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満州鉄鋼業と日本の総力戦体制(1)

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(1)

満州鉄鋼業と日本の総力戦体制(1)

   価格問題についての覚え書

松 本

俊 郎

 1 はじめに

      t

 本稿では,日中戦争勃発以降の満州鉄鋼業について,鉄鋼価格の推移と価格制度の実態 を中心に検討する。こうした検討作業を行ってみたのは,戦時期の中国東北,植民地「満 州」(以下「」をとる)と日本本国との間に存在した相互規定的な経済関係を,植民地工 業化の側面から解明したいと考えたからである。満州鉄鋼業の開発の歩みは「円ブロック」

を「日満ブロック」から「心慮支ブロック」へと地域的に拡張し,さらにはその拡張を進め た「円ブロック」の崩壊を準備する過程であった。満州鉄鋼価格の推移には,この矛盾の 累積過程が集約的に表われていたが,本稿ではこの問題に焦点を当てて分析を進めること にする。

 当面の検討課題は以下の三点である。

①満州鉄鋼業の生産コストはどのように推移していたのカ・。労働力や原料の入手条件,

つまりは満州の植民地としての生産条件は,その変動に如何なる影響を与えていたのか。

②コストの推移に対して,満州鉄鋼企業,「満州国」,そして本国鉄鋼統制会は,如何 なる対応をとっていたのか。      ・  ③日満鉄鋼統制価格制度による価格の設定は,満州鉄鋼生産コストと如何なる関係の 下になされていたのか。そしてさらに,価格制度の運用は,小満問の経済関係をどのよう に方向づけたのか。

 こうした問題の設定は,これまでの研究史との関わりでは次のような意味を持っている。

(2)

 まず第一に,日満鉄鋼統制価格の問題は,これまでの満州鉄鋼業に関する研究の中では 分析が全く進められてこなかった。しかも,この問題は植民地鉄鋼業の資本畜積メカニズ ムを明らかにする上でかかすことのできない重要な検討対象である。1930年代の満州鉄鋼 業に関しては,近年,企業内資料の発堀と整理が進み,注目すべき研究成果が生まれつつ ある。本稿の取り扱う昭和製鋼所に関しては,「満州事変」を契機とする「中国系国内貯 蓄」の中国本部への逃避と,円系通貨「満州国幣」の外貨転換性の欠除,「円ブロック」内 の外貨不足,という三条件によって資金調達の限界性に対する枠組を設定し,同製三所の       (1)

資金調達計画を検討した大竹慎一氏の分析や,石川滋監修『日本・旧満州鉄鋼業資料解題        {2}

目録一水津利輔氏旧蔵資料一』に集約される同製鋼所関係資料についての整理と解題 が,大倉組本渓湖媒鉄公司に関しては,大倉財閥研究会の手による一連の「大倉財閥の研

 (3) . , ., . .

究」が発表されている。しかし,これらの研究では,価格問題に関しては,日中戦争以前 の1927・一・1936年の満州製鉄業奨励金(昭和製鋼所については37年3月まで)についての奈 倉文二,村上勝彦両氏の研究を除けば,資料内容に立入った分析は,ほとんどなされてこ

    (4)

なかった。       

 第二に,鉄鋼業に関する日出経済関係の分析は,「満州産業開発五ヶ年計画」全体に対す る従来のマクロ的な分析において軽視されがちであった,資金,物資,技術の流通をめぐ る日満問の経済連関の強化,並びにその連関の強化に伴う「円ブロック」の弱体化,とい う「円ブロック」の変化の過程に,ミクロの視点から新たな評価を加えることとなる。

 鉄鋼業開発を含めた「満州産業開発五ヶ年計画」については,すでに,「満州国」並びに 南満州鉄道関係の一次資料に依拠した石川滋,原朗,小林英夫氏等の研究が発表されてい

る。石川氏は五ヶ年計画の二つの目的,「「満州国」自体において自立的な国防国家体制を 確立する」という目的と,「日本軍:需工業体制への資源的寄与」をめざすという目的とが当 初は同時に追求されながら,「二つの目的の総和が満州経済の能力の限界を越え」た時に,

後者が前者に対して優先されていく過程,すなわち「当初計画」から「修正計画」への修 正過程を実証し,「資源的寄与」という第2の目的に照らして,特に,鉄鋼生産力の拡充実       (5)

績,対日銑鉄「送還高」が極めて低位に終っていた事実を先駆的に明らかにした。

 原氏は五ヶ年計画の立案過程と,1940年5月における「修正計画」の再修正(「満州独自 の重工業建設」と吟う計画目的一石川氏のいう第1の目的一の完全放棄)の事実を詳 細に実証し,合わせてその背景にあった国策会社,満州重工業,満鉄,満州炭磧各社の事

(3)

      ⑥ 業不振の実態と,満州重工業と主要統制機関との間に存在した対立の状況を明らかにした。

 小林氏は満州産業開発を中国本土や台湾,朝鮮において進められた植民地工業化と対比 させ,五ヶ年計画が二重三重の国家的な利潤保障を受けることによって,財閥資本と国家        (7)

資本との癒着という新たな植民地工業化の型を作り出していた事実を明らかにした。

 しかし,これら一連のマクロ的な視野からの研究は,いずれも計画目標と到達実績との 乖離,その原因としての資金,資材,労働力の不足が強調されるのに対応して,日本本国 と満州の間に存在した製品,資金,資材,技術の流通の過程については,検討が弱かった。

満州,華北間の経済関係についても,後に触れる「為替送金問題」にいたるまでの労働力 移動問題を除けば,分析は進んでいない。むしろ,原頭や小林氏,特に小林氏にあっては,

1930年代後半からの日本本国,植民地間の経済関係は,一様に,統制経済の当事者達の当 初の意図とは裏腹に,相互の靭帯が断ち切られ,分断的なものとなっていったという内容        {8)

で総括されている。

 日本本国から植民地への,あるいは諸植民地間の物資流通が,物資動員計画の計画目標 をはるかに下まわり,不円滑なものとなっていたこと(日本側からの輸出規制さえも行わ れた),そして裏づけ物資の乏しい植民地円系通貨が日本円との等価関係,「パー原則」を 次第に失っていったということについては,近年の植民地研究が,実証的に明らかにしつ   ⑨つある。その意味で「円ブロック」内の諸地域は相互の経済連関が極めて脆弱であったと       あ

いうことができよう。しかし,植民地から日本本国への戦略物資の輸出という視点で見る ならば,事態は違った側面をも持っていた。差しあたり,鉄鋼業に問題を限定すれば,日 脚間の資金,物資の流通は,太平洋戦争期の半ばにいたるまで拡大され,その拡大の中で 日本本国と植民地満州各々の統制経済の破綻が相互規定的に進行していた。日本本国への 原料供給を第一義的な目標としていた満州での他の鉱業,重工業の開発も,多くの場合,

同様の展開を遂げていたものと思われる。

 いうまでもなく,鉄鋼業の開発は,「満州産業開発五ヶ年計画」の中で最も中心的な課題 であった。従って,鉄鋼業をめぐって作られていた日野問の「有機的」な経済関係を検証 することは,五ヶ年計画,そして「円ブロックjの全体的な評価を行う際に踏まえられな       (10}

ければならない一つの分析作業であるということができよう。

(4)

2 満州鉄鋼原価の急騰と労働力問題

 (1) 日中戦争以前の満州鉄鋼価格

 日中戦争期になってからの満州鉄鋼生産原価は,まず阪神荷岸cif・価格において,後 には企業原価,工場原価においてさえ,日本本国鉄鋼企業の各価格に対して次第に高い値 を示すようになっていた。「今日日本内地に於ける国外よりの輸入富鉱を原料とする銑鉄と 比べて,満州国産の貧鉱に依りて生産する銑鉄の生産原価は遥かに低廉である。……之は 全く満州に於ては;其の鉱石の採掘原価,原料炭其の他の製鉄資材の低廉なると労働力の豊       (11)

重なると,労銀安に因るものである」として業界内でも認められていた,満州鉄鋼企業の 本国企業に対する価格競争上の優位性は,生産拡大を最大の追求課題としていた戦争経済 の展開の中で次第に失われていたのである。

 まず,日中戦争開始以前の鉄鋼原価の水準を簡単に見ておくことにしよう。第一表は満       (12)

州鉄鋼業の中心企業,昭和製鋼所における主要製品銑鉄と,その主な原料であるコークス,

焼結鉱の生産コストの推移を示したものである。見られる通り,昭和(鞍山製鉄所)b銑 鉄原価は,操業以来急速に引き下げられていた。確認しうる工937−39年度の銑鉄工場原価 内訳では,銑鉄原価中のコークス費,焼結鉱費の合計割合は,68.4〜77.3%にものぼって       (13)

いた。(数件費は2.8〜3.5%)従って,この銑鉄原価の低落を,第1表中のコークス原価,

焼結鉱原価の低落傾向,つまりは原料資源の利用技術の進展に結びつけて解釈しても,大 過はないものと思われる。昭和の銑鉄原価は,1920年代を通してのコークス原価の引き下 げと,20年代後半からの焼結鉱原価の引き下げによって,急激に押し下げられていたので

ある。

 鞍山製鉄所の原料入手条件は,操業当初は必ずしも恵まれていなかった。コークス製造 用の強粘結炭(原料炭)は,撫順の強粘結炭産出高が少なかったことから,大倉川本渓湖 蘇鉄公司からの買入れに頼らざるを得なかった。また,富山一帯の社内鉄鉱石は,埋蔵量 としては豊富であったものの,その大部分が含鉄分30%程度の極めて品質の悪いものだっ た。しかし,コークスに関しては,1919年から30年にかけてのコッパース式骸炭炉6基の 導入過程で,高価な強粘結本渓湖炭の使用割合を減らし,同じ満鉄傘下にあったことから 原価扱いで購入できた撫順の「弱粘結」炭の使用割合を増やすことが可能となった。本渓        {14)

湖炭の使用割合は操業当初の60%から20年代後半には20%に低下した。一方,鉄鉱石に関

(5)

第1表 銑鉄工場原価の推移

結  鉱

生 産

産 高

生 産

(年度) 1000

@ トン 指 数 トン@当円指 数1000

@ トン指 数 トン@団円指 数1000@ トン 指 数 トン

@当日指 数 1919 32 100 131 100 68 100 42 100

1920 76 237 91 70 101 147 35 84

1921 58 181 79 60 78 114 26 61

1922 67 210 70 53 74 108 19 45

1923 73 229 55 42 98 143 16 39

1924 96 299 58 44 134 196 16 38

1925 90 279 67 52 111 162 20 47

1926 165 514 51 39 206 301 17 40 114︐ 100 9 100

1927 203 633 35 27 231 337 10 23 232 204 7 78

1928 224 699 29 22 253 370 8 19 258 226 5 56

1929 210 655 32 25 267 390 9 22 252 221 5 56

1930 288 898 28 22 319 466 11 26 316 277 4 44

1931 269 839 24 19 310 453 9 22 386 339 4 44

1932 300 935 26 20 306 447 9 22 375 329 4 44

1933 312 971 28 21 307 449 10 24 348 305 6 67

1934 347 1,804 29 22

1935 472 1,475 25 19 553 81312(12) 29 501 439 5(6> 56

1936 492

1538 ︐

25 19 654 96211(12) 26 589 517 6(6) 67

1937 677

2156 ︐

33 25 832

1224 ︐

13(14) 31 718 630 7(7) 78 1938 713

2228 ︐

上36コ49 27R7 1,054

1550 ︐

18(21) 43 746 654 9(7) 100 1939 878 2,744 上55コ71 42T4 1,350 1,98528(36) 67 580 509 14(10) 156

194G 482

1506 ︐

70 53

資料1,1919一ユ933年度は,昭和製鋼所業務課『業務管理資料』ユ934年4月,1ページ。

  2.1934−1940年度の銑鉄生産実績,銑鉄原価は,昭和製鋼所「主要製品生産高並工場原価    趨勢表」(1941年?〉但し,40年度は上半期分。

3.1935−1939年度のコークス生産高は昭和製鋼所企画課計画係「骸炭工場作業状況」(1940 年6月),焼結鉱生産高は同上「焼結鉱原価一覧表」(1940年1月)

4.1935−1939年度のコークス原価,焼結鉱原価は,昭和製鋼所企画課計画係「銑鉄原価趨  勢一覧表」(1940年6月), (〉内は使用効率を考慮した銑鉄1トン当コスト。

(6)

しては,工926年の第一選鉱工場の営業運転の開始によって,貧鉱処理が採算ベースにのる          (15)

ものとして確立された。こうして,原料資源の利用技術が進展し,原料費と銑鉄原価の低 落が30年代半ばまで続いていたのである。

 しかし,こうした工場原価の推移を,構内諸掛,総務及利息支出を加えた企業原価の推 移に修正し,さらに日本までの海上運賃,日本側関税を加えた輸入価格の推移として確定 することは,資料の制約上難しい。加えて満州での銑鉄生産に関しては,日本本国での銑 鉄奨励金の交付と銑鉄関税の引き上げに対応して,関東庁から各企業に対して1927−36年 には満州銑鉄奨励金が,1932−36年には関税戻金が支給されていたから,実際の輸入原価 を確定することは,さらに困難である。

 満州銑鉄への二つの助成金交付額をふまえて,!932年時点の満州銑鉄輸入価格を国内銑 鉄生産費と比較した奈倉文二氏の研究に依れば,満銑輸入価格はトン当り25.42円ないし       (16)

29.42円で,国内生産費は,同じく31.53円であった。既に確認した通り,30年代に入って からの昭和の銑鉄工場原価は,36年にいたるまで一貫して低下していた。一方,銑鉄共同 販売株式会社(32年8月創立)によって設定された国内製鉄業者銑鉄販売価格は,32−36年に       (i7)

28.30円から48.25円へと急速に引き上げられていた。こうした販売価格の引き上げは,準 戦時体制に入ってからの需要の拡大によって促されていたとはいえ,銑鉄共販が消費価格 の安定を一つの営業目的としていたことからすれば,恐らくは,供給側の一方的な販売価       {18)

格のつり上げではなく,国内銑鉄生産原樋の上昇を強く反映していたものと思われる。従 って,32年の時点では作られていた満銑輸入価格が国内銑鉄原価を下まわるという関係は,

昭和の製造銑鉄に関する限り,日中戦争開始時期まで続いていたものと思われる。

  (2) 日中戦争以後の満州鉄鋼価格と労働力問題

 日中戦争期以隆の昭和の鉄鋼生産原価は,急速に上昇した。ここではまず労働力問題か らその背景を検討してみよう。

〔華北出稼労働者〕

 「満州国」の労働力問題を特色づけていたのは,何といっても華北からの出稼労働者の        (19)

存在であった。この華北出稼労働者の問題については,近年,研究が進みつつあるが,個 別企業の経営にとって彼らの存在がどのような意味を持っていたのかという点については,

これまでほとんど明らかにされてこなかった。

 まず,「満州国」レベルでの出稼者の動向を確認しておこう。第2表は「満州国」への出

(7)

第2表 華北出稼者数増減表 (1000人)

入山数 離脚数 留満数 入満数 離満数 留満数

1925 479 193 286 1934 627 400 227

1926 647 272 375 1935 441 420 21

1927 1,044 281 763 1936 360 383 △23

1928 967 343 624 1937 323 259 64

1929 942 541 401 1938 492 253 239

1930 673 440 233 1939 986 39ユ 595

ユ931 4ユ7 404 13 1940

1319 1

847 472

1932 373 449 △76 1941 918 688 230

1933 569 448 121 1942

1004 ︐

583 421 コ口1 満州鉱エ技術員協会『康徳11年・昭和19年版満州鉱   工年鑑』70ページ。

  2 「為替送金問題」の影響は,40年1−6月の入満者    が多かったことから,この表には明瞭に出ていない。

   ちなみに1−6月の入満数は,995千人であった。

  3 留満数は入目数から離函数を差し引いたものである。

地者の増減を示している。1930年代の前半には入満数の減少に影響されて留胴親が減少し,

38−42年の五ヶ年計画の展開過程には,いわゆる「為替送金問題」が顕在化した40年後半 の一時期を除いて,毎年50万人から100万人の入曽者,20万人から60万人の留満者が存在し た。春季に入満し,同じ年の冬季には離満する出稼期間6ヶ月未満の出稼者が,鉱工業の        (20)

場合,6−7割にもなっていたから,入満者の絶対的な多さは,離満者の多い年において も,従って留二者がそれほど多くない年においても,それ自体重要な意味を持っていたと いえる。満州労工協会の調査に依れば,出稼労働者が満州内労働力構成に占めていた割合 は,出稼の最盛期である3−12月期には,1940年においてさえ,鉱業62.4%,製造業63.3

%,土椎築業75.2%,交通二業58.1%,総数64.2%と極めて高いものであ。認  こうした出稼者数の動向とその背景については,33−37年の関東軍による治安対策とし

ての入満制限,38一・40年の五ヶ年計画実施に伴う積極的な入満受け入れ,増大した出稼者 の送金・持ち帰り金による「満州国」国際収支の圧追→40年6月の「満州国」による送金・

持ち帰り金制限による入満労働者の激減,離満労働者の急増,労働力不足の深刻化(「為替 送金問題」),41年1月の「為替制限」の緩和,といった複雑な事実経過が,治安問題と労       (22}

働力問題,そして「満州国」国際収支問題の各側面から明らかにされている。

(8)

 昭和製鋼所における華北出稼労働者の採用動向も,大筋ではこの「満州国」レベルでの 動きに対応していた。第3表は,第1次5ヶ年計画(その中の「当初計画」分)に対応す る昭和の第3期,第4期増産計画の実施過程,1937−40年度の昭和の「国籍」別労働者採 用実績を示したものである。昭和の採用数は,全体として3・4期計画の展開につれて急 速に増大した。各年度末の社員数は,36年度26,702人から,37年度43,061人,38年度69,005 人,39年度72,327人と膨張し,その増加率は,36−37年度で1.61倍,37−38年度1.60倍,

38−39年度1.05倍(36−39年度2.71倍)とかなり大きかった。そして,昭和の場合も,こ うした労働力の急速な拡大は,華北出稼者の採用によって,初めて可能となつでいた。

 日中戦争期以降の華北出稼者の採用は,大まかにいって,企業による直:接募集と,業界 内での自主的統制募集,公的機関による統制募集という3つの方法によってなされていた

(23)

が,昭和は第ユの方法,すなわち最も積極的な方法で,華北労働者の採用に乗り出してい たのである。

 昭和は天津に募集事務所を設け,1938年度から,まず工場関係で採用を開始した。(1,207 人,第3表参照)39年度には華北出稼者の採用は,採用計画の中にも積極的に位置づけら れ,同年度の採用実績は,工場,鉱山あわせて14,504人と急増した。中国人採用者の中に       (Z4j 占める出稼者の割合は,37年度0%から1938年度2.0%,1939年度21.3%へと増加した。

 1940年度の「為替送金問題」は,昭和の労働力問題にも深刻な影響を与えた。昭和は1940 年度の中国人採用予定者65,970人のうち,20,360人(30.9%)を華北から得ようとしてい たが,同問題の影響によって,実績は4,815人にとどまった。これに対応して昭和は満州内 での募集に力を入れ,同方面からの採用に関しては,採用予定者42,640人に対して実績が 44,873人と,達成率105.2%という好成績を残した。しかし,全体としてみれば,昭和の中 国人社員数は,華北からの新規採用者数の大幅減少が響いて,39年度末から40年度末にか けて,9,402人もの落ち込みを見せた。ただ,「満州国」のレベルでは「為替送金問題」が,

入満者の激減と離三者の急増という2つの結果を引き起こし,それらが相乗的に働いて労 働力不足を生み出していたのに対して,昭和の場合は,同問題の影響は,新規採用の大幅 減少(入満者の減少)という方向から主として起っていた。39年度,40年度の解雇率を比 較してみると,工場関係では,後者が前者に対して上まわっていたものの,鉱山関係〜そ して全体では,40年度,すなわち「為替送金問題」の当該年度の方が,低い値を示していた。

(第4表参照〉昭和のような重点企業に関しては,40年度に,労働者引きとめに関する特

(9)

第3表 昭和製鋼所労働者採用実績表

採        傭 前年度

鱒l員

@(人)

予   定 実  績

予定対 タ 績 艨@率

@(%)

本年度 鱒l員 華北人「満州国 @(人)

熨エ他 計(人)華北人「満州国熨エ他 計(人)

解 傭

@(人〉

差引増減

@ (人)

日本人 事務関係 Z術関係

@計

 919 R,900 S,819

一一㎝ 一㎜一 ︸一一  一︸い  766 Q,408 R,174

 766 Q,408 R,「174

122 T68 U90

1,563 T,740 Vβ03

 644 P,840 Q,484

一九三七年度

中国人 工場関係

z山関係

@計

12,216 X,667 Q1,883

一一一 一一一 一一一 一﹃一 15,186

P5,530 R0,716

15,186 P5,530 R0,716

8,288 W,553 P6β41

19,114

P6644 ,

R5,,758

6β98 U,977 P3,875

合  計 26,702 33,890 33,890 ユ7,53143,061 16,359

日本人 事務関係 Z術関係

@計

1,563 T,740 V,303

一一一 一︸一 一一一 1,762

T,918 V,680

1,762 T,918 V,680

 467 R,942 S,409

2,858 V,716 P0,574

工295 P1976 R,271

一九三八年度

中国人 工場関係

z山関係

@計

19,114 P6,644 R5,758

︸一︸ 一 一 一︸一 1,207

@ 

P207︐

21,695 R8,030 T9,725

22,902 R81030 U0,932

13,651 Q4,608 R8,259

28β65 R0,066 T8,431

9,251 P3,422 Q2,673 合  計 43,061 1,20767,405 68,612 42,66869005 , 25,944

日本入 事務関係 Z術関係

@計

2,858 V,716 P0,574

一一一  960

S,460

T420︐

 960 S,460 T,420

一一一 1,253

Q,315

R568

1,253 Q,315 R,568

ユ30 T2 U6

 425 P,298 P,723

3,686 W,733 P2,419

 828 P,017 Pβ45

一九三九年度

中国人 工場関係

z山関係

@計

28,315 R0,066 T8,431

19100 ,

Q,500 Q1,600

13,100 T1,600 U4,700

32,200 T4,100 W6,300

13,054 P,450

P4504 ,

9,438 S0,678 T0,116

22,492 S2,128 U4,620

70 V8 V5

17,607 S5,536 U3,143

33,250 Q6,658 T9,908

 4,885

「3,408

@1,477 合  計 69,005 21,600 70,120 91,720 14,504 53,684 68,188 7464,866 72,327 3β22

日本人 事務関係 Z術関係

@計

3,686 W,733 P2,419

一︸一  770

Q,200 Q,970

 770 Q,200 Q,970

一一一  416

@875

P,291

 416

@875

P,291 54 S0 S3

 501 P,347 P,888

3,601 W,221 P1,822

△   85

「  512

「  597

一九四〇年度

中国人 工場関係

z山関係

@計

33,250 Q6,658 T91908

18,360 Q,000 Q0,360

3,260 R9,380 S2,640

21,620 S1β80 U3,000

4,057

@758

S,815 8,971 R5,902

S4873 ,

13,028 R6,660 S9,688

60 W9 V9

19,115 R9β78 T4,49351,103

27,163 Q3,940

△6,087

「2,718

「8,805 合  計 72,327 20,360 45,610 65,970 4,815 46,164 50,979 77 60,38162,925△9,402 註 ユ.昭和製鋼所計画部企画課「従業員採解傭状況調」 (1941年5月15日)による。

  2.本表には非役教習工を含む。日本人技術関係には作業員を含む。

  3.「採傭予定ニハ解傭ヲ見込メリ」との書き込み有。

(10)

工場関係 鉱山関係 全  体 1939年度

P940年度

57.2 U3.3

160.6 P55.7

106.7 X8.2

第4表 中国人解雇唯識

       註 1.第3表より作成

       2.各年度末解雇率は,各年度の解雇者数を各       年度始人員,年度末人員の平均で除したもの       である。別の機会に「移動率」として提示し       た筆者の計算は解雇者数を各年度始人員で割       つたものであったが,今回より一般的な用法    に従って再計算した。 (拙稿資料解題「労働力・労働問題」石川滋編『日本・旧満州国鉄鋼   業資料解題目録』下,1980年2月,一橋大学経済研究所・日本経済統計文献センター,152−

  153ページ。)

    この結果,今回の計算では39年度解雇率に対する40年度のそれが前回よりも相対的に大き    くなり,工場関係については,40年度の解雇率は依然絶対的にも大きくなった。 (40年度末    人員の「少なさ」に影響されるため。)しかし,全体数としてみれば,40年度の解雇率は依然   39年度のそれよりも小さく,昭和の40年度の労働者数の減少は,新規採用面から起っていた    と評価することができる。

別な手だてがとられていた可能性もあるといえる。

 とはいえ,「為替送金問題」と労働力不足との直接的な対応関係は,41年に入ってから,

表面的には解消した。40年11月と41年4月の2度にわたる「満州国」の為替管理法改正に       (25)

よって,送金・持ち帰り金の制限が事実上撤廃され,太平洋戦争期になってからは,再び 労働者の移動が「活発化」したからである。第5表は,昭和の各期営業報告書に記述され ている社員数を掲示したものである。この表は先にあげた第3表と数値が一致せず,また,

中国人社員中の華北出稼者の割合も不明である。しかし,この表によって昭和製鋼所の中 国人社員数が,「為替送金問題」の影響を受けて一時的に減少した後,41年度に入ってか ら,再び増加していた事実を確認することができる。「満州国」レベルでの出稼者数の推移 を示した先の第2表によっても,こうした傾向は裏づけられる。華北からの労働力の確保 と「満州国」貿易外収支の改善という相反する2っの課題は,両者の間でいうならば,前 者が後者に優先され,収支の改善は労働力の確保を前提にして,別の角度から追求される

      (26) 

こととなったのである。従来の研究は,概ねこの41年以後の労働者の採用実態については 触れておらず, 「為替送金問題」の影響を実質的に過大評価しているように思われる。

 ところで,こうして確保された中国人労働力も,5ヶ年計画の本来の目標に対してはは るかに不足していた。採用予定数の判明する39,40年度の実績を,第3表をもとに算出し てみると,それは39年度74.9%(64,620人/86,300人)40年度78.9%(49,688人/63,000 人目という水準にとどまっていた。既に見た通り,41−42年度の社員数は,再び増えてい たが,その絶対数は,40年度の落ち込み以前に較べれば数%の増加に過ぎなかった。41−

42年度は第3・4期計画の完成予定年度であったが,銑鉄生産高をとってみれば,約2.4倍

(11)

第5表  日召禾[1製金岡戸斤社員ifstffEネ多

日本人 Q事職員 日本人

?E員

?@ 員日本入 嘱 託 E  員中国人 中国人

?E員

ル  員中国人

1934,3.31 202 169 577 8 1,049 2,004

1935、3.31 315 154

1349 ︐ 1106 ︐ 2924 ︐

1936,3.31 369 180 2,019 3

1183 ︐ 3754 ︐

1937,3.31 410 222 2,791 4

1342 ︐

4,770 1938,3.31 583 303

4139 ︐

4 7

1757 ︐  6793   ︐7

1938,10.1 788 447

6073 ︐

3 24

2490 ︐

9,815

1939,3.31 10494  , 58524  , 69018  ,

1939,9丁目 11510  , 56560  1 68,070

1940,3,31・ 12,140 53,882 66022  ,

1940,9.30 10,902 40596  , 51,948

1941,3.31 10,782 44β20 55102  ,

1941,9.30 12537  , 52333  , 64,870

1942,3.31 12,808 60037  , 72,845

言下  ユ  各,憂目営業藩…告書にf衣る。

  2 1938年度下期の社員数の急増は,同期より見習い,訓練生が含まれたところに原因があ    ると思われる。

  3 第3表の数値が本表数値よりも若干大きいのは,前者に社員外の請負,日雇人員が含ま   れているからである。

の増産を目標としていた両計画の必要数に対して,こうした労働力の増加状況が著しく立 ち遅れていたことは明瞭であろう。昭和の営業報告書は,40年度下半期より,その事業概 況説明分の中で,終始,増産計画の最大の隆路として,労働力の不足を指摘することとな

った。

〔労働能率と労賃コスト〕

 低賃金の中国人労働者は,一般に植民地企業の高利潤の源泉とみなされてきた。第6表 にみられるように,昭和の場合も中国人労働者の賃金は,日本人労働者のそれと比べると かなり低めに抑えられていた。職種の違いをふまえずに,単純な絶対額の比較を行うこと は適当でないが,中国人採鉱夫,中国人出来高工,中国人日雇工の日当が,日本入雇員の1

−2割に過ぎなかったこと,同じ雇員でみても,中国入の日当が,日本人のそれの24−33

(12)

      デ

第6表 平均日収からみた民族別・職種別賃金表 (円)

年  (度?) 1935 1936 1937 1938 1939

中国人

準職員 一 !.72 L86 L93 1.98

雇  員 .8β .88 1.13 1.22 1.24

傭  員 1.25

常  雇 ,64 ,66 ,78 .91 1.03

常  雇(採鉱) ,78 .63 ,64 .90 .99

請  負 .59 .58 .61 .73 .90

日  役 .54 .49 .53・ .60 .73

出来高工 ,66 .74 .96 1.18 工.31

日雇工 .41 .42 .53 .63 .78

日本入

雇  員 3.64 3.61 3.81 3.68 4.10

雇員補 2.30 2.48 2.23 2.53 2.71

     註 1.昭和製鋼所「満支人生計参考資料j (n.d,)による。

%に留まっていたことは,注目をひく。元昭和製鋼所企画課長水津利輔氏の記憶によれば,

       (27)

中国入賃金は日本人賃金の3分の1に設定することが1つの目安となっていたという。

 しかし,昭和製鋼所の労賃コストは,トン当りコストの視点からみると,必ずしも低く はなかった。第7表は昭和の労働力不足が次第に深刻化していた1939年度下期の銑鉄原価 内訳を,日本製鉄のそれと対比したものである。この資料は,その保存状況からみて,満 州鉄鋼統制価格の改訂に関する「満州国J・昭和間の討議資料として昭和製鋼所が作成した ものと思われる。従って,昭和,日鉄蹄の会計基準の違いに関しても,経理の専門家によ ってある程度の配慮が加えられていると思われ,ここでこの表に基づいて両社の原価内訳       (28)

を検討してみることも,意味があるものと考えられる。

 みられる通り,1939年暮から40年春にかけての昭和製鋼所のトン当り入件費は,1.42円 ないし1.62円で,日本製鉄のそれは1.26円ないし1,17円であった。新鋭設備の多かった昭 和では,トン当りの原価償却費も日鉄のそれに比べて高い数値を示していた。一一方,工場 原価は昭和のそれが54.00円ないし65.25円,日鉄のそれが75.38円ないし86.56円と,この 段階では昭和の方がはるかに低く,阪神沖着価格として示された総計欄においても,昭和

と日鉄の価格水準は,ほぼ同じものとなっていた。

(13)

第7表 1940年度日満銑鉄原価内訳表

昭 和 製 鋼 所 日 本 製  鉄 1940年1月案 1940年4月案 1939年12月案 1940年12月一 原料費

鉄 鉱 石 15.63 16.63

スケール其他 0.87 0.87 ? ?

骸    炭 31.20 39.20

? ?

石灰石類

2.44 2.44

マンガン等 0.44 0.44

50.58 59.58 64.98 6936

労力費 1.42 1.62 1.26 1.17

直接経費

6.09 8.14  嘱W.67 10.08

償 却 費 4.40 4.40 6.58 9.55

諸口収入

△ 8.49 △ 8.49 △  6.11 △ 3.60

工場原価

54.00 62.25 75.38 86.56

営業費

総 体 費 9.65 9.65 2.33 3.81

税   傘 2.56 2.56 3.21 0.76

構内運賃諸掛 0.60 0.60

12.81 12.81 5.54 4.57

利益金

特別償却費 7.01

諸積立金

5.23 5.23 1.81 }・・5・

配 当 金 7.35 7.35 4.84

12.58 12.58 13.66 6.50

運賃諸掛

12.41 45.03 9.00 6.58

石炭値上追加 9.25

総 計 101.05 105.67 103.58 ユ04.21

註 1.昭和製鋼所「昭和15年度銑鉄原価比較表」(1940年4月4日)による。

  2.総体費9.65円の内訳は事業費3.74円,利息3.17円,事度諸費1.83円,研   究費0.91円。

  3.運賃諸掛15.03円の内訳については,本文註(45)参照。40年1月案の同   12.41円については,「見積過少」の書き込み有り。

(14)

 工場原価の差額は,主 に原料費の違いによって生まれていた。原料賦存地に近いという 昭和の立地条件が,既に触れた資源利用に関する技術開発の進展と結びついて,このよう なコスト・ダウンをもたらしていたと評価することができよう。

 しかし,問題の昭和の労賃コストは,工場原価が日鉄よりも低い中で,工場原価中の割 合としてはもちろんのこと,絶対額としても日鉄のそれよりも高い永準にあった。同種の 比較資料を入手していないので,こうした労賃コストの割高な状態が,39年度下期前後に どれ程の期間にわたって続いていたかを確認することはできない。しかし,昭和の労働力 不足が40年代,太平洋戦争期に入って一層深刻化していたことからみて,39年度下期以後 についてはそうした状態が続いていたものと思われる。

 一一一一見意外にも思われる労働力をめぐってのこうした植民地側の経営上の不利は,恐らく は労働能率の低さという問題に関係があるものと思われる。第8表は昭和の作業員の労働 日,実働日,欠勤率の推移を示したものである。中国人出来高工,中国人鉱夫の労働日,

実働日は,全て38年度の日本人作業員のそれを基準(100)として指数化してある。見られる 通り,出来高工,鉱夫は会社側の決める月当り労働日が日本人作業員のそれに対して2−

3割方多く,定休日の設定すらが疑問視されるが,欠勤率が30−40%と極めて高く,実働 日としては,結局,日本人のそれの70−90%にとどまっていた。中国人作業員の場合は38

−39年度には,日本人作業員とほぼ同じ日数で労働日が設けられ,欠勤率も比較的低かった が,それでもその欠勤率は38年度14.4%,39年度17.4%と月本人作業員の8,2%,9.6%に 比べれば7−8割方高かった。また,40年度に入ってからは労働力不足に対応して労働日 が出来高工,鉱夫並に延長されたが,欠勤率が22−27%に高まり,結局,実働日は日本人 のそれに比較すると6%程低くなっていた。(112/119)

 恐らくは,一労働日当りの労働量をとってみても,日本人と中国人の間にはかなりの格 差があったと思われるが,この点は今後さらに確めたい。

 同様の問題は,解雇率からも推察される。,昭和の解雇率は,先の第5表に見た如く極め て高かった。もちろん季節労働者という性格の強い華北出稼者の存在を考慮すると,第5 表の解雇率を数値通りに解釈することには問題が残るが,昭和の場合,華北出稼者の採用が        {29)

鉱山関係よりは工場関係に圧倒的に多かったことからみて,鉱山関係の解雇率の高さは,

鉱山労働における過酷な労働条件を反映したものと思われる。そして,こうした労働者の 極端に流動的な状態は,労働能率の低さとも強い相関関係にあったものと思われる。

(15)

第8表 作業員欠勤率表

日本人作業員 中国人作業員 中国入出来高工 鉱   夫

労働日 実働日 欠勤率i%) 労働日 実働日 欠勤率i%〉 労働日 実働日 欠勤率i%) 労働日 実働日 欠勤率

i%〉

1938年度

@ 39 S・(10月まで)

100 P03 P19

100 P01 P19

8.2 X.6 H

100 P04 P33

93 V2 P12

14.4 P7.4 Q3.6

118 P24 P29

87 W7 W0

33.7 R5.2 S2.5

135 P29 P25

93 W6 W7

36.5 R9.0 R9.1

39.4

@   5

@   6

@   7

@   8

@   9

R9.10

@   11

@   12

S0.1

@   2

@   3

S0.4

@   5

@   6

@   7

@   8

@   9

S0.10 104 P08 P06 P12 P13 P10

P13 P04 P08 P06 X7 P44

?P8 P16 P17 P22 P20 P17

P18 106 P10 P07 P10 P09 P06

P09 P03 P06 P03 V5 P00

P19 Pユ6 P18 P21 P20 P16

P18 6.2 V.1

V.4 P0.1 P0.8 P1.5

PL1

X.4 X.8 P0.7 P0.1 P0.7

V.4 W.1

V.7 V.2

W2

W.1

W.3 99 P07 P06 P10 P09 P05

P08  ,

P07 P16 P10 P05 P14

P25 P30 P23 P37 P37 P37

P36 93 X9 X6 X4 X0 V9

W7 W7 P01 P00 V9 X8

P08 P11 P04 P13 P09 P10

Pユ0 13.4 P5.0 P6.4 Q0.7 Q4.5 R0.5

Q5.8 Q5.0 P9.4 P5.6 R0.0 Q0.2

Q5.5 Q1.5 Q2.1 Q4.4 Q6.5 Q4.5

Q5.9 121 P30 P20 P24 P24 P22

P24

?Q2 P36 P38 P33 P43

P34

?R9 P22 P34 P39 P23

P22 94 X3 W7 V9 V9 W1

W5 X3 P12 P04 V5

?O0

W9 W5 V8 V6 V4 V9

W7 28.5

R42

R6.5 S1.7

SLO

R9.4

R6.5 R0.0 Q4.4 R0.6 S6.3 R5.5

R8.8 S3.9 S1.7 S7.8 T1.0 S0.5

R4.3 119 P26

P2ユ

P29 P47 P38

P32 P31 P51 P59 P32 I35

P26 P26 P18 P18 P84 P12

P19 79 W2 V7 W6 P01 W6

W2 V1 P14 P12 V5 W9

W1 W3 V8 V7 P21 V5

W3 38.7 S0.9

S1β

R9.7 R6.8 S2.1

S2.6 R5.7 R0.7 R5.1 S6.0 R9.3

S0.8 R9.4 R9.1 R9.6 R9.4 R8.0

R5.9

註 1 〔昭和製鋼所〕「作業員異動状況調」〔1941年〕,同上「作業員欠勤状態趨勢表」(194ユ年    3月15日〉より算出。

  2.40年8月の鉱夫労働日の異常な高さは,原表の誤記に基づくものと思われる。

(16)

〔強制労働の採用〕

 労働力の不足に直面した昭和製鋼所は,戦争補虜への「職業訓練」と強制労働の採用を 行っていた。

 1940年5月,日本軍は済南市外干山に済南救国訓練所を設け,八路軍,国民党政府軍の 補虜に対する思想工作を組織的に開始した。ついで41年8月,石家荘に本格的な石門俘虜 訓練所が作られた。同訓練所は敷地面積5万6千坪,収容入員2干名弱の規模を持ち,俘虜,

帰順兵に対する「職業訓練」と国策会社への「訓練生」の供給を目的としていた。確認し うる41年8月から42年12月の間だけでも累計12,477名が収容され,11,094名が訓練終了者 として重点企業に配置された。昭和に関連する企業としては,昭和自身に300名,撫順炭鉱       (30)

に2,600名,満州炭鉱に2,200名,本渓湖煤鉄公司に2,300名が配属されていた。また,満州 国経済部「満州鉄鋼価格改訂要綱大要説明書」の中には,1941年度下期からの「未熟練強

     

制募集者の増加」(傍点引用者)という記述を見ることができる。上記の戦争補虜とは別

 (31) .

に,「強制募集者」といわれる労働力群が41年下期以前から存在し,太平洋戦争期になって から,さらにそれが増えていたことが,ここに伺える。しかし,この問題について残され ている資料は少なく,関係者の証言は得にくい。

 ところで,1930年代後半からの昭和の銑鉄原価の高騰要因としては,労賃コストの上昇 は相対的には小さなものであった。労賃そのものは名目上ぽ急速に上昇していたが,その 上昇率は「満州国jの物価趨勢に照らしてみれば平均的ともいえるものであり,実質賃金       (32)

はむしろ若干下がり気味であった。差しあたり為替レートの変動による競争条件の変化を 考慮しなければ,労賃上昇は日本本国製品との価格競争上の不利な要因にはなっていたも のの,それは昭和の価格上昇の主たる原因ではなかったといえるのである。そこで次に価 格高騰の主因であった原料費の問題に焦点を移すことにする。

3 」満州鉄鋼原価の急騰と原料問題

 既に確認した通り,昭和の銑鉄原価を低廉にしていた最大の条件は,廉価な原料炭,鉄 鉱石の存在と,それらの利用技術の進展であった。しかし,日中戦争以降の原料入手条件 は,満州内での資源開発がまず原料炭面で,ついで鉄鉱石面でゆきづまり,華北資源への

(17)

依存を余儀なくされていくことから大きく変っていく。割高な華北資源への依存によって,

満州鉄鋼原価は急騰していくのである。

〔原料炭〕

 満州産業開発の中で最も早期に計画が破綻したのは石炭部門であった。労働力不足,電 力不足,機械入手難,豪雨,運輸の不円滑,によって石炭増産計画の中心となるべき満州 炭鉱株式会社の新坑開発がゆきづまり,また,撫順炭坑も当該期の技術水準の下では「老 朽化」しつつあったから,満州石炭増産計画は,早くも38年度に失敗が明らかになってい

{33)

た。しかも,注目すべきことに,石炭開発の失敗は,他ならぬ粘結炭産出予定積,北票,

密山において顕著であった。

 一方,昭和の設備計画は,銑鉄部門に関しては,37・38年度において予定を上まわるス ピードで実現されていた。第3期計画分のみならず,当初は5ヶ年計画第3年度(39年度〉

に予定されていた第4期計画分の熔鉱炉の建設も,対日銑鉄増送が本国側から要請される 中で,第1年度着工に移されていたからである。(商工省の鉄鋼政策が「口慣案」37年3月 から「吉野案」37年8月へと修正された後,昭和の第1年度着工内容も変更されていたも       {34}

のと思われる。)昭和の原料炭需要は,新設熔鉱炉の生産力化に伴って,急速に高まった。

こうして1938年度に,まず開平炭3,660人トンが導入され,ついで翌年度からは中興炭,井隆       (35)

炭を含めた本格的な華北炭の買い入れが開始された。第9表はこの華北炭の導入過程を示        ノ

したものである。華北炭への依存率は39年度に10.1%を記録し,41年度上期の49.9%,41 年度下期の43.2%へと推移した。

 しかし,こうした華北炭への依存の強化が,華北労働者の採用の場合と同様に,原料炭不 足を解消していなかったことは,注目しておく必要がある。着炭量が絶対的にも伸びてい たβ9−40年度においてさえ,着炭実績は計画必要量に遠く及ばず,炭質の悪化が不足の事 態を一層深刻なものとしていた。

 35−40年度上期の入荷率と炭質の推移を示した第10表に依れば,入荷率は38年度上期を 転機に急速に低落し,40年度には60%の水準を下まわっていた。灰分率は38年度下期から 急騰し,40年7・8月には,23%を越える劣悪なものとなっていたが,これに対応してコ ークス比が上昇した。灰分率の1%の上昇は,昭和の場合,操業率を2%程押し下げてい

     (36)

たといわれる。量と質の両面から原料炭不足が深刻化して,熔鉱炉の操業率は40年には5 割の水準を低迷していた。その後の事態については,着炭量の減少から容易に想像がつく。

(18)

第9表 昭和製鋼所出炭実績表 (1000トン)

1937年度 1938年度 1939年度 1940年度 1941年度 D上期 1941年度

@下期 1942年度@上期 1942年度

コ期

満州   ,

撫   順 936 1,025 1,001 743 380 313 315 本 渓 湖 326 403 412 300 151 85 110 北   票 0 239 527 644 302 275 251 密   山 0 27 59 129

? ?

2 ?

その他共計 1,262 1,694 1,999 1,816 974 890 763

(%) (100.0) (100。0) (89.6) (79.0) (71.0) (?) (49.5> (56.7)

華北

中   興 0 0 83 157 231 320 270 開   平 0 4 72 166 168 320 182 井   樫

ウ   豊

00 00

17

O 61

O

389 ??

}156 }61・

その他共計 0 4 172 385 597 897 582

(%) (0) (0) (10.1> (16.7)   ㌔i43.5) (?) (49.9) (43.2)

その他共総計 1,263 1,699 2,230

2299︐

1,371

1,797 1,346

(%〉 (100.0> (10〔LO) (100.0) (100.0) (100,0> (100.0) (100.0) (100.0)

註 1.1937−40年度は,昭和製鋼所「康徳4年度以降年度別原料炭到着状況」〔1941〕。但し,

   」(配ai:1↓由〇三医日、■

   ぴリザノユトよ ゆ クロだき 

  2.1941年度上期一42年度下期は,昭和製鋼所経理部主計課,第17,19,20期『決算概要説明書』

   1941年10月31日一1943年4月30日。

(前掲第9表)「石炭ノ開発計画予定ノ如ク進展セズ蝕二原料炭ノ需給著シク平衡ヲ失シ加 フルニ炭質頓二低下シタル為熔鉱炉ハ其ノ全能力ヲ発揮スルニ至ラス」「減産ノ真因ハ全        〔37)

ク石炭ノ質的量的不円滑二四ルコト断言シ得ル」状態となっていたのである。

〔原料炭価格の高騰〕

 原料炭の入手先が次第に華北に移っていったということによって,昭和の原料炭入手価 格,従って,骸炭価格,銑鉄原価は急速に上昇した。銑鉄工場原価は37年度から42年度下 かけて3.8倍ほど大きくなっていたが,その主な原因は,骸炭原価の上昇にあった。(第11 表)内訳の判明する37−43年度の実績で見た場合,工場原価の上昇額89.85円のうち,54.9

%は骸炭コストの値上がりによってもたらされていた。

 華北炭への依存の強化が,原料炭コストの上昇を引き起こすことは,ある意味で当然で

(19)

第10表 原料炭と出一蹴との関係表

年    度 石炭潤沢期

不 足

1

項    目 1935 1936 1937 1938 1938

1939 1939

1940年S月

1940年

T月

194P年6月 1940年

V月

1940年

W月

設備能力     (1000トン) 460 460 640 340 520 717 853 142 147 142 147 147 実 産 高     (1000トン) 472 492 677 329 384 401 477 82 89 82 79 75 実 産 率      (%) 103 107 106 97 74 56 56 58 61 58 54 51 石炭入荷率       (%) 103 107 106 96 80 68 61 66 66 59 56 57 骸炭灰分率        (%) 12.7 13.7 13.3 14.2 17.7 20.9 21.5 21.7 21.2 22.5 23.0 23.5 銑鉄トン当り骸炭使用量(トン) 1.00 1.06 1.06 1.12 1.28 1.31 1.25 1.15 1.12 1.17 1.23 1.31 鉱石貯蔵高  (トン) (富鉱) 45 99 108 313 517 660 544 513 495 490 504 523

(貧) 3 7.7 26444 248 407 530 550 543 525 520 522

註 1.昭和製鋼所『昭和製鋼所事業概況附録』(1940年8月)による。

  2.40年8月の実績は20日までの実績を基に算出された見込数値。

  3.石炭入荷率は出帆能力から算定される要求量に対しての着目実績。

  4.富鉱残高中に一は焼結鉱を含む。

あった。華北炭と満州炭の問には,輸送距離,従って輸送経費の点で,大きな格差があっ たからである。第12表は昭和の原料炭入手価格を年度別,産地別に輸送経費とともに示し ている。今仮に40年度上期の「切込」を例にとると,主要な満州炭である撫順炭,本渓湖 炭,北票炭の入手価格は,トン当り12.96円,13.01円,14。91円と15円以内であったのに対

して,開藻炭,中興炭のそれは22.65−25.40円,24.30円とかなり割高であった。大まかに いって華北炭の入手価格はL7−1.8倍に相当している。華北炭は撫順炭や本渓湖炭に比べ れば輸送経費が6−10倍も高くつき,北卜師に比較しても3倍以上となっていたから,入 手価格は不可避的に高くなっていたのである。加えて炭質の悪化によって骸炭使用高が高

まっていたので(コークス比の悪化),骸炭経費の上昇は二重に加速されていた。

 1941年度上期における『決算概要説明書』は,銑鉄原価急騰の背景を分析し,「原料炭使 用配給上高価ナル北川炭ノ使用増加セルト品質不良等ノ為骸炭原価4.463円昂騰ヲ示シ尚 使用比率二期1.241%,前期1.195%ニシテO.046%増加セル為銑鉄屯當骸炭費7.461円昂騰

 (38)

セ」り,と結論づけていた。

〔鉄鉱石の華北依存と銑鉄原価〕

 鉄鉱石に関しても,原料炭と同様の事態が起っていた。昭和は太平洋戦争期になってか

参照

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