられる。中でも ホロートの「新しい敬虔」運動は、平信徒の救いと聖化を最も重視していたのである。以上の 3つの大きな特徴に加えて、訳者の由木康によれば、更に次の4点を特徴に加えている。1つ目 は、厳しい自己批判であり、2 つ目は、学問的、知識的なものではなく、倫理的、宗教的な純 粋性の追求であり、3 つ目は、罪を克服しようとする禁欲性の表われとしての世俗と自我への 挑戦であり、そして最後の4つ目は、最大の特徴であるキリストとの霊交を唱えた点であった。
最後の、このイエスとの交わりは、空想や幻覚によってなされるべきではなく、現実の苦難の 中で行われるべきであるとの立場をとるのである。そうしたこの精神的運動のうちに、厳しい 自己反省から出発して、霊の純化を求めてやまない巡礼者は、自己克服の厳しい戦いを経て、
キリストとの霊交のうちに最後の平安を見いだすということになるのである(28)。このような文 脈の中で捉えうる「キリストに倣う」或は「キリストを真似る」との意味は、聖書の原典に示 されたキリストの教え、つまりキリストが身をもって示した教えを実践にしていくことと言え るのである。
第3節 テューダー初期にみるイギリス人文主義
ダグラス・ブッシュDouglas Bush(1979)は、フィレンツェ人文主義が、16 世紀初期のイギリ ス人文主義に強く影響したことを指摘している(29)。フィレンツェ人文主義とは、アカデミア・
プラトニカAcademia Platonicaを主宰するフィチーノによって展開された新プラトン主義思想 を中軸とする宗教的性格を帯びた人文主義である。それは、イタリア全土というよりもむしろ、
北方ヨーロッパへと伝わり、強化されていったのだった。
ところで、イングランドにおいてイタリアからの人文主義思想を本格的に受け入れる素地は、
すでに 15 世紀のオックスフォードやケンブリッジといった大学を中心に整いつつあった。R.
ワイスRobert Weiss(1941)によれば(30)、ヘンリー5世HenryV(1387-1422,在位14131422)の弟にあた り 、 イ タ リ ア 人 文 主 義 者 の 庇 護 者 で あ っ た グ ロ セ ス タ ー 公Duke of Gloucester Humphrey(1390-1447)(31)の元には、プルタルコスPlutarch(46-120)の『対比列伝(英雄伝)』Paralle
Livesを始めとするギリシャ古典が入ってくるようになっていたとされる。ワイスは、15世紀の
イギリス人文主義が、概してギリシャの文芸作品というよりもプラトン、アリストテレス、そ して教父らの著作が扱われていたものの、ギリシャ研究に目が向けられ、その価値が認められ るようになっていたことを明らかにしている。イングランドでは、中世よりラテン語を知る者 の多くが聖職者に限定されていたことから、聖職にありながらも人文主義的関心によって収集 される古典作品が、自然と神学的なものが多かったという傾向もまた伝統的に認められる。
やがてコレットが在学していた1480年代前後には、 ロレンツォ・グリエルモ・トラヴェル サーニLorenzo Guglielmo Traversagni やカイウス・アウベリヌスCaius Auberinusらが「新修辞学」
Nova rhetoricaをケンブリッジに置くようになっていた。他にもキングス・コレッジの学長で新 プラトン主義者であったジョン・ドジェJohn Dogget(?-1501)が、1473年から1486年にかけて、
ブルーニLeonard Bruni(1369-1444)のラテン訳やピエール・カンディード・デチェンブリオPier
Candido Decembrioを用いながらプラトンの『パイドロス (パイドン)』Phaedoを注解したのだっ
た(32)。
このように大学を中心にしたイタリアからの新しい学問的気風を受け入れたグロシン、リナ カー、そしてコレットと言ったテューダー初期の人文主義者たちは、イタリア留学を経て、特 にフィレンツェの宗教的雰囲気をもつ人文主義をイングランドに持ち帰り、最初の成熟したイ ギリス人文主義を開花させたのだった(33)。彼らには共通して、フィチーノの主著の一つである
『キリスト教論』De Religione Christiana;La religione cristiana(1476)の中にあるような、宗教は人 間にとって自然本性的なものであるとの姿勢がみてとれるとされ(34)、それは端的に述べれば、
人間は獣と異なり、快楽などを犠牲にしてでも崇高なる存在、永遠なるものを求めるものなの である、という人間の本性に関する捉え方なのである。このような新プラトン主義の流れを汲 む人間に対する見方は、彼らの人文主義の土台を築くものではあったが、様々な形で吸収され ていった彼らの人文主義思想というものは、それぞれにおいて消化され、展開されていったの である。
すでにコレットの生涯を扱った章で述べたように、テューダー初期を代表する長老格のグロ シンは、オックスフォードで初めてギリシャ語によるギリシャ研究を開始している。それに続 くリナカーは、フィレンツェでグロシンと共に学んでいたが、後にボローニャで医学を修め、
帰国後は医師の道に進んだ。しかし、その思想的源泉にはキリスト教的人文主義が流れており、
エラスムスをはじめ、ビュデGuillaume Budé(1468-1540)など北方ヨーロッパの人文主義者とも 親交を持っていた。イタリアから帰国したグロシンやリナカーらの講義をケンブリッジで聞き、
その後にイタリアへと渡ったとも一説には言われているコレットもまた、ヨーロッパ大陸から の帰国後、オックスフォードでそれまでにない新しい聖書研究を開始し、彼の聖書解釈はエラ スムスの思想にも多大な影響を与えた。グロシンの名付け子であり、聖パウロ学校の校長リリ ーもまた直接ギリシャ人から教えられたイングランド初のギリシャ語教師となっている。この ようなテューダー初期に活躍したイギリス人文主義者の中で最も若かったモアは、唯一イタリ ア留学の経験はないが、グロシンやコレットらとの思想的交流を経て、特に政治の世界でキリ スト教的人文主義を展開させていったのだった。
イギリス人文主義は、当初「新学問」New Learning としてオックスフォードから発信された が、彼らがロンドンへと活動の場を移すことで、次第にその地を中心に現実の社会生活の中に おいて実践的な形で適用され展開されていった。コレットに関して述べるならば、彼が影響を 受けたフィレンツェの人文主義は、オックスフォードでの聖書研究の中に取り入れられた後、
ロンドンでの説教活動と教育事業の中で実践化されることとなった(35)。イギリスの人文主義者 たちは、大学といった知的世界の中において研究するに留まらず、それぞれが説教師、政治家、
弁護士、医師などの役割を担って実社会の中に入り込み、そのような活動を通してキリスト教 的人文主義の精神性を発揮していったのである。そのため、イギリス人文主義は、宗教的・倫 理的側面が強かったにも関わらず、それは神学研究を中心とした大学や聖職界の中においてみ られたものではなく、むしろ、ロンドンを中心とした都市市民の、市井の人々の生活の中で根 付くことになった。そのため、キリスト者であり、且つ一市民としてのとるべき態度、生き方 が追求されたのである。
第4節 オックスフォードにおけるコレットの聖書解釈 4-1 原典主義に立つ新しい聖書研究
コレットはイタリアからイングランドに帰国してまもなく、オックスフォードでパウロ書簡 Pauline Epistlesの「ローマの信徒への手紙」Enarratio in Epistolam B.Pauli ad Romanos及び「コリ ントの信徒への手紙1」Enarratio in Epistolam Primam S.Pauli ad Corinthios)に関する無償公開の 聖書解釈講義を行った(36)。それは、1497年(30歳)から1503年(36歳)の6年間にわたった。本 節では、コレットの聖書研究を中心に取り上げながら、そこにみる彼のキリスト教的人文主義 とはいかなるものであったのかを明らかにする。
これまでも述べたように15世紀から16世紀のイングランドでは、イタリアで起こった学芸 復興の影響を受けて、ギリシャ、ラテンの古典一般作品や聖書に対する新しい研究が起こって いった。このようなイギリス人文主義の特徴について、E.カッシーラーErnst Cassirer(1993)は、
イギリスにおける文芸復興の知的方向性・矛先が、イタリア人文主義とは異なって、キリスト 教の倫理や生活様式に反対するというものに向けられたのではなく、むしろキリスト教という 宗教のために積極的に、前向きに向けられたと論じている(37)。イタリア人文主義にみる宗教性 の扱い方については、それを異教的であったととるか、否かという見解によって立場が分かれ るところではあるが、イギリス人文主義に関しては、強く宗教性を帯びていたということだけ
は明確に断言できよう。
こうしたイギリス人文主義の宗教性を裏付ける最たる証拠に、コレットのオックスフォード における聖書研究が代表例として挙げられる。それは、スコラ神学によって難解に解釈され、
身動きのできなくなった硬直したキリストの教えを、解きほぐして一から編み直すような聖書 研究でもあった。
さてコレットは、オックスフォードにおけるスコラ哲学の講義運営上の規則に反して、自ら 何らの神学上の学位も有さない身にも拘らず、聖書の題目を取り上げ、講義を開始した。それ は彼が、この中世伝来の聖書釈義の形式を壊したのみならず、聖書解釈の方法論や、ひいては そこから導き出されるキリストの教えに至るまで、それまでのスコラ神学者が行っていたもの とは全く異なる勇気ある試みだった。すでに彼がオックスフォードでこうした新しい聖書研究 を展開する以前に、15世紀に活躍した先達らによって自由な精神が発揮できる素地が整ってい たことも彼の試みを大いに助けたには違いない。
シーボームF.Seebohm(1913)は『オックスフォードの改革集団』において、コレットが人文主 義的方法論を取り入れて聖書研究を行い、そうした「新しい学問」New Learningが、やがては 社会そのものを変革する力となったと指摘している(38)。要するにコレットは、パウロ書簡を中 心とする聖書そのものに対して、来世の事柄についての理論的、教義的な知識を教える類いの ものとして解すことをせず、キリストが人々の心に伝え残そうようとした、本来ならばもっと 単純でそして実践的な宗教的態度が示されているものと捉えたのであった。キリストの教えと は、人間に対してその「生の改革と刷新をもたらさんとした」(39)ものであったとの見方が、彼 の解釈するパウロの言葉を通して一貫して語られるところとなった。
こうしてコレットを通じて平易に語られる使徒パウロの言葉は、あたかもパウロ自身がオッ クスフォードの聴衆を前に話しているかのようだと評された。1499年にオックスフォードを訪 れたエラスムスは、コレットのこの講義を聴講することによってギリシャ語版聖書校訂を志す きっかけを得たのである。イタリア留学の後に、数年間を聖書研究に打ち込み、その後オック スフォードで展開された、コレットによる神と人間との新しい接し方の提唱に、年を取った威 厳ある博士を含め多くの者が魅了されたのである(40)。この功績によって、彼の名は広く知られ るところとなり、また後世にも名を残すこととなる。またここにイングランド・テューダー初 期を代表する人文主義者としての出発点をみることができよう。
パウロの言っている事に対するいかなる注釈をも取り上げる前に、パウロの言った 事そのものに対してまず注意深く当たらなければならない。
このコレットの言葉に彼の聖書解釈上の特徴の一つである原典主義が認められる(41)。 デュアメルP.Albert Duhamel(1953)によれば、コレットのこの講義は、まさに中世後期のスコラ 神学的伝統を打ち破るものであるとされている(42)。それまで聖書の意味は、逐語訳、寓意、比 喩的、神秘的意味に分けて解析されていたのであったが、コレットにおいては、聖書の意味す るところは統一した一つのものであるはずだという信念の下に、調和のとれた完結したもので あるとみなされたのである。すなわちコレットは、それまで断片的に扱われて来た聖書を一つ の連続するものとして捉え直したのである。それは中世においてスコラ的方法(43)とは大きく異 なるものだった。またコレットは歴史的の文脈に照らし合わせるという歴史的解釈に基づきな
がらも、そこに霊的解釈が加えたのである。つまり、スコラ神学者からの引用を避け、パウロ といった初期の教父や、ディオニュシオスやフィチーノといった代表的な新プラトン主義者か らの引用を折り込みながら、そのような新しい聖書解釈を試みたのであった。
このようなコレットの革新的な聖書解釈については、フェルドメスもまた、史的な立場から 高く評価する(44)。フェルドメスは、16世紀前半のヨーロッパにおける聖書解釈の実践的な試み が劇的な変貌を遂げた一つの要因に、コレットの聖書解釈講義にみる人文主義の発展を挙げる。
ここでは、コレットの解釈と伝統的な解釈を鋭く対照化しながら、聖書に示される意味の平易 さへの追求姿勢をコレットの中に捉えられている。要するにコレットは、スコラ神学者の弁証 学に依拠した難解な聖書解釈を捨て、聖書そのものに書かれているキリストの本意を直接的な 形で、平易な形での理解を目指したのだった。コレット自身「この書簡が読み手にとってより 理解がしやすい」lecta epistola facilius intelligiturように、16章から成るパウロ書簡の「コリント の信徒への手紙 1」を 8 つに分けて要約し、工夫した、と述べている(45)。こうした彼の聖書 解釈講義は、聖書解釈史上においても大きな転機となった。
コレットの採った新しい聖書解釈上の方法論は、アリストテレス主義の弁証学を極端に援用 し神を認識の対象とするスコラ神学とは対峙していたため、当時の知識人には大きな衝撃を与 えた。また個々人の内的信仰をも重んずる彼は、 (彼の聖書解釈を特徴付けることになる)霊性 の導きによって言葉の背後にある神の真意を伝えたのである。それは、神を知識の対象にせず、
信仰の対象とするものだったと言える。
4-2 神秘的感覚による霊的解釈
これまで述べてきたように、ルネサンス期においてはキリスト教的人文主義者に共通してみ られたところの、原典主義の下での新しい聖書解釈方法が採用された。このような観点からみ れば、なるほどカールトンが捉えているように、コレット、ロレンツォ・ヴァッラLorenzo Valla(1407-1457)、エラスムスも一様に新しい方法論をとった人文主義者という範疇に入れるこ とが出来る(46)。しかし、彼らの聖書解釈方法を詳細に検討すると、そこには解釈上の判断基準 という点で、差異が認められるのである。まず、伝統的に聖書解釈において用いられていた判 断基準を以下の4つに示す(47)。
1)字義的な判断literal sense、或は語源的判断etymological senseで行う解釈 2)寓意的な判断allegorical senseで行う解釈
3)道徳的な判断moral sense、或は比喩的な判断tropological senseで行う解釈
4)神秘的な判断anagogical senseで行う解釈
グリーソンは、これらの判断基準を踏まえた上で、コレットの聖書解釈が、これら全ての要 素を取り入れながらも、とりわけ神秘的・霊的解釈を重視しているとみる(48)。4 番目にあたる 神秘的・霊的解釈は、一般的には稀な解釈法であり、人間の魂と神との関係性において「神と の神秘的な霊交、そうした宗教的な法悦の領域に読者をいざなうもの」(49)と言われている。
以下、木ノ脇悦郎(1986)による、ヴァッラ、エラスムス、ルフェーブル・デ・タープルLefèvre
d’Etaples(1450/55-1536)らの聖書解釈方法論上の比較・検討に依拠しながら、コレットの聖書
解釈上の特徴を明らかにしてみることにする(50)。
まず、コレットについてみてみる。木ノ脇悦郎が明らかにしているところによると、コレッ トの解釈方法は、予備的作業としての、原語による正確な原典の確立と正確な翻訳といった言 語に関わる緻密な研究、すなわち字義的・歴史的解釈を大前提としている。テキストを全体的 に捉え、文脈上の関係性を分析しながらそれぞれの聖句の持つ意味が注意深く解釈されていく 作業は必須条件だった。しかしなお、コレットの聖書解釈の実際には、霊的導きは欠かせない のとの態度が示され、進められていったのである。そのため、彼の聖書解釈は、結果として道 徳的教授を含み、説教術的要素が濃い仕上がりとなっていた。コレット自身、聖書解釈につい て「道徳的目標を有していない言語文献学的、そして歴史学的補説などあるはずがない」(51)と さえ言っていた。それは単に文献学や歴史学というような視点からのみ聖書を研究対象とする のではなく、そのような作業を通じて最終的には人間の道徳性を高めるためのものでなければ 意味がないとの立場の表明なのである。従って、彼はオックスフォードでの講解時代の後は教 会に活動の場を移して説教活動に終生従事し、以下に述べる聖書解釈者とは異なって、新しい 聖書などを世に出す事などはしなかったのである。
第2に、ロレンツォ・ヴァッラであるが、彼は1440年代に『新約聖書の対照』Collatio Novi
Testamenti(聖ヒエロニムスのウルガータ聖書とギリシャ語写本選集との比較)を書き著してい
る。彼の聖書解釈上の立場は、言語的研究を中心に据えており、その上で原典の写本の比較照 合による聖書本文の校訂を行った。言わば、ヴァッラは辞書編集者のような文法家としての側 面が強く、教義や道徳的教えや新約聖書の解釈には関心を示さなかった。
第3に、エラスムスであるが、彼は1516年にギリシャ語版新約聖書の校訂を行っている。彼 の聖書解釈上の立場は、言語文献学・歴史学的視点からの聖書解釈への試みである。「すぐれた 学芸」bona litteraと言語に関する知識を基盤とし、ギリシャ、ラテンの異教的古典作品にも価 値を置いた。この点で、コレットとは立場を大きく異にする(異教の古典作品に対する両者の態 度の相違については、第7章で詳細に取り上げる)。エラスムスの解釈上の特徴は、まず聖書の 文字的意味解釈にあった。それは聖書の中に出てくる動植物等に関する自然的知識や場所につ いての地誌的理解が、聖書の内容理解を豊かなものにしてくれるからであるとみなしていたか らである(52)。更に、文法上の問題を取り上げ、その上で適切な解釈するのである。要するに書 かれた本文の背景や歴史から、寓喩や比喩の解釈を成立させたのだった。この言語文献学・歴 史学的方法は、伝統的聖書解釈法とは異なり、1516 年にエラスムスがギリシャ語版聖書を校 訂・出版して確立されたものである。その彼においても霊的解釈は重要な位置を占めていたが、
それは科学的なテクスト批判の後に初めて成り立つものであった。このような解釈方法に立脚 しながら、最終的には全ての者が「キリスト教の哲学」(53)philosophia christianaを実践すること の重要性を説いたのである。
第4に、ルフェーブル・デタープルであるが、彼は1523年にフランス語版新約聖書を世に送 り出している。彼の聖書解釈上の判断基準は、言語文献学・歴史学的方法に立脚して教父や聖 書の研究を進め、必要最小限に異教作品を許容しつつも、同時に神秘主義的傾向をも持ち合わ せていた。すなわち、真の聖書解釈とはキリストによってしかなされず、恩寵に依存するもの であるとの立場にあった。彼は、形式的儀式よりも信仰とそれに基づく実践を重視するという 考えにあり、この点ではコレットと似ている。
以上、コレットと同時代のキリスト教的人文主義者との比較・検討をして明らかとなったこ
とは、コレットが文法学的、言語文献学的手法によるところの意味解釈に徹して訳すことはせ ず、より霊的な解釈を重視したということである。そのため、コレットは生涯において新たな 聖書を作り出すということよりも説教師という立場に身を置き、他の者とは異なって彼の聖書 解釈の中に道徳的教示が目的として認められるのである。
ここで、今一度キリスト教的人文主義者たちに共通する聖書解釈的特徴というものを整理す るならば、そこにはまず聖書そのものを扱うという原典主義的態度が認められる。それは、注 解書を解釈し、或いは引き合いに出された断片的聖句を教義と照らし合わせて整合性を吟味す るという、中世のスコラ的方法論とは全く異なる。
しかし一方で、キリスト教的人文主義者たちにおける相違点もまた明らかになった。特にコ レットの聖書解釈における方法論は、スコラ的手法のみならず、聖書の原典にあたりながら言 葉の意味するところを第一に、より客観的に正しく捉えようとする他のキリスト教的人文主義 者とも異なっていた。すなわちそれは、ある事象を検証しようとする対象と人間との間を直接 的な関係として捉えながらも、主知的な科学的批評と主意的な霊的解釈とのどちらに比重を置 くかという違いであった。
神学者ハントも指摘しているように(54)、霊性さを重んじるコレットの解釈法には新プラトン 主義的神秘思想の強い影響がみてとれるのである。コレットは、新プラトン主義的神秘思想を 展開したマルシリオ・フィチーノの考えを援用し、聖書と直接向き合う時、そこに教会教義と いう外的なものを介在させず、霊性の導きによって神の言葉を捉えるという作業を行ったので ある(55)。
コレットの行ったパウロ書簡に関する講義は、「神の存在や力の証明はどこにでもある」とい う論旨から出発している(56)。すなわち、彼の聖書解釈は、まず神の啓示は万物の至る所にある との考えから始まり、そうした神性さが宿る万物の一つに聖書を位置付け、また聖書に示され る啓示・神の真意とは、神的な実在devine realitiesであり、解釈上の歪曲や誤解から守られるた めに、一見すると見えない、隠された状態にあるとしたのだった。それ故、聖書に書かれた言 葉の背後にある隠された神の啓示は「霊的な人間」のみが捉える事が可能であるとの姿勢をと る。「聞く耳」と「見える目」をもつ人のことを語ったイエスの言葉(「マルコによる福音書」4 章10節)は、コレットが好んで講義の中で引用した教えである(57)。神の啓示とは、単に耳や目 があっても聞けない、見えないものなのである。そこには、霊魂soul ; spiritの媒体が必要され、
それをもってして神の啓示を受け取ることができるのである。
こうした講解の中でコレットは霊魂というものを、肉体を高潔な行為に導くような態度をも って統治すると解釈していた(58)。そこでは聖書解釈という行為においては、知識は従属的なも のにすぎず、神の恩寵に頼り、霊魂に導かれながら解釈をすすめ、真なる解釈者とは、一般の 人々に「生きた言葉」(59)pictorial termsで語りかけるものなのである。「生きている霊魂」(60)vital spiritは、知られざる聖書の真の教えを一層実践的な道徳に変えられるものとされると期待され た。換言するならば、霊的解釈によって、パウロを通じたキリストの教えが、読み手の心、伝 えを聞いた人の心の深部にしっかりと根付き、「生きた英知」(61)viva sapientia ; living wisdomにな るのである。このようにコレットにとっての真なる聖書解釈とは、「霊的意味合い」を掴むこと であった事が分かる。人間と神との中間に霊的なものを位置づける神秘主義思想の影響の下で 彼は、キリストの教えを受けるために、「霊的な」人間をあるべきキリスト者の姿をして求めた と言えよう。
実際コレットは、フィチーノの言葉を引用しながら、コメンテーターとしての「文法家」
grammaticusと、解釈者としての「インタープリター」interpresという用語を使用して聖書解釈
者を分類している(62)。グリーソンは、コレットが区別した両者の中身を次のように説明する(63)。 コメンテーターとは文法家、或はそのような作業を土台として注釈する人であり、或いはまた 言葉を細分化して吟味する人を意味する。よって、コメンテーターとしての文法家とは、テク スト全ての部分について論じなければならない。一方でインタープリターとは、漠然とした文 中から道筋を見いだし、そこからエッセンスを抽出し、更にそのエッセンスに向けて読者を方 向付ける人である。後者のインタープリターこそが、コレットの理想とする聖書解釈者なので ある(64)。但し、コレットは文法的な研究に対する価値をも必ずしも完全に否定したわけではな かった(65)。
さて、コレットはパウロによる「ローマの信徒への手紙」の解釈の中で、聖書解釈に関する 読みの進め方に関して次のように具体的に述べている(66)。
私は自分の解釈を、一層容易に理解してもらうために、必要に応じて、該当箇所か ら離れ(筆者註;本筋から離れることで)一旦は道に迷うとしても、実際には決して パウロの言わんとしている事から離れているわけではないのです。パウロの言わんと している道筋を一層明瞭にさせる、そのような道に再び戻ってくるのです。
このような文脈の中でコレットは、「インタープリター」とは、森の中を自在に歩き回る「狩 人」hunterのようなものであると捉えていた。狩人は、完璧に隠された神の形跡を追い求め、
それらに光をともす世界である深い森にいる。コレットは同様の主旨を、彼がフィチーノの『書 簡』を書き写した際の傍注においても記している。それは「横道を選び、横道を知るようにな り、そして何が隠れているのかを探り当てる人は、嗅覚の鋭い人間である、との記述である(67)。 彼は狩人を「賢い(思慮深い)」sage ; sagax人と表現していた。コレットにとってパウロのメッセ ージは、「鋭い眼力」keen-sightedを備えた狩人のようなインタープリターによって、ゆっくり と見分けられ、判別されていくべきものとされていた。このような見方は、明らかにフィチー ノからの影響だった。
上述のメモ書き以外にも、コレットが聖書解釈の方法論に言及した史料が残されている。そ れは、ウィンチコーム大修道院長Abbot of Winchcombリチャード・キッダーミンスターRichard
Kidderminster(1461-1533/34)宛ての書簡である(68)。この大修道院長は、その聖書解釈法を教授し
てもらうべくコレットの元へと訪れたことのある人物である。
この書簡に示されているコレットの考えによれば、使徒が伝えようとする真意は、書かれた 言葉の表面下にあり、霊的ではない目からは隠されている状態にあると言う。聖書解釈者がな すべき事は、まず伝えるべき内容、或いは意味を有する何かを漠然とした状態の中から見極め つつ、じっくりと探し出し、掘り出すという作業である。そこではコレットの求める聖書解釈 者とは、霊性の導きの下で、賢さとも言い換えられる鋭い眼力によって、多種多様な言葉や表 現の中から、その伝えようとするところを、「掘り出す」effodere、「引き抜く」eruere、「引き出
す」depromere、「打ち出す」excudereという作業によって探り当てていかなければならなかった。
すなわち、霊的な解釈によって、聖書から取り出されるパウロの「すぐれた考え」aureae sententiae は、いま一つはっきりとしない不明瞭な「響き」ringのような状態から、もっと鮮明な形とな
って人々の胸の内に伝えられるべきものとされた(69)。
したがって新プラトン主義的神秘思想を基部にもつコレットの聖書解釈的方法論は、中世に おいて支配的だった、アリストテレス主義的スコラ神学とは明らかに対峙するものだったと言 えよう。トミズムが主流のスコラ的神認識においては、神とは何かを弁証学によって定義付け るというもので、そこから導かれる教義は、敬虔さといった信仰のあり方を実践的に示してい くこととは直接結びつくものではなかったのである。コレットは、フィチーノが論ずる霊魂の あり方を問題に取り上げて、パウロの言葉を介しながら、キリスト教を生なる信仰へと生き返 らせたのである。神を認識する、神を知ろうとする事は、人間には不可能だとコレットは捉え る。そのような事を神は人間に要求していない。我々人間がなせることは、神を知ろうとする のはなく、ただ愛することのみなのである。ここに彼が受けた聖アウグスティヌスの影響をみ ることができる(70)。神の愛は我々の霊魂に内在されている。愛の力に導かれた霊魂の働きによ って神の啓示を受けるとされた。
さて、コレットの聖書解釈に影響を与えたとされる新プラトン主義についての哲学上の考察 は、次章で取り上げることとし、次にコレットがパウロの教説の中でいかなるキリストの教え をもっとも導き出そうとしたのか、彼の解釈そのものを具体的に取り上げ考察する。
第5節 蘇生されたパウロの愛の教説
オックスフォードにおいてコレットが聖書解釈を試みた使徒パウロSaint Paul(?〜67?) とは、
周知のように初期のキリスト教における最大のユダヤ人伝道者である。正確な出生年代は不明 であるが、イエスとほぼ同年代と言われ、パウロが生前のイエスに出会った形跡は認められて いないものの、イエスの死後2,3 年には回心したとされている。以後彼は、半世紀に渡る大伝 道旅行中に多くの教会を設立したのだった。
現在、新約聖書の多くの部分を占める13のパウロ書簡は、それらの教会に宛てて出されたも のである。言うなればパウロは、教義のような規則によってではなく、現実的な諸問題に直面 し、より具体的な状況に身を置かれた中で受ける光の下での御霊によって我々人間は導かれる ものである、とする実生活に即した福音理解を有しているのであった(71)。コレットが主たる関 心をパウロに向けたのも、実社会に生きる人々が直面する現実問題に対して真っ向から取り組 んでいたという姿勢に共感を覚えたのかもしれない。なおまたこれら諸教会に出されたパウロ 書簡は、新約聖書に収められているものの中でも最も古い文書である(72)。
総じてパウロの信仰上の特有としては、その信仰がイエス・キリストと結合している、言わ ば「イエス・キリストにおける信仰」Faiths in Christという形式を採った点にある(73)。イエス をキリスト、すなわち救い主と信じ、その死と復活を信ずる者は、神の愛の内にある恵みよっ て、一切の罪が取り除かれ、新たなる存在となることが出来るのであるとみなしたのだった。
彼は信仰の本質に愛を置き、不義なる者でさえも義とされると説いたのである。その結果とし て、全ての者に恩寵が与えられることとなる。しかし、彼にとって信仰とは、受動的感受性に よるものではなかった。我々に降り注がれている神の恩寵、啓示を能動的にして意志の働きに もって用いることこそ信仰とされた(74)。
このようにパウロ書簡には、「信仰と希望と愛」(「コリントの信徒への手紙1」13章13 節) というキリスト教の信仰基盤が示され、また「不信心な者を義とする神への信仰」(「ローマの
信徒への手紙」4章5節)という信仰上の中心問題の他、教会の実際問題、異教との関係などあ らゆる当時の生きた問題に対する指示、教示が示されており、後のキリスト教神学の歴史に多 大な影響を与えたのだった(75)。
コレットが新約聖書の中で特に取り上げたパウロの「ローマの信徒への手紙」と「コリント の信徒への手紙1」には、霊肉二元論に立ったパウロ自身の教説が示されている(76)。それらは、
例えば「信仰による義」(「ローマの信徒への手紙」3章21-31節)、「信仰によって義とされて」
(「ローマの信徒への手紙」5 章 1-11節)、「霊による命」(「ローマの信徒への手紙」8 章1-17
節)、「神の愛」(「ローマの信徒への手紙」8章31-39節)、「隣人愛」(「ローマの信徒への手紙」
13章8-10節)、「自分ではなく隣人を喜ばせる」(「ローマの信徒への手紙」15章1-6節)、「一 致の勧め」(「コリントの信徒への手紙1」1章10-17節)、「聖霊の住まいである体」(「コリン トの信徒への手紙1」6章12-20節)、「霊的な賜物」(「コリントの信徒への手紙1」12 章1-11 節)、「一つの体、多くの部分」(「コリントの信徒への手紙1」12章12-31節)、「愛」(「コリン トの信徒への手紙1」13章1-13節)などの解釈からも理解されよう。
さてコレットは、「ローマの信徒への手紙」について、解釈の本題に入る前に、まず次のよう に要約を行っている。すなわち、この「ローマの信徒への手紙」とは、使徒パウロがキリスト の名を関した都市に住む多種多様な考えを持つ人々の平和と調和について助言しているもので あり、そこには「謙虚さ」humilitas、「忍耐強さ」pacientia、そして「愛」caritasの 3 つの必要 性が説かれている、と(77)。
この「ローマの信徒への手紙」に関する簡潔な要約に比べて、「コリントの信徒への手紙 1」 の方は、やや詳細な要約となっている。それは、内容に即して便宜的に8つの部分に分けられ、
以下のような要約がなされている (78)。
1)第1〜4章;パウロがコリントの信徒の信念と誇りを確認し、彼等に神への服従と神 をまねることを思い起こさせている内容。
2)第5章;パウロが、罪の購いへの怠慢さや教会或いはキリストの体から離れている状 態にあるコリントの信徒を戒めている内容。
3)第6章;信仰のない人々にコリントの信徒が裁きを願い出てはいけないとする内容。
4)第7〜8章;パウロがコリントの信徒から質問された「結婚」と「偶像に備えら れた肉」の扱いについて答えているもの。結婚は、しない方を勧めるが許さ れるものであるということ、また肉は口にしてはいけないとは言わないが、注 意しなければならないという事。
5)第9章〜11章;まず、パウロ自身には福音的使命がある等、自分自身の事について の事。次に深い神秘性が隠れているという礼拝時のかぶり物の事、更には、主 の晩餐やパウロが同じような会を開いた時への集いについての内容。
6)第12章〜14章;霊的なこととは、どのようなことか。キリスト教社会の中で霊的な 働きをするということについての事。多くの、多様な構成員は、それぞれが必 要とされ、愛のうちに共に一つとなるということ。使徒とは、このようなキリ スト教的愛にふれることによって、神の素晴らしい力を証明しながら、次に言 うべき多くの偉大なことを有しているのである。使徒はコリントにもっと熱心 にそれに従うように、そして聖霊を得て、それを保持するために最大限働くよ
うに諭すのである。すなわち彼等の全ての行いや言葉が、神的霊に沿っている。
使徒は多くの言葉を伴った話術に託すものである。すなわち、それは霊的なも の、啓示を通じて神的意味から引き出されるものであり、やがて使徒は予言者 となりうるであろうという内容。
7)第15章;キリストの復活、死者の復活、復活の体について。
8)第16章;エルサレム教会の信徒のための募金についてと結びの言葉。
ジーズラーJ.Ziesler(1987)は、この「コリントの信徒への手紙 1」(12章4節-11節)を手がかり に、パウロの倫理的基礎付けについて、聖霊による共同体は共通の益のために様々な聖霊の現 れをもっているといった信仰観、或は同じく「コリントの信徒への手紙 1」(12章31節から13 章1節)にみられるところの、教会における賜物の中で最も重要なものは愛(アガペー)であり、
それは獲得するものではなく、与えるもの、自分と同様に他を思いやることによって特徴付け られるとの信仰観を、その特徴として指摘している(79)。「コリントの信徒への手紙 1 」は、神 の愛の力によるところの、共同体としての教会の一致、キリスト教世界の一致を奨励し、イエ ス・キリストと神と聖霊による祝福にみる「一致の勧め」で終わっているのだった。
信仰的礎を見失い、神から離れた社会において、その構成員たる市民に対して神の愛に連な る一致を求めるパウロの教説に対してコレットは、次のように解釈している。「パウロの哲学に おいて、人間同士を仲間のように一つに強く結び付けている霊魂とは、神性であり、神ご自身 でさえあられるのです」(80)Anima autem copulans homines coactos in unum, quasi membra (ut Paulus philosophatur), divinus est spiritus, Deusque ipse. と。このようにコレットもまたパウロ書簡を解釈 しながら、人々が精神的なつながりを失った状態で、社会の一致に必要なキリストの教えとし て、神の愛の力を最も重視していたと言うことが出来る。
ラプトンは、コレットがパウロに対して、神の言の受肉たるキリストが歩んだ軌跡を辿なが ら、いかなる困難をも溶解するキリストの愛を賞賛した人物であるとの見方をしていた、と指 摘する(81)。コレットは、パウロの教説を通じて愛の実践的行為が何よりも神の義とされるもの であるとみなしたのだった。よってパウロの教説を扱うコレットの聖書解釈には、神を論じる というよりも、或はまた客観的な判断をもって字義の精査にあたっていくというよりも、むし ろ社会倫理的方向性をもって人々を方向付けていこうとする道徳的側面の方が全面に強く押し 出されることとなったのである。
パウロは「コリントの信徒への手紙 1」(13章13節)の中で、キリストの教えの基盤に信仰、
希望、そして愛を置き、更に「その中で最も大いなるものは、愛である」とした。それに対し てコレットもまた、「コリントの信徒への手紙 1」の要約を行うにあたって、この13章を含ん だ部分を他の章に比べてより丁寧に扱っており、コレットが愛を論じたこの章に一目置いてい たことが分かる。
そこで、パウロが愛について述べた「コリントの信徒への手紙 1」の13章Prime epistole ad
corinthios ; Caput tertiumdecimumを取り上げ(82)、それに対するコレットの解釈をみていくことと
する。コレットがキリストの教えの中で最も重視したパウロによる愛の教説を、コレットの解 釈に沿って辿っていくことにより、彼が聖パウロ学校の子どもたちに伝えようとしたキリスト の教えとはどのようなものであったのか、彼自身が最も大切にしたキリスト者としての在り 方・生き方とはいかなるものであったのかという点を明らかにしていきたい。以下、コレット
の愛の捉え方(83)を、神からの愛、人間からの愛、そして人間同士の愛という3つに分けて整理 した。
① 絶対的な恩寵としての神の愛
まずコレットは解釈を始めるにあたって、この章で語られている内容を次のように簡潔にま とめ上げている。それは、パウロがこの書簡において何よりも神性を根源とする霊的事柄につ いて述べて、神より出でし愛が他のいかなるキリスト教の教えにも先んずるものであると捉え ていた、というものである。難解なスコラ的解釈とは異なり、努めて平易さを心がけたコレッ トの解釈は、最初に聞き手に向けて要点が述べられ、話の全体的な方向性が示されている。
続けてコレットは、この章で指し示すところの霊的事柄とは、愛を意味するものなのである とし、更にはギリシャ語を用いてその語源を辿りながら、愛という言葉についての説明を若干 加えているのであった。
「この言葉の意味をみてみましょう。ギリシャ語でχαριζο〈μαι〉は、『与える、恵 みを与える』という意味です。ですから、χαριςは、『恩寵』という意味でありますし、
χαρισμαは、『賜物』ということになります。したがいまして、χαριτοωとは、『恩 寵に満ちあふれる』ということになるのであります。」(84)
このように、ギリシャ語を用いて聖なるテキストに書かれた内容についての説明を試みてい た点から、ルネサンス期に特徴としてみられた原典主義に立ち返った人文主義的手法が認めら れよう。そしてこのわずかなギリシャ語の説明の後に、愛は最も大切なキリストの教えである との結論が述べられ、パウロの言葉を土台にした愛についての彼独自の解釈が展開されていく のであった。
コレットによれば、愛は次のように説明されている。
「完全さとは、実際のところ、愛であります」(85) Perfectio quidem est charitas.「愛は、私たち を完成へと燃え上がらせるのです。完成するということは、我々が神を賛美するということな のです。」(86)Charitas inflammat in perfectionem, ut perfecti grati simus Deo.「愛は全てのものを完全 なものにし、用い尽くすのです。すなわち神によって承認されたもの、それが愛なのでありま す」(87)Complet et consummat omnia charitas, que approbatur a Deo.と。
コレットは、ディオニュシオスの注解の際にも捉えていたように、愛に対して熱をもった温 かさ、明るさとみなしていた。愛によって人間は照らされ、温められることで、その創造主、
流出源である神へと上昇していくものと捉えられていたのである。彼によれば、人間が愛に向 かっていくということは、神に近づくことであり、それは神を賛美するということにもなると される。このように、愛によって人間がより高次の存在へと上昇していくという存在位階論に 立った考え方、そして宇宙を統括するダイナミックな愛の捉え方は、フィチーノやディオニュ シオスといった新プラトン主義的神秘思想の影響がみてとれるのである。
では、神の愛に導かれて最高位の段階へと向かう人間存在を、コレットはどのように捉えて いたのか。彼は言う。「人間は、言わば、形の定まっていない(筆者註;どのような形にでもな れる)存在なのであります。人間は霊性さに欠ける状態にありますが、聖霊のように形作られる ために、本性的に聖霊へと向かう傾向にあるのです。人間はその本性において内部にある神性 さを引き出すのです。」(88) Homo quasi materia rudis est, spiritalis forme expers, idoneuso tamen ut