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日本古代大学の研究

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Academic year: 2022

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日本古代大学の研究

著者 二星 潤

URL http://hdl.handle.net/10236/11617

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− 17 −

論 文 内 容 の 要 旨

 二星潤氏の博士学位申請論文である「日本古代大学の研究」は、日本古代における唯一の公的中央教育機 関で、かつ官人養成機関である大学を対象としたものである。大別すると、政治的・社会的状況と密接な関 係にある古代の大学の変遷を取り上げた第一部と、大学を修了し秀才試を及第した文人官僚の動向に焦点を 当てた第二部に分かれる。

 第一部では、令制から延喜式にいたる大学の変遷と官人登用の関係を検討している。

 まず、令規定での大学を精緻に検討するところから、式部省試に直接対応する学科編成がとられていなかっ たことを確認した。また、古代日本がモデルとした唐制との比較から、秀才試・明経試の受験者として五位 以上子孫を想定していたことを明らかにした。古代の官人の出身には蔭位制という特権制度があるが、式部 省試及第者は、蔭位に加階される有意性があることを指摘した。さらに、大宝令制定当初の式部省試は、出 身前の五位以上子孫を含めた無位者を受験対象としていたが、その後、有位者も受験可能とし受験者を拡大 した。儒教を根底とした政治思想・統治能力を有する官人が期待されたためであると説いた。

 次に、令制では受験者が直接対応していなかった秀才・進士試に対応させるために、神亀5年(728)に 文章科が「本科」から分化する形で設置された。また、歴史重視の観点から大同3年(808)に紀伝科が同 じく「本科」から分立し、その後文章科に併合されたことを指摘した。また、これらの課程を経て及第した 者には内階に叙されることは、官人登用制度としての意義を大きく変えていくこととなった。これは「国家 の大儒」を求める国家の方針であり、学問重視の姿勢が時とともに明確に打ち出されていることを指摘した。

こうした流れの中で、8世紀後半から延喜式にいたるまで、有位者から優秀な者を登用する目的で式部省試 の改革が行われたことを論じている。

 なお、貴族が設けた大学別曹についても付言している。大学に通う子弟を氏族単位で援助する施設である が、「公認」されることの意味として、別曹運営の財源保証を説いている。

 つまり、大学は令制当初から五位以上官人を登用する機関として位置づけられており、彼らを登用するた めに大学の学科や式部省試の改革が行われたことを解明した。

 第二部では、大学出身者、特に秀才試及第者の任官状況の変遷を考察している。

 まず、仁和2年(886)の菅原道真の讃岐国司任官を取り上げている。従来、この任官を左遷ととらえる 研究者が多い中で、前後の時期の秀才試及第者の任官状況を詳細に調査することによって、時代によってそ の捉え方が異なっていることを指摘した。すなわち、秀才試及第者は貞観年間(859 〜 876)は古今の王事

氏 名

学 位 の 専 攻 分 野 の 名 称 学 位 記 番 号 学位授与の要件 学位授与年月日 学 位 論 文 題 目

論 文 審 査 委 員 (主査)

(副査)

二 星   潤

博 士(歴史学)

甲文第133号(文部科学省への報告番号甲第464号)

学位規則第4条第1項該当 2013年3月2日

中 西 康 裕 高 岡 裕 之

安 田 政 彦

(帝塚山学院大学教授)

教 授 教 授

日本古代大学の研究

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を明らかにできる知識を持っていることによって、有識者として評価を受けており、国司として地方政治の 実務に関わることはなかった。しかし、元慶年間(877 〜 884)に入ると国司としての実務能力を試されて、

受領として赴任するように変化した。このような動向を見いだすことによって、菅原道真の国司任官は左遷 ではないとの結論を得た。

 次いで、大江匡衡を中心に秀才試及第者の任官を検討された。大江匡衡は天元2年(979)に秀才試に及 第した後、何度も国司任官を希望しており、菅原道真の頃と大きく様子が変わってきている。菅原道真以降 の任官状況をみることによって、10世紀前半の段階では、秀才試及第者は新叙巡により受領に任官していた が、10世紀後半以降、秀才試及第者は受領への任官を希望するものの、任官できない状況が生じてきた。10 世紀から12世紀にかけては、秀才試及第者は公卿への階梯として国司任官を捉えたのに対し、為政者は秀才 試及第者の文筆の面での才能や知識を重視し任官を捉えていたことを解明した。

 つまり、秀才試及第者は9世紀半ばまでは内外官関係なく登用されていたが、9世紀半ばで外官に登用さ れなくなり、9世紀末には受領に任官するようになるが、10世紀後半以降は受領に任官するべき人材と見な されなくなる。このような変遷は、為政者の秀才試及第者への評価の違いが影響したことを指摘した。

 以上のように、五位以上子孫などの官人養成機関として設立された大学の制度は、政治的・社会的状況に 対応して変遷していった。また、秀才試及第者の実際の登用状況は、為政者の秀才試及第者に対する評価の 影響を受けて、時代に応じて変化したと結論づけた。

 

論 文 審 査 結 果 の 要 旨

 近年の日本古代史の学界では、大学や教育制度、また官人登用について活発に研究が発表されている。そ うした中にあって、二星潤氏の博士学位申請論文は大学を中心に、また大学が官人養成機関であることから、

それらの課題に挑んだ意欲的な研究である。

 日本古代の大学については、従来の研究が蔭位制を重視するあまりに官人出身コースとしての位置づけを 低く評価し、そのため奈良時代や平安時代前期の大学は振るわなかったと位置づけられていた。近年の研究 も多くはその域を出ていない。しかし、二星氏は本論文によって、令規定の段階から蔭位制があったとして も、大学出身併用の有意性を指摘した。その指摘は妥当と思われ、そこから大学の意義づけを行う点は、学 界に対して一石を投ずるものであろう。その後、古代国家により大学の充実が図られているが、他の研究者 の見解からは問題視される事象であっても、二星氏の示した観点からすると容易に説明できる事象であろう。

文章科の分化や紀伝科の変遷についても、従来提示されてきた見解では十分な説明とは言い難いのが実情で ある。本論文で提示された古代国家において求められる官人像との関連で解明しようとする視点、ここから 説くことが正鵠を射ているであろう。さらに、式部省試の改革について、貴族子弟の中から優秀な人材を登 用しようとする一貫した方向性の中で説明する本論文の視点は説得力に富むものである。

 また、秀才試及第者の任官の実例を検討するにあたって、類例を解析する手法は堅実で、結論も穏当と判 断できる。従来の研究では、大学は中・下級官人を養成した機関であったと指摘するのみで、大学出身者の 任官状況についての専論は少なく、どの時期であっても通り一遍の評価のされかたであった。本論文では、

大学出身者、特に式部省試の最難関である秀才試に及第した者の任官状況と、時期による任官状況の変化、

任官に対する意識の変化、またその背景にある政治的・社会的背景に論究した点は高く評価できる。

 本論文全体として、関連する史料を博捜し、厳密な史料解釈のもとで、堅実な論理の組み立て、さらに斬 新で説得力のある結論を導き出した意欲的な研究と評することができる。

 しかしながら、本論文に課題がないわけではない。本論文の評価を貶めるものではないが、あえて4項目 を指摘しておきたい。第一に、令制の検討や8世紀の変遷については、その意義づけを含めて妥当性がある

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と評せるが、9世紀以降延喜式にいたる変遷については、入学試験や登用試を中心とした部分的なものであ り、古代の大学全体像の検討には至っていない点である。今後の課題とも言えるが、表題が看板倒れの感が 否めない。第二に、第一部で制度の検討や変遷の意義づけが行われているが、第二部といかなる関連性があ るのかが明確に説かれているとは言い難い点である。第一部ないしは第二部のみを充実させる方法もあった はずである。構成上の問題ともいえ、一方では歴史学における課程博士取得の難しさが如実に示されてい る。第三に、第二部で菅原道真と大江匡衡が取り上げられているが、この二人を取り上げた理由が判然とし ない点である。大学出身者の中から秀才試及第者だけを取り上げた点も疑問がないわけではない。大学出身 者や秀才試及第者ならば多数いるから、2例で演繹的な手法をとるより、帰納法的に検討することで、より 論理性・客観性をもつ結論が得られるはずである。もっとも、この2例の分析結果が誤っているというわけ ではないが、より高い研究レベルを望む次第である。第四に、文中で使われている用語や概念の曖昧さ、も う少し大きく言えば古代国家に対する歴史観が掴みにくいこともある。そのため、口頭試問においての質疑 で、議論がかみ合わないこともあった。厳しく言えば、研究のための研究に陥っていないかという危惧につ ながる。研究者としての今後の研鑽が望まれるところである。

 二星氏は2013年2月13日に博士学位申請論文の公開発表を本学F号館で行った。全体のポイントを絞って 発表した後、質疑応答が活発に行われた。

 審査委員会は、本博士学位申請論文を慎重に審査し、同日に行った公開発表や口頭試問の結果を合わせて、

二星潤氏が博士(歴史学)の学位を授与されるにふさわしいと判断しましたので、ここに報告いたします。

参照

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