これまで漢代から晋末に至るまでの道家思想について拙いながらもいくつかの考察を加えてきた。それらは主に本学の「紀要」「生活文化研究所報告」「米澤国語国文」などに平成九年から十年間ほぼ毎年発表したものである。またその構想、内容ともに中国河北大学の中国文学系教授・党書記の蘆福瑞先生の御指導を頂いたものである。これらの拙文については先生より厳しい指摘を頂いたが、指摘の部分を充分に訂正、考察することなく活字にしてしまったことを悔いている。ひとえに己の不勉強によるものであるが、改めてすべてに手を入れるには問題が大きすぎる。そこで今後のためにもう一度漢から晋末に至る道家思想と文学の関係を整理し、この期間の大きな流れを再確認すると同時に、これまで部分的にのみ取り上げた道家思想と快楽主義の関係に考察を加えようとしたのが本論の目的である。漢魏六朝期における文学と道家思想の関係はさまざまな形態を取り、その盛衰も時代によって違ってくる。ある時期は道家思想は絶えたかのように見えても、いつの時代もその命脈は保ち続けていた。す はじめに
快楽主義と道家思想 l漢初から晋末にかけてI
清宮
剛
なわち、儒教全盛といわれる漢代においても、武帝期以前は黄老思想として勢力を有し、武帝以後の儒教―尊の社会においても主に”賢人失志の賦“といわれる文学の中に道家の哲学は受け継がれていた。しかしこの時期においての道家思想は積極的な発展は見られない。それは学問、政治のすべてにおいて儒教の力が大きすぎたからである。強力な思想統制を行なった秦帝国が崩壊し、思想界は一時自由な雰囲気となったが、次に武帝によって国教と定められ、揺ぎない権威を確立したのが儒教であった。その他の思想は並存することさえ許されず、わずかに命脈を保つのに精一杯であった。道家思想も例外ではない。この時期は魏晋の隆盛に至るまでの萌芽期を考えてよい。やがて儒教が訓話のみに流れ、漢末の動乱が起るとそれまでの儒教の権威も失なわれて行き、新たな価値観が求められるようになる。曹操の”通脱“の政治を背景として社会は再び自由な思想が展開されるようになり、曹否、曹植の時代までに文学が極めて重視されるようになった。これが道家思想の解放期である。社会風潮や文学の中に人生の短かさを嘆くものが表われ、道家思想との接点を思わせるが、この時期も文学作品に対する道家思想の影響はなお希薄である。道家思想が隆盛となるのは正始期である。王弼や何晏によって老荘の哲理はさらに深化し、多くの研究が行なわれた。この思想界の変化は当然文学にも及び、院籍、愁康を中心とする竹林七寳等により多くの文学作品が作られ、老荘は礼教に対立し、礼教を否定する地位を確立するに至ったのである。所謂文学として老荘思想が確立された時代である。太康(西晋)期には玄学は引き続き行われたけれども、道家思想はやや進展の速度を遅らせることとなる。儒学が復興したからである。そして道家思想
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〔|〕快楽主義の主張快楽主義は中国に特有な思想ではなく、人間の存在する所、どこにでも見い出すことができる。人間の自然の欲望として色欲をはじめとする本能的欲望が生まれながらにして備っていることを考えれば当然のことである。しかし『筍子』の言葉を借りるまでもなく、欲望をそのままに認め、行動すれば、社会は秩序を失ない混乱してしまう。この欲望を抑えて人間を教化し、道徳を打ち立てようとしたのが儒教思想の基本である。その意味で快楽主義と儒家思想は本来相容れるもの は人々の真の人生観とはならずに、老荘思想を飾りとして実際の生活とは違うものも出たし、老荘思想の特殊な理解によって快楽主義を助長するものともなった。道家思想が本来の超脱の内容として理解されるようになるのは東晋に至ってからであり、〃蘭亭詩“に代表されるような玄言詩がその最盛期を迎える。やがて玄言詩の一部にも取り入れられた大自然へのあこがれは、陶潮明の田園詩、謝霊運の山水詩として道家思想は新たな局面へと突入するのである。漢から晋末に至る道家思想と文学の関係を極めて大雑把に言えば以上のようになる。このような道家思想の展開の背景は何であったのか。その内容は大きく三つに分けることができる。第一は最も大きな要因である儒教との関係、第二は文学の中でさまざまな表現をもつ玄言の深化、第一一一は人間の本能としての快楽主義の影響である。快楽主義については西晋時代に顕著に見られることは、これまでも部分的に触れたことがある。しかし、漢から晋末に至る快楽主義の系譜についてはなお考察が必要である。 ではない。道家思想は社会的秩序云々からは離れた個人の精神的自由を求めるものであり、快楽主義とは別個のものである。しかし道家思想はある特殊な部分で快楽主義と結びつく可能性がある。それは精神的自由を肉体的本能的欲望までに拡大して解釈することに起因する。快楽主義の主張が本来道家の書に分類される『列子』や『荘子』の一部に顕著に見られることはこのことを裏づけるものである。彼らの主張を『列子・楊朱』、『荘子・盗妬』の中に見てみよう。凡生之難遇、而死之易及、以難遇之生、俟易及之死、可熟念哉。而欲尊礼儀以考人、矯情性以招名。吾以此為、非若死美。為欲壼一生之歓、窮當年之楽、唯患腹溢而不得窓口之飲、力億而不得騨情於色。不暹憂名声之醜、性命之危也。(『列子・楊朱』)この部分は儒家的な道徳によって名声の高い鄭の子産が、酒と女性に溺れる二人の弟の公孫穆と公孫朝を戒めた際に二人の弟の答えたものである。「楊朱」篇全体は、名声の無意味さとそれに対し重要なものは身の保全と生きている問の幸福を追求する内容を述べているものであり、その中でも生きている間の本能的欲望の強調が特色となっている。またその歓楽を求めるのは人生が短かいということが前提となっている。「俟易及之死、可執念哉」という一一一一口葉がそれを示している。同じような主張は「楊朱」篇の随所に見られる。量十数年之中、道然而自得、亡介焉之慮者、亦亡一時之中爾。則人之生也、実為哉、奥楽哉、為美厚爾、為声色爾:…・暹暹爾競一時之虚誉、規死後之餘栄、偶偶爾愼耳目之観聴、惜身意之是非、徒失當年之至楽、不能自騨於一時、重因繁桔、何以異哉。これもまた人生が百年あったとしても真に心から喜べる時間は少な
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いのだから、その間に耳目の宮を楽しませるべきであるという快楽主義の現れである。「楊朱」篇を含めて『列子』の成立年代は甚だ不明瞭である。勿論列禦冠の自著ではないが、時代的にも戦国期以来の列禦冠に関する説話を含み、古い伝承のものから新しい部分まではさまざまな人の手を経て成立したと思われる。成立は『荘子』よりも遅く、漢初までかかったという説が有力である。『荘子・盗路』も漢初の成立であるとの説が有力であるから、戦国期から漢初にかけてこのような現実快楽主義が流行したと思われる。「盗妬」には次のようにいう。今吾告子以人之情。目欲視色、耳欲聴声、口欲察味、志気欲盈。人上寿百歳、中寿八十、下寿六十。除病痩死喪憂患、其中開口而笑者、|月之中、不過四五日而己笑。天與地無窮、人死者有時。操有時之具而託於無窮之間、忽然無異騏験之馳過隙也。不能悦其志意、養其寿者、皆非通道也。丘之所言、皆吾之所棄也。亟去走帰、無復言之。子之道狂狂仮仮、詐巧虚偽事也。非可以全真也。天下の大盗賊である盗鮖に対し、儒教の礼義の道を説こうとした孔子への答えの部分である。「盗鮖」にはこの孔子との問答を含めて三つの問答が収められているが、いずれも儒教の礼楽主義を否定し、人間の自然の惰性を尊重し自己の本性に従う”全性保身“を強調している。この全性保身は確かに道家思想の主張する所であるが特に第一の問答のように、老荘の”養生“を官能的な快楽の充足と解し、声色の欲望を肯定しようとする所に『荘子』本来の思想とは違った主張がある。「楊朱」篇との成立の前後は断言できないが、かなり近い時期に同様の思想傾向を持つ者によって二つの篇が作られた可能性が強い。「盗妬」や「楊朱」に述べられている思想が、「五色」「五声」を却け 〔二〕快楽主義の継承漢代前期までこのような思想は自由に展開されたと思われるが、武帝の儒教の国教化以後は、極端な禁欲主義が主張され、思想界の表面からは快楽主義は姿を消すことになる。しかし、快楽主義、富貴至上主義は形を変えて命脈を保ち続ける。それは揚雄によって「辞人の賦」と言われるものの中にある。楊雄は賦に風刺が含まれているか否かによって賦を二つに分け、風諌の意の含まれているものを「詩人の賦」といい、美辞麗句の帝王や帝都を賛美した賦を「辞人の賦」と名ずけたのである。「辞人の賦」の中心は聴覚的、視覚的快楽を述べる所にある。楊雄の賦に対する考え方は次の二文に明らかである。雄以為賦者、将以風也、必推類而言、極麗摩之辞、閼侈距行、競於人不能加也、既乃帰之於正、然覧者已過笑。往時武帝好神仙、相如上大人賦、欲以風、帝反緤緤有陵雲之志。謡是言之、賦勧而不正、明笑。又頗以俳優淳干髭、優孟之従、非法度所存、君子詩賦之正也、於是綴不復為。(『漢書』本伝)或問、吾子少而好賦、曰、然。童子彫墨蒙刻、俄而曰、壮子不為也。或曰、賦可以調平。曰、調平、認則已。不已、吾恐不免於勧也。:…・或問、景差唐勒宋玉枚乗之賦也、益平。曰、必乎淫。淫則奈何。曰、詩人之賦、麗以則、辞人之賦麗以淫。 る『老子』の思想と大きく違う点、また虚心忘我を説く『荘子』内篇の思想とも大きく矛盾し、本来の老荘思想ではない。しかし、老荘の〃養生“を官能的欲望の充足と捉えるこの考え方は、道家思想の一面として重要な流れを形成するのである。
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(『法言・吾子』)この文に示されるように広大な言辞を弄する相如の賦などは武帝に非を悟らしめるどころか逆に「陵雲の志」を抱かせたものとして否定し、「辞人の賦」と位置づけられたのである。楊雄はこのように「辞人の賦」を否定したけれども、彼も早い時期には司馬相如に憧れ、『甘泉』、『河東』、『羽猟』、『長楊』等の帝王賛歌の賦を多く作っており、この系統の賦は、さらに班固の『両都賦」、張衡の『両京賦』へと受け継がれて行くのである。これらの賦においては西京長安の豪華さと東京洛陽の倹約が詠まれているけれども、たとえ倹約を述べてもそれを贄えて美点を強調すればおのずと美辞麗句となり、その中に快楽的傾向を帯びることとなるのである。漢代に享楽主義が色濃く存在したことは、『古詩十九首』の中にも例を認めることができる。服食求神仙、多為薬所誤、不如飲美酒、被服執与素、(第十三首)生年不満百、常懐千歳憂、昼短苦夜長、何不乗燭漉、(第十五首)以上の点からして、漢代を通して現実快楽主義は「辞人の賦」や詩の中に脈々と受け継がれており、その根本は人間の惰性の充足を自然の道と考える道家思想の特殊な理解にあったと考えることができる。現実快楽的な主張が大きくなるということは、その思想を裏づけする政治、経済的な基盤を必要とする。辞人の賦が帝王賛歌を主な内容とするのは、帝王権力の絶対性を前提にしてのものである。その意味で政治動乱期には快楽主義の主張はあまり出てこない。後漢末から曹操の時期がそうである。また魏晋の交替期も同様の傾向がうかがえる。曹操によって天下が安定するとこの快楽主義の主張はその子、曹 丞、曹植に早くも現われてくる。曹丞には『大橋上嵩行』という作品がある。長句、短句が入り混っており、内容的にも漢賦と似たものである。この詩は隠士に出仕を勧めようとするものであり、隠居をせずに「応及時行楽」という考えを述べ、出仕生活の快楽を強調することによって隠士を誘い出そうとするものである。人生居天地間、忽如飛鳥棲枯枝、我今隠約欲何為、適君身体所服、何不恐君口腹誉、冬被詔騨温暖、夏當服綺羅軽涼、行力自苦、我将欲何為、この他にも全篇が宮室、女楽の娯しみを述べて隠者を山から誘い出そうという構成のものである。道家本来の淡泊寧静、清心寡欲とはかけ離れた楊朱の思想に近いものである。曹丞ほど極端ではないが、曹植の若い時期の作品である『名都篇』にもその傾向が見える。帰来宴平楽、美酒斗十千、檜鯉鵬胎鰕、寒鼈炎能躍、鳴檮輔匹侶、列坐寛長筵、連翻撃鞠嬢、巧捷惟万瑞、白日西南馳、光景不可筆、雲散還城邑、清晨復来還、長安の貴族の子弟達の遊びをいきいきと描いたものであり、快楽主義の主張が特に強いという訳ではないが、『楽府詩集』において郭茂情が「刺時人騎射之妙、遊聰之楽、而無憂国之心也」と解釈している所から考えれば物質的な娯しみに主眼を置いた作品を考えることができるであろう。
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〔三〕山水自然と”真“・”理“東晋に至ると西晋の浮華放縦の風は改まり、物欲の追求から精神の安定、心の寧静という道家本来のものを追求するようになる。夷狄に追われて都を江南に移すという屈辱と、西晋を減した原因が玄学に溺れて政治を省みなかったという反省のためである。東晋期の士族の生 曹植の後、正始年間に入ると現実快楽主義は、影を潜め、代って本来の道家思想が追求されるようになる。魏晋の交代という政治的暗黒の時代が快楽の風潮と一致しなかったのである。この時期には院籍、替康を中心として真の意味での偽朧の社会に対立する道家の超越の思想が追求されるようになり、道家思想は反儒家としての位置を次第に明確にし始めるのである。一方で玄学の現実命題も何晏、王弼等によって理論化され、「聖人有情無情」、「養生」、「有無」などの観点から、情欲と自然との関連等が明らかにされた。道家思想の理論化という点で重要な時期である。現実快楽的な風潮が再び大きく出てくるのが西晋期である。西晋期も玄学は盛んであったが、老荘を真に理解する人は少なく、論そのものを楽しみ、談ずる際の声や表情を重視し、老荘を飾りとする人々が多かった。この時期に人間性の欲望を自然と考える思想が再び盛んとなる。何秀の『難養生論」では生命は欲望に順うべきだという主張が強く見えるし、精神的な解放と肉体的解放を同様に考えることとなったのである。物欲も肯定され、貴族が著侈を競ったことは『世説新語』にも多くの例が見られることはすでにこれまで発表した論文の中で触れている。 活は西晋と大きく異なり、会稽には壬謝を代表として大荘園を有する士族が集まり、深い交際をしていた。その交際の中から山水遊覧や詩画琴書の芸術が発達し、これらを通じて自我の満足を求めたのである。そしてこれらの中から玄言詩が生まれ、〃藺亭詩“に代表されるような山水を借りて玄理を表わすという純粋な道家思想への回帰となるのである。正始期に理論化された道家思想が、西晋の快楽主義への反省と相俟って実を結んだということができる。晋末宋初にかけての田園詩、山水詩は道家思想の新たな展開の時期であり、快楽主義は謝霊運の私生活の一部には見られるものの、文学として表現されたものはほとんどない。淵明と霊運は対象とするものは田園と山水という違いはあるが、ともに大自然の中に〃理“を見い出した点では共通するものがある。いささかな快楽主義の考察からは離れるけれども、”真“と〃理“について補っておこう。淵明の〃理“とはこれまでも指摘されているように、『飲酒二十首』の『其五』に言われる「此中有眞意、欲辮已忘言」の「真」という形而上的内容を持つものであるが、同様の〃理“を霊運は山水の中に見い出している。『石壁精舎還湖中作』を例として見てみよう。昏旦変気候山水含清暉清暉能娯人遊子憎忘帰出谷日尚蚤入舟陽已微林墾數瞑色雲霞収夕霧菱荷迭映蔚浦稗相因依披沸趨南径愉悦堰東扉慮婚物自軽意榧理無違
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寄言摂生客試用此理推この詩は巫湖の暮色を楽しみ、心は謄として安らかに満ち足り、帰心を忘れるというものであるが、最初の二句の対句、さらに七、八句には瞑色、夕罪に収欽される林墾の美をとらえてみごとな自然美を詠んでいる。そして最後は単なる自然美だけではなく、この自然美に浸りきることが摂生養生の理法にかなうものだと結んでいる。ここに「意恢理無違」という〃理“は前の淵明の”真“と極めて似た形而上的用語と考えることができる。この詩は山水自然の美を精微に描写すると同時にその景を叙する〃叙景詩“にも止まらず、自然そのものの中に〃理“を見い出そうとしているのである。〃理“について謝霊運は『石門新営所住』では「感往盧有復、理来情無存」といっている。妙理がやって来ると物我の区別はなくなり、俗情は消えてしまうという意味である。また『於南山往北山、経楜中臘眺』では「孤遊非情歎、賞廃理誰通」ともいう。孤独の遊びは嘆くことはないが、自然を賞することを止めたならば、自然の妙理に通ずることはできないという意味であり、霊運のいう“理“とは自然の中にある理法であり、それは自然を賞すること、つまり自然を賞で楽しみ自然と一体化することによって体得できるというものなのである。この自然を賞するという「賞心」も霊運の詩には頻出する。①我志誰興亮賞心惟良知(『瀞南亭』)②含情尚労愛如何離賞心(『晩出西射堂』)③将窮山海迦永絶賞心悟(『永初三年七月十六日之郡初発都』)①は自然を賞する心を持つ人こそわが良き知友であるといい、②は賞心の友と離れ難きことを述べ、③はその賞心の友と語ることも捨てて 山海の美を窮めようとした決意を述べている。霊運及びその後継者である謝眺の「賞心」については、森野繁夫『謝康楽詩集』、『謝宣城詩集』(ともに白帝社)に詳細な検討と比較がなされている。以下この書を参考としながら「謝眺の賞心」について、いささか検討を加えておこう。(なお謝眺についてはその生涯、作品の特色等について、ここではまだ触れていない。早急に検討しなければならない問題である。)まず少し長い作品であるが『遊山』という詩を例として挙げてみよう。託養因支離乗間遂疲塞語黙良未尋得喪云誰辨幸泣山水都復値清秋緬凌崖必千例尋翰将万転堅鰐既峻婚廻流復宛檀杳杳雲寳深淵淵石榴浅傍眺鯵簗勢還望森栴梗荒膜被蔵莎崩壁帯苔鮮麗狄叫層堪鴫鳧戯沙術触賞卿自観即趣成已展経目惜所遇前路欣方践無言意草歌留垣芳可蘂尚子時未帰祁生思自免求志昔所欽勝述今能選寄言賞心客得性良為善これは謝眺が宣城大守の時に敬亭山に登っての作である。詩の主題
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は自然の中に養生の道を求め、賞心の人に対し、本性の安らぎこそ、本当によいことだと言づけたいというものであるが、第十八句には「触賞」といい、以下の十二句に山に遊んで触発された感想を述べ、結論として「寄言賞心客、得性良為善」というのである。「賞心」を強く意識してのものであることが解る。またこの句を含め全体として謝霊運の影響が強いことも特色の一つである。「賞心」については霊運の『満南亭』に「我志誰与亮、賞心惟良知」の句があり、「得性」については霊運の『道路懐山中』に「得性非外求、自已為誰蟇」の用例がある。さらに「尚子時末帰、郡生思自免」についても霊運の『初去都』に「畢嬰類尚子、薄遊似祁生」とある。「尚子」は『後漢書、逸民』に伝のある何長のことで、娘を嫁がせた後に山に遊び行方が解らなくなった人。「祁生」は『漢書、両翼伝』に載せる祁曼谷のことで、官にあっても帰るを願い、ついに志を遂げた人である。この他にも霊運の詩を意識してのものがいくつか見える。これらから考えるなら「賞心客」は霊運をさしているものとも考えられる。さらにこの詩には、前六句において『荘子・人間世』に出てくる不具者の「支離疏」、『易・繋辞伝』の「語黙」、『荘子・田子方』の「得喪」などの語を用いて山水に生を養う願いを述べており、謝眺と道家、易との関係を考える上でも重要な詩である。「賞心」について謝眺の詩の用例をいくつか挙げておこう。①箪塵自弦隔賞心於此遇錐無玄豹姿終隠南山霧(『之宣城郡出新林浦向板橋』)②朝光映紅蕾微風吹好音 〔四〕快楽主義の復活前節において謝霊運と謝眺の自然観の中心として見てきた。淵明から謝眺の時期にはあまり快楽主義的な思想は表面的には現われてこない。その主な原因は、晋から劉宋への移行という戦乱の緊張であったと思われる。また淵明により自然に対する観察がより思索的に深化したために、詩人達の興味、関心がより哲学的になったためでもあろう。テーマとする快楽主義の系譜からは外れるものであるが、快楽主義が表われてこない要因がこういう点にあったということを指摘したのである。さてこのような自然観を経て早くも謝眺には現実の豪華さを主題とした詩が少ない例ながら現われてくることに注意したい。『直中書道』がそれである。紫殿粛陰陰形庭赫弘敞 江睡得清賞山際果幽尋(『和何議曹郊遊』)③朋情似鯵陶春物方飴尋安得凌風翰柳窓山水賞(『直中書省』)②③に見られる「得清賞」、「窓山水賞」という語は直接「賞心」とは言っていないが、結局は「賞心」に基ずく表現である。この「賞心」は謝眺だけでなく当時の任防や沈約、藷綱の詩にもその用例を求めることができるから当時にあって普遍的な意味を有する言葉となっていたのであろう。
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風動万年枝日華承露掌玲瀧結綺銭深沈映朱網紅薬当階翻蒼苔依瑚上弦言翔鳳池鳴侃多情響信美非吾室中園思堰仰朋情似鯵陶春物方飴蕩安得凌雲翰耶窓山泉賞この詩は結句に「柳窓山泉賞」とあるように故郷に帰る願望を述べたものであるが、これまでの謝眺の自然詩とは趣を異にする。確かに、「風動」「日華」、「紅葉」「紅薬」「蒼苔」のように自然の美を詠み込んではいるけれども一篇の主題は中書省の奇麗な風景を描くことにある。「辞人の賦」のような珍獣奇物を羅列するような豪華さは見られないが、細やかな描写によって中書省の美しさを強調している。このような自然描写と女性を描くことによって後の宮体詩が形成されてくるのであるが、謝眺には明確に意識された宮体詩はみられない。この傾向は謝眺よりやや先輩の沈約の詩の方がかえって強く見られる。沈約の『雑詠』五首の中の『詠桃』を見てみよう。風来吹葉動風去畏花傷紅英已照灼況復含日光歌童暗理曲遊女夜縫裳記減当春涙能断恩人腸これは離れた夫を思う妻の悲しみを詠んだものであるが、その女の目を通して桃の花の美しさが描かれている。この詩の特色は桃を通しての自然の美しさと女の気持ちが半分ずつ描かれている点であり、宮 体詩の一種と見てよい。沈約にはまた自然が全く現れず、女性だけを詠んだ詩がある。夜間長歎息知君心有憶果自間闘開魂交韻容色既薦巫山枕又奉斉眉食立望復横陳忽覚非在側那意神傷者漏援涙露臆『夢見美人』という題名の示す通り、夢に見た美人を憶う気持で詩の全篇が貫かれている。宮体詩そのものであり、沈約をはじめ簡文帝などの女性を詠んだ詩は『玉台新詠』中に満ち溢れている。さて以上謝眺の自然詩から宮体詩に至るまでかなり詳しく考証を加えたが、重要なことは謝霊運によって拓かれた山水詩が謝眺以下になるとその自然描写が細かくなり、その細かな自然を見る目で女性の美を追求しようとしたことであり、その女性美の追求は形を変えた快楽主義の復活だということである。前にも述べたように快楽主義は道家の”自然“”精神の解放“を肉体にまで及ぼし、本能に順うことが自然と解釈する特殊な道家思想の理解にあるが、斉梁期以後の女性美の追求は道家の自然などとは無関係に哲学的理論なくして生じたものである。しかしながら人間の欲望の大きなものとして〃色“、女性を好むというものがあり、それを追求するのが宮体詩であるとすれば、結果として快楽主義の復活ということになる。簡文帝の詩に見られるような女性の姿態の描写、衣装、調度品の細微な描写は快楽主義への憧れでもある。快楽を求めるのが人間の本能である限り、快楽主義は時代の政治、倫理によって影を潜めることはあるが、決して断えること
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結語に代えて以上のように魏晋六朝期における道家思想と文学の関係は複雑な要素が絡み合って形成されたものである。最も大きな影響は中国の文化のすべてに該当するように儒教との拮抗である。政治基盤が安定し儒教が権威を持つ時代には影を潜める。しかし道家思想が消滅するという訳ではなく、種々の形態を取りながらその命脈をつないで来た。そして政治的動乱等の影響と儒教内部の弱体化により儒教が統治原理としての権威を失なうとともに、道家思想が再び拾頭することになる。しかし儒教はいつの時代にあっても政治的に否定されることなく、ある時は欺臓の体制をカムフラージュするために、ある時はその根本理想に立ち戻りながら中国社会に強い影響力を有していた。そのような儒教と儒教の間隙をぬう形で息づいてきた道家思想との反復の中に道家の発展がある。その発展は儒教と道家の相互交流の中でお互いにその理論性を高めて行った。儒教の側でも王弼や何晏のように道家的な〃無“の思想によって儒教の経典を解釈するようになる。後漢末から魏晋にかけては儒教そのものも変化してくる。それは後漢末の党銅の変で官僚の身分を追われた名士は儒教道徳を固守するためには引退する以外に方法はなく、故郷の豪族となって隠棲した。魏晋に至ると一応表面的ではあれ、時の政権が儒学を尊び、礼によって秩序を回復しようとした。この時期になると再び朝廷に仕え儒教の道を実践しようとする名士も出てきた。|度退いた豪族が再び朝廷に仕えるというこ なく文学にも息づいているものであり、その根本には揚朱以来の考え方とそれを理論ずける道家思想があったと思われるのである。 とは、豪族と国家権力の妥協であり、その儒教も老荘と関連を持った変化した儒教とならざるを得なかったのである。|方では朝廷に仕えることをあくまでも拒み、野に下って政治に関わらず儒教を尊ぶ逸民もまた多くなった。逸民は後漢末からその風が盛んになるが、彼らは濁った世に背を向け、政治とは無関係な超族的な清談を好んだ。その代表者が竹林の七賢である。彼らの老荘的思想も、もとはといえば儒学から発しているのである。この二つの流れは魏晋南北朝を適して常に存在していたものであり、このような儒学との拮抗こそが道家思想発展の最も大きな要因である。道家思想発展の第二の要因は道家思想そのものの思弁化、深化である。老荘思想は本来的に形而上的哲理を持つものであるが、『老子』『荘子』においては充分に論理化されたものではなかった。『老子』は偲諺的な短句による暗示的な内容であり、『荘子』は恵施との関係からかなり論理的なものを含むけれども、寓言的内容によって超脱の論理を説明するに過ぎない。魏晋に至って儒学の『易』等の交流により、老荘思想がさらに思弁的になったことが大きな特色である。この時期になって哲学命題として〃有無の問題“、”言意の問題“等が追求すべき大きな命題として提出されたのである。それは道家思想だけに止まらず、儒教もまたこれらの命題とともに深化され変化して行ったのであり、道家の思弁化がこの時期に道家思想の発展を支えた二つ目の要因である。最後にこの二つの要因とは別に道家思想の特殊な理解による思想が、儒教の衰退とともに表われたり消えたりする。それが本論で取り上げた現実快楽主義の主張である。現実快楽の思想はそれが人間の本能である限り、儒家や道家とは関係なくいつの時代にも
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現われる可能性がある。しかし快楽主義の主張は老荘のいう自然を人間の惰性に順うことと解釈し理論ずけたのである。精神的解放を求める道家思想本来の考え方を肉体的解放ととらえたのである。老荘の特殊な理解の方法であり誤ったものであるが、快楽主義を理論ずけるものとして利用されたのである。そしてこの風潮は漢代から魏晋南北朝にかけて無視できない思想勢力として時に大きく、時に影を潜めながら受け継がれてきており、文学にもその影響を認めることができる。本論は前の二つの点に留意しながら、漢初から魏晋六朝期における快楽主義について、その盛衰を詩を中心として系譜を辿ったものである。これまであまり指摘されなかったが、快楽主義の系譜が魏晋南北朝期の道家思想と文学の関わりを探る上で重要なものと思われるから
である。
引用文献出版社)
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(9) 『法言・吾子』(『四部叢刊』『古詩十九首』冑文選』所収・曹王『大楕上嵩行』(逮欽立扇曹植『名都篇貝〃
謝眺『遊山呉森野繁夫『謝宣城詩集』白帝社) 謝霊運『石壁精舎還湖中作』(頤紹伯『謝霊運校注』中州古籍 『漢書・楊雄伝』(『二十五史』所収・上海古籍出脈『法言・吾子』(『四部叢刊」本・台湾商務院書館) 『列子・楊朱』(『諸子集成『荘子・盗妬』(〃) 『諸子集成』本)
所収・四部叢刊本・台湾商務院書館)塾ユ『先秦漢魏晋南北朝詩』中華書局) 所収・上海古籍出版社)
、-〆
参考文献(1)徐公持編箸『魏晋文学史』人民文学出版社(2)羅宗強『魏晋南北朝文学思想史』中華書局(3)森野繁夫『謝康楽詩集』・『謝宣城詩集』ともに白帝社 (皿)沈約『夢見美人』((6)に同じ)
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