市 場 と 文 明 の 進 化 誌 ③
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(2) 233. 確保は︑華北.江南両世界の農耕の発展にとってもっとも重要な問題だった︒農耕文明1では︑人々は天水と河川. の小規模な利用で︑この問題を解決してきた︒しかしこれでは農耕の発展は望めない︒申国世界は農耕文明πで︑. 大規模な灌概システムの建設を繰りひろげることによって豊かな水を確保し︑それによって広大な農耕地を柘こう とするのである︒. 灌概システムの建設.広大な農耕地の開拓は︑周がよりあわせた北と南の二つの世界︑黄河・長江二つの流域地. に向かい︑それによって農耕文明の可能性を極限まで拓くのである︒. 中国世界の農耕文明nはまず︑春秋・戦国の分裂の時代からはじまる︒ 春秋・戦国. 鉄器時代のはじまり. 時代︵前七七〇−二二一年︶と呼ぶ︒. 遷せざるをえなくなった︒前七七〇年のことである︒これ以降︑秦による全土統一までの時期を︑申国史では東周. 王の時代にはその難を避けるために周族の本拠地︵岐山の周原︑豊・鏑の宗周︶を放棄して︑東都洛邑の成周に東. 西周は中期以降︑急速にその勢力を衰退させる︒二一代︑幽王のときに西夷である犬戎に攻められ︑次王︑平. け丸じ帥う. 時代が用意されるのである︒中国世界は︑この分裂と統一を繰りかえしながら︑より大きな統一国家︑帝国の形成. 中国世界では︑中央集権国家の形成は違続しなかった︒統一国家形成のあとには︑地方勢力が分立しあう分裂の. ることによって進展する︒. 帯で︑それぞれ強大な勢力を出現させながら進行し︑さらに南北を統一する強大な国家︑中央集権国家を登場させ. 二. 早稲田商学第389号.
(3) 市場と文明の進化誌③. 東周時代は前後二つに分けられる︒春秋時代︵前七七〇1四五三年︶と戦国時代︵前四五三−二二一年︶である. 一この呼び名は︑その時期を対象にして記された二つの史書︑﹃春秋﹄︑﹃戦国策﹄に由来する︶︒春秋.戦国時代は. 支配王朝の衰退が進行する時代であるが︑同時にそれは︑周王朝の支配下にあった封建諸侯が邑制国家として独立. しつつ︑王室の権威のそとで滅国兼併を繰りかえし︑複数の領域︵領土︶国家を形成していく激動の時代であっ た︒. この激動の時代に︑市場と文明のあらたな可能性が拓かれる︒それを促したのがこの時期に出現した鉄︑それに. よってつくられる鉄器だった︒後述することになるが︑西アジア・地中海の鉄器時代は︑前二一世紀にはじまって. いる︒それに対して申国世界における鉄の時代は︑春秋時代の後半期︑前七−六世紀にはじまるのである︒. もちろん鉄の使用そのものはもっと古い時代にさかのぼれるであろう︒すでに段代には唄鉄を鍛えた鉄刃︑鉄鉱. 石を精錬してつくった鉄刃が使われた形跡があるからである︒しかしそれはまだ装飾品.貴重品にかぎられてい た︒中国世界が本格的に鉄を生産し︑流通させていくのはこの時代なのである︒. その意味では中国世界の鉄器時代は︑西アジア・地中海と比べて五世紀ほど遅れたことになる︒ただし中国世界 ではそのときすでに先進的な製鉄技術を確立していた様子である︒. 砂鉄・鉄鉱石から抽出した鉄の素材を鉄器にかえるのに︑人々は二つの方法を選びだした︒一つは鉄の素材を加. 232. 熱し︵八OO度ほどに︶︑ハンマーでたたいて鉄器をつくる鍛造法︑いま一つは高温度︵一五〇〇度ほど︶で溶か. もろい性質をもっている︒それは武器よりも︑農工具に適していた︒中国世界が鍛造技術を発展させ︑兵器を鉄製. した鉄の素材を鋳型に流しこんでつくる鋳造法である︒西アジア・地中海では鉄器の製造は鍛鉄からはじまり︑鋳 1︺ 鉄に移ったとされているが︑中国世界では順序は逆になり︑鋳造からはじまつたといわれていみ︒鋳鉄は硬いが︑ 三.
(4) 早稲田商学第389号. にかえていくのは戦国時代である︒中国では︑人々はまず鉄を最先端の農耕技衛として使う道を選択したのであ る︒. 鉄の農工具は︑深耕・除草・土木作業を容易にした︒それ以前の石や木︑あるいは青鋼の農工具と比べてはるか. に優れていた︒それは農耕に革命をもたらすものであつた︒鉄製農工具の獲得なしに︑周王室からの独立をめざす. 邑制国家の発展は考えられなかった︒支配者たちは︑鉄器の獲得を競いあったに違いない︒. 領域国家の誕生. 鉄器時代のはじめ︑鉄の生産地は︑農耕集落から遠く離れていた︒その時代にあっては︑鋳鉄の製造は︑その主. 要原料の産地で行なわれたからである︒しかもその主要原料となる鉄鉱石と大量の木炭の産地が︑農耕地帯から遼 隔の山岳地方にあったからである︒. 鉄器を手にいれるためには︑それを取引する交易市場をつくりださねばならなかった︒邑制国家の支配者たち. は︑鉄の交易市場づくりを競いあったに違いない︒市場の組織化とともに︑鉄器の売買が盛んに行なわれるように. なったのだろう︒それを引き金に︑春秋時代には青銅製の鋳造貨幣があらわれてくるのである︒. 邑制国家による交易市場づくり競争は︑鉄器の開発を進展させた︒鋤・黎・鍬などの耕具だけでなく︑こぐわ・. 鎌など除草・収穫用の農具も鉄器となった︒それだけではない︒開墾や水利灌瀧事業を容易にする鉄製工具もまた 開発された︒. 邑制国家の支配者たちは︑そうした鉄製の農工旦ハを季にいれながら灌瀧システムづくりを競いあった︒華北の陸 きょ 田農耕地帯では︑河川の上流をせきとめて︑そこから水を導く渠と呼ばれる用水路を使う灌概法が考えだされた. 231.
(5) 市場と文明の進化誌③. が︑諸国の支配者たちは︑鉄製農工具による渠づくりを農民たちに呼びかけた︒. 人々はそれに応じた︒これまで農耕生産は︑氏族を単位として行なわれてきた︒土地は氏族の共同保有であり︑. 農耕は共同経営されてきたのである︒人々はその氏族共同体を抜けでて︑家父長を中心とする小家族となって︑邑. 制国家の支配者層が企画する鉄器を駆使した渠づくりに参加したのである︒そのほうがずっと豊かな大地の恵みの 配分にあずかれたからである︒. 農耕地は︑これまでの邑制国家の範囲を大きく越えて広がった︒そしてそこは︑小家族を単位とする無数の農民. たちが土地を保有し︑自営する新しい農耕世界になったのである︒支配者は︑この広がりをもちはじめた新領域︑. 分散した小家族農民を治めるために新しい統治方法を生みだした︒新領域を郡・県と呼ばれる区域に分割すると同. 時に︑そこに非血縁的・非世襲的官僚を派遣して︑土地と人民の直接支配をはじめていくのである︒. 農耕地の拡大はまた︑防衛という問題をつくりださずにはおかなかった︒これまで邑制国家の軍事は︑邑の支配. 者層を構成する氏族メンバーを中心に︑その共同防衛のために編成されていた︒これを拡大した︑小家族保有領域 の軍事に使うこと は で き な か っ た ︒. 邑制国家の支配者たちは︑領域内に土地を保有する農民を中心とした軍事体制を考えだしたのである︒豊かな収. 穫を防衛するためには︑みずからその責任を果たさねばならなかった︒農民たちは軍事費を負担すると同時に︑新 しい軍事組織に直接参加する防衛要員となっていくのである︒. これによって︑長い歴史をもった血縁的・世襲的な氏族制的支配︑氏族的農耕集団︑それによって構成されてき. た邑制国家は崩壊し︑それにかわって︑中央集権的な専制君主を頂点におき︑郡県制・官僚制によって個々の小家 族農民を直接統治する︑中央集権的領域︵領土︶国家が誕生していくのである︒. 230.
(6) ひ. 229. 長江勢力の台頭. 領域国家の形成は︑黄河流域だけでなく︑長江流域でも進行した︒長江下・中流域世界は︑すでに述べたように. 前二〇〇〇年代末以来︑長いあいだ人のまばらな状況がつづいた︒しかし駿王朝の後期く前二二世紀︶ごろから︑. ここにはふたたび人が戻り︑段・周文明の強い影響を受けて︑農耕社会の再建がはじめられていた︒. それをべ−スにして長江流域は︑この時代の最先端技術︑鉄製農工具の開発による新しい農耕社会の建設に向か. と・つ. 楚人は︑黄河と長江の両方の世界に通じた交易の組織者として鋼と錫を支配し︑大量の青銅農工具をつくりだし. し︑華北アワ作民の性格をそぎ落として︑長江中流域の稲作農耕民という性格を強めていく︒. 河文化などの稲作農耕を身につけた︒長江流域の稲作とともにはじまった養蚕業・織物業・漆器生産などを継承. 部族同盟の一部で︑一度黄河中流域に進出したあと南下して長江中流域に浸透し︑ここにあった屈家嶺文化・石家. 伝統的な一極支配を崩しはじめ︑長江流域を農耕文明の地に復帰させる役割を果たすのである︒ 刻 呉・越・楚の三国のなかでも︑最大の勢力となったのは楚である︒楚の源流は︑黄河下流域の東夷集団に属した. 流域からは呉国・越国︑中流域からは楚国という領域国家が登場した︒これら江南勢力の台頭は︑黄河勢力による. それとともに︑ここでもまた個々の小家族農民・その保有地を直接統治する領域国家づくりが進展した︒長江下. よって農地は拡大し︑農民の分散が大きく進展したはずである︒. る調節装置によって田に供給するシステムが考えだされた︒鉄器の使用は︑用水池の造成を容易にした︒これに. ここでは︑谷聞の出口に堤防を築き︑用水池−堰・塘・陵と呼ばれた1をつくって谷水を貯え︑これを水門によ. えん. 水稲耕作の水利事業が大きく進展したはずである︒. うのである︒おそらく江南でも︑鉄器を流通させる交易市場が進化し︑それによって鉄製農工具の開発が進行し︑. 大. 早稲田商学第389号.
(7) 市場と文明の進化誌③. た︒黄河流域をはじめ︑他の地域では青銅は主に儀礼器として使われた︒楚は︑それを農耕や手工業の道具として. 生産し︑流通させたのである︒周辺の土着の諸部族が楚の傘下にはいった︒楚はそれらを統合した多民族国家とし て︑前二二世紀︵段王朝の後期︶には︑すでに段に対抗できる勢力となっていた︒. せい. しん. 主ん. やがて春秋時代になると︑楚は鉄の市場と交易を支配して鉄製農工具を大量に獲得し︑これによって大型水利施. 設の建設や水田の増設を進めて広大な国土をもつ領域国家をつくり︑中原において勢力をのばしてきた斉・晋・燕 などの黄河勢力をおびやかす存在にまでなるのである︒. 戦国勢力の市場づくり. 邑制国家を母体にした領域国家づくりは︑申国世界の南北で進行した︒その領域国家がつぎにめざしたのが︑周 辺邑制国家の再編成︑滅国兼併競争だった︒. 滅国兼併競争ははじめ楚を軸にして︑黄河流域の諸侯間で︑これと平行するかたちで長江流域の諸侯聞で進行 し︑後半期にはその南北の二大勢力が対立・抗争するかたちで展開した︒. しん. かん. 春秋初期には︑封建藷侯を国君とした邑制国家は二百数十か国存在していたといわれているが︑後期にはそのほ. ちょう. せい. えん. とんどが姿を消してしまう︒そして前五世紀末になると︑七つの大国︑つまり中原大国晋が分割してできた韓. ・魏・趨︑東方の斉︑北方の燕︑南方の楚︑そして西方の︑あらたに登場してくる秦の七雄に整理・統合されてし. ぎ. まうのである︒. このときには周王の権威は完全に失われ︑七か国の君主がみずから王を名のり︑南北二つの値界の統一をめざし. てはげしく戦いをはじめていく︒こうして時代は春秋から戦国にはいっていくのである︒. 228.
(8) 早稲田商学繁389号. 戦国時代は︑載国の七雄が天下の覇権をめざして興亡を重ねた時代であるが︑それは同時に七国が領域国家とし. て︑中央集権的な統一国家の形成を志向しつつはげしく交流し︑農耕文明の可能性を大きく切りひらこうとする時 代でもあった︒. かんたん. ぎよう. えい. しよう. この時代の文明の形成に欠かせなかったのは︑交易市場に連なる社会内市場だった︒領域国家は政治都市市場づ. りんし. くりを競いあった︒. し. 斉の臨溜・趨の郡鄭・韓の宜陽・楚の郭など︑各国の首都には︑周囲を艦と呼ばれる壁で囲み︑都市の他の区 り. 域 里 と区別される市場世界︑すなわち﹁市﹂が設置されていったはずである︒. 市は︑ここに参集する商工業者のイニシャティブによって形成されたものではもちろんない︒それはこの時代の 領域国家によって設置された管理的市場制度であったと想像される︒. 鋳造貨 幣 と 市 場 の 進 化 市ではどんな商晶が取引されたのだろうか︒. その一つは︑領内各地が育んだ手工業製品であった︒すでに春秋以来︑各地で製鉄業・製塩業・木工業・漆工. 業・製陶業・皮革工業・紡織業などが支配者の手によって興されていた︒戦国時代︑これら官営の手工業は︑その 設備に鉄製工具を導入し︑生産性を向上させた様子である︒. かくじ申・つ. い. とん. 手工業はしかし官営だけではまかないきれなかったのであろう︒戦国期には︑各地に私的な手工業者があらわれ. てくるのである︒﹃史記﹄﹁貨殖列伝﹂には︑麓の郭縦︵製鉄業者一︑魏の狩頓︵製塩業者一など︑多くの手工業者 がその名を連ね︑いずれも富豪として語られている︒. 227.
(9) 市場と文明の進化誌③. こうした官民によってつくられた手工業製品が︑彼ら自身の手で︑あるいは交易商人の手を経て各国の政治都市. 市場に出回ったのであろう︒そのなかでも︑きわだっていたのが鉄器であったことであろう︒鉄器は︑この時代に. 各国が進めていた大規模灌概農耕に欠かすことのできない最先端技術であったからである︒. 政治都市市場に集まったいま一つの代表的な商品は︑領内各地でとれる農産物・畜産物・海産物などの特産品︑. 他の領域国家が産出する他国品︑さらには辺境異族との交易を通して獲得された異境域の珍奇な産物である︒都市 市場には︑これらを運ぶ行商・交易商人のオフィスがならんだことだろう︒. 政治都市市場はまた︑都市庶氏の生活を支える小売マーケットでもあった︒ここには︑日々の暮らしに欠かせな い日常品が︑そしてそれを加工・販売する商工業者たちが集まったことだろう︒. ひらすき. こうした社会内市場における商晶の取引を媒介したのが︑鋳造貨幣だった︒蕃秋期に登場した鋳貨は︑戦国期に はいって大きく普及する︒. えいかん. ぎ. ぴ. 三晋︵韓・魏・麓︶では布銭︵鍵と呼ばれる鉄製農具のかたちを模したものとされ︑それぞれ鋳造された都市名. が記されている一︑斉・燕を申心とした世界では刀銭︑南の楚では﹁郵髪﹂の二字を刻んだ金貨︑そして嬢鼻銭. ︵アリの鼻のようなかたちをした小型の青銅製貨幣︶があらわれてくる︒そして戦国末期には︑各地に円形・円孔 訓. の鋼製貨幣も出現する︒. こうした鋳貨の普及と相互作用しつつ︑領域国家の政治都市市場は大きく進化したはずである︒都市の中心的な 存在になり︑その原理は都市全体に広がり︑さらにはその周辺にもおよんだことだろう︒. 226.
(10) 一〇. 早稲田商学第389号. 庶民層の参加・支持. 政治都市市場は︑氏族制の共同所有から抜けだし︑郡県制・官僚制的な領域国家に所属していく小家族農民が自. 分たちの生活を維持・向上させていくために欠かせない存在になった︒都市市場には︑この時代に多量生産されて. いく鉄器︑鋳鉄製の農工具が豊富に出回ったことだろう︒多くの農民たちが市場に足を運んで︑それを手にいれた はずである︒. 人々はこの時代の最先端技術をたずさえ︑領域国家が主催する大規模な治水灌概事業に参加しつつ農耕地の拡大 につとめた︒. 無数の小家族農民︑それが保有する広大な耕地を統治するには︑氏族・貴族世襲制にもとづく人材確保だけでは. 十分でなくなった︒戦国期の領域国家は︑庶民の幅広い層から異能者を求めようとした︒その動きに合わせて︑み ずからの才能・技能を磨きあげようとする人々が群がりでた︒. そうした人々に学問を開放しようとする儒家・墨家・遣家・農家・名家・陰陽家・法家・兵家など︑さまざまな. 学派の思想家たちー議子百家−も登場し︑たがいに交流しつつ自由に討論する機運が生まれた︒のちに中国恩想と. して完成されていくさまざまな思想の原型は︑ほぼこの戦国期にあらわれた︒そこで戦国期を思想の黄金時代と呼. ぶが︑それは同時に庶民層の台頭するチャンスが広がり︑庶民のなかから選ばれた人々が︑農耕文明形成の新しい 担い手となる時代でもあった︒. 人々は庶民の代表者によって運営される領域国家を支持しつつ︑それが用意した新しい大地の恵みを享受したの である︒. こうした庶民層の参加・支持をとりつけながら︑戦国の七雄は領域国家の拡大を押しすすめ︑二百数十年にわ. 225.
(11) 市場と文明の進化誌③ :. たって戦いつづけたのである︒. やがてこの戦いをおわらせ︑黄河・長江二つの世界を融合させ︑中国世界が最初の統一国家を形成する時代が. やってくる︒その主役となったのは長江勢力ではなく︑黄河の領域国家だった︒それも中原の勢力ではなく︑西方. 秦帝国. の清河流域︵陳西省︶に偏在した秦︵前二二一−二〇七年︶であった︒ 2. 富国強兵. 秦は春秋時代︑周王の諸侯として西北部一帯に広大な領土をもっていたが︑その出自である遊牧民族の風習を大. きく残した後進の邑制国家だった︒それが︑戦国時代中期︑考公︵在位前三六一−三三八年︶の時代に︑他の六国. に倣って氏族制度にもとづく邑制国家を解体し︑領域国家の形成をめざすことになったのである︒. 支配者は︑鉄製農工具による灌激システムづくりを企画・組織化した︒この事業は魅力的だったのだろう︒多く. の人々が氏族制にもとづく大家族から抜けでて︑新しい農耕地づくりに参加した︒事業は軌遺に乗り︑邑制国家の. 周辺には広大な農耕地ができ︑みずからの土地−私田・民田1を保有する無数の独立小農民が誕生した︒. 秦はこの新しい農耕地と農民を組織して領域国家の形成に向かうことになるが︑そのやり方は独特だった︒秦も. また県制を施行し︑官吏を派遣して中央の指令を各地におよばせる中央集権化をめざした︒その点では他の六国と. 違いはない︒違っていたのは︑農耕と軍事を一体化させ︑富国強兵の実をかぎりなく志向する中央集権体制づくり をめざしたことだった︒. 秦は交易市場・政治都市市場を国家のきびしい管理のもとにおくと同時に︑人々の私的な市場行為を抑制し︑民. 224.
(12) 三. 早稲田商学第389号. となりぐみ. 衆をできるかぎり農耕と軍事の担い手にしようとした︒支配者は︑独立小農民を隣組と呼ばれる組織に再編成. し︑これを農地耕作や軍隊編成の基本組織とした︒そしてこの隣組組織に違座制という相互監視機能を組みこみ︑. これによって小家族農民の農耕生産を向上させ︑兵士の徴集を容易にしようとしたのである︒. 支配者は︑平時には人々に農耕を奨励し︑豊かな税収を確保した︒そして戦時には軍功を奨励し︑全国各地から. 無数の兵土を動員したのである︒春秋時代まで︑戦争は貴族を主な戦闘員とする車戦が中心だったが︑戦国期には. すでに遊牧民から導入した騎馬戦術・軽装騎馬︑そして鍛鉄製の武器で武装した歩兵の時代にはいっていた︒秦は. 全国から徴集した農民に︑馬と武器を豊かに配し︑強大な軍団をつくりあげようとした︒. 富国強兵をめざす中央集権国家づくりは︑人々にとっては大きな犠牲・負担をともなうものだった︒しかしそれ. なくしては︑大地の恵みの豊かな配分はありえない︒人々は為政者により強大な権力を与えると同時に︑その支配 を受けいれる遣を選ぶのである︒. この新しい国家づくりに反発したのは︑旧来の支配階級である宗室や貴族︑あるいは商工業者たちだった︒彼ら. は申央集権体制づくりにはげしく抵抗した︒これをおさえ︑改革を進める方法として秦が選択したのは︑法治主義. だった︒秦は︑法家思想にもとづく信賞必罰の︑厳格な法治体制をとり︑その法令を富国強兵という目標に合わせ て改革−変法1して い く の で あ る ︒. 刑罰によって国家の秩序をつけていこうとするこの法原理は︑のちに諸王朝に受けつがれ︑階・唐の時代には整. 備された刑法典・行政法からなる律令体制として完成されることになるが︑その原型を生みだしたのは︑戦国時代 の秦だったのである︒. 法治体制の採用は効果的だった︒これによって旧勢力の反発は食いとめられ︑変法は軌道に乗った︒もちろん改. 223.
(13) 市場と文明の進化誌③ =昌. 革が成功したのは︑これだけが理由ではないだろう︒なによりも大きかったのは︑それを底支えした無数の独立小 農民の存在があったことであろう︒. かんよう. いずれにしても秦は︑無数の独立農民を参加させた富国強兵策を実現させることによって︑他の六国よりもはる. よう. かに強大な領域国家となった︒. 帝国の急 造. 前三五〇年︑秦は国都を岐山の麓の薙︵陳西省鳳翔県︶から東の成陽に遷都︑ここを本拠にして六国の平定に向 かった︒. 長い戦乱の影響が出はじめていた︒国内の不安定さは民衆の心をうませただけではなかった︒中国北方の遊牧民. 族の侵入・略奪を引きおこしはじめていた︒戦国の世をおわらせようとする気運が大きく高まっていった︒それに. 乗ずるように︑秦人は政王のもとに結集し︑前;二〇年韓をほろぼした︒それを手はじめに︑趨.燕.魏.楚を破 り︑前二二一年残る斉を落として︑南北二つの領域の統一をなしとげたのである︒. 統一国家をつくりあげるためには︑さまざまな施策を断行しなければならない︒政王は秦人に対し︑自己の権力. の増大を求めた︒権力の肥大化がどれだけ悲惨な結果を引きおこすことになるかを︑人々はまもなく思いしらされ. ることになるのだが︑はじめからそれを予想することはできなかった︒人々は︑政王が構想する統一事業の未来に 期待をかけて︑王が絶大な支配権をもつことを黙認した︒. 民衆の黙認を背景に︑政王はこれまで以上の権威と絶対性をつくりだそうとした︒彼は︑王という称号にかえ. て︑自然界・人間界に君臨する唯一絶対の最高神をあらわす﹁皇帝﹂の称号をもちだし︑これを統一国家の支配者. 222.
(14) 一四. 早稲田商学第389号. の新しい呼び名にしようとした︒そして自分をその初代こ立置づけ︑それが後代に永遠に伝えられるべきことを宣 言した︒こうして彼は初代皇帝となり︑死後︑始皇帝と呼ばれることになる︒. 皇帝としての権威を高め︑その権力の強大さを示すためには︑その手立てを考えださねばならなかった︒始皇帝 りざん が考えついたのが︑首都の象徴となる壮麗な新宮殿i阿房宮1の造営と︑みずからの陵となるべき始皇陵−騒山 陵−の建設であった︒. 阿房宮は︑計画された宮殿の一部−前殿ーで︑その収容力は一万人であったという︒これは始皇帝の存命中には. 完成されなかったが︑その全体プランとともに皇帝の絶大な権力を象徴するはずのものであった︒. 騒山陵は彼の即位とともに着工された︒陵は高さ七六メートル︑周囲約二〇〇〇メートルにおよび︑地下深く掘. られた墓室は︑現世の生活をそのまま死後に再現できるよう豪著につくられたという︒始皇陵はその周囲を近衛軍. 団の等身大の陶偏−兵馬偏ーにまもられていた︒後世の発掘によってその一部が明らかになったがいそれだけでも. 圧巻である︒それをもとに全容を想像すれば︑始皇帝が現世と来世に示そうとした権力の大きさは空前絶後であ る︒. 始皇帝は︑こうした絶対的な権力によって新生統一国家にはいったすべての領土を郡県制にし︑これを中央政府. 機構によって統治しつつ︑すべての政治権力をみずからに集申し︑その命令を全国の各地までゆきわたらせる専制 主義的中央集権国家体制を確立しようとしたのである︒. この体制は︑支配者と被支配者である民衆とが対時する対決の原理によってつくられたものではなかった︒それ. は︑皇帝という最高神の支配に民衆が同調していくという融合の原理をその根底にもっていた︒皇帝を頂点とし︑. その支配下に民衆を直接受けいれようとする︑あるいは民衆がその支配下に直接融合しようとするこの専制的中央. 221.
(15) 集権国家システムは︑のちの清朝にいたるまで︑. 版図の確定. 二〇〇〇年を越える中国の統治原理・社会原理となるのである︒. 始皇帝は国家の形成を急いだ︒一代でその基礎づくりを完了させようとした︒あたかも一族に与えられた天命の 短かさに気づいていたかのように︒. 統一国家を運営するために︑度量衡と文字の統一を急がせた︒貨幣の統一を強引に押しすすめた︒戦国時代にさ. まざまな鋳造者によって︑多種多様な形状と重量をもつ鋳貨が出現した︒始皇帝はそれらを一定の重量と形態をも. つただ一種類の青銅貨幣−半両銭−に統一し︑その鋳造権所有者を行政府のみに限定したのである︒ LO 半両銭は一個の重量が二一鉄︑すなわち一両︵二四鎌︶の半分にあたり︑表面に半両の二字を浮きださせている. のでその名があるが︑その形態は円形で︑中央に方形の孔がうがたれている︒この円形方孔は中国の鋳造貨幣の基 勾 本型となる︒. こうした統一をはかりながら︑始皇帝は私的な商工業者による市場の創造を極端に制約した︒中央政府による市. 場のコントロールを徹底させる道を選択したのである︒ ちどう 始皇帝は地方経営のために︑首都威陽から全国各地に向かう幹線道路網−馳道と呼ばれた1の建設を急がせた︒. その結果馳遣のネットワークはまたたくまのうちに︑関中から東はかつての燕︵河北省︶・斉︵山東省︶に︑北は 陰山︑南は呉︵江蘇省一・越︵断江省︶までおよぶことになった︒. 彼はまた統一国家の領土を保全するために︑周辺異民族の征圧に乗りだした︒北方の遊牧民征伐と南方の︑今日 の広東・広西一帯におよぶ南越征伐である︒. 220. 市場と文明の進化誌③ ;.
(16) 莫. 早稲田商学第389号. とくに力を注いだのは北辺の防禦だった︒すでに述べたように長期にわたる列国閻の死闘が遊牧民族の侵入・略. 奪を許していたからである︒始皇帝はオルドス地方︵陳西省北部︶を占拠していたモンゴル系遊牧民族旬奴と戦. い︑黄河の北に遣いやった︒そして前二一四年北辺を防禦するために︑大規模な長城の建設に乗りだすのである︒. りんとう. じょうへい. り上うねい. 北辺には︑かつてここに位置した燕・趨︵山酉省︶が遊牧民族の侵入を防ぐために築いた長城があった︒始皇帝. はこれを利用しつつ︑西は臨挑︵甘粛省︶から陰山にそい︑東は嚢平︵遼寧省︶から朝鮮にまで達する長大な防. 壁−万里の長城ーを築きあげた︒そしてこの北辺の地にも郡県を新設し︑人々を強制移住させ︑国境をまもらせよ. うとした︒当時の万里の長城は︑現在の長城よりもはるか北方に建設された︒これによって始皇帝は中国世界を現 成させ︑その版図を確定しようとしたのである︒. 完成は未 来 に. 統一国家急造の実効をあげるために︑始皇帝はこれまでの法治主義をさらに強化し︑酷法と厳刑でもってこれに. ムんLよ. 臨んだ︒これに対してはとうぜん抗議の声があがり︑非難の書が著わされた︒始皇帝はこれを許さなかった︒とく ほくぜい. に過去の時代との比較を憎悪した︒. 秦の歴史書︑医薬・農耕・卜簸以外のいにしえの書をことごとく焼きはらい−焚書1︑古書について語る者は死. 刑︑いにしえをたたえ︑秦をそしる者は一族皆殺しにするという法令をくだした︒そして抵抗をつづけた儒者︵四 六〇余名︶を生き埋め1抗儒ーにしたのである︒. 宏壮な宮殿・巨大な陵墓・長大な幹線道路網の建設︑旬奴征伐・長城の築城には︑たいへんな労力一兵力・費用. が必要だった︒それらはすべて︑この時代の一方の主人公として登場した農民の双肩にのしかからざるをえなかっ. 219.
(17) 市場と文明の進化誌③ 一七. た︒農民にはまだそれに耐えられるほど豊かな蓄積はなかった︒重税によって食糧を欠き︑餓死.一家離散する農 民もあらわれた︒過酷な徴集によって働き手を奪われ︑崩壊する農村も出はじめた︒. しかしそれでもこの大事業が縮小されることはなかった︒厳刑がゆるめられることはなかった︒こうした事態に. いたることによって︑人々は気づかされていくのである︒絶対的な権力者を出現させるだけでは︑大地の恵みの豊. かな配分は実現されないことを︒それどころか強大な支配者を登場させてしまうと︑とんでもない犠牲がつくりだ されてしまうことを︒. 人心は支配者から離れた︒民衆の支持を失った統一国家の崩壊はあっというまだった︒秦帝国の寿命は︑始皇帝. 一代でほぼ尽きた︒彼の死とともに農民の反乱がはじまる︒反乱の口火は長江流域のかつての楚に属する農村に. よって切られ︑やがてそれは全土に広がった︒この問に皇帝は二世から三世へとかわり︑三世のときに首都成陽は. 農民の反乱軍によって破られる︒前二〇七年のことである︒始皇帝が中国を統一したのが前二二一年︑王朝はわず か一五年にして滅亡︑ふたたび戦乱の時代がはじまるのである︒. 秦によって専制的な統一国家の形成︑それを母体にした農耕文明π形成の基礎は打たれた︒しかしその完成には. まだ長い時間が必要だった︒中国史はあらたな勢力︑漢を登場させることによってその実現をめざすのである︒ 3 漢帝国. ﹁郡国制﹂から﹁郡県制﹂へ. 漢の時代は二つに分けられる︒瓦解した統一国家を再建し︑申央集権化をかぎりなくめざした前漢時代︵前二〇. 二−後五年︶と︑中央集権体制が地方勢力の台頭によって脅かされ︑地方分権化がかぎりなく進行した後漢時代. 218.
(18) 天. 早稲田商学第389号. ︵二五−二二〇年︶である︒農耕文明nとそれを支える市場の可能性は︑後漢よりも前漢の時代にずっと大きく拓 かれた︒前漢を申心に物語を進めよう︒. 漢王朝の創始者は︑秦に対する反乱に身を投じ︑王朝瓦解後の混乱をおさめた楚人︑劉邦である︒劉邦は︑前二. 〇二年諸王の推戴を受けるかたちで白患帝の位についた︒彼は開国の祖という意味で︑漢の高祖と呼ばれたが︑春. 秋・戦国・秦という︑中国の激動の時代がつくりだした独立小農民の出身であった︒彼の周囲に集まり︑彼ととも に戦った者の多くも︑やはり激動の時代をくぐってきた庶民層の出だった︒. その彼らが権力を握り︑新王朝を建設するときには︑始皇帝によってかたちを与えられた国家体制をモデルにし. た︒そして皇帝を唯一の支配者とする中央集権的専制君主体制を基本的に継承したのである︒しかし彼らの国家形. 成のやり方は︑秦とは違っていた︒それは︑彼らが秦王朝の苛烈な支配によって起きた農民反乱の渦中から身を興 した人々であつたからである︒. 漢はまず︑﹁郡国制﹂として出発した︒高祖はまだ劉邦を名乗づていた当時︑最大のライバル項羽を倒すために. 諾将に協力を求めた︒勝利のあかつきには︑諾王・諸侯として遇するという約束をして︒高祖はその約束をまも. り︑国土のほぼ三分の二をさいて︑諸将を諸王・諸侯に封じた︒高祖は直轄地では郡県制を実施した︒しかし封国. についてはそれが不可能だつた︒漢は郡県制と封国制を合わせた郡国制から出発し︑時問をかけながらこれを郡県 制に移行させる遣を選んだのである︒. 漢が改革をスタートさせたのは︑戦後の混乱がおさまってからだった︒それも一気に封国制を廃止するのではな. く︑まず王国・侯国の支配者を皇帝一族の近親者におきかえることからはじめようとした︒高祖は謀反を口実に諸 王・議侯をほろぼし︑そこに同族の劉氏を封じたのである︒. 217.
(19) 市場と文明の進化誌③ 一九. つぎに改革の手が打たれたのは︑四〇年ほどの歳月を経た景帝︵在位前一五七−一四一年︶の時代だった︒景帝. の役割は劉氏一族の諸王侯の廃止だったが︑一気にそのすべてを実行しようとはしなかった︒彼は反乱を起こした 同族王侯だけを討ちとり︑そこを漢帝国の地方組織にしたのである︒. 最後の仕上げは︑武帝︵在位前一四一−八七年︶の時代にもちこされた︒武帝は中央から派遣する官吏の数をふ. やしつつ︑残った同族の諸王や諸侯の勢力をそぎ︑すべての王国・侯国を郡・県からなる地方行政組織にかえてし. まう︒そして中央の政治機構こおける皇帝の専制支配体制︑地方行政に対する監察体制を強化して︑秦がめざして 果たせなかった︑皇帝を頂点とする専制的中央集権体制を完成させるのである︒. おだやかな統治体制. もちろん専制的中央集権体制は︑これだけで実現できたわけではない︒中央集権体制を安定させるには︑それを. 精神的に支える統治システムがなければならなかった︒漢はおだやかな仕組みを考えだした︒﹁法家的かつ儒教的 統治システム﹂がそれである︒. 漢は︑秦が創出した官僚制を継承しようとした︒このためにはとうぜんのことながら︑秦が採用した法治主義を. とりいれなければならない︒しかし高祖は︑法治主義だけでは国家の秩序が維持できないことを体験を通して知っ. ていた︒彼はそこに儒教の礼楽をもちこんだ︒これによって法術的政治のもつ苛烈さを和らげつつ︑法家的統治シ ステムと儒教的統治システムを融合させようとしたのである︒. 両者の融合はむずかしかった︒儒教の採用にあたっては︑他のさまざまな思想グループ︵諸子百家︶の反対が. あったからである︒漢は無理をしなかった︒他の思想が儒教を中心とした体系のなかに調和できるようになるま. 2ユ6.
(20) 二〇. 早稲田商学第389号. で︑時闘をかけたのである︒その情勢が整ったのも︑武帝の時代だった︒. 武帝は︑他の思想の長所を加えつつ︑儒教を国教に定めるのである︒そして儒教を学び︑その教養を身につけた. ものが政治を担当するという指導原理をつくりだし︑高祖が構想した法家的かつ儒教的統治システムを完成させる. のである︒政治のなかに倫理・宗教を融合させる統治システムによって︑皇帝を頂点とする専制的中央集権体制は. 安定した︒法家的・儒教的中央集権体制は︑その後二〇〇〇年にわたって中国歴代の王朝に受けつがれることにな る︒. 漢帝国はこのように時間をかけた︑おだやかな統治体制をとりながら農耕文明1の可能性を拓こうとするのであ. る︒秦の圧政︑それにつづく反乱・蜂起・戦争によって各地に流民や敗残兵があふれ︑農耕地は荒れるにまかされ. ていた︒漢は事業を興さず︑民に休息を与える﹁無為の政治﹂からスタートし︑時聞をかけて人々を統一国家に再 編成しようとした︒. きょう. 5. 漢王朝が成立したとき︑農民の多くはおよそ一〇〇戸ほどの農家からなる集落︑里を単位に︑あるいはその里を. 複数集めた上位の集落︑郷を単位に暮らしていた︒里や郷は︑周辺に広がる農耕地とのあいだを垣もしくは土壁で 囲みつつ︑その運営を農民たちの手で進める自治的な性格を強くもつ地域社会だった︒. 郷里社会はおそらく︑春秋戦国期にできあがったのだろう︒秦の登場とともにその申央集権国家のなかにはいっ. きょ・つり. たが︑帝国の崩壌とともにそこから解きはなたれていた︒漢王朝は郷里を単位に治水・灌瀧工事︑その保全作業を 進め︑農耕地の再生・拡大を大きくはかろうとした︒. おだやかな統治政策にもとづくこの事業は︑郷里杜会に生きた人々を引きつけずにはおかなかった︒多くの人々. が郷里単位で漢帝国の中央集権体制に参加し︑王朝がつくりだした公田の耕作者︑私田の保有者になっていくので. 2ユ5.
(21) ある︒. 市場の蒋生・発展. 漢国家の治水・灌瀧事業が︑農耕地の維持・拡大に果たした役割はたしかに大きかった︒しかしそれだけでは豊. かな大地の恵みはつくりだせない︒農耕の生産力をあげるためには︑最先端の鉄製農工具をはじめとするさまざま. な農耕手段の十分な確保が欠かせなかった︒それを可能にするのが政治都市市場づくりだった︒王朝は︑市場の再 生・発展に主導力を発揮した︒. 秦は申央集権国家を急造するために︑春秋・戦国時代に各地方で育まれてきた私的な商工業者の市場活動をきび. しく抑制し︑みずからの手で生産と流通を組織しようとした︒しかしそれは無理なことだった︒再分配システムは. 皇帝の意志を貫徹させるという意味では大きな力をもっていたが︑それだけで機能するほど︑国家の規模は小さく. はなかったのである︒それだけで成りたつほど︑この時代の産業・生活は単純ではなかった︒再分配を補完してき. た私的な商工業者の市場活動が失われることによって農耕の活力が減退し︑生産力が低下した︒そのことが苛酷な 取りたてを生み︑農民の窮乏・反乱を生んだのである︒. このことを身をもって体験していた漢の支配者は︑私的な商工業者による市場活動を復活させたのである︒もち. ろん彼らの活動を無制限に認めたわけではない︒取引の行なわれる場所は︑市場区域内に限定された︒取引にも国. 家の干渉が行なわれた︒そして市籍と呼ばれる登記簿に登録された商工業者の身分は︑農民を主とする一般人民よ. りも一段低い者︑あるいは罪人と等しい駿しい者とされた︒それでいて商工業者に対しては︑一般人よりも高い人 頭税が課せられたのである︒. 2ユ4. 市場と文明の進化誌③ 三.
(22) …. 早稲田商学第389号. 古代にあっては︑市場はあくまでも国家の再分配の補助システムであり︑私的な市場活動は国家の行政システム 6︺. と矛盾しない範囲内におさめられねばならなかった︒漢は市場を行政の管理下におきつつ︑その復活・発展をめざ したのである︒. たく. けい. かんたん. L. 克いよう. りんL. 漢は︑帝国の各地を一つに結びあわせる都市間市場のネットワークをつくりだそうとした︒その母体にしたの. ようてき. が︑燕地方の琢・範︑趨地方の郁郵︑魏地方の温・朝︑韓地方の榮陽︑斉地方の臨潜︑楚地方の宛・陳︑鄭地方の. 陽襲︑三川地方の洛陽・河南などの大都市の市場である︒いずれも戦国期に大きく成長した政治都市市場だった. が︑秦代にその活力を奪われていた︒漢はこれら都市市場の再生をはかりつつ︑それらを相互に緒びあわせようと したのである︒. 長安のマiケット. もちろん地方都市間市場のネットワークだけでは十分な統合力は期待できなかった︒帝国は︑そこに要石となる 中央市場︑首都市場を用意したのである︒. 里. とうし. せいし. から構成され︑その周囲は城. 漢は︑秦の首都だった威陽に近い長安︵現在の西安市の西北約一〇キロメートル︶に首都をおいた︒首都長安は. け. 一つの巨大な城を形成していた︒城中は宮殿と申央行政官庁︑住民が住む街区 壁で囲まれていた︒. り 巧 L. ちょくし. O申うし. こうもん. 帝国は︑この城壁の内外に九か所の官営市場区域−九市−をおいたと伝えられている︒九市のうち︑東市と西市. こうどうていL. ︵西北隅に東西にならんでおかれていた大市︶︑李里市は長安城内にあったが︑その他の市場−直市・柳市・交門 し. 市・交遣亭市・季児市・大学市・槻市−は︑長安城近郊の︑水陸の交通・運輸の要衝に設置されていたらしい︒. 213.
(23) すい. 市の内部には多 数 の ハ 路. 鯵. し. が走り︑それに面して無数の店舗−摩ーがならんだ︒韓は︑扱われる商品の種類. に応じて整然と列をなしてならべられていた︒おそらく璋の大半は︑都市周辺の農漁民が供給するもの︑それを素 L し 材にした日用品を都市やその近郊に暮らす住民に提供する小売商・手工業者の店舗であったのであろう︒市牽をも. 市楼・旗豪楼などと呼ばれた1が設けられ︑市令もしくは市長と名づけ. つ商工業者は市籍に登録され︑行政の管理下におかれていた︒. 市場内には︑市を監督するための官衛. へいか. し. そ. られた長官を筆頭に︑副官の市丞以下数名の官吏が駐在した︒彼ら市の役人たちは︑市場内の秩序と取引の公正さ. を維持したり︑平買と呼ばれる標準価格を定めたり︑あるいは市租と呼ぶ藺業税を徴収したりする職務を果たして いた︒. 支配者は市場活動を極力この市区域内に隈定し︑これをうまく管理することによって首都の住民・近郊農民の暮 らしを安定・発展させようとしたのであろう︒. 長安の市はまた︑各地方でとれ全国を流通する農林水産物・鉱物・工芸晶などの特産晶︑あるいは異民族と接す かんし る辺境におかれた市−関市ーからやってくる交易晶の卸売︵集荷・分散︶機能︑仲継ぎ機能を果たしていた︒この. 機能を担ったのは市籍に登録されない大商人で︑彼らは遠隔・異境の地でとれる商品を車輌・船舶を使い︑隊商を. 組織してここに運びこみ︑一部を都市に居住する支配者・高級官僚・富豪層が経営する作業場に︑一部を手工業. 者・小売業者に卸売りする機能を担当していたのであろう︒市は彼らの重要な根拠地を形成していた︒. 長安の市場は︑こうした首都の生活・産業を支えただけではなかった︒首都市場は︑ここに集中してくるさまざ. まな物産・技術・情報を都市間市場のネットワークを通じて各地に分散させる集散機能をも果たしていたのであ. る︒この役割を中心的に果たしていたのも︑市籍に登録されていない大商人たちだった︒もちろん彼らの行動は国. 2!2. 市場と文明の進化誌③ ….
(24) 二四. 早稲固商学第389号. 家の管理から自由ではなかった︒しかしかれらは王朝の市場政策の大きな枠のなかでかぎりなく自由を追求し︑ 地の大都市の交易商人と結びつきながら︑市場世界を再生・発展させたのである︒. 手工業の進展. 市場の再生・発展は︑手工業の発展と相互作用した︒漢代︑手工業には官営と民営の二種類があった︒. 官営手工業には中央官庁に所属するものと︑地方の郡県に付置されたものとがあり︑そこには鉄製農工具など民. 間で使用される製品をつくるような作業所もあったが︑その多くは交易品・武器などの国家の需要︑あるいは装飾 晶・高級織物などの宮廷の消費に向けられるものを製造していた様子である︒. 官営手工業の発展に欠かせなかったのが︑優れた原材料資原の確保だった︒統一国家に広がった市場のネット. ワiクは︑その供給を可能にしたことだろう︒これによって国家事業が進展すると同時に︑宮廷の威信が大きく高 められたはずである︒. 民間手工業のなかでとりわけ大きく発展したのが︑製鉄業だった︒農民に農工具を提供する私的製鉄産業は︑戦. 国時代に趨・山東・魏地方など華北東部を申心にはじめられた︒それが漢代にはいると︑蜀︵四川︶あるいは宛. 市場のネットワークと結びついた鉄の生産・流通は︑巨大な利益をつくりだしたのだろう︒﹃史記﹄﹁貨殖列伝﹂. 展させられた市場のネットワークを利用し︑みずからがつくった鉄器の流通者としても行動した様子である︒. 製鉄業者たちは︑鉄器の生産者としてのみとどまろうとはしなかった︒彼らは︑この時代国家によって再生・発. とのできない生産用具になっていったからであろう︒. 一南陽︶地方まで拡大されていくのである︒この時期には鉄製農工具は︑独立小農民の農耕経営に絶対に欠かすこ. 各. 2ユー.
(25) 市場と文明の進化誌③ 麦. によれば︑戦国期に登場した製鉄業者が︑この時代に大富豪に成長している︒. 民営の製塩業も発展した︒塩は消費財・産業財として欠かすことのできない製品である︒その製塩原料として︑. 中国では海塩・池塩・岩塩・井塩︵井戸を掘って地中の塩水を汲みあげて精製したもの︶の四種類が知られてい る︒. 海塩は山東半島北部・長江河口南部の海岸地帯︑池塩は山西省南部の塩水湖︑解池︑岩塩は西北砂漢地帯︑井塩. は四川省蜀地方で生産された︒いずれもその原産地は遠隔の地であったが︑漢帝国によって整備された市場のネッ トワークが塩の流通を加速させた︒. 製塩業者たちは各地の政治都市市場に進出し︑塩の流通システムを組織した︒農耕の発展は︑食品を多様化させ. ると同時に︑調理・加工・保存の技術を進展させた︒それと相互作用するように︑食塩の需要ものびたのだろう︒ ﹁貨殖列伝﹂には︑あらたに大成長をとげた製塩業者が登場してくる︒. 手工業の発展はもちろん製鉄・製塩だけのものではなかった︒この時代には︑酒・繊維・衣料をはじめとしてさ. まざまな民間手工業が興り︑それらが生みだした製品が︑市場のネットワークに乗って統一国家の各地に流通し た︒それによって人々の暮らしは大きく市場化したのである︒. 市場への傾斜. 農民たちは直接︑あるいは商人たちを介して市場に参加し︑みずからの農耕生産物を商品化すると同時に︑それ. を対価にして鉄製農工具をはじめ︑農耕に欠かせないさまざまな生活用具を手にいれた︒. 市場を介した農耕は︑人々にこれまでにない創意・工夫一自己責任を要求した︒それは新しい苦労をつくりだし. 2ユ0.
(26) 衰. 早稲田商学第389号. たことであろう︒それだけではない︒市場生活は︑きびしい結果をもつくりだした︒対等の関係にある当事者聞の. 取引をべースにする市場システムは︑たとえ行政によって管理されていようとも︑成功者と同時に︑かならず失敗. 者をつくりだしてしまうからである︒失敗者は︑失敗によって生じた負債を償わねばならない︒償いの方法は︑農. 耕地の処分以外になかった︒元手を失った農民を待っているのは没落だけだった︒豊かな生活をめざすことによつ て没落してしまう︒市場システムのもつ大きな矛盾である︒. 人々は︑その矛盾を知りつつも︑市場を介した農耕生活に傾斜していくのである︒共同体の互酬よりも︑あるい. は国家の再分配よりも︑自己の創意・工夫のほうが豊かな大地の恵みの配分を可能にすることに気づきはじめたか らである︒. 治水・灌概事業を推進したり︑それを支える宮僚体制を保持するためには巨額な費用がかかる︒帝国は農民たち. に︑田租︵収穫した穀物に対する租税︶︑賦︵家族構成員一人一人に課す人頭税︶︑および倦役︵カ役・兵役︶を要. 求したが︑この時代の市場に結びついた農耕生産は︑それを支払ってあまりある収穫を生みだしたはずである︒. そのことを聞接的に証明するのが︑租税の貨幣納システムである︒漢国家は賦一人頭税︶については貨幣納を要. 求した︑と記録は伝えている︒貨幣納がどこまで実現されていたのか不明である︒実施されたとしてもその範囲は. ゆ・つ昌よ・つ. L串. ごくわずかで︑貨幣納は原則に過ぎなかったのかもしれない︒しかしそうした原則が成りたつほどに︑貨幣は人々. さや. の暮らしに身近なものになっていたのだろう︒. この時代には︑民聞で鋳造された楡の爽大の小貨幣−楡爽銭ーからはじまって︑政府発行の貨幣が︑八鎌半両. 銭から四鎌銭︑・三鎌銭︑五鎌銭へとさまざまに変化しつつ大量に鋳造され︑流通した︒その結果︑漢代の物品の価 副 格︑さらには土地・家屋・率馬等の資産も貨幣価格で表示されるようになっね︒. 2⑪9.
(27) =七. 人々が農産物の一部を貨幣にかえていた︒この事実は︑申央集権国家の農耕生産がこれまでのどの農耕社会より. も豊かな大地の恵みを配分したこと︑そして人々がその余剰を貨幣によって蓄える余裕をもちはじめたことをわれ われに想像させるのである︒. 巨大な版図. 漢が政治都市市場を進化させつつ豊かな農耕生活を実現させたのは︑武帝の時代である︒武帝は︑その豊かな農 耕文明を背景に︑帝国最大の課題︑異民族問題の解決に総力をあげることになる︒. 異民族のなかでも最大の難題は︑旬奴だった︒秦の時代︑始皇帝に陰山の北方に追われた旬奴は︑その後勢力を. もりかえし︑興安嶺から天山山脈にいたる北方の広大な地域を支配下におく巨大遊牧国家を形成し︑長城を越えて むすめ. きさき. 中国への進出を繰りかえしていた︒建国直後の漢には︑強大な旬奴の侵入を武力でもって食いとめる力がなかっ. た︒漢は高祖以来︑旬奴と和議を結び︑皇族の女を単干の后としたり︑毎年絹織物・酒.食糧などを多量に貢納し かんし たり︑あるいは国境におかれた官設の交易場−関市ーで絹・馬の管理的交易を推進したりして︑旬奴の侵入を回避 しようとしてきた︒. 和親外交は︑絶対的な和平の保障とはならなかった︒漢の農耕社会が生みだすさまざまな産物は︑遊牧民族の侵. 入を引きおこさずにはおかなかったのである︒とりわけ絹織物がそうだった︒絹はこの時代︑ユーラシアを舞台に. 展開した遠隔地交易において高い価値をもっていたからである︒絹織物を求める旬奴の賂奪がつづいていた︒ えいせい 武帝はこれまでの和親外交を捨て︑漢軍を組織して旬奴に立ちむかつた︒前二一七年︑将軍衛青に率いられた漢 かく彗上へい. 軍はオルドス地方から旬奴を一掃し︑ここを漢の郡とすることに成功した︒そして前二二年︑震去病を将軍とす. 208. 市場と文明の進化誌③.
(28) 二八. 早稲田商学第389号. る漢軍は西部方面の旬奴を破り︑河西回廊地帯を漢の支配下においた︒さらに前:九年には︑衛青・霧去病両将. 軍に率いられた大遠征軍が二手に分かれて外蒙古まで追撃し︑旬奴をゴビ砂漢の北方に追いやった︒. 旬奴征伐に勝利をおさめたあと︑武帝はさらに南方︑東方の異民族の征圧に向かった︒前一二一年︑広東・広西. からヴェトナム北部までを支配下においた南越国︑四川南部から雲南・貴州にかけて勢力をもつ西南夷を平定し. て︑ここを中国の郡にした︒そして前一〇九年には陸と海から朝鮮半島を攻め︑翌年にはここをも漢の新郡に組織. してしまうのである︒こうして漢は︑秦をはるかにしのぐ巨大な版図をもつ農耕社会になるのである︒. 南海・西 域 交 易. この巨大な農耕社会を基盤にして︑帝国は異境との交易に大きく乗りだしていくのである︒ かんL その一つが南海交易である︒これまで中国南方の交易は︑国境に設置された関市によって西南夷・南越国経由で. 行なわれてきた︒漬帝による西南夷・商越国征圧は︑インド洋沿岸諸国との直接交流の機会をつくりだした︒. この交易の中心を占めたのは︑国家が商海諸国の支配者とのあいだで行なつた幣物交換︑すなわち一種の贈与交. 易であったが︑私的商人による密貿易もはなやかに繰りひろげられた︒申国は黄金と引きかえに︑珠玉・瑠璃など. を獲得した︒これによって一つの海の交易路が︑中国から南海︑そしてインド洋にのびた︒. いま一つは西域交易である︒西域とは︑狭義には中央アジアのタリム盆地周辺のオアシス国家群を︑広義にはそ とん㌔﹂う. L巾せん. ちさ﹁えき. ぷ. い. れよりもさらに西のペルシア・アラビアを含む地域をさす︒黄河からはそこに向かって一本の道筋がつけられてき. た︒河西回廊である︒漢はここに︑敦痩・酒泉・張液・武威の四郡を設置し︑それらを基地に西域交易に着手し た︒. 207.
(29) 市場と文明の進化誌③ 麦. この交易を特徴づけたのも︑皇帝が派遣した使節団︵大規模なものは数百人︑小規模なものでも百人からなる︶. による交易と︑当地の支配者とのあいだで行なわれた幣物交易であった︒もちろん隊商のなかには︑私的な交易に. 従事する民間の商人たちもまぎれこんでいた︒しかし西域交易では民間人の果たした役割はそれほど大きくなかっ た様子である︒. 西域交易の成果にあずかれたのは︑主として上層の支配階級だった︒したがって隊商が運んだ輸出品の多くは︑ ぶどう. ざくろ. もくL︸く. 当地の支配者が好んだ黄金と絹織物︑輸入品は︑玉・葡萄酒・アラビア馬・毛織物などの珍奇な産物だった︒音. 楽・曲芸と同時に︑珍しい植物ももたらされた︒中国における葡萄・柘榴・首稽︵ウマゴヤシ︶.クル・︑︑の栽培は このころにはじまるのである︒. 中国が輸出した交易品のなかで︑とりわけ支配者の好奇の目を集めたのは絹織物だった︒中国の絹織物は後述の. ローマ帝国にまで運ばれた︒武帝が組織した贈与交易が︑中国から中央アジア・西アジアを経由し︑ローマに通ず. る交易路に一つのかたちを与えたのである︒アジアと地申海を結ぶこの交易路は︑後世︑ここを通って運ばれた絹 織物にちなんで︑﹁シルク・ロード﹂と呼ばれることになる︒. 国家による市場への介入. 漢による農耕文明nの形成は︑武帝の時代がピークだった︒これ以降︑漢の農耕文明は下降線をたどっていく︒. それにはさまざまな要因がからんでいるが︑本稿の主題からいえば︑それは帝国による市場政策の失敗だった︒王. 朝は政治都市市場のコントロールに深いりしすぎて︑長い時問をかけて再生し︑発展させてきた市場システムをみ ずからの手で破壊し︑分断してしまうのである︒. 206.
(30) 205. 武帝の時代︑漢は北辺の宿敵飼奴を漢北に追いやり︑南辺ではヴェトナム北部から雲南にいたる広大な地域を支. 配した︒そして東は朝鮮︑西は甘粛・新彊を版図にいれた︒それは︑中国世界が形成したはじめての大帝国であっ. た︒しかしこれを維持するのは容易なことではなかった︒すでに物量作戦・人海戦術による外征によって国庫は底 をつき︑食糧庫は空になっていたからである︒. 武帝は財政を再建するために︑私的な商工業者の利益・資産に目をつけた︒この時代の市場の進化とともに︑商. 人や手工業者が急速に経済力をつけ︑王侯をしのぐほどの賛沢な生活を享受していたのである︒また商工業者はそ. の圧倒的な経済力で土地を支配し︑農民の暮らしを圧迫するまでの存在になっていた︒商工業者の資産を奪えば︑. 財政再建だけでなく︑彼らの勢力をそぐこともできる︒武帝は︑彼らに対する営業税・財産税を大幅に引きあげる と同時に︑不正な申告をした者を巌罰に処したうえ︑その全財産を没収した︒. 武帝はまた︑この時代にもっとも栄えた手工業︑鉄業・酒業・塩業を国の専売事業にし︑鉄・酒についてはその 生産・流通を︑塩についてはその販売を独占したのである︒. それだけではなかった︒武帝は私的な商工業者の利益の源泉︑市場に直接介入してしまうのである︒これまで︑. 中央政府は商人の手を借りて︑必要とする地方物産を購入してきた︒商人に地方市場における仕入れと首都への輸 暮ん 送を担当させ︑それに対して報酬を支払ってきたのである︒ところが政府はこの方式を廃止し︑各地方に官署−均. 輸官1を設置し︑それに物産の購入と首都への配送を担当させる方式−均輸法1を導入しはじめたのである︒. これを通して地方物産の大量購入・貯蔵・販売を指令したのである︒平準法は︑物価の調整機能として使われる分. 高くなったとき︑これを大量に販売する方式−平準法1を考えだした︒首都に平準官と呼ばれる官署を設置し︑. へいじ串ん. 武帝は市場への介入をさらに押しすすめた︒均輸官を増設し︑物価の安いときに大量の物産を購入させ︑物価が. ゆ. 三〇. 早稲田商学第389号.
(31) には問題はなかった︒ ところが政府はこれを商業機能として使い︑みずから営利活動に乗りだしてしまったのであ る︒. 統一国家の分断化. こうした政治都市市場への直接介入は︑一時的には大きな効果を発揮した︒武帝はまたたくまのうちに国家財政. の回復に成功した︒しかし長期的に見れば︑これは大きな失敗だった︒国家の支配によって︑市場をその根底にお. いて支えている重要な構成要素︑私的な商工業者たちが存在できなくなってしまったからである︒彼らによる創. 造・調整機能を失った市場は︑もはや首都を中心に全国各地を交流させる統合力をもたなくなった︒統一国家の分 断化が進み︑群雄割拠が進行するのである︒. 漢帝国の建設以来︑地方には豪族と呼ばれる有力な勢力が存在してきた︒漢代の土地制度は︑皇帝もしくは申央. 政府に所属する公田と︑一般庶民が所有する私田︵民田︶からなっていたが︑豪族はこの民田を大規模に所有・経. 営する大土地所有者であった︒彼らは漢が王朝を形成したとき︑その国家権力の傘下にはいってその政策に同調・. 協力しつつ︑灌概・開墾によって土地を拡張したり︑あるいは市場化に失敗して没落していく農民の私田を購入し たりして︑その勢力をのばしてきた︒. 国家による市場への介入以来︑新しいタイプの豪族も出現した︒かつて大商工業者だった者たちである︒彼らは. 私的な営利活動を禁じられたとき︑売りにだされた私田に投資して豪族となり︑大土地所有にもとづく荘園経営に あらたな活路を見いだしたのである︒. いずれの場合にも共通しているのは︑強い同族意識である︒彼らは豊かな経済力を背景に︑分財別居を重ねなが. 2脳. 市場と文明の進化誌③ ….
(32) 三二. 早稲田商学第389号. ら同族をふやし︑その強固な血縁のネットワークによって地方の支配勢力となった︒. 武帝の国家介入による市場の統合機能の低下は︑こうした豪族たちが地方においてさらに飛躍するチャンスを与. えた︒彼らは市場の地方化にともない︑地方市場のかなめになってその勢力を拡げた︒そして皇帝によって直接. に︑個別的に支配されていた独立小農民を︑みずからの支配のもとに再編成する運動を展開していくのである︒. 一方では中央集権国家に︑他方では地方豪族に支配された農民たちの暮らしは困窮化した︒武帝末年︑各地で窮 おうもう. 追した農民たちの反乱が起こりはじめ︑その大きな社会不安のなかで政権の転覆が起きた︒皇帝︵元帝︶の外戚. ︵皇后の一族︶︑王氏一族の出身︑王葬によるクーデター︵五年︶である︒王葬による政権の樹立とともに前漢時. 代はおわる︒漢はそれ以後︑後漢と呼ばれることになるが︑それは︑豪族が本格的に独立小農民に支配の手をのば していく時代となるのである︒. 地方分権化. 王葬政権は農民の反乱を収拾することはできなかった︒その反乱をおさめ︑中国をふたたび統一するのが︑漢の. 劉一族の血を引く地方豪族飽主︑劉秀である︒彼は地方豪族たちの絶大な支援を受けて︑後漢初代の皇帝︵光武 帝︶となった︒. 農民の反乱によって生まれた後漢王朝は︑民生の安定と農耕生産の復興につとめて国力を回復し︑やがて王葬時. 代に崩壊した周辺諸国に対する支配の修復に向かう︒ うがん せんぴ 西方では前漢時代の西域経営をとりもどし︑東方ではあらたに高句麗・夫余・鳥桓・鮮卑などの諸民族をしたが わのなこく え︑その威光は︑倭の名で知られた日本の地方的部族国家−倭奴国1にまでおよんだ︒. 203.
(33) 市場と文明の進化誌③. …. こうして後漢王朝はその初期には前漢をしのぐほどの勢いをもつのだが︑しかしその統合力は持続しなかった︒. 後漢は地方豪族の利害によって再興された王朝であり︑その後につづく政権も︑豪族出身の中央官吏がその利害に. よって政治を動かす豪族地主政権でありつづけたからである︒後漢の中央集権体制は衰微し︑地方分権化が進ん だ︒. 農民たちは一方では豪族による兼併の危機にさらされ︑また一方では豪族地主政権である政府から過重.苛敷な. 謙求を受け︑困窮しつづけた︒後漢の中期以降︑農民の豪族に対する︑あるいは国家権力に対する反乱ははげしさ こ・つきん をまし︑やがてそれは後漢王朝打倒を叫ぶ巨大な農民反乱−黄巾の乱−にいたる︒これによって後漢王朝は崩壊す. る︒二二〇年のことである︒これとともに後漢の光武帝から数えて一九六年︑前漢の高祖から数えると四二二年︑. 秦のあとを受けた漢帝国は歴史から消え︑申国世界は諸勢力がたがいにしのぎをけずる群雄割拠の時代︑そして周. 魏晋・南北朝. 辺異民族が自立運動を展開する自立化の時代︑魏晋・南北朝時代︵二二〇1五八九年︶にはいることになる︒ 4. 二つの時代・二つの地域. 魏晋・南北朝時代は︑中国世界が秦・漢の統一の時代からつぎの統一国家︑晴・唐の形成に向かう︑その途中に. 位置する分裂の時代である︒それは︑地方豪族たちが統一国家の支配下にあった独立小農民をみずからが経営する. 荘園に組みいれようとする地方豪族の時代であると同時に︑その豪族たちをときには打ちたおし︑ときにはその協. 力をとりつけて帝権を確立し︑彼らの支配下にある農民をとりもどし︑王朝を形成しようとする国家形成の時代で もあった︒. 202.
(34) 三四. 早稲田商学第389号. この時代は諸勢力が拮抗し︑できあがった王朝︵国家︶の規模はどれも小さく︑その寿命も短かった︒しかし小. 規模・短命な王朝がはげしく興亡するなかで︑江南が農耕文明地としての可能性を大きく拓いていくのである︒そ. の様子を描写するために︑時代を﹁魏晋﹂と﹁南北朝﹂に︑地域を華北と江南に分けて概観することにしよう︒. 後漢の崩壊とともに︑三つの王朝が南北に鼎立した︒華北に位置したのが魏︵二二〇1二六五年・首都洛陽︶︑. 江南の東西にそれぞれ国を立てたのが呉︵二二九−二八○年・首都建業︶・蜀︵二二一−二六三年・首都成都︶で ある︒. 三国鼎立は︑蜀が魏に併合されることによっておわる︒残る魏と呉を倒し︑あらたに王朝を樹立するのが︑北に. 勢力をはっていた西晋︵二六五−三ニハ年・首都洛陽︶である︒西晋は華北を中心にしつつ甫北を統一︑後漢以来 つづいた分裂を収 束 さ せ る の で あ る ︒. しかし西晋による統一は一時的なものだつた︒その支配の半ば︵三〇四年︶から︑華北で分裂がはじまった︒そ せんぴ. てい きょう けつ. れをつくりだしたのは︑すでに漢帝国の時代から︑任意にあるいは強制されて申国内地の漢民族の支配のもとに暮. らしをはじめていた五胡︵旬奴・鮮卑・氏・先・掲︶と総称される北方の非漢民族である︒. 彼らが西晋の支配下で抵抗と自立の運動をはじめ︑五つの国家を形成しはじめたのである︒これに加わるよう. に︑漢民族による小国家が一六できあがった︒この非漢族・漢族の六つの民族が前後して二二の国家を立てる﹁五 胡十六国﹂の時代︵三〇四−四三八年︶がはじまったのである︒. こうした国々の分立を内にかかえては︑統一王朝西晋の崩壊は時間の問題だった︒三一六年西晋は滅亡し︑その. 残党が東晋をつくる︒これとともに中国はふたたび南北に大きく分かれてしまう︒北は五胡十六国︑南は南遷した 東晋︵二二七−四二〇年・首都建業・建康︶の支配地になる︒. 201.
(35) 市場と文明の進化誌③ 麦. やがて華北では︑多数の王朝のひしめきあいのなかから分裂の時代をおわらせる勢力があらわれる︒かつて黒龍 たくぱつ追 どんこう 江省の北部︑厳江流域一帯で遊牧・狩猟・素朴な農耕を営み︑後漢末に華北に移りすんだ鮮卑諸族の一派︑拓敬部. が立てた王朝︑北魏︵後魏二二九八−五三四年・首都平城・洛陽︶である︒四三九年北魏は︑西晋滅亡以来二⁝ 年目に︑華北の動乱の時代をおわらせるのである︒. 一方江南では︑東晋にかわる王朝が出現する︒宋︵四二〇−四七九年・首都建康︶である︒このときに︑後漢以. 来南北に位置した多数の王朝がはげしくいり乱れた時代︑その代表的な二つの王朝の名で象徴される魏晋時代︵二. 二〇−四二三年︶がおわり︑あらたに南北が相互に対立しあう南北朝時代︵四二三−五八九年︶がはじまるのであ る︒. 北から南への人口移動. 南北朝の時代にはいっても︑政権の交替はやまなかった︒華北では北魏が東西に分裂︵五三四年︶︑東魏は北斉. を立て︵五五〇年︶︑西魏は北周になる︵五五七年︶︒江南では宋から斉︵四七九−五〇二年︶.梁一五〇二−五五 七年︶・陳︵五五七−五八九年︶と王朝が交替することになる︒. こうした無数の王朝が中国の南北に群立・興亡した時代に︑江南の開発が大きく進展する︒最大のきっかけは︑ 華北から江南への人口移動︑それによる新王朝の形成である︒. 人々の移動はすでに後漢末からはじまっていた︒巨大統一国家の衰退によつて︑関申・中原・関東と呼ばれる黄 量よ 河中・下流域に建設・繍修・管理されてきた治水・灌概システムが崩壊をはじめたからである︒渠のネットワーク. を失った農耕地はたちどころに荒廃した︒災害︑飢饅︑そして流亡が生じた︒流民はさまざまな道をたどった︒反. 200.
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